>>981
果たして問いにある「前提」になるかはわからないけど、アリョーシャの愛については一つの傾向がある
それは常に聞き手であった、ということ
有名な大審問官もイワンの聞き手であり、ゾシマからは説話の聞き手、グルーシェニカやラキーチンやパイーシーやもちろんフョードルとミーチャも
聞き手に徹して、相手を肯定してあげている
セリフを注意して読むと、アリョーシャは結構相手の言った事を復唱して、自分の言葉で言い直してるんだ(フョードルとの会話は特にそう)
「相手を肯定する事が、アリョーシャの愛」ではないだろうか?
だから、キリスト教徒と言うだけで、侵害するキリスト教徒なら愛とは呼ばないだろうね