ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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われわれ個人が力んだりふんばったりしたからといって出てくるものでしょうか? またこういう問題もある。
「正直」で損をし、「 聖徒」として娑婆のもろもろの夢と希望を断念し、「 殉教者」としていのちを捨てる。
ふつう世俗の意味ではぜんぜん幸福ではない。 >>753
おそらくそれは、ぼくより詳しい人がいるだろうけど、それはキリスト教のいう救済とは現世の救済ではなくて、死後の救済をいってるという本質からじゃないかな、おそらくそこにキリスト教の本質があるのかもしれない
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る(ヨハネ福音)」 つまり神によっての正しさと、人間によって正しさは同じでないだろうと思われる、むしろ逆といってもいいのかもしれない
そして>>755の問いに答えることができるならば、聖人の幸福と俗人に幸福は違くてむしろ逆になる
なぜならば一方は地上の、一方は天上の幸福を求めているのだから
ドストエフスキーはこう言った
「人生の存在意義は虚妄か、然らずんば、永遠である。」 >>756
> おそらくそれは、ぼくより詳しい人がいるだろうけど、それはキリスト教のいう救済とは現世の救済ではなくて、死後の救済をいってるという本質からじゃないかな、おそらくそこにキリスト教の本質があるのかもしれない
>
> 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る(ヨハネ福音)」
---------------------------------------------
一知半解でごめんよ。
「死後の救済」という側面はもちろんあろう。しかし、「 正直な人」が苦悩するにもかかわらず この現世において幸福となるのは、神と天が守るからであろう。なぜかならば、神と天は正直を愛するからである。 >>756
> おそらくそれは、ぼくより詳しい人がいるだろうけど、それはキリスト教のいう救済とは現世の救済ではなくて、死後の救済をいってるという本質からじゃないかな、おそらくそこにキリスト教の本質があるのかもしれない
>
> 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る(ヨハネ福音)」
---------------------------------------------
一知半解でごめんよ。
「死後の救済」という側面はもちろんあろう。しかし、「 正直な人」が苦悩するにもかかわらず この現世において幸福となるのは、神と天が守るからであろう。なぜかならば、神と天は正直を愛するからである。 「正義が勝つ」というか「非犯罪者が勝つ」という理をおしたいように思えるけど
キリストの神は悪を犯すものを同時に作っていて罪人(刑法を犯した者)を許せと言ってる
同性愛を禁じると同時に同性愛者自体も神が作ったものとしなくてはいけない
なぜならそれが実際に存在するし真実であるから
シリアルキラーも同じように、その性質すらも神が生み出したと解釈せざるをえない
昔の日本人がザビエルに問うた「神が正義なら何故この世界に悪を生み出してるのか?」
神義論的難問が常にある この世のすべての人は イエスキリストの表れである。
イエスキリスト愛すように貧しい人に接しなさい。 >>760
そうだね、それがドストエフスキーの根本かもしれない
悪を禁止するとともにその悪もまた在る
殺人を禁止するならば殺人者がまず必要となるために
もし正義は報われなければいけないとするならば、ドストエフスキーよりトルストイ好きになるのだろう
ドストエフスキーの結末はだいたい悲劇に終わるからね 殺す主体にあるわけじゃないから 死ぬ客隊にも縁遠く その時間捉えられた人類は数少ないだろう。 とらわれる とらえる ことのないものが時空間だから、確かに難しい表現だ。
客体≒客観の意 以下。 悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である てめーは ちんぽこ おっ勃てて無駄な射精でもしてろよ 射精はしたことないけど夢精はあるぞ。返す片名に性・身体知的精神障碍者差別者が多い。
全人口の100が障碍者だ。害さん。 マッチョなフェラポント神父も
「どうせわしが死んだところで…」みたいなことを言う マッシオの間違いじゃないか?死は速すぎて経験できないだろうな。ジェンケレービチと
哲学していないと。 >>770
>悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である
ドストエフスキーから?それとも聖書かな?
この指し示す考え方はとてもいい、が、問題は別問題であってそれは実践を自分が成せるかどうかだけど >>747
> ドストエフスキーって有名な作家なんですか?
> ノーベル賞とか取ってるんですか??
