☆★☆★ドストエフスキー☆★☆★Part43 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>173
そのへんはゴーゴリの影響ではないだろうか。 さぁ撃ってみな、俺はいつでも真剣勝負!
一匹狼ハリーが破壊力抜群44オートマグを手に連続殺人の陰に潜む悪に挑む!
大人気シリーズ最大ヒットの第4弾(1983年/米) アリゾナの保安官補クーガンは犯人逮捕にかけては抜群の能力を持っていたが、
一匹狼のはみ出し者で女好き。そんな彼に手配犯がニューヨークで逮捕されたので、
アリゾナまで護送するよう命令が下る。田舎者まる出し、カウボーイスタイルで
NYへやってきたクーガンは、強引にリンガーマンを連れ出し空港へ向かうが、
仲間の待ち伏せに遭い逃げられてしまう。
失敗して一市民の立場となったクーガンは、執念でリンガーマンの跡を追う。 >>183
おれなりに解釈すると、ゾシマの遺体の話は
ドストの神秘主義の否定だったと思う
遺体が腐敗しないとか奇跡で信仰するな、
それはカトリックの大審問官の悪魔のやり方にな
ドストのキリスト関はカトリックの否定だから
神秘主義の否定が言いたかったと思うよ
遺体の腐敗=信仰足りないでは、まさに
大審問官の完全肯定で、アリョーシャが
だんだんリアリストに成長していく過程
の辻褄が合わなくなる ドストエフスキーが神秘主義者というのは違うと私も思う。
少なくともカラマーゾフの中で著者として神秘的なものを支持している様子はない。
ただ本当のリアリストは神秘主義を否定しないと言っているだけで。
カラマーゾフの中にあるロシア正教の聖人を説明するエピソードひとつとっても、
葬儀中に「信仰なきものは出でよ」と唱えたとたん聖人の遺体が外にけしとぶということが三度まであった。
という面白すぎるエピソードを持ち出すあたりで、もう、ね。
自分がその場にいたらこらえきれず爆笑しているよ。
ゾシマ長老の遺体が匂ったのは、人が心中最も大事にしているものをあざ笑う、
得体の知れない、ドストエフスキーのいうところの「ロシア的な」ユーモアにゾシマ長老も取り込まれてしまったということだと私は解釈している。
アリョーシャを含め長老を崇拝している人の心中を揺さぶるため、
信仰ある人の言葉でいうと「信仰心をためす」ための一幕だったんだろう。
旧約、新約の神は人間を試すものだからね。
ゾシマ長老の遺体の匂ったのは、神が人間を試すということをロシア的にしたものだったんだろうと、
すこし変な見方かもしれんが、私はそう思ってますな。 人間は奇跡を見て信仰する、権威を見て信仰
する、与えられて信仰する、そんなものは偽物
で、むしろ苦痛の中から自分の自由意志で信仰
するものだ。と言いたかったんだろうね
だからこそ、ゾシマの遺体の腐敗は意味がある
大審問官の本意ってのは、奇跡を行わないで本当
の自由を選んだキリストの賛美が本質だよ
そこがゾシマの腐敗に掛かっている
とおれは解釈した ドストの神秘主義に関しては、山城むつみの描いた復活を信じることと、信じられないことの間で引き裂かれるドスト像が面白かった >>188
本当リアリストは神秘主義を否定しない
と言ってるだけで
まさにこれだね
神秘にとらわれず、ただの現実に過ぎない
だから肯定でもなく否定もない
ドストの真意の一つはここだとおもってる とり方によっては、ゾシマ長老の死後にアリョーシャの見た夢は
復活後の来世のビジョンだったわけだから、神秘体験ともとれる
この夢がアリョーシャの信仰心を篤くし、エピローグの
「必ずよみがえるますとも。そこで再会して……」
という発言に至るわけだしね カラマ読み始めたけど登場人物のエネルギー凄いな
当たり前の事かもしれないがドストエフスキーは社会?宗教?人間心理?への興味がとてもあるんだな
バルザックなんかも風景の細かい描写がそんな所まで知ってるのかと思わせられるが
文豪の関心の持ちようには驚かされる 忙しくて、コメント書けない、ここのみんなのカキコを読んでる
早く返事つけたいなぁ! どうにもそういうふうに思えないんだよ。
ドストエフスキーの書く人物がすごい?
世の中、変な人いっぱいいるし、凄い人いますよね?スカッとジャパンに出てくる人と何が違うのかな? 現代の小説に登場する人物たちと比べると確かにエネルギーは違う気がする。
ひとりひとりが主人公になり得るというか。 自分で調べろ。
バカボンのパパやノビタ、ジャイアンとドストエフスキーの描く人物と、何か違うのかな。
小説の登場人物にエネルギーなんて感じないけど。 >>199
それは明確に違うな。
自分も漫画やアニメを好んで見るけど、
漫画やアニメの登場人物は小説と比較すると思想性がほとんどない。
わかりやすく書くとペラい。 のび太やジャイアンの生き様からある種の学びを得ることは可能だけど
彼らは神について語ったりしないし、自殺もしない。
ガンダムのシャアやアムロの物語も例えばシャアの演説なんかはいいフレーズはあるけど、やっぱり、全体的に見るとペラい。
それは商業アニメという表現形式をとっている以上、仕方のないことなんだけどね。
作品全体から伝わるメッセージ性でいえば、片隅とかズートピアとか去年は結構いい作品がたくさんあったけどね。 アニメとか漫画のキャラがドストのキャラみたく演説してたら尺が幾らあっても足りないしドストなんて読破するのに何日かかるのさ そうそう
アニメや漫画は表現形式上、小説と比べると大幅に台詞をカットしなければならないので
どうしても過度に誇張されたわかりやすい台詞しか言えないようになっている
これはアニメのシナリオを書いたときに教えてもらったことだけどね
かといって、基本的に止め絵なので身振りや表情で感情を示すのも難しい ちなみにいまのアニメーターは映画を見ないから人間の動きを描くのが下手くそになっていると富野監督は言っていた
これは作品の物語づくりにも当てはまっていると思う ドストエフスキーみたいな新聞小説家の愛読者どもがエラソーに 正直宗教語るにしても期待したほどじゃないんだよな
ゾシマ先生が腐っちゃった(泣)とかさ
ああいう聖人物語いろいろある気がするんだ
俺はドン・キホーテみたいなんに深さを感じる
でもドン・キホーテ持ち出さないといけないほどにはすごいと思ってる
イワンとアリョーシャの久々の再会での会話は面白いと思ってる
でもあれはテクニックだな そうだなついでに書こう
裁判の場面は退屈
ドストがバックにいるの見え見えではいわゆるポリフォニックとは程遠い でもこういう信仰の問題て人それぞれとしか言いようがないかもな
あれがクリティカルヒットしたんだと言われればそれまでというかこちらもその感じはわかると思うくらいには物語ってるし
ドストは卑怯だ! でもさ、ポリフォニーを感じられる小説ってドスト含めて数えられるほどしかなくないか?
いまではポリフォニーはありふれた手法だとはいっても、ドスト並に登場人物個々にエネルギーを感じられる作品はほとんどない ポリフォニーなんて
大学院をソッコーで中退する程度の文学かぶれが
どやったゼミ発表をするときに使う言葉 神(キリスト)の解釈が独特だからドストは
海外でうけたと言われている
もちろん物語の構成の才能があったとかは
もちろんだけど
では、なぜキリストとは馴染みのない日本
でこんなに支持があるのか? >>220
> では、なぜキリストとは馴染みのない日本
> でこんなに支持があるのか?
キリスト教とは関係なく、信心の問題に直結してるからである
信心の問題は民族国家によって厚薄があるのではなく、普遍的根源的なものである
日本人は宗教性が薄いと内外から思われ、無自覚の人も多いが、そうではない メンヘラが多いから
メンヘラの作品にはメンヘラにだけ琴線に触れるキーワードが秘められてる
ドストエフスキーもてんかん持ちで近いと思う 今、あおぞら文庫の中山省三郎訳を見ているんだが、これは第5篇プロとコントラまでしか なかったんだね
ゾシマ腐敗とアレクセイについて参照しようと思ったんだが マルメラードフの嫁は虚言癖だっけ?実際に良家の娘だったっけ? ここまでみていて、知識として知らない人もいるみたいだからふれておきたいのだが、2ちゃんだから極力端折るが本来なら本を一冊はしっかり読まないと理解できないところだから、興味がある人は自分で調べてほしい。
カラマーゾフはヨハネの福音書の引用から始まっている。
新約聖書には福音書が4つあり、それぞれ書かれた目的も時代背景も違う。ヨハネの福音書はなかでも最後に書かれた福音書で、その目的は……私は教徒ではないし、
正しく学んだわけではないから誤解を広めそうな部分があればわかる人に訂正してもらいたいが……ひとつには当時はびこっていたグノーシス主義に対するアンチテーゼだ。
グノーシス主義とは、数ある異端のなかでキリスト教会を最もおびやかしたもので、
霊と肉体というものを分けて考える二元論に大きな特徴がある。
そもそも今日びキリスト教についてちょっとでも調べた人間ならまず疑問に思うのが、キリストは神の子なのに、同時に人間でもあったという点だ。
現人神か?と多神教的に思ったりもするが、ユダヤ教的世界に神でもあり人でもあるという矛盾にたいする用意があるはずもない。
一神教では神は唯一絶対のもので、神が人間でもあるということを許容する素地はユダヤ教にはなかったということだ。
ついでにいうとユダヤ教の神に名前はない。神は唯一の存在であるから名前も必要ない、名づけることも、名を呼ぶことも不信心というわけだ。
イエスキリストも名前ではなく「救いの主」という意味の敬称で、名前がないという点で一神教的枠組から抜け出すことを避けている。
神の子という時点で一歩足が出てしまっているのにね、私個人の偏見をまじえていうと。
ともかくその矛盾点に、グノーシス主義は地上につかわされたキリストはあくまで霊的なものであり、肉体は霊の仮初の宿にすぎない、という回答を用意したわけだ。
簡単にいうと、本体は霊であり、肉体は抜け殻にすぎませんよ、ということだ。
これが当時の人々の心を掴んだ。逆にいうと当時のキリスト教会を脅かした。 それに対してヨハネの福音書は、肉体がキリストの仮初の宿にすぎないのではなく、キリストは肉体でもあり、霊でもある。神の子でもあり、人の子でもある。偉大な神の子であり、同時に私たちと同じ肉体をもって生まれている、
ここにこそイエスキリストの偉大な奇跡が現れていると説いている。
じゃあやっぱり現人神じゃん、と多神教的に思ったりする、くどいようだが。
まことにまことに汝らに告ぐ。一粒の麦、地に落ちて死なずば一つにてあらん。もし死なば多くの身を結ぶべし。
この一節は色々な解釈が可能なところで、しかし肉体の滅びを奇跡へと結びつけている点には重大な意味がある。 で……なんで長文でこんなことを書いているのかというと、
少なくとも信仰という点からカラマーゾフはヨハネ福音書についての予備知識なくしては語れないからだ。
宗教の話をしたくないから端折ってしまったが、ゾシマ長老の葬式の場面は、冒頭の一節と重ねて考えない手はあるまい。
霊でもあり私たちと同じように肉体もある。その肉体もなにも特別なものじゃない。だから腐る。
けれどともかく肉体は滅び、多くの実を結ぶだろう。
もっというと、霊でもあり肉体でもある、矛盾した二つのものが同時に有りうると説くヨハネ福音書の特徴は、カラマーゾフの色々な場面にもみられる。
賢明なイヴァンが道化であり豚同然の父親とこれ以上なく折り合っているし、
純朴で善良そのもののアリョーシャがドミトリイが13段まで上ったところの階段の一段目に足をかけてしまっている。
息子に謀略をかけることさえ平気でするヒョードルが、アリョーシャの善良さに打たれ心から信じきっている。
イヴァンにもカラマーゾフ的な愚劣を受け入れる素地があるのだろうし、アリョーシャも情欲と無縁ではない。
下司で豚同然で道化でなんで生まれてきたのかわからないというくらい言っても過言ではないヒョードルでさえ、
くもりなく善良なものに素直に心を打たれてしまう。
善か悪かではなく、善でもあり悪でもある。すべての登場人物にすべての要素が含まれている。
含まれているから別な人物の言葉に対立する立場にある人物から共鳴する音が聞こえてくる。
それがカラマーゾフならびドストエフスキーの著作の特別な点だ。ポリフォニーというけれど、私はこれこそ本当のシンフォニーだと思う。
二項対立ではなく、二項対立にたいするアンチテーゼとしての二項融和。
対比という観点でカラマーゾフを読むならそれを前提にしないといけないんじゃないかと思う。 長文ですまん。
宗教の話はわたしも特定の宗教を信仰しているのではないから黙っておこうかと思ったが、
ドストエフスキーの登場人物の特徴、宗教、カラマーゾフにおけるゾシマ長老の腐敗とここまで材料が出てくるとどうしてもいいたくなってね。
最近カラマーゾフをまた読んでいて、つい影響を受けて調子にのってしまった、堪忍な。
少なくともヨーロッパ圏でカラマーゾフが読めるくらいの年齢になった子は、ヨハネの福音書について理解がある。知識として知っておいたほうがいいとおもってな。 >>229
ドスト、カラマーゾフは特に、宗教的背景と
聖書とキリストを知らないとゾシマ腐敗のよ
うな物語の一出来事でさえも真意をくみとれ
ない、っていうのは賛成でそうおもう
一粒の麦の話が物語に掛かってるのも分かる
どこまで信仰を知識と知っているあなたに質
門させてね
カラマーゾフはヨブ記の比喩だと思ってる
アリョーシャがヨブのように最後まで信仰
し続ける物語、もし短絡的に一言にすれば
イワンからの大審問官のようにこの世の残虐を
きかされ父親殺しを見せられてもこの神の
作った世界を受け入れ、より信仰する物語
ヨブ記が最重要だと思うんだけど、どう思う? >>231
横から失礼
個人的な意見ですが、ヨブ記も重要だがその先に見えてくる
父殺しの後の「大地崇拝」は何を意味するのかというところまでたどり着きたい
アリョーシャの大地への口づけと一粒の麦の関連性などです 大審問官より、
「キリストは奇跡を起こさず自由を得た。でも人は自由なんていらなくてパン(奇蹟)を求める」(イワン談)
ゾシマが死んで腐臭がしたことで、アリョーシャはそれをどう解釈していいか分かんなくなるじゃん?
それはきっと、心のどっかで奇蹟を求めてたってことで、
その後、僧が聖書を朗読している声をボーッと聞きつつ寝て(ヨハネ福音書2章にあるガリラヤのカナのとこ)
夢の中でゾシマが一本のネギの話やら婚姻の話やらを持ちだすじゃん?
“ゾシマから良い香”ってのは悪魔の誘惑で、それを求めてた自分だ居るってのとを夢の中のゾシマに教わるんじゃね?
それで、良い香(奇蹟)を退け、腐臭を受け入れることで、イエスやゾシマの教えに沿うことができる。
「自分の仕事を始めるがよい」(ゾシマ談)
アリョーシャは大地に口づけして力強く戦士のように立ち上がり、寺院を出て野に下って行くことになる。。。
でも、
アリョーシャ「僕は甘いものが好きです(きりり」
イワン「悪魔は甘いものが好きやでぇ〜www」
アリョーシャはヨブではない。ヨブはゾシマだ、って気もする。 >>226
ロシア正教の特殊性を考慮できていない
0点
無理やりいわゆる西方キリスト教の解釈でゆがめられたドストエフスキーへの片思いだな
捏造と言ってもいい >>235
2chはこれだから……。
批判するならせめて自分の論旨を明確にしないといけないよ。
相手の意見の否定するだけなら野次と一緒です。
ヨブ記については、私も多少関連書籍には目を通しているから、重要かといえば勿論重要ということで同意するが、
ただヨハネの福音書にかぎっては自分の語れるところなので、こうして意見しました。
それに、正直私としてはヨブ記からみるカラマーゾフよりも、ヨハネ福音書からみるカラマーゾフのほうによりひかれるんだよね。
片思いか。なるほどそこは正しいかもしれない。 >>236
だからお前の貧弱なヨハネ福音書理解をドストエフスキーは同じように読んでいたの?
当時ドストエフスキーが解釈したであろうヨハネ福音書解釈とお前の西方解釈は同じだと思うの?
けっこう独りよがりの解釈で「他人の解釈はキリスト教理解してない!」と延々さえずってる馬鹿にしか見えないんだよね
お前結構ずっと同じこと言ってるでしょう
頭悪いんだろうなぁと思う >>237
なるほど。
私の意見があなたのいう西方キリスト教的に正しい解釈だとは私自身思っていないが、
そこまでいうならドストエフスキーの解釈というのを教示ねがえますか?
そこまでやらない野次のままでおわりますよ。 >>238
>正しい解釈だとは私自身思っていない
で、正しくもない自分の妄想レベルの解釈で翻訳者含めて罵倒している馬鹿がいる、という指摘だね
妄想を書きつらねている、という自覚がないようなので注進しておく
おかしいと思わないのかな?自分でただしいと思えない解釈が、なぜかドストエフスキーの根幹を捕らえていると信じているのは
オカルト解釈を持ち出して、自分はドストエフスキーのキリスト解釈と共振しているんだ〜というのが結局お前の書き込みなのね
で、他人の解釈は「共振していない」と主張しているんだけど、根拠は皆無なんだな
このあたりを指して、本当に頭悪いんだろう、という指摘をしておく まず、他人の解釈を否定した覚えはないよ。ヨハネの福音書にふれなければ信仰という点からカラマーゾフを語ることはできない、といったけども。
悪いが心当たりがない。あなたのいう他人の解釈を否定した、というのはこの部分でいいんだろうか。
妄想、オカルトと罵るのは結構だが、具体的にどう間違っているのか意見しないとなにもうまないよ。
本の受け売りでも構わないのでちゃんと話してほしい。
ドストエフスキーを読んで夢中になって読み進むなら、誰もが振り回されるもので、あなたの言葉をかりるに、みなそれなりに「共振」しているわけで。
他者の「共振」というのを否定する目的でヨハネの福音書について書いたわけじゃないよ。
まあ、ドストエフスキーを読んでからなにか書くと、たいてい夢中になってしまうものだ。
あなたも多少なり経験があるだろう。つい独善的に言い切ってしまったところは確かにある。
その点が原因なら、悪かったね、寛容な気持ちで勘弁してくれ。 >>240
>カラマーゾフはヨハネ福音書についての予備知識なくしては語れないからだ。
お前自分のレス読み返してみろよ
ものすごく醜い「他人の解釈を否定」だらけだぞ
自覚が本当にないなら、まじめに自分のレスを読み返して、他人に読ませるだけの価値がある内容か確認してみろ
「自分のヨハネ解釈」(海外における小学生レベルの知識)は他人に押し付けるだけの価値があるか?
「ドストエフスキー読むと独りよがりになっちゃうよね」というお前の弁明は、お前のレスの醜さを正当化できるのかね 少なくとも信仰という点からカラマーゾフはヨハネ福音書についての予備知識なくしては語れないからだ。 <少なくとも信仰という点からカラマーゾフはヨハネ福音書についての予備知識なくしては語れないからだ。
うん、引用みたが一応配慮して書いてるじゃないか、私。
人の意見を都合よく切り取ってつかうのはやめてくれ。
これ以上はあなたなりの解釈を提示してくれたら返事するよ。
野次のかけあいは本意じゃない。 >>243
お前の「他人の解釈を否定」を延々列挙しろと言うのか?
お目絵の中の「否定」と他人とのずれを指摘しなくてはわからない、というのが本気で言っているのなら
要するに馬鹿だなぁ、という結論に行きつかざるを得ない
長文書く前にまじめに自分のレス読み直してみなさい
結論、自分は正しい、と主張する馬鹿が延々スレに居座っているというだけだが
心に響くものがなければ、延々こいつの独りよがりのレスが続くのだろうが >>243
もう放っておきなよ。絡む事自体が目的の御仁でしょうに。 トリップをつけたり外したりしている人かもね
文体が似ているだけで確証なんざありませんが ヨブ記の話を最初に持ち出したものですが
それにしても深く読んで自分の解釈を持ってる人
がいるんだね 自分の解釈を持てるってのは
面白い レス読み返してて気が付いた事もある
対立は認識のズレを知るのに否めないのかも
だけど第三者としては面白く読ませてもらった
ありがとう
あと聖書しらずにカラマーゾフは読めない、って
のは強く同意だな
余談ですが、トランプみるとフョードルを連想
するのはオレだけかな
妻が何人もいて恥知らずで女好き金大好きの道化 >>236の人だと思うけど、オレは
一粒の麦の意味をよく理解していないんだ
アリョーシャが俗世にでて芽が出るように
再生する、って解釈かい ヨハネの比喩とす
るならば
一つの犠牲で多くを助ける、と考えたならば
アリョーシャはなんの犠牲を払ったのか
たしかこの後に、自分の命を愛する者は、
それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、
それを保って永遠の命に至る
って続くでしょ
ここがどういう風にアリョーシャに掛かってくる
のか。がスッキリしないんだ
無実でも罪を背負ったドミートリーとするならば
理解出来る ヨハネ書が読解に必須だなんてまったく思わないけどね
人に自分の解釈を開陳するのはいいけど、
それ以前の問題としてまず改行を覚えよう おまえらカラマーゾフばっか語るけど罪と罰とか宗教云々してない作品でも面白いし亀山訳で普段読書しない人間まで読んで売り上げて本当に宗教の知識ないと楽しめないのかね お言葉ですが罪と罰なんてバリバリの宗教的
作品だと思う
ラザロの復活をどう読むか
ラスコーリニコフは犯罪を犯したわけではない
罪を冒したから罰を求めた
最後まで我意を通せない自分を恥じはしたけど
何一つ世界の摂理は踏み外さなかった
地下室なら宗教関係ないってのは分かるけどね
あと、2chだし携帯だから改行云々は見逃しとくれ 悪霊の再読終わった。カラマ読んでいた人は終わったかな。
新潮、岩波と読んだので次は亀山訳いってみようかな。 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。」(ヨハネによる福音書12:24)
ふつーーーうの解釈だけど、
これはイエスが磔で死ぬことを悟ったときの言葉で、自身を小さな一粒の麦にたとえてる。
種のままだと芽も出ないし実もつけないけど、種じゃなくなることで(これを死と言ってる)実になるってことやで?
おれらの感覚だと種は生きててそれが発芽し実をつけるってイメージだけど、ここでは種が死ぬことで新たなもの(実)になるって意味。
ひらたく言うと、
「わたしが死ぬことによって残った大勢が生きる」って意味やで〜。
他にも
「イエスの死によって残った人々の罪が清算される」みたいな解釈とかあるけどなぁ・・・
でも、アリョーシャが言いたいことは他にもあると思うけどなぁ・・・ >>249
ちょっとだけ補足を。
いや、↑の255さんと意見がちがうわけではないが、すこしだけヨハネ福音書にたいして愛のあることをいい足しておこうかとw
↑の仰る通り、解釈をいろいろみかえることはできるが、磔刑をひかえたイエスキリストの表白であることをまず考えてみるほうがいいでしょうね。
そのうえで、解釈をする前に、この一節を書いたヨハネが、今も昔もキリスト教徒が、いま繁栄し、これからも繁栄しようとしているキリスト教会の様子と、
磔刑を前に決意をあらたにしているイエスキリストを、この一節を唱えながら思い浮かべずにいないということにも考えを巡らせてもらいたい。
この場合勿論キリストが一粒の種であり、キリスト教徒達が結ばれた多くの実です。
このキリストの磔刑がなければ、パウロを含めた使徒たちの目覚めもなく、彼らの活動によって築かれたキリスト教のあらゆる礎もなく、世界中の多くのキリスト教徒たちもなかった。
ドストエフスキーでさえそういう感激なしにこの一節に触れてはいないのではないかと思うわけです。それが解釈に関わるかどうかはとはまた別に、ね。
教徒ではない私たちは、福音書の一節一節が彼らの心の糧になっているということをなかなか実感しづらいもので、私がヨハネ福音書を持ち出したのもそこに思いを巡らせてみては、と、なるべく客観的な立場からいいたかったので。 >>256
翻訳のちがいといえば、大審問官のなかに空気はレモンと月桂樹のように匂っていた、とあるが、
これがたったいま読み返している米川正夫訳だとレモンとかつら、と書いてあるんですよね。かつらの部分はコンマつきで。
このまえ青空でよんだ中山省三郎訳だと月桂樹になってるんだよね。
ちょっとだけロシア語かんでいたから原語を確認したらやはり月桂樹だった。
気になるから月桂樹と桂のちがいまで調べてしまったが、やはり全く別種の木だった。
なぜ米川正夫はかつらと書いたんだろう。
本筋とはまったく関係のないことだがきになってしまった。 ↑は、レモンと月桂樹の匂いがした、ね。比喩でもなんでもなく。失礼 イエスだけに依存するものよくないけど、病気や癒しのことなら
データがあるよ。要するに主 人 のことだけど。 当たり前に。 >>255
なるほど
>私が死ぬことで大勢が生きる
これがシックリきたよ
これを踏まえるとゾシマの死(腐敗する普通の死)
で神秘主義にかたよった当時の奇跡主義の教会を
密かに批判したかったのかも知れないと思った
奇跡ばかりに目をやるな、みたいな
いずれドストの心理を覗きたい >>257
> この場合勿論キリストが一粒の種であり、キリスト教徒達が結ばれた多くの実です。
やはりこれが一粒の麦の話だね
オレはドストの初期作品からカラマーゾフに至る
まで一通り読んできたけど(再読はないけど)、
初期の社会主義に傾向のあった作品から、どういう
心理でキリスト教主義に移ったのかに興味がある
やはりドスト信者として心理過程を知りたい
キリスト教は地上から天を目指すが、
共産主義は天を地上に引きずり下ろす、と言った
悪霊の一文が記憶に残っている 大審問官が言っていたように、「奇蹟を求めるってのが大衆心理」で、イエスが荒野の修行中に悪魔の3つの誘惑に打ち勝ったように、
「アリョーシャや!奇蹟なんてもとめちゃダメやでぇ〜」(ゾシマ談)
ってのがゾシマの身をたてた教え(腐臭がする死)、ってことに繋がるわなぁ〜
そのことにアリョーシャが気づけた!ってことやでぇ〜(ここでアリョーシャ覚醒!)
ところでドストエフスキーは神秘家をバカにしてたわけじゃない。
当時のロシアっていろんなキリスト教宗派があって、たとえば分離派(ラスコーリニキ)や鞭身派や去勢派(スメルジャコフがそうだって指摘あるね)とかあった。
で、そういう人達の中にやっぱ聖人って言っていいような人も沢山いてそういう人達もちゃんと見てる。(フェラポント神父とか)
あと“奇蹟”ってのは神秘派だけじゃない。
その中にはドストエフスキーの批判した、“形骸化したカトリック”ってのもあるで! >>263
おれは大きな思い違いをしていたのかも知れない
確かに形骸化されらカトリックを嫌悪しているのは
読み取れるが、 >>263
おれは大きな思い違いをしていたのかも知れない
確かに形骸化されらカトリックを嫌悪しているのは
読み取れるが、いう通りで神秘主義そのものを
否定はしていないね
罪と罰ソーニャ、白痴ムイシュキン、カラマーゾフ
はスメルジャチシャヤみたいな癲癇と神がかり
なキャラクターがよくでてくる
そして重要な役割を担う
白痴に関しては主人公だし
癲癇と神がかりに合理性から神秘主義に移る
心の過程のヒントがある気がしてならない >>253
> 悪霊の再読終わった。カラマ読んでいた人は終わったかな。
> 新潮、岩波と読んだので次は亀山訳いってみようかな。
そんな、いとも簡単に読み終わるってすごいな
カラマ読むために準備中
青空のテキストをディスプレイで
最大拡大して、かつソファからディスプレイまでの距離を最大に取るため、家具の配置まで変えた
つべで朗読音声 用意しようとも
−−−−−−−−−
ああ、あきらめて 書籍で読むか!? ドストの神秘主義に対するヒントを見つけたと思う
イワンと悪魔との会話で悪魔が、
トマスはキリストが復活したのを見たから
信仰したのではない、以前より信仰したいと
願っていたから信仰したのだ、云々、信仰に
物的証拠が何になる、云々、
「オレは現実主義だが唯物論者ではない」
奇跡や見えない世界も唯の現実と受け入れる
この一文をドストの神秘主義に対する
ヒントに見えるんだけど、どうかな?
勝手な話だが、ドスト神秘主義に今ハマっていて
なにかヒントがあったら教えてください
カラマーゾフでなくてもなんでも >>268
山城むつみ読めば
おとなしい女の論考はほぼドストの神秘主義について書いてあるよ 解説書って言うのかな
そういうの読んだ事ないんだけど
せっかくなので挑戦してみる ありがと 683 名前:Trader@Live! [sage] :2017/04/13(木) 10:50:57.19 ID:gMrRR7lb
朝起きたらロスカット!
2657万円が無くなっとる!
俺は夢だと思って寝た
今起きたが、やはり2657万円が無い
どうすりゃええの?
ネタじゃねえよ
けど、これってネタだよな? 683 名前:Trader@Live! [sage] :2017/04/13(木) 10:50:57.19 ID:gMrRR7lb
ユーロドル
朝起きたらロスカット!
2657万円が無くなっとる!
俺は夢だと思って寝た
今起きたが、やはり2657万円が無い
どうすりゃええの?
ネタじゃねえよ
けど、これってネタだよな? ストラビンスキーという名前の馬はいたけど
ドストエフスキーはさすがにいない アンディ・ガルシア の演技力が話題になることはあまりない >>268
> 奇跡や見えない世界も唯の現実と受け入れる
「奇跡や見えない世界」即「唯の現実」ということでは、ないのでは?
第一編 第5長老より 筆者自身による解説
>真のレアリストは、もし彼が不信者であるとすれば、常に奇跡を信じない力と心構えを持っているのである。
そして、もし奇跡が否定すべからざる事実となって現われた場合には、彼は奇跡を許容するよりも、むしろ自分の感覚を信じまいとする。
>けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、きわめて自然な事実でありながら、今まで知られずにいた事実として許容するのである。
すなわちそれは「信仰が奇跡を起こす」という自然界に存在しているファクトのことである >信仰が奇跡から生まれるのでなくて、信仰から奇跡が生ずるのである。もしひとたびレアリストが信仰をいだいたならば、まさしくその現実主義を通じて、必ず奇跡をも許容せざるを得ないのである。
>使徒トマスも、見ないうちは信じないと言い張ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。
これは、奇跡が彼を信じさせたのだろうか? おそらくそうではなくて、彼がただ信じたいと望んだればこそ、信ずることができたのであろう。たぶん彼が『見ないうちは信じない』と頑張ったときすでに、自己の存在の奥底では、完全に信じていたのかもしれない。
トマスの、この話は、聖書を読んだことがないので、わからない部分もあるが「彼がただ信じたいと望んだればこそ、信ずることができた」という部分がコアだとおもう。
キリストの復活を「見る」という奇跡は、「彼がただ信じたいと望んだればこそ」おきたと
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以上、やっと この部分まで読めて、「あ、ここ2ちゃんの彼が書いてたな?」と想起し、カキコに来た次第です それと、この章の前のところで、フョードルが地獄について語るところで
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もしわしを鉤にかけて引きずりこまないとしたら、そのときはどうだろうな、
いったい、この世のどこに、真理があるというんだ?
Il faudrait les inventer(ぜひとも作り出さにゃならんのだ)
ことさらにその鉤をわしのために、わし一人のためにな、なぜと言って、とてもおまえにはわかるまいが、アリョーシャ、わしは実になんとも言えん恥知らずだからな!……」
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深い信仰への関心と、哲学的な思考をしており、フョードルは俗物ではないな、と感じた。そして自分の人生を責めていること
16歳の時初めて読んだときも印象に残りましたが、年をとってから「自分の人生を責める部分」「後悔する部分」について 共感を感じた
フョードルのこうした部分が、巨大な息子たちへと受け継がれたんでしょうか トルストイに人道主義を読んだり、ドストエフスキーにキリスト教主義を読んだりしているのは、私達の呑気な文化環境がさせた業で、二人を裸にしてみれば、無政府主義的革命家の顔が現れる
と言った人がいたな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています