ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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パイーシイ神父は読誦をイオシフ神父に引きついでもらって、下へおりていった。彼は狂信者たちの熱狂的な怒号などに動揺するわけは
なかったが、胸が急に悲しみに閉ざされ、なにか特別わびしい気持ちになり、それを意識した。彼は足をとめて、ふとこうわれとわが胸に問うてみた。
『意気消沈と言ってもいいくらいのこの悲哀は、なにが原因なのだろう?』そしてこの不意に襲った悲哀がごく小さな特別な原因から来
ていることにすぐ気づいて怪訝の念にうたれた。
どういうことかというと、たったいま庵室の入り口のそばでひしめいていた人むれのなかに、ほかの興奮した連中のなかにアリョーシャも
まじっていることに気づき、その姿を見かけたとたんに、胸になにか痛みのようなものを感じたことを思いだしたのである。
『それにしても、あの若者がきょうわしの心のなかでこんなに大変な意味を持っていようとはなあ?』と、彼はふと驚いてこう自問した。 ちょうどそのときアリョーシャが彼のそばを通りかかった。どこかをさして急いでいる様子だったが、行く先は会堂の方角ではなかった。
目と目があうと、アリョーシャはすばやく目をそらして、その目を伏せてしまったが、パイーシイ神父は青年のその素振りを見ただけでも
う、その瞬間青年の心にどういう急激な変化が生じていたか見ぬいてしまっていた。
「お前まで迷いをおこしたのか?」とパイーシイ神父が不意に声をかけた。「いったいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?」
と彼は悲しそうに言い足した。
アリョーシャは足をとめて、どこかぼんやりとした目つきでパイーシイ神父をちらりと見たが、またもや目をすばやくそらし、またもやそ
の目をふせてしまった。そして横向きに突っ立ったまま、問いかけた相手に顔を向けようともしなかった。パイーシイ神父は注意ぶかく
相手を観察した。
「どこへそんなに急ぐのだ? 勤行の知らせが鳴っているではないか」と彼はまた聞いたが、アリョーシャは今度も返事をしなかった。
「それとも庵室を出て行くのか? どういうわけだ、許しもこわなければ祝福も受けずに?」
アリョーシャは不意ににやりと口をゆがめて笑い、妙な、じつに妙な目つきでそう問いかけた神父に一瞥をくれたが、それはかつて
自分の感情と知性の指導者であり、自分の感情と知性の支配者であった敬愛すべき長老から、将来の指導を委任せられた当の人である。
アリョーシャは相変わらず、返事もせずに、敬意を表することすら念頭にないような様子で、突然片手をふったかと思うと、急ぎ足で庵室から出口の門をさして歩きだした。
「また帰ってくるだろう!」うれわしげな驚異の色を浮かべて、そのうしろを見送りながら、パイーシイ主教はこうつぶやいた。 >>91
たしかゾシマの腐敗の話の後の場面だよね
ここの場面でもし、もし、ゾシマが腐敗せずにアリョーシャが望む奇跡が行われていた物語だったらどうだろうか、腐敗せずに神秘が行われて、アリョーシャが修道院から出て行かなかったとしたら
それはそれで賛美してしまうのかな、実際はとても陳腐な外見になるのに
正しいものや行為が報われなくて、その反対が成功しうる混沌のこの世界の秩序を受け入れたアリョーシャは、そのことで世界を憎悪しなかったアリョーシャは、自らの主導者の死をどう見たのかな
圧倒的な「なくなる」という死の存在を
ここにドストエフスキーの真価や思想を読み解くヒントになると考えてる(まだ何とは言えないけど) 筆者自身でさえ、自分がかくも愛している、年わかい主人公の生涯における、この不思議な、漠然としたひとときの意味を正確に伝えることは、今のところ非常にむずかしい仕事なのである。 「いったいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?」という悲哀をおびた問いにたいしては、私にも、無論、アリョーシャにかわって、「いや、彼は信仰の薄い連中といっしょではない」ときっぱり答えられる。
それどころか、この中にはぜんぜん反対のものがふくまれているくらいである。
つまり、彼の惑乱はすべて、あまりに多く信仰したがために生じたのである。 >>92
> 正しいものや行為が報われなくて、その反対が成功しうる混沌のこの世界の秩序を受け入れたアリョーシャは、そのことで世界を憎悪しなかったアリョーシャは、自らの主導者の死をどう見たのかな
> 圧倒的な「なくなる」という死の存在を
レスありがとうございます。非常にゆっくりとしか進めず、読みながら引用しながら入力しながら、
ここの「意味」について考えています ドストエフスキーは大衆作家のコピペ作家だった
ずっと以前、丸谷才一の「ケインとカミュと女について」(福永武彦、中村真一郎との共著『深夜の散歩』所収)の「大衆小説のパターンを利用した純文学作家は、
文学史に拾っていったら、たぶんきりがないくらいだろう。たとえば、ドストエフスキーはウージェーヌ・スューをみごとに利用しつくしている」
From: kameiasami
という文章を読んで、丸谷がドストエフスキーとシューを読み比べてるわけがない、誰かの受け売りでしょ、一体シューのどの作品をどこでどう利用し尽してるんですか、
具体的に説明して下さいと訊ねたって、どうせ答えられないわよ、などと小生意気な(以下略) ごめんなさい、ごめんなさい (^^;
From: kameiasami at
丸谷はドストエフスキーの『スチェパンチコヴォ村とその住人』と『伯父様の夢』が好きで、全作品から1つ選ぶとしたら前者だと河出書房新社版全集の
