495つづき

 昔ハイデガーの講義を読んでたら、彼も「学校哲学」という名称で、
「あそこには人間にたいする真の問いかけはない。一緒にされては困る」
と疑問と否定を投げ、「一緒ではない所以をこれからお見せしましょう。
根本的に問いかけるということがどういうことかお見せしましょう」
と、そこまで言いはしないが現にやっていたのはそういう精神の問いかけ
だったわけで。気概と言葉の迫力があった。聴いてるのは学生だが、彼らに
たいし、どうやら自己の本来性を探ることこそが人間の務めと言いたげな
講義だった。スタンスがよく理解できた。これはただの講壇哲学ではない。
そういう迫力と気概のある書き手が俺は好きなのだ。

 吉本の話に戻れば、吉本の仕事が一般教養にジャーナリズムに取りこ
まれる必要は感じないし、俺のようにどっかで感受した人が勝手に読んで
いればいい。

 かつてのマルクス、ハイデガー、サルトルなどに匹敵する深度とスケール
を併せ持つ著述家は吉本だけと思ってるし、雑誌に取り上げられなくなる
という辺りは、元々俺は吉本論はあまり読まないので。これまで読んだもの
では強引な纏め方だったりするのが結構あり、偏見評論とかね。あまり
期待もしないのだね。俺が読んでるほどの深度も精度もないようでは
知れてるわけで。

 問題は〈この私〉がどう読むかしかないのだ。小林にしても吉本にしても。
そうではないのかな?ジャーナリズムなど気にせぬが良いよ。