>>249
 ちょっとだけ補足を。
 いや、↑の255さんと意見がちがうわけではないが、すこしだけヨハネ福音書にたいして愛のあることをいい足しておこうかとw
 ↑の仰る通り、解釈をいろいろみかえることはできるが、磔刑をひかえたイエスキリストの表白であることをまず考えてみるほうがいいでしょうね。
 そのうえで、解釈をする前に、この一節を書いたヨハネが、今も昔もキリスト教徒が、いま繁栄し、これからも繁栄しようとしているキリスト教会の様子と、
磔刑を前に決意をあらたにしているイエスキリストを、この一節を唱えながら思い浮かべずにいないということにも考えを巡らせてもらいたい。
 この場合勿論キリストが一粒の種であり、キリスト教徒達が結ばれた多くの実です。
 このキリストの磔刑がなければ、パウロを含めた使徒たちの目覚めもなく、彼らの活動によって築かれたキリスト教のあらゆる礎もなく、世界中の多くのキリスト教徒たちもなかった。

 ドストエフスキーでさえそういう感激なしにこの一節に触れてはいないのではないかと思うわけです。それが解釈に関わるかどうかはとはまた別に、ね。
 教徒ではない私たちは、福音書の一節一節が彼らの心の糧になっているということをなかなか実感しづらいもので、私がヨハネ福音書を持ち出したのもそこに思いを巡らせてみては、と、なるべく客観的な立場からいいたかったので。