月報に書いていますが、シューの影響がよく指摘される(作中でも『パリの秘密』への言及がある)『虐げられし人々』を読んでいるかはちょっと疑わしい。
From: kameiasami
いちばんありそうなのは、『罪と罰』の物語の筋立てや登場人物と、『パリの秘密』のそれとの類似性を念頭に置いているのではないか、ということです。
下記の淵上論文で指摘するように、ラスコーリニコフの思想でさえ、ロドルフの行動思想の進化という観点から見る見方もあるようです。
From: kameiasami
淵上克司「ドストエフスキイとウージェンヌ・シュー―あるいは『虐げられし人々』の「時間」」ロシア語ロシア文学研究
https://projects.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=104371&item_no=1&page_id=13&block_id=21
それ自分で確認した訳じゃないでしょ?ってことくらい高校生にさえ見透かされます。気を付けなきゃ
From: kameiasami 面白いテーマが出来そうな話だね
模倣とオリジナルの境界線はどこにあるのか
本当の本当に最初から自分だけで考え出した創作とはありえるのだろうか
定義はともかく、もし思うならば、創作者に含まれる意志がオリジナリティーの正体であって、それ以外は影響という名の誰かのコピペなのかもしれないね
意識的にか無意識かは問わずだけども
なんて>>96を読んでて考えた このスレで小説書いてる人とかいるのかな
なろうにあげてほしいが 地下室を再読すると言ってたものです
終わったので感想を 地下室の住人は、自らの特性である強烈な自意識の「直接かつ当然の産物」が「無気力」であると述べていた
突飛したプライドは、何もしないことで満足を得ると言っている
とても現在的だよね、これは
人間は必ず利益と合理性(2✖2=4)で欲求するのではなく、破滅をも時には不利益のために欲求することもあるとも述べている
意思とは、普遍的欲求とは一体何なのか考えさせられる
「俺の願望が存在する限りそれは存在するのだからから、あってはならぬかどうかなんぞ、どっちでもいいことではないか?」
何も言い返せないね、これを言われたら
まさに、我思うゆえに我あり
この2つの箇所がすごく共感に近い感情を生み出した
どれも決して気持ちのいい感情ではなかったけどもw
彼は赦される場所と対象を見つけれらなかった、嘘に生きるかよりは、リアルな地下室の不幸の方がイイと言ってる(結末は悲劇的すぎかなとおもった、ラスコーリニコフのように精神的には救われてほしかったです)
さて、つぎは何を読もうかな 昨日夕方に虐げられた人々買ったんだけどすげぇ面白くて一気に読んでしまった
五大長編ではないからといって侮るべからずやね その後 すでに 長い こと たっ てからも、 アリョーシャがこの日を目して、自分の一生における最も苦しい、
宿命的 な 日 の ひとつと数えたほど、悩ましい惑乱なのであった。 世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、 人 を 愛する態度も 熱烈で なく 生ぬるいし、
その知性も正確 では あるけれど 年 に似合わず あまりに も 分別臭い( したがって 安っぽい)
こういう 青年は、わが 主人公 の心に 起こっ た よう な ことを避けたに相違ない。 亀井麻美 @kameiasami
木下豊房さんのサイトで知ったんですが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を初出誌「ロシア報知」の画像で読めるんですね。
1879?1880 (Русский вестник):
「大審問官」で「彼」を意味する「он」が、初出でのみ大文字の「ОН」(あの方)となっていて、作者の意図は「あの方=キリスト」であることは明白だ、とのことでした。
その箇所を確認したいのですが、PDFファイルが大きすぎて、なかなか「大審問官」(Великий инквизитор)までたどり着けません。
やっとたどり着けました(^^;) PDFファイルの304ページ目です。
「Велик?й инквизиторъ.」
ただ、ざっと見たところ、「ОН」ではなく「Онъ」ですね。頭文字だけが大文字でした。ですから、木下豊房さんの記述も正確ではありません。
やはり、鵜呑みにせず、必ず自分自身で確認しなければならないですね。「онъ」はもともと古スラヴ語の指示代名詞で「遠称」と呼ばれ、
「指示代名詞として他の名詞とともに現れ、それを修飾する機能をもってい」ました(佐藤昭裕「古ロシア語と古教会スラブ語における指示代名詞
sь, onъ, tъについて」)が、後に3人称の人称代名詞「彼」の意に使用されるようになったものです。
たとえば民衆たちが、現行の版でЭто он, это сам онといってざわめく箇所は、初出(PDF 307頁)ではЭто Онъ, это самъ Онъ
となっっており、これを原卓也は「あのお方だ、まさしく、あのお方だぞ」、米川正夫は「これはイエス様だ、イエス様ご自身だ」と訳しています。 語り手であるイヴァン・カラマーゾフも「大審問官」中では一貫して「Онъ」(あのお方)と言っており、「Онъ=キリスト」であることは明白で、
従来の邦訳で「он」を「キリスト」(原卓也)または「イエス」(米川、江川卓)と訳していたのは誤りではありません。
また、大審問官の台詞も、初出(PDF 309頁)では Это Ты? Ты? となっています。「君、あなた」を指す「Ты」も現行の版では「ты」と小文字化されて
いますが、キリストを指すものと考えていいと思います。ちなみにこの箇所は原卓也訳では「お前はキリストなのか?
キリストだろう?」、米川訳では「お前はイエスか? イエスか?」、江川訳では「おまえはイエスなのか? イエスなのか?」となっています。
ただ、亀山郁夫氏の説は眉唾であるとしても、従来の『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で「キリスト」「イエス」と訳されていた箇所は
、原文では「он」「ты」であり、初出では「Онъ」(「ОН」ではない)「Ты」と大文字で書かれていたことを、
木下氏の批判を通じて日本の一般読者に知らしめるという意義は少なくともあったと思います。 >>107
>>108
極めてディープな、原典にあたっての情報ありがとうございます。
こうした知識はあなたのような方が引用してくださらなければ、自分では決して調べることさえしないでしょう。
今後ともよろしくおねがいします。 トルストイには、キリストの分霊が受肉した。
ドストエフスキーには、ゾロアスターの分霊が受肉した。
霊界の二大巨頭が人類の思想を先導すべく、、ロシアに降り立った。
しかし彼らが意図した思想は、マルクス主義という悪魔によって押しとどめられた。
歴史における善と悪のせめぎあい。 >>107
>やはり、鵜呑みにせず、必ず自分自身で確認しなければならないですね。
とても多くの嘘と本当の情報が流れてる現在には注意を向けなければならない教訓だね
ただ君のように探し見つけ修正して確認出来る人ばかりではないので難しいことだ >>110
ドストエフスキー好きとして、テレビとか何でも「社会主義とかマルクス主義とか共産主義」という言葉を見ると思い出してしまう
社会主義は決して単なる労働問題、即ち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として無神論の問題である、無神論に現代的な肉をつけた問題である、「地上から天に達するためでなく天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられたるバビロンの塔である。」
(カラマーゾフの兄弟 第一巻第一篇) >>92
> ここの場面でもし、もし、ゾシマが腐敗せずにアリョーシャが望む奇跡が行われていた物語だったらどうだろうか、腐敗せずに神秘が行われて、アリョーシャが修道院から出て行かなかったとしたら
不可思議に感じる部分がある。なぜ、アリョーシャは「ゾシマの遺骸が腐敗」したことで「困惑と懐疑と悲嘆」に
落ちたのか? 僕らなら「その死」により混迷に陥るはずでないのか?
> 正しいものや行為が報われなくて、その反対が成功しうる混沌のこの世界の秩序を受け入れたアリョーシャは、そのことで世界を憎悪しなかったアリョーシャは、自らの主導者の死をどう見たのかな
> 圧倒的な「なくなる」という死の存在を
「こうした瞬間」の章から、あの美しいカラマーゾフ中 最美の箇所、すなわち「星と花と戦士」のラストまで
読みながら考えていきたい に、「 彼 の 心 に こうした わびし さや 不安 が 生じ た のも 結局 は、 長老 の 遺体 が 即座 に 治癒 力 を
発揮 し はじめる こと なく、 反対 に、 はやく も 腐敗 し はじめ た からに すぎ ない のでは ない のか?」
と 聞か れ た と し たら、―― それ にたいして 私 は ためらわ ず に、「 そう だ、 たしかに その とおり だ」
と 答える
ただ 私 は ここ で あまりに も 性急 に わかい 主人公 の 「 純真 な 心」 を 嘲笑 し ない で ほしい と 読者 諸君 に お願い し たい。
(「 純真 な 心」 のカギかっこ、私が入れた) 彼 の 信仰 が 素朴 なのは 彼 が たとえば 若年 の せい で ある とか、
その 前 に 彼 が 大した 学問 を おさめ て い なかっ た から だ などと
言っ て 弁護 し たり する つもり は ない ばかりか、 むしろ 反対 に、
自分 は 彼 の 心 栄え に 心から 敬意 を いだい て いる と、 きっぱり 言明 し て おく。 しかし、時と場合 によって は、 たとえ 無分別 であろうとも、「広大な愛から生じた熱情」に没頭したほうが、
ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬 に 値することがある。 わかい ときには なおさらそうである。
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米川訳に手入力で変更。ソレ以前は北側訳?
「広大な愛から生じた熱情」とは?何に対する「広大な愛」なのか? アイドルに対する愛か? そう です、 私 の わかい 主人公 は たしかに 信じ こん で い まし た、 神聖 不可侵 な もの として 信じ こん で い まし た、 が、 それでも やはり 私 は 彼 の こと は 許し て やっ て くれ などとは 頼ま ない つもり です」 と。
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さぁ、ここからが問題だ! 注意深くドストエフスキーの説明を聞こうじゃないか。
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ここ で 言い たい のは、 この 場合 問題 は 奇蹟 などに ある のでは ない という こと だ。
自己の性急さの中に潜んでいる浅はかさのゆえに、奇蹟 を 期待したわけではない。
この とき アリョーシャ が 奇蹟 を 必要 と し た のは、 なにかの 信念の勝利の
ためではない( そんな こと は 絶対にない)、
略 --------------------------------------------------------------------------------------------
彼の心中第一の場所を占めているのは「ひとつ の 顔」である。ただ顔だけである、――
彼の愛してやまぬ 長老 の 顔 である、
彼が崇拝の極度に達するまで尊敬していた かの正しき人の顔、これなのである! >>113
>不可思議に感じる部分がある。なぜ、アリョーシャは「ゾシマの遺骸が腐敗」したことで「困惑と懐疑と悲嘆」に
>落ちたのか? 僕らなら「その死」により混迷に陥るはずでないのか?
歴代の長老の中で偉大な長老は、死後の遺体が腐敗せずにいた奇跡があったと言われていた
アリョーシャはゾシマがそうなると心のなかで信じていたんじゃないかな
その奇跡が起こらず困惑してしまった
彼もまた神秘主義の傾向があった、ロマンの部分があった
だけどゆくゆくは、一般の信者のように奇跡なくして信仰せずでは決してなくて、奇跡があろうとなかろうと信仰す、神秘なくして現実主義で信仰するに至る(これは最後の1ページまで読まないと分からないけど)
「彼もまた、人生の途中であり、不条理と試練の真っ只中にいる」、彼もまた、人間でよかったw
アリョーシャを主人公と読めば、彼の成長の物語であり、彼を使って、まるで苦あり楽ありの人間の一生の物語と、ぼくは理解して読んでるよ >>113
>僕らなら「その死」により混迷に陥るはずでないのか?
ほんとそうだよね
ここはさすがアリョーシャと言わざるを得ない
ぼくなら勝手ではあるが裏切られたと思って、信じるのをやめてしまうかもしれない >>112
>社会主義は決して単なる労働問題、即ち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、
>主として無神論の問題である
でもキリスト教社会主義というものがあるし
フーリエ主義もその流れで
「罪と罰」や「悪霊」はフーリエ主義のロシア的展開が
無神論的傾向になって急進化していく過程をえがいているんじゃないの? >>121
説明してくれた通り、その流れの過程を書いてるんだとおもうよ
ただ悪霊なんかはフーリエ・実践社会主共同体が無神論で突き進んだ結果、聖書の悪霊のように破滅していく物語だからね、もうひとつは、そして
>>112である、
>地上から天に達する(キリスト教)ためではなく
>天を地上へ引きおろすため(共産主義)に・・・・
ここで、
キリスト教と共産主義(社会主義)は、似て非なるものと述べられていると言っている
ドストエフスキーは、キリスト教と社会主義(共産主義)を分けて考えてたんじゃないかな?
だからドストエフスキーは、知っていても否定したと勝手におもっているんだ、あと「キリスト教社会主義」を自分があまり知らないので、答えられないよ すまんね 勉強しときます 死の家の記録がなかなかおもしろい。
ちょっと長いけど。 原始共産主義の流れはキリスト教精神であるのは間違いないが、
マルクスが出て1948年頃に共産党宣言を出版し、唯物史観に基づく
共産主義を主張し始めた頃から、心ある人は「これは危険思想」だと気づいたんじゃないかな?
ドストエフスキーも気づいたその有力なその一人であったんだろう。
原始共産主義とマルクス主義的共産主義は、まったく正反対のものであって水と油。
しかしその辺をごっちゃに見せかけてマルクスは民衆を巻き込んでいったのだろう。 あ、まったくそうだねってことです
言葉がだいぶ足らなかった、すまんw >>126
>原始共産主義とマルクス主義的共産主義は、まった>正反対のものであって水と油。
そうだね、悪霊だとステパンとピョートルで対抗している、ドストエフスキーはフーリエ社会主義に傾倒していて、上レスのとおり当時の現在向かっている実践的社会主義には、危険思想があると感じていたとおもう >>131
>>原始共産主義とマルクス主義的共産主義は、まった>正反対のものであって水と油。
悪霊で、前者はステパンの主張だけど、ピョートルが率いる5人組の社会主義思想は、いわゆるシガリョフ主義になる
曰く、
「彼はスパイ制度を提唱してましてね。
つまり、社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。各人は全体に属し、全体は各人に属する。
全員が奴隷であるという点で平等です。
極端な場合には中傷や殺人もあるが、何より大事なのは――平等です。
まず手はじめとして教育、学術、才能の水準が引きさげられる。
学術や才能の高い水準に達するには高度の能力が必要ですが、そんな高度の能力など必要ない!
高度の能力をもった者はつねに権力をにぎり、専制君主でした。
高度の能力をもったものは専制君主たらざるをえないし、これまでつねに利益よりは害毒を流してきたんです。彼らは追放されるか、処刑されます。
キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、シェイクスピアは石で打たれる――
これがシガリョフ主義ですよ。奴隷は平等でなけりゃいけない。
専制君主なしにはこれまでに自由も平等もあったためしがないが、ただし家畜の群れの中は平等でなけりゃいけない。」
このあとも、時間がないので1000人の首が必要とかの暴力にはしるような過激思想が出てくる
これらはドストエフスキーの風刺が入ってるよね
時代の流れに警告していたのかな 亀井麻美??
@kameiasami
河出書房新社『愛蔵決定版 ドストエーフスキイ全集』の装釘は綺麗ですね。洋書みたい。写真は、第15巻『作家の日記 下』。
所収の「コンスタンチノープルはわが有たらざるべからずというのは可能か」はドストエフスキーの極右ぶりで知られた論文。
亀井麻美??@kameiasami 2014年9月13日
最晩年の論文「アジアはわれわれにとってそもそも何であるか/問いと答え」もなかなかすごいです。
「ヨーロッパでは、われわれは単に食客で、奴隷に過ぎなかった。がアジアへは主人として出現するわけだ。ヨーロッパではわれわれは韃靼人だったが
、アジアではわれわれでもヨーロッパ人なのだ。」 「悪霊」を読み始めて1時間ほどしたとこだけど、既に5回は吹き出しそうになった
実際のところ、静かな喫茶店にいるのに2回は声を出してしまったのである
四大長編他3作は既読なんだけど、ドストってこんなに笑える感じだったっけ? ワルワーラ夫人の暴君ぶりは面白いよね
ドストエフスキーの夫人役のキャラクターは暴君が多いw >>132
>社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。各人は全体に属し、全体は各人に属する。
>全員が奴隷であるという点で平等です。
>極端な場合には中傷や殺人もあるが、何より大事なのは――平等です。
>まず手はじめとして教育、学術、才能の水準が引きさげられる(中略)
>時代の流れに警告していたのかな
それは同時代のイギリス人であるミルが全く同じことを言っている
ミルは功利主義という科学的技術知に倫理的根拠を与えようとして苦闘しているけど
ドストエフスキーの場合も似たようなもので
そこで信仰や倫理の問題が出て来る
これはトルストイも変わらない
まあ、トルストイの場合は科学批判から原始生活への回帰主義に傾くのだけど
ドストエフスキーはそこまで反動的ではない わがドストベスト3
未成年
虐げられた人びと
ネートチカ・ネズワーノワ カラマーゾフの兄弟とか悪霊って映画がある
全然気がつかなかった
見た人いますか >>139
>社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。
相互監視社会と言われるとオーウェルの世界を連想する
でも決して、小説の世界の話ではないんだろうね
政府といわれる機関ならば、大小はあるにしろ、共通する思想を強いられて、はみ出すものは罰される仕組みなんだろう
>各人は全体に属し、全体は各人に属する。
One for all, all for one. て、小学生か中学の頃覚えさせられたが(部活とかで)、今となってはぞっとするね >>139
ミルは自由論の印象がぼくには強いんだけど、自由や権利の他に、そういう(功利主義のなかに倫理を与える)思想も書いていたんだ
知らなかったよ、勉強になった 26 吾輩は名無しである (ワッチョイ 63f7-k06i)[] 2017/09/03(日) 01:38:11.67 ID:HhGqTBLb0
僕は白痴を読書感想文にしました
先生にありえんとか言われました
小学3年ですが普通だと思ってました 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 ドストエフスキーの本文を借りて、論理ではなく、自己の体験発表の場としたい 自己の体験や共感を生む作品てなんだろう
やっぱり地下室が感情を多彩にあらわしているのかな
心の暗部が目立ってしまうけど >>148
非常に体調壊した。カゼだけどw セキがとまらん
復活したらヨロピクね! 良心の呵責とその赦しを最も感じたセリフ
ドストエフスキーの内的な心理での赦しをここまで明確になっているパラフレーズはないのではないだろうか
決して行為の赦しではなくて、心情の赦しになる
そもそも「赦し」とは心理的な感情なんだろうとも思える
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
「僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。「お父さんを殺したのは『あなたじゃ』ありません」
「〈あなたじゃない〉! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャが、しっかりした口調でくりかえした。
三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ。うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いを浮かべて、イワンが言い放った。 よぅお前ら
つい最近やっとカラマーゾフの兄弟読み始めたわ
まだ50ページぐらいまでだけど、この独白録みたいな語り手って誰? >>152
カラマーゾフの兄弟は特に語り手が登場人物というのはないよ
物語を進めるただの形式ではないかな
最初の10ページくらいは名のとおい著者よりだけど
悪霊なんかだと「私」が語るのは立派な登場人物の一人ということになってるけど あと結構ドストエフスキーではよくあるこの独自録的な、語り手がいるような文章
そして誰もが思うだろうけど異様に一個の会話が長い
人セリフで2ページとか、今の本じゃありえないw 『罪と罰』は、最初はラスコーリニコフの一人称の告白小説の形式で書いていたが、途中ですべてを焼き捨てて、3人称形式に変更した
その形式とは
「目に見えないが、すべてを知っている存在としての作者からの話。ただし作者は主人公からいっときも目をはなさないこと」 『カラマ』の「私」は、読者にルポタージュ感を与えていると思う。
初めて『カラマ』を英訳したコンスタンガーネットは、あの序文を省略してしまった!! 『人殺し』 だの『 人でなし』 といった 言葉 が アリョーシャ の 胸 に 痛く ひびい た。
「お前 は まだ それ を 知っ て い ない ん だ。 あの 女 は ある 書類 を にぎっ て いる ん だ よ、
兄貴 が 自分 で 書い た もの で、 親父 を 殺し た のは 兄貴 だ という こと を 数学 的 に はっきり と 証拠立て て いる 書類 を」
「そんな もの が ある はず は ない!」 と アリョーシャ は 叫ん だ。
「どうして ある はず が ない ん だ? 僕 は この 目 で 読ん だ ん だ ぜ」
「そんな 書き もの なんて ある はず は ない さ!」 と アリョーシャ は のぼせ た よう に なっ て くり返し た。
「 ある はず は ない よ、 だって 犯人 は 兄さん じゃ ない ん だ もの。 おとうさん を 殺し た のは 兄さん じゃ ない もの、
兄さん じゃ ない もの!」
イワン は 急 に 足 を とめ て、 「じゃ、 お前 の 考え じゃ、 犯人 は だれ な ん だ?」 と、 見 た ところ 妙 に ひ やや かな 調子
で 聞い た が、 その 問い の 調子 には なにやら 見下し た よう な 響き さえ こめ られ て い た。
「だれ か って こと は 自分 で 知っ て いる くせ に」 と アリョーシャ は おだやか な、 胸 に しみ入る よう な 調子 で 言っ た。
「だれ な ん だ? あの 癲癇 もち の 気 ちがい の ばか が やっ た という 例 の 寝 空言 か? あの スメルジャコーフ が
やっ た という?」 アリョーシャ は ふと、 自分 が ぶるぶる ふるえ て いる のに 気がつい た。
「だれ か って こと は 自分 でも 知っ て いる くせ に」 という 言葉 が 力 なく 彼 の 口 から 洩れ た。
彼 は 息づかい が 荒く なっ て き て い た。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど凶暴にイワンが叫んだ。(以下略)
------------------------------------------------------------------------------------------- >>151
> 良心の呵責とその赦しを最も感じたセリフ
> ドストエフスキーの内的な心理での赦しをここまで明確になっているパラフレーズはないのではないだろうか
> 決して行為の赦しではなくて、心情の赦しになる
あなたの引用箇所の前の部分を添加。
この所はぼくにとっては難しい。上の表現ではまだむずかしい。もう少し分かりやすく単純化して解説してほしい。 >>160
一つ一つぼくが感じた感想と上のレスの真意を説明するよ
まず良心の呵責については、
イワンは物理的に殺してはいないのにも関わらず、父殺しに罪悪感を感じている
何に罪悪感を持っているのだろうか→
それはスメルジャイコフに殺人すら許されると扇動し思想を与えた罪は大きいと彼は自覚している
起こったことすべての原因を自己に課す(法の罪ではなく罪悪感として)、これこそが最大の「懺悔」ではないか
そして赦しについては、
アリョーシャのみがイワンの心の中の良心の呵責を見透かして、「あなたじゃない!」とアリョーシャのみがイワンに伝えた
この心の中まで察して、というのが、何より重要!
イワンは告白せずアリョーシャはすべてを見透かして!ということ
それを踏まえて考えると、
>決して行為の赦しではなくて、心情の赦しになる
>そもそも「赦し」とは心理的な感情なんだろうとも>思える
人が自分の罪を告白してそれを許す人がいる
これが一般の許しであるけど、ドストエフスキーはイワンとアリョーシャを通じて、「本当の後悔とは誰にも打ち明けられないほどの罪悪感を背負う」ことであり、「本当の許しとはすべてを見透かして『おまえは悪くない!』って言ってやる」ことじゃないかな?とおもったんだ
これが、行為の赦しではなくて、心情の赦しになる
ぼくがドストエフスキーを賛美する理由でもある
彼はとても人間の内面を重要視していて、行為のみではなくて内的心理に焦点と価値を見出している 自分が後悔していて誰にも打ち明けられられないのに、心を察して「悪くない!と言ってくれる
こんなに許されることはないだろう
これ以上の懺悔と許しがあるのだろうか、と思ったのが上の場面
>>161の続きでした >>160
ふと今思いついたんだけど、これは大審問官も同じではないかな
最後を思い出してほしい
あの十字架の人は大審問官に「何もいわず接吻して」去って行く
すべてを悟って何も言わず接吻して終わる
これらに懺悔とか言葉という行為はまったく存在しない
行為のない、内的な懺悔と赦しのみが存在する
ってすごく形而上学的で観念的になってしまったw
悪い癖がでてしまったw
スルーでw でも一応書いとくよ 第五篇第七章
もうかなり遅かったが、イワンはまだ眠らずに物思いにふけっていた。その夜、彼が床についたのは大そう遅く、二時すぎだった。
しかし、筆者はここで彼の思考の流れを伝えるのはやめておこう。
まったく意外なさまざまな欲望が彼を苦しめていた。例えば、もう真夜中すぎだというのに、とつぜん階下へおりて行って戸を開け、
別棟に飛び込んで行ってスメルジャコーフをぶちのめしてやりたい気持がむらむらと沸き起こるのである。そのくせ、何のためにと
聞かれても、あの下男が憎らしくてたまらないのだ、あれはこの世にふたりといない無礼千万な男だという以外には、いかなる正
確な理由も述べられなかっただろう。
一方この夜の彼は、ある正体不明の屈辱的な臆病風に一度ならず肝をひやされ、そのために突然、肉体的な力まで失ったかのよ
うな感じがしていた。頭がずきずき痛んで、目まいがしていた。まるでこれから復讐でもしに行くように、憎悪に胸をしめつけられていた。 さっきの会話を思い出すとアリョーシャまでが憎らしくなり、時々は自分さえも憎悪した。
このことは後に思い出して非常にふしぎな気がしたが、それはきのうの朝カチェリーナの家で明日モスクワへ発つと大見栄を切った
時、心のなかで『嘘つけ、行くものか。いま大口をたたいているようにそう簡単には別れられまい』と自分にささやいたのをはっきり覚
えていたからである。
ずっと後になってその夜のことを思い出すたびに、イワンは自分が何度か突然ソファから立ちあがって、人に見られるのをひどく
恐れるようにこっそりとドアを開けて階段の上に出たのと、とくに激しい嫌悪を感じながら思い起こした。
--------------------------------------------------------------------------------------------
階段へ出ると、彼は階下の部屋で父親が身動きしたり歩きまわったりする物音に耳をすましていた。それもかなり長いあいだ、
五分ほどもある奇妙な好奇心にかられて、息を殺し胸をどきどきさせながら耳をすましていたのだが、何のためにそんなことを
したのか、何のために耳をすましていたのかはもちろん自分にもわからなかった。この《行為》を彼はその後、一生のあいだ
《醜い行為》と呼び、一生涯心の奥底で、魂の秘密の部分で、わが生涯の最も卑劣な行為と考えていた。
-------------------------------------------------------------------------------------------- 『そうだ、おれはあの時あのことを期待していたのだ、確かにそうだ! おれは望んでいたのだ、
殺人を望んでいたのだ! だが、はたしておれは殺人を望んでいたのだろうか、ほんとうに望ん
でいたのだろうか。……スメルジャコーフを消さねばならんぞ!……今スメルジャコーフを殺す
勇気がないぐらいなら、おれはこのさき生きている価値はない!……』 自分が今回目を通した部分は引用した箇所のみ。その上で、次の感想を、今の時点で感じた。
>イワンは物理的に殺してはいないのにも関わらず、父殺しに罪悪感を感じている
何に罪悪感を持っているのだろうか→
それはスメルジャイコフに殺人すら許されると扇動し思想を与えた罪は大きいと彼は自覚している
起こったことすべての原因を自己に課す(法の罪ではなく罪悪感として)、これこそが最大の「懺悔」ではないか
「物理的に殺して」なくとも、現代日本の法律でも、犯罪教唆に当たるのでないか。しかり、文字通り有罪ではないか? イヴァンこそ主犯ではないか。
スメルジャコフもイヴァンも、父を軽蔑し憎み、「こんな奴は死んでも構わない!」と考えていた、そうした
家庭の土壌においては、「思想を与えた」そして勝手に妄動してスメルジャコフがやった――― などという
レベルではないのでないか。
スメルジャコフはイヴァンの鏡像ではないのか。
スメルはやってない、ドミートリイのバカがやったのだ!と自分を欺いていたのではないか?
生命の奥底で、ジャコフがやったと、理解していたか。
そしていよいよアレクセイによって知らされて、彼の精神は崩壊したのか。 >>159
> 『人殺し』 だの『 人でなし』 といった 言葉 が アリョーシャ の 胸 に 痛く ひびい た。
> 「お前 は まだ それ を 知っ て い ない ん だ。 あの 女 は ある 書類 を にぎっ て いる ん だ よ、
> 兄貴 が 自分 で 書い た もの で、 親父 を 殺し た のは 兄貴 だ という こと を 数学 的 に はっきり と 証拠立て て いる 書類 を」
> 「そんな もの が ある はず は ない!」 と アリョーシャ は 叫ん だ。
> 「どうして ある はず が ない ん だ? 僕 は この 目 で 読ん だ ん だ ぜ」
> 「そんな 書き もの なんて ある はず は ない さ!」 と アリョーシャ は のぼせ た よう に なっ て くり返し た。
> 「 ある はず は ない よ、 だって 犯人 は 兄さん じゃ ない ん だ もの。 おとうさん を 殺し た のは 兄さん じゃ ない もの、
> 兄さん じゃ ない もの!」
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アレクセイはすべてを仏のごとく知見する。いっさいの事象を如実にありのままに見る。
その外面とは裏腹にドミートリイが極めて崇高な人格であることを知っていた。ゆえに証拠がなくとも、ミーチャがやってないことを見抜く。 では有名な、ネットでも解釈をめぐって論争?となっているアリョーシャの「あなたじゃない」とは、何なのか? わたしは他人の意見などいっさい信じない。
亀山訳がどうたらとか、バカげた話しであるとさえおもう。一訳者の為に、その本質的価値が揺らぐような
軟弱なものではない。カラマーゾフは。
ドストエフスキー以外の、評論家の意見を信じれば(自分で解釈に苦しむ箇所など)、「その評論家の宗教観人間観」を取り入れたことになる。
大事なのは「自分がどう受け取ったか」だ。どう「生きたか」だ。.... そうだ、カラマーゾフを読むものは、ことごとくカラマーゾフのごとく生きなければならん。 わたしは他人の意見などいっさい信じない。
亀山訳がどうたらとか、バカげた話しであるとさえおもう。一訳者の為に、その本質的価値が揺らぐような
軟弱なものではない。カラマーゾフは。
ドストエフスキー以外の、評論家の意見を信じれば(自分で解釈に苦しむ箇所など)、「その評論家の宗教観人間観」を取り入れたことになる。
大事なのは「自分がどう受け取ったか」だ。どう「生きたか」だ。.... そうだ、カラマーゾフを読むものは、ことごとくカラマーゾフのごとく生きなければならん。 イワンとアリョーシャが飲み屋で語り、別れる所まで読みました。
途中読むのを挫折しそうになりましたが、ここまで読んだので最後まで読もうと思います。
二頭大尉とアリョーシャの再会が楽しみです。 末っ子アレクセイにとって 何が大切なのか?
それは「兄を救うこと」だ。兄とは「ふたりの兄」両方である。
死んでしまった父と下男はしょーがない。彼らは神のみ手に任せれば良い。
この世に罪のない人間はいない。ドミートリイもイヴァンも罪のかたまりだ。アレクセイ自身もだ。
誤れる裁判によって、ドミートリイはシベリア送りになろうとしている。国法を犯すことになるが、カネと人脈の力によって、ドミートリイはぜったいにゆかせない。
ではイヴァンは? 難しいが本文を引用しながら考えたい。(2ちゃん専ブラの具合悪く、投稿に時間かかりそ。
はやく、みんなも書いてくれ!) >>172
> イワンとアリョーシャが飲み屋で語り、別れる所まで読みました。
最高に素晴らしいところのひとつだよね
> 二頭大尉とアリョーシャの再会が楽しみです。
あのシーンも一生忘れられないね
>途中読むのを挫折しそうになりましたが、ここまで読んだので最後まで読もうと思います。
あなたには勇気がある。 >>173
イワンを法で罪に問うことは出来ないんじゃないかな
殺されるかもしれない可能性を予知したのはイワンに限らない設定でスタートしている
以前にキリストの姦淫について話しがあったのを思い出した
カラマーゾフの兄弟では殺人であるが、誰もがフョードルに死んで欲しいと心では思っていた
イワンもそれに過ぎない、そこで殺人が起こって、なぜ自分の所為だと思ったんだろうか
心で思うだけでそんなに悪いことなのだろうか
誰かの死を願った者は多数いる、行為にした者は少数だろうけど >>173
だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」マタイによる福音書5−28
トルストイもドストエフスキーもこの立場を支持したのではないだろうか
心の中で思うことさえ罪としなければならないと
ここからぼくの勝手な持論になるけど、罪悪感、つまりは「人間は誰もが罪を負っている」というカラマーゾフの兄弟の思想にはある前提が必要となる
行為ではなく、思ったということを罪とするかどうかである
これが懺悔するということ、悔いるということ、罪を自覚するということ
すべてが心の中で存在する!
>わたしは他人の意見などいっさい信じない。
とても綺麗な言葉だね 人間が罪の意識を感じるには、そこにスコープに入ってる必要があるんだよなあ
むしろ、罪悪感のない行為こそ問題にしなきゃあならないと思うんだがなあ >>178
善をなそうとして悪をなしてしまうということ?
一方通行の善意のような?
もしそういう意味なら、同じくそうおもう
野蛮といわれたハンムラビ法典の、歯に歯をの、故意を厳しく罰した姿勢こそ…って範囲をひろげすぎた
ただ、人間は生れながらに罪を追う存在である、とカラマーゾフの兄弟のようにした場合、悪を思う心がある、という前提が必要に思えてならない
「だから誰でも罪を負っている」とできる
あくまで、この罪を限定の問題とした時に限るけど
人間の問題はそもそも限定できず、また簡単に出来ないけどね、難しい 分かりずらかったかもしれない
ようははっきりいうと、「極端に人間は性悪な存在」と見なさないと、「誰もが」罪を持っているという結論は出来ないんじゃないか、とい問題にぼくは今ぶち当たって陥っているんだ
そんなに卑下するべきなのかと思い考えている
でもどうしても他に答えが見つからない >わたしは他人の意見などいっさい信じない。
とても綺麗な言葉だね
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他人の意見を信じない、というより、「評論家の解釈を信じない」のほうが適切な表現だった。
それがどんなに物凄い有名なひとでも。名前だけ聞いたことあるバフチーンとか。
学術的分析より、アレクセイやイヴァンやミーチャが、人生をどう悩み、師匠の言葉をどう受け取り、女をどう愛し、どういう 心 を 抱い て、 どう 行動 し た か、 そして 「どう なっ た のか?」を
自分の人生に無意識のうちに取り入れていると思うんだ。それでこそ、カラマーゾフを自得した、と言えるんじゃないか。
ねじれた文章ごめん 誰かの意見を見たり聞いたりすると、レスを見ただけでも、そうかもしれない一理あるとおもう
そして、いいや違うんだ!とおもってみたりする
肯定して否定して肯定する
とても疲れる
いい加減、思考停止か完全に思考に盲目になりたいとおもう時もあるけど、だけど、ドストエフスキーは多彩かつ対になる登場人物を生みだして文学上で会話させている
これは頭の中で、肯定と否定を繰り返し、それを終わらせなかったという証拠ではないだろうか
まさにプロとコントラの連続性
ならば自分もそうしよう
にしても疲れたので休憩、またね 鋭い読み方を教えてくれる人は確かにいるんだけどそういう人は大概作家になってると思うんだよね
でもその読み方すら自分が読んだ体験の一部を刺激する程度だなあ ベンヤミンとか小説という枠じゃないとこで実力発揮した人思い出したんで184は一部撤回 >>181
> ようははっきりいうと、「極端に人間は性悪な存在」と見なさないと、「誰もが」罪を持っているという結論は
出来ないんじゃないか、とい問題にぼくは今ぶち当たって陥っているんだ
「人間は性悪な存在」というより「いっさいは繋がり合っている」ということじゃないか?
人間は単独的に存在する性悪や性善などない。なんとなれば、いっさいの事象は連関しているから。
悪も善も。美も醜も。ゆえにスメルジャコフの罪は、イヴァンの罪であることはもちろん、アレクセイの罪でもある。
このことはゾシマの説教という形で解説されていた。
たとえば宅間守が子どもたちを8人殺したのは、僕たちの心が宅間という形をとって現れたに過ぎない... とい
う側面は明確にある。
つまり宅間が主張したように「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供
でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」
「世の中、勉強だけちゃうぞと、一撃を与えたかった」
聖容疑者が障害者を16人殺したのも、僕らの己心にある「障害者差別」が伝播していった結果である。
(あえてキチガイじみた断定口調で書いてみた)
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「 泣く のは お よし よ、 人生 は 天国 な ん です よ、 そして われわれ は みんな 天国 に いる のに、 それ を
知ろ う と し ない だけな ん です、 これ を 知ろ う とさえ すれ ば、 明日 にも この世 に 天国 が 出現 する のに」
「ご 親切 に ありがとう ござい ます、 僕 には どこ と 言っ て なん の 取り柄 も ない のに あなた は 僕 を 愛し て
くださっ て いる、 どんな わけ で 僕 みたい な 男 を 愛し て くださる ん です か、 どうして いま まで 僕 は この こ
と に 気 が つか なかっ た のか なあ、 これ を あり がたい と 思わ なかっ た のか なあ」 「いっさいは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触しているがゆえに、一端に触れれば他の一端に、
世界の果てまでも反響するのである」
「この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代わりわれわれは他の世界−天上のより高い
世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が与えられている。それに、われわれの思想、感
情の根源はこの地にはなくして、他の世界に存するのである。哲学者が事物の本質をこの世で理解することは
不可能だというのは、これがためである。神は種を他界より取ってこの地上にまき、おのれの園を作り上げられた
のである。そして人間の内部にあるこの感情が衰えるか、それともまったく滅びるかしたならば