【フランス語】フランス文学総合Quatrieme【邦訳】 [無断転載禁止]©2ch.net
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(作者不明) - 『ローランの歌』(12世紀)
クレティアン・ド・トロワ (1135? - 1190?) - 『イヴァンまたは獅子の騎士』[3]、『ランスロまたは荷車の騎士』
(複数の著者) - 『トリスタンとイズー』(12世紀)
マリー・ド・フランス (生没年不詳、12世紀) - 『マリー・ド・フランスのレー』
ギヨーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン - 『薔薇物語』(13世紀)
フランソワ・ラブレー (1483-1553) - 『ガルガンチュワとパンタグリュエル』(1532-64)
ラファイエット夫人 (1634-1693) - 『クレーヴの奥方』(1678)
ヴォルテール (1694-1778) - 『カンディード』(1759)
アベ・プレヴォ (1697-1763) - 『マノン・レスコー』(1731)
ジャン=ジャック・ルソー (1712-1778) - 『ジュリまたは新エロイーズ』(1761)
ドゥニ・ディドロ (1713-1784) - 『運命論者ジャックとその主人』(1796)
マルキ・ド・サド (1740-1814) - 『美徳の不幸』(1787)
コデルロス・ド・ラクロ (1741-1803) - 『危険な関係』(1782)
以上18世紀まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E5%AD%A6
ウィキペディア-フランス文学より Inconnue. Je ne sais si c'est un malheur pour le japonais ou non.
ところで、
Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
てさ、「自分自身に対する或る確信、探すことも、見つけることも、
おそらく失うこともできない或るもの」ていうような意味だと思うんだけど、
これを「私はそのもの自体の根本的確信が何であるのかよく分からない。
それは、求めることも、見出すことも、またおそらく失うことさえも
出来ない或るものである」と訳した人がいる。引用は、ドゥルーズの
『ニーチェと哲学』に引かれた『善悪の彼岸』287の最後のところで、
「私はそのもの自体の…」は河出文庫に入っているE川氏のもの
(一部変更)。イディオムとしての je ne sais 〜を知らないとは、
おそるべき力量です。 >>266
誰のこと? 具体的に言ってくれないと説得力ない。 >>263
信太訳の『善悪の彼岸』や足立訳の『ニーチェと哲学』(P177)では普通に「何ものか」になってるな。
学生かなんかの下訳を見落としたんだろ。 >>268
見落としたにしても随分と程度の低い大学、学生さんですな。 訳文の誤訳をいちいち指摘する自称フランス語できます(笑)系のやつほど惨めなやつはいない
悔しかったらアカデミックな部分でここまであがってきたら?
どうせできないんだろうけど >>272
素朴な質問するけどあなたはフランス語どれくらい出来るの? それによってあなたの主張の重みが変わる 誤訳の指摘自体がなんか意味不明
何を問題にしているのか?
指摘する人の試訳みたいなものの方がピント外れに見える
フランス語は大して出来ないが、仏検1級、DALF C2、ソルボンヌで文学博士号ぐらいだったら持ってる >>275
5chではせめて画像で証拠出さないとただの嘘止まり >>275
>>フランス語は大して出来ないが、仏検1級、DALF C2、ソルボンヌで文学博士号ぐらいだったら持ってる
これは問題だな。色々と狡いことをしてるに違いない。275が蓮實自身である可能性も高い。 >>275
答えてくれてありがとう。誤訳の指摘だけに留まっていてはいけないという意見には賛成する。完璧なら翻訳など存在しないだけにあなたに良い訳でフランス文学を日本に紹介して欲しい。特にデュラスの『ラマン』ですら辞書使いながらでも原書読むのに苦労した私のような人のために 前後がわからないと適訳は不可能
研究書や研究発表用の和訳と書籍出版用の翻訳も求められるもの違うし
哲学用語は定訳もあるしねえ
見たとこ「私には根源的な確実性というものそれ自体がよくわからない。
それは探求することも見つけることも、おそらくは失うことすら不可能な何ものかなのだ。」
ぐらいでよくないか? >>277
お悔やみを申し上げます。教わったことはありませんが日本のフランス文学界への貢献は大きかったと思います >>281 D'accord.
>>263 >>280 「善悪」287の仏訳(Henri Albert.wikisource。一部省略)。
— Qu’est-ce qui est noble ? Que signifie aujourd’hui pour nous
le mot « noble » ? (…)ce ne sont pas non plus les « œuvres ».
On trouve aujourd’hui, parmi les artistes et les savants, un grand
nombre de ceux qui révèlent, par leurs œuvres, qu’un ardent désir
les pousse vers ce qui est noble : mais ce besoin de noblesse même
est profondément différent des besoins d’une âme noble, il est
précisément chez eux le signe éloquent et dangereux de leur manque
de noblesse. Ce ne sont pas les œuvres, c’est la foi qui décide ici,
qui fixe le rang, pour reprendre une vieille formule religieuse
dans un sens nouveau et plus profond : c’est une certaine connaissance
foncière qu’une âme noble a d’elle-même, quelque chose qui ne se
laisse ni chercher, ni trouver, et qui peut-être ne se laisse pas perdre
non plus. — L’âme noble a le respect de soi-même. —
>>263の je ne sais 〜は名詞のかたまり。上の訳ではune certaine 〜に当たる。
「私は…よく分からない」と訳すのは文法的におかしいし、文意が
まったく通らない。分かってなきゃいけないの。 >>282
280さんが正しいと思うけど
自分の訳載っけてみて >>282を見た上で改めて>>280に「正しい訳」載っけてもらったらいいじゃん
話はそっからだろ 訳すより映るものを目で追いなさい朗読もいいし。辞書や単語帳は間違い。 そういう意味で受験指導すらできないと、全文スリム暗記法。 どこをきかれても記述つまり論文に書けるということがポイント。
持込も可。記憶装置の。 そういういみで採点マニアの勉強法も否定されてくる面が多い。 勉強の内容と勉強の仕方では哲学と哲学するのように。後者が大事。 >>297
俺は横入りしただけだから訳せないよ
ただ手元の訳書を見ても>>280のように訳してないし、それだと意味が明らかに通らないから、間違っていると判断したまで
>>280に訳してもらったらいいじゃん、じっくり待とうよ ちなみに>>282の人も当該箇所については>>263で訳をとっくに提示してはいるから>>283はレスの流れも読めないただのアホな 横レスするけど
指摘の箇所は、ニーチェの「善悪の彼岸」からの引用である
引用文の場合、先ず翻訳者のすべきことは、このドゥールーズの仏訳が正しいかどうか原文のドイツ語と照らし合わせて検証することである
指摘の箇所の仏訳は間違ってはいないようだが、もし間違えがあれば、訳注でそれを指摘しなければならない
河出文庫の江川、あるいは手伝った立教の院生は、そのような検証を行っていないようである
もし、やっていれば、ドイツ語の「irgendeine Grundgewissheit,---,etwas,---」は、誤訳しようがない簡単な単語であるから、指摘のような誤訳は絶対のしなかっただろう
irgendeine Grundgewissheit 何らかの根本確信
etwas あるもの
ちなみに岩波文庫の「善悪の彼岸」の訳は
「(この位階秩序を確定するものは、)高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信である。
求められもせず、見いだされもせず、恐らくはまた失われもしない或るものである。」 >>300 サンクス。
わたくし>>263です。>>282でもありました。
原文に就くのを面倒くさがっていました。
で、菅野先生、昨年の歌会始の召人なんてもの、おやりだったんすね。
その、「窓」を題にて詠みたまへる歌:
きはやかに窓に映えたる夕虹は明日の命の先触れならむ
三十一文字なんぞとはついに縁のないお方と思うておりましたが。
これ、ま象徴派風と言っておきましょうか。マラルメ風とは言わないけど。 >>301
ごめんマラルメ風出ないのは元よりどの辺が象徴派なのか分からない。ご教授願う それもいいけどはよ出てこいよ>>280
ダサい嘘だけかまして逃げたのこいつ? これ、フランス語訳はどう考えても江川が正しいよ
仏検4級レベルあれば解ける問題 誤訳以前の知性の問題
江川は名誉毀損で訴えていいレベル >>304
Je ne sais pas quelle certitude l'ame noble a d'ellle-meme.(アクサン省略)
Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
それぞれ正しく訳せます?
たまたまこの板に書き込んじゃったので、Ecce Homoから次の文(仏訳)を
引いておくね。
Je ne vois pas dans quel siècle de l’histoire on pourrait réunir,
par un plus beau coup de filet, des psychologues si curieux et
en même temps si délicats que dans le Paris actuel :
je nomme au hasard — car leur nombre est considérable
— MM. Paul Bourget, Pierre Loti, Gyp, Meilhac, Anatole France,
Jules Lemaître et pour en distinguer un autre, de ceux de la forte
race, un vrai latin que j’aime particulièrement, Guy de Maupassant.
Gypという人を調べてみると、ニーチェのここの一節で有名、
なんて書いてあった… Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
えーっと、これの訳ですよね?
これだけ見たらどう考えても>>263は間違いで、江川や>>280が正しい
まず↑のどこを訳したら「自分自身に対する或る確信」という和訳がひねり出されるのか?
で、後からいろいろ補足情報が出てきて、単に『善悪の彼岸』翻訳書に引きずられて正しくフランス語を読んでいないのが原因だと判明した
>>300によれば『善悪の彼岸』の当該箇所の翻訳(ドイツ語から日本語)は
「(この位階秩序を確定するものは、)高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信である。
求められもせず、見いだされもせず、恐らくはまた失われもしない或るものである。」
だそうだが、フランス語の引用箇所には「高貴な魂」も「自己自らについてもつ」は一切ない。 既存の翻訳書と江川や>>280の訳のギャップを
>>263や>>283は"Je ne sais~"という「名詞のかたまり」を知らなかったからだと結論付けたようだが、これも見当はずれ。
正しくは不定形容詞(朝倉文法)で、大学院受験で使用した大修館の『スタンダード フランス語講座 解釈』も引っ張りだしてきたが、
「一種の不定形容詞。「何か得体の知れない、私にはわからない…」とある(pp.158-159)。
もっともこれは日常で子供でも使うレベルの会話で、
冒頭で"Je ne sais quel~"ときたら「(話者である自分には)よくわからないけれども〜」ぐらいにしか訳しようがない
>>282によるとニーチェのドイツ語原文とその仏訳は区切りが微妙に異なるようだ
フランス語テクストが
L’âme noble a le respect de soi-même, je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
だったら『善悪の彼岸』翻訳書に近い内容になるし、江川氏や>>280の訳文も微修正する必要が出てくるだろう
もっとも内容の理解や哲学的解釈を大幅に妨げるものではないから個人的にはどうでもいいけど、こだわりたいんだったらこの部分こそ指摘する必要があった いずれにしても
Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
これだけポンと出されて、「高貴な魂が」とか「自分に対する」とか訳されたら、立教の第二外国語レベルの授業でもかなり問い詰められるぞ
菅野昭正は自分の指導教授の指導教授にあたる人物だが、学生が既訳に引きずられて原文の読みをおろそかにしたり、テクストにない要素をでっち上げたりする暴挙には相当厳しかったそうだ
ただし内容を理解するためにドゥルーズが引いたニーチェにもきちんと目を通す態度は立派だし、
もし仮にこれがドゥルーズの論の根幹と密接にかかわる問題だったのであれば、江川某も訳注などで何らかの配慮があってもよかっただろう
アンチ江川訳を擁護するとしたらこのぐらいのことしか言えない
これ以上は私の手に負えないので、ご納得頂けなければ江川氏か出版社に質問状でも送って下さいな。 Ce qu'une volonte veut, c'est toujours sa propre qualite et la qualite
des forces correspondantes. Comme dit Nietzsche, a propos de l'ame
noble, affirmative et legere :"Je ne sais quelle certitude (…)perdre.”
Nietzsche et la philosophie, PUF, p.89
ちなみにibid.p.137は Je ne sais quelle certitude 云々という名詞のかたまりを、
"une certaine certitude fondamentale qu'une ame possede au sujet
d'elle-meme, quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre"としている。
むろんはじめの引用”Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme”
だけで、これが文でないことは自明。 フランス語が堪能だという方は、まだ和訳のない新しいものを訳してみせたらいいのではないか。 ようわからんな
>>263が旧仏訳で>>282が新仏訳ってこと?で旧仏訳に関しては>>309のほうが正しいってこと?
じゃあ話は終わりじゃね? >>312
俺も>>313と同じ質問だ。フランス語初心者にも分かるように説明を したがって訳す必要ない。フランス人になりたかったら。 ドイツだけは独自の語学を持つ。第二外国語にとるならドイツ語。
ニュースなんてよくわかるけど。 言語を持たない言語 文学を持たない文学 それがドイツ語ドイツ文学。 仏と独の戦争、そういう歴史が見どころ、互いに影響しているようで仲が悪い。 俺は仏文学翻訳中心に読んだけどそれは独自の文学作品でで原書とは違うんだと。 海を渡って縫製されたほうが価値があるように思う。人を使えというか。 書き手の読者の想定というのは国や海を超えるものだ。 音韻でなく字韻というのもあるが中国語のほうがいいとか。 マラルメ バタイユ ボードレール ネルヴァル ブランショなどを読み漁った。 詩と文学、日記の境界あたりにいたな。読者として。
アミエルの日記 日記のようなものを付けていたが日本文学の金字塔との評でした。 書くということ自体激しい、死ぬ前に命を残すようなものだよ。 去る前にその世界のためにしたためておくというような。 平凡ぐらいの語彙だときついと思うけど、物を表現するのに指し示すものを
上手く表象でとらえていない。 感受性がやせてるから平凡に映るだけ、一流の読み手はよく反応する。 Was ist vornehm? Was bedeutet uns heute noch das Wort »vornehm«? Woran verräth sich, woran erkennt man, unter diesem schweren verhängten Himmel der beginnenden Pöbelherrschaft, durch den Alles undurchsichtig und bleiern wird, den vornehmen Menschen? – Es sind nicht die Handlungen, die ihn beweisen, – Handlungen sind immer vieldeutig, immer unergründlich –; es sind auch die »Werke« nicht. Man findet heute unter Künstlern und Gelehrten genug von Solchen, welche durch ihre Werke verrathen, wie eine tiefe Begierde nach dem Vornehmen hin sie treibt: aber gerade dies Bedürfniss nach dem Vornehmen ist von Grund aus verschieden von den Bedürfnissen der vornehmen Seele selbst, und geradezu das beredte und gefährliche Merkmal ihres Mangels.. Es sind nicht die Werke, es ist der Glaube, der hier entscheidet, der hier die Rangordnung feststellt, um eine alte religiöse Formel in einem neuen und tieferen Verstande wieder aufzunehmen: irgend eine Grundgewissheit, welche eine vornehme Seele über sich selbst hat, Etwas, das sich nicht suchen, nicht finden und vielleicht auch nicht verlieren lässt. Die vornehme Seele hat Ehrfurcht vor sich. けっきょく、↑の新旧の仏訳の何がどうだという話なのですか。 ≫話ずらして誤魔化すなよ
問題になっているらしいものの原文なのだが。 Traduction par Henri Albert.
287.
— Qu’est-ce qui est noble ? Que signifie aujourd’hui pour nous le mot « noble » ? À quoi devine-t-on, à quoi reconnaît-on, sous ce ciel noir et bas du règne de la plèbe qui commence, dans cette atmosphère qui rend toute chose opaque et pesante, à quoi reconnaît-on l’homme noble ? — Ce ne sont pas les actes qui l’affirment, — les actes sont toujours ambigus, toujours insondables ; — ce ne sont pas non plus les « œuvres ». On trouve aujourd’hui, parmi les artistes et les savants, un grand nombre de ceux qui révèlent, par leurs œuvres, qu’un ardent désir les pousse vers ce qui est noble : mais ce besoin de noblesse même est profondément différent des besoins d’une âme noble, il est précisément chez eux le signe éloquent et dangereux de leur manque de noblesse. Ce ne sont pas les œuvres, c’est la foi qui décide ici, qui fixe le rang, pour reprendre une vieille formule religieuse dans un sens nouveau et plus profond : c’est une certaine connaissance foncière qu’une âme noble a d’elle-même, quelque chose qui ne se laisse ni chercher, ni trouver, et qui peut-être ne se laisse pas perdre non plus. — L’âme noble a le respect de soi-même. — >>308の Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。
ところで『ニーチェと哲学』の新訳は、同書に何度も出てくる
ELEMENT(アクサンの回避のための大文字)を「要素」と訳している。
うろおぼえだが旧訳では「境位」だった。
L’EAU EST L'ELEMENT DES POISSONS.を「水は魚たちの要素だ」と
訳せないように、例えば原書p.7の
LA VOLONTE(VOLONTE DE PUISSANCE) EST L'ELEMENT DIFFERENTIEL
DES FORCES を「(力能)意志は諸力の差異的な要素だ」とは
訳せないんじゃないかな。水があるから魚たちが生きられるように、
力能意志があるから諸力が存在するんじゃないだろうか。 足立役は、たしかに「境位」だったはずだ。
新訳は読んだことがないのでわからない。
魚のほうは、要素ではなく、生息場所とか、そういう意味でしょう。
力能のほうも、「要素」としてあるならば、
それよりは「境位」のほうがいい(というか「要素」は誤解に基づく訳の)ように思うが、
ドゥルーズの思想については、足立訳のでたころよりも
いろいろ理解が深まっていたのだろうから、
何か理由があって、ということはないのですか。 ちょっと調べてみたら、
ニーチェ思想における力能(Macht, puissance)と力量(Kraft, force)の質的差異という観点
ドゥルーズは、ハイデガーが論じなかったこれを強調した、という人もいるようだ。
ならば、「要素」という訳もありのような気がした。 たぶんネタはこれだと思う。
ベクトルに含まれるスカラーを成分(component)または要素(element)という。
そのドゥルーズ『ニーチェと哲学』の新訳の「要素」というのは、
おそらく↑からきているのだろう。 >>347
ネタ?釣り?
ことごとく間違いだらけなんだがwww >>347
この方の疑問は当然だと思う。
ニーチェ思想についての理解が正当なので、
(おそらくだが、)ドゥルーズがけっこうテキトウなことを書いたということに気づかず、
かつての訳者の足立氏とおなじく、ニーチェ思想に則して理解したのであろう。
知っての通り、ニーチェの「意志」というのは、ショウペンハウエルから来ており、
それは、ヘーゲルの「精神」やカントの(自己定立する実体又は主体としての)「物自体」と
その思想体系上はそれらと同じような、いうなれば「基体」的な位置にあるものだと思う。
そういうわけだから、しょうがないところがある。
江川訳のほうは、ドゥルーズのその種のテキトウさについて知れ渡ってからのものだから、
ネタであろうベクトル解析学などの用語に基づいて訳したものだと思われる。 足立和浩は、三島憲一に協力してもらい、当時のドイツにおけるニーチェ研究の成果を踏まえて
『ニーチェと哲学』を訳したということだそうだ。
それゆえ、かえってニーチェ思想を「正確」に理解していたせいで
「境位」と訳したのではないか。 Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。
こんなありえんバカがニーチェだのドゥルーズだのなんのギャグなんだ Fランレベルの語学力でよくもいけしゃあしゃあと偉そうなことをw
おそるべき厚顔無恥です
・「イディオムとしての je ne sais 〜を知らないとは、おそるべき力量です。」
・「見落としたにしても随分と程度の低い大学、学生さんですな。」
「 je ne sais 〜は名詞のかたまり。「私は…よく分からない」と訳すのは文法的におかしいし、文意が
まったく通らない。分かってなきゃいけないの。」
・「ダサい嘘だけかまして逃げたのこいつ?」
・「Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。」 「名詞のかたまり」=「名詞句」ね。
ところで原書p.25に Qu’un dieu prenne sur lui la responsabilité de la folie
qu’il inspire aux hommes, ou que les hommes soient responsables
de la folie d’un Dieu qui se met en croix, les deux solutions ne sont pas
encore assez différentes, bien que la première soit incomparablement
plus belle.とある。「人間たちに狂気を吹き込んだ責任を(小文字の)神が
みずから引き受けるという(ギリシャ的な)解と、みずから十字架に赴いた
(大文字の)神の狂気の責任を人間たちが負うという(キリスト教的な)解とは、
前者のほうがはるかにはるかに美しいとはいえ、依然としてそう異なっていない」
ってことだけれど、しかし新訳は(p.59)「(…)なこと、あるいは(…)なこと、
この二つの解決策はそれほど異なってはいないが、それでも前者の方が
比較不可能なほどずっと美しい。」とする。すごいね。
この直前の一節も大問題なのだが、長いのであとまわし。ないしカット。 「諸力」の力というのは、Kraft, forceであって「ベクトル」として扱われるべき概念であって、
つまりそれぞれの力が固有の方向をもっている。
たいするに、「(力能)意志)というのは、Macht, puissanceであって、
「スカラー」として扱われる、いわば「生命のポテンシャル」みたいなものであろう。
といったようなジル・ドゥルーズお得意のSF哲学だろうという理解があって、「要素」という訳語になったのではないか、
と思っただけのことですよ。
ちなみに、器官なき身体にしてもスカラー場みたいに書いていたのではなかったかな。
あるいは誰か理系っぽくしたがる人の研究論文に書いてあったのかもしれない。
そこは記憶が定かでない。
書き込みのそのほかの部分については、わたしとしては、なにも述べていません。 >>355
まわり全員同一の敵に見えてるとか必死やのうw
しかし目先のフランス語にだけ飛びついて
原文・訳書にも当たらずに口を挟むとかアカデミズムのかけらもおましまへんなあ
しかも手元に善悪の彼岸一冊も持ち合わせてないとか変わってまんなあ