大江健三郎や中上健次って近代文学でどれ位凄いの? [無断転載禁止]©2ch.net
蓮實重彦「最低でも大江健三郎と中上健次は三島由紀夫より格上」 今全く読まれてないからな
批評界の流行作家って感じだろ 商業界の流行作家が批評界の流行作家に劣ってるとでも?
じゃあ日本文学最強は村上春樹な訳? 劣るとかじゃなくて好みの問題
小説は読まれなきゃ話にならないと思うけど じゃあ日本文学最強は村上春樹で漱石や鴎外は後塵を拝すレベルって事でok? 漱石は読まれてるでしょ
鴎外も読まれてる
そもそも最強ってなに?
定義してくれ そもそも文学は腐ってもれっきとした学問な訳でな
セールスは全く関係ないのよ
細木数子の本がどれだけ売れても学術的に価値がないようにね 文学というか書かれたものを研究することは伝統的に学門だけど文学(何を意味してるのかは知らんが)自体がれっきとした学門ってどういうこと? ?日本語で喋ってくれ
とりあえず文学を研究するに当たってその評価にセールスが関係無い事への反問になってないが セールスが関係ないのはその通りだとする
そうすると大江とか中上は例えば村上と比較するとどうなんの?
研究対象としての価値に違いが出るの? 横からだけど後藤明生や小島信夫みたいな、国書刊行会や講談社文芸文庫でしか売れないような作家の方が重要なんじゃないの? フリーワードで論文検索してみたら
三島由紀夫3237
漱石3140
村上春樹1584
大江1532
中上814
だった
参考程度だけど三島由紀夫が一番多い
だからなにって話だが中上は他の作家と比較して論じたい作家ではないのは分かる
一番売れてないだろうしな >>15
小島信夫は大好きだけど(どういう意味かは知らないけど)重要な作家と言うには準備が必要だと思う
後藤明生もそう
如何に書いたかみたいな話はもうマニアックすぎる気がする 「別れる理由」「寓話」「菅野満子の手紙」とか、常人にゃ訳分からんしな 21世紀は文学の権威自体が崩壊してる時代な訳で、そんな時代にわざわざ読ませる意味は無いと思うが うむ
小島信夫は一貫して才能があったと個人的には思う 小島信夫はよくわからんなあ
やっぱ「残光」も名作ということになるの? 「抱擁家族」の続編である「別れる理由」が
途中からメタフィクションに変貌するその創作意図が分からない
たとえば江藤淳はアメリカナイズされた現代家族の解体と米国からの「別れ」
の挫折が作中人の物意識のかい離を発生させ、
それが現実/虚構の境界消失につながったとしているのだけど
それはどうかとおもう
そもそも家庭の危機や妻の不逞は戦前からあったと思うのね 中上と小島信夫で思い出したけど、二人が絶賛した森敦ってどうなのよ?
月山だけ随分前に読んだけど、意味不明というよりも、むしろふっつーの読後感で驚いたって記憶がある。
意味の変容とか我ゆく者の如くとか読んだ人いるかな? >>16
>フリーワードで論文検索してみたら
>三島由紀夫3237
>漱石3140
>村上春樹1584
>大江1532
>中上814
>だった
>
>参考程度だけど三島由紀夫が一番多い
>だからなにって話だが中上は他の作家と比較して論じたい作家ではないのは分かる
>一番売れてないだろうしな
マックと一流レストランだったら
マックの方が口コミが多い 中上以降めぼしい作家って居るの?
保坂和志くらい? というか大江・古井以降は基本尻すぼみだよな
上記2人は柄谷とか蓮實とかが価値を措定したからまだしも
円城も保坂も悪かないが、同時代に批評人が少なくすぎていささか価値を判定しづらいのが難点だな そういう意味では舞城王太郎とか、東や福田に持ち上げられてる分幸運な訳で
ちゃんとした国文学研究者がもっと寄り付けば良いのなあと思う >>20
それらを渡部直己がケチョンケチョンに貶していて痛快だった 渡部直己の批評眼を信用しているわけではない
しかし彼が誰をどう評価するかを見ているのは面白い 大江と中上の影響力って保坂和志チルドレンに完全に駆逐されたよな 保坂は春樹の亜流といった印象しかない
それなら奥泉のほうが好きだ >>35
>保坂和志チルドレンに完全に駆逐されたよな
青木淳悟、柴咲友香、磯崎 憲一郎は駆逐されたのかな? >>42
ちょうど長編連載中だ!オーガニズムを読もう! こいつ、まだ日本にいるのかよ(怒
さっさと北朝鮮に行けよ。理想国家なんだろ(笑
秋目鞍のくせに政治に口出しやがって。
日本の恥だ、こいつは。
日本から出て行け!
今大学で教授面している反日のクソも同様だ。
お前らは粗大ゴミに出すのも恥ずかしい存在だ。
砕け散れ!
大江に加担して北朝鮮を賛美するものどもも同罪だ。
共産党は特に罪深い。 どっちも「響きと怒り」を超える作品を書いてないよな >>48
そうだろうか
自分は『万延元年のフットボール』と『枯木灘』は『響きと怒り』と遜色ないとみる 現在から見た内容はともかく「響きと怒り」の時系列解体に匹敵する仕事なんてジョイスやヴァージニア・ウルフくらいだけでしょ 時系列解体は手法にすぎず、それ自体に価値があるわけではない
ハクスリーや福永武彦も導入している
文学作品の価値は手法ではなく効果だ
読み手にどれだけリアルな感銘を与えたかに尽きる
もちろん手法が効果に影響をもたらすことは多分にあるが 大江も中上も優れた批評家に出遭わなかったのが、片方は幸いし、もう一方は災いした。 >>51
それだと印象批評にしかならないから厄介だと思うんだよな
やっぱり最低限の理屈は必要でしょ 優生政策 大江さんも我々も消極的優性学により子孫を残すに相応しくない
優生政策は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。
積極的優生学 子孫を残すに相応しいと見なされた者がより子孫を残すように奨励する。
消極的優生学 子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残すことを防ぐ。
積極的優生学は、優れた形質を持つと思われた人間を増やすことを目的に、複数の子供を持つ優れた素質を持つ両親を表彰したり、金銭的 援助を与えるという手段を採る。消極的優生学は劣った形質を持つ人間に生殖を思い留まらせるものである。 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 >>31
ケチョンケチョンに貶してたのって昔の別冊宝島のやつか?
あれ、今の再評価ブームを経て読むと渡部程度が小島信夫を読むことなんて出来なかったってことを無惨に晒してるだけやん
まあ、当時の文芸誌読むと小島のお友達が愛想がてらに褒めてるだけの状況だから仕方ないかもしれないけどさ 日本は近代化に失敗した国なんだから、「近代文学」なんてあるわけないだろ。。 >>39
その二人は顔が似てるだけだろ
保坂が依拠してるのはフランス文学の枠組みだし >>25
中上健次が絶賛していたのは、フォークナーと谷崎潤一郎 「その男蠅の王龍造」
「枯木灘」の主人公の名前は忘れたが、これは印象に残った >>49
「万延元年」はそんなに傑作なのか
左翼は嫌いだけど、それは読んでみよう >>64
まぎれもなく傑作だね
大江の反日左翼思想には吐き気がするが? うな、芳樹のわけがない(笑)
あとは、平野啓一郎と中村友則か 田中 慎弥(たなか しんや、1972年(昭和47年)11月29日 - )は、日本の小説家。
2005年(平成17年)に『冷たい水の羊』で第37回新潮新人賞を受賞後、いくつかの文学賞受賞を経て、2012年(平成24年)に
『共喰い』で第146回(平成23年/2011年下半期)芥川賞を受賞した。 中村 文則(なかむら ふみのり、1977年9月2日 - )は日本の小説家。愛知県東海市出身。愛知県立東海南高等学校、福島大学行政社会学部応用社会学科卒業。
フリーターを経て、2002年に「銃」で第34回新潮新人賞を受賞しデビュー。
2004年、『遮光』で第26回野間文芸新人賞、2005年、『土の中の子供』で第133回芥川龍之介賞、2010年、『掏摸<スリ>』で第4回大江健三郎賞を受賞。
同作の英訳 『The Thief』は、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で、2012年のベスト10小説に選ばれ、2013年のロサンゼルス・タイムズ・ブック・プライズにもノミネートされた。
『悪と仮面のルール』の英訳(EVIL AND THE MASK)はウォール・ストリート・ジャーナル紙の2013年のベストミステリーの10作品に選ばれる。
2014年、ノワール小説への貢献で、アメリカでデイビッド・グーディス賞を受賞。 >>72
軸見文則の奴、スレッドまであるよ、
概ね正鵠を射た批判的言辞が多く見られる。
【借りモノの苦悩?】中村文則2【福島大卒!!?www】
http://mevius.2ch.net/test/read.cgi/book/1427297194/ なんで「軸見」というユニークな名を捨てて、平凡な目立たない筆名にしたんだろうな? 高度な文学性を持ち、三島由紀夫の再来とまで評された平野啓一郎。多数の著書を発表していますが、そのなかでも特におすすめの10冊を紹介していきましょう。 1,ドーン
2009年に発売され、第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した作品です。こちらは未来の宇宙船を舞台とした物語。
火星から帰還した主人公たちが、ある重大な秘密によって世界を左右する問題に巻き込まれるという展開になっています。
秘密が徐々に解き明かされていくので、ひとたび読めば平野ワールドに引き込まれること間違いなしです。
また作中では平野啓一郎自身が生み出した本当の自分とは何かを問う、「分人主義」という概念も登場するので、
読めば読むほど考えさせられる作品といえるでしょう。 2.決壊
この作品から、平野啓一郎のファンや読者が増えたと言われており、殺人事件を犯した人間と、それを取り巻く人々の心理が描かれています。
インターネット時代の問題といえる匿名による言葉の暴力、ネットを介した暴力などを、絶妙な描写で描き、繊細な心理描写が読者を魅了します。
現代の抱える問題を捉えたストーリー展開なので、老若男女幅広く読めるというのも、読者が増えたきっかけといえるでしょう。
こちらは平成20年度、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した作品でもあります。 3,日蝕
この作品は平野啓一郎を語る上では外せない一冊でしょう。当時平野啓一郎はまだ学生であり、これがデビュー作になります。
また、最年少で第120回、芥川賞を受賞した作品でもあります。
文体は森鴎外を意識していると言われ、極めて文学的であるために読むのは難解ではありますが、ぜひ読んでおきたい一作です。 読者の多寡は文学の評価の決め手にはならない
やはり研究者の優れた論文が出ると再評価される 洋書コーナーにいったら、Fuminori Nakamuraの英訳書が大量に置いてあった
もはや日本を代表する作家? 中国で一番読まれている作家は東野圭吾
中国ベストセラーランキングに何作もランクインしている 売れる小説を書けない3流作家が
売れる作家に対して「通俗作家」のレッテルで威張り散らすという通俗的なメンタリティ 大江健三郎とか、下手くそで読みにくい文章で威張っていれば評論家に褒めてもらるだろうという
通俗的な権威主義で売れないつまらないごみ小説書いていた作家だからな
偉くなりたい、褒められたい、威張りたいという通俗的魂胆しかないしょうもない作家だった >>87
村上春樹の人気も凄いぞ
個人的には、村上春樹こそラノベに見えるんだが ラノベっぽさが皆無なのは、なんといっても中上健次
重厚感が抜群だ 読みにくかったら優れていて読みやすかったらラノベっていう思考だから
日本文学はどんどんつまらなくなっていくんだろうな ラノベってのは、チープなファンタジー小説のことなんじゃないの? 大江健三郎も若い頃『夜よゆるやかに歩め』という通俗恋愛小説を出したが、
その後この作品を書いたことを後悔しており、いま刊行中の全集にも入れていない。 大江のほうが公開していて読者でもピンキリだから不利だよ。 どうテキストに反応するかは読者をふるいにかけて選ぶ方が高い気がする。 大江健三郎の作品はどれもこれも読者に媚びてなくて
徹頭徹尾、大江が抱えていた現実世界への憎悪や嫉妬といった情念を
書きたいように書き切っていると言う点でそのエネルギーと真剣さに感服する
が、二度と読み直したくならないほど物語として面白くないし後味が悪い
一方、中上健次の作品にも大江と同じように強い意志が貫かれているのだけど
描かれている世界は赤裸々でグロテスクなものであってもどこか共感しやすく
心地よい読後感があって、いつか読み直したい気にさせる
結局はその文学性の高さや世間評価などはどうでもよくて
それらはあくまでもその本を手に取るきっかけに過ぎなくて
自分にとって大事なのはその文学世界と自分の経験世界との相性なのだ
良い文学とは、読者が自分の心象風景を見つめ直すためのよく磨かれた鏡なのだと思う 村上春樹の最高傑作とされる「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
主人公の現実のストーリーと、潜在意識下の閉ざされた世界のストーリーが交互に進んでいくわけだが、個人的には、この2つの世界のつながりが弱すぎる気がした
もちろん、春樹ファンなら、「それは読みが浅い。そこを深読みするんだ」というだろうし、それは分かるんだけど、それにしたって、脈絡が弱い 結末についても、春樹ファンのブログでは
「それぞれの物語の主人公やヒロインはこれからどうなっていくのか、それ以外の登場人物は何を想うのか。
それらが読者に委ねられる形で、ストーリーは永遠に続くかのような余韻を残しつつ終わりを迎える。
切なくも、その先が気になる、いつか続編を書いて欲しい、と願わせられるエンディングなのだ。」
となっていたが、個人的には、「これで終わるのは早すぎる」としか思えなかった。
短編ならあれで良いと思うが、あれだけの長編小説にしてはちょっと・・・。
正直、本来なら短編であるべき内容を、無理やり引き延ばしてムダに長くしたという印象だった。 いや、しかし、「現実世界とファンタジー世界が、明確にはつながらないが、なんとなく漠然と連関している」というのが、この作品の斬新なところなんだろうな
自分が、個人的な好みとして、もっと明快なものを好んでいるだけだ でも、それにしたって、2つの世界のつながりが弱すぎる気がするなあ
「これは主人公の潜在意識内の世界なんだ」というのは、頭で考えればそういう意味なんだろうという解釈になるだけであり、実感としてそういう気はしなかった >>102
でも心理学的な仮説では
自分で意識できない潜在意識世界についての働きはユングである程度説明できるものの
そこで進行してる文脈までは本人でさえ語り用がない(文脈はないのかも知れない)
一方で自覚世界は、自分が意識的に作った文脈と世界観に強く支配されて物語化されていく
つまり自覚世界から見ると、潜在意識世界の文脈とはまったく連動を感じられないのが普通で
これがつながって見える物語だったら、むしろ軽薄に見えたんじゃないかと思う
村上作品にたびたび出てくる「影」が102が言う潜在意識下の人格に近いかも
ユングの言う「シャドウ」も潜在意識の一部とはされてるんだけど 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」P130〜134より抜粋
村上 ぼく自身はどちらかというと、積み重ねて弁証法的にいくタイプだと思うのです。
河合 こんどの『ねじまき鳥クロニクル』は、その感じが非常に強いですね。
だから、これからもまだそうとうつくられるだろうな、という感じがしました。
村上 どういうふうな意味でそういうふうに感じられるんでしょう?
河合 やっぱりストラクチャー(構造)を持っているでしょう。過去の日本の私小説は
ストラクチャーを持っていないですからね。『ねじまき鳥クロニクル』の場合は、
二巻で終わりとしてストラクチャーを考えるか、三巻で終わりと考えるかという
問題が出てきますが、ぼくが考えるに、とくに三巻まで考えに入れたら
すごい構造を持っていますし、そのうえ、まだ不可解なところが残されています。
ですからこういう調子でいかれたら、またつぎができると、そう思いましたね。 村上 ただ、ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』に関して感ずるのは、何がどういう意味
を持っているのかということが、自分でもまったくわからないということなのです。
これまで書いてきたどの小説にもまして、わからない。
たとえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、かなり同じような
手法で書いたものではあるのですが、ある程度、自分ではどういうことかということは、
つかめていたような気がするのです。今回ばかりは、自分でも何がなんだか
よくわからないのです。たとえば、どうしてこういう行動が出てくるのか、それが
どういう意味を持っているのかということが、書いている本人にもわからない。
それはぼくにとっては大きいことだったし、それだけに、エネルギーを使わざるを
えなかったということだと思うのです。
河合 芸術作品というのは、絶対にそういうところがあるだろうとぼくは思います。
そうでなかったらおもしろくないのではないでしょうか。作者が全部わかって
つくっているのは、それは芸術じゃないですね。推理小説とかそういうのは
カチッと仕掛けができているわけですが、そうではなくて、芸術作品になってくると、
作者のわからないことがいっぱい入っていて当然だと思います。ただ、こうだという
ことはわかるんですね。こうでなければならないという意味みたいなものを考えて
いたら、絶対にできないと思います。 村上 もちろん、終わってからほかの人が読んだり、批評家が読んだりするのと同じ
レベルでテキストとして読んで、自分で考えることは可能なんですね。
ただ、いちばん困るのは、ぼくが一人の読者としてテキストを読んで意見を発表すると、
それが作者の意見としてとらえられることなんですね。
河合 作者の言っているのがいちばん正しいと、思う人がいるということですね。
そんなばかなことはないのですよ。
村上 でも、ぼくがアメリカ人の学生にそれを言うと、みんな怒るのですよ。
たとえば、ゼミみたいなものをやって、ぼくの短編をテキストにしてみんなで読んで、
「村上さんはどう思いますか?」と言うから、「ぽくはこう思うけど、それはきみたちが
持つのと同じように、意見のひとつにすぎない」と言っても、
「でも、それはあなたが書いたんでしょう」って彼らは言うんですよね。
アメリカ人にはやはりそういう傾向はあるんでしょうか。
河合 アメリカ人は、とくにいわゆる西洋流のエゴをものすごく大事にしているから、
自分の意思とか自分の考えとか、そういうのにすごく寄っかかっているんですね。
だから、作者が書いて、作者が言ったら、それは正しいものだと、
そういう考え方をするのではないでしょうか。 >>106
「僕」じゃなくて「影」が主人公なんだな? カフカなんかは、本当にトランス状態になって夢うつつで書いたんじゃないかみたいな印象があるけど、村上春樹もそうなのかもな? アンデルセンの作品「影」に対して村上春樹が評論してる記事が面白かった
https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/murakami-andersen
↓一部引用
アンデルセンの「影」には、このような生ぬるい分析を退ける自己発見の旅のあとが見て取れます。
これはアンデルセンにとってたやすい旅ではなかったはずです。
彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめることになったからです。
でも、実直で誠実な書き手としてアンデルセンは、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、
ひるむことなく少しずつ前に進みました。
僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、
まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。 中上健次の文学は、村上春樹よりは中上自身が自分の深層心理を自覚していて
そこを出発点に物語を構造化してるように見える。
自分が生きた境遇を起点に緻密に推敲しながら自己実現を果たそうとしてイメージ。
大江健三郎はそれらとはぜんぜん違っていて、思想テロを目的に書いてるイメージ。
村上春樹が何かの対談で、文学の暴力性について語っていて
それは文学で描かれる暴力描写が、
読者の心の底に押し込まれてる動物的な残酷性を満たす効果があって
結果的にそれは癒しをもたらすから読まれるのだ、みたいな内容。
この点は大江健三郎の評価とも関わりがある気がする。 久々に岬を読んだら
素直に面白かった
生きてたときに読んだ時は先入観が大きくて
まともに読めてなかった >>118
当時は生きる伝説みたいになってて
大げさに言えば神格化されてた
そう言う意味で過大評価したり反発を感じたりして
普通に読めなかった たしかに中上健次の小説は
どこが評価されてるんだろう?って目で読むとぜんぜん入っていけないね
三島由紀夫や川端康成はすごくわかりやすいのに あの源氏物語を現代に復活させたかのような文章が良いんだよ
それで人間関係の中で自然に「欲望」や「殺意」が生成されていく過程を
図式的にではなく書いている
それも自然主義文学のような鳥瞰的な視点ではなくね
これが「地の果て 至上の時」になると
相変わらずの文章だけど主人公が変に内省的になって
ゴタクを述べ始めるから駄目だね 物語=路地(部落)を書くことで世に出た作家だけど
それを書かなくても優れた作家になれたはずだと思う。
あとの方はそれが逆に足かせになった様な気がする。
大江だったらそれは光さんで、それまでは作家は例えば太宰みたいに
そう言う子がいても触れないのが当たり前で、そうしたマイナスの現実を
逆に中心に持ってきたことに二人の共通点はあるな。 持たざる中でギリギリで生きる人生は
たくさん所有し背負ってる人生より
ずっと人間臭くて本質的だ自由だと思わせるって意味では
やっぱり中上は文学として秀逸なんだな
「いろいろ考えさせられる」という曖昧な読後感の正体は
持ち続けるか手放すべきかの選択を迫られる躊躇感なのかな >>124
中上は家は金持ちだったし、
才能も物語も所有してたし、
何を持ってなかった? 中上は持たざる人だった
なんてこと書いてあるようには見えないが、、、 >>123
太宰治はキリストを引き合いにして罪の意識や弱さを書いているが
大江健三郎は障害をかかえた無力で無垢な存在としての我が子を通して
「罪」や「悪」を描いて神に救済に至る道を描いている
つまり「希望」ということです
そこが自殺という形で幕を閉じた太宰治との違いであり
沈黙の神に対して信仰と救済の問題を問い続けてきた
ドストエフスキーとの類似性です
これが中上になると旧約聖書やギリシア悲劇を意識したフレームの中で
「罪」の意識や「悪」そして物語が生成されていく現場を動的に捉えていこうとする
それゆえに「物語」がメタレベルで更改されていく
だから中上健次の登場は日本文学上の「事件」と言われている
この更改過程は表面的に見れば
文化人類学を援用した80年代以降の大江文学とも似ているが
静態的かつ図式的な大江のそれとは決定的に違う
大江健三郎だと予定調和的に死と再生をくりかえす楽観論に落ち着くが
中上の場合は物語世界とその延長たる現実世界が
混沌かつ殺伐とした未来に行きつくであろうことが予感される
またその中で生きていく若者の苦しみが描かれるわけだね
大江のように物語的には洗練されてはいても
思想として弛緩しているわけではない 梅原猛と中上の対談エッセイが面白かった
ジョゼフキャンベルと誰だったかの「神話の力」を読み直したくなった 中上健次の生い立ち
和歌山県新宮市で父、鈴木留造と母、木下千里との間に生まれる。
千里が健次を妊娠中、留造が他の女性を2人妊娠させていたことが発覚する。
千里は留造と離別、一人で健次を産む。
留造は妊娠させた女性のうちの一人と結婚、健次の半年違いの妹にあたる女児が生まれる。
留造はさらにこの女性との間に2人の男児をもうける。
千里には前夫の木下勝太郎との間に既に4人の子供があり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる。
やがて、男児一人を連れた土建業を営む中上七郎と出会い、末子の健次を連れて同居、
4人での生活をはじめ、健次が中学生の時、千里は健次とともに中上七郎のもとに入籍した。
1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。
小学6年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平が首吊り自殺するという事件が起こり中上は大きな衝撃を受けた。 いわゆる「部落」というのは性的に放縦ではないので
どちらかと言うと文化人類学の交叉婚や同族婚のように
婚姻にあたっては「筋」厳格に重んじる地域が多く
地域内でも家格を重視する
だから部落内の民主化を推進する解放同盟があるわけで
中上のケースは非常に稀であり
彼のように複雑な家庭環境を持つ人物が
たまたま血統や居住地域という面で「部落」に分類されていただけ
そういう意味では中上の部落小説は非常に誤ったイメージを流布するものなのね
というか中上は歴史的経緯がよく分かってないからね
それでも文学として自我論や物語論の側面で評価できる部分がある >>133
中上健次の「岬」「枯木灘」の主人公の家庭環境や境遇が
中上のそれと一致する部分がたくさんあるね
親父が女癖が悪くあちこちの女に子を産ませてるところ、
主人公にたくさん兄弟がいるところ、若くして兄を亡くしてるところ、
主人公が肉体労働に従事してるところetc
中上自身がモデルになってるのかな >>135
作者自身がモデルというより、肉体労働者なんかは、実際にやってみないと分からないところがあるからな
普通の文人タイプには無い、貴重な人生経験 >>135
>主人公が肉体労働に従事してるところetc
>中上自身がモデルになってるのかな
労働経験は羽田の貨物業務くらいで
土方の経験はないよ
貨物業務だって職長レベルで指示をしていたそうだから
どのくらい肉体を使っていたのかも怪しい
土方として基礎工事などに従事している人はちょくちょく体を休めるので
中上の小説の様に忘我の境地にはならないと思うけどね ほんとうに土方の経験があるのは
佐藤洋二郎や東峰夫だよ
中上の小説から肉体労働者の部分を引っ張り出して
評価の対象にすべきではないよ
零細とは言え造船会社の御曹司である吉本隆明が
セクシュアリティとしての労働を描いている、と持ち上げていたけど
中上がそういうフィクションを作品に持ち込んで
神話的性や欲望に対置させただけなのね
つまり文学的操作の結果に過ぎない
作品内でステレオタイプに加工された部落問題とかもそう 昔部落の人と飲んだけど、部落は最悪なことをして最悪なところにいるらしい。
そこまで人が嫌がることをできる方が才能あるよ。 >>140
お前なんか全然駄目だ。
俺は先祖は武士ばかりで百姓以下は一人も混じっていない家系で、家老など上の部類だが、悪い奴の計略に引っかかったお陰で、部落に暫く住むことになったせいで、部落出身者の疑いを掛けられることになった。
だが、部落を落ち着いて観察出来たお陰で、随分勉強になった。
しかも、俺は部落関係ブラック企業で暫く働き、部落出身者ではないせいで随分いじめられた。
お前なんか、元々頭が悪い上に経験も不足していては何もカニも分らんよ。
元々お前は阿保なんだから。 >>137
お前は底抜けの阿保だな。
家業が土建なら息子は正式な従業員じゃなくても
手伝うだろうが。 ここは部落民の来て良いスレじゃないぞ
あっちへ行ってろチョオリンボめ 昔、中上が天皇と文学の関係について言及したのを
realkyoto で浅田彰に批判された件については中上が可哀想に思えた。
浅田ぐらいは中上を理解してやれよと。
やっぱり、最高権力者が国の文学の起源に?これほど関与した例は他の国では余りないのでは?
日本書紀の「大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を 手越し(たごし)に越さば 越してむかも」については、ちゃんとした読みが公にされてない。
それは国文学者たちに肉体労働の経験が皆無だから。
まあ、世界的に学者は肉体労働の経験が無いから、色々不都合が生じるw 小説家って職業自体が現代版の河原芸人みたいなもんだろ。 >>142
>家業が土建なら息子は正式な従業員じゃなくても
>手伝うだろうが。
手伝ったこともないのにしたり顔で書いているから
「いつ作業したんだよw」と組の人間からからかわれていたんですけどね >>143
>あっちへ行ってろチョオリンボめ
それは長吏のことであり
簡単に言うと警察であり公務員だからね
警察・金融・芸能・風俗部門管掌の特殊公務員と
その構成員あるいは業界人であり中上の書いた部落民は
劇画的かつステレオタイプ
そもそも日本で一番最初に同盟休校を実施して政府に抗議したのは
岩〇具〇の本貫地であり旧準門跡寺領なんだな
一筋縄ではいかない問題なんだよ
小田実が同和問題を出世の道具にしやがって、と怒るのはある意味正しい
中上の小説の本質に同和問題はそれほど関係ないんだよ
だいたいこの分野における中上の知識は大したことないから >>146
源氏物語なんかは虐げられて死んだ貴族の無念を弔うための神事だとも言えるわけで
それはまさに天皇の職域とも重なる
こういう形で文学が発展してきた国は確かに少ないと思う
たいがいは覇王の正統性を捏造するために修辞学が用いられてきたから
日本の権力構造はやっぱり特殊だ >>151
中上の書いた部落民は劇画的かつステレオタイプ
という表現はすごく腑に落ちる >>152
源氏物語の「鎮魂」の側面を折口信夫が発見し、井沢元彦が強調してる。
鎮魂には征服や不正な権力奪取などの正当化の意味もあった訳で。
平家物語などはもっと鎮魂の面が強い訳で。
源氏物語に関しては「源氏見ざる歌詠みは」というぐらいで、むしろ源氏物語は見るものだったという面に注目すべきだろう。
それは折口などが全然やってないことであって、中上はそこに踏み込もうとしていたような。
>>153
部落の人間は概して劇画的な表現を好むんだが。
君は部落の人間として言ってる訳? >>153
中上の描いた秋幸の姉3人はそれぞれ違った生を生きてたと思うがな。
ただ、中上は部落の人間の一つの共通点に注目していた。
それがツルハシを振るうことへの愛着の仕方ではないかと俺は思う。 秋幸としごと 「岬」のなかの一節
彼は、区切りのつくところまで、土を掘り起しておこうと思った。つるはしを打ちつけた。
見事に根元まで入った。引き起す。土はふくれあがり、めくれる。つるはしを置いて、
シャベルに代えた。腰を入れ、シャベルのかどに足をかけ、土をすくった。外に、ほうり出す。
汗が出た。まだ塩辛かった。いつも掘り方の時、塩辛い汗が出る間は、息をするにも力がいった。
それが、水のようになってしまえば、体は嘘のように楽になった。
掘り方に体が馴れ、力を入れ、抜く動きにぴったり息が合っているのだった。特に掘り方は、好きだった。
なによりも働いたという感じになった。この単純さが好きだった。
現場の横の、切りひらかれていない山の雑木が、ゆれている。
つるはしをふる、スシャベルですくいあげる。腕の筋肉が動き、腹の筋肉が動く。それは男らしかった。
彼は、安雄や女の人夫の話をききながら、区切りがつくまで、掘りすすめた。
彼は、土方仕事が好きだった。他の仕事や商売よりも、貴いと思っていた。
朝、日と共に働きはじめ、名日と共に働き止める。単純で、泥まみれになる仕事だが、思いがけない事にも出会う。 ツルハシって彫刻家の彫刻刀みたいなもんだからね。
ミケランジェロの時代の彫刻家は、皆がそうだったわけじゃないが、少なくともミケランジェロの場合は大変な肉体労働者でもあった。
彫刻の原材の多分何十トンもある大理石を切り出し場から彫刻制作の現場まで運ぶ作業に携わり。ミケランジェロは2度ほど?死にかけたことがあったという。
こういう危険な労働は、中上の短編「浮き島」に登場するキンマ引きにも通じる。
キンマ引きは切られた杉を束ねて大きな台に乗せて、山の坂を降ろしてくるが。足場の木のレールの上が滑り過ぎるとキンマ引きは下敷きになって死んでしまう。
文学板で長すぎる行がありますとか、100字程度で文句付けるな馬鹿野郎。 敗戦の時反撃しないでテレビ出演視聴三昧の天皇は天皇ではない。下格。終戦にもちこんだ
アメリカ兵の系譜が天皇をつげばよい。 中上を上げている奴の年齢はだいたいわかるね。
今読むと、あんなののどこがいいんだか。神話性?そんなものどの物語にでもこじつけられる。
権威主義の読み物
もう中上なんて若者に読まれることないだろうな >>26
言うほど論文の例えになるレベルのマックのクチコミって多いか? 中上にはもう読者なんていないとかほざいてた奴らは、今年の芥川賞受賞者のインタビューを見たか?
「推し、萌ゆ」の作者は中上の大ファンだったぞw 大江健三郎はとにかく長寿で他の日本人作家より沢山読書して色々書いたので単純に偉いと思う。中上健次は読んだ事ないが昔のサブカルの人という印象と安部公房がどっかで誉めてた事と方言文学を書いた人ということしか知らん。近代文学?で序列を付けたいという事なら大江健三郎で3rd tierぐらいじゃないかね?日本人では最高の部類でしょう、同じ賞の受賞者の川端康成よりは間違いなく上位の一人だと思う。 読んだこともない匿名がなぜ語りたがるのか
自分で気づいてなさそうだがゴミ以下の意見だぞ 中上は読まなくていいからとりあえず「青春の殺人者」だけ見て 読んだことないのに評価しようとは無謀な奴がいたもんだ 文学板は半分以上がその手合いでしょう
作品そのものとは無関係な序列の話ばかりしている
このスレからしてそうですが 他人を腐すより自分の意見を言えよ。中上健次は余程の暇人じゃなきゃ読む必要はないレベルの作家だと思っている、他に重要な作家がありすぎるから。個人の読書の方針として優先順位の序列を付けるのは当然必要。中上健次を読ませたいならどこがいいのか自分の考えぐらい言えないのか? まずは代表作の『枯木灘』くらい読んでから貶してもらいたいね
ひとつも読んでないヤツはどの作家であれ、貶す資格はない 読まずに決め付けてる奴が正当性を主張する世界って異常すぎる
いくらアホ優勢の時代でも許し難いわ 誰も中上健次を読んでないのに評価なんてしてないだろw
どうでも良いこと書き込んでないで中上健次の小説を読んだならそれについて何か言えば?
何も言えないなら読んでないのと一緒じゃないの?匿名の掲示板でさえ自分の意見を言えないの?それともなんか突っ込まれると思ってビビってんの?少しは建設的な発言できないの?
まぁ何にせよダサすぎだなお前ら。所詮こんなとこに来る連中は中上健次ファンはこのレベルか。 自殺した年長の兄や生き別れとなった他の兄弟たちへの負い目が
ああいう形での物語創作の動機となったとしか思えない
よく男流や神話と言うけれど基本的に母と子の物語であり
自分の分身とも言うべき兄の死によって
おもに心理面で母子間の亀裂が子供の側に生じ
それが自己の不安定化の原因となった
この不安定な自我の再構成のためにああいう凝った物語をつくりだし
同時に自己の原罪意識を転嫁する極悪人としての実父像を捏造したのだろう
もちろんこの欺瞞性は作者本人がよく分かっていたことだと
容易に推測し得る
実際は捨て子でもないのに憐れな捨て子と自己同定して
それをバネに選民に転化するフェイクストーリーのほころびを
補てんしていくところが宗教あるいは神話的だとはいえるけど
生身の人間がこういう偽りの生を生きざるを得なかったのは
なかなか切ない話だ 物語の意味分かってなさそう
偽りの生もクソもない
中上は一貫して作家として振る舞ってた >>185
読んでいないヤツに作品批評を書くのはむなしいから書かないだけ
早く読め >>185
>誰も中上健次を読んでないのに評価なんてしてないだろw
>>174で
>中上健次は(略)昔のサブカルの人という印象
>>179で
>中上健次は余程の暇人じゃなきゃ読む必要はないレベルの作家だと思っている
と「読んでないのに」評価しているようだが? >>174で、
>中上健次は読んだ事ないが昔のサブカルの人という印象
と「中上健次は昔のサブカルの人」と「評価」するにあたって、ご丁寧にも自分で「読んだ事ないが」と断っているが、これは「読んでないのに評価なんてして」(>>185)いることを意味しないのか? 芥川賞受賞作品で凄いと思ったのは
中上健次 岬
古井由吉 杳子
だけどな。表現力の凄さって言うかね。
大江は読んだことないから知らない。 >>1
現代でも読まれてる順なら
三島=漱石>谷崎>大江>中上
だろうな。 過去の文豪との比較での印象で言えば
漱石=鴎外>谷崎>川端>三島>太宰>芥川>大江>中上
だろ今の評価は。 >>194
この中だとというか
日本の小説家の中で最も大きな仕事をしたのは
大江で間違いないだろう
さして好きではない今でも
その仕事の大きさが飛び抜けていることは認めざるを得ない >>191
大塚英志が「南回帰船」をネタにしてたからな 中上はサブカルとかポップな事もしたかっただろうけど向いてない。軽いノリというのを装いたくても装えない。
だから(本人の意思とは無関係に)文学に集中できた。 灰色のコカ・コーラ
黄金比の朝
タイトルがカッコいい初期の2作品
高校生の時、真夜中に読み耽ったな
岬はよく分からんかった
きっかけはふいに本屋の棚から手に取った村上龍との対談集
ジャズと爆弾
だったな 大江の次のノーベル賞作家は村上春樹じゃなくて多分女性作家だよ。
多和田葉子や小川洋子あたり。 >>204
大江の嫉妬があるらだろ。受賞者は投票権もあるらしいな。 >>205
そんな矮小な思想の人物じゃないだろ大江は
百歩譲ってそうだとしたら日本人受賞者すらださないだろ、
このスレでこんなに頭小さい奴がいるとは 多和田葉子や村上春樹の受賞は有り得ない。
同じポストモダンの作家として多和田や村上より世界的に遥かに
評価の高いピンチョンがノーベル賞をもらってない。
さらに多和田はドイツ語で創作するにあたって、確実に必要なド
イツ人のパートナーの存在を明らかにしてない。
まるで、多和田が独学でドイツ語を完璧にマスターしたという幻
想を与えてる。これは駄目だろう。こういう狡いことは何処でも
認められるわけがない。それは馬鹿な日本の文壇でしか有り得な
いw しかしペンネームっていうのは代表者がいるけどみんなだから、そういう現実の読み方してるほうがいいだろうな。 大江と中上比べちゃいかんだろ
段違いで大江の方が上なんだから?? >>206
いや大江はそう言う人間だろ。
大江はポーズで世間を騙している。
だから俺は村上春樹は絶対に受賞はないと思っているよ。
何故か。大江の立ち位置が弱まるから。 >>211
それはお前の主観か?それとも客観的事実があるのか?それをはっきりしろ、お前が個人的に大江健三郎という作家が嫌いで個人的な思いからそれらを述べているとしたら是非ともやめて頂きたい エロ小説と巷で噂されているものは、ノーベル賞なんて絶対にとれないよ。
それほど格式と権威がある。 大江とか中上は今もこれからも読まれない
それが最大の評価だよ >>207
ドイツ語くらいなら独学でできる
多和田の小説は奇妙なドイツ語で書かれた作品というドイツ人の評もあるくらい、完璧とは言えないもの 中上は文体の作家
その点で春樹と共通する
しかし文体自体は対極にある
文体というものが作者の人格やら生き様やらを背負ってるからだろう >>207
ポストモダン?評価?全然タイプの異なる三作家じゃん
読んですらいないだろう 春樹は多分ノーベル賞無理。
小川洋子あたりが取りそう。 文学っぽくないもんな
ノーベル文学賞は芥川賞の上位版だと思ってる フォークナースレで中上お勧めされてハマりました
最近の作家だと赤松利市さん好んでます 中上さんの小説読んだが読みにくい事この上なかったぞ 読みやすいのがよい小説というのはど素人の浅知恵
読みにくい作家こそ精神を鍛えてくれるありがたい存在 うん読みにくいから駄目とも読みやすいのが小説として良いとも言ってないからね 1、細雪
2、春の雪
3、万延元年のフットボール
4、砂の女
5、こころ
6、山の音
7、黒い雨
8、金閣寺
9、晩年
10、枯木灘 >>226
近・現代文学名作マイ・ベスト10
9、10位はサービス 愛好する日本近代小説20作(発表順)
金色夜叉、青春、其面影、雁、明暗、或る女、暗夜行路、痴人の愛、仮装人物、迷路、
雪国、死霊、壁、邪宗門、万延元年のフットボール、春の雪、死の島、
限りなく透明に近いブルー、地の果て 至上の時、世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド、 何冊読んだ上でのベストだよw
単に「私の読んだ小説」を並べただけじゃねえか いま三島の「宴のあと」を再読中
前から春の雪、金閣寺に並ぶ傑作と思っていた
執筆時の三島35〜6、五十代ヒロインと初老の元役人の人物像をよく書き切った
美徳のよろめきと違い性格造形は慎重に企図されている
心理描写が多いにもかかわらず違和感がないのは、作者が背伸びせず青年の視点でとらえた五十、六十代の姿を巧妙に潜り込ませているから
翻訳されると世界二位という評価を得た 中上さんは、だいぶ落ちるな
創造力、構想力……
読んで一度も面白いと思ったことはなかった。
島国の、さらに地方の一小説家という感じ。
三島、川端、谷崎レベルとくらべると。
優れた小説は、読むからに作家の頭の良さが感じられるから。
大江さんは、頭の良さは評価するが、小説は陳腐ではないがつまらない。 大江と中上は読者を選ぶ作家だ
ある程度文学的素養がないと面白さが分からない
だから本の売れ行きも良くはない
しかし玄人は評価するから文学史には残る 読書なんていいとこ取りで十分
とりあえず、
人間失格、斜陽、女生徒、金閣寺、春の雪、地獄変、偸盗、歯車、 徳田秋声も読者を限定する玄人好みの作家
中上健次は秋声を高く評価していたな 個人的には中上より後藤明生の方が好きだわ。両者語りについてかなり考えてる作家だけど価値観は対照的だと思う。中上は自身の素材の豊富さを売りにしてた部分があるが、後藤は素材なんて関係ない、文学は方法論だってところまで振り切ってる人だ。「挟み撃ち」と「夢かたり」と「笑坂」「吉野大夫」でそれは結実している。後藤はポストモダンの頂点の一つだと思う。残念ながら後藤の著作は半分以上手に入れるのが難しい。数年前刊行された著作集も短編連作をかいつまんでしか載せてないから十全とした良さに欠ける。年末年始の休みを使って「壁の中」を読むよ。 後藤明生は蓮實重彦が持ち上げた作家だが、文学史に埋もれるだろう
方法だけの作家など面白くも何ともないから 「方法だけの作家など面白くもなんともない」のは頭でっかちな方法論だけに終わってる作家に言えることだと思う。こう書いたらこうなるっていう方程式に従って満足してる作家のことだ。後藤はそうじゃない。彼の一番の特徴は目の良さだ。テキストを解釈する力がずば抜けてる。特にプラトンの読み方には興奮するものがあった。その目のつけどころの新鮮さに、真似できない感性がある。しなやかに感性に基づいた方法論は十分意義がある。 >>238
テクスト解釈がすぐれているなら、評論家になればいい
小説家は人間が生きている現実をいかに描くかが肝要だ
大江、中上は現実と格闘したことが小説に窺える
後藤にそれがあるかな? >>239
北朝鮮で敗戦を迎えたこと、自分が正統な日本語と思っていたものが植民地方言だったこと等、どうしようもない矛盾を抱えた作家だよ。一冊でも読めばその辺りはわかるはずなんだけど。読まないで適当な批判するのはどうかと思うな。
そうした主題が後藤の場合悲観に終わらず笑いとして捉え、さらにそれは構造であり、世界を縛る法則にまで普遍化するのが面白いところだけど、小説である限り散文なのだからそこまで客観に突っ切ることは重要だと思うね。大江だって日本文学は人生の感想を述べることに終始していて方法化の志向が衰退してるって書いてんだろ。人生の真実を語るだけの文学はもう古いよ。 古いか否かは文学にとって本質的ではない
大江も中上も人間を描くこと、方法にも自覚的であったことが共通している
まぎれもなく第一級の作家だよ >>239
評論家になればいいとかずいぶん的外れな反論で草、だいぶズレてんなww そんなに後藤がいいなら、後藤のスレ立てて一人で褒めてればいいだろ 古井由吉の評価がこの2人より低いよね。
死んだ時もあまり取り上げられなかったし。 今だと大江が死んでも
そんなには取り上げられないような気がする
せいぜい一週間ぐらいで雑誌も1回ぐらいで 古井は死後発覚した山崎ナオコーラの件で大幅に格を落とした印象が。 ググったら若いころケツ触られたって話か
画像もググったらこんなブスよく触ったなと思った あんな怪電波みたいな文章垂れ流すやつに自制心なんかないだろ
まともな理性もってりゃ、もっとまともな文章書くよ 古井もコーラ自身もおとしめる嫌な現実が伝わっただけ。 大江健三郎はシリアスな内容をギャグ漫画として書いてるような感じが不思議 >>257
大江はユーモアとグロテスクが好きだからな >>5
ほんとそれ
批評家バブル終焉と共に消え去る程度の存在 「まったく読まれてない」からどうなの?としか思わない。え?まだ中上すら読んでないの?って感じ はっきりいって中上と大江読むぐらいなら、ゲーテの小作品読んだ方がはるかに有意義だと思うよ
中上と大江の全作品読んだ感想ですw ゲーテの全作品を読んだが、感動したものは一つもなかった
大江と中上には幾つも感動させられたな
人それぞれだ >>264
ゲーテ読んだことないけど、やっぱすごい? 「おれ別に若くねえし」とか思うよな。偏見かも知れないけど😂 スゴイよ~~
大江健三郎の仰せ
「現に東海村の原子力発電所からの電流は、いま市民の生活の場所に流れてきています。
それはたしかに新しいエネルギー源を発見したことの結果にちがいない。
それは人間の生命の新しい威力をあらわすでしょう」
「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。
このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」 最新の文學界だっけ、松浦が古井と大江だけは新作出たら必ず読んでいたけどもうそんな作家がいなくなってしまったと書いていたのは 松浦はすばるだかに中上との思い出を書き、最近彼の全集を読み直し、
『地の果て 至上の時』をフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』
のようだと評価していたな >>272
フォクーナーをありがたがっているのは大学の英文学教室の中だけだとか
ポール・セローの本を読んだらアメリカの作家についても忌憚のない批評がなされていたな 大学の講師が「駅で大江健三郎を見かけたことがあるが、ひとりで笑いながら手紙を破っていた。怖かった」と言っていた
誰からの手紙だったのだろうか 【冒頭無料】安藤礼二×菊間晴子 司会=横山宏介「君は大江健三郎を知っているか──国民的作家の『ヤバさ』をめぐって」 @harukok_21 #ゲンロン240216
https://www.youtube.com/live/I6tY285yT20?si=4_RZb7uso_33N1eD >>272
松浦って古井が死んだときもブランショに近いとか言ってたね
(対談相手の堀江敏幸には「そうですか?」とやんわりかわされていた)
作家を作家でたとえるねえ
お笑い芸人でも食リポで「食べ物を食べ物でたとえるな」みたいに馬鹿にするけど、それで自分より優れているかもしれない作家たちを俯瞰で(上から)評価したことになって、ヘタしたらスノッブな読者に感心までされるんだからいいご身分だよね 同ジャンル内での◯◯は△△のようだ、というような言い回しには、双方に対して深い理解やリスペクトを示すこともなく、それを指摘する自分の視点を押し出すということしかない
このポジショニングの取り方って日本の文芸批評のなかで作り上げられた害悪の一つだね
自分を大きく見せかけたい人の小手先の技術
いまだにSNSでも溢れかえっている
表象文化論的には似ているというところからだけでいくらでも饒舌に語りうるんでしょうけども 中上も大江も、蓮実や渡辺や柄谷などポストモダン系の批評家に
持ち上げられていただけ。今や文庫本も続々と廃刊になりつつある。
だって面白くないもんね。 今を生きるヒントみたいなものはほとんどないかもね
違う世界の閉じられた空間のお話のように聞こえるものが多い
それでいて読んで格別に面白いということもない
近代文学なんかはそうでもないんだけどな
小説の方法ってやつは所詮時代の産物で耐久性が低いんだろうね 大江にも中上にも今も読むに耐えうる傑作はわずかながらにあるとは思うけどね >>283
大江は岩波の短編集が結局最後まで残るかもしれない
万延元年のフットボールは厳しいかな
文章があれこれ言われるけど、物語に面白さがあれば文章なんて奇怪であるのは一種のブランドになる
しかし物語がテーマにしろ古い
学生運動時代の問題意識だから、共同体がどうのっていう話は今は誰にも響かないんじゃいのか 名作扱いされている個人的な体験や枯木灘、千年の愉楽あたりは文句なしにいいんじゃないの
逆張りする必要なし
80年代以降の大江は自己言及が多すぎてファンじゃないと読みきれないが、この先はファンになるまでの入口が見つけにくくなってくるだろう
人生の親戚、取り替え子あたりはギリいけるか?キルプの軍団もまあアリ? 今でも結果は出ていると思う。
大江や中上は文庫本でもあまり読まれていない。
太宰や三島が相変わらず人気で読まれ続けているのにね。
三島の後はやっぱり村上春樹になるだろうな。
大江健三郎はノーベル文学賞獲ったのに、あまり読まれていない。
単純に考えて、面白くないもんね。 仲俣暁生 @solar1964
ハン•ガン『別れを告げない』の書評を書き終えてあらためて思ったけど、
これは百倍よくできた『羊をめぐる冒険』だな。村上春樹さんには悪いけど、歴史への踏み込みが遥かに深い。
『羊』が書かれた時代、韓国はまだ軍政下だったから、むしろ『ねじまき鳥』と比較すべきかもしれないが。