「浮遊するシニフィアン」の自覚の始まり、とかいうことじゃないの。

たとえば、左翼史的には、レヴィ=ストロース、アルチュセールあたりまでは、
下部構造の優位ということを一応言っているが、
バルトやフーコーになるとほとんどそれをいわなくなる。
ようは、「上部構造の自律性」というのを文学論においていったのが、
対称指示的でない文、エクリチュールの自律、というようなことではないのか。
292さんがいうのは、そのころの文学創作において意識されるようになった、
ということだろう。
ただし、うろおぼえだから、見当違いかもしれない。