ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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>>570
> だけど魂にとって善いと言うのと、肉体にとって善いと言うのは反対だったりする
> 死は肉体的には悪だが魂にとっては肉体から解放される善の方法だったりもする
> 魂を信じるものにとっては、災害によろうが何だろうが死は善にもなる
この部分は非常にわかりづらい。これは余りにも偏頗な思想と感じられる。
どういうことか補足してほしい。 >>574
> アリョーシャ「兄さん、でもキリストがいるじゃないですか」(キリスト教とは言ってない)
キリストのお兄さんは、いったいぜんたい「どういうところが偉いのか?」
キリストの理想とは「なにが美しいのか?」 >>634
ドストエフスキーはそういう風に書いてないがミーチャ自信が自分を悪く言うキャラだからね
ドミトリーはカミュの異邦人の主人公にも通じる
正直であるが故に不幸になった人みたい >>614
> 「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福なのを知らないから、
それだけです。これがいっさい、いっさいなんです! 知るものはただちに
幸福になる。
> その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばら
しいぼくは突然発見したんです」
> 「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっ
ぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。
> すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者に
は、すばらしい。
> もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけ
れど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょう
よ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」
------------------------------------------------------------------------------
ボクも同意するよ。深甚だな。悪霊をあまり愛読してないが、この引用箇所
を平たく簡単に言い換えると
「いっさいムダなことはない。すべてに意味がある。ありのまま」でないか
な? >>637
>ミーチャ自身が自分を悪く言うキャラだからね
そうだねw
> ドミトリーはカミュの異邦人の主人公にも通じる
> 正直であるが故に不幸になった人みたい
異邦人の主人公 ってそうなんだ >>638
引用箇所中もっとも異常もっとも激越に感じられるのは
> > 「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっ
> ぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。
> > すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者に
> は、すばらしい。
の部分と感じられますが、「事実として」残酷極まる現実が日々この世界では起きている。
イヴァンは「この世界を受け入れられない」といったが、キリーロフはちがった。
どちらもドストエフスキーが創造した登場人物だが、彼らは那辺が違うのか? >>639
ムルソーは「不幸」であるとは異なる気がします。
この世の善しか知らない、ヒューマニスト。
>>640
話は幾分逸れますけれど、序でながら『悪霊』主人公スタヴローギンは独自な立ち位置ですよね。
で、ドストエーフスキー自身の最晩年のメッセージを汲み取ると、
「残酷極まる現実があるにもかかわらず、人生全体は肯定しましょうよ」と。
『地下生活者』に始まる「安っぽい幸福<高められた苦悩<高められた幸福」に至る
3段階形式の価値観の発展、人間精神の進化(!)。
では♪ (-^ ^-) >>641
>>>639
>ムルソーは「不幸」であるとは異なる気がします。
>この世の善しか知らない、ヒューマニスト。
この世の善しか知らないとか超ファタンタジー >>640
個人的にはこの続きが面白いんだけど、このキリーロフのすべてはすばらしい、と言うセリフを聞いてスタヴローギンはこう言うんだ
「次に会うとき君は神を信仰しているだろう」
そして面白いのは、スタヴローギンがこれを見事に読み間違えるということ(あのスタヴローギンが!)
その次回再開でキリーロフはこう行き着いちゃう
「神がいないならばぼくが神になるよ、よし証明するから死んでみる」
イワンとキリーロフの違いもこのへんから憶測すればその相違の本質がわかるかもしれない
勝手に推測してみるよ↓ ドストエフスキーはどこかでこう言ってたと思う(たしかカラマーゾフのどこかだったと思うんだけど)
無神論になるか、熱狂的な信仰者になるか、この一歩前は同じところにみんながたどり着くしみんなこれを経験する
つまりすべてよし!存在や起こることの全肯定にまず行き着く
全肯定→じゃあオレ(内側)がすべて→キリーロフ(無神論)
全肯定→じゃあ神(外側)がすべて→ゾシマとかソーニャもかな(有神論)
全肯定も全否定もできず(中間で葛藤)→神はいるがその世界は認めない→イワンとかスタヴローギンも?
と、ぼくは憶測してるんだけどね
どうなんだろうかイマイチ確信まではいかないけど 無関心な人をのぞけば、無神論も有神論もこの世の最大の疑問である神の有無とその世界の是非に真剣に悩み、問題が解決できずに圧倒される
あるとき、悟るというか自分なりに理解するんだろう
で、何がきっかけかは分からないけど(というより、この違いこそが謎でありドストエフスキーの問い)無神論者か有神論者に行き着く
同じところにいたはずなのに展開される結果が真逆になる
何が理由でそうなるのか、ドストエフスキーはそれの思考実験を文学で試してみたのかもしれない何て考えながら自分の場合は読んでる キリストのお兄さんは、いったいぜんたい「どういうところが偉いのか?」
キリストの理想とは「なにが美しいのか?」
----------------------------------------------------------------------------------
前にボクがこう問うたことを敷衍して説明したい。
たしかにまちがいなく、ドストエフスキーやその他いっさいの西欧文化の粋ともいうべき芸術作品は、キリスト教信仰と不可分だ。
しかし、だからといって、キリストの事蹟、キリストの教え、そのものの内容はどうなのか?
> アリョーシャ「兄さん、でもキリストがいるじゃないですか」(キリスト教とは言ってない)
というアリョーシャの信仰は美しく、無数の民衆の深く純真なそれもまた気高い。
気高い理由は、現実の生活を良くするからだ。悪を退け邪な欲望を断念し来世への希望と永遠の正義をたよりにし、今世の人生を修行と捉え、日々の現実の労苦や名状しがたき無力感を耐え忍ぶ。
端的にアレクセイとイヴァンをくらべれば、アレクセイのほうがこの人生を「良く」生きている。
彼はシンプルな信仰生活を送っているからだ。(実は内心において激闘してるのだが)シンプルなとは、教会やゾシマ師や同信の仲間の中にいて孤立していない)
以上をふまえれば当然キリストの教えは素晴らしいのか、と類推される。
しかし、待てよ。と止まって考えてみる。
これらはド氏が描いた文学作品中の姿だ。アリョーシャのいわゆる「キリストの理想」「キリストの教え」そのものをつぶさに考えて批判したことが我々にあるのか? >>641
> で、ドストエーフスキー自身の最晩年のメッセージを汲み取ると、
> 「残酷極まる現実があるにもかかわらず、人生全体は肯定しましょうよ」と。
この文から連想したのは まず第一に
イヴァンが あの「カラマーゾフ的な生活力」について語った(料理屋「都」の
ついたてのある奥で、大審問官を語る前に。)撓められた情熱が詩的に爆発したような あの場面ですね。 >アリョーシャ は ただ みんな とは 正反対 の 道 を 選ん だ だけで、 一
刻 も はやく 偉業 を 成就 し たい という 熱望には 変わり は なかっ た。
青年は皆ことごとく「はやく 偉業 を 成就 し たい と 熱望した」という
のだ。... 考えてみれば そうなのかもしれない。立身出世的な、いわゆ
る上級国民になりたいという願いの隠された奥にも、利他的な純真な希
望があるのかも。「君たちはどう生きるか?」という漫画が流行ってる
らしいが(駅のポスターで見たのだ)青年はみな「どう生きたら?」わ
からない。迷っている。死ぬまで迷うのかも、だが。
理想がなければ、酒やクスリや女、孤立した引きこもりの生活、満たさ
れない何かしかないではないか?小さな自分の殻に閉じこもって、最良
でも子どもや家族のことしか考えられないではないか。
「いや、それこそ人間として正しいのだ」とある人は言う。しかし現実
は、それで安心立命なのか?違うではないか。「みな、自分の持ち物を
隠し合っている」とゾシマが説いた通りである。 > 彼 は 真剣 に 考え ぬい て、 不死 と 神 は 存在 する という 信念
に ふかい 感動 を おぼえる と 同時に ごく 自然 に こう 自分 に 言
い きかせ た。「 不死 の ため に 生き たい、 中途半端 な 妥協 はと
りたくない」それと同様に、 もしも 彼 が 不死 と 神 は 存在 し な
い と 断定 し た なら ば、 ただちに 無神論者 や 社会主義 者 に なっ
た はず で ある
(略)
アリョーシャ には、 これ までの 生き方 は むしろ 奇怪 で 不可能
な こと にさえ 思わ れ た。 聖書 にも、「 もし あなた が 完全 に
なろ う と 思う なら、 すべて を 分かち 与え、 そして わたし に
従っ て き なさい」〔 マタイ による 福音書 第 十 九 章 二 一節〕
と ある では ない か。 そこで アリョーシャ は こう 自分 に 言い
きかせ た。「 おれ は『 すべて』 を 与え ない で 二 ルー ブリ を
与え たり、『 わたし に 従っ て き なさい』 を 実行 し ない で 祈
祷 式 だけに 出る という よう な こと は でき ない」
現代の我が国の青少年は、何に身を投じるのか?
無神論者になるものはいない。(無神論という概念自体が存在しな
い?)社会主義 者も流行らず、その数は少ない。
「自分の一票などで何も変わらない」と無力感にさいなまれている。
本当は、青年というものは「自分の命を投げ出して悔いない」理想
を求めている。 この世界は許しがたい悪もあり、不寛容で、堅苦しく、そうして自分は孤独ではないか?
日本中の友と世界の友と連帯したい。恋もしたい... 自分は女というものをいっさい知らないが。この宇宙のどこかに自分を待っている美しい少女がいるのでないか。 そうして豊かな生活、個人的繁栄も達成したい... しかしそれは二の次だ。
自分はこの世界を良くする布石となりたいのだ。名も知られない種になって、後の世に美しい花をさせたいのだ... 青年というものは こんなふうに考えていると推測する。
聖書の「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。 もし死なば、多くの実を結ぶべし。 」という言葉など知らなくとも無意識で思っているんだ。
『 わたし に 従っ て き なさい』といってくれる存在を探しているんだ!
このことは世界史日本史の尊い歴史を見ればわかることじゃないか? >>646
> アリョーシャ「兄さん、でもキリストがいるじゃないですか」
プロとコントラでイワンが虐殺とか子供の虐待とかの話をした後にいうセリフだよね
アリョーシャの、人間は罪を許し合わなければいけないという考えに対して、そんな世界は難しすぎるし、栄える楽園だってそういう血の上にしか建てられない
「それにそんなのできる人間はいない」というイワンの悪に見える世界への反抗、こてに対してアリョーシャがやっと出たセリフだったはず
「でも一人だけいましたよね…」
で、イワンが始める「大審問官ていう話があるんだけどね………」
記憶に頼っているので抜けているとこもあるけどこんな感じだったともう
はっきりと感想とこの言葉に対する意見が言えないので読み返す必要があるけど、おそらくは、キリストのみがそれを(なんと言えばいいか)っていうアリョーシャの世界感をあらわしているじゃないかな? >>650
>『 わたし に 従っ て き なさい』といってくれる存在 を探しているんだ!
誰に跪拝するかが、人か自分かそれとも神か、それが重要と未成年にあったよ
ふと思い出した 魅力的なキャラクターってやっぱりスタヴローギンだよね
>善悪、すべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手にいれた瞬間、私は破滅する。
カッコイイ そしてキリーロフも同じことを考えてる
> 生きても生きなくても同じになった人が、新人なのです。苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる。
2人とも善悪に乏しい
だからそれはとても危うい このスレだけ唯一ちゃんと議論とかしてるな。
「白痴」なんだけど、なーんか本筋が見えない作品。
白痴の主人公が一番マトモで回りはみんな狂ってるというオチ?
余命いくばくもない青年の告白もなんか安っぽい。
頭おかしい将軍の話は中身無くてイライラ。 >>660
そうだと思う
そのまともだった白痴はまた白痴に戻らなきゃならなくなるほどの世界は悲劇的ってオチ
でもムイシュキンとロゴージンで通夜して白痴に戻るあの瞬間、この瞬間のためにあの長編は読んでるのかもしれないとも思える
確かに、罪と罰とか悪霊とかカラマーゾフが劇的すぎて、白痴はなんか物足りなくなるのはよく分かる
それに会話がながいし(って他もだけど) >>660
自分は別に安っぽいとは思わなかった。
ムイシュキンを偽善家と思っていたのでは? キリスト公爵と言われている割には余命少ない青年にも冷酷なこと言ってるよね >>662
当時の新聞種になった猟奇的殺人事件の被害者にそっくりという話だったよね
「そうだろ、フォン・ゾーン?」
なんて直球なんだと読んだときは笑った イワンはボーイを呼んで、ウハーと茶と桜んぼのジャムを注文した。
「ぼくすっかりおぼえてるよ。僕はお前を、十一の年までおぼえてる。
そのときぼくは十五だったね。十一と十五という年は、兄弟がどうしても友だちになれない時分なんだね。僕はお前が好きだったかどうか、それさえ覚えがないくらいだよ。 「兄さんはそんなにぼくに会いたかったのですか?」
「会いたかったよ。僕は一度しっかり、おまえと近づきになって、
お前に僕という人間を知らせたい、それを土産にして別れたいのだ。
ぼくのかんがえでは、別れの前に近づきになるのがいちばんいいようだ。
ぼくはこの三カ月のあいだおまえがどんなふうにぼくをながめていたか、
ちゃんと見てとったよ、
お前の目の中には何かたえまなき期待、とでもいうようなものがあった。
これがどうにもがまんできないので、そのためにぼくはお前に近寄らなかったのさ。 しかし、終わりごろになって、ぼくもおまえを尊敬する気になった。つまり、
あの小僧しっかりした足つきで立ってるな、というような気持ちなんだ。
略
よしその立場がなんであろうと、またその当人がおまえのような小僧っ子であってもさ......
略
お前もどういうわけか、僕を好いてくれるようだね、アリョーシャ?」 >>665
実在じゃないのか
実在の人物(有力者で売春宿で殺されて醜態をさらした)をそのまま出してるならすごいとおもたけど
日本だとそんな人物いないかな >>669
ネットで実際の事件という歴史は見つからないようだ
フォンゾーンは小説上の架空の人物だろうけど売春宿で殺されるというのはとてもロシアっぽい 「フォーンゾーンとは私のことですか?」
「お前以外に誰がいるというんだね」 >>670
米川訳には当時話題になった事件と書かれてるけど
ちょっともじったりしてるのかな
日本に置き換えると草なぎ剛とかどうだろう
「いいや、貴様がなんと言おうと貴様は草なぎなんだよ!」
あかんか >>674
最近ソープで焼け死んでニュースになったよね
有力者ではないがこの情報社会の時代で名前を晒されるのは不憫でならない
まさに売春宿で死ぬというのは、現代のフォンゾーンと思ってしまった
不謹慎にいうつもりではないです こんなのあるんだ、面白い
正教のクリスマスって2週間後にやるらしいね
ユリウス暦とかグレゴリウス暦とかの関係っぽい
よくはわからないけど 毎晩、罪と罰を聴きながら寝てる
いまも聴いてる
おやすみ 江守徹のコンパクト版に興味あるんだが
買った人いないか 罪よ罰だったらオーディオで最後まで聞くのに何時間くらいかかるの?
寝る前に使ってみようかとおもってる >>681
Febeってとこが日本最大のオーディオブック会社
検索して調べてみなさい オーディオ。ある意味きわめてもったいないことではないか?
オークションでもリアルの本屋でも、米川正夫の全集の罪と罰を精読することを勧めます。
もしあなたが初めて「罪と罰」を読むならば。
種々の困難があろうとも本道を行くべきです。
最初の出会いは「紙媒体」で、しかも三島由紀夫も引用した、そして多くの先輩たちがそれによって
熱病にうなされた米川訳でどうでしょうか?
早く読もうと焦るべきではない。恐ろしくゆっくり読み始めるのだ。まず最初の5行だけ声に出して。
気がついた時はペテルブルグの暗い巷にあなたはいる。 現代のように多忙かつ刺激に満ちた生活の中で、罪と罰やカラマーゾフを拝読することは
困難です。ぼく自身も読めません。しかし深い憧れをもっています。あの焦げ茶色の表紙の
米川が生涯かけて訳文を彫琢した... .... あれをテレビもネットもない暗い四畳半でふとんに横になりながら
読みふける生活を。もしそれを平成最後期の今 やれる人はひとつの奇跡だと思います。
もしこれらの傑作の世界にどっぷり浸って、現世に戻ってきたならば、あなたはもう二度と2ちゃんの
通俗的意見に与することはない。いかなる煽りにも微動だにしなくなる。根源的思考の武器でないか。
この芸術体験は他では代替がきかない。ぼくはそう信じている。それだけの価値はぜったいにある。 ドストエフスキーって性格は完璧な自己愛性人格障害だったみたいだな
作品からプンプン匂いがして目眩がしそう 私田舎住みで刺激無い生活だから読書してる
読書に没頭するという点では田舎はいいかもしれんね
都会からわざわざ行くものではないが 30過ぎないと分からないとか出てたけど早く読んだ方がいい
最初はちょっと我慢がいるが、あとは一気呵成に全部制覇
それからスピノザや古典にいってほしいね キリスト教、とくにロシア正教とプロテスタントの違いや
当時の社会状況が分からないと何歳になっても理解できないよ
ということは門外漢である日本人が無理して読む必要もないわけ
ただ、理解を深めようと思うのなら早めに読んで
すぐに関連書籍に目を通せばいい
もっともそれで理解できるのは作品そのものではなく、
ああいう作品を生み出したロシア文化だろうけど >>689
このくらいの気概を持って読まないとドストエフスキーは楽しめないかもね >>690は言葉を誤った
このくらい気概を持って読んだ方がドストエフスキーは楽しめるかな 日本の翻訳者でさえ完全に理解はしてはいないでしょ。
研究者でもない一般読者に無理な話をされてもね。 理解読解の次元ではだめだろうな。自分の女性(男性)関係と信仰を照らし合わせてみて、どうかというところだと思うよ。 文学を道徳として読みたいなら勝手だが
下手にキリスト教文献読み漁るより、バフチンや山城のを読んだ方が刺激的なドストを楽しめるようになるぞ 知識をなくして経験のみから読みとるのは危ないことである一方で、経験なくして知識のみに頼るのも同じようにおおくの誤謬を招いてしまう
ドストエフスキーは思想が強いために毒にも薬にもなると思う
最善を目指すべきならば、良く理解し良く使用できるように知識も思惑もかたよらないよう揃えなければいけないね
未成年読んでる(まだ途中)と言ったものだけど、カラマーゾフの原型がよく見られる
偶然ではあるけど、5大長編の最後に読むことになってよかったと思う
例えば、マカール老人から主人公アルカージイへ
「…人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのは難しいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだよ。…」
ゾシマとアリョーシャの関係の元になってるように思える >>696
あくまで最善を目指すならば、だから経験も加えてみた
読書は本来不可侵で自由でなければならないけども、読書に何が必要かを問うのもいいかもしれないね
白状すると自分の読書観は「ショーペンハウエルの読書について」から引用してみた 本を読む本、という本が文庫であるから読んでみ
好きな様に読むのが1番だよ ドストエフスキーの思想とか社会時代背景とか宗教論ロシア正教がとかあんま気にならんけどな
それより、唯一無二の熱気というか各々が語り出したら止まらない分裂病夢遊病者のような迫力っしょ カラマーゾフの最初の方を2ページ半ほど読めた。うれしい >>701
>ドストエフスキーの思想とか社会時代背景とか
>宗教論ロシア正教がとかあんま気にならんけどな
主人公の名前が分離派(ラスコーリニキ)を暗示する
ラスコーリニコフ(引き裂かれたもの)だからね
文字通り分裂症的な気質の持ち主が犯罪を犯して
(西欧によって)汚れたロシアの大地の隠喩である
聖娼婦に屈服して更生の道を歩むというお話
あるいみロシア正教をベースとする
スラブ主義的な勧善懲悪譚なのだともいえるのだけど
ドスト氏自身の気質と執筆当時の精神状態が色濃く投影されているせいか
作品のトーンは滅茶苦茶です 違う世界のことに思いをはせるとき、違う世界は体験できないから
そうおもったんだよね。 ドストの解釈って大正・昭和時代からなんら変わって無いね
どの論文見ても昔と一緒 そなんかなあ?
カラマーゾフ第2の小説を貴重な著作として読む見方は日本の社会思想史上の出来事としては基本の立ち位置として新しかったと受けとめているわ自分。
小林秀雄は真の芸術的天才の力を甘く見縊っていると思った、勿論良い意味でね。
ああ、ワーニカはピーテルへ行っちゃった私は彼を待ったりしない。
では皆さま、良いお年を! またまた、おめでとうございます。
死ねーですー
文学いたの看板すれまでも荒砂よ〜((o(^∇^)o))
つか
ころすぞ!
(*ノ▽ノ) 罪と罰は人間の限界というより遅れある文明の所産だよ。
カラマーゾフの兄弟を勧める。 まんこ太郎の罪と罰と読み比べしないとドストエフスキーを理解したことにはならんな >>706
いや、バフチン以降決定的に変わったでしょ
人生論的な読み方は事実上死滅した また手垢のついたポリフォニー云々かよ、古臭いぜ。うんざりだ。
>>712 「人生論的な読み方」って何だよ? 敷衍してくれ頼む!
ところで利根川にしてもアインシュタイン等々にしても
ノーベル賞受賞者は文学賞に限らずドストエーフスキーを精読、高く評価しているね。 ミウーソフ は こういう『 紋切り型』 に さっと ひと わたり 目 を 通し てから、 じっと 執拗
な 凝視 を 長老 に 投げ た。
彼 は 自分 の観察眼 を 尊重 する 弱点 を 持っ て い た。 もっとも、 これ は 彼 の 五十 という
年齢 を 勘定 に 入れれ ば、 たいてい 許す こと の できる 欠点 で ある。 実際、 この 年配 に
なる と、 賢い、 世慣れ た、 生活 に 不自由 を し ない 人 は、 誰 でも だんだん 自分をうや
まう よう に なるのである。ときとすると無意識に、そうなることもある。
----------------------------------------------------------------
ぼくはずっとカラマゾフ冒頭部分にとどまっている。ぜんぜん先へ進まん。
上に引用したのは初めて長老が登場する場面だ。今手元にある自分の書籍には、10代の自分の
手によって、この箇所に赤鉛筆で四角く囲ってある。
「50になると こうなるんだなぁ」と思ったものだ。そうしていつのまにか この50という年
になった。
今の自分を考える。そうだ... おれは賢い。そして世慣れたといえば世なれている。そして暮ら
しにも不自由してるとはいえない。だから自分では思ってもみたことこともないが、
「自分 の観察眼 を 尊重」してしまい、このミウーソフのごとくになっているのか。 つまり「相手の偉大さ」自分なぞ計ることもできないゾシマの偉大さ・本物の聖人たるに、
『どの 点 から 見 ても、 意地悪 で、 高慢ちき な 老爺 だ!』と初見で断ずる。
もちろん少年とてそうなる場合もあろう。その場合若くとも心は50であるといえまいか。
そもそも他人に敬意をもって接するというのは、「表面の言動」「顔」はもとより「他のいかなる属性」とも関係ないのではないか。
誰かが引用してくれた「…人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのは難しいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだ... 」
この文に強い印象を受けて次の作文をのべた。
「このひとはすばらしい。コイツはだめだ。」ところがわれわれには絶対にそれを知ることができない。なぜなら人間の中に、その生命の中に神秘があるからだ。 >>716
>「このひとはすばらしい。コイツはだめだ。」ところがわれわれには絶対にそれを知ることができない。なぜなら人間の中に、その生命の中に神秘があるからだ。
この、なぜなら、はイイね ドストエフ好きーのみなさんは他はどんな作家が好きなの? トルストイ、シェイクスピア、スウィフトかな
ドストエフスキーにもよく出てくる
それでは良いお年を! >>716
>なぜなら人間の中に、その生命の中に神秘があるからだ。
それはトルストイの考えでは? >>722
> >なぜなら人間の中に、その生命の中に神秘があるからだ。
>
> それはトルストイの考えでは?
あけおめ。トルストイの考えにちかいものがあるのw? ちょっとしか読んだことないからわからない。
これは自分としては「不軽菩薩」を念頭に置いて書きました。
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」
未成年にあるという「…人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのは難しいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだ... 」
この文はほんとうにそのとおりだと生命に響きました。(未成年も読んだことありません) あけましておめでとう!
正月で読む時間がとれていい
何買っとこうかな >>720
カール・マルクス。生誕200年あけおめ
ドストエフ好きーなら何でも読める。 >>662
未成年でもフォンゾンの話が出てくる
(1869年末モスクワの魔窟で官史フォン・ゾンが殺害され、箱詰めにして貨車で送られた事件)
史実っぽいニュアンスだし、そうでなかったとしても、何度も書き記すくらいだからドストエフスキーにとってこの事件は何か意味を含ませているいるように思える 多分そういう人物を嫌いな人間に意味もなくぶつけると面白いだけじゃないかな ワルだった時の若きゾシマならフェラポントと互角に戦える 未成年終わった
他にくらべて宗教色が薄くて読みやすい小説で、これはこれでとても楽しめた
いくつかあるけど印象に残った言葉と疑問がある
1つは未成年ならではのどこか青々しい人生への賛美、主人公アルカージイ
「人間は誰でも、自分の身に起こった出来事で、それが夢であろうと、占いであろうと、予感かあるいはそれに類したなにかであろうと、なにか幻のような、
異常な、とにかく普通ではないほとんど奇跡のようなものと見るような、あるいは見たいと思うような出来事の思い出を、人はひとつやふたつは持っているものである。」 もう一つはマカール老人の言葉
これはドストエフスキー自身のことをいっているじゃないだろうか?
いわゆる、初期の社会主義に傾倒して死刑宣告される前のドストエフスキー自身のことを言っている
「ほんとうの無神論者といえる連中もいる。だがそれがもっともっと恐ろしいのだよ、というのはそういう連中はしょっちゅう神の名を口にするからだよ。…そういうのがいるんだよ、うん、きっといるはずだと、わしはおもうな。」
なにしろ評判より物語がスムーズで、思っていたより面白く読めたがやっぱり彼の本は疲れるw
ちょっと読書は休憩しよう、ではー オーディオブック
上中下とすべ揃ったけど24時間以上あるから通しては聴けないな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています