☆★☆★ドストエフスキー☆★☆★Part43 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>134
ドストにふりまわしあそばれるって所は
面白い考えだね そしてその通りなんだろうね
ただドストにならそれをされても悪くないと思う
以下超個人的意見だけど
大審問官はカラマーゾフで核になってと思う
確かに神の有無っていう当時の話をもりこみ
話題性がでたのはもちろんだけど
それはそれで意味がある
そして対になる小説ってのはいつでも面白い
ハクスリーを言ったが、幸福か自由か、
カラマーゾフなら地上の幸福か真理の自由か、
悪霊なら、革命か生命か、などどこかの評論家に
嗤われそうだが対比ってのは重要でカラマーゾフ
の大審問官はそれの核になってると思ってる スースロワは四大長編の高飛車お嬢様タイプのモデルになってるけど
アンナクルコフスカヤはモデルになった小説ある? >>134
>個人的にはドストエフスキーに遊ばれているだけに思えてならん。
> カラマーゾフの兄弟の主要テーマに大審問官のテーマがどこまで絡んでるかというと、イヴァンの性格を描写しただけに過ぎないだろう。
> ドストエフスキーが当時の思想にかぶれた若者たちを嘲りたいだけの遊びに今もふりまわされてるんだと、まあ私は思うな。
全部違うと思う。
もう一度読み直して見ようとおもう >>135
論議として捉えないで欲しいし、そうしてるわけで
もないけど、自分を正してくれてそして味方で
いてくれるっていう精神的処女のソーニャの
極端な純性を記する書店があっても不思議では
ないよね
そんな子が果たしているとしてなおかつ
自分に出会い、ラスコーリニコフのように
自分に好意をもってくれるとかどんな確率
だよって思うw
それにしてもドストって男はクズで女は純とか
のキャラクター多すぎ ドストは、おおまかにいって、俺の人生において二番目に大切なカテゴリーだ 今手元になかったから青空で大審問官を読んだが、やはり読むたびに印象が違いますな。
中山省三郎の訳で読めるのも発見だった。岩波の復刊みたいに旧字のまま綺麗な文庫になってくれるとうれしいんだけど。
自分は米川正夫訳から入った人間なので、米川正夫訳で他のものも読んでる。
まあ、それで、カラマーゾフを解説するあとがきでもなんでも、大審問官に触れないものはないわけで、
自分でもカラマーゾフについての定説は分かっているんだが、
大審問官の部分はイヴァンの創作だからというのもあるが、作者の意図があけすけなのが気になってしまう。
意図というか、悪意というか。個人的には推気さえ感じるところもあって、先生と呼ばれる人たちがその大審問官を大真面目に考えているのをみるとどうも、遊ばれているようにしか見えないんだよね。 >>147
おれも米川やく しか受け付けん
米川訳丸暗記しとる、省三郎の訳が米川に酷似してることに驚いた
何かの全集の解説にもあったが「歴史的経験」が大事なのだ
俺個人の人生は歴史的経験によって変化させられる 自分の中で
自分の青春のなかで
だいしんもんかん に限らず
いったい どの言葉が?自分の命に響き、青春を変化させたかについて
語ろう! 思春期に罪と罰読んで、自分もナポレオン
のように世界の規範と制約を踏み越える
許された人間と勝手な万能感に浸ってた
のはいい思い出
というより黒歴史
いい影響はヘルマンヘッセの知と愛を読んで
感情がどんなに素晴らしいとしったか
思い返せばドストにいい影響うけてないw
1番好きなさっかだけど 一時ロシア語を学んでいたことがあって、文学も好きで語学もとなると当然ためしに原文で読んでみたわけだが、
米川正夫訳を並べて読むと殆どは直訳かと思うくらい、意味も一文における単語の並びも原文に忠実になっている。
あの仕事量なら直訳でもさもありなんだが、そのうえとても表現が豊かで。
自分の語学力なんて片言レベルだし、もともと米川正夫訳から入ったので先入観はあるが、原文のニュアンスを損なってないんじゃないかとおもう。
古い訳に比べると亀山郁夫訳はあまりに意訳しすぎていると思うな。
現代の日本語におきかえるとどうしても限界があるし、亀山郁夫のせいではないんだろうが。
古い日本語のほうが言いまわしの種類も豊富だしなにより表現豊かだよね。 ドストエフスキーの著作からの影響は、なんとも言葉にしづらいな。
罪と罰を読んでから本の虫になった自分は、あれを読んだときは自分というものを現実世界における異物と感じていた。
自分が今ここにいるということの必然性がまったくわからなかったんだな。
殺人願望があったわけではないが、その異物感をとりのぞくことならなんでもしたいという危なっかしいという、なんというか、思想の種?みたいなものを抱えていたかな。
まったく貧乏ではなく、並の高校生とおなじように親のすねをかじっていたから、
ラスコーリニコフというキャラクターがそういう当時の自分とかぶったわけではないんだが、それでどうしようもなく感情移入して、
ラスコーリニコフは自分の代わりに殺人を冒したのだ、と思っていたっけな。 >>152
すごく心情を捉えてるね
存在の必然性ってのは共感できるけど
かわりに罪を犯してくれた気分てのは面白いね
おれは初めて読んだ時の印象は忘れてしまったよ
罪と罰は3度は読んでるけど >>151
> 米川正夫訳を並べて読むと殆どは直訳かと思うくらい、意味も一文における単語の並びも原文に忠実になっている。
凄いな、君。信じられないよロシア語を読むなんて。片言でも何でも。そんな試みを空想さえしないよ...
米川が直訳に近いって初めて聞いた。ぜんぜん意訳なんだろうなァとおもってた
> 古い日本語のほうが言いまわしの種類も豊富だしなにより表現豊かだよね。
ほんとに そうだね。最後期の訳文はこなれていて好きだが、古本屋で100円くらいで買った戦後すぐくらいの訳文は
「なんじゃこりゃ〜」な言葉が たくさんあって楽しかった >>152
> ドストエフスキーの著作からの影響は、なんとも言葉にしづらいな。
自分で書け!と言いながら、恥ずかしくて書けないもんだよな
> 罪と罰を読んでから本の虫になった自分は、あれを読んだときは自分というものを現実世界における異物と感じていた。
(以下)
素晴らしい! 想い出せないし、恥ずかしい、自分の混乱した思春期を、おもい返すことすら。
こんな風に、書けるなんて、すばらしい
まさにその「自分の混乱した思春期」を想い出すために、2ちゃんに発表するためでなく
カラマや罪と罰や白痴を 読みたいと 、何度も思ったものだ。
目が悪くなったからと、前に言い訳したが、それ以上に、心の静穏さが、ないんだと。
だって、ネットする時間を割けば、いいんだからね! たまに夢中で読みたくなるけど、退屈ページが長いと一気に
読む気失せる。
カラマ、悪霊、白痴はもういいかなって感じ。 >>159
そうだね。
確かに凄い小説だとは思うけど続けて読む気はしない。 地下室の手記は不思議の国のアリス
どちらも地下世界で現実をゆるがす トロッコ問題について、問題になっている時点でもう手遅れだと
思う訳よ
同様にらすこりにこふが生まれてしまった時点でもうだめでね
それでロシア社会が揺るがされてしまうしかない
まあ芸術とはそのための芸術だろうけど 一度読むといいかなという感じ
現代にも通じるとは思えなかった おめらの印象はまったく理解できん
ほんとに よんだんか?
それとも年いってから読んで、深く影響受けなかったんか?
カラマの隅から隅まで、退屈なページなど、1ぺーじたりとも ありえん
おれは目さえ悪くなかったら、何十回もよみたいわい!
たとえば どんな箇所が退屈だったか?ゆーてみろや ウィトゲンシュタインが55回読み
アインシュタインもフロイドも耽読したカラマだぞぉ??
しかもドストは、そんな権威づけなんか不要なんだ
人生経験のない少年でも読めるんだ、読めばその価値を誰でも知るんだ
前に誰かが書いていたが、むしろヘッセとかのほうが、短期的にはよい影響受けると自覚するかもしれん
おれも 「ガラス玉演技」が大好きだったな
とはいえ、カラマや白痴、罪と罰の、広大無辺なること、おれらの日常生活では自覚できない 宗教的真情など >>163
> 一度読むといいかなという感じ
> 現代にも通じるとは思えなかった
どーゆー点が「現代にも通じるとは思えなかった 」んだい? ウィトゲンシュタイン、55回も読んでるのか。
わざわざ回数覚えてるのはちょっと気持ち悪いけどw
ドストエフスキーからいい影響を受けたとか、実際そういうことはあるかもしれないが、自分としてはなんだか違和感があるかな。
ドストエフスキーを読むとは、打ちのめされ、引き込まれて、波にのまれた小舟みたいな状態になることだと、自分にとっては。
そのなかでいい教訓をくみ取ることは難しい。
まあつまりトルストイとかチェーホフのような、ともかくドストエフスキー以外の大家の著作なら、そこから教訓なり有意義な思想信条なりを多少なりくみ取ることができるが、
ドストエフスキーはそういう読み方が適切な作家ではないんじゃないかと。
昔、サカキバラ事件があって、事件のことはみな覚えていると思うが、そのサカキバラの部屋には罪と罰がおいてあった、
というのをニュースでとりあげていた。
そこから悪い影響を受けたのではないかと、コメンテーターやらがもっともらしく言い腐っていやがって……。
どういう肩書か忘れたが、露文の畑の誰かでどれだけ罪と罰を読み込んだかしらんが、
こういうことをいえるのは結局本当の意味では罪と罰を読んでないんだろうと。
お上品に研究のため教訓なり思想信条なりを汲み取ったにすぎないだろう。
で、おそらくサカキバラも罪と罰を本当の意味では読んでいない。自分にとって都合のいいところを汲み取っただけだろう。
私はラスコーリニコフが自分の代わりに殺人を冒したと思っていたから、罪と罰から悪い影響をうけたというコメントには強い反感があった。
本当の意味では彼らは読んでいない、そのときはそういう確信めいたものがあったね。
まあしかし、客観的にはいい影響を受けましたと言うより悪い影響を受けましたと言うほうが話としては頷けると、今の自分は思うよw
長文ですまん。 あああと、知と愛、私も好きで何度か読み返した。
私はどちらかというとナルチスだが、ナルチスのセリフで、
もしゴルドムントが困って訪ねてきたときに、なにもゴルドムントに与えるもののない自分でいるとしたら、それが自分には一番耐え難いことだというところ、
とても印象にのこっている。
相談しがいのある人間でありたいものだね。 神がどうとか無宗教だからピンと来ないところがある。
宗教的な内容ではない作品のほうが好きだな。 そんなに沢山本読んできたわけじゃないから分からないけど
ドストエフスキーは結構笑えるシーンがある
ユーモアというより真面目なんだが笑えるというか >>170
同じくドストの作品は悲劇的な最後を迎える
作品が多いためか、教訓は汲み取れないよう
なきがする
ただ、罪と罰に関しては、ラスコーリニコフ
は最後の最後までナポレオンみたいな世界の
ルールと無縁で、多くを許された罪(犯罪)を
負わない人間は存在する、とした
ラスコーリニコフの最後の最後で見つけた罪
は犯罪の罪ではない キリストの原罪だろう
オレもこの罪(犯罪)とは無縁の選ばれた人間
は歴史上確かにいたと思う
ドストを読んで悪い部分だけに影響を受けてる
人ってのは少なくないのかもしれない
それだけ影響が大きい作家なんだろう
ちなみにオレも知と愛は好きなヘッセの作品
善と悪、永遠と有限、ゴルとムントとナルチス
で対になっててとても面白かった
ドストも対は必ずあるけど、ヘッセみたいに
分かりやすくないから難しい ドストの作品は何でも、弁証法になってる
部分はたくさん出てくるけど ドストの作品は何でも、弁証法になってる
部分はたくさん出てくるけどわかりやすい
のはどれかな?
俺は、カラマーゾフの兄弟の大審問官と
そのあとのゾシマの最後の談話が対照的
で、定義反定義その後矛盾と統合のあとに
くる統合定義になってると思ってる
要は・・・ってのは読み返さないとなので
やめときますw
とりあえずそんな感じで対になってるとこ
あるかな?
実は今ももう一度カラマーゾフの兄弟読み直
そうと思っていて、相反する所を気にして
読もうと思ってます >ゾシマの最後の談話
は繰り返し読み返した
アリョーシャが どう感じ、どう生きたか?自分と比較し、そればかりを問うてきた おらは読んだ
最初の なんかアレクセイとイワンを簡単に紹介するあたりまで 大ヒット作「プロジェクトA」の続編。舞台は20世紀初頭の香港。
犯罪が多発する3地区を統治する警察署長チャンは、
暗黒街のボスと手を組み、無法の限りをつくしていた。
頭を悩ませた上層部は、チャンをサイワン地区から外すことに。
新任署長に抜擢されたのは、海賊征伐に貢献した水上警察のロンだった。
警察と黒社会の癒着を断ち、犯罪組織の一掃を成功させたロンの活躍に、
恨みを抱いたチャンが復しゅうを企てる…。 ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポーの
おなじみトリオが再結集したアクション娯楽大作。
今回はスペインのバルセロナを舞台に、誘拐された美女を救出するため、
謎の巨大組織“X”に挑む、ジャッキー・チェンふんするカンフー青年と、
その友人たちの活躍を描く。
スペインの街並みで繰り広げられるアクション、
なかでも、ジャッキーと、当時、格闘技界のスターだった、
ベニー・ユキーデとの迫真の対決は見もの。 20世紀初頭の香港。ロンが所属する水上警察は、海賊撃滅作戦を命じられるが、
戦艦を爆破されてしまい、陸上警察に併合される。そこにいたのはロンのライバル、チー隊長だった。
初めはいがみ合ってばかりの2人だったが、やがて海賊退治を通じて友情が芽生える。
さらにロンの友人フェイも加わり、一行は敵のアジトへと乗り込むが…。
ジャッキーの代表作のひとつで、日本では“主演10周年記念作”として宣伝され大ヒットした。 前スレでゾシマの遺体が腐る=信仰がないとかレスしたものだけど
少なくとも聖人のような存在ではない、という解釈は出来ないかな
ドストエフスキーは聖人の遺体は腐らないみたいな話を案外盲信してそう >>173
そのへんはゴーゴリの影響ではないだろうか。 さぁ撃ってみな、俺はいつでも真剣勝負!
一匹狼ハリーが破壊力抜群44オートマグを手に連続殺人の陰に潜む悪に挑む!
大人気シリーズ最大ヒットの第4弾(1983年/米) アリゾナの保安官補クーガンは犯人逮捕にかけては抜群の能力を持っていたが、
一匹狼のはみ出し者で女好き。そんな彼に手配犯がニューヨークで逮捕されたので、
アリゾナまで護送するよう命令が下る。田舎者まる出し、カウボーイスタイルで
NYへやってきたクーガンは、強引にリンガーマンを連れ出し空港へ向かうが、
仲間の待ち伏せに遭い逃げられてしまう。
失敗して一市民の立場となったクーガンは、執念でリンガーマンの跡を追う。 >>183
おれなりに解釈すると、ゾシマの遺体の話は
ドストの神秘主義の否定だったと思う
遺体が腐敗しないとか奇跡で信仰するな、
それはカトリックの大審問官の悪魔のやり方にな
ドストのキリスト関はカトリックの否定だから
神秘主義の否定が言いたかったと思うよ
遺体の腐敗=信仰足りないでは、まさに
大審問官の完全肯定で、アリョーシャが
だんだんリアリストに成長していく過程
の辻褄が合わなくなる ドストエフスキーが神秘主義者というのは違うと私も思う。
少なくともカラマーゾフの中で著者として神秘的なものを支持している様子はない。
ただ本当のリアリストは神秘主義を否定しないと言っているだけで。
カラマーゾフの中にあるロシア正教の聖人を説明するエピソードひとつとっても、
葬儀中に「信仰なきものは出でよ」と唱えたとたん聖人の遺体が外にけしとぶということが三度まであった。
という面白すぎるエピソードを持ち出すあたりで、もう、ね。
自分がその場にいたらこらえきれず爆笑しているよ。
ゾシマ長老の遺体が匂ったのは、人が心中最も大事にしているものをあざ笑う、
得体の知れない、ドストエフスキーのいうところの「ロシア的な」ユーモアにゾシマ長老も取り込まれてしまったということだと私は解釈している。
アリョーシャを含め長老を崇拝している人の心中を揺さぶるため、
信仰ある人の言葉でいうと「信仰心をためす」ための一幕だったんだろう。
旧約、新約の神は人間を試すものだからね。
ゾシマ長老の遺体の匂ったのは、神が人間を試すということをロシア的にしたものだったんだろうと、
すこし変な見方かもしれんが、私はそう思ってますな。 人間は奇跡を見て信仰する、権威を見て信仰
する、与えられて信仰する、そんなものは偽物
で、むしろ苦痛の中から自分の自由意志で信仰
するものだ。と言いたかったんだろうね
だからこそ、ゾシマの遺体の腐敗は意味がある
大審問官の本意ってのは、奇跡を行わないで本当
の自由を選んだキリストの賛美が本質だよ
そこがゾシマの腐敗に掛かっている
とおれは解釈した ドストの神秘主義に関しては、山城むつみの描いた復活を信じることと、信じられないことの間で引き裂かれるドスト像が面白かった >>188
本当リアリストは神秘主義を否定しない
と言ってるだけで
まさにこれだね
神秘にとらわれず、ただの現実に過ぎない
だから肯定でもなく否定もない
ドストの真意の一つはここだとおもってる とり方によっては、ゾシマ長老の死後にアリョーシャの見た夢は
復活後の来世のビジョンだったわけだから、神秘体験ともとれる
この夢がアリョーシャの信仰心を篤くし、エピローグの
「必ずよみがえるますとも。そこで再会して……」
という発言に至るわけだしね カラマ読み始めたけど登場人物のエネルギー凄いな
当たり前の事かもしれないがドストエフスキーは社会?宗教?人間心理?への興味がとてもあるんだな
バルザックなんかも風景の細かい描写がそんな所まで知ってるのかと思わせられるが
文豪の関心の持ちようには驚かされる 忙しくて、コメント書けない、ここのみんなのカキコを読んでる
早く返事つけたいなぁ! どうにもそういうふうに思えないんだよ。
ドストエフスキーの書く人物がすごい?
世の中、変な人いっぱいいるし、凄い人いますよね?スカッとジャパンに出てくる人と何が違うのかな? 現代の小説に登場する人物たちと比べると確かにエネルギーは違う気がする。
ひとりひとりが主人公になり得るというか。 自分で調べろ。
バカボンのパパやノビタ、ジャイアンとドストエフスキーの描く人物と、何か違うのかな。
小説の登場人物にエネルギーなんて感じないけど。 >>199
それは明確に違うな。
自分も漫画やアニメを好んで見るけど、
漫画やアニメの登場人物は小説と比較すると思想性がほとんどない。
わかりやすく書くとペラい。 のび太やジャイアンの生き様からある種の学びを得ることは可能だけど
彼らは神について語ったりしないし、自殺もしない。
ガンダムのシャアやアムロの物語も例えばシャアの演説なんかはいいフレーズはあるけど、やっぱり、全体的に見るとペラい。
それは商業アニメという表現形式をとっている以上、仕方のないことなんだけどね。
作品全体から伝わるメッセージ性でいえば、片隅とかズートピアとか去年は結構いい作品がたくさんあったけどね。 アニメとか漫画のキャラがドストのキャラみたく演説してたら尺が幾らあっても足りないしドストなんて読破するのに何日かかるのさ そうそう
アニメや漫画は表現形式上、小説と比べると大幅に台詞をカットしなければならないので
どうしても過度に誇張されたわかりやすい台詞しか言えないようになっている
これはアニメのシナリオを書いたときに教えてもらったことだけどね
かといって、基本的に止め絵なので身振りや表情で感情を示すのも難しい ちなみにいまのアニメーターは映画を見ないから人間の動きを描くのが下手くそになっていると富野監督は言っていた
これは作品の物語づくりにも当てはまっていると思う ドストエフスキーみたいな新聞小説家の愛読者どもがエラソーに 正直宗教語るにしても期待したほどじゃないんだよな
ゾシマ先生が腐っちゃった(泣)とかさ
ああいう聖人物語いろいろある気がするんだ
俺はドン・キホーテみたいなんに深さを感じる
でもドン・キホーテ持ち出さないといけないほどにはすごいと思ってる
イワンとアリョーシャの久々の再会での会話は面白いと思ってる
でもあれはテクニックだな そうだなついでに書こう
裁判の場面は退屈
ドストがバックにいるの見え見えではいわゆるポリフォニックとは程遠い でもこういう信仰の問題て人それぞれとしか言いようがないかもな
あれがクリティカルヒットしたんだと言われればそれまでというかこちらもその感じはわかると思うくらいには物語ってるし
ドストは卑怯だ! でもさ、ポリフォニーを感じられる小説ってドスト含めて数えられるほどしかなくないか?
いまではポリフォニーはありふれた手法だとはいっても、ドスト並に登場人物個々にエネルギーを感じられる作品はほとんどない ポリフォニーなんて
大学院をソッコーで中退する程度の文学かぶれが
どやったゼミ発表をするときに使う言葉 神(キリスト)の解釈が独特だからドストは
海外でうけたと言われている
もちろん物語の構成の才能があったとかは
もちろんだけど
では、なぜキリストとは馴染みのない日本
でこんなに支持があるのか? >>220
> では、なぜキリストとは馴染みのない日本
> でこんなに支持があるのか?
キリスト教とは関係なく、信心の問題に直結してるからである
信心の問題は民族国家によって厚薄があるのではなく、普遍的根源的なものである
日本人は宗教性が薄いと内外から思われ、無自覚の人も多いが、そうではない メンヘラが多いから
メンヘラの作品にはメンヘラにだけ琴線に触れるキーワードが秘められてる
ドストエフスキーもてんかん持ちで近いと思う 今、あおぞら文庫の中山省三郎訳を見ているんだが、これは第5篇プロとコントラまでしか なかったんだね
ゾシマ腐敗とアレクセイについて参照しようと思ったんだが マルメラードフの嫁は虚言癖だっけ?実際に良家の娘だったっけ? ここまでみていて、知識として知らない人もいるみたいだからふれておきたいのだが、2ちゃんだから極力端折るが本来なら本を一冊はしっかり読まないと理解できないところだから、興味がある人は自分で調べてほしい。
カラマーゾフはヨハネの福音書の引用から始まっている。
新約聖書には福音書が4つあり、それぞれ書かれた目的も時代背景も違う。ヨハネの福音書はなかでも最後に書かれた福音書で、その目的は……私は教徒ではないし、
正しく学んだわけではないから誤解を広めそうな部分があればわかる人に訂正してもらいたいが……ひとつには当時はびこっていたグノーシス主義に対するアンチテーゼだ。
グノーシス主義とは、数ある異端のなかでキリスト教会を最もおびやかしたもので、
霊と肉体というものを分けて考える二元論に大きな特徴がある。
そもそも今日びキリスト教についてちょっとでも調べた人間ならまず疑問に思うのが、キリストは神の子なのに、同時に人間でもあったという点だ。
現人神か?と多神教的に思ったりもするが、ユダヤ教的世界に神でもあり人でもあるという矛盾にたいする用意があるはずもない。
一神教では神は唯一絶対のもので、神が人間でもあるということを許容する素地はユダヤ教にはなかったということだ。
ついでにいうとユダヤ教の神に名前はない。神は唯一の存在であるから名前も必要ない、名づけることも、名を呼ぶことも不信心というわけだ。
イエスキリストも名前ではなく「救いの主」という意味の敬称で、名前がないという点で一神教的枠組から抜け出すことを避けている。
神の子という時点で一歩足が出てしまっているのにね、私個人の偏見をまじえていうと。
ともかくその矛盾点に、グノーシス主義は地上につかわされたキリストはあくまで霊的なものであり、肉体は霊の仮初の宿にすぎない、という回答を用意したわけだ。
簡単にいうと、本体は霊であり、肉体は抜け殻にすぎませんよ、ということだ。
これが当時の人々の心を掴んだ。逆にいうと当時のキリスト教会を脅かした。 それに対してヨハネの福音書は、肉体がキリストの仮初の宿にすぎないのではなく、キリストは肉体でもあり、霊でもある。神の子でもあり、人の子でもある。偉大な神の子であり、同時に私たちと同じ肉体をもって生まれている、
ここにこそイエスキリストの偉大な奇跡が現れていると説いている。
じゃあやっぱり現人神じゃん、と多神教的に思ったりする、くどいようだが。
まことにまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば一つにてあらん。もし死なば多くの身を結ぶべし。
この一節は色々な解釈が可能なところで、しかし肉体の滅びを奇跡へと結びつけている点には重大な意味がある。 で……なんで長文でこんなことを書いているのかというと、
少なくとも信仰という点からカラマーゾフはヨハネ福音書についての予備知識なくしては語れないからだ。
宗教の話をしたくないから端折ってしまったが、ゾシマ長老の葬式の場面は、冒頭の一節と重ねて考えない手はあるまい。
霊でもあり私たちと同じように肉体もある。その肉体もなにも特別なものじゃない。だから腐る。
けれどともかく肉体は滅び、多くの実を結ぶだろう。
もっというと、霊でもあり肉体でもある、矛盾した二つのものが同時に有りうると説くヨハネ福音書の特徴は、カラマーゾフの色々な場面にもみられる。
賢明なイヴァンが道化であり豚同然の父親とこれ以上なく折り合っているし、
純朴で善良そのもののアリョーシャがドミトリイが13段まで上ったところの階段の一段目に足をかけてしまっている。
息子に謀略をかけることさえ平気でするヒョードルが、アリョーシャの善良さに打たれ心から信じきっている。
イヴァンにもカラマーゾフ的な愚劣を受け入れる素地があるのだろうし、アリョーシャも情欲と無縁ではない。
下司で豚同然で道化でなんで生まれてきたのかわからないというくらい言っても過言ではないヒョードルでさえ、
くもりなく善良なものに素直に心を打たれてしまう。
善か悪かではなく、善でもあり悪でもある。すべての登場人物にすべての要素が含まれている。
含まれているから別な人物の言葉に対立する立場にある人物から共鳴する音が聞こえてくる。
それがカラマーゾフならびドストエフスキーの著作の特別な点だ。ポリフォニーというけれど、私はこれこそ本当のシンフォニーだと思う。
二項対立ではなく、二項対立にたいするアンチテーゼとしての二項融和。
対比という観点でカラマーゾフを読むならそれを前提にしないといけないんじゃないかと思う。 長文ですまん。
宗教の話はわたしも特定の宗教を信仰しているのではないから黙っておこうかと思ったが、
ドストエフスキーの登場人物の特徴、宗教、カラマーゾフにおけるゾシマ長老の腐敗とここまで材料が出てくるとどうしてもいいたくなってね。
最近カラマーゾフをまた読んでいて、つい影響を受けて調子にのってしまった、堪忍な。
少なくともヨーロッパ圏でカラマーゾフが読めるくらいの年齢になった子は、ヨハネの福音書について理解がある。知識として知っておいたほうがいいとおもってな。 >>229
ドスト、カラマーゾフは特に、宗教的背景と
聖書とキリストを知らないとゾシマ腐敗のよ
うな物語の一出来事でさえも真意をくみとれ
ない、っていうのは賛成でそうおもう
一粒の麦の話が物語に掛かってるのも分かる
どこまで信仰を知識と知っているあなたに質
門させてね
カラマーゾフはヨブ記の比喩だと思ってる
アリョーシャがヨブのように最後まで信仰
し続ける物語、もし短絡的に一言にすれば
イワンからの大審問官のようにこの世の残虐を
きかされ父親殺しを見せられてもこの神の
作った世界を受け入れ、より信仰する物語
ヨブ記が最重要だと思うんだけど、どう思う? >>231
横から失礼
個人的な意見ですが、ヨブ記も重要だがその先に見えてくる
父殺しの後の「大地崇拝」は何を意味するのかというところまでたどり着きたい
アリョーシャの大地への口づけと一粒の麦の関連性などです 大審問官より、
「キリストは奇跡を起こさず自由を得た。でも人は自由なんていらなくてパン(奇蹟)を求める」(イワン談)
ゾシマが死んで腐臭がしたことで、アリョーシャはそれをどう解釈していいか分かんなくなるじゃん?
それはきっと、心のどっかで奇蹟を求めてたってことで、
その後、僧が聖書を朗読している声をボーッと聞きつつ寝て(ヨハネ福音書2章にあるガリラヤのカナのとこ)
夢の中でゾシマが一本のネギの話やら婚姻の話やらを持ちだすじゃん?
“ゾシマから良い香”ってのは悪魔の誘惑で、それを求めてた自分だ居るってのとを夢の中のゾシマに教わるんじゃね?
それで、良い香(奇蹟)を退け、腐臭を受け入れることで、イエスやゾシマの教えに沿うことができる。
「自分の仕事を始めるがよい」(ゾシマ談)
アリョーシャは大地に口づけして力強く戦士のように立ち上がり、寺院を出て野に下って行くことになる。。。
でも、
アリョーシャ「僕は甘いものが好きです(きりり」
イワン「悪魔は甘いものが好きやでぇ〜www」
アリョーシャはヨブではない。ヨブはゾシマだ、って気もする。 >>226
ロシア正教の特殊性を考慮できていない
0点
無理やりいわゆる西方キリスト教の解釈でゆがめられたドストエフスキーへの片思いだな
捏造と言ってもいい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています