ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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苦悩は神を知れるぐらいか。ふうん。じゃ苦悶は?アクマの手染めか。 >>862
そんな苦悩はありえない
そんな高潔はありえない
「全体の善性のために悪が存在する」なんてのもアウグスティヌスが行き着いた答えだ
結果彼は悪い人間との関わりを捨てたわけだろ
悪事を行う側からの答えがドストエフスキーだ
イワンは大審問官の前の罪人の話のが真理に近い
罪人が罪を犯し、死刑を宣告されている間全く改宗し、懺悔して
なおかつ「あなたは死なねばならない、なぜなら罪人だから」
これは何かのジョークか?というのがドストの考えだ
生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か「それは罪ではなくなる」の2つしかない -=≡///:: ;;
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/ カルトの王者 \:::::\
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ミ| _≡=、 , =≡=_ 、 |:;;;;;/
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| ヽ 二 / \二/ >∂/ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /( )\ |__/< うんこ喰わせちゃった!!
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.\ 、 \ ̄ ̄/ヽ //
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ノ:;;,ヒ=ε;;;/∴ | _____ /⌒/⌒ヽ
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,i`(;;;゙'-;;;;;; ◎;;;◎― /ミ|───,,___,/ ヽ
ヽ;;';ー--―;;;; ̄;;;;;; ̄Y )←>>1 `'ー--、\____/ <くそすれさいこー!! この人たちは 僕の運命のために,僕の養育のために,僕の教養のために,僕をよくするため,僕を人間にするために,何一つしてくれなかった。この人たちは僕を食べさせもせず,飲ませも
しなかった。裸で牢獄にいる僕を訪ねもしなかった。そして僕を懲役に送ることにした。僕はこれで勘定を済ました,今では彼らに少しも負うところが無い,
彼らも悪人なら僕も悪人になろう。
彼らも残酷ならば僕も残酷になろう。 そのジョークは現代社会でも平然と行われている
まったく変わることはない。人間社会の不変のなにかだ >>869
> 悪事を行う側からの答えがドストエフスキーだ
そうだったのか。言われてみればそうだな。
> 生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か「それは罪ではなくなる」の2つしかない
激白すると、何が議論の焦点なのか、わかんない。 ごめん。前のレスをいっさい読んでなかったから理解できないというのもある >>865
> 高潔 より 好(決)戦の方が好きだけど。中国古典に勝るものはない。
>
> 春秋 三国志 史記 云々。
-------------------
おれも実はそうなんだろうなァ。。と思ってますし聞いてます
しかし、現代日本では、ドスト以上に敷居が高くなってますね >>869
議論として最善論側に立つといっといて、的確な表現をさけている自分に弱さをかんじる
見透かされているのではっきり言うべきだね(神の国あたりはまさにそうだろう)
おそらく最善論を言葉にするなら、死ぬ時は喜んで死ななければならない、ということだろうね プラトンは国家で死についてこう述べる
死は神に与えられている万人の定めだからおそれることこそ罪になる
もし不治の病いになったなら、決して強制ではないが、その定めを受け入れるものは、国家が彼を喜んで死ぬように助けてやらねばならないと
安楽死の推進である
人間に死に対するおそれを抱かないようにしてやることこそが本当の人間幸福ではないかと
(過激すぎるのは重々承知しているよ) カラマーゾフの兄弟に大きなテーマがあるとして、それはおそらくは最善論の世界とその調和の正当化、なによりその世界への反抗なのかもしれない
自分で言っといて限界と言うのはあまりに弱々しいが、神義論や最善論の証明は出来ないのだろうか?
イワンの世界の拒絶こそがドストエフスキーの考えであるのは確かだけど、その後に昇華できるような答えはだせないのだろうか?
神義論さえ解ければカラマーゾフの兄弟も解けるような気がするんだだけどね >>862
> 「苦悩は他のあらゆる感情にまさる、また苦悩なくして神を知ることはできない。」
> もし神を基準にするならば、自分を偽わらなければならないような苦悩が美徳に
変わり、その苦悩こそが高潔に変わるんじゃないかな
> ミーチャは犯してもいない罪も背負おうとシベリア行きも決意する
> この美徳は滑稽だが、とても甘美な高潔でもあると自分は信じているよ
-------------------------------
このミーチャのことは甚だ深い。ここは今後 追究して行くべきだ。
>>863
> 高潔ってことにするとマネしちゃう、影響されちゃう後続が出てくるから
> 美でも何でもないただのアホである。というのも同時に示しておくべきだとも思う
影響されて堕落の淵へ堕ちたらいいんだ!
>>864
> 分別のためには反対の面も常に考慮しないとか、節度をたもつのは難しい
「... 世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、 人 を 愛する態度も 熱烈で
なく 生ぬるいし、その知性も正確 では あるけれど 年 に似合わず あまりに も 分別
臭い( したがって 安っぽい)こういう 青年は、わが 主人公 の心に 起こっ た よう
な ことを避けたに相違ない。...
しかし、時と場合 によって は、 たとえ 無分別 であろうとも、「広大な愛から生じ
た熱情」に没頭したほうが、ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬 に 値することがある。
わかい ときには なおさらそうである。」 スタヴローギンへ(スタヴローギンの告白)の言葉
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」
(黙示録3:15〜16) >>869
>生来的な反教者は「あってはならない、存在するはずがない」か
>「それは罪ではなくなる」の2つしかない
全知全能の存在を前にして悪は成立しない
「悪」もまた全体の一部として処理されるので
反抗はもちろん自殺も当事者の自由意志に基づくものではなく
あらかじめ仕組まれたものとして処理される
人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
当然のことながら宗教家による判断も
しょせん人間の判断に基づくものでしかない
宗教や宗教家にできることは人間の限界性について悟る事であって
この分限を越えようとすることが間違い 突然すすりなきの声がミーチャの胸をほとばしり出た。 彼はアリョーシャの手を取っ た。
「ねぇおまえ、深き汚れだ、いまでもおれは深き汚れに 沈んでるんだ。 人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。 恐ろしくいろんな不幸を経験するもんだよ!
しかしおれは単に将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道なまねをしたりする、虫けらのようなやつだと思わ ないでくれ。
おれはほとんどこのことばかり考えてるんだ。この深き汚れに沈んだ人のことをね
---------------------------------------
自分にとって好きな思い出多き、この箇所をとつぜん引用したので、前後を読んでいない。
なぜ「突然すすりなきの声がミーチャの胸をほとばしり出た」のか?
「深き汚れ」とはなんのことだ?
「人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。 恐ろしくいろんな不幸を経験するもんだよ!」
これを読んだときの若いぼくは、自分の未来に思いを馳せた。あたかも自分の苦難に満ちた
未来を予見してるかのように感じた。
「将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道なまねをしたりする、虫けらのようなやつ」
ミーチャは労働しない。貴族階級であり、その点はおそらく他の兄弟たちもいっしょだろう。自分を責めているのか。 もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね。
まったくいまとなっておれはうそをついたり、空威張りをしたりしないように
願っているよ。 おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。
堕落のふちより 魂を
振るい起こすを望みなば
古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに
しかし、ただどうしておれが大地と永遠に結び合うのか、それが問題
なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもし
ない。
---------------------------------
「もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね」
彼は自分自身に疑念を持っている。語りながら。
おれも「うそをついたり、空威張りをしたり」したくないっ!!
「おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。」
ぼくがミーチャのことを、今カキコするのも「つまりおれがそれと同
じような人間だから」だ。
今の自分の状態をミーチャは「堕落のふち」と捉えている。俺もまた毎日のこの生活を
堕落の淵いっしゅのダークサイドから抜けられなくなっていると感じてひさしい。
「古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに」とはなんのことだ?
大地とは?文字通りの地面か?なにかのメタファーか? (書き込みテスト)
もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね。
まったくいまとなっておれはうそをついたり、空威張りをしたりしないように
願っているよ。 おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。
堕落のふちより魂を
振るい起こすを望みなば
古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに
しかし、ただどうしておれが大地と永遠に結び合うのか、それが問題
なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸をえぐることもし
ない。
---------------------------------
「もしも自分の口からうそをついていないとすればのことだがね」
彼は自分自身に疑念を持っている。語りながら。
おれも「うそをついたり、空威張りをしたり」したくないっ!!
「おれがこの人のことを考えるのは、つまりおれがそれと同
じような人間だからさ。」
ぼくがミーチャのことを、今カキコするのも「つまりおれがそれと同
じような人間だから」だ。
今の自分の状態をミーチャは「堕落のふち」と捉えている。俺もまた毎日のこの生活を
堕落の淵いっしゅのダークサイドから抜けられなくなっていると感じてひさしい。
「古き母なる大地(おおつち)と
結び合えかし、とこしえに」とはなんのことだ?
大地とは?文字通りの地面か?なにかのメタファーか? >>881
それでプロテスタントが予定説にいたったのか
ドストとは違うな おれはID:W/nyVc37くんは観念の迷路におちいってる気がする。
そう... カラマーゾフでいえばイヴァンになっちゃってる。ちがうのか? 君の論議は『良く生きる』ということに繋がっているのか? たとえばイヴァンがどんなに美しく大審問官の詩を語っても、彼自身は「よく生きていたか?」 >>881
> 人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
> 当然のことながら宗教家による判断も
> しょせん人間の判断に基づくものでしかない
これはまったくその通りだが
> 宗教や宗教家にできることは人間の限界性について悟る事であって
> この分限を越えようとすることが間違い
宗教のやくめは「よく生きること」です。そのための神学であり、その逆ではない。
かつてどこかで「ドストエフスキーは青年に退廃的影響を与える」みたいな文を読んだことがある。
とんでもないことです!
「ぢゃ、どんないい影響を与えるの?」と問われれば答えられないw
世界歴史上の神学者や哲学者たちが、われわれの精神生活に深い影響を与えましたか?
独断ですが、決して!!
ドストは西洋人でキリスト教関連ですが、私たち日本人にたしかにインパクトを与えています。 深く考えないで書きますが、なぜドストエフスキーが肯定的な意味で、われわれに
影響を与え続けるか?といえば
イヴァン的な哲学的思弁を「乗り越えるもの」だからとおもう。つまり信仰です。
それも素朴な「民衆の大地」に根ざした(これも分かりにくいちゃ分かりにくいが)
純真な信仰が描かれているからだと。
「宗教や宗教家」にはとてつもなく大きな使命があります。それが正しい信仰ならば。 >>881
>あらかじめ仕組まれたものとして処理される
これで完全世界の理論は成り立つね
この世界は善のみといえる
だけどその世界では、あらかじめ救われるものと救われないものがすでに決まっていて、自由意志の存在がとても小さく無視すらできる世界での公式になる
神は本当に、まるで共産主義の末期のような、必然の支配する世界を望むんだろうか?
そして自由意志などないんだろうか?
ドストエフスキーは大審問官で、イエスが荒野での悪魔の問いに拒否することを隠喩として、イエスが人間に自由意思を認めたと描いている
彼の問いは、自由意志が含まれなおかつ善のみで成り立つ世界はありえるのだろうかという事じゃないかな
君の解釈の世界にに自由意志を加えて世界を肯定できうるか、ということ
(イワンは拒否することで世界に反抗する)
>人間的諸個人に超越的視点に立った善悪の判断は不可能
このことを知ること謙虚になれる一方かもね ネットで見たら光文社の文庫が最新の訳で読みやすいらしくてかったけど700ページはある
長編の分類じゃないのかこれと思う >>892
なるほど「全き善性」がまずあって「神が生みだす悪」を否定するために自由意志の否定があったのか
でも聖書全体は自由意志肯定だろな >>898
何出鱈目語ってんだか! 馬鹿か、お前ら!
キリストや基督教について無知過ぎて話にならない。
早く死んだ方が皆の為だな! >>892
> >あらかじめ仕組まれたものとして処理される
> これで完全世界の理論は成り立つね
> この世界は善のみといえる
> だけどその世界では、あらかじめ救われるものと救われないものがすでに決まっていて、
自由意志の存在がとても小さく無視すらできる世界での公式になる
----------------------------------------------------------------
きみは心のアンテアを研ぎ澄まして彼の誠意と真剣さを読み取っているんでしょう。
ぼくは現実世界では、御本尊と日蓮大聖人を信仰し、ぼくの師匠は池田先生だけども、
大好きなドストエフスキーとスレのみんなに合わすために、仮に「自分の師匠をゾシマ
長老とする」ゆえにゾシマの教えにもとづいて君たちの思索について考えよう。
(ドストエフスキーもゾシマも もし日蓮大聖人の教えを知っていれば確実に入信していたのだから同じことだ)
まず長老は
> これで完全世界の理論は成り立つね
> この世界は善のみといえる
などと、述べていない。(第六編 ロシヤの僧侶 悪について、往いて見よ)
長老の教えは簡潔で明確で明朗だが、きみがたの考えは、半信半疑であり、孤独化と
無力感のダークサイドだ。
あなたに言ってるんじゃないよ? あなたの中のダークサイドに対して言っている。
ダークサイドとはすなわち「不信」である。
(ぜんぜん「ゾシマの教えにもとづいて君たちの思索について考えて」ないなw)
こんど調子のいいとき「第六編 ロシヤの僧侶」について考える。もっとまともなこと
書けると期待してる。 ぼくはネットを初めて2年半未満しかたってない
いわば初心者だ
よく、ねらーはひどいみたいなことを書いてきた
それはまちがいだった
人間がひどいのだ
田中蓮くんの事件をさっき知って検索してツイッターを読んだ
いったいなんだ?これは。
リアルでこんな発言は見たことも聞いたこともない
ある板で、かなりの時間をかけて、個人の叩きをしてるやつらを説教してきた
マシなやつらだった、今思えば
人間が他人に対して不幸におちいってるひとに対して
ここまで残虐になれるのか? ここまでケモノとなれるのか? ぼくは二度とツイッターをしないと誓う(今までもしたことないが)
なぜなら、言葉で彼らを匡正することは不可能だからだ
同様にして2ちゃんねるでも、この手のスレには書かない
言葉というものは、ひとつの行為だ
汚れた悪臭を放つものと同座すべきではない
これが亡くなったお子様に対する自分の手向けであり、親の苦悩への消極的な回向だ
自分は正しさと幸福を希求するひととしかケンカもしない おれはネット上だから空威張りしてる
そしてやつらも空威張りしてる
おれは底辺の人間だ
法律を守るなどという気分は皆無だ
だがひとつ決定的な違いがある
創価学会員であること以上の幸福と誇りは
この宇宙には断じてない 「おいゾシマ長老から腐臭が発生するのやけに早くないか?」
「くせっ!ゾシマは正しく聖人だったはずなのになぁ」
悲しいことに生前立派な人ほどこういうリアクション取られてしまうのだ。
立派な人ほど妬み、やっかみを抱かれてしまいスキャダンルを期待されてしまう。 >>899
プロテスタントの自由意志否定はどっからきたんだ? そういえば、ドストはカトリック嫌いのせいか、プロテスタントはあまり攻撃していないんだよね ドストエフスキーってフランス(カトリック)きらいじゃなかったっけ
イギリスとかプロテスタントがおおいのかもって現在の縮図だから当時のは分かんないけど
正確には英国国教会だけど
http://sekaika.org/worldreligion/ フランス人嫌いなのかっいうのがたまに出てくるよ
イギリス人には主人公優しいかったり
たまたまかもしれないけどね
だからカトリックきらいで、他の宗派には無関心だったのかもね
あくまで憶測だけどw 「では、 私 が 君 に 代わっ て その 質問 に 答えよ う。 それ は こう だ。 党 は ただ 権力 の ため に
権力 を 求め て いる。 われわれ は 他人 の 幸福 などに いささか なりとも 関心 は 抱い て い ない。
われわれ は 権力 にしか 関心 が ない の だ。 富 の ため でも 贅沢 の ため でも、 また 長生き する ため
でも 幸福 を 求める ため でも ない。 ただ 権力、 それ も 純然 たる 権力 の ため なの だ。
純然 たる 権力 とは 何 か、 それ は これから 説明 する。 われわれ は 過去 の あらゆる 少数 独裁 制 とは
根本的 に 違う。 その 限り において は われわれ は 計算 ずく で 行動 し て いる。 われわれ 以外 の 独裁
者 は、 われわれ に よく 似 て い た 独裁 者 さえ 臆病 で、 偽善者 だっ た に すぎ ない。 ナチ・ドイツ
も ロシア 共産党 も、 方法論 の 上 では われわれ の それ に 極めて 近かっ た が、 しかし、 彼ら には
権力 追求 の 動機 を 口 に する だけの 勇気 は 無かっ た。
彼ら は 不本意 ながら、 そして 暫定的 に 権力 を 握っ た ので あり、 しかも 眼前 に 人間 の 自由 と
平等 を 実現 する 地上 の 楽園 が 来 て いる よう な 態度 を 装う か、 あるいは 本気 に そう 思い込み
さえ し た ので あっ た。
われわれ は そんな 手合い とは 違う ん だ。 およそ この世 に、 権力 を 放棄 する 心算 で 権力 を 獲得
する 者 は い ない と 思う。 権力 は 一つ の 手段 では ない、 れっきとした 一つ の 目的 なの だ。 何 も
革命 を 守る ため に 独裁 制 を 確立 する 者 は い ない、 独裁 制 を 確立 する ため に こそ 革命 を
起こす もの なの だ。 迫害 の 目的 は 迫害 それ 自体 に ある。 権力 の 目的 は 権力 それ 自体 に ある。
拷問 の 目的 は 拷問 それ 自体 に ある。 さあ、 これ で 私 の いわ ん と する ところ が 分り かけ た かね?」
ジョージ・オーウェル . 一九八四年 >>910
フランス人はいけ好かねぇ野郎的に描かれてるな
賭博者でも意地悪フランス人出てたし そうな感じだった気がする
確か賭博者のイギリス人はいい人ポジションだったね
フランス人はゲスかったと覚えている
>>911
Big brother is watching you ! 『白痴』
岩波・米川訳、
新潮・木村訳、
河出・望月訳でおすすめは? ナチスドイツでも低級職員のはなしばかりしていると、ナチスの熱狂や
活動的意味が分からない。権力を握ることが権力志向的ではないのなら
ロシア革命共産党が権力を握ったという事実があったろうか。
権力の独立性も最終目的として、語呂合わせ的でよくないと思う
。ニーチェ、権力をへの意志は読んだかい?
目的が結果にたどり着くのではなくて、目的の生成過程が権力を形成するんだと思うけど。 >>916
読みやすさなら望月訳がいいかな
ずっしりではないけど新訳だけあって現在の言葉になってるというメリットもある
アンカレとかクロイチェルソナタとか死の家もあって意外といい >>917
>目的の生成過程が権力を形成するんだと思うけど。
ドイツもロシアも反西欧主義のスラブ主義が原動力
共産主義思想というのは後付けにすぎない
ドストエフスキーの小説で都市経済や西欧合理主義が槍玉にあがるのもそのため
ソヴィエト成立後は体制内で西欧主義者とスラブ主義者との間で暗闘が起こるので
たとえばドクトルジバゴのような小説が書かれてしまう
基本的にロシア人というのは迷信深い百姓なのね
で、ドイツでヒトラーが受けたのもドイツ人の百姓根性に訴えたから
そこでドイツはもちろん旧ソヴィエトでも
都市部住人であるユダヤ人が悪玉としてスケープゴートにされた
その反動でシオニズムが活発になる >>911
オーウェルの恐ろしいところは、権力維持そのものを最終目的とすることが人間にはありえる、という本性を暴いたことだと思う
人間は目的達成のために欲を満たそうとするのではなければ理解がいっそう難しくなる
殺人ですら強盗のためか、強盗ですら金のためか、目的のための行使ならば理解できるし、権力把握でさえその自由気ままな行使のためならば理解もできまた反抗もできるだろう
ただオーウェルの世界では、まるで快楽者のように、殺人のための殺人を最終目的に、権力維持を何かに使うのではなくて権力維持を目的に権力を求めうるということ
オーウェルの世界は、この目的と作用の曖昧さの不条理な感じが奇妙でとても恐ろしさを感じるよね
ドストエフスキーの犯罪者はどことなく先の目的のために犯罪を犯すもの(ラスコリニコフとか)、が多いので理解をできる(しようとできる)けど >>920
>権力把握でさえその自由気ままな行使のためならば理解もできまた反抗もできるだろう
> ただオーウェルの世界では、まるで快楽者のように、殺人のための殺人を最終目的に、権力維持を何かに使うのではなくて権力維持を目的に権力を求めうるということ
> オーウェルの世界は、この目的と作用の曖昧さの不条理な感じが奇妙でとても恐ろしさを感じるよね
------------------
非常に参考になりました。注釈をありがとう。さらに理解を深化させるため、「このあとの
部分をこんど引用したいです」
オーウェルは大審問官にインスパイアされているものと推測しています。
右手親指を痛めまして、タイピングがつらく、カキコが遅くなりますがw。 >>ニーチェの権力への意志は読んだかい
権力へのは誤訳だけどな ドストエフスキーが死の家(再読中)で、犯罪とは無縁のような人が大きな犯罪を起こすことがあると、そして彼の心理を考察している
そして読者に直接問いかけている珍しい箇所で、お気に入りの言葉なので、勝手に紹介するよ(以下) 「一番似つかわしくないような人間が突然の爆発を起こすのもすべて、止むに止まれぬ、発作的な個性の顕現衝動、自分を取り戻したいという本能的な欲求、
自己を発見し、踏みにじられた己の人格を顕示する願望といった諸々が突如として湧きあがり、さらには恨み、激怒、狂気、発作、痙攣にまで達した結果ではないだろうか。
略、もちろん理性の声に従えば、どんなにあがいても無駄だと悟ることだろう。しかし問題はまさに、これが理性の作用ではなく、痙攣の作用だというところにあるのだ。
略、一方踏み出したら最後、当人はもはや自分の行為に酔って、歯止めがきかなくなってしまう。だからこそ、あらゆる手を尽くしてでも、人間をそこまで追い込まないようにすべきである。皆が安心していられるように。
そのとおり、だがはたしてどうすればそれが可能だろうか?」
可能なのかな? 殺人ボケ、結局現実逃避の殺され役。殺人の速さからしての言論の粘着的多さ。
日本の土壌では加害も被害も多い。
シオニストはまあきらいじゃないけど。 農民を徴兵してもなんか盛り上がらないよ。強制もよくないし。演説の巻き込みとか。 >>925
日本の土壌では加害も被害も多い。
ドストエフスキーは、犯罪はひとつの自己の顕示といった
深く考えると裏には、だれかに抑圧されて自己をとりもどすために痙攣にみをまかし時には犯罪として顕れると
そうなると、彼が自己を顕示すると彼にとっての誰かは抑圧されて、今度は抑圧された彼が誰かに自己をとりもどすために誰かを抑圧して自己を顕示する
加害者は被害者であり被害者は加害者であるか
>そのとおり、だがはたしてどうすればそれが可能だろうか?
連鎖がとまらなくて結局は止まらないのかな
だけどまだ理性が残っているけどね 927は正しいな。だが脳の回転が遅いと死兵を出すだろう。 「 犯罪とはひとつの自己顕示... 」憶えておきましょう! それが障害ならばそれを定義し、示されれば、変わるかもしれない その行為に偽りがなければ悪にはならない気がする
例えば物を盗んでしまう子供は無垢だが
そういう性質を受け入れて、それを正当化してしまうのは反教に値するんじゃないだろか >>924
〔I〕地獄と地獄の業火について。神秘的考察
諸氏よ、『地獄とはなんぞや』と考察するとき、余は次のごとく解釈する、『すなわち、もはや愛しあたわざる苦悶
である』時間をもっても、空間をもっても、測ることのできない無限の生活において、ある一つの精神的存在物は、
地上の出現によって「われ在り、ゆえに、われ愛す」という能力を授けられた。彼は実行的な《生きた》愛の瞬間を、
一度、たった一度だけ与えられた。
(米川駅手入力)
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ゾシマ長老の教訓集にある この部分は、なんというすばらしい書き出しであろうか。少年時代にも美しく感じたが、
壮年になってからますますその含蓄の深さに驚異の念をもつ。
ドストエフスキーなので長大な文であり、以降は略すが、ごく一部。
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「いまになってやっとわかった、いまさら愛することを熱望したところで、もはや愛の偉業をた
てることもできないし、犠牲になることもできない。なぜならもう地上の生活はおわってしまって、アブラハムもた
とえ一滴の生ける水(つまり昔の実行的な地上の生活の恵み)ももたらしてくれない、そしてその生ける水で、地上
にいた頃は蔑視していたが、いまは大いに燃えさかっているこの精神的愛の渇望の炎を消してはくれないからだ。も
はや地上の生活はないし、これ以上その時間もないのだ! 自分の命も他人のために喜んで投げだそうにも、もはや
それはできない、というのは、愛の犠牲にささげることのできたあの生活は過ぎ去ってしまい、いまではあの生活と
この暮らしのあいだに底知れぬ深淵が横たわっているからだ」
(X訳 コピーアンドペースト) ここには宗派を超えた教えが書かれていると感じる。
キリスト教らしい「愛」「ゆるし」という言葉が頻出するが、そうした表面をとりのぞけば、仏教の偉大な宗教家の教えとその比喩に共通している。
次の部分は「自殺について」
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しかし地上において われとわが身をほろぼしたものは気の毒である。
まことに自殺者は気の毒である ! これより不幸な者はほかにないと余は思う。
彼らのために神を祈るは罪悪である、と人は言う。
そうして、教会も表面的には彼らを破門するようなぐあいである。
けれども、余は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。
キリストも決して愛をとがめて、怒られるわけはなかろう。
余は自白するが、こういう人々のために一生涯、心のなかで祈っていた、今でも日ごと祈っている。
(米川駅) しかし、今回いちばん引用したかったのは、このあとに続く部分、すなわち「サタンの倨傲?悪について」の部分であった。
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しかし、地獄の中にも傲慢、残忍を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を覚知し、かつ認識したにも
かかわらず、サタンとその倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。
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の書き出しで始まるところ。
後日引用します、指が具合悪いのでw >>934
ドストエフスキーのテーマの一つに、彼の言い方では「不幸な人」、つまりは罪を犯さざるを得なかった人たちをどう救えばいいのかが書かれている
例えば、医者は健康な人に必要ではなくて不健康な人に必要なように、キリストは満ちるものより足らないものにこそ必要なんだと
上のレスで誰かが言っていたが、トルストイが善人の側に、ドストエフスキーは悪人の側に立っている
魅力の要因でもあるよね 死の家の記録がよかったから地下室の手記に手を出したが読むの苦痛やて。。。
とりあえずドストエフスキー本人が自己愛性人格で苦しんだ人なのはよく理解出来たけどな 地下室は短編だけど難解だ
読むスピードが落ちるよね
まさに自己愛にとどまるかとどまらないかの葛藤がすごい
書けるってことは自分もそこで苦悩したんだろう
作家はあるじ告白文を描いてるのかもしれない >>938
河出版全集(米川正夫訳)と筑摩版全集(小沼文彦訳)を舐めるように読んだのだが、ドストエフスキーの作品の中で『地下室の手記』が一番難解だと思う。 最近のレスで権力についての話題がでてるね
ドストエフスキーが権力について言うには、権力は習慣によって培われるものであり理性でも感情でもないところに所属しているらしい(次レスで引用)
もしそうならば、権力から遠ざかることもできうるし、人間を追いつめることから避けられるかもしれない
そこから方法を考えると、環境を変えるか又は悪い環境を自主的に避ければいいことになる
聖書の律法とは「汝するなかれ」が多い
キリストも、悪に抗するな遠ざかれと言われてはいないだろうか
これは別問題だし個人的意見で誤りの可能性を含んでいるのを自覚の上でいうけど、「善とは積極的な行為よりも積極的に悪を避けること」に本質があるのではないかな
そんなふうにおもってしまう 「暴虐行為は習慣である。どんなに優れた人間であっても、習慣の作用によって獣の域まで粗暴化し、鈍化することがありえるー私はこの意見に与する。
血と権力は人を酔わせる。粗暴さも堕落ぶりもどんどん進行していく。理性も感情も、もっとも常軌を逸した現象を許容し、ついにはそれを快楽と見なすようになるのである。」死の家の記録から キリスト教自体が世俗権力と距離を置いて
信仰に基づく理性と良心に価値を置くものだから >>940
クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎないしそれをやぶったからとて宗教的にどうということではない
キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
悪を避けるよりドストエフスキーはアリョーシャを僧院に留むるな、とした
ドミトリー(様々な悪徳にふけるもの)もドストエフスキーは悪と見なしてない
信仰者で、誠実で(自分に対しても)偽りがないなら悪ではないのだろう
なぜならドストエフスキー本人がそっち側の人間だから >>943
>クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
そこを言われると返事にこまるけどね
個人レベルに限るならば不可能ともいえない
>キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
見落としていたありがとう
やはりゾシマがアリョーシャを外の世界へ行かせようとしたのが、ドストエフスキーの思惑なんだろうね
悪霊であった、善をなそうとして悪をなしてしまう、という思考が引っかかる
なので善の行為は何なのかは考えますw >>943
君のカキコを見て 次の如く感じた
> クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
まさに事実そのとおり。苛烈に戦争や暴力を正義の名のもとに行う
> 悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎないしそれをやぶったからとて宗教的にどうということではない
「悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎない」とは、なんのことか?そして後半の
なぜ「宗教的にどうということではない」のか?
ここに書いてあることが違うと言っているのではない。説明不十分だ。
>
> 悪を避けるよりドストエフスキーはアリョーシャを僧院に留むるな、とした
> ドミトリー(様々な悪徳にふけるもの)もドストエフスキーは悪と見なしてない
> 信仰者で、誠実で(自分に対しても)偽りがないなら悪ではないのだろう
> なぜならドストエフスキー本人がそっち側の人間だから
ここの部分は、カラマに即して書いてくれてるから、わかりやすい。
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ただし総体的に、次の印象をもった。
キリスト教およびキリスト教国とキリスト教信仰者は大きな偽善の中に生きていると。
>キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
そういう信仰を持ちながら、教会へ行き、世俗ではひとを裁き死刑にし、戦争で他国を叩きのめす。
キリストの理想と世俗を分けろという二律背反であり、このことは意外にも重大なことである。 >>940
> 聖書の律法とは「汝するなかれ」が多い
> キリストも、悪に抗するな遠ざかれと言われてはいないだろうか
> これは別問題だし個人的意見で誤りの可能性を含んでいるのを自覚の上でいうけど、「善とは積極的な行為よりも積極的に悪を避けること」に本質があるのではないかな
学校空間における いじめ問題で考えてみましょう。
教師も世間もマスコミも「汝いじめることなかれ」と律法をときます。「しかし」重要なのは
その本心です。
2ちゃんねるやツイッターを見てください。
「いじめに抗するないじめから遠ざかれ」とキリストは言われたのですね?
「誰かがいじめられていても、関わると自分に被害が及ぶと考え、見て見ぬふりをする」
場合や「どうせあいつらキチでクズだから止められない」と考える。どちらも根本は無力感です。
「いじめに抗するないじめっ子から遠ざかれ」となれば、それは紛れもない悪なのです。
日蓮の「事の一念三千は、無力感の超克である」と池田先生は言った。
善と悪は同時に、この瞬間に、われらが この胸の中に ある。
いかなる場合も「賢く、時と度合いを見計らって」自分の力の及ぶかぎり悪をなすものを止めるものこそ、正義のひとと呼ばれ、かつまた私たちはそういう大人になりたいし、自分の息子たちを娘たちを、そういう理想を胸に抱くものとして育てたい。 よくキリスト教を批判するのに過去の戦争を持ち出すけど、結構そういうのは一部の特権者の行為だよ
集団とは善い個人と悪い個人の集まりにすぎない
個人への批判は個人にするべきだし、集団も同様にね
と思っているが、おそらくこの考えも正しいかどうかはわからない
トルストイは、歴史は1人決定ではなく関わった無数の総意による結果といった
キリスト国のげんじょうも、個人ではなく集団として批判されるのも仕方ないんだろうか
少なくとも戦争は反対する民意が足りなかった結果に過ぎないと考えるとね >>947
> よくキリスト教を批判するのに過去の戦争を持ち出すけど、結構そういうのは一部の特権者の行為だよ
> 集団とは善い個人と悪い個人の集まりにすぎない
> 個人への批判は個人にするべきだし、集団も同様にね
>
> と思っているが、おそらくこの考えも正しいかどうかはわからない
> トルストイは、歴史は1人決定ではなく関わった無数の総意による結果といった
> キリスト国のげんじょうも、個人ではなく集団として批判されるのも仕方ないんだろうか
> 少なくとも戦争は反対する民意が足りなかった結果に過ぎないと考えるとね
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いついかなる時代のキリスト国であろうと、もし彼が裁判官なら罪人を断罪し、しかも同時に神に祈って教会へいったのでないか? 裁判官が極悪殺人犯に死刑を下すのは「法的正義」です。
それをやらなければ、おそらく社会はまわっていかない。これは他のいかなる職業でもいっしょ。
いついかなる時代のキリスト者であろうと、キリストの山上の垂訓を胸に抱きつつ、「そうはいっても... 現実は」と生きたのでないか?
ぼくはそこを言っています。つまり教えの「根本が偽善」であるという指摘です。 ドストエフスキーも この問題について 指摘していたと記憶
いっけん無信仰で通俗的に見えるドストエフスキー作品の主人公ではない登場人物たちは
この至極あたりまえの「疑念」キリスト教徒の現実を指摘していて、まさにそのゆえに「無信仰」なのではないか? 聖書では罪人は教会がさばけと書いてるし、政治も教会がやった時代があった
でそれが暗黒時代と言われる これじゃなくて?こ
>>942
>キリスト教自体が世俗権力と距離を置いて
>信仰に基づく理性と良心に価値を置くものだから ミスった
これが本来のキリストの意向だったと思ってた 上 まず被害者の救済に当たること。犯罪者何て逃がして放っておいていい。
ずっと後に裁判。でも現代社会に体たらくなる割っきりの裁判なんていらない。 自論として個人と集団をわけるなら第三者の介入の有る無しを境界線にできるんじゃないかな
あなたと私である状況は個人といえる、が、それを見るものの存在が発生する(これは社会でも時には神でもいい)と、そしてその関係(あなたと私)への同意ないし拒否の介入があると集団になる
私が神に祈るのは個人として前に立っているが、教会で祈るならば集団として神の前に立っているといっていい ブロハルチン氏とか主婦、初恋なんっかを語るやつはいないのか 「弱い心」が好きです。
マスターコビッチ氏も再登場するし。 >人はある種の考えに遭遇し、とくに人々の悪業などを目にしたような場合に、
疑惑におちいって、こう自問することがある。『この人を力ずくで捕えるべきだろうか、
それとも謙抑な愛で捕えるべきだろうか?』そういう場合はつねに、『謙抑な愛で捕えよう』と、
そう決めるがよい。ひとたびそう決心すれば、全世界を征服することもできるのだ。
謙抑な愛はおそろしい力であって、あらゆる力のなかで最もつよく、これに匹敵するものは
なにひとつない。
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おまえらこんばんわ。今日ろくなもん食ってなくてサ〜、考えもまとまんねぇ。おれの駄文より
おまえらの意見聴きたいんだよねぇ。
上のゾシマ長老の説教を どう考えるぅ? おれの場合2ちゃんのクソスレ内に限るが、かならず相手を力で叩きのめそうとするんだよねぇ
言葉の力でさ 毎日毎時毎分、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように心がけねばならぬ。
いまお前が小さな子供のそばを通るとき、意地悪そうな顔をし、心に怒りをいだき、口ぎたない言葉を吐いたとすれば、たとえ自分のほうでは子供に気がつかぬとしても、
子供はちゃんと見てとるに相違ない。そうして、そのみにくい穢れた姿が、
頼りない子供の胸に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。
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ゾシマはこれを「用心深い実行的な愛」と呼ぶ。「愛」とは、恋愛でもなければ性愛でもなかった。
すなわち「ひとの振る舞い」のことであった。これらの振る舞いはひとつキリスト教特異のものではない。責任ある立場のひとはすべからく かくあるべし。また信仰者であるか否かの試金石はここにあるのだろう。 >>963
これドスには、思っ切りブーメランじゃね。私生活荒れすぎで、年下の奥さんにどれだけ迷惑をかけたと思ってるだよ。ゾシマの思想と言われたらそれまでだけどさ。 >>964
これは理想でさ、現実にはそのとおりいかないよw ぜったいに
でも、こういう理想を「胸に抱いている」という点が大事なんだ! レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。