ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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そして、今の人間世界は「神にも失敗がある。また神の罰や地獄がある。」という
幻想(誤解)によって成り立っているが、
真実(正解)は「神は真に愛のみで、全知全能・完璧であり、失敗は有りえない。
神にも、また(常に神に導かれている)人間にも、完璧・成功(最善)しか起こらないし、起きていない」。
そして神は(神の目には悪人は誰もいないとし)全ての人間を愛し、
各自に最善の必要な物は全て与えているが >>805 >>803
その神義論が正しいとするならば、悪霊で、今ある在り方が最善であるとしたものはいた(無神論から始めているけど)、もう一人は信仰で
で、2つのやり方で世界を肯定しうおうと試みたものがいる
アリョーシャ「きっとまた会えます。過ぎ去ったことをお互い楽しく話し合っいます。」
永遠の魂(信仰による)で永生があるのだからと、この世のすべてはただ超えていくものだとした(とおもう) もう一人は悪霊からで、
まえにもレスがあったがキリーロフの思想だけど、
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいても、やっぱりすばらしい。叩き潰さない者も、やっぱりすばらしい。
すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。」
で、「すべてよし!、そは正し!」に至る
そう言って彼は「地上の永遠の生」と自由を主張するために自殺せざるをえなくなる
彼もまた無神論でありながら世界を最善とみなした
(根拠で無神論者の彼が世界を肯定できたかはわかりません) >>779
> 「四 信仰の薄い貴婦人」より
>
> ... ねぇ、 わたくし は よく 目 を つぶっ て、 こんな こと を 考える ので ござい ます―― もし すべて の 人 が 信仰 を 持っ て いるとしたら、 どこ から それ を 得 た の でしょ う?
こういうことを考えること自体が稀有ではないか? 「すべて の 人 が 信仰 を 持っ て いるとしたら」... そう、すべての人はなんらかの信仰を持っている。
> 神だの来世だのというものはないのだそう で ござい ます。
科学的に考えれば、心の奥底の疑念としては、それこそ最高度に合理的でないか。
> ところで、 わたくし の考えますに、こうして一生涯 信じ 通し ても、 死ん で しまえ ば 急 に 何もかも なくなっ て しまっ て、 ある 小説家 の 言っているように、『 ただ 墓 の 上 に 山牛蒡 が 生える ばかり』 で あっ たら、 まあ どう で ござい ましょ う。
『 ただ 墓 の 上 に 山牛蒡 が 生える ばかり』 というイメージが、昔読んだときとても印象に残った。 >>780
> それ は 恐ろしい こと で ござい ます! 本当に どう し たら 信仰 を 呼び戻す こと
> が でき ましょ う かしら?
「それは」とは、学問的にはどうやっても証明不能であるところの「来世」など無いという、極めて確度の高い大疑念のことである。
つぎに夫人は、「どう し たら 信仰 を 呼び戻す こと が できますでしょ う か?」とゾシマに問う。
なぜかならゾシマは民衆の父にして教師だからである。この場合価値があるのは、来世が存在してることを第三者的態度で「わかる」ことではない。
ゾシマが「信ずる」とおりに自分も信じようとしているのだ。
> もっとも、 わたくし が 信じ て おり まし た のは、
> ほんの 小さい 子供 の ときばかりで、 それ も なん の 考えなしに 機械的 に 信じ て
> い た のでございます……
そうだ... ホフラコーヴァは今迷って不安なのだ。つまり不幸なのだ。だからぜったいに信じられるものがほしい。子供のときに母親がそばにいないで泣いたように。... それで「千里を遠しとせず」ゾシマのもとへ集った。 >>780
> どう し たら 証明 が でき ましょ う か、 どう し たら 信念 が 得 られ ましょ う か?
> ほんとに わたくし は 不仕合せなの で ござい ます。
> じっと 立っ て ぐるり を 眺め まし ても、 みんな たいてい どうでもいいような 顔 を し て い ます、 今の世の中に 誰 ひとり 、そんな ことを気にかける 人 は あり ませ ん。
「みんな たいてい どうでもいいような 顔 を し て い ます」ああ、まさに真実の言葉。
だれも考えぬ。来世のことなど。あるかなきか思考してもわかるわけもなく、今の生活が大事なんだ。
ひとはどういうときに来世のことを考えるのか? ガンにおかされた時か?
ちなみにおれは、最近は来世のことしか考えないw。来世にすべてを賭けている。
カネモになることも、16人の美少女に囲まれて恋愛しまくることも。
> それなのに、 わたくし ひとりだけ、 それ が たまらないので ござい ます。 本当に それ は 死ぬ ほど つろ う ござい ます、 死ぬ ほど!」
ドストエフスキーはこのときのホフラコーヴァを評して「それ は 多く の 点 で真に 善良 な 資質 を もっ た、感じやすい上流 の貴婦人で あっ た。」とコメントしている。
>>782
> 信仰が薄い人が信仰が高い人だ。
と誰かが言ったが、このときの夫人は誠実に見える。しかしその後のホフラコーヴァを知るひと(つまりカラマゾフを読了したひとは 「信仰の薄い貴婦人」と著者が呼んだわけを
知ることになる) 罪と罰、カラマーゾフを読み終わって
今悪霊を読んでるんだけど
ドストエフスキーの小説のキャラクターはイケメンが多くてテンション上がります >>785
> > 悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である
>
> 力強いが しかし意味がわからない
---------------------------------------------------------------------------
> 善とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て悪である
のまちがいでないか? それも神義論
「完全な善性である神が生み出したこの世界に悪などあるはずがない」
神との対話で言われてるのと同じ ていうか神義論あみだしたの日本人なんじゃあるまいか
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
日本の各地でザビエルは布教するのですが、
出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。
それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。
そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、
今、どこでどうしているのか」ということだった。
つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、
洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、
やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・
当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。
元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、
ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。
「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。
全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」
この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に
造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』などと質問され
答えに窮していたようです。 神義論はユダヤの神を「完全な善」としてしまって生じた矛盾からくる問題なんだろうが
ユダヤ教にもある程度適用できる
例えば同性愛者の問題で、聖書中では神は明確に同性愛を禁止、否定してるが
リアルでは完全な生まれつきの同性愛者は実際存在する
だとしたらそれは神が生み出した、と考えなくてはならない
本質的同性愛者は存在しないのか?
精神病で同性愛になるとしなければいけないのか?
「同性愛なんてものは非ユダヤに起こるものであって、真性なるユダヤ人にはそんなものは存在しない」
とか考えたりするのだろうか 神義論について最近思うことがあるんだけどいいかな
ドストエフスキーが若い頃に傾倒していたフーリエはこう言った
「何にしろ、神の望むシステムに一番似ているのは社会主義である。」
つまりロボットのような世界で、そして善のみしか行わない集団、神を頂点にしか見ない人間
とりも直さず、神義論のいう善のみで創られた世界である
神は全知全能だからそう創ることができたはずであって、別にそうなっても正常だったし不思議はなかった でも注目しなければならないのは、そうならなかったという事!
ドストエフスキーの作品で答えを探してみる
ヒントは、ドストエフスキーがいつの間にか社会主義という集団から「個人」をあつかう物語と登場人物に特化していったという事
人間の意思をあらわそうとしているような最期の作品であるカラマーゾフの兄弟からもみえる
神の望む世界は本当は、「神の望むシステムに一番似ているのは民主主義(のような)である。」ではないだろうか?
つまり、ロボットのようではなくて、「まず」意思を持ってそれでも「善を目指す者」であり、善と悪を知った上でそれでも「善の世界を望む者」を神は望んだのではないだろうか? そう考えると、あくまで以上が正しかったならばだけど、善を完全に創る時に反対の概念も必要として悪も含んで世界を創られた
長くなってしまったがw、何が言いたいというかというとね
「人間が善さえ選ぶならば、この世界に悪があろうと神のいう善のみの世界は作れる」、「その悪でさえ善を完全にする為に必要だった要素ならば、悪も善に変わる、『つまりこの世界は善のみでつくられている!』」
屁理屈すぎるかなw >>814
自分の中に善性を求めて相手に悪性を見いだすというのは、世界を自分で変えることが出来るという思惑が含まれているように思える(独善的といってもいい)
トルストイは答えを極端に走って(これが強靭のゆえんでもあるが)、究極的なやり方で善性の世界をつくろうとしたと思う
彼は人間が幸福になるためには、自己自身から自己を分離して自分(の欲望)を放棄しなければならないとした、他人に奉仕することで自分も幸福になれると
だからこうなったんじゃないかな
自分が正しくて相手がわるいではなくて、自分がわるくて相手が正しい(と思わなければいけない)
「悪とは私がなす行為の中にあり、他人が私になす行為は全て善である」
自虐的ではあるが、それが叶ったら、今の世界よりは完璧とは言わないが少しはマシになるかもしれないよ
譲り合う世界ってのは悪くないきっと >>819
じゃあ生来的な悪人とか貧困に落ちたごろつきのような人間は同考えればいい?
それらも神が生み出したのだとすれば「何が善なんだ?」という問が常に問われ続ける
結局不法行為を行ったり、堕落したり、「そんなものは悪でもなんでもない」としなければいけなくなる
ドストエフスキーは罪人や堕落した人々の側の人間として
トルストイは高潔で道徳ある側の人間として
恐らく近い答えに近付いたんだろう トルストイの戦争と平和にある
「正義とはただ2つ、真実と勤勉のみである
悪とはただ2つ、虚妄と怠惰のみである」
これも神義論だ
不法行為で和を乱すなんてものが悪であっていいはずがない
ミーチャのような人間が悪なる者であってはならない 以前蟹工船が売れまくった時期があったけど
ドストエフスキーの作品はこの不安定な時代に読んでほしい作品なのです >>822
>「そんなものは悪でもなんでもない」としなければいけなくなる
お察しの通り残念ながらこれが神義論の答えだと思うよ、とても残念だし受け入れ難いけど
付け加えるならば、神義論のいう善とは個人にとっての善ではなくて全体にとっての善であるがために時として個々の悪も全体の善への要素として求められる必要が出てきてしまう カミュのペストで神父が世界をそのまま受け入れようと試みる瞬間がある
「罪なきものが目をつぶされる時、キリスト者はその信仰を失うか、罪なきものが目を潰されるのを受け入れなければならない」
おそらくこれもまた神義論になる、というよりこれが神義論の本質かもしれないよ 個人的な感情では、ぼくは最善論を支持できない
笑うところだけど、ぼくは全体の幸福のために個人の幸福など取るに足らないと理論的に説明できるし根拠すら示せるかもしれない
だけどどうしても、個人の幸福と全体の幸福をくらべたとき、感情として個人の幸福の方が大切だと思ってしまうよ
ちなみに戦争と平和のその文節は自分も目をとめた記憶がはっきりあるw
的確ではあるけど難しい意味の多くを含んだ言葉だ >>824
蟹工船はやったよね
なんか暗くなりそうで手を出さなかったけどw まず神義論という言葉自体が初耳だった。
それは「神が創った世界に、なぜ悪があるのか?」ということだと、お兄さんたちの
会話で知った。
ぼくには「神が創った世界」という前提自体がまちがっていると感じた。
否、それ以上に抽象的すぐると。個別具体性がないと。
たとえばドストエフスキーの作品世界に則して語って欲しい、とも感じた。
昔の日本人がザビエルに問うた「神が正義なら何故この世界に悪を生み出してるのか?」
とは
「そもそも君たち毛唐の神など存在していないよ」ということをひねって訊ねているのであろう。 ドストエフスキーの作品世界では、「そもそも神など存在していない」という大疑念が
根本テーマのひとつとして提出されているではないか?
だからこそ、世界文学の金字塔として、閉じたキリスト教文化圏をはるかに超えて、
世界中で読まれ、深い感動を与え、論議され続けるている、一要因でないか? あ、ごめんw
ちゃんと読めてなかった。なるほどね... あとで書きなおすねw カラマーゾフの兄弟は、ドストエフスキーの真意は
(根拠なく、独善的に、狂的に、書きますが)
「神など存在していない」だと思います。もちろん「来世もない」と。
つまり、神もなく来世もなくとも、ゾシマやアリョーシャのごとく生きられる。
神も不死もなくとも「信仰」によって あるのと同じことになる。いやこの表現は
ちがう。
「信」のなかに「神の世界がある」し現出するのであろう。
以前から引用してる「熱烈 なる 心 の 懺悔」の続きを
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この 世の中 の こと と いえ ば いっさい がっ さい が 謎 な ん だ! おれ が 深い 深い
放蕩 三昧 の 底 へ はまりこん で 行く よう な とき には( おれ には そんな こと より
ほか に 何 も でき やし ない の だ)、 いつも おれ は、 この セ レース の 歌 と『 人』
の 詩 を 読ん だ もの だ。 しかし、 それ が おれ を 矯正 し た だろ う か? けっし
て けっして! だって、 おれ は カラマゾフ な ん だ もの。 どうせ 無限 の 底 へ 飛
びこむ の なら、 いっそ 思いきり まっ さかさか さま に 落ちる が いい ん だ、 しかも、
そんな 恥ずかしい 状態 に 落ちる のを 喜ん で、 それ を 自分 にとって 美的 だ と 考
え て いる の だ から なあ。 そして、 こうした 屈辱 の まっ ただ中 で、 おれ は 不意
に、 讃 美 歌 を うたい だす の だ よ。 たとえ おれ は のろわ れ た きたない 下劣 な
人間 にも せよ、 神様 の 着 て ござる 衣 の 端 に 接吻 し た って いい はず だ。 それ
と 同時に、 たとえ 悪魔 の 後ろ に ついて行っ ても、 おお 神様、 わたし は あなた
の 子供 です。 わたし は あなた を 愛し ます、 そして 喜び を 感じ ます。 この 喜び
なく し ては 世界 も 存立 する こと が でき ませ ん。
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こうした胸中の戦いこそ、信と不信の彷徨こそ、神であり来世である。
この戦いに負けるものこそ、この世の悪であり、悪魔と呼ばれるところのものである。 .... じつは書きながら、おかしなこと書いてると、自覚しながら書いているのさ。
神も来世もないと思いながら信仰できないね?
... そう、ぼくは「来世がある」と確信している。だが同時に「来世も仏もない」という疑いも、この瞬間に同時に存在してる。
次の箇所は「美について」語られたところだけど、すべては「この胸の中」にあるんだと、
ぼくは理解する!
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美――美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!つまり、杓子定規に決めることが
出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様に人間に謎ばかりかけていら
しゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住
んであるのだ。俺は無教育だけれど、この事はずいぶん考え抜いたものだ。実に神
秘は無限だなあ!この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめてるよ。こ
の謎が解けたら、それは濡れずに水のから出て来るようなものだ。ああ美が!その
上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持つ立派な人間まで
が、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の
理想を持って終わるという事なんだ。いや、まだまだ怖ろしい事がある。つまり悪
行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも
否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に
燃やしているのだ。いや実に人間の心が広い、あまり広すぎるぐらいだ。俺は出来
る事なら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分かりやしない、本当に!理
性の目で汚辱と見えるものが、感情の目に立派な美と見えるんだらかなあ。一体悪
行(ソドム)の中に美があるのかしらん?……
つまり 悪魔 と 神 が 戦っ て い て、 そして その 戦場 が 人間 の 心 な ん だ。 (書き込みテスト)
とことわのよろこびは
人のこころを水かいつ
発酵の秘力もて
いきのいのちの杯に
炎をもやす >>825
残念ながらそれは不完全な世界だな
神は同性愛者を作ると同時に同性愛を禁じ、
「同性愛者は絶対天国へいけず報われない存在」として作ったのか?
じゃあすべての人に救いがあるなんてはずがないな
誰が悪を作ったか?サタン?サタンも神の使いですが >>830
元々社会主義に傾倒していたのに、それが「反キリストすぎる」と言って脱会したドストやで >>835
ドストエフスキーのキリスト教観で答えを見つけていこうと思うよ
最初に言っておくけど自分は問題を投げかける立場として反駁するけど、同性愛禁止を支持するわけではないと断っておくよ
対話すればいい答えが出るかもしれないし(そのために最善論側に立ってみる)、少なくともここの人は議論できる人が多いとも思ってるので意味だけくみ取って欲しい まず、この誰でもとは「神を信じる誰でも」に限定されるんじゃないかな
そして同性愛に生まれてしまったことで罰せられるんではなくて、「同性愛の正当化」を禁止している
例えば同性愛者は神に与えられた役割を持っている
禁止(罪)が一つ増えれば善が一つ増えるといえる、なぜならば「善き行いとは悪しき行いを積極的にしない」ということと言い換えることが可能ではないかな
ハッキリと露見していないだけで、誰でもなんらかの罪と呼ばれる役割を持っているんだろうけどね
世界(神を信仰するもの限定で)を完全にするために反対の概念、つまり禁止(罪)存在が必要となる なぜそう思うのかというと、罪と罰のソーニャがそう言えるんじゃないかと以前から思えるところがある
売春婦として家族の貧困を支える彼女は果たして罪なのだろうか?
これはドストエフスキーの壮絶な読者への問いでもあるし、当時の教会観に対する一つに反抗じゃないかな
彼は多くの姦淫を犯すことで生活を支える彼女(ソーニャ)を積極的な聖女として書いている
彼女は売春婦ではあるが、その行為ゆえに罰せられるのではないだろう、むしろその行為によって救われるんじゃないだろうか
彼女の禁止(罪)とは人を助けないということだから
ラスコリニコフにとっての罪とはまさに反対だ つまり何が言いたいかというと、遊ぶ金欲しさに売春するものとソーニャのように自己を売るものとでは、行為自体は同じでも本質的に違うということ
同性愛者もその同性愛によって苦悩するものと、感受して同性愛を楽しむものとでは本質が違うんじゃないかな
(もしこのぼくの考えで気分を害したものがいるならどうか悪く思わないで欲しい、あくまでドストエフスキーのキリスト教観に沿っていうとといのを忘れないで欲しいともう一度言わせてもらうよ) 賭博者読んでるけど面白い
負けをとりかえしたい描写とかすごいわかる >>837
>>838
>>839
>>840
生きているアリョーシャを見るがごとくだ。どこかでシェークスピアを評して
シェークスピアがなにを語ったかではなく「どう語ったか」が大事だ、と読んだ
(もしこのぼくの考えで気分を害したものがいるならどうか悪く思わないで欲しい)
大切なのは心だ。
相手への配慮だ。表面的な言葉づかいの粗い・柔らかいではない。
文や言葉は自分を偽ることもできる。
しかし全体の中にその人の心が透けてくるのだ。 >>841
> 賭博者読んでるけど面白い
> 負けをとりかえしたい描写とかすごいわかる
賭博のシーンといえばトルストイの戦争と平和のアレのほうが詩的で印象に残ってるよ!
読んだァ? >>836
> 元々社会主義に傾倒していたのに、それが「反キリストすぎる」と言って脱会したドストやで
ドスト最晩年の言葉に「神が存在していないとしても、わたしはキリストとともにありたい」
ってあったんでしょw ?
詳しく知らんけど >>835
「同性愛者は絶対天国へいけず報われない存在」となってんのかい?
でも、大したことないっちゃーいえばないよなw(タメ口ごめんw )
ついでにソーニャも。今で言えばXVIDEO だろ?XVIDEO がなかったら全世界の友が困るんだぜ!!
遊ぶ金だっているぜっ マンマ食べる金も。 おれは「神が同性愛を」より
なぜひとは同性愛になるのか? また、なぜわれらはそれを嫌悪するのか?
の議論の方に興味がある。 >>849
なるんじゃなく、生まれついてゲイなんだよ
だとしたら、それは「完璧で全き善の神が生み出している」他はない、キリスト教だとそうなる
それでいて男色家は絶対神の国に入れないと聖書ではいってる
どういうことだ?自ら生み出しておきながらそれを拒絶する?
生来的売春婦になるような境遇、性質の人間もいる
だとしたらそういう人種も「神が生み出したに他ならない」
自ら生み出しておいて呪われた存在とするのか?
じゃあ呪われた存在の側はどうすればいい?
これが神義論的考え >>844
>ドスト最晩年の言葉に「神が存在していないとしても、わたしはキリストとともにありたい」
悪霊でも出でくるし作家の日記にも同じことが書かれているのかもしれない
悪霊では、若い頃にスタヴローギンがシャートフに言ったと物語では出てくる
あのスタヴローギンでさえ信じようとした頃があったんだろう
あのスタヴローギンでさえ キリスト教の教えを大事にしているのでは
私は神を信じてなんぞないが、キリスト教の教えは素晴らしいものだと思うよ >>850
マカール老人から主人公アルカージイへ
「…人間がすべてのことにわたって、これは罪だ、あれは罪じゃないと、なにもかも知るのは難しいことだ。そこには人間の知恵のおよばない秘密があるのだよ。…」
と『未成年』にあることを紹介してもらった。(ぼく自身は読んだことない)この言葉がまず思い浮かんだ。じっさいに人間の諸問題はすべて複合していて、とうてい人智で測れないものがある。
> なるんじゃなく、生まれついてゲイなんだよ
これについても疑問だ。それもひとつの説じゃないのか?たしかに生得的な側面もあるでしょう。しかし後天的というか環境要因というか、いろいろだと。
> だとしたら、それは「完璧で全き善の神が生み出している」他はない、キリスト教だとそうなる
きみがこの「神義論」とたとえとして「同性愛」を持ちだして、ほんとうに語りたいところはなんなのか、ぼくにはわかってないと思う。
キリスト教徒でないし、聞きかじりだが、旧約は『罰する神」で新約聖書は『許す』だと読んだことがある。
それで整合性がとれてないか? 歴代の論者はどう言ってるの?
----------------------------------------------------------------
ぼく自身の考えなら、
同性愛どころか、殺人すら「許される」
この『許される」というのは、ここはドストスレだからキリスト教用語に仮託して書いてるだけで、ほんとはちがう。
それも
戦争や緊急避難の殺人が許されるのでなく、宅間守みたいのも許される。
いっさいがっさい許される。
いかにいわんや同性愛など、ほっとけばなおると思ってる。
人間が許すのではない。
キリストの神が許すのでもない。
人間の生命をつきつめれば、とうぜん そのように帰結されるだろう。
ゾシマは
「神の小鳥、しあわせの小鳥 ... 全ての人に対して罪がある」と述べた。
(第六編 ロシヤの僧侶 に詳細な解説あり、往いて見よ) 宅間守も生来的に集中もできず家庭もおかしく、薬物依存にはしり、殺人を犯してしまう確率も高くなる
それも同性愛などの障害と同じく器質的なものであり、それならば当然神が生み出したものとなる
神がわざわざそれを作って悪い事をさせ、許す
意味わからないだろ?
罪人(人間の価値観での)を裁くな
「悪など存在しないし、してはならない」
一部ではこの帰結になる人もいる この世界に実際にあるもの
それもまた真実だろ
だとしたらそれは神の創造物でなくてなんなのか? 「悪をなさないことが善」などではない
そんな消極的な善性はありえない
「ゲイだとしてもそれを内に秘めて隠しておきなさい、行為は悪徳です」
で自分を偽ってそれが正しいのか?
だから昨今のカミングアウトブームがあるのかも
真実の自分を偽ることのほうがよっぽど悪徳ではないか? >>853
双生児研究でも一部の同性愛者は確実に生来的なもんだよ
後天的になるバイセクシャルは偽りの感情からくるもんだろうけど >>859
> 「悪をなさないことが善」などではない
> そんな消極的な善性はありえない
ここは同感。「善をなさないことが悪」であろう。
> 「ゲイだとしてもそれを内に秘めて隠しておきなさい、行為は悪徳です」
> で自分を偽ってそれが正しいのか?
> 真実の自分を偽ることのほうがよっぽど悪徳ではないか?
ここも同感。ただしコレについて最初に書いた友のために弁明する。
誠実に精一杯考えた。自分に直接関係しない問題について。
しかも同性愛者のひとが このスレを見ていることを想定して傷つけないように配慮して。
こういう振る舞いを真実の善性と呼びたい。ねらーの大半には空想さえできない態度と言える。 >>859
どちらが悪徳かについていうならば、基準をどこにおくかで結果が変わってくるんじゃないかな
内に秘めたる想いを現実にして昇華することは人間の秩序として正しい
真実の自分を偽ることのほうがよっぽど悪徳になる
ただしこれは人間を基準にした場合ではないかな
だけどドストエフスキーの思想のなかにこういうのがある
「苦悩は他のあらゆる感情にまさる、また苦悩なくして神を知ることはできない。」
もし神を基準にするならば、自分を偽わらなければならないような苦悩が美徳に変わり、その苦悩こそが高潔に変わるんじゃないかな
ミーチャは犯してもいない罪も背負おうとシベリア行きも決意する
この美徳は滑稽だが、とても甘美な高潔でもあると自分は信じているよ 高潔ってことにするとマネしちゃう、影響されちゃう後続が出てくるから
美でも何でもないただのアホである。というのも同時に示しておくべきだとも思う
確固たるものへと進む全体主義はそれが美しいとされても悪っていうか愚かでもあるよ >>863
それもそうだね
高潔も時には美しく見えるが、一方的な酔狂とは危うい悪だ
分別のためには反対の面も常に考慮しないとか、節度をたもつのは難しい
シェイクスピアより
「およそ地上に生きるもの、必ずや何かしら善をもたらす。とは言え、正しい使い方を誤れば、いかに善きものだろうと、本性に背いて、害をもたらす。
美徳も適用次第で悪となり、
悪徳も行ない次第で価値あるものとなる。」 高潔 より 好(決)戦の方が好きだけど。中国古典に勝るものはない。
春秋 三国志 史記 云々。 苦悩は神を知れるぐらいか。ふうん。じゃ苦悶は?アクマの手染めか。 >>862
そんな苦悩はありえない
そんな高潔はありえない
「全体の善性のために悪が存在する」なんてのもアウグスティヌスが行き着いた答えだ
結果彼は悪い人間との関わりを捨てたわけだろ
悪事を行う側からの答えがドストエフスキーだ
イワンは大審問官の前の罪人の話のが真理に近い
罪人が罪を犯し、死刑を宣告されている間全く改宗し、懺悔して
なおかつ「あなたは死なねばならない、なぜなら罪人だから」
これは何かのジョークか?というのがドストの考えだ
生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か「それは罪ではなくなる」の2つしかない -=≡///:: ;;
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ヽ;;';ー--―;;;; ̄;;;;;; ̄Y )←>>1 `'ー--、\____/ <くそすれさいこー!! この人たちは 僕の運命のために,僕の養育のために,僕の教養のために,僕をよくするため,僕を人間にするために,何一つしてくれなかった。この人たちは僕を食べさせもせず,飲ませも
しなかった。裸で牢獄にいる僕を訪ねもしなかった。そして僕を懲役に送ることにした。僕はこれで勘定を済ました,今では彼らに少しも負うところが無い,
彼らも悪人なら僕も悪人になろう。
彼らも残酷ならば僕も残酷になろう。 そのジョークは現代社会でも平然と行われている
まったく変わることはない。人間社会の不変のなにかだ >>869
> 悪事を行う側からの答えがドストエフスキーだ
そうだったのか。言われてみればそうだな。
> 生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か「それは罪ではなくなる」の2つしかない
激白すると、何が議論の焦点なのか、わかんない。 ごめん。前のレスをいっさい読んでなかったから理解できないというのもある >>865
> 高潔 より 好(決)戦の方が好きだけど。中国古典に勝るものはない。
>
> 春秋 三国志 史記 云々。
-------------------
おれも実はそうなんだろうなァ。。と思ってますし聞いてます
しかし、現代日本では、ドスト以上に敷居が高くなってますね >>869
議論として最善論側に立つといっといて、的確な表現をさけている自分に弱さをかんじる
見透かされているのではっきり言うべきだね(神の国あたりはまさにそうだろう)
おそらく最善論を言葉にするなら、死ぬ時は喜んで死ななければならない、ということだろうね プラトンは国家で死についてこう述べる
死は神に与えられている万人の定めだからおそれることこそ罪になる
もし不治の病いになったなら、決して強制ではないが、その定めを受け入れるものは、国家が彼を喜んで死ぬように助けてやらねばならないと
安楽死の推進である
人間に死に対するおそれを抱かないようにしてやることこそが本当の人間幸福ではないかと
(過激すぎるのは重々承知しているよ) カラマーゾフの兄弟に大きなテーマがあるとして、それはおそらくは最善論の世界とその調和の正当化、なによりその世界への反抗なのかもしれない
自分で言っといて限界と言うのはあまりに弱々しいが、神義論や最善論の証明は出来ないのだろうか?
イワンの世界の拒絶こそがドストエフスキーの考えであるのは確かだけど、その後に昇華できるような答えはだせないのだろうか?
神義論さえ解ければカラマーゾフの兄弟も解けるような気がするんだだけどね >>862
> 「苦悩は他のあらゆる感情にまさる、また苦悩なくして神を知ることはできない。」
> もし神を基準にするならば、自分を偽わらなければならないような苦悩が美徳に
変わり、その苦悩こそが高潔に変わるんじゃないかな
> ミーチャは犯してもいない罪も背負おうとシベリア行きも決意する
> この美徳は滑稽だが、とても甘美な高潔でもあると自分は信じているよ
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このミーチャのことは甚だ深い。ここは今後 追究して行くべきだ。
>>863
> 高潔ってことにするとマネしちゃう、影響されちゃう後続が出てくるから
> 美でも何でもないただのアホである。というのも同時に示しておくべきだとも思う
影響されて堕落の淵へ堕ちたらいいんだ!
>>864
> 分別のためには反対の面も常に考慮しないとか、節度をたもつのは難しい
「... 世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、 人 を 愛する態度も 熱烈で
なく 生ぬるいし、その知性も正確 では あるけれど 年 に似合わず あまりに も 分別
臭い( したがって 安っぽい)こういう 青年は、わが 主人公 の心に 起こっ た よう
な ことを避けたに相違ない。...
しかし、時と場合 によって は、 たとえ 無分別 であろうとも、「広大な愛から生じ
た熱情」に没頭したほうが、ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬 に 値することがある。
わかい ときには なおさらそうである。」 スタヴローギンへ(スタヴローギンの告白)の言葉
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(黙示録3:15〜16) >>869
>生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か
>「それは罪ではなくなる」の2つしかない
全知全能の存在を前にして悪は成立しない
「悪」もまた全体の一部として処理されるので
反抗はもちろん自殺も当事者の自由意志に基づくものではなく
あらかじめ仕組まれたものとして処理される
人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
当然のことながら宗教家による判断も
しょせん人間の判断に基づくものでしかない
宗教や宗教家にできることは人間の限界性について悟る事であって
この分限を越えようとすることが間違い 突然すすりなきの声がミーチャの胸をほとばしり出た。 彼はアリョーシャの手を取っ た。
「ねぇおまえ、深き汚れだ、いまでもおれは深き汚れに 沈んでるんだ。 人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。 恐ろしくいろんな不幸を経験するもんだよ!
しかしおれは単に将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道なまねをしたりする、虫けらのようなやつだと思わ ないでくれ。
おれはほとんどこのことばかり考えてるんだ。この深き汚れに沈んだ人のことをね
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自分にとって好きな思い出多き、この箇所をとつぜん引用したので、前後を読んでいない。
なぜ「突然すすりなきの声がミーチャの胸をほとばしり出た」のか?
「深き汚れ」とはなんのことだ?
「人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。 恐ろしくいろんな不幸を経験するもんだよ!」
これを読んだときの若いぼくは、自分の未来に思いを馳せた。あたかも自分の苦難に満ちた
未来を予見してるかのように感じた。
「将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道なまねをしたりする、虫けらのようなやつ」
ミーチャは労働しない。貴族階級であり、その点はおそらく他の兄弟たちもいっしょだろう。自分を責めているのか。 もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね。
まったくいまとなっておれはうそをついたり、空威張りをしたりしないように
願っているよ。 おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。
堕落のふちより 魂を
振るい起こすを望みなば
古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに
しかし、ただどうしておれが大地と永遠に結び合うのか、それが問題
なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもし
ない。
---------------------------------
「もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね」
彼は自分自身に疑念を持っている。語りながら。
おれも「うそをついたり、空威張りをしたり」したくないっ!!
「おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。」
ぼくがミーチャのことを、今カキコするのも「つまりおれがそれと同
じような人間だから」だ。
今の自分の状態をミーチャは「堕落のふち」と捉えている。俺もまた毎日のこの生活を
堕落の淵いっしゅのダークサイドから抜けられなくなっていると感じてひさしい。
「古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに」とはなんのことだ?
大地とは?文字通りの地面か?なにかのメタファーか? (書き込みテスト)
もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね。
まったくいまとなっておれはうそをついたり、空威張りをしたりしないように
願っているよ。 おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。
堕落のふちより魂を
振るい起こすを望みなば
古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに
しかし、ただどうしておれが大地と永遠に結び合うのか、それが問題
なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもし
ない。
---------------------------------
「もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね」
彼は自分自身に疑念を持っている。語りながら。
おれも「うそをついたり、空威張りをしたり」したくないっ!!
「おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。」
ぼくがミーチャのことを、今カキコするのも「つまりおれがそれと同
じような人間だから」だ。
今の自分の状態をミーチャは「堕落のふち」と捉えている。俺もまた毎日のこの生活を
堕落の淵いっしゅのダークサイドから抜けられなくなっていると感じてひさしい。
「古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに」とはなんのことだ?
大地とは?文字通りの地面か?なにかのメタファーか? >>881
それでプロテスタントが予定説にいたったのか
ドストとは違うな おれはID:W/nyVc37くんは観念の迷路におちいってる気がする。
そう... カラマーゾフでいえばイヴァンになっちゃってる。ちがうのか? 君の論議は『良く生きる』ということに繋がっているのか? たとえばイヴァンがどんなに美しく大審問官の詩を語っても、彼自身は「よく生きていたか?」 >>881
> 人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
> 当然のことながら宗教家による判断も
> しょせん人間の判断に基づくものでしかない
これはまったくその通りだが
> 宗教や宗教家にできることは人間の限界性について悟る事であって
> この分限を越えようとすることが間違い
宗教のやくめは「よく生きること」です。そのための神学であり、その逆ではない。
かつてどこかで「ドストエフスキーは青年に退廃的影響を与える」みたいな文を読んだことがある。
とんでもないことです!
「ぢゃ、どんないい影響を与えるの?」と問われれば答えられないw
世界歴史上の神学者や哲学者たちが、われわれの精神生活に深い影響を与えましたか?
独断ですが、決して!!
ドストは西洋人でキリスト教関連ですが、私たち日本人にたしかにインパクトを与えています。 深く考えないで書きますが、なぜドストエフスキーが肯定的な意味で、われわれに
影響を与え続けるか?といえば
イヴァン的な哲学的思弁を「乗り越えるもの」だからとおもう。つまり信仰です。
それも素朴な「民衆の大地」に根ざした(これも分かりにくいちゃ分かりにくいが)
純真な信仰が描かれているからだと。
「宗教や宗教家」にはとてつもなく大きな使命があります。それが正しい信仰ならば。 >>881
>あらかじめ仕組まれたものとして処理される
これで完全世界の理論は成り立つね
この世界は善のみといえる
だけどその世界では、あらかじめ救われるものと救われないものがすでに決まっていて、自由意志の存在がとても小さく無視すらできる世界での公式になる
神は本当に、まるで共産主義の末期のような、必然の支配する世界を望むんだろうか?
そして自由意志などないんだろうか?
ドストエフスキーは大審問官で、イエスが荒野での悪魔の問いに拒否することを隠喩として、イエスが人間に自由意思を認めたと描いている
彼の問いは、自由意志が含まれなおかつ善のみで成り立つ世界はありえるのだろうかという事じゃないかな
君の解釈の世界にに自由意志を加えて世界を肯定できうるか、ということ
(イワンは拒否することで世界に反抗する)
>人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
このことを知ること謙虚になれる一方かもね ネットで見たら光文社の文庫が最新の訳で読みやすいらしくてかったけど700ページはある
長編の分類じゃないのかこれと思う >>892
なるほど「全き善性」がまずあって「神が生みだす悪」を否定するために自由意志の否定があったのか
でも聖書全体は自由意志肯定だろな >>898
何出鱈目語ってんだか! 馬鹿か、お前ら!
キリストや基督教について無知過ぎて話にならない。
早く死んだ方が皆の為だな! >>892
> >あらかじめ仕組まれたものとして処理される
> これで完全世界の理論は成り立つね
> この世界は善のみといえる
> だけどその世界では、あらかじめ救われるものと救われないものがすでに決まっていて、
自由意志の存在がとても小さく無視すらできる世界での公式になる
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きみは心のアンテアを研ぎ澄まして彼の誠意と真剣さを読み取っているんでしょう。
ぼくは現実世界では、御本尊と日蓮大聖人を信仰し、ぼくの師匠は池田先生だけども、
大好きなドストエフスキーとスレのみんなに合わすために、仮に「自分の師匠をゾシマ
長老とする」ゆえにゾシマの教えにもとづいて君たちの思索について考えよう。
(ドストエフスキーもゾシマも もし日蓮大聖人の教えを知っていれば確実に入信していたのだから同じことだ)
まず長老は
> これで完全世界の理論は成り立つね
> この世界は善のみといえる
などと、述べていない。(第六編 ロシヤの僧侶 悪について、往いて見よ)
長老の教えは簡潔で明確で明朗だが、きみがたの考えは、半信半疑であり、孤独化と
無力感のダークサイドだ。
あなたに言ってるんじゃないよ? あなたの中のダークサイドに対して言っている。
ダークサイドとはすなわち「不信」である。
(ぜんぜん「ゾシマの教えにもとづいて君たちの思索について考えて」ないなw)
こんど調子のいいとき「第六編 ロシヤの僧侶」について考える。もっとまともなこと
書けると期待してる。 ぼくはネットを初めて2年半未満しかたってない
いわば初心者だ
よく、ねらーはひどいみたいなことを書いてきた
それはまちがいだった
人間がひどいのだ
田中蓮くんの事件をさっき知って検索してツイッターを読んだ
いったいなんだ?これは。
リアルでこんな発言は見たことも聞いたこともない
ある板で、かなりの時間をかけて、個人の叩きをしてるやつらを説教してきた
マシなやつらだった、今思えば
人間が他人に対して不幸におちいってるひとに対して
ここまで残虐になれるのか? ここまでケモノとなれるのか? ぼくは二度とツイッターをしないと誓う(今までもしたことないが)
なぜなら、言葉で彼らを匡正することは不可能だからだ
同様にして2ちゃんねるでも、この手のスレには書かない
言葉というものは、ひとつの行為だ
汚れた悪臭を放つものと同座すべきではない
これが亡くなったお子様に対する自分の手向けであり、親の苦悩への消極的な回向だ
自分は正しさと幸福を希求するひととしかケンカもしない レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。