<アリョーシャ

 まず、アリョーシャが常に聞き手になっていることは、小説の中でアリョーシャがそういう役割を担っていることも差し引いて考えるほうがいいでしょうね。
 イヴァンもそうでしたし、カーチャも、グルーシェンカも、コーリャもまたそうで、カラマーゾフの多くの登場人物がアリョーシャと話をすることを求めました。

 おそらく、違うことを仰りたいのだと思いますが、ただ相手を肯定するだけの人はつまらないものです。
 アリョーシャは相手の問題を自分のことのように考えることができたし、場合によってはあえて相手の意見を否定して核心に迫ろうとします。
 カーチャとのやりとりがそうですね。現代ふうに言えば、アリョーシャにはそれだけの大きな器があったということでしょう。
 最初の章を見れば幼いころから誰であれアリョーシャを愛さないものはなかった、そういう説明があったかと。
 小説としてはありがちな設定にみえるので見逃してしまいがちですが、本編をとおしてみれば、実際アリョーシャが大きなギフトを与えられて生まれた人だとわかります。

 依然由木康さんのヨハネの福音書解説で見たのですが、キリストは神の子であり、また人間でもあった。
 では人間であるところのイエスキリストの他の人とはなにが大きく違ったのか、というのを語っていましたね。
 人間イエスキリストが決定的に人と違っていたのは、弁舌の才でも、独自の思想でも、旧約の言葉を昇華するアイデアでもなく、
 あらゆるものを愛することができた、という一点です。
 人間の愛には限界があります。しかしイエスキリストの愛には限界がなかった。
 キリストは普段は控えめに、隣人を自分自身のように愛しなさいと教示しましたが、自身は自らの敵さえ自分以上に愛することができた。

 アリョーシャがそれほどの偉人だといいたいのではなく、たくさんのものを愛しうるということは、とても大きなギフトだと言いたいのです。
 誰からも愛されるものは、誰をも愛せる人だけです。