【ばふりばふり】蓮實重彦 X+1【120度】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>878
この男は出世するかどうか、を見抜く目が女にとって最も重要な能力。 蓮実重彦は、助教授くらいのときから。マイナーメジャーみたいなかんじで、
ある種の一部の人たちの間では「権威」だったな。
柄谷も、私学の英語の教授にすぎなかったが、こちらも同様のかんじでマイナーメジャー的「権威」だった。 それに話の流れは↓のようなものだ。
867 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 19:45:52.28 ID:JDja0qAg
金井美恵子について高卒が背伸びしてイキがるのは痛い
以上の感想は無い
868 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 19:57:24.49 ID:GDmBbBw1
東大卒がべつに金井氏よりも「教養」があるわけではないから、
学歴でどうこうというのはないのだが、
その知的気取りの方向性が「いかにも」ではあるんだよな。
阿部氏にも、そういう「いかにも」なところが見えるような気がする。
869 : 吾輩は名無しである
2017/03/20(月) 20:02:08.43 ID:GDmBbBw1
蓮実重彦を、「権威」だと思い、
自分を知的権威づけするためのよりどころのようにしてしまうところなどが、
その「いかにも」なのだ。
というように、わたしは学歴のことなど何も言っていない。
それに東の「郵便的」というのは、スターリン=バフチン的だと言っているんだからな。
東氏は、「存在論的」から「郵便的」への移行が、どうも良いことのようにおもっているらしいのだが、
わたしは、批評空間グループ等の「先祖返り」と似たようなものだと思うわけだ。
その意味で、吉本隆明の言は、的を射ている面がある。
バフチンといえば、その影響が顕著なのはクリステヴァで、
これはテルケル派だから、アルチュセール経由で、マルクス・レーニン主義(スターリン主義)的な面があるのは、
うなずけるものだ。 蓮実、柄谷が、日本の年功序列制度のために、すでにマイナーメジャー的権威になっている、というのは、1980年ごろに栗本慎一郎が言っていたことだ。
同時期に、スガ、渡部は、だいたい同じことを指して、「記号」という言い方をしていた。 また、858は、浅田彰が言っていたことだというのだろう。
その浅田は、蓮実と、長いこと親しげにかかわってきたんだからな。 885訂正
どうも良いこと→どうも手放しで良いこと それから、「存在論的」対「郵便的」というのは、
↓のように、すでにその横綱同士の頂上決戦が、八十年以上前にあったのではないか。
ダヴォス討論 カッシーラー対ハイデガー
著者 エルンスト・カッシーラー (著),マルティン・ハイデガー (著),岩尾 竜太郎 (訳),トーニ・カッシーラー (著),岩尾 真知子 (訳) 「存在論的」対「郵便的」→「郵便的」対「存在論的」 田中克彦『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫、2000年)
新カント派哲学→オーストリア・マルクス主義→(エトキントらがバフチンにしてもその一派だという)スターリン言語学
この流れについて書いてある。 要点をよくまとめてある感想文を引用する、
[エンゲルスの表現を借りれば「民族のくず」の言語など消えたっていい。早くから国民国家が成立していた西欧の社会主義者たちは少数民族に対して意外と冷淡であった。
しかし、少数民族を多く抱え込んだ中東欧では民族問題を軽視するわけにはいかない。オーストリア・マルクス主義のオットー・バウアーは
民族問題を念頭に置いて社会主義の多様性を主張した。より深刻に現実問題に直面したのがソビエト連邦であり、その中でもスターリンは敏感な反応を示していた。
言語という観点で西欧マルクス主義の立場をまとめると、発展の遅れた少数民族は「歴史を担う」大民族に融合することになる。
対してスターリンは、少数民族も母語を使ってこそ「精神的能力の自由な発展」が期待できるという立場を取った。こうした考え方の違いに、
著者は「搾取するヨーロッパ」と「搾取される非ヨーロッパ」という対比をすら読み取る。〕
(モノロギアソリテールと題するブログの田中克彦著『「スターリン言語学」精読についての感想文から) 蓮實本人はともかく蓮實に影響受けるとロクなことにならんな。
金井も蓮實のフローベール論と描写論真に受けてつまんない小説書くようになったしな。
蓮實本人もなんでリシャールなんかにハマったのかね? 蓮實さんのは読むけど、
小説も映画も最終的には個人的な好みだから影響は受けないな 〈(ロラン・バルトのいう)ストゥディウムとプンクトゥムという見方にも関わってきます。ストゥディウムは'studium'であり、スタディやスタジアムと同語源です。写真における「一般的関心」、いわば定常状態を意味し、
ゲシュタルト心理学でいう、いわゆる「地」(ground)にあたります。プンクトゥム(punctum)は点・ポイントであり、「刺し傷」であって、写真の中の問題となる箇所を指します。
いわば「図」(figure)にあたる部分です。〉
プンクトゥムは、換言すれば、外部的なものの侵入の痕跡、ということでもある。
小説において、「物語」であるストゥディウムに刺し傷の痕のようなものが垣間見えるのが、
「描写」を通じてだ、というのがハスミ的な描写肯定論ではないか。
ところが、これは、アズマの「郵便的」肯定論にも、ある考え方だ。
「存在論的」のほうは、「ロゴス」=「物語」の形式の中で終始するが、
「郵便的」のほうでは、そこに収まりきらず、
外部的なものの侵入の痕跡(他者の痕跡)が、
「視差」のようなものを通じて垣間見える、というわけである。 >>895
膨大な作品を鑑賞したならば、そのような自由度はあまりない。 蓮實がピンチョン褒めたってマジ?
あーいうの1番嫌うタイプだと勝手に思ってたんだけど ピンチョンって20世紀後半の最重要作家じゃん
褒めない理由が無い ずっと前の朝日新聞の文芸時評で
重力の虹の邦訳出版は
全国紙の一面で扱うべき事件だと書いているくらいだよ 実はピンチョンは未だに評価が定まっていない
村上春樹とかもそう ハスミンは19世紀風のオーソドックスな小説が好きなんじゃないのか 「昔々、アメリカの六十年代から七十年代当時の「新しい小説」を、ほぼリアルタイムで熱中して読んでいた時期がある。
たまたまそのころ、英文科の学生として大学に舞い戻り、はじめて出た授業で扱われていた作品がピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』だったこともあって、
そのあたりの新しいアメリカ小説を読むことがしばらく続き、修士論文でバースの『フローティング・オペラ』について書いたところでようやくほとぼりがさめたのだが
今当時をふりかえってみると、あの熱中ぶりはいったい何だったのかなと我ながら不思議に思う。
個人の読書史の中で、ある作家の株が上がったり下がったりするのは当然のことだろうが、私について言えば、当時の「新しい小説」家たちはほぼ軒並みに
株が下がってしまった。
すでに名前を出したピンチョンとバースはその代表格であり、外的な必要に迫られない限り、これから先この二人の作品を読み直す機会はおそらく訪れないだろう。
バーセルミとヴォネガットについても、あまり事情は変わらない。
しかし、例外はあるもので、こちらが歳を取るにつれてどんどん株が上がってきた作家もいる。
それはジョン・ホークスとウィリアム・ギャスの二人である。」
若島正「乱視読者の英米短編講義」 でもピンチョンとヴォネガットは新訳や改版出たりしてるし再興してる印象あるけど
バースとバーゼルミは消えたな >>906
ブローティガンのコピーで世の中に出たくせに偉そうだなw ヌーヴェルクリティックとヌーヴォーロマンとカイエドゥシネマのコピーで…云々 ピンチョンはファッションを作っただけでも立派だわ
中身はともかく モダニズム以降ピンチョン以上の作家って居なくね?
マルケスもシモンもポスト・フォークナーだし ちなみに蓮實はマルケスのことは一切評価していない
チャウシェスク並みの反動といっている
ラテンアメリカ文学はコルタサルとプイグを評価しているだけ ポルトガル語圏のブラジルで最高の作家とも言われている
マシャード・デ・アシスのことについては
邦訳が出たのは2000年代以降だから
どう評価しているのかは不明 ピンチョンとシモンならピンチョンじゃね?
マルケスは通俗性の部分で底上げされてる感があるからこの2人よりは落ちる 俺はシモンってかヌーヴォーロマンの重要さが解らん
小説の不可能性云々を証明したいならベケット1人居れば充分じゃね?
ピンチョンはナボコフの影響多大だけど、ナボコフに於けるシェイクスピアを筆頭にする古典がサブカルやモダニズムのテキストに入れ替わっていたり
かつエントロピーや航空力学のような、文理すら飛び越えた膨大な知識が組み込まれていて
ナボコフの領域を大幅に更新していると思う ロリータやアーダもサブカルやモダニズムのテキストじゃん モダニズム以降価値ある作家はピンチョン唯一人って最大級の褒め言葉だな
まあ全くの嘘っぱちなんだけど ピンチョンはいわばセリーヌとかバタイユの枠なんだよ
「評価不能」の文学
20年後はフォークナーに並ぶのかもしれんしあるいは忘れられているかもしれん
俺は残れると思うけどね 「カポネ大いに泣く」を映画館で見たことあるけど
凄まじい駄作だったな 当時蓮實は変な誉め方してたけど、その文章は「映画狂人」シリーズに収録されていない。
あの作品については金井の評価がいちばんしっくりきた。
清順信者は「どこまでも我々の浅薄な期待を裏切り続ける清順師」なんて感じで持ち上げてたが… 「シンゴジラ」は照明技術がダメすぎて映画のレベルに達していないから
蓮實は無視だと思う 陰影のないデジタル映像で撮った人間の顔がダメダメ
特にディスカッション・シーンは見るに耐えない そういや昔、蓮實の物語批判にかみついた似非思想家の笠井とかいう小物がいたよな 怪獣以前にホラーや怪奇映画がよくわからないと黒沢清に言ってた。
こういうジャンルは下手なこと言うと間違いそうだと。 ロメロも高く評価してるし、カーペンターの「ゴースト・オブ・マーズ」を
ベストテンに入れ、「ザ・ウォード」は絶賛だったけどな
この2本は映画館で見たが、個人的には?だった
>>941
>>陰影のないデジタル映像で撮った人間の顔がダメダメ
見てみもいないくせに知ったかするオマエのような人間には虫唾が走る
それにデジタル映像=陰影が無いって、何年前の話だよwww アテネフランセでの対談。俺はナマで見た。冒頭いきなり笑わせる蓮實のギャグセンスは凄いが、何が面白いのか本で読んでも全くわからないと思う、 >>953
あぁ、前口上の冗談みたいなものなのね
いや気になったのは、すんません、場所も重要なんですが、いつ頃のことかと思って 怪奇やホラーがわからないと言ったのは冒頭ではないので冗談ではない。 >>955
そのことたずねてたんで、てっきり冒頭かと カーペンターか誰かの話題のあと
あまり書いたりしないので蓮實は見てないと思っている人もいるかも知れませんけど、僕はああいった物もマメに見てるんですよ。ただ、あの手のジャンルは下手に書いたら間違いをおかしそうな気がする
みたいな事を言ったら
黒沢清は冷静に「へぇ。そうなんですか」みたいな対応してた。
それより「へぇ」なリアクションだったのは、いま90分の映画を撮れるのは吉田喜重だけという断言のとき。
正確な内容については蓮實の本に掲載されてる。 ピンチョンは奇抜なファッションで若者に人気だった人みたいな存在だからな
奇抜さに飽きられてから何が残るかというと大して残らないかもな
エンタメとして優れていればいいけどそこまで行ってないだろうし カンだけど、ハスミンSF映画とかファンタジー映画とかは
あんま語らないだけでキライなわけではないと思うな
別な映画を語っている時にひょいっと2001年とかロードオブリングスの話とか出て来るし ある程度有名になってからは年間何本観た(もちろん劇場のスクリーンで)という話を何度かしているが
思ったほどは観てない。
だけど、蓮實以上に観てる観客(一般人批評家業界人問わず)より優れた言葉を発していたのは間違いない。
蓮實の発言が雑になってからそれに細かいツッコミを入れるのは常に「有り」だと思うけど、蓮實をやっつけられるとは思ってそういう事を言うのはむなしい。 0年代以降の映画について御説拝聴しようとは思わないなあ 普通のエンタメ映画についても特に拝聴しようとか思わんね 新作って言っても日本未公開のものを見まくってるって感じなのかな Manabu Nara
1月8日 ·
2016年のマイベスト、です。映画は、リバイバルやDVD鑑賞は除外します。本も初めて読んだものからとします。2017年も、いきます!
〈映画〉@『キャロル』トッド・ヘインズ監督、A『ハドソン川の奇跡』クリント・イーストウッド監督、B『山河ノスタルジア』ジャ・ジャンクー監督、
C『クリーピー 偽りの隣人』黒沢清監督、D『ブリッジ・オブ・スパイ』スティーブン・スピルバーグ監督、E『この世界の片隅に』片淵須直監督、
F『皆さま、ごきげんよう』オタール・イオセリアーニ監督、G『団地』阪本順治監督、H『イレブン・ミニッツ』イエジー・スコリモフスキ監督、
I『ヘイトフルエイト』クエンティン・タランティーノ監督
〈コンサート、ライブ〉@上原ヒロミat BLUE NOTE NEW YORK,7/27
A東京交響楽団 フェスタサマーミューザ 8/11
〈本〉@山田宏一『ハワードホークス映画読本』、A野崎歓『谷崎潤一郎と異国の記憶』、B水野和史『資本主義の終焉と歴史の危機』、
C森本あんり『反知性主義』、D加藤陽子『戦争まで』、E工藤庸子『論集 蓮實重彦』 在特会と元会長桜井誠のお陰でヘイト規制法が出来た日本でこの手の発言は法的処罰の対象やで。
怨むなら桜井誠をうらめ。 ↑968
すみません誤爆です。たいへん失礼しました。 ダウンタウンなうで、柄本佑が大学時代に読んでた文庫として聞かれてもいない
のに、蓮實重彦とかニーチェとかと酔った勢いで告白 ミュージシャンでは小西だの菊池だのはイカニモだが
佐野元春は蓮實の授業を受けた経験があり
山下達郎は蓮實の影響で山中など観るようになったと語っている。
無関係に見える活動をしてる人物にも蓮實は影を落としているのだ。 蓮實重彦だとか善悪の彼岸だとかの(いかにも)難しい本を、ってはっきりゆってたな
釣りとしてポーズで読んでましたねというネタで 斎藤工はWOWOWの番組で、本棚に蓮實本がずらーっと並んでる、と言ってたな てか蓮實の映画本って基本的に面白く読めるし、俳優みたいなその道の専門職だったら普通に読んでておかしくないだろ
>>971みたいな感想の方がおかしいわ 昔からよく難解な文章と言われているが、一部を除いては難しいものは無いと思う。
読み物として楽しんできた。 自分が使う言葉の語義をはっきりさせず使う
不誠実な態度、それによる韜晦
駄目な文章の見本でそれが無駄に難解にしている
正当に難解ではなく無駄に難解 歌舞伎の外郎売りの様な芸当に、内容を云々しても仕方ないような気がする。 >>967
結構、重なりますね。僕は@DEIを観ました。僕は断トツでE推しですね。I、@も良かったですね。 『批評あるいは仮死の祭典』1974
『反=日本語論』1977
『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』1978
『夏目漱石論』1978
『蓮實重彦の映画の神話学』1979
『映像の詩学』1979
『表層批評宣言』1979
『「私小説」を読む』1979
『大江健三郎論』1980
『事件の現場 言葉は運動する』1980
『小説論=批評論』1982
『映画 誘惑のエクリチュール』1983
『監督 小津安二郎』1983
『物語批判序説』1985
『シネマの記憶装置』1985
『マスカルチャー批評宣言 物語の時代』1985
『映画はいかにして死ぬか横断的映画史の試み』1985
『シネマの煽動装置』1985
『凡庸さについてお話させていただきます』1986
『陥没地帯』1986
『凡庸な芸術家の肖像マクシム・デュ・カン論』1988
『映画からの解放 小津安二郎『麦秋』を見る』1988
『小説から遠く離れて』1989
『饗宴』1990
『帝国の陰謀』1991
『映画に目が眩んで』1991
『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』
1993
『映画巡礼』1993
『絶対文藝時評宣言』1994
『魂の唯物論的な擁護のために』1994
『オペラ・オペラシオネル』1994 奥様、やっと退院、今御帰宅。なのに隣家が解体中。一日中やかましいのに。そしてすぐに新築が建つのに。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。