ドストエフスキーは世界的に有名な作家というよりも西洋の古典です。19世紀でたいして
古くないが、それにもかかわらず、ダンテ シェークスピア ゲーテ トルストイ などと同じく
文学作品という形式で、人類に不滅の寄与をなした。(すいません、変な文しか書けなくて。ひじょうにコンディション悪く)
ことにわれわれ日本人と縁が深く、なかんずく「私」にとって唯一無二です。
ぼくは16歳で世界文学に目覚めました。今も思い出す、ある図書館の暗い書棚の横で。
最初に読んだのは(記憶違いかもだが)ゲーテのファウストの第一部だった。
つぎがダンテの神曲の地獄編だった。そして三番目に手にしたのがドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟。
今ふりかえっても何もわからないボーズが読むのに「なんちゅー趣味や!」と嘆息するほどの、登山で言えばいきなりエベレストから始めるようなものか。
このような選択ができたのも、明治大正昭和の、文学好きな、有名無名の先輩読書人たちが
いたからこそと、推察します。
先にあげた「ダンテ シェークスピア ゲーテ ... ... につづく第六番目の大詩人大作家になるんだ!」と夜ふとんの中で夢想した。(その夢想は早くもハタチ前には消えました。はえーなw ) ぼくは論理的なことは書けないのだけれども ふと思いついたんだけども
あの少年時代 たくさん文学 読書してたころ、いまでいういわゆる「承認欲求」などというものは無かった。ただ、知らない外国の 知らない時代の 偉大なあるいは卑猥な
未知の信仰と 未知の習俗と 大人のまたは青年の 思考と感情とふるまいをのぞき
登場人物たちとのみ 対話してた。ぼくがたくさん読書してることなど だれも知らなかった。
それがいま、あれから何十年という時がたち、インターネットによって こうして第三者に
自分の読書体験について語れるし、批評も受けて、また他人が、ぼく以外の読書愛好家が
「なにを感じたか」知れることは なんたることか?
一見してぜんぜん繋がっていないように思える 技術革新と文学はじつは直結していた
飛躍しますが、「閉じていて」相互に関係ないと思われる世界、たとえばキリスト教と仏教
ロシアと日本なども、実は完全に「ひとつ」なのではあるまいか? 「四 信仰の薄い貴婦人」より
... ねぇ、 わたくし は よく 目 を つぶっ て、 こんな こと を 考える ので ござい ます―― もし すべて の 人 が 信仰 を 持っ て いるとしたら、 どこ から それ を 得 た の でしょ う?
ある 人 の 説によりますと、 すべてかういうことは、 初め 自然界 の 恐ろしい 現象 に対する 恐怖 の 念 から 起こっ た もの で、 神だの来世だのというものはないのだそう で ござい ます。
ところで、 わたくし の考えますに、こうして一生涯 信じ 通し ても、 死ん で しまえ ば 急 に 何もかも なくなっ て しまっ て、 ある 小説家 の 言っているように、『 ただ 墓 の 上 に 山牛蒡 が 生える ばかり』 で あっ たら、 まあ どう で ござい ましょ う。 それ は 恐ろしい こと で ござい ます! 本当に どう し たら 信仰 を 呼び戻す こと
が でき ましょ う かしら? もっとも、 わたくし が 信じ て おり まし た のは、
ほんの 小さい 子供 の ときばかりで、 それ も なん の 考えなしに 機械的 に 信じ て
い た のでございます……
どう し たら、 本当に どう し たら この こと が 証明 でき ましょ う か、 今日 わたく
し は あなた の お前 に ひれ伏し て、 この こと を お尋ね しよ う と 存じ て、 お 邪魔
に あがっ た ので ござい ます。 だって、 もし この 機 を のがし まし た なら、 生涯
わたくし の 問い に 答え て くれる 人 は ござい ませ ん もの。
どう し たら 証明 が でき ましょ う か、 どう し たら 信念 が 得 られ ましょ う か?
ほんとに わたくし は 不仕合せなの で ござい ます。
じっと 立っ て ぐるり を 眺め まし ても、 みんな たいてい どうでもいいような 顔 を し て い ます、 今の世の中に 誰 ひとり 、そんな ことを気にかける 人 は あり ませ ん。
それなのに、 わたくし ひとりだけ、 それ が たまらないので ござい ます。 本当に それ は 死ぬ ほど つろ う ござい ます、 死ぬ ほど!」 >>757
> つまり神によっての正しさと、人間にとっての正しさは同じでないだろうと思われる、むしろ逆といってもいいのかもしれない
究極的に、神の正しさと人間にとっての正しさは一致するものと思います。神の目的は
人間として至極あたりまえの 凡庸な「よい行為」を選択せしめること、その目的は幸福と理解します。
> そして>>755の問いに答えることができるならば、聖人の幸福と俗人に幸福は違くてむしろ逆になる
> なぜならば一方は地上の、一方は天上の幸福を求めているのだから
地上的な幸福と一種天上的な絶対的な幸福は、相補的でなければならない。もしそうでなけば、偽善と観念論におちいりはしまいか?
フェラポントは「眠るときも膝をついたまま」であった。パンと水しか食さなかった。
ゾシマはイチゴジャムに舌鼓をうった。たとえゾシマといえども オマンマを食べずには生きられない。
> ドストエフスキーはこう言った
> 「人生の存在意義は虚妄か、然らずんば、永遠である。」
力強い、真実の言葉です。 昭和期に流行った世界文学全集の類
買った人のうちどれくらいの人が読んだのか怪しいものだが
ああいうのが流行ったおかげで今メルカリで安く買える >>770
> 悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である
力強いが しかし意味がわからない >>781
>究極的に、神の正しさと人間にとっての正しさは一致するものと思います。
>地上的な幸福と一種天上的な絶対的な幸福は、相補的でなければならない。
ならばこう言い換えられるしこの方がしっくりくるので前言訂正するよ
「人生の存在意義は虚妄か、然らずんば、永遠である。」ではなくて、
「人生の存在意義は虚妄であり、しかも、永遠である。」 >>783
そうだったんだ、やはり惹かれるし意味がつよい言葉をよく思いつくよね文豪は
> 悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である >>786
> ならばこう言い換えられるしこの方がしっくりくるので前言訂正するよ
> 「人生の存在意義は虚妄か、然らずんば、永遠である。」ではなくて、
> 「人生の存在意義は虚妄であり、しかも、永遠である。」
待ってくれ。それはドストエフスキーの言葉じゃなかったの? どうあっても そこは
変えちゃダメだ!
「人生の存在意義は虚妄か、然らずんば、永遠である。」に決まっている!!
いっさいぼくに合わす必要などない。ぼくもそうしてる。心から同意できるときだけ「そうだね」といっておくれ。 >>788
その方が合理的だしこれからは原則そうしよう、まーでも読んでみて与った思考は自由だかから改変もいいじゃない時にはね それにあながち間違いではないよ、君がそういったのも
死後の世界があるとすれば、生前の世界は無関係ではなくて相互されていなければならない
補助作用でもいい
ドストエフスキーもそう考えていただろうし(ゾシマ思想とか)、キリスト教もそういう立場の一面はあると言っても間違いにはならないだろうし 死後の世界とかオカルトじゃん聖書はトンデモ本だな訳わからない事考えるより真面目に生きた方がずっといいわ >>791
死後の世界は国や宗教ごとによって違うからな
生前のその人間の死後の世界のイメージが実際の死後に影響するのかもしれん
オカルト的ではあるが イメージというか捉え方か
あるんじゃないかと考えてる人もいるだろうし逆にそんなものは無いって立場の人もいるし /ヾ ;; ::≡=-_ ←仏罰大行進、選挙権不明&行方不明
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|.::::::| 法華講破門 |
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| ( `,,' ≦三三
| ヽ \_/ゝ'゜ ≦三三 ゜。 ゜マハーロ、バカヤロー、キンマンコ!!
ヽ ヽ \ ≧ 三三==-
\_\__-ァ, ≧=- 憚りながら、戒名貰って密葬したい・・・ヒデブッ!! でも文学とは形而上的でいいと思うけどね
唯物的なものは現実から、概念的なものは文学からとらえてバランスよくって感じで
死後の世界を巡らない神曲や亡霊の出てこないハムレット、永遠の魂を奪わないファウストなんて何を汲み取れるというのか
ドストエフスキー好きで(そう仮定するとだけど)唯物論の無神論者だったら、帰って危ないよw
キリーロフでも目指すのは悲劇だ >>795
>ここはフォン・ゾンばっかか
これ使おうとおもってて先をこされたw > 同性愛を禁じると同時に同性愛者自体も神が作ったものとしなくてはいけない
> なぜならそれが実際に存在するし真実であるから
突然すすりなき の 声 が ミーチャ の 胸 を ほとばしり 出 た。 彼 は アリョーシャ の 手 を 取っ た。
「ねぇおまえ、深き汚れだ、いまでもおれは深き汚れに 沈ん でる ん だ。 人間 という もの は 恐ろしく いろんな悲しい 目 に あう もん だ よ。 恐ろしく いろんな 不幸 を経験するもんだよ!
しかしおれは単に 将校 の 肩書き を 持って、 コニヤク を 飲ん だり極道な まね を したりする、虫けらのようなやつだと 思わ ない で くれ。
おれ はほとんど この こと ばかり 考え て る ん だ。 この 深き 汚れ に 沈ん だ 人 の こと をね。
中略 もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね。
まったくいまとなっておれはうそをついたり、 空威張り を し たりしないように
願っているよ。 おれ が この 人 の こと を 考えるのは、 つまり おれ がそれと 同
じ よう な 人間 だ からさ。
堕落のふちより 魂を
振るい起こすを望みなば
古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに
しかし、 ただ どうして おれ が 大地 と永遠に 結び 合うの か、 それ が 問題
な ん だ。 おれ は 大地 に 接吻 も し なけれ ば、 大地 の 胸 を えぐることも し
ない。 おれ に 百姓 か 牛 飼い にでも なれ っていう の か? こうして おれ は
進ん で 行き ながら、 自分 が 悪臭 と 汚辱 に 足 を 踏み込んでいる のか、 それ
とも 光明 と 歓喜 の 中 へはいってるのか、 自分でも見分けがつかないのだ。
こいつ が どうも やっかい なの だ、じっさい この 世の中 では、
いっさい が 謎 な ん だ!
