☆★☆★ドストエフスキー☆★☆★Part43 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>714
文学上と言ったのは、>>696で君深読みする必要はないと言ったからさ
大審問官は深読み出来る文学であって、深読みしてはいけない歴史書のようなものとは違う、という意味で言ったんだ
深読みの先にゾシマ談話があり最後の悪魔との会話に繋がる 現世で奇跡は起きないと断言してる宗教もあれば
ペンテコステみたいに聖霊体験を推してる宗教もあるけど
俺の立場としては、一貫して
奇跡は現世で起こらないという主張のもとに言ってるから
そのへんで認識の乖離があるかもね 旧約聖書・創世記の記述によれば、宇宙も、地球も、生物も、すべては、神が7日間(7日目は休みだから実質6日間)で創造されたのである。
地球創造、生命誕生とほぼ同時期に生まれた最初の人類・アダムとイブから、聖書の記述通りに彼らの子孫の年齢を合算すれば、宇宙の歴史はだいたい6000年くらいである。
恐竜誕生が、今から250,000,000年前だの、
地球誕生が、今から4,600,000,000年前だのそんな馬鹿馬鹿しい数字が正しいわけがないのだ。
歴史学者や考古学者や古生物学者やダーウィン進化論はみんな嘘をついている
全ての生物(当然、恐竜も含む)は、神が創造された。その数日後に人類も創造されている。よって、恐竜と人類は同じ時代を生きていたわけであり、
彼らは日常的に出会っていたのだ。だから人間が、恐竜に騎乗したり、恐竜の赤ちゃんを抱きかかえたことは事実である。
エジプト文明だの、黄河文明だの、長江文明だの、メソポタミア文明だの、インダス文明だの、
人間がサルやチンパンジーから枝分かれしただの、ホモ・サピエンス誕生前に隕石で恐竜が滅亡しただの、
詐偽と誤魔化しとインチキと嘘とペテンのカタマリである歴史学や考古学や生物学を、学校で子供たちに教えてはならない。
子供の教育は教会で聖書に基づいて行われるべきである!!!!!!!!
・・・そう主張している宗派の一つ・セブンスデー・アドベンチスト教会の熱心な信者であるベン・カーソン医師は、妊娠中絶反対と共に、進化論否定を明言している。
彼は2016年アメリカ大統領選挙の2015年11月時点での共和党候補支持率第1位である。
そしてドナルド・トランプ大統領よりアメリカ合衆国住宅都市開発長官への就任を要請され受諾している。 過疎ってきているので一つ問いを述べる
時間があれば是非
ドストエフスキーは魂の不滅にこだわった
それは正教からくるのか、独自の思想だったのかについては、詳しい人に任せよう
すこしズレるが、トルストイもまた魂にこだわったロシアの文学者であると共に、哲学的側面もあった
確か人生論では、人間は生まれる前から存在しているし死んでも存在する神から愛された永遠がある、と言っている 聖書の引用では、死までの生命について、
「この世で自分の魂を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」ヨハネによる福音書を参照している
自分以上に他者を愛してこそ自己の幸福を得る、と結論を示唆した
これは自分の命にこだわるな、という意味だったとも受け取っている 賛否はあるだろう
ドストエフスキーもまた、魂の不滅を肯定している作品の文章に出会う 神か人生かを問いてるのだろう
ここのドストエフスキー読者は、永遠を信じるんだろうか? 自分は、信じたいと願っているけど、他者を自分より優先するまでは至れそうにないよ >>726
君のカキコは、最高の内容だ
>永遠を信じるんだろうか?
もちろん信じるさ さっき ID:ndQ9YC9U 君が
「人は幸せになる為に生まれた訳ではない! 勘違いするな、甘えん坊ども!」と叫んだが、それは絶対に違う
人は幸せになる為に生まれてきた。では どうすれば幸せになれるのか?
それは永遠の生命を信じることだ。「永遠の生命を信じうる」ためには、何を為すか?
それはゾシマの教説のなかにあったね。僕が長々と引用してきた。
キリスト教と関係なく、ぜったいに観念論でもない(と少なくとも僕は信ずる) 「どうしたら? どういう風にいたしたらよろしゅうございましょうか?」
「それは実践の愛を体験することによってですじゃ、つとめて自分の隣人を進んで怠りなく愛するようにしてごらんなされ。
その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も確信されるようになりますじゃ。
もし隣人に対する愛が完全な自己犠牲に到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、あなたの心に忍び入ることはできません。
これはもう実験をへた正確な方法じゃでな」 抽象的な「人間愛」や「人類愛」なら簡単ですが、現実の個々の人間への慈愛はむずかしい。
>自分は、信じたいと願っているけど、他者を自分より優先するまでは至れそうにないよ
ホフラコーバ夫人の告白と同じですね
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「実践の愛? それがまた問題でございます。
しかもたいへんな問題でございます! 長老様、
わたくしはときどき、自分が持っているいっさいのものを
投げすて、リーザも見すてて、看護婦にでもなろうかと
空想するくらい、人類を愛しているのでございます。
じっとこう眼をつぶって空想しておりますと、
わたくしは自分の中に押えることのできない力を
感じるのでございます。どんな傷口も、どんな膿《うみ》
だらけの腫瘍《しゅよう》も、わたくしを脅かすことは
できないでしょう。わたくしは自分の手で傷所を
包帯したり洗ったりして、苦しめる人々の看護婦になるでしょう。膿だらけの傷口を接吻することもできるくらいです……」
「ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたいへん結構なことじゃ。いや、いや、そのうちひょっくりと、何か本当によいことをなされるときもありましょうわい」 >>726
> 「この世で自分の魂を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」ヨハネによる福音書を参照している
> 自分以上に他者を愛してこそ自己の幸福を得る、と結論を示唆した
> これは自分の命にこだわるな、という意味だったとも受け取っている
>他者を自分より優先するまでは至れそうにないよ
−−−−−−−−−
大胆に書きますが、ゾシマが、またドストが書きたいのは、むしろ次のようなことではないでしょうか?
「他者を自分より優先する」というよりも、よく世間で言われるところの「自分も他人も大切に」
具体的な身近な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にするという戦いではないかと
あまりにも長い引用なので気が引けるが、さっきの続きをコピペしてもいいだろうか? 「けれど、わたくし、そういう生活に長く
しんぼうできるでございましょうか?」と、
夫人はほとんど無我夢中の熱烈な調子でことばを続けた。
略
−−−−−−−−−−−−−−−
と夫人は激白する。それに対するゾシマの答えのなかに
大いなる具体的な智慧が
−−−−−−−−−−−−−−−−−
◎「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまり独立した人格としての個々別々の人間を愛することが少なくなる」
−−−−−−−−−
「それはあるひとりの医者がわしに話したのとそっくりそのままじゃ、もっともだいぶ以前の話ですがな」と長老が言った。
「それはもうかなりな年配の、紛れもなく賢い人であったが、
その人があなたと同じようなことを、露骨に打ち明けたことがあります。
もっとも、それは冗談半分ではあったが、痛ましい冗談でしたじゃ。 その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、
自分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛すること
が深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。
空想の中では人類への奉仕ということについて、
むしろ奇怪なほどの想念に達して、もしどうかして急に
必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねない
ほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日と
いっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。
相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、
すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。
それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者を
すら憎みだしてしまうことができる。
ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風邪を引いていて、
ひっきりなしに鼻汁《はな》をかむからといって憎らしがる。
つまりわたしは、他人がちょっとでも自分に触れると、たちまち
その人の敵となるのだ。その代わり、個々の人間に対する憎悪が
深くなるに従って、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈に
なってくる』と、こういう話なのじゃ」
−−−−−−
長大なドストの文を 2chの規則に合わせるの たとえコピペでも大変だね! 僕がほんとうに引用したいのは、このあとなんだけど。
今夜はここまでに。そうとう時間使ったからね
ようするにここまでは「凡夫ってそうゆうもんだよね〜」ってことじゃないか?
僕たちは肉親にさえ、こんなんなんだ! いかにいわんや、他人を愛せるわけがない。
であるからこそ「戦い」なんだ。「修行」なんだ。「革命」なんだ!
ゾシマはこのあと「人生の学校」と呼んだね。ひとつの学問だと。
力点はどこにあるかというと、抽象的に観念的に、空想の愛はダメだということだよね
では、大切な同志諸君。また明日! >>734
人類を愛すると個人は嫌いになり個人を愛すると人類がおろそかになるのは、人間がそう創られてると感じた その肉体的な条件から解放されるためにには、霊感的な魂の存在を認めることによる
それに個人より全体を賛美するのは簡単だし、それを声高く叫ぶものは偽善的で嫌悪するよね
ここはまさに現実的だ
>「他者を自分より優先する」というよりも、よく世間で言われるところの「自分も他人も大切に」
具体的な身近な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にするという戦いではないかと
同感だし、>>733の文章はコピペされるまで、ヨハネによる福音書の紐解きになると気がつかなかったよ
自分を愛せないものは他者も愛せないというが、まさに一番の隣人とは自分なのかもしれない >>734
もうすこしシンプルに言いかえることができますよ。
つまり、愛は実践されなければならないということです。
それこそキリストの教えの核心にあるものですね。
知力や体力にも限界がありますが、個々の愛にも限界があることはなかなか意識されないことです。
愛を観念的に考えることも大事なことですが、そのために自分の愛の限界に気付かずにかえって自分を追い込んでしまうのはつまらないことですね。 「それは実践の愛を体験することによってですじゃ、
つとめて自分の隣人を進んで怠りなく愛するようにしてごらんなされ。
その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も
確信されるようになりますじゃ。
もし隣人に対する愛が完全な自己犠牲に到達したら、
その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、
あなたの心に忍び入ることはできません。
これはもう実験をへた正確な方法じゃでな」 点線で囲んだ部分は、青春時代の僕が緑のアンダーラインをしてる。
キリスト教であれ他宗派であれ、その哲学的側面にフォーカスすれば、ぜんぜん違う。
ぼくが信仰する宗派では「具体的な身近な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にする」ということが最重要視される。
当時のぼくにとって、ゾシマの言葉はストンと この胸に落ちてきた。100パーセントその通りと感じられた。思春期のぼくが 日々現実に感じている実感と 100パーセント符合していた!
今、年老いたぼくは青春時代の感激を忘失すること年久しい。しかしその種は決して消えない。
「実践の愛」「不死」言葉は多少違っても、僕等が抱いていた理想と、毛筋ほども変わらない。
そうだ...たしかに非常に困難だ...他人にかかわっていく信仰実践は。
君が書くように「知力や体力にも限界が」、でもそこにしか歓喜はない!
これもまた確かだ。 ごめん、「点線で囲んだ部分」と書いても、なんのことか わかんないよね
規制に引っかかって、うまくカキコ表現できなかった >>738
ドストエフスキーやカラマーゾフとは離れますが、
「具体的な身近な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にする」という命題は卑近ですが結婚を想起させます。
最も身近な一人というと必然的にそういう発想になりますよね。
その一人を幸福にできなかったときは、その宗派ではどのように考えますか?
私自身そういう経験が重なっていたので気になりました。
一連の意見については全く意義はありません。 心から愛する時、自己と肉体は邪魔になる、そういったのは以外と中世の芸術家に多かったらしい
思考の正反対の側も同じ結論とは諧謔だね
もっとも彼らも表現をつきつめるために思考したわけだが
エックハルトは肉体を魂の牢獄と表現した
(この人については神秘主義過ぎて、受け入れられないが) 女子中学生になりすまして、男子中学生(当時)と裸の写真を交換し、生徒の体を触ったとして群馬県警前橋東署は9日、
準強制わいせつ容疑で、同県富岡市黒川の私立大学生、高木遥生(はるき)容疑者(20)を逮捕した。
調べに対し容疑を認め「男の子の体が触りたかった」と供述している。
逮捕容疑は2月4日、無料通信アプリで女子中学生になりすまして、県中部に住む当時中学3年生の男子と裸の写真を交換し、
「警察や学校にばらす」などと脅迫。同月11日午前9時から10時5分ごろにかけて、
当時高木容疑者が住んでいた前橋市内のアパートで男子生徒の体を触った疑い。
男子生徒から警察に相談があり発覚した。同署が余罪を調べている。 戒律にふれない。女体という。を意識出来てればいいんじゃないの
。 >>743
人間が肉体の奴隷であることは
肉体が魂の牢獄であるといっても
間違いじゃあない
別に変なことは言ってない >>742
自分を愛する人間は他者を愛さないからね
愛とは自己否定か
同意するけどなんか悲しく思うのは間違いなのか >>748
物は言いようなので
無限の議論ができます 自己否定って表現は流石に行き過ぎじゃないか?
言いたい事はわかるけれど、否定まで行けば根本的なところで足の引っ張り合いにしかならんと思うわ おそらく人類上で、生きる目的を幸福追求とした人間は、最多になるのだろう
まず一般論を前提にすれば、幸福とは自己の利益の優先となり、まず自分が満たされる事を要求する
欲望の達成が早ければ早いほど実現したと言える
ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟で、人間は自己利益の追求の果ては最後の2人になるまで殺し合うい、そしてまだその2人で対立すると
何処までいっても、僕が言ってるのは、肉体からくる動物的欲望についてに過ぎない
ならば、魂が求めるものは何なのか?
愛と信仰、他は思いつかない >>740
> ドストエフスキーやカラマーゾフとは離れますが、
> 「具体的な身近な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福にする」という命題は卑近ですが結婚を想起させます。
カッコいいことばかり書いてきましたが、まずおれという人間は人生の失敗者です。
しかも、あなたが言うところの、身近な「一人」だってさえ、守れなかった。家族や親など。
自分の表現がまずかった部分もあるが、あの表現は、妻とかに限りません。
家族に限らない友人や、自分につながっている人を、大切にするということで、しかも「大切にする」とは、日頃誠実に接し、その人にとってプラスになることを考慮するわけだが、最大の贈り物は、この信仰へ導くことです。
> その一人を幸福にできなかったときは、その宗派ではどのように考えますか?
人生には恐ろしい難問がやまずみですよね。自分も後悔することばかり あります。
しかし、「幸福にできなかった」と過去形で語ることを やめたくおもう。
未来において必ず変わるんだと。それに若いときは、いろいろの悩みを(宿命と言いかえてもいい)到底乗り越えられないものと考え、自分一人で抱え込みがちだが、
20年30年たったとき、そんなものはちっぽけなものであった!と、こうなるんです。
中島みゆきの歌にあるみたいな。
たとえば自分の子供のことで悩んでいたとする。親の私には支えきれない、彼を育てきれない。そういう部分を自分の代わりに組織が、他の誰かが担当してくれる。
いっしょに考慮してくれる。問題はすぐには解決しない。そんな簡易な問題はそもそも誰も悩まない。
いかなる宗教でも、そういう人間のつながりが大事でないのか。 >>734
ほんとうに引用したかったのってどこ?
時間あったらよろしく
あと点線で囲んだ文学てあなたのですか?
違ったらごめん
これもちょい気になった ----------------------
「それは実践の愛を体験することによってですじゃ、
----------------------
つとめて自分の隣人を進んで怠りなく愛するようにしてごらんなされ。
----------------------
その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も
----------------------
確信されるようになりますじゃ。
もし隣人に対する愛が完全な自己犠牲に到達したら、
その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、
あなたの心に忍び入ることはできません。
--------------------------
これはもう実験をへた正確な方法じゃでな」
----------------------------
*************************************************
点線で囲んだ部分 >>754
「それは実践の愛を体験することによってですじゃ、
つとめて自分の隣人を進んで怠りなく愛するようにしてごらんなされ。
その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も
確信されるようになりますじゃ。
もし隣人に対する愛が完全な自己犠牲に到達したら、
その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も、
あなたの心に忍び入ることはできません。
これはもう実験をへた正確な方法じゃで」
これってゾシマがだれにいったセリフ? >>756
「信仰の薄い貴婦人」のところ、ホフラコーウ゛に言ったセリフ
なかなか続きのカキコできない。おれ米川訳にこだわりがあって、米川訳紙のテキストと中山訳電子テキストを対照しつつ、手入力で引用してる(全部でない、途中でしんどくなる)
なんか方法ないか、ちょっと研究してる。少しでも楽にやれる方法 >>757
そうだったんだ それは大変だね
お疲れー >>365
俺が印象に残ってる文は
両手をポケットに突っこみ、頬をふくらまして、口でプフ、プフに似たなんとも奇妙な音をだしはじめた。かな >>760
そこはおれもダイスキ。似てるね、感覚が
古い米川訳で もっと奇妙な訳文だけど ロシアにおける三位一体をトロイカという
三頭体制のことなどではない
しかし、ロシアでは三位一体がキリスト教から逸脱し続ける
旧約聖書に三位一体はあるか?ロシアではあることになってしまう
第四位の位格はあるか?サンタクロースが四人目だ
ロシアでは神は死ぬ伝統がある、ニーチェよりもはるか前から役に立たない神は殺していい
そして人は神になりうる伝統がある
神が死んだら誰が神になるのか?サンタクロースが神になる
ロシアの聖職者は大真面目に信じていた
大公が、偶像を破壊しキリスト教を布教し始めたのはたった1000年前にすぎない
キリストが偶像を破棄するよりも1000年遅く、ムスリムよりも400年、偶像崇拝で教会が分裂するよりも300年遅い
半径50kmに一人の司祭しかいない、その司祭はキリストとサンタクロースの区別もつかぬ
トルストイの召使が、キリストのイコンを裏返しにして、理由を尋ねた主人に「言うことを聞いてくれないから罰を与えている」と言った
ロシアの異教的キリスト教では神は人になるし、サンタクロースと雷神とエホバは混同され、言うことを聞かなければ罰してもいい
17世紀にはキリストは7人現れ、自称キリストの妻は自分のことをマリアだと言った
農民は聖書など読めないが、そもそも司祭も読むことができぬ
教えはイコンによって伝えられ、聖人のイコンとスラヴの神の区別すらされない
飲酒して説教することが勧められた時代
ペストが流行れば怠け者だ、燃やしてもいい、という程度の信仰
ドストエフスキーはペテルブルグの作家であり、都市の作家、とよく言われる
彼は異教的キリスト教を、知識人の、魔女狩りの視点から抑圧し、こぼれだした異教要素をちりばめている
ナボコフはドストエフスキーはスラヴ主義者のごたまぜの神秘主義の作家に過ぎない、と書いた
ニーチェは神となる人をロシアの文脈から離れて称揚してしまった
キリストのイコンは奇跡をほとんど起こさない、マリアのイコンは戦場に降臨し、ロシアを何度も救っている
このマリアは神の母ではなく、大地母神モコシであり、聖女パラスケヴァだった
このような異教を切り捨てようとした200年後に書かれた罪と罰
その主人公の名は切り捨てられた分離派ラスコールに由来するラスコーリニコフ
ソ連崩壊後の分離派の研究 パレオロガスのルネッサンス
ギリシャの美術を漂白し、作り上げた汎神教的イコン
図象学はシンボルによって、リアリズムではなく像に名前を与える
サンタクロースは、白いひげなどなくてもヨハネとキリストのあいだに座する
図というイメージによって宗教が布教されるとき、言葉で布教されるときと異なる特性を持つ
言葉による布教こそは教会の成立、体系の成立であり、東方正教がロゴスによる布教に抵抗し続けた
アトスの山には図書館はない
イスラム教にも、ローマ教会に相当する組織がないように、そこには言葉による布教はない
言葉による布教をロシアで開始する時代は明確に確定できる
ラテン語がいつロシアに侵入するのか
ギリシア語で典礼を行えなくなったのはいつからなのか
第三のローマという名のために失ったものは何か ロシアでは神は気が向けばペストを流行らせ、天罰をくだす
農業に向いていない地で農業以外の生きる道がないロシアでは迷信は避けられない
マリアはスラブの大地母紳と一緒くたにされ、聖女と一緒くたにされ、祈る対象となる
神よりもマリアが天の国では強く、罰を与える神の右手を抑えつける力があると信仰された
そこではイエスキリストの影は薄い
あるのはただ再生する人として、であり、だからこそキリストの生まれ変わりだけが大量生産される
しかしキリストは何もできないとされることが典型的な表れとなる
無力にして、ただ生まれ変わるだけの存在
大地はやせ衰え、それでも不幸を起こさないことを祈れば可能にする
フィン人とタタール人の混血をなぜ政府は抑圧したのか
最初から、罰を与える神と生まれ変わるだけのキリストが役に立たないロシアで、どうすればキリスト教を布教できるのか
ロシアの聖職者は嘆き続け、酒におぼれ続ける 凄まじい教養です。ぼくにとって まったく初めて聞くことばかり。
自分のロシアに関する知識は、カラマ等の「翻訳文上そのまま、そこに書いてあることのみ」「著作の表面に書いてあること」に限定される。論評の類はほとんど読んだことない。
書きながら思ったけど、ドストの凄いのは、19世紀ロシアの、俺たちの生活と遺伝的に遠い形質を持つ人々の物語であるにもかかわらず、
なぜこんなにも直截に、俺たちの魂を撃ち抜くのか? 但 次のようにも考える
国内のたとえばs価学会などに対する認識でさえ、外部からの 近似的にすら理解した意見を見たことがない
あなたのあたかも戦前の青年のごとき教養主義には感銘するが、その点には疑問を持つ。 >>765
確かショーペンハウアーは本についてこう語った
(覚えてる限りだけど)
誰かを知りたい時、その人と話すよりその者の書いた本を読んだ方が理解できるし好感が持てる
実際話せば鼻持ちならないかもしれない
ドストエフスキーが論評でどう見られているか、どんな環境で生きてきて、何主義だと言われようと、彼の作品で本当の彼の持っていた思想に直面している
あとは自分が本とどう会話するかに尽きると思ってる
会話以上に本は語るのだから 「けれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合どうしたらよろしいのでしょう? それでは絶望のほかないのでございましょうか?」
「そのようなことはありませんじゃ。なぜというて、あなたがこのことについて、そのように苦しみなさる……それ一つだけでも たくさんじゃでな。
できうるだけのことをされれば、それだけのむくいがあります。
あなたがそれほど深う真剣に自分を知ることができた以上、あなたはもう、多くのことを行なったわけになりますのじゃ!
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がもし、今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒《ほ》めてもらいたいがためとすれば、もちろん、あなたは実践的な愛の方面で、いかなる成果にも到達されませんぞ。
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すべてが空想にとどまって、一生は幻のごとくにひらめき過ぎるばかりじゃ。........以下略 たとえ幸福にまで至らぬとしても、いつでも自分はよい道に立っておるということを覚えておって、その道から踏みはずさぬようにされたがよい。
自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを見つめなされ。
それから他人にたいするものにせよ、自分にたいするものにせよ、気むずかしさというものは慎むべきことですぞ、あなたの心中にあってきたなく思われるものは、あなたがそれに気づいたということ一つで、すでに浄化されておりますでな。
-------------------
恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ――もっとも恐怖はすべての偽りの結果じゃが。
-------------------
また愛の獲得について、けっして自分の狭量を恐れなさるな。それからまたその際に生じた自分の良からぬ行為をも、同様恐れることはありません。...............
−−−−−−−−−
ここに書いてある至言は、注意深く読み暗唱し、自分に言い聞かせたものだ。。。
今回タイプしてみて、
「恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ――もっとも恐怖はすべての偽りの結果じゃが。」
の部分が新たに印象に残った。「恐怖を避ける」とは「勇気ある人生を生き抜く」ということだと思う。では「すべての偽りの結果」とは?
我々は人生のあらゆる場面において「恐怖を抱く」ではないか?
その際、どういう誤り、どういう偽りによって恐怖するのか? 700頁中まだ50頁しかきとらん!
カキコするときしかテキストに目をとおさんからだ!! 書くと読んだ時とは違う客観視ができるよね
>我々は人生のあらゆる場面において「恐怖を抱く」ではないか?
その際、どういう誤り、どういう偽りによって恐怖するのか?
これの体現はまさにフョードルだと思う
対人するとどうしても自分のプライドが出てしまう
虚栄心や自己顕示欲が人と会うとどうしても消えない
その為に偽り正直になれず道化のようになる
自分も含めまた戒めるべきだが 罪と罰やっと読み終えたけど何か思ってたのと違って困惑してる
主人公全然反省しとらんかったやん!
あらすじに書いてあったリザヴェータを殺して良心の呵責が云々ってな話じゃなかったのですっごくモヤモヤしてる
ただ小心だっただけやん… せやでぇ〜
『罪と罰』ってラスコーリニコフがソーニャによって反省したって話じゃないでぇ〜
“文学”だから、なんかイイ事書いてある!って思い込んでたら横っ面張られちまうよなwww 罪と罰は文学上の汚辱だよ。カラマーゾフの方がうんといいのにさあ。
世界文学の古典として。 >>774
言われることが納得いきません!!
そりゃ、カラマーゾフはすばらしいです。だからといって「罪と罰が文学上の汚辱」とは。
なぜそうかんがえるのかワケを聞かせてくださいッッ ラスコリーニコフみたいなことしてもいいですか?
貧困層です 白痴がつまらなすぎて挫折した
基本的に小説がつまらない >>778
ムイシュキンが3姉妹の顔について語るところまで読みましたか?
そして彼のスイス時代の思い出やもろもろの見聞と思索について語るところまで?
白痴は真実に驚異的な小説だとおもいます。
私の空想ですが、登山家というものは、たとえばエベレストを制覇することができるならば死をも厭わない。
白痴は純白に輝くエベレストです。そこには極限の美と死が描かれている。
ムイシュキンの言葉は、徹頭徹尾ドストの実体験に由来しています。
絶対に必読の作品である(といいながら僕も第一編までしか読んでない)いっしょに
がんばろうよ!! >>779
三姉妹が母親と午後ティー飲んで、その後男が地団駄踏んでるとこくらいまでみた
地団駄シーンがクソすぎてやめた >>780
あぁ!! あり得ん、うそみてぇな話だ!
ちょうど そっからだよ! そこから怒涛の、驚異的な、夢のごとき物語が始まるんだよ
読む気がしてからでいいから、今はいいから、おれの言葉覚えておいてね ネタバレになるから内容は控えるけど、白痴は最後の本当にラストの物語ためにある
僕は下巻のイポリートの弁明あたりから面白くなったけどね >>772
それでいいと思うよ 読めてる
ラスコリニコフは最後まで思想をかえずに自首する
彼の思想では人殺しは罪にならない、もちろん罰もない そこまで分かってて戸惑ってる小心者で吹っ切れなく良心の呵責なんてものと思想で最後まで対立する
罪ってなに? 罰ってなに? っていう大きなテーゼ投げられた感じがする 罪と罰については、どなたかが「ラスコーリニコフは自分の代わりに殺人を冒したのだ」とさけんだ
わたしは、この言葉はいかなる論評よりも感銘を受けた
というのは当時のわたしは、こんな言葉で考えたわけではないが、「どうしようもなく感情移入」したという点でまったく同じだった
そうであるから、ラスコーリニコフが「小心者」などとは到底考えることができない 未成年、最初の100頁で挫折
散漫としていて盛り上がりなし >>786
> 未成年100頁...!
こんな時代に?電車乗っても誰一人新聞すら読まない こんな時代に?
おれなんかほとんどネットばかりして...あなたを尊敬します
あの時代だって、おれが紅顔のお兄ちゃんだった80年だいだって 未成年なんかよむひとは一人もいなかった
あなたは古代ギリシャの隠者より稀な人間だ 『未成年』は自分のもっとも好きなドスト作品。
若者だった1980年代に読破した。
狂人が出てこない点で、親しみを持てる。
父と子で同じ女を愛してしまう展開も良い。 >>785
僕も見たけど、心情が出ててよかったよね
小心者とは言い過ぎだけどなんと表現するべきか
スヴィドリガイロフの反対は…多感かな 『罪と罰』(英訳 Crime and Punishment )
罪って「Crime」やでぇ〜「sin」じゃないでぇ〜(ちなみに“七つの大罪”は「Seven deadly sins」こっちの罪はsinね
『白痴』
ムイシュキンは美しいでもいいんだけど、誰一人救えていないからな!
このこと忘れちゃあかんでぇ〜 >>791
> 『罪と罰』(英訳 Crime and Punishment )
> 罪って「Crime」やでぇ〜「sin」じゃないでぇ〜(ちなみに“七つの大罪”は「Seven deadly sins」こっちの罪はsinね
なるほど、犯罪と刑罰という感じか? こういう知識は役に立つなァ 罪は、自分が非凡人でないのにもかかわらず犯した殺人
罰は、自分が非凡人ではなかったということの苦悩
と俺は解釈した >>795
ということは非凡人は人を殺してもいいというひとりよがりな考えは変わっていない、と言う解釈かね
ニュースで「傘や自転車を盗る人間は良心の呵責がない、その言い訳」と言うのを見たが、そのままだな >>796
なるほどそういうことでしたか。罪と罰をあなたが嫌うのは... これについては深いテーマのため、よく思索してから書く >>784
>ラスコリニコフは最後まで思想をかえずに自首する
>彼の思想では人殺しは罪にならない、もちろん罰もない
これは彼の思想では人殺しはsinにならないということで、crimeにならないことではない、ということ
彼は自分の人殺しが犯罪crimeであることは知っている、だからこそ隠蔽をする
crimeというのは社会が功利のために作り上げた法体系であり、「凡人が犯罪を起こさないために」必要なものである
なぜなら凡人による犯罪は社会全体の幸福を減らしてしまうからであり、非凡人は社会全体の幸福を増幅させるものである
この思想は、社会全体の厚生を「幸福関数」として捉える
スピノザ思想は善悪は存在しない、「関係を破壊するものを悪い」「関係を増進するものを良い」とこの二つしかない、と考えた
絶対的な善悪が存在しない「世界に尺度が存在しない」ならば、「良い」犯罪行為は存在する
しかしこの思想は間違っている、とひとまず断言してみる
ドストエフスキーはこの思想を、小説内で直接に否定していないからといって、彼が本当にそう考えていたと捉える必然性はない
(そんなことを彼が信じていたとは思わない、とも付け加えてみる)
この小説は神が存在していると信じられないからsinが存在せず、犯罪と刑罰しか存在しない、という冒頭の主人公の思想をそのまま正当化するものではない
にもかかわらず、罪sinが追いかけてくる
法律の外にいる主権者・決定者(シュミット的例外者)がかつてなく身近になった時代でもあり、しかしそれは否定する作家がドストエフスキーのたくさんの要素
共苦する、という特質は否定できない
ジェレミー・ベンサムは最大多数の幸福、ではなく「最少の苦痛と最大の幸福」「あらゆる生命体は同じ苦痛を覚える性質を持つ」という原則を持っていた
ラスコーリニコフは自分が知っていると思っていたベンサムの「苦痛」を自覚していく
ベンサムは決してラスコリニコフの犯罪を許さない
同じく、スピノザも許さない、許すと思われるのはベンサマイトとスピノツィストという、彼らから「共苦」と「神」を引っぺがした独りよがりの思想だけだ、と思う 社会が功利のために作り上げた法体系これをイギリスで講じていたのがブラックストーン
18世紀イギリスにおいて神童ベンサムが師事し、徹底的に批判した法学者である
ブラックストーンはイギリスの慣習法を体系化するという矛盾した偉業を達成した
しかし、ベンサムはそれが弥縫策に過ぎないこと、権力者=立法者の恣意のままに作られたものであることを攻撃した
?罪刑法定主義、同じ犯罪には同じ刑罰という原則のもとに、犯罪をこと細かく分類していく
ここには「強欲なもの」と「無垢なもの」への犯罪は同じものと扱われる
ラスコリニコフにおいてはこの二つは異なるものであり、だからこそ「殺そうと思っていなかった」殺人を悔いる
犯罪者が非凡人であれば免責される、という思想は被犯罪者が強欲であればより免責される、ということでもある
しかし完璧に非凡人である自分が完璧に強欲である被害者を殺す、という必然性は偶然性により完璧に強欲でない(無罪の・知恵の身を食べていない)被害者を殺す
自分が凡人であるから、この無罪な人を殺したことを悔やむのか?
自ら有罪と判定して、偶然無罪を殺したことを無能と悔やむのか?
ベンサムによれば、犯罪者も被害者も平等である
ラスコリニコフは恣意のままに振る舞う立法者であり、その立法「非凡人は場合によって犯罪を犯しても罪ではない」を読者が信じ込む必要はない
似非ベンサム主義者はベンサムの「苦痛を減らす事」の重大性に直面させられる
それは神の不在などと言う些末な問題には無関係に不変のことでもある 曲面・凸面というconvexという言葉は徹底的にラスコリニコフ思想に抗う
天才とは滑らかでなく突出したものでなくてはならない
しかし突出とは多くの連続を見えなくすることによってしか存在しない
作品とは連続する思考の編集された、連続性を検閲することによって特異性を強調するものである
このような思考は確かに近代に特異的である、と言いうるのは前近代における散発的試みを見ない振りをすることによってである
この見ない振りを、拾い上げて特異性を解消させようとする行為は情報の増大によってはるかに容易になる
氾濫する情報にあってはconvexならざる個性なるものは既存の情報の編集にあるなどという神話が生まれる
しかしそれも個性なるものに毒された、天才の凡才の中への繰り込みに過ぎない
いかに情報の海から適切な抑圧を加えて有用な価値ある情報を捏造するか
有用・価値は一定の尺度を必要とする概念であることは捨ててはいけない
売上という尺度以外に共通する尺度を失った時に、にもかかわらず抑圧の原理だけを維持することは可能なのか
自己を正当化する尺度を失った世界において、自己を正当化する立法者=英雄だけがそびえ立つ
ラスコリニコフは挫折した英雄にすぎないのか
シベリア行の後の書かれないラスコリニコフは凡人として滑らかに、conventionに従って生きるだけの存在なのか
アリョーシャという、他人の意見conventionを受け入れ続ける滑らかな男のように、革命家となる道はないのか
作者の死のたった二年後の皇帝暗殺を断絶としてみる読解は正しいとは思わない
それは行く者がconvex・conventionにそってしか動かず、飛躍は常に経由点の忘却・無視によってしか見出されないことを忘却・無視している
神の死とはこのような飛躍の否定であるにもかかわらず >>801
> これは彼の思想では人殺しはsinにならないということで、crimeにならないことではない、ということ
> 彼は自分の人殺しが犯罪crimeであることは知っている、だからこそ隠蔽をする
ラスコの思想ではそうなのであって、彼の偽り彼の欺瞞においてはそうなのであって、
俺達の魂の内部にある虫けらが そう囁くのであって<かるがゆえに俺達は万引きしたり、
不倫したり、そのほかいっさい他人を踏み台にしたりする>現実は違う。
そしてそのことをラスコは頭脳ではなく生命で熟知している。
> ドストエフスキーはこの思想を、小説内で直接に否定していないからといって、彼が本当にそう考えていたと捉える必然性はない
> にもかかわらず、罪sinが追いかけてくる
芸術作品としての罪と罰によって否定している。殺人後の<罪sinが追いかけてくる>様の迫真性はどうだ?
言語道断前代未聞の天才的表現である。
> 共苦する、という特質は否定できない
そうだ。ラスコは他人の苦しみにいつも共苦・同苦するではないか。
これは、ひとりラスコにかぎらず、おれたち全員そうなのだ!
宅間守でさえ、そうであったと、俺は空想する。もちろんこの俺も。いかなる虫けらであっても。
『虫けらどもに劣情を!』
おれはつまりその虫けらなんだ。これは特別におれのことを言ったものなんだよ。われわれカラマゾフの一族はみんなそういう人間なんだ。おまえのような天使の中にもその虫けらが巣くっていて、おまえの血の中に嵐《あらし》を巻き起こすんだ。
... ここで突然おれはカラマを引用して、情欲の一語を<悪事>に置換してみる。
ほかでもない、おまえひとりだけに話したかったからだ。なぜって、そうしなくっちゃならないからよ。
おまえという人間が必要だからよ、なぜって、明日にも雲の上から飛びおりるからよ、明日にもおれの生活が終わると同時に、また新しく始まるからだよ。 >法律の外にいる主権者・決定者(シュミット的例外者)がかつてなく身近になった時代でもあり
とは、どういうことだい? >神の不在などと言う些末な問題には無関係に不変のことでもある
ここが特に謎めいている。<神の不在>がどうして<些末な問題>なんだい? いま、君のカキコを理解せんと「ラスコリニコフ アリョーシャ」でググってみたよ。
関係ないけど以下の文が目に飛び込んできた
「アリョーシャの像はムイシキン以上にぼやけていて、生気がない。ドミートリーや
イワンのイメージがあまりに鮮烈のため...」
ひとの感性は様々なので、あたりまえなのだが、おれにはもうまったくバカげた論文に見える、この一行のみによって。
「アリョーシャの像はぼやけていて、生気がない」?この論者の眼がくらんでいるのでないのか?
おれにはイワンこそ好きになれない... 脱線しまくった! だっておまえの文難しすぎるもん!! なにせ実践の愛は空想の愛に比べると、冷酷で恐ろしいものじゃでな。
空想の愛は速やかに功のなることを渇望し、人に見られることを欲する。
実際、なかでも極端なのは、一刻の猶予もなくそれが成就して、舞台の上で行われるように、みなに感心してもらいたい、それがためには命を投げ出しても惜しゅうない、というほどになってしまう。
しかるに、実践の愛にいたっては、つまり労働と忍耐じゃ。
ある種の人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。
しかし、あらかじめ言うておきますがな、
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どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がしてぞっとするとき、そういう時あなたは忽然と目的に到達せられる。
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そして絶えずあなたを愛し、ひそかにあなたを導かれた神の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認められるのじゃ。
御免なされ、もうこれ以上あなたとお話しはできませぬ。待っておる人がありますでな。さようなら」
夫人は泣いていた。
「リーズを、リーズを祝福してくださいまし、祝福して!」不意に彼女は飛び上がった。
「お嬢さんは愛を受ける値打ちがありませんじゃ。お嬢さんが初めからしまいまでふざけておられたのを、わしはちゃんと知っておりますぞ」と長老は冗談まじりに言った。
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すばらしいですね。最後にジョークをかますところもいい。 >>801
ベンサムの被害者なき犯罪は罪にならないという功利主義を極端にすればラスコリニコフになるんじゃないかな
犯罪の定義は相対的で、神の罪は絶対的になる
罪と罰を犯罪に限って読めば、「それでも」ナポレオンのように何人殺そうと英雄になる存在は在る
やはり彼は思想の中で何の罪も負わなくなる
ラザロの復活もポイントにいれるならば、絶対的に罪に裁かれ愛を知る事で罰を認識していく物語になる
もっとも英語の表題通りにcrimeを鵜呑みにすればだけど(罪と罰の罪は犯罪でないと言ってるのではなく、sinも含んでると思うよ、ってこと) >>809
> ベンサムの被害者なき犯罪は罪にならないという功利主義を極端にすればラスコリニコフになるんじゃないかな
くだらないコメントを入れていく。許してくんろ。
まずベンサムの思想を知らないから「被害者なき犯罪は罪にならない」の一文にコメントできない
ただ、彼が「神童ベンサム」と書いているのだから、偉大な思想家なのだろう。
> 犯罪の定義は相対的で、神の罪は絶対的になる
前者「犯罪の定義」については「権力者=立法者の恣意のままに作られたもの」仮に「国法」と呼ぼう。
後者「神の罪」については、各宗教各信仰においていろいろやかましい定義があるであろうが、その本質的属性は
「絶対性」であることは論を待たない。ここで重要なのは、それは信仰に直結していることであって、信仰がなければ絶対もない。ゆえにカラマーゾフの兄弟で >人類から不死の信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころに
枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けていくために必要な、
あらゆる生命力を失ってしまう。のみならず、その場合に不道徳というものは
全然なくなって、どんなことをしても許される、人肉嗜食《アンスロポファジイ》さえ
許されるようになるというのです。
まだ、そればかりではなく、現在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない
各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なものは全然正反対になって、
悪行と言い得るほどの利己主義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態に
おいては避けることのできない、最も合理的なしかも高尚な行為としてすら認められるだろう、
という断定をもって結論とされたのであります。
「この世の生活を続けていくために必要な、あらゆる生命力を失ってしまう」の一文は特に大事だ。
信仰がなければ まず第一に「生命力を失う」のだ。
>皆さん、このような逆説から推して、わが愛すべき奇人にして逆説家たるイワン・フョードロヴィッチの唱道され、かつ唱道せんとしておられる自余のすべての議論は、想像するにかたくないではありませんか」
俗物からイワンは攻撃される。考えれば罪と罰のラスコは「信仰薄きものの末路を」芸術的筆致で描ききったものでないか。そしてラスコが再生していく物語であると。
ここまで書いて自分はおもった。「俗物」とは我自身でないか?そして我らの2ちゃんを見ても、ありとあらゆるスレにおいて、こうした俗物に満ち満ちているではないかと! >「ちょっと」と突然ドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ、「聞き違えのないように伺っておきますが、『無神論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでなく、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!』と、そういうのですか?」
カラマからたまたまこの位置まで切り取った。偶然である。このあとは読んでいない。ドミートリイは なぜ?ここで叫んだのだろう? それについては、おれの「カラマーゾフの兄弟」の味読がこの位置まで到達したら、そんとき考えよう。今は考えられないから。
> もっとも英語の表題通りにcrimeを鵜呑みにすればだけど(罪と罰の罪は犯罪でないと言ってるのではなく、sinも含んでると思うよ、ってこと)
そうだね。同じく罰も。 >>811
>俗物からイワンは攻撃される。考えれば罪と罰のラスコは「信仰薄きものの末路を」芸術的筆致で描ききったものでないか。そしてラスコが再生していく物語であると。
>ここまで書いて自分はおもった。「俗物」とは我自身でないか?そして我らの2ちゃんを見ても、ありとあらゆるスレにおいて、こうした俗物に満ち満ちているではないかと!
同感でした、それは我なりでしたw >ベンサムの被害者なき犯罪は罪にならないという功利主義
これは全く違う
例えば国王の肖像画を踏んだとしよう
肖像画は痛いという知覚をもつだろうか
同性愛を考えよう
被害者はどこにいるのか
かつて神から国を治めることを許可された国王の肖像画を踏むことは王国を踏むことであった
かつて神の秩序を侵犯する同性愛行為は大罪であった
このような神のいる慣習法を徹底的に否定したのがベンサム
強欲な老婆を殺す事のどこが「被害者がいない」のか?
強欲な老婆には被害者となる人権を認めていない、というのがラスコリニコフの理論
繰り返すが強欲な老婆だろうと無垢なるリザヴェタだろうと苦痛を感じる能力においては平等であるとするのがベンサム
神のいない世界で、苦痛を感じる能力の平等性によって「人道的な」秩序を目指すのがベンサム
ロシア語の罪にあたる単語は徹底的に法学的な用語として使われる言葉である
ただ、外国語において的確に当てはまる言葉が乏しい
transgressionという単語を当てた訳者もいたが、原義は「踏み越えること」宗教的な含意がないわけではない
ただあえて法学上で使われる単語になっており、crimeと訳されることが多い
重要なのは、神の秩序がなくなったところで「踏み越える」とは何を踏み越えるのか
連続するところには踏み越える線がない、しかしすでに踏み越えてしまっていること
つねに踏み越えた線は後から自覚される
前もって罪と罰を提示するのが罪刑法定主義であり、なにをすればどのように罰せられるかを可視化するのがベンサム法学
悲劇においては常に「罪」は前もって提示されず、後から自覚される(罰を予想して罪を犯す人間は、小物なのだ)
そこには苦痛の最小化によって一元化しようとするねがいが存在する
同性愛を擁護し、動物愛護を唱え、奴隷解放を唱え、しかしその根拠を決して神という「論理の誤謬」に頼らなかったベンサムはドストエフスキーに至極近い
「悪霊」や「罪と罰」の主人公に溶接されることが多いにも関わらず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています