ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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>>352
> 全体的みわたすならば、この国の習慣において、ヨーロッパかもしくはロシアでもいい、歴史の流れのあるキリスト教の世界観を正確にとらえることは、ぼくたち日本人は不可能だろう
そうだね。そのとおりだ。それはまちがいない。
ところで
人類史の中でキリスト教以前と以後では、人間は良くなったのか? (このような概括的な言い方は、実際は何も語ってないに等しいだろうが。)
人間は戦争や貧乏やその他精神的に追い込まれるだけで、狂的な行動に出るものでしょう。それを制御するための
宗教ではないか?
カラマーゾフのなかで、イヴァンをはじめ、大半の登場人物が懐疑的であるのは、ある面当然でないか。
信仰の名のもとに、腐敗が行われてきたのが、また眼前にそれを見ているからである。
> >なぜ、八幡大菩薩ではなく、キリストの神なの?
> この答えをぼくは知らない
> でも、これはぼくの物語だ、だから自分の物語のうえで知っていることもある
ぼくの問はかなり卑怯で、バカげたものだったかも知れない。数の多寡や日本人は... などバカな話だったね。
信仰というものはそんなことでは測れない一側面をもっている。
> そして自分をときあかすことができるのは、他人ではなくてあくまでも自分だけだ
> どんな人間でも、ただの平凡な個人であるばかりではなく、必然的にあたえられた世界の中で一期一会をとおして偶然的な何かと出会う
> それは誰の物語の中でも用意されている、造物主からの特権だ
> だからだれの物語もすばらしい
> なぜキリストの神を選んだのかは知らないが、でも、それを必然とよぶのか自由意思があったのかとるのかについては、ぼくが知っている
>
> 答えになっていないかもねw
これ以上ない、すばらしい回答だ。その上で「自分をときあかすことができるのは、他人ではなくてあくまでも自分だけだ」の一文に注目した。
ぼくたちにはカラマーゾフという共通理解の土台がある。また、カラマーゾフやドストエーフスキイ作品を通じて
深めていこう! ぼくはキリスト教の本質に切り込んでいきたい。その相手は、だれかれの個人ではなく、カラマーゾフに描かれた
ゾシマの教え、ドストエフスキーの思想だ。
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もしも 人 の 悪業 に 憤慨 と 耐え られ ぬ ほどの 悲しみ を おぼえ、 悪人 ども に 復讐 し たい くらいに 心 の 乱れ
を おぼえ た なら ば、 なに よりも その 気持ち を 恐れ なけれ ば なら ぬ。
すぐさま 出かけ て 行っ て、 あたかも他人 の 悪業 の 責任 は 自分 に ある かの よう に、 自分 が 負う べき 苦しみ
を さがし 求める が よい。 その 苦しみを わが身 に 引き受け て 耐え しのべ ば、 自分 の 怒り も 和らい で、 自分
も 悪い の だ という こと を 悟る だろ う。
その わけ は、 自分 は 唯一 の 罪 の ない 人間 として 悪人 ども に 道 を 照らし て やる こと も でき た はず なのに、
照らし てやら なかっ た からで ある。
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この教えは「正しいのか?」根本的に間違ってはいないのか? >>353
いろいろと過去の人たちは言っている
地獄は頭の中にあるらしいし、神が存在しなければ作る必要があるらしい
ドストエフスキーは、神がいなければすべて許されるといったのは読者なら誰もが知っているだろうけど、この問題は、神は外にあるのか内にあるのかを考えるとき、人間の内に神があるとかれらは考えたということになる
つまりは、自由意思の存在を善と認めたということだ
個人的には、キリストによって与えられたキリスト以前にはなかった考えだとおもっている
まさにカラマーゾフのパンと自由の話にあるとおり
意思を持つことは悪と考えられていた鎖を外してもらったことになる
そういう理由で答えると、
>人類史の中でキリスト教以前と以後では、人間は良くなったのか?
そういう意味に限定すれば良くなったといってもいいとおもう
でもキリスト教の誕生で多くの人が死んだのも事実だよね
話が振り出しに戻ってしまう >>354
そのへんの話はいろいろな宗教の本質にいきついてしまって壮大すぎるw
インド仏教でいえば梵我一如だっけ?
我と他をなくすところから始めて、キリスト教においてはそれに原罪をくわえる
ぼくにはとても手におえないけど、ゾシマのその談話は、キリストの本質をとてもとらえていて、もしだれもがそう思たら人類史上初の平和おとずれるんじゃないかな 人間はなんでもできる自由意思がある
その自由をつかって善きことをおこなう、ただし従属するのではなく自らの意思を持って行うこと
そういう意味でこの聖句を理解しているんだけど、どうなんだろうか?(聖書に詳しいひといたらお願いします)
そしてトルストイも含めてドストエフスキーの思想の元に感じる
すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。
コリント 10:23 24 >>356
> いろいろと過去の人たちは言っている
> 地獄は頭の中にあるらしいし、神が存在しなければ作る必要があるらしい
>この問題は、神は外にあるのか内にあるのかを考えるとき、人間の内に神があるとかれらは考えたということになる
ゾシマやアレクセイも、そう考えたのか? ゾシマの教えの中にあッたような気がするが。
> つまりは、自由意思の存在を善と認めたということだ
ここはよくわからない。「自由意思の存在を善と認めた」西洋哲学的表現でわかりにくい。
> 個人的には、キリストによって与えられたキリスト以前にはなかった考えだとおもっている
> まさにカラマーゾフのパンと自由の話にあるとおり
たしかに「パンと自由の話」があるね。
実は、大審問官のところは、理解しにくく、> 意思を持つことは悪と考えられていた鎖を外してもらったことになる
という話だったかも、わからん。
> そういう理由で答えると、
> >人類史の中でキリスト教以前と以後では、人間は良くなったのか?
> そういう意味に限定すれば良くなったといってもいいとおもう
> でもキリスト教の誕生で多くの人が死んだのも事実だよね
> 話が振り出しに戻ってしまう >>359
カラマーゾフの中に文章で説明になっていたところがあった気がするよ
ちと探してみる、自分も気になったので 〔I〕 地獄 と 地獄 の 業火 について。 神秘的 考察
諸師よ、『 地獄 とは なんぞや?』 と考察するとき、
『 もはや 愛する こと が でき ない という 苦悩』 と こう 判断 する。
時間 的 にも 空間 的 にも 測る こと の でき ない 無限 の 存在 中 たった 一度、 ある 精神的 な 生きもの に、
この 地上 に 出現 する こと によって「 われ 在る が ゆえに われ 愛す」 と 自分 に 言える 能力 が 与え られ
た ので ある。
一度、 ただ 一度 だけ 人間 に 実行 的 な《 生き た》 愛 の 瞬間 を 与え られ、 その ため に 地上 の 生活 が、
それ と 同時に 時間 と 期限 が 与え られ た と いう のに、 どう し た こと だろ う?
この 幸運 な 生きもの は その 尊い 神 の 恵み を こばん で、 それ を 大事 に せ ず、 愛し も し ない で、
嘲笑 的 な 一瞥 を くれ た だけで、 依然として 冷酷 無情 で 通し て しまっ た。
こういう 人間 でも、 すでに 地上 を 去れ ば、 かの 富者 と ラザロ の 寓話 が 示す よう に、 アブラハム の
ふところ も 見る だろ う し、 アブラハム と 話 を まじえる こと も あろ う し、 天国 も 見、 神 の 御 もと
に 昇る こと も ある かも しれ ない が、
まさに、 人 を 愛さ ず に 神 の 御 もと へ 昇り、 自分 を 愛し て くれ た 人 たち の 愛 を 蔑視 し た その 人間
は、 その 愛し て くれ た 人 たち と 接触 する という こと に キリストと自由の関係を理解するには、『新約』の「ガラテヤ人への手紙」を読まねばならない
これは、キリスト教の『マグナ・カルタ』と呼ばれている >>362
ずっと荒らしだと思ってたわ。読んでる人いたのか。 >>359
大審問官によるイワンの説明では、イエスは3つの言葉であらゆる過去と現在と未来をあらわしたと言う
それは、イエスは荒野で40日の断食をされた際、3つの悪魔の誘惑に言った言葉であると
そのうちの一つがパンと自由の問題である
悪魔がこう言った、あなたが神の子であるなら石をパンに変えればいい
その誘惑に対してこう答える、いわく、人はパンのみに生きるわけではない
ドストエフスキーは、なぜイエスはパンを石に変えなかったのかをこう述べている
それは、パンによる支配は人間の自由意思を奪うことになる
石をパンに変えたがために信じるものが永遠と自分の跡につづいてしまうと
古代より宗教は指導者に属するのは絶対だったが、キリスト(キリスト教)によって、人間は自由意思を初めて与えられたことになる(鎖がはずれたということ)
この後にのこる2つの言葉で神秘(奇跡)と権威についての話が続く
これはドストエフスキーの独特な考えなので正しいのかは読む人によるだろう
だけど願わくば、ドストエフスキー理解の材料の1つにでもになってほしい >>366
> 悪魔がこう言った、あなたが神の子であるなら石をパンに変えればいい
> その誘惑に対してこう答える、いわく、人はパンのみに生きるわけではない
> ドストエフスキーは、なぜイエスはパンを石に変えなかったのかをこう述べている
> それは、パンによる支配は人間の自由意思を奪うことになる
> 石をパンに変えたがために信じるものが永遠と自分の跡につづいてしまうと
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たとえば
朝起きて、御本尊にむかい、いっさい勉強したくないが「東大に合格したいです!」と願った。
なんとなれば「願いとして叶わざるなし」の御本尊だからである。
またあるとき、「KARAのジヨンと結婚したいです... 」と祈った。叶わなかった! 「御本尊許さん」という感じか。
「人はKARAのみにて生きるわけではない」 > ずっと荒らしだと思ってたわ。読んでる人いたのか。
ゾシマの下の教えは、君のことを語っていると思うw 丁寧に読んでみなさい
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〔I〕 地獄 と 地獄 の 業火 について。 神秘的 考察
諸師よ、『 地獄 とは なんぞや?』 と考察するとき、
『 もはや 愛する こと が でき ない という 苦悩』 と こう 判断 する。
時間 的 にも 空間 的 にも 測る こと の でき ない 無限 の 存在 中 たった 一度、 ある 精神的 な 生きもの に、
この 地上 に 出現 する こと によって「 われ 在る が ゆえに われ 愛す」 と 自分 に 言える 能力 が 与え られ
た ので ある。
一度、 ただ 一度 だけ 人間 に 実行 的 な《 生き た》 愛 の 瞬間 を 与え られ、 その ため に 地上 の 生活 が、
それ と 同時に 時間 と 期限 が 与え られ た と いう のに、 どう し た こと だろ う?
> この 幸運 な 生きもの は その 尊い 神 の 恵み を こばん で、 それ を 大事 に せ ず、 愛し も し ない で、
嘲笑 的 な 一瞥 を くれ た だけで、 依然として 冷酷 無情 で 通し て しまっ た。
略
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つまり「地獄」とは君自身であり、「地獄 の 業火」とは、君自身の嫉妬に燃える生命のことなんだよ。
同じように、天国も君の心の内にある。ゾシマの説教を読み返してみよう! ドストエフスキイのテキストにひたすら向かい、彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進める。
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前半の「ドストエフスキイのテキストにひたすら向かい」これは正しい。批評でなく解釈でなく、原典に向かう。
これはまちがいない。
問題は後半の「彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進める。」
一見してまっとうで妥当な意見に見える。それが違うのだと感じる。ドストエフスキーと「なんちゃってキリスト教」を混濁させているのでないか?
ドストエフスキーは、「カラマーゾフ」「罪と罰」「白痴」の作品世界は、キリスト教など一宗教に限定されものでは断じてない。
そこには描かれているのは、「人間と生命」についての「普遍かつ不変」の物語だ。
江戸時代の庶民が読もうが、5000年前の古代エジプトの民が読もうが、現代中国人が読もうが、等しく感動できる。
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ぼくは自身をもってこのことを叫ぶ。
誰かの言葉ではない。自分で感じるのだ。 誤解のないように注記したい。
そのような態度が不誠実だと、言ってるのではない。
ドストエフスキー作品がキリスト教・聖書世界と 切っても切り離せない関係性にあることはまちがいない。
だが、キリスト教などよりはるかに優れた思想哲学信仰が、現実にあるのだ。
その点を放置して「カラマーゾフは凄い、だからキリスト教もすごい!」というのは違う。
われわれの祖先、現代日本人の多くが、キリスト教を峻拒するのは、巷間言われるように、不誠実がゆえに
文明文化の表面の果実だけを取り、「根っこにあるキリスト教と聖書は無視した!」などというより
以下略(後日) >>373
救済者的な宗教とは違う善の根拠を見つけること、知覚経験を合理的に積み重ねていって神を認識すること
そういうのを、キリスト抜きでカラマーゾフの兄弟の紐解きが自分にはできないので、ドストエフスキー思想はキリスト教をベースにしてるとおもう >>374
こんばんわ!先日来傲慢な言葉を書き連ねていたものです。
> 救済者的な宗教とは違う善の根拠を見つけること、知覚経験を合理的に積み重ねていって神を認識すること
「 救済者的な宗教」ではない宗教というものはあるのですか?
「知覚経験を合理的に積み重ねていって神を認識すること」それはドストエフスキー作品の中で説かれていますか?
> そういうのを、キリスト抜きでカラマーゾフの兄弟の紐解きが自分にはできないので、ドストエフスキー思想はキリスト教をベースにしてるとおもう
おっしゃることは、よくわかります。ところでカラマーゾフの兄弟は「紐解かれるターゲット」なのか?
ぼくはもっと素朴なもの、ありのままのものと感じる。
偉大な作品ゆえに、神秘的作品ゆえに、そこに多くのなぞが実際にあるのだろうし、僕らごときは誤読してる部分があるのかもしれない。
しかし、ぼくにとって、カラマーゾフとは、たとえばスネギリョフ大尉が、イリューシャのことを思って、
家族を思って、アレクセイの援助の申し出に、いったんは大歓喜しながら、カネを踏みにじる... と言ったような場面です。
思想、宗教といっても、その根底に有るのは、現実の人間の涙と歓喜だ。
思想宗教が先にあるのではない。人間の生活と苦悩が基盤にあって、それらが生まれた。もし人間から遊離した
宗教であるならば、嘲笑され投げ捨てられる。
ドストエフスキーは、哲学者の作品や、宗教家のそれと一線を画している。いや、それどころじゃねぇ!
31世紀になっても読み継がれているのが確実な作品... 「人間とはかくも美しいのか!かくも
深いのか?それにくらべわれわれは何なのだ?」と未来人は慨嘆するだろう
ではまた。大切なドストエフスキースレのみなさんへ >>373
すこし言葉が少なかったため、質問があいまいになっていたので書き直すよー
>だが、キリスト教などよりはるかに優れた思想哲学信仰が、現実にあるのだ。
これにたいして、
救済者的な宗教(キリスト教)とは違う(抜きで)善の根拠を見つけることができるか?知覚経験を合理的に積み重ねていって神を認識することなら可能なのか?
自分はキリストを抜きにして以上は説明できない
もし、できるとしてなにか理由でもあったら教えてほしいです
単純に聞いてみたいという好奇心です
ただあなたのいうように見ていることとがずれていたようだよ
紐解きとか、論理性とか、にばかり優先してしまった
全体の問題に気をとられて、個人は見えないものしていたようだね >>325
>なぜなら、 毎時 毎分 何 千 という 人間 が この 地上 の 生活 を 棄て て、 その 魂 が 神 の 御前 に 立つ から だ―
ロシア正教って即座に魂が裁かれるって観念なのかな >>377
> >なぜなら、 毎時 毎分 何 千 という 人間 が この 地上 の 生活 を 棄て て、 その 魂 が 神 の 御前 に 立つ から だ―
>
> ロシア正教って即座に魂が裁かれるって観念なのかな
こんばんわー。
ぼくはこの部分は、「神のみ前に立つ」の部分でなく、「毎時 毎分 何 千 という 人間 が この 地上 の 生活 を 棄て て」のところ、強烈で新鮮な印象を受けました。
だって事実ですもん!
この地球上で70億とか人間いて、何千できくんですか!?
「 ひとり さびしく、 だれ にも 知ら れる こと なく、 悲哀 と 寂寥 の うち にこの世 に 別れ を つげ た か しれ ない から だ、 しかも だれ ひとり 彼ら を 憐れむ 者 も い ない し、 彼ら が 生きて い た のか どう かさえ まったく 知る 者 も い ない 」
ここの箇所を初めて読んだ16歳のときの驚異の感覚を、今もそのまま感じます。
それ以来勤行の回向のとき、父母眷属友人だけでなく、ゾシマ長老のこの言葉を思い出して(一週間に一回程度?)
この地球の裏側のブラジルあたりで「ひとり さびしく」死んでいくひとのイメージが、この胸の中に湧くのです。
そして回向する....
そうだ!物語の中の知り合いにして、ぼくの師匠でもある、ゾシマは。なぜかならば、現実のぼくに影響を与えるからだ >>376
救済者的な宗教とは(キリスト教)を指していたんだね
キリスト教はメシア信仰だもんね。でも、救いや善や地上の不幸や苦悩を説明し、それに耐え、
明るさと希望を失わないようにする
そういった点は仏教もまったく同じで、したがってゾシマの説教の内容など、いろいろの宗教的
エピソードなども、ほとんど完全に鎌倉時代の日蓮の教えによって750年前から説明されている。
こんにちの創価学会で日々展開される活動の中にこそ、
現代のアレクセイやゾシマやはたまたミーチャやイヴァンも存在しているであろう。
>知覚経験を合理的に積み重ねていって神を認識すること
などできるはずがない。
信仰とは文字通り「信じる」ことです。最初も中も最後のどん詰まりも、信じること。
それができないのが凡夫です。ああでもない、こうでもない。なんか策があるはずだと。しかし、
策など無いのだ。あるのは南無妙法蓮華経だけだ。
ぼくのこのカラダは南無妙法蓮華経でできている。この宇宙の全原子も然り。カラマーゾフも一行残らず
南無妙法蓮華経の解説書である。
聖書世界とはカラマーゾフという物語中のもうひとつの物語ではないか?と
そしてそれは、ぼくの信仰の中に、間接的に影響を与える。法華経信仰のなかに包摂されたキリスト教信仰という
ものがたりではないかと? >>380
自分には仏教からの視点がないので自ら自分で発生できない着眼の仕方はありがたい
いろいろ説明ありがとう てか仏教とキリスト教というより日蓮宗とキリスト教なのでは 仏教ってなかの宗派とかでそんなに違うもんなの?
自分には何だろう、インド哲学みたいなのが仏教のイメージになちゃう
ヘッセでふれたくらいなのでそんなイメージしかない 近代か現代いうのかはわからないけどロシア文学ってドストエフスキーやトルストイ以降有名な本てなくない
すぐ禁書になちゃうせいかな 現象学なんて面白かった?メルロ ポンティーノ 画才的に リアライズされた世界
(隠れ樽)で のほうが 面白いよ。現象学込んでも。 236 名無しさん@お腹いっぱい。[] 2017/10/28(土) 01:00:33.57 ID:X31FQo5I
50万円って借金って言うのか?
そんなもん俺の日給より安い金だせ
おまえら月収いくらなんだよ?www
おれの月収?
1700万円弱だな、マジでな
悔しい?
もっと悔しがれや底辺ども!wwwwwwwwww ぐぐってみたけど現象学がなんなのかいまいちつかめないでいる
フッサールとは縁がなかったし、ハイデッカーもまた然りだし
ただ仏教とも接点があるみたいだね、時間とか存在の話のようなことが検索で出てくる
生得概念的なかんじなのかな、よくわかんない >>393
ww
自分の意思の証明でやってたとかなんとかっていい出したらラスコーリニコフっぽくて、って不謹慎だった
でも罪と罰が発売されたときはロシアで模倣殺人が起こり、若きウェルテルの悩みでは模倣自殺が流行ったらしい
本は感染する 色々な学者が研究してるけど本人はそんな難しい読み方されると
思って書いてたのかな? >>397
他人が何を見ているのかは、自分の見ている景色で想像するしかないからね
だとすると、天才は結局天才の視点しか想像できないのかもしれないし、本人からすれば学者の難しい解釈が自分のデフォルトだったりするのかもしれない
凡人の自分には深読みして何度も読まなければなかなか真相にはたどり着けないけどもw 読んでる本が終わったけど次に読みたい本がない
そういう時ってどーしてるのみんな? うるせーよ とにかくてめーの思った感想を言えよヴォケ カラマーゾフの兄弟読むと人生観変わるのか?
亀山郁夫訳の弟一巻買ってきて読みはじめたのだが、正直あんまり面白くない。
だけど、読んだ人は人生観ががらりと
変わるとか、 すごい評価するじゃんか。
がんばってもう少し読むべきか 人生観はわからんが価値観が多様的になるんじゃないかな
亀山訳はあんまり厳かさがなくて好きじゃないが ----------------------------------------------------------------
1. アリョーシャが誰よりももっとも正しい意味の現実派ではないかと思われる。
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2. もちろん、 僧院 には いっ てからの 彼は、すっかり 奇蹟 を 信じたに相違ない。
3. 現実派は 奇蹟 などに けっして 困惑 を 感じる もの では ない。
現実派 を 信仰 に 傾か せる のは 奇蹟 では ない から だ。
4. 真 の現実派は、 もしも 彼 が 信心家 で なけれ ば、 つねに 奇蹟 を信じない力 と心構えを 持っ て いる と 思う 、
5. が もし 奇蹟 が 否定 し え ない 事実 として 自分 の 目 の 前 に あらわれ た と すれ ば、 その 事実 を 認める よりも むしろ 自分 の 感覚 を 信じまいとする。
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7. けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、ごく自然な事実ではあるが、ただ、いままで知られないでいた事実として、それを許容する
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) **************
現実派においては、奇蹟から信仰が生まれるのではなく、信仰から奇蹟が生まれるのだ。
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ところで、いったん現実派が信仰を持つ様になると、彼はほかでもない自身の現実主義によって、奇蹟をも必然的に認めざるをえなくなる。
使徒トマスは、自分の目で見ないうちは信じない、と言明したが、いざ、自分の目で見たときには、「わが主よ、わが神よ!」と言った。
では、彼を信ずる者とさせたのは奇蹟だったのだろうか? おそらく、そうではあるまい。
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彼は、ただ信じたいと望んだがために信じえたのであろう。
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もしかしたら、「この目で見ないうちは信じない」などと言っていたすでにそのときから、心の深奥では、もう完全に信じていたのかもしれない ――― 。
投稿者注 :
ここに引用した文章について。アタマで論理的に理解せんとしてはならない。「ただ、信ずるのだ」
なんとなれば、信仰とは論理ではなく、行動であるから。 分割した箇条書きの一文一文を「そうだ.. そのとおりだ!」「そのとおりでございます!」と叫びながら
拝すのだ。 そうであったこそ、諸君は、アレクセイなどはるかに超えて、「従藍而青」の方程式によって
ドストエフスキーやキリストなどより はるかに上の存在となるであろう! 770 この名無しがすごい![] 2017/11/06(月) 18:40:08.63 ID:gIYzd+fI
登美丘高校ダンス部
236 陽気な名無しさん[] 2017/11/06(月) 18:37:09.03 ID:YiptOyCG0
明らかに優勝なのに優勝できなかった理由が糞すぎる
オトナの事情ってホント糞だな
大人の世界ってホント糞だな!
どこの世界でもホント闇だらけ
くだらねえよ人間なんぞ
ワシも含めてな >>407
トマスはもともと信じたいと願っていた、きっかけが欲しかったに過ぎず、復活したイエスを見たから信じたのではない
奇跡を見よう信じないものは信じない
だから本当の現実主義者は神秘主義に見えてしまう
だっけ?カラマーゾフのどこかでそういう会話を見かけたが、はたしてどこだったか忘れてしまった これはアリョーシャがとても現実主義にみえる会話だけど、イワンの方が現実主義だとおもう
理由としては、この世界は偉大すぎるので神が創ったほうに賭けちゃえいい、みたいな割り切り方が自分にはとても現実的に見えた
ちょっとながくて悪いけどそのまま引用するよ
「仮に神が存在し、この地球を実際に創造したとしてもだ、おれたちが完全に知りつくしているとおり、神はこの地球をユークリッド幾何学にしたがって創造し、人間の知恵にしても三次元の空間しか理解できないように創造したってことさ
そもそも俺の持っているのは、ユークリッド的、地上的頭であって、だからこの世界とかかわりのない問題は解けるはずもない、とな、つまり神はあるかないかという問題はな、三次元だけの概念しか与えられずに創られた頭脳には全く似つかわしくないんだ。
だからこそ俺は神を受け入れるのさ」 パスカルも実は同じことをパンセで言ってる
とても面白い意見なのでスレチだけどのせてみるよ
「賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。
反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。」 >>414
いや、勘違いしないでほしい
ぼくはイワンが一番の現実主義者でないかとぎもんをもって言ってる
彼はアリョーシャが一番現実主義者とその理由を述べている
もちろんトマスの箇所はアリョーシャについて述べられているんだけどねw
余談だけど、そろそろ老人と海が終わるので感想を書いてみるよ
思っていたより悲しい印象が強かった
またあとにするけど >>413
> 「賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く
喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは
何もない。
>
> 反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の
幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまり
に大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。」
これがパンセか?これがパスカルかっ?なんという清新な表現、なんという確信!すばらしい引用をありがとう。
ただし、「たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。」の箇所がパスカルの意図が不明。
このような男に、いかなる形であれ「現世の幸福」などあろうはずがない! ドストエフスキーの後継者みたいな作家っているの?
カミュなんかは同じ雰囲気があるけど。 特定の後継者みたいな作家は多過ぎて列挙できない、敷衍は略す。
* * *
因みに今や老害と化した亀山郁夫氏が推す似非作家詐欺師「軸見文則」は間違いなく人間として才能酷く劣るし異質。
過大評価された凡才以下のクズというかバカ。そもそも最初期以外に純文学を描いていないしな。
くたばれ軸見ーーーッ!
自分と比較するため引用してドストエーフスキーを貶めるのもいい加減にしろ! >>416
ヴォルテールと同じことを言ってるw
パスカルはまさに天才のそれであり彼のように的確な表現をできるものは稀有な人と賞賛した
しかしながらパスカル批判もかなりしていた、天才ならではの「理屈の恣意的な利用」もおおいとよく言っていた(ただこのことに関してはどっちもどっちとぼくには思えてならないけどww)
>ただし、「たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。」の箇所がパスカルの意図が不明。
来世を信じなければ道徳的なものは無視できて死ぬまで好き勝手できる=この世の幸せ=欲の実現=現世の幸福ってところかな
パスカルは物質主義をさけるべきとは言いつつも、まー人間だから物にひかれるよね、と結構現実的なところもあったので、想定するとおそらくそんなところかとおもうよ 信じる者しか天国に行けないっていう理屈でしょ
神がいないと言ってるのに現世以外の幸福があるはずもない いる いない
信じる 天国いく 天国いかない
信じない 天国いかない 天国いかない ロシアにはドストエフスキーがいるが日本には夏目漱石がいる。 あたしが欲しいってのかい?
じゃ10万ルーブル持ってきなよ >>418
後継者ではないけど、ドストエフスキーとトルストイが同世代に存在したというもったいなさ
ちょっとずれていれば、どっちかが後継者だったかもしれないのに 374 名前:優しい名無しさん [sage] :1999/02/19(日) 10:28:38.48 ID:bpRdRb1y
昨日、ホームセンターでええロープを選んできた
死ぬロープまで見栄張る自分につくづく嫌悪
こんなとこでグチグチ言ってること自体に辟易する
本日、逝くわ
どうせみんな逝く
早いか遅いかの違いだけ
わざわざ苦悩を長引かせる意味なし
どうせ地獄だろうから
本物の地獄で苦しむわ、永遠にな
予備地獄なんていらね
さいなら・・・
もう十分苦しんだ、もういいじゃないかPart1 [無断転載禁止]©2ch.net
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/utu/1474985176/ 567 名前:本当にあった怖い名無し [sage] :2017/11/08(水) 09:59:55.63 ID:Nq7fE3IW0
▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』
▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』
▼ユン・サンヒョン(南朝鮮出身・俳優)
『大阪は人の感じがなんとなく韓国人に近いようで親近感を持ちます』 とりあえずプラトンのメノンとパイドン買ってきた
メノンは徳について、パイドンは魂の不滅について
こういうスーパー観念論みたいなのって自分の多様性の役に立てられるかはその人次第だけど、単純に面白い
紀元前のキリストもまだいない時代の人が、他宗教の伝達がない文明において、不滅や普遍的善悪を想起している(そのためにソクラテスは死刑になるけどw)
少し考えると不思議な気持ちになるけど、ドストエフスキーやトルストイもこういう想起があったのだろうか、なんておもって買ってみたよ
ではメノンからいっとく
「探求の対象が何であるかを知っていなければ探求はできない。しかし、それを知っているならば既に答えは出ているので探求の必要はない。(略)、では徳とは教えられるものなのか?(略)」
さっそくパラドックスになってるしw うるせーよ とにかくてめーの思った感想を言えよヴォケ キルケゴール読むといいよ
死に至る病はドストエフスキーのまんま世界 >>437
> キルケゴール読むといいよ
> 死に至る病はドストエフスキーのまんま世界
キルケゴールの思想を一言でまとめると?
またドストエフスキーとの違いは? キルケゴールは飛べなくてとんだ人。間違った。
アスタロトは足が見えない飛び蹴りをする人。 ドスはキルケゴール読んでたのかな?
ニーチェは知らなかったみたいだけど、
プラトンは知識人はみんな読んでるイメージ。
影響一番受けた作家はやはりバルザックなのかな? >>442
調べてもおらんで?その上でテキトーぶっこむと
> ドスはキルケゴール読んでたのかな?
マイナーすぎて読んでないんじゃね?
> ニーチェは知らなかったみたいだけど、
> プラトンは知識人はみんな読んでるイメージ。
> 影響一番受けた作家はやはりバルザックなのかな?
ウジェニー・グランデ翻訳したんだよね?知らんけど。そういう教科書的な知識だけ覚えちゃう。あかんな。
キルケゴールって、「単独者!」ってゆったんだよね?
ドストエフスキーがカラマーゾフで示唆してるのは、そういう現代人の孤独がいけないことを言ってない?
「民衆」というキーワードが頻出するじゃないか?
「ロシヤの大地」に根ざせと。 プラトン、ソクラテス、アリストテレス!
みんな有名だけど、思想内容も、何をして有名なのかも、知らん。
ただ、ソクラテスだけ、なんかしらんけど、死を選んで、カックイイいめーじ。 神が何なのかは知らない、でも神がどうようなものかは知っている
実はほかのこと、美しさ、善いいこと、制度、正義も、それ自体が何かが知らないが、そでがどういうものかは知っている
果たして、本質を知らずともそれらの属性を探求していくならば、本質そのものを知ることができるのだろうか? >>443
キルケゴールとドストエフスキーだとレスにあるような相違するところも多いよね
ただし、信仰において神の前に立つものとしキルケゴールが求めた単独者とは、そのこまで特別なことを言ってないんじゃないかと思う
生まれるき死ぬ時のように、集団で祈るのですら、神の前ではひとり神の前にただ一人祈るのだ
と、そんな感じで死に至る病であったとおもう
「選ばれて独り立つ者は幸いである。
その人は〈王国〉を見いだすだろう。
なぜなら、人はそこから出てきて、ふたたびそこに戻ることになるからだ」 >>436
>ゴルギアスでソクラテスの悪意を感じろ
いずれ読んでみる ありがとう >>446
> ただし、信仰において神の前に立つものとしキルケゴールが求めた単独者とは、そのこまで特別なことを言ってないんじゃないかと思う
> 生まれるき死ぬ時のように、集団で祈るのですら、神の前ではひとり神の前にただ一人祈るのだ
なるほど、そういうことか。単独者つー言葉しか覚えてなかったから
御本尊と一対一みたいな。ひとり立つ信心みたいな。「視点」を変えれば、理解できるんだな。 >>446
> ただし、信仰において神の前に立つものとしキルケゴールが求めた単独者とは、そのこまで特別なことを言ってないんじゃないかと思う
> 生まれるき死ぬ時のように、集団で祈るのですら、神の前ではひとり神の前にただ一人祈るのだ
なるほど、そういうことか。単独者つー言葉しか覚えてなかったから
御本尊と一対一みたいな。ひとり立つ信心みたいな。「視点」を変えれば、理解できるんだな。
一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり。(シラー) >>445
アリョーシャ。おれは生きたい。
だから、論理にそむいても、生活するだけの話だ。
たとえものの秩序を信じなくとも、僕にとっちゃ春に芽を出したばかりの、ねばっこい
若葉が尊いんだ。るり色の空が尊いんだ。
ときどきなんのためともわからないで好きになるだれかれの人間が尊いんだ。
そうして、今ではとうから意義を失っているけれど、古い追憶から感情だけで敬意をはらっているような、ある種の功名が尊いのだ。
(イワンカラマーゾフ、ひと呼吸でしゃべる) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています