【ばふりばふり】蓮實重彦 X+1【120度】 [無断転載禁止]©2ch.net
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クンデラのことは浅田との対談で浅田とともに馬鹿にしていたよ
クロード・シモンと比較して スガや渡部直己も対談でクンデラのことは三流のクズといっているよ
一時期のフランスの小説のレベルと比べて
比較できるレベルの代物ではないと
同様の趣旨の発言は浅田と蓮實の対談でも双方発言している [クンデラはチェコスロバキア共産主義政権に抵抗した作家として認知されている。〕
こういうことがあるから、クンデラを、過度にわざとらしくくさしたんだろう。
この人たちは、共産党的マルクス主義には、とうぜんずっと反対していたわけだが、
「東側の崩壊」以降は、共産主義体制にたいして、各々程度の違いはあるが、
おおむね微妙に肩を持つような発言をするようになったのだ。
柄谷が、もっともその態度変更がはっきりしていた人だ。 蓮實と大江って実は面白い位趣味が噛み合わないんだよな
春樹にしろクンデラにしろ >>827
は?
単にクンデラがダメなだけでしょ
金井美恵子がクンデラの小説はファーブル(寓話)で
描写がないとエッセイに書いていたが、
金井は同じくボルヘスのこともファーブルと評して
要するにクンデラは圧倒的に教養のないボルヘスでしかないということでしょう
蓮實がボルヘスの小説について自分でもかけてしまう小説でしかないと
三浦雅士との対談で言っていたが、
つまりクンデラはボルヘスのように描写がない小説ということでしょう [クンデラはチェコスロバキア共産主義政権に抵抗した作家として認知されている。〕
こういう作家に、フランス政府および「主流派」の知識人が、文化政策的な目的意識から、へんに肩入れするのが
この方々は、気に入らん、というだけのことだ。 ダメという人もあるだろうが、
クンデラの作品を良いと思っている人も多いだろう。 >>828
蓮実が逃げたんでしょ。
没頭しても大江に勝てない分野から。 >>830
だからクロード・シモンのような一時期のフランスの作家と比べて
圧倒的にたいしたことはないというのは事実じゃねえかよw
金井もクンデラの「存在の耐えられない軽さ」について
飼い犬のところくらいしか描写はないとエッセイに書いていたがw >>832
確かハードボイルドワンダーランドを谷崎賞に押したのは大江なんだけど、蓮實は闘争のエチカだかでそれを暴挙って言ってるんだよね 「伯爵夫人」について、その作者は、「小説のほうから来た」といい、
それゆえか、「一年もかからずに書けてしまった」と、あの短いのに一年近くかけたのを、
なにやら乗って書いたので早く仕上がった、かのように述べたが、
あんな芸のない小説、三島由紀夫なら、ちょいちょいと、一か月かからないで書くだろうな。 >>834
そのことに関して大江のことは触れていないけど
村上春樹が谷崎賞を受賞したことに関しては闘争のエチカで批判していたと思う 上の対談で浅田は、「リゾームというのは…カフカの『巣穴』のようなものを言っている」
なんぞと述べていた。ということで、たぶん、カフカは、肯定的に語られているわけだ。
しかし、カフカ作品こそ、金井美恵子がダメだという「寓話」なんじゃないの。
また、カフカ作品の描写にしても、翻訳を読んだ限りでは、お粗末な部類のように思える。 アドルノ「カフカ研究」では、ベンヤミンのカフカ論を援用して、
カフカの散文は表現するよりも、表現を拒否するもの、
で、その作品世界は寓話だ、といっているようだ。 なお、↑は。アドルノのカフカ論の訳をちゃんと読んでの書き込みではなく、
この論文での引用箇所を読んだかぎりでのもの。
論 文 フランツ・カフカの 〈動物物語〉 における寓話性について 山 尾 涼
要 旨 1953年に発表されたアドルノのフランツ・カフカに関する論文では,
その作家の作品をひとつの「寓話」Parabelとして捉えることが可能か… fableの意味や和訳。 【名詞】【可算名詞】1(動物などを擬人化して教訓を含んだ)寓話(ぐうわ)
こうだから、金井美恵子は、「寓話(ファーブル」といったということらしいが、
ボルヘスやクンデラのは、おなじく寓話と訳するにしても、
Parabelのほうだろう。 金井のファーブルという趣旨は
描写がほとんどない台詞と説明ばかりの
小説のようなものを指しているんだと思いますが? 訂正 parabel→parable
It differs from a fable in that fables employ animals, plants, inanimate objects,
or forces of nature as characters, whereas parables have human charactersfable
fableの意味や和訳。 【名詞】【可算名詞】1(動物などを擬人化して教訓を含んだ)寓話(ぐうわ)
ということで、英語ウィキの説明と一致。 human charactersfable →human characters ボルヘス、クンデラ、等の作品には、human characters
が書かれてあるから、fableというよりはparableだろう。 ところで、上で触れた批評空間グループ等の「共産圏の崩壊」以降の「正統的共産主義への先祖返り」について、
吉本隆明がおもしろいことを言っていたのを発見したので、
引用しておく。
[吉本隆明は「試行 NO.73 試行出版部 1995.5.」の「情況への発言 ―徒党的発言の批判―」において、「またぞろスターリン芸術政策やプロレタリア文学運動の亡霊が顔や形を変えて蘇ってきたとおもった。
柄谷や浅田から絓秀実や金井美恵子にいたるまで、一斉に文学の「差別」などといいだして、本や座談を出しはじめたのには、びっくりした」と述べて、金井美恵子を批判している。〕 吉本なんてどうでもいいけど
イメージや物語批判として書かれた物である
スガや渡部などの差別批判の文脈を
そういうふうにとらえていること自体
根本的に馬鹿だとしか思えない >>846
その当時の吉本の能天気な議論は
今の日本の状況から見ればあまりにも馬鹿丸出しであったというほかない
東芝やシャープなどの日本メーカーがこのような事態に陥るなんて
吉本には想像もできなかっただろう >>846
そういえば蓮實の「絶対文芸時評宣言」で
スターリン主義的であったのは
吉本ではなかったのかと指摘されていたな 蓮実みたいに機構のトップに立たないとスターリン主義「的」にしかならない >>850
機構のトップに立とうと立つまいと
スターリン主義であることには変わらない
吉本の言説がスターリニスト官僚の
フォルマリスト弾圧と全く同じであったのは
蓮實の「絶対文芸時評宣言」で指摘した通り 「物語批判」にすこしかかわるこというと、
バフチンはマルクス主義者、ということは、柄谷あたりは強調していた。
自分でマルクス主義者だと言っていた人を、そうではない、というのも余計なお世話だろうから、
それはそうだと思う。
しかし、ロシア人の文学研究者のバフチンについての評には、
マルクス主義者どころか、(根本が)スターリン主義者、というのが意外とあるのね。
それを知って、バフチンはスターリン主義文学論に抵抗した人、というのは、
じつは一面的な評なんではないか、と思ったものだ。
これはネットで知る限りの話だけれど。 吉本はバフチンのような対話性はない
バフチンが当時のソ連ではカントはタブーであったので
一切言及してはいないが
カントに基づいていることについては柄谷が指摘している ≫吉本の言説がスターリニスト官僚の
≫フォルマリスト弾圧と全く同じであった
論立てが似ている、ということから、弾圧と同じ、というところまでいくのは、
飛躍し過ぎだ。
「弾圧」というのは、なんらかの公的権力をふるう立場でなければ、
できないんだから。
その意味では、石原慎太郎ほどでないとしても、
蓮実のような、公的権力をいくらかはふるえる立場にあった者しか、
本来の意味の「弾圧」というのはできないわけだ。 >>855
その種のつまらない屁理屈には興味がない ≫当時のソ連ではカントはタブーであった
どっから出てきた知識なのか知らないが、そんなことはほとんどない。
「ブルジョワ哲学」を研究するということは、いくらもあった。
古代ギリシアからポストモダンまで、それなりに研究されていたのだ。 噂のオールドミス
若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けて
いたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちば
ん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。
賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていっ
た。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがル
ノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分
も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。彼女は最近「噂の娘」という小説を出版したという噂だが、私はもはや
それを手にとってみようとさえ思わない。私はかつてジャーナリスト専門学校で講演したとき、阿部和重を含む聴衆に、「田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される
人間』だ」と言ったことがある。噂のオールドミスの哀れな姿は、そんな人間の末路を赤裸々に示している。 >>858
それを言ったのは浅田彰のようだが
浅田も蓮實もクンデラが2流の作家であるといったのは事実ですがね クンデラがつまらない作家であるという事実の確認の話から
眠気による疲労が続く中で、こちらとしてはどうでもいい話に展開していったのは
あまりいいことではなかった 〔彼(バフチン)の引用する文献のほとんどがドイツ語文献からの孫引きであり、
かつ彼の代表的な著作である『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』の一部が
エルンスト・カッシーラー(1874~1945)の著作を剽窃したものである、という事実〉
(新批評家要請サイトの講師千葉雅也氏の会の受講生野村宗明氏の文章から)
上のカッシーラーの著書からの「剽窃」というのが事実とすれば、
まあ、「カント主義的」なところがあったのは、当たり前だろうな。 [バフチンが全体主義者であることを認め、かつ「物体」というパースペクティブをもって彼の理論を読解してきた我々は〕
(同上)
なかなかの秀才のようである野村さんという方も、スターリン主義者とはいっていないが、全体主義者である、とはいっているな。 阿部和重『シンセミア』
ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』
大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』
河野多惠子『みいら採り猟奇譚』
後藤明生『挟み撃ち』
ルイ=フィルディナン・セリーヌ『北』
クロード・シモン『フランドルへの道』
ジャック・デリダ『有限責任会社』
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』
中上健次『熊野集』
中上健次『千年の愉楽』
中原昌也『ニートピア2010』
ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』
ロラン・バルト『ミシュレ』
ミシェル・フーコー『言葉と物』
藤枝静男『田紳有楽・空気頭』
藤枝静男『悲しいだけ・欣求浄土』
古井由吉『白暗淵』
松浦寿樹・古井由吉『色と空のあわいで』
松浦理恵子『犬身』
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』
ジャン=ピエール・リシャール『マラルメの想像的宇宙』
山田宏一『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』
山田宏一『トリュフォー、ある映画的人生』
蓮實の偏愛する24冊だけど、結局この人は古井除いて「荒っぽい」小説が好きなだけのように思える
こりゃ三島やクンデラなんてお気に召さないだろうよ 新批評家養成サイトのおかげで思い出したので、書いておく。
[どのような思考も、言語という物質的基盤なしには存在しえないというバフチン=スターリンのイデーは、エトキントによれば、「完全に全体主義的なもの」である。〕
(貝澤哉「引き裂かれた祝祭」)
わたしが、だいぶ前に読んで、「おやっ」と思ったのは、↑のエトキントのバフチン研究(のごく一部)だった。 ちゃんと読んでみたところ、858の「噂のオールドミス」に書かれていることは、
かなり当たっている感じがした。
≫金井美恵子がクンデラの小説はファーブル(寓話)
parableというべきところをfableと言い、さらに「寓話」とカッコ書きまでつけてしまうようなところなど、
まさにそういうもののように思える。
そういうのは、阿部和重あたりにも、似ている面があるのだろうか。 金井美恵子について高卒が背伸びしてイキがるのは痛い
以上の感想は無い 東大卒がべつに金井氏よりも「教養」があるわけではないから、
学歴でどうこうというのはないのだが、
その知的気取りの方向性が「いかにも」ではあるんだよな。
阿部氏にも、そういう「いかにも」なところが見えるような気がする。 蓮実重彦を、「権威」だと思い、
自分を知的権威づけするためのよりどころのようにしてしまうところなどが、
その「いかにも」なのだ。 しかし、金井氏的なスノビズムは、
なんだかむかしのマガジンハウスの雑誌の映画特集みたいな方向性ではないの。 ところで、バフチンの「他者」というのは、
「物自体」の存在論的理解と郵便的理解のそのどちらかといえば、
「視差」あるいは「ディスコミュニケーション」としてあらわれるもの、
ととらえているようだから、郵便的のほうだな。
フロイトを批判して、「無意識なるものはない」としているようだし
(ただし、東浩紀は、非否定神学的な郵便的のほうを「精神分析的」といっている)。
なお、柄谷は、物自体=他者を、無意識や(ハイデガーの言う)存在と同一視しながら(こっちは東語では、否定神学的、ゲーデル的のほうだ、
もう一方で、「視差」のようなものとしてあらわれる(郵便的のほう)、ともしている。
これは、たんに論旨がテキトーだからだろう。 この物自体、他者、無意識、などを、下部構造と言い換えれば、
マルクス主義とのかかわりで考えることができるのではないか。 フィリップ・カウフマンのことは
もともと評価していたんだから
当たり前じゃんw もともと石原慎太郎は目をパチクリする癖があったので脳に何らかの障害があった人です
目をパチクリする癖の人は脳に問題があります
それ以外にも石原は、おでこの幅が左右非対称なのでブサイク障害者です(右手側のおでこの幅が左側より広い)
体が左右非対称な人はブサイク障害者です 訂正
もともと石原慎太郎は目をパチクリする癖があったので脳に何らかの障害があった人です
目をパチクリする癖の人は脳に問題があります
それ以外にも石原は、おでこの幅が左右非対称なのでブサイク障害者です(左手側のおでこの幅が右側より広い)
体が左右非対称な人はブサイク障害者です >>869
金井が蓮實を知ったころは蓮實まだ東大の助手でしょ?
自分が蓮實を知ったころはまだ東大の教授ではあったと思うが
その後まさか学部長や総長までやるとは思わなかったけどね
東大が「権威」だと思い、それを自分の権威づけに利用しているのだろうと思っていること自体が
吉本やその悪しき意味では反復である東浩紀一派らしい物言いと思考だとしか言えんなw
ホント致命的な馬鹿じゃねえw
東大が権威であると本当に思っているのなら他の東大の奴も妄信するだろドアホw
自分はある意味で蓮實や柄谷よりスガや渡部直己から
受けた影響の方が大きいのだろうとは思うがね そもそも浅田は東大が権威であるから
金井が蓮實の影響を受けているといっているのではなく、
蓮實が賢くてセンスがあると金井が思っているから
影響を受けているという趣旨ことを言っているのは明らかなんだが
浅田自体も金井が東大が権威だと思っているなんて
考えていること自体ありえない 吉本の軌跡を見れば
「権威」とされるものに対抗すること自体が
極めて制度的になっていったのは明らかだとしか言えないんだよね
エレクトロニクス業界の惨状に象徴される日本の今の状況を見れば
吉本がどれだけ能天気だったかがよくわかる
しょせん東大なんて利用すべきものなんだよ
いまだにそれが権威だと思っている奴はいっぱいいるんだから
>>867
浅田も金井が高卒だからとは一切言っていないのに
いかにもアレなお人ですなw
東大京大の学生の「惨状」をよく知っている浅田が
そんなことを言うわけがそもそもねえのにw
東も東大の同級生や東大の学生の「惨状」について
かつて言及していたことがあったから
金井が高卒だから云々とは言うはずもないとは思うけどね 浅田もデブ福田も金井にはキツいが、金井からバカにされてきたからな。
柄谷や島田も金井からはボロカス。 >>878
この男は出世するかどうか、を見抜く目が女にとって最も重要な能力。 蓮実重彦は、助教授くらいのときから。マイナーメジャーみたいなかんじで、
ある種の一部の人たちの間では「権威」だったな。
柄谷も、私学の英語の教授にすぎなかったが、こちらも同様のかんじでマイナーメジャー的「権威」だった。 それに話の流れは↓のようなものだ。
867 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 19:45:52.28 ID:JDja0qAg
金井美恵子について高卒が背伸びしてイキがるのは痛い
以上の感想は無い
868 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 19:57:24.49 ID:GDmBbBw1
東大卒がべつに金井氏よりも「教養」があるわけではないから、
学歴でどうこうというのはないのだが、
その知的気取りの方向性が「いかにも」ではあるんだよな。
阿部氏にも、そういう「いかにも」なところが見えるような気がする。
869 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 20:02:08.43 ID:GDmBbBw1
蓮実重彦を、「権威」だと思い、
自分を知的権威づけするためのよりどころのようにしてしまうところなどが、
その「いかにも」なのだ。
というように、わたしは学歴のことなど何も言っていない。
それに東の「郵便的」というのは、スターリン=バフチン的だと言っているんだからな。
東氏は、「存在論的」から「郵便的」への移行が、どうも良いことのようにおもっているらしいのだが、
わたしは、批評空間グループ等の「先祖返り」と似たようなものだと思うわけだ。
その意味で、吉本隆明の言は、的を射ている面がある。
バフチンといえば、その影響が顕著なのはクリステヴァで、
これはテルケル派だから、アルチュセール経由で、マルクス・レーニン主義(スターリン主義)的な面があるのは、
うなずけるものだ。 蓮実、柄谷が、日本の年功序列制度のために、すでにマイナーメジャー的権威になっている、というのは、1980年ごろに栗本慎一郎が言っていたことだ。
同時期に、スガ、渡部は、だいたい同じことを指して、「記号」という言い方をしていた。 また、858は、浅田彰が言っていたことだというのだろう。
その浅田は、蓮実と、長いこと親しげにかかわってきたんだからな。 885訂正
どうも良いこと→どうも手放しで良いこと それから、「存在論的」対「郵便的」というのは、
↓のように、すでにその横綱同士の頂上決戦が、八十年以上前にあったのではないか。
ダヴォス討論 カッシーラー対ハイデガー
著者 エルンスト・カッシーラー (著),マルティン・ハイデガー (著),岩尾 竜太郎 (訳),トーニ・カッシーラー (著),岩尾 真知子 (訳) 「存在論的」対「郵便的」→「郵便的」対「存在論的」 田中克彦『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫、2000年)
新カント派哲学→オーストリア・マルクス主義→(エトキントらがバフチンにしてもその一派だという)スターリン言語学
この流れについて書いてある。 要点をよくまとめてある感想文を引用する、
[エンゲルスの表現を借りれば「民族のくず」の言語など消えたっていい。早くから国民国家が成立していた西欧の社会主義者たちは少数民族に対して意外と冷淡であった。
しかし、少数民族を多く抱え込んだ中東欧では民族問題を軽視するわけにはいかない。オーストリア・マルクス主義のオットー・バウアーは
民族問題を念頭に置いて社会主義の多様性を主張した。より深刻に現実問題に直面したのがソビエト連邦であり、その中でもスターリンは敏感な反応を示していた。
言語という観点で西欧マルクス主義の立場をまとめると、発展の遅れた少数民族は「歴史を担う」大民族に融合することになる。
対してスターリンは、少数民族も母語を使ってこそ「精神的能力の自由な発展」が期待できるという立場を取った。こうした考え方の違いに、
著者は「搾取するヨーロッパ」と「搾取される非ヨーロッパ」という対比をすら読み取る。〕
(モノロギアソリテールと題するブログの田中克彦著『「スターリン言語学」精読についての感想文から) 蓮實本人はともかく蓮實に影響受けるとロクなことにならんな。
金井も蓮實のフローベール論と描写論真に受けてつまんない小説書くようになったしな。
蓮實本人もなんでリシャールなんかにハマったのかね? 蓮實さんのは読むけど、
小説も映画も最終的には個人的な好みだから影響は受けないな 〈(ロラン・バルトのいう)ストゥディウムとプンクトゥムという見方にも関わってきます。ストゥディウムは'studium'であり、スタディやスタジアムと同語源です。写真における「一般的関心」、いわば定常状態を意味し、
ゲシュタルト心理学でいう、いわゆる「地」(ground)にあたります。プンクトゥム(punctum)は点・ポイントであり、「刺し傷」であって、写真の中の問題となる箇所を指します。
いわば「図」(figure)にあたる部分です。〉
プンクトゥムは、換言すれば、外部的なものの侵入の痕跡、ということでもある。
小説において、「物語」であるストゥディウムに刺し傷の痕のようなものが垣間見えるのが、
「描写」を通じてだ、というのがハスミ的な描写肯定論ではないか。
ところが、これは、アズマの「郵便的」肯定論にも、ある考え方だ。
「存在論的」のほうは、「ロゴス」=「物語」の形式の中で終始するが、
「郵便的」のほうでは、そこに収まりきらず、
外部的なものの侵入の痕跡(他者の痕跡)が、
「視差」のようなものを通じて垣間見える、というわけである。 >>895
膨大な作品を鑑賞したならば、そのような自由度はあまりない。 蓮實がピンチョン褒めたってマジ?
あーいうの1番嫌うタイプだと勝手に思ってたんだけど ピンチョンって20世紀後半の最重要作家じゃん
褒めない理由が無い ずっと前の朝日新聞の文芸時評で
重力の虹の邦訳出版は
全国紙の一面で扱うべき事件だと書いているくらいだよ 実はピンチョンは未だに評価が定まっていない
村上春樹とかもそう ハスミンは19世紀風のオーソドックスな小説が好きなんじゃないのか 「昔々、アメリカの六十年代から七十年代当時の「新しい小説」を、ほぼリアルタイムで熱中して読んでいた時期がある。
たまたまそのころ、英文科の学生として大学に舞い戻り、はじめて出た授業で扱われていた作品がピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』だったこともあって、
そのあたりの新しいアメリカ小説を読むことがしばらく続き、修士論文でバースの『フローティング・オペラ』について書いたところでようやくほとぼりがさめたのだが
今当時をふりかえってみると、あの熱中ぶりはいったい何だったのかなと我ながら不思議に思う。
個人の読書史の中で、ある作家の株が上がったり下がったりするのは当然のことだろうが、私について言えば、当時の「新しい小説」家たちはほぼ軒並みに
株が下がってしまった。
すでに名前を出したピンチョンとバースはその代表格であり、外的な必要に迫られない限り、これから先この二人の作品を読み直す機会はおそらく訪れないだろう。
バーセルミとヴォネガットについても、あまり事情は変わらない。
しかし、例外はあるもので、こちらが歳を取るにつれてどんどん株が上がってきた作家もいる。
それはジョン・ホークスとウィリアム・ギャスの二人である。」
若島正「乱視読者の英米短編講義」 でもピンチョンとヴォネガットは新訳や改版出たりしてるし再興してる印象あるけど
バースとバーゼルミは消えたな >>906
ブローティガンのコピーで世の中に出たくせに偉そうだなw ヌーヴェルクリティックとヌーヴォーロマンとカイエドゥシネマのコピーで…云々 ピンチョンはファッションを作っただけでも立派だわ
中身はともかく モダニズム以降ピンチョン以上の作家って居なくね?
マルケスもシモンもポスト・フォークナーだし ちなみに蓮實はマルケスのことは一切評価していない
チャウシェスク並みの反動といっている
ラテンアメリカ文学はコルタサルとプイグを評価しているだけ ポルトガル語圏のブラジルで最高の作家とも言われている
マシャード・デ・アシスのことについては
邦訳が出たのは2000年代以降だから
どう評価しているのかは不明 ピンチョンとシモンならピンチョンじゃね?
マルケスは通俗性の部分で底上げされてる感があるからこの2人よりは落ちる 俺はシモンってかヌーヴォーロマンの重要さが解らん
小説の不可能性云々を証明したいならベケット1人居れば充分じゃね?
ピンチョンはナボコフの影響多大だけど、ナボコフに於けるシェイクスピアを筆頭にする古典がサブカルやモダニズムのテキストに入れ替わっていたり
かつエントロピーや航空力学のような、文理すら飛び越えた膨大な知識が組み込まれていて
ナボコフの領域を大幅に更新していると思う ロリータやアーダもサブカルやモダニズムのテキストじゃん モダニズム以降価値ある作家はピンチョン唯一人って最大級の褒め言葉だな
まあ全くの嘘っぱちなんだけど レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。