前にもちょっと書いたが、そして偉そうにいってすまないが

ドストを哲学的に捉えようとすると、違う側面へ落ちるというか、本質をとらまえないような気がするんだ

たとえばカトリックか正教か?という相対的にどちらがより正しいか?というのはドスト自身も論及してたが、しかしそんなことではないとおもうんだ

キルケゴールやニーチェと、ドストはまったく次元が異なると、勝手におれは思っている、格段に重大な存在は後者と考える

むしろシェークスピアやダンテ、ゲーテ、トルストイと比較すべきと。

近代の哲学者が考えた抽象論と、古代からの信仰では、その重みはまったく違う。

ドストの登場人物たちも、抽象的な、将棋のコマのような存在には見えない

もうそうなら、俺たちはカラマや罪と罰や白痴を、こんなに愛好するだろうか?

そこに描かれている思考、信仰の姿、具体的振る舞い、いろいろのエピソード、それらは悉く、 頭で作り出された思考実験のようなものではなく

作者の体験と実際の見聞が書かれていると信ずる。だからこそおれらの心を動かすと

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論理が破綻していてすまん、論理的文章書くのは不得意なんだ