ゾシマ長老の病状は重く、会合のあったときには自分の死期を明らかに悟っていた様子でした。
それに庵の中に人を集めたのも僧院では例のないことだったはず、ただ楽しみのためだけではなく、
会合についてゾシマ長老に思惑があったということは色々なところで示唆されています。
彼にはどんな目的があるのか、という会話もそれを補強してますね、小説的にいうと。

ゾシマ長老がミーチャの足元にぬかづいたのもミーチャの運命を暗示しているようですが、
後編の内容からさかのぼるとして、ミーチャが無実の罪を受け、その後イヴァンの手引きで脱出するだけなら、
ゾシマ長老がこうした行動にでる理由としてはすこし足りないという気がする。
ドストエフスキーにはこれを書いたときすでに続編の構想があったのかもしれない。


「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 
聖書におけるパンというのは人間の糧そのものです。
フェラポントのいうパンとは衣食住の食の部分に固執してはいかんということでしょう。
キリストはその比喩を昇華させて、自分こそ命のパンだと教示しました。
だから、礼拝ではワインとパンがでてきますね。