噂のオールドミス

若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けて
いたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちば
ん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。

賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていっ
た。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがル
ノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分
も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。彼女は最近「噂の娘」という小説を出版したという噂だが、私はもはや
それを手にとってみようとさえ思わない。私はかつてジャーナリスト専門学校で講演したとき、阿部和重を含む聴衆に、「田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される
人間』だ」と言ったことがある。噂のオールドミスの哀れな姿は、そんな人間の末路を赤裸々に示している。