>ベンサムの被害者なき犯罪は罪にならないという功利主義

これは全く違う
例えば国王の肖像画を踏んだとしよう
肖像画は痛いという知覚をもつだろうか
同性愛を考えよう
被害者はどこにいるのか
かつて神から国を治めることを許可された国王の肖像画を踏むことは王国を踏むことであった
かつて神の秩序を侵犯する同性愛行為は大罪であった
このような神のいる慣習法を徹底的に否定したのがベンサム
強欲な老婆を殺す事のどこが「被害者がいない」のか?
強欲な老婆には被害者となる人権を認めていない、というのがラスコリニコフの理論
繰り返すが強欲な老婆だろうと無垢なるリザヴェタだろうと苦痛を感じる能力においては平等であるとするのがベンサム
神のいない世界で、苦痛を感じる能力の平等性によって「人道的な」秩序を目指すのがベンサム

ロシア語の罪にあたる単語は徹底的に法学的な用語として使われる言葉である
ただ、外国語において的確に当てはまる言葉が乏しい
transgressionという単語を当てた訳者もいたが、原義は「踏み越えること」宗教的な含意がないわけではない
ただあえて法学上で使われる単語になっており、crimeと訳されることが多い

重要なのは、神の秩序がなくなったところで「踏み越える」とは何を踏み越えるのか
連続するところには踏み越える線がない、しかしすでに踏み越えてしまっていること
つねに踏み越えた線は後から自覚される
前もって罪と罰を提示するのが罪刑法定主義であり、なにをすればどのように罰せられるかを可視化するのがベンサム法学
悲劇においては常に「罪」は前もって提示されず、後から自覚される(罰を予想して罪を犯す人間は、小物なのだ)
そこには苦痛の最小化によって一元化しようとするねがいが存在する
同性愛を擁護し、動物愛護を唱え、奴隷解放を唱え、しかしその根拠を決して神という「論理の誤謬」に頼らなかったベンサムはドストエフスキーに至極近い
「悪霊」や「罪と罰」の主人公に溶接されることが多いにも関わらず