(つづく。長文引用) しかし神義論の仮定は異教徒などを含めるととんでもないことになるな
キリスト教を滅ぼそうとする異教徒すらも神の賜物としなければならなくなる
それらに打ち勝てという教えになるんだろうか >>801
そうなんだよね
自分に害をなす存在をも最善の構築のために肯定しなければならない
そこから始めて、世界のあり方もだから最善であると肯定しなければならない
イワンが入場料が高すぎると言ったのも頷ける /ヾ ;; ::≡=-_ ←仏罰大行進、選挙権不明&行方不明
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そして、今の人間世界は「神にも失敗がある。また神の罰や地獄がある。」という
幻想(誤解)によって成り立っているが、
真実(正解)は「神は真に愛のみで、全知全能・完璧であり、失敗は有りえない。
神にも、また(常に神に導かれている)人間にも、完璧・成功(最善)しか起こらないし、起きていない」。
そして神は(神の目には悪人は誰もいないとし)全ての人間を愛し、
各自に最善の必要な物は全て与えているが >>805 >>803
その神義論が正しいとするならば、悪霊で、今ある在り方が最善であるとしたものはいた(無神論から始めているけど)、もう一人は信仰で
で、2つのやり方で世界を肯定しうおうと試みたものがいる
アリョーシャ「きっとまた会えます。過ぎ去ったことをお互い楽しく話し合っいます。」
永遠の魂(信仰による)で永生があるのだからと、この世のすべてはただ超えていくものだとした(とおもう) もう一人は悪霊からで、
まえにもレスがあったがキリーロフの思想だけど、
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいても、やっぱりすばらしい。叩き潰さない者も、やっぱりすばらしい。
すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。」
で、「すべてよし!、そは正し!」に至る
そう言って彼は「地上の永遠の生」と自由を主張するために自殺せざるをえなくなる
彼もまた無神論でありながら世界を最善とみなした
(根拠で無神論者の彼が世界を肯定できたかはわかりません) >>779
> 「四 信仰の薄い貴婦人」より
>
> ... ねぇ、 わたくし は よく 目 を つぶっ て、 こんな こと を 考える ので ござい ます―― もし すべて の 人 が 信仰 を 持っ て いるとしたら、 どこ から それ を 得 た の でしょ う?
こういうことを考えること自体が稀有ではないか? 「すべて の 人 が 信仰 を 持っ て いるとしたら」... そう、すべての人はなんらかの信仰を持っている。
> 神だの来世だのというものはないのだそう で ござい ます。
科学的に考えれば、心の奥底の疑念としては、それこそ最高度に合理的でないか。
> ところで、 わたくし の考えますに、こうして一生涯 信じ 通し ても、 死ん で しまえ ば 急 に 何もかも なくなっ て しまっ て、 ある 小説家 の 言っているように、『 ただ 墓 の 上 に 山牛蒡 が 生える ばかり』 で あっ たら、 まあ どう で ござい ましょ う。
『 ただ 墓 の 上 に 山牛蒡 が 生える ばかり』 というイメージが、昔読んだときとても印象に残った。 >>780
> それ は 恐ろしい こと で ござい ます! 本当に どう し たら 信仰 を 呼び戻す こと
> が でき ましょ う かしら?
「それは」とは、学問的にはどうやっても証明不能であるところの「来世」など無いという、極めて確度の高い大疑念のことである。
つぎに夫人は、「どう し たら 信仰 を 呼び戻す こと が できますでしょ う か?」とゾシマに問う。
なぜかならゾシマは民衆の父にして教師だからである。この場合価値があるのは、来世が存在してることを第三者的態度で「わかる」ことではない。
ゾシマが「信ずる」とおりに自分も信じようとしているのだ。
> もっとも、 わたくし が 信じ て おり まし た のは、
> ほんの 小さい 子供 の ときばかりで、 それ も なん の 考えなしに 機械的 に 信じ て
> い た のでございます……
そうだ... ホフラコーヴァは今迷って不安なのだ。つまり不幸なのだ。だからぜったいに信じられるものがほしい。子供のときに母親がそばにいないで泣いたように。... それで「千里を遠しとせず」ゾシマのもとへ集った。 >>780
> どう し たら 証明 が でき ましょ う か、 どう し たら 信念 が 得 られ ましょ う か?
> ほんとに わたくし は 不仕合せなの で ござい ます。
> じっと 立っ て ぐるり を 眺め まし ても、 みんな たいてい どうでもいいような 顔 を し て い ます、 今の世の中に 誰 ひとり 、そんな ことを気にかける 人 は あり ませ ん。
「みんな たいてい どうでもいいような 顔 を し て い ます」ああ、まさに真実の言葉。
だれも考えぬ。来世のことなど。あるかなきか思考してもわかるわけもなく、今の生活が大事なんだ。
ひとはどういうときに来世のことを考えるのか? ガンにおかされた時か?
ちなみにおれは、最近は来世のことしか考えないw。来世にすべてを賭けている。
カネモになることも、16人の美少女に囲まれて恋愛しまくることも。
> それなのに、 わたくし ひとりだけ、 それ が たまらないので ござい ます。 本当に それ は 死ぬ ほど つろ う ござい ます、 死ぬ ほど!」
ドストエフスキーはこのときのホフラコーヴァを評して「それ は 多く の 点 で真に 善良 な 資質 を もっ た、感じやすい上流 の貴婦人で あっ た。」とコメントしている。
>>782
> 信仰が薄い人が信仰が高い人だ。
と誰かが言ったが、このときの夫人は誠実に見える。しかしその後のホフラコーヴァを知るひと(つまりカラマゾフを読了したひとは 「信仰の薄い貴婦人」と著者が呼んだわけを
知ることになる) 罪と罰、カラマーゾフを読み終わって
今悪霊を読んでるんだけど
ドストエフスキーの小説のキャラクターはイケメンが多くてテンション上がります >>785
> > 悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である
>
> 力強いが しかし意味がわからない
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> 善とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て悪である
のまちがいでないか? それも神義論
「完全な善性である神が生み出したこの世界に悪などあるはずがない」
神との対話で言われてるのと同じ ていうか神義論あみだしたの日本人なんじゃあるまいか
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
日本の各地でザビエルは布教するのですが、
出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。
それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。
そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、
今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、
洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、
やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・
当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。
元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、
ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。
「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。
全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に
造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』などと質問され
答えに窮していたようです。 神義論はユダヤの神を「完全な善」としてしまって生じた矛盾からくる問題なんだろうが
ユダヤ教にもある程度適用できる
例えば同性愛者の問題で、聖書中では神は明確に同性愛を禁止、否定してるが
リアルでは完全な生まれつきの同性愛者は実際存在する
だとしたらそれは神が生み出した、と考えなくてはならない
本質的同性愛者は存在しないのか?
精神病で同性愛になるとしなければいけないのか?
「同性愛なんてものは非ユダヤに起こるものであって、真性なるユダヤ人にはそんなものは存在しない」
とか考えたりするのだろうか 神義論について最近思うことがあるんだけどいいかな
ドストエフスキーが若い頃に傾倒していたフーリエはこう言った
「何にしろ、神の望むシステムに一番似ているのは社会主義である。」
つまりロボットのような世界で、そして善のみしか行わない集団、神を頂点にしか見ない人間
とりも直さず、神義論のいう善のみで創られた世界である
神は全知全能だからそう創ることができたはずであって、別にそうなっても正常だったし不思議はなかった でも注目しなければならないのは、そうならなかったという事!
ドストエフスキーの作品で答えを探してみる
ヒントは、ドストエフスキーがいつの間にか社会主義という集団から「個人」をあつかう物語と登場人物に特化していったという事
人間の意思をあらわそうとしているような最期の作品であるカラマーゾフの兄弟からもみえる
神の望む世界は本当は、「神の望むシステムに一番似ているのは民主主義(のような)である。」ではないだろうか?
つまり、ロボットのようではなくて、「まず」意思を持ってそれでも「善を目指す者」であり、善と悪を知った上でそれでも「善の世界を望む者」を神は望んだのではないだろうか? そう考えると、あくまで以上が正しかったならばだけど、善を完全に創る時に反対の概念も必要として悪も含んで世界を創られた
長くなってしまったがw、何が言いたいというかというとね
「人間が善さえ選ぶならば、この世界に悪があろうと神のいう善のみの世界は作れる」、「その悪でさえ善を完全にする為に必要だった要素ならば、悪も善に変わる、『つまりこの世界は善のみでつくられている!』」
屁理屈すぎるかなw >>814
自分の中に善性を求めて相手に悪性を見いだすというのは、世界を自分で変えることが出来るという思惑が含まれているように思える(独善的といってもいい)
トルストイは答えを極端に走って(これが強靭のゆえんでもあるが)、究極的なやり方で善性の世界をつくろうとしたと思う
彼は人間が幸福になるためには、自己自身から自己を分離して自分(の欲望)を放棄しなければならないとした、他人に奉仕することで自分も幸福になれると
だからこうなったんじゃないかな
自分が正しくて相手がわるいではなくて、自分がわるくて相手が正しい(と思わなければいけない)
「悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である」
自虐的ではあるが、それが叶ったら、今の世界よりは完璧とは言わないが少しはマシになるかもしれないよ
譲り合う世界ってのは悪くないきっと >>819
じゃあ生来的な悪人とか貧困に落ちたごろつきのような人間は同考えればいい?
それらも神が生み出したのだとすれば「何が善なんだ?」という問が常に問われ続ける
結局不法行為を行ったり、堕落したり、「そんなものは悪でもなんでもない」としなければいけなくなる
ドストエフスキーは罪人や堕落した人々の側の人間として
トルストイは高潔で道徳ある側の人間として
恐らく近い答えに近付いたんだろう トルストイの戦争と平和にある
「正義とはただ2つ、真実と勤勉のみである
悪とはただ2つ、虚妄と怠惰のみである」
これも神義論だ
不法行為で和を乱すなんてものが悪であっていいはずがない
ミーチャのような人間が悪なる者であってはならない 以前蟹工船が売れまくった時期があったけど
ドストエフスキーの作品はこの不安定な時代に読んでほしい作品なのです >>822
>「そんなものは悪でもなんでもない」としなければいけなくなる
お察しの通り残念ながらこれが神義論の答えだと思うよ、とても残念だし受け入れ難いけど
付け加えるならば、神義論のいう善とは個人にとっての善ではなくて全体にとっての善であるがために時として個々の悪も全体の善への要素として求められる必要が出てきてしまう カミュのペストで神父が世界をそのまま受け入れようと試みる瞬間がある
「罪なきものが目をつぶされる時、キリスト者はその信仰を失うか、罪なきものが目を潰されるのを受け入れなければならない」
おそらくこれもまた神義論になる、というよりこれが神義論の本質かもしれないよ 個人的な感情では、ぼくは最善論を支持できない
笑うところだけど、ぼくは全体の幸福のために個人の幸福など取るに足らないと理論的に説明できるし根拠すら示せるかもしれない
だけどどうしても、個人の幸福と全体の幸福をくらべたとき、感情として個人の幸福の方が大切だと思ってしまうよ
ちなみに戦争と平和のその文節は自分も目をとめた記憶がはっきりあるw
的確ではあるけど難しい意味の多くを含んだ言葉だ >>824
蟹工船はやったよね
なんか暗くなりそうで手を出さなかったけどw まず神義論という言葉自体が初耳だった。
それは「神が創った世界に、なぜ悪があるのか?」ということだと、お兄さんたちの
会話で知った。
ぼくには「神が創った世界」という前提自体がまちがっていると感じた。
否、それ以上に抽象的すぐると。個別具体性がないと。
たとえばドストエフスキーの作品世界に則して語って欲しい、とも感じた。
昔の日本人がザビエルに問うた「神が正義なら何故この世界に悪を生み出してるのか?」
とは
「そもそも君たち毛唐の神など存在していないよ」ということをひねって訊ねているのであろう。 ドストエフスキーの作品世界では、「そもそも神など存在していない」という大疑念が
根本テーマのひとつとして提出されているではないか?
だからこそ、世界文学の金字塔として、閉じたキリスト教文化圏をはるかに超えて、
世界中で読まれ、深い感動を与え、論議され続けるている、一要因でないか? あ、ごめんw
ちゃんと読めてなかった。なるほどね... あとで書きなおすねw カラマーゾフの兄弟は、ドストエフスキーの真意は
(根拠なく、独善的に、狂的に、書きますが)
「神など存在していない」だと思います。もちろん「来世もない」と。
つまり、神もなく来世もなくとも、ゾシマやアリョーシャのごとく生きられる。
神も不死もなくとも「信仰」によって あるのと同じことになる。いやこの表現は
ちがう。
「信」のなかに「神の世界がある」し現出するのであろう。
以前から引用してる「熱烈 なる 心 の 懺悔」の続きを
----------------------------------------------------------------
この 世の中 の こと と いえ ば いっさい がっ さい が 謎 な ん だ! おれ が 深い 深い
放蕩 三昧 の 底 へ はまりこん で 行く よう な とき には( おれ には そんな こと より
ほか に 何 も でき やし ない の だ)、 いつも おれ は、 この セ レース の 歌 と『 人』
の 詩 を 読ん だ もの だ。 しかし、 それ が おれ を 矯正 し た だろ う か? けっし
て けっして! だって、 おれ は カラマゾフ な ん だ もの。 どうせ 無限 の 底 へ 飛
びこむ の なら、 いっそ 思いきり まっ さかさか さま に 落ちる が いい ん だ、 しかも、
そんな 恥ずかしい 状態 に 落ちる のを 喜ん で、 それ を 自分 にとって 美的 だ と 考
え て いる の だ から なあ。 そして、 こうした 屈辱 の まっ ただ中 で、 おれ は 不意
に、 讃 美 歌 を うたい だす の だ よ。 たとえ おれ は のろわ れ た きたない 下劣 な
人間 にも せよ、 神様 の 着 て ござる 衣 の 端 に 接吻 し た って いい はず だ。 それ
と 同時に、 たとえ 悪魔 の 後ろ に ついて行っ ても、 おお 神様、 わたし は あなた
の 子供 です。 わたし は あなた を 愛し ます、 そして 喜び を 感じ ます。 この 喜び
なく し ては 世界 も 存立 する こと が でき ませ ん。
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こうした胸中の戦いこそ、信と不信の彷徨こそ、神であり来世である。
この戦いに負けるものこそ、この世の悪であり、悪魔と呼ばれるところのものである。 .... じつは書きながら、おかしなこと書いてると、自覚しながら書いているのさ。
神も来世もないと思いながら信仰できないね?
... そう、ぼくは「来世がある」と確信している。だが同時に「来世も仏もない」という疑いも、この瞬間に同時に存在してる。
次の箇所は「美について」語られたところだけど、すべては「この胸の中」にあるんだと、
ぼくは理解する!
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美――美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが
出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様に人間に謎ばかりかけていら
しゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住
んであるのだ。俺は無教育だけれど、この事はずいぶん考え抜いたものだ。実に神
秘は無限だなあ!この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめてるよ。こ
の謎が解けたら、それは濡れずに水のから出て来るようなものだ。ああ美が!その
上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持つ立派な人間まで
が、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の
理想を持って終わるという事なんだ。いや、まだまだ怖ろしい事がある。つまり悪
行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも
否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に
燃やしているのだ。いや実に人間の心が広い、あまり広すぎるぐらいだ。俺は出来
る事なら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分かりやしない、本当に!理
性の目で汚辱と見えるものが、感情の目に立派な美と見えるんだらかなあ。一体悪
行(ソドム)の中に美があるのかしらん?……
つまり 悪魔 と 神 が 戦っ て い て、 そして その 戦場 が 人間 の 心 な ん だ。 (書き込みテスト)
とことわのよろこびは
人のこころを水かいつ
発酵の秘力もて
いきのいのちの杯に
炎をもやす >>825
残念ながらそれは不完全な世界だな
神は同性愛者を作ると同時に同性愛を禁じ、
「同性愛者は絶対天国へいけず報われない存在」として作ったのか?
じゃあすべての人に救いがあるなんてはずがないな
誰が悪を作ったか?サタン?サタンも神の使いですが >>830
元々社会主義に傾倒していたのに、それが「反キリストすぎる」と言って脱会したドストやで >>835
ドストエフスキーのキリスト教観で答えを見つけていこうと思うよ
最初に言っておくけど自分は問題を投げかける立場として反駁するけど、同性愛禁止を支持するわけではないと断っておくよ
対話すればいい答えが出るかもしれないし(そのために最善論側に立ってみる)、少なくともここの人は議論できる人が多いとも思ってるので意味だけくみ取って欲しい まず、この誰でもとは「神を信じる誰でも」に限定されるんじゃないかな
そして同性愛に生まれてしまったことで罰せられるんではなくて、「同性愛の正当化」を禁止している
例えば同性愛者は神に与えられた役割を持っている
禁止(罪)が一つ増えれば善が一つ増えるといえる、なぜならば「善き行いとは悪しき行いを積極的にしない」ということと言い換えることが可能ではないかな
ハッキリと露見していないだけで、誰でもなんらかの罪と呼ばれる役割を持っているんだろうけどね
世界(神を信仰するもの限定で)を完全にするために反対の概念、つまり禁止(罪)存在が必要となる なぜそう思うのかというと、罪と罰のソーニャがそう言えるんじゃないかと以前から思えるところがある
売春婦として家族の貧困を支える彼女は果たして罪なのだろうか?
これはドストエフスキーの壮絶な読者への問いでもあるし、当時の教会観に対する一つに反抗じゃないかな
彼は多くの姦淫を犯すことで生活を支える彼女(ソーニャ)を積極的な聖女として書いている
彼女は売春婦ではあるが、その行為ゆえに罰せられるのではないだろう、むしろその行為によって救われるんじゃないだろうか
彼女の禁止(罪)とは人を助けないということだから
ラスコリニコフにとっての罪とはまさに反対だ つまり何が言いたいかというと、遊ぶ金欲しさに売春するものとソーニャのように自己を売るものとでは、行為自体は同じでも本質的に違うということ
同性愛者もその同性愛によって苦悩するものと、感受して同性愛を楽しむものとでは本質が違うんじゃないかな
(もしこのぼくの考えで気分を害したものがいるならどうか悪く思わないで欲しい、あくまでドストエフスキーのキリスト教観に沿っていうとといのを忘れないで欲しいともう一度言わせてもらうよ) 賭博者読んでるけど面白い
負けをとりかえしたい描写とかすごいわかる >>837
>>838
>>839
>>840
生きているアリョーシャを見るがごとくだ。どこかでシェークスピアを評して
シェークスピアがなにを語ったかではなく「どう語ったか」が大事だ、と読んだ
(もしこのぼくの考えで気分を害したものがいるならどうか悪く思わないで欲しい)
大切なのは心だ。
相手への配慮だ。表面的な言葉づかいの粗い・柔らかいではない。
文や言葉は自分を偽ることもできる。
しかし全体の中にその人の心が透けてくるのだ。 >>841
> 賭博者読んでるけど面白い
> 負けをとりかえしたい描写とかすごいわかる
賭博のシーンといえばトルストイの戦争と平和のアレのほうが詩的で印象に残ってるよ!
読んだァ? >>836
> 元々社会主義に傾倒していたのに、それが「反キリストすぎる」と言って脱会したドストやで
ドスト最晩年の言葉に「神が存在していないとしても、わたしはキリストとともにありたい」
ってあったんでしょw ?
詳しく知らんけど >>835
「同性愛者は絶対天国へいけず報われない存在」となってんのかい?
でも、大したことないっちゃーいえばないよなw(タメ口ごめんw )
ついでにソーニャも。今で言えばXVIDEO だろ?XVIDEO がなかったら全世界の友が困るんだぜ!!
遊ぶ金だっているぜっ マンマ食べる金も。 おれは「神が同性愛を」より
なぜひとは同性愛になるのか? また、なぜわれらはそれを嫌悪するのか?
の議論の方に興味がある。 >>849
なるんじゃなく、生まれついてゲイなんだよ
だとしたら、それは「完璧で全き善の神が生み出している」他はない、キリスト教だとそうなる
それでいて男色家は絶対神の国に入れないと聖書ではいってる
どういうことだ?自ら生み出しておきながらそれを拒絶する?
生来的売春婦になるような境遇、性質の人間もいる
だとしたらそういう人種も「神が生み出したに他ならない」
自ら生み出しておいて呪われた存在とするのか?
じゃあ呪われた存在の側はどうすればいい?
これが神義論的考え >>844
>ドスト最晩年の言葉に「神が存在していないとしても、わたしはキリストとともにありたい」
悪霊でも出でくるし作家の日記にも同じことが書かれているのかもしれない
悪霊では、若い頃にスタヴローギンがシャートフに言ったと物語では出てくる
あのスタヴローギンでさえ信じようとした頃があったんだろう
あのスタヴローギンでさえ キリスト教の教えを大事にしているのでは
私は神を信じてなんぞないが、キリスト教の教えは素晴らしいものだと思うよ >>850
マカール老人から主人公アルカージイへ
「…人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのは難しいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだよ。…」
と『未成年』にあることを紹介してもらった。(ぼく自身は読んだことない)この言葉がまず思い浮かんだ。じっさいに人間の諸問題はすべて複合していて、とうてい人智で測れないものがある。
> なるんじゃなく、生まれついてゲイなんだよ
これについても疑問だ。それもひとつの説じゃないのか?たしかに生得的な側面もあるでしょう。しかし後天的というか環境要因というか、いろいろだと。
> だとしたら、それは「完璧で全き善の神が生み出している」他はない、キリスト教だとそうなる
きみがこの「神義論」とたとえとして「同性愛」を持ちだして、ほんとうに語りたいところはなんなのか、ぼくにはわかってないと思う。
キリスト教徒でないし、聞きかじりだが、旧約は『罰する神」で新約聖書は『許す』だと読んだことがある。
それで整合性がとれてないか? 歴代の論者はどう言ってるの?
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ぼく自身の考えなら、
同性愛どころか、殺人すら「許される」
この『許される」というのは、ここはドストスレだからキリスト教用語に仮託して書いてるだけで、ほんとはちがう。
それも
戦争や緊急避難の殺人が許されるのでなく、宅間守みたいのも許される。
いっさいがっさい許される。
いかにいわんや同性愛など、ほっとけばなおると思ってる。
人間が許すのではない。
キリストの神が許すのでもない。
人間の生命をつきつめれば、とうぜん そのように帰結されるだろう。
ゾシマは
「神の小鳥、しあわせの小鳥 ... 全ての人に対して罪がある」と述べた。
(第六編 ロシヤの僧侶 に詳細な解説あり、往いて見よ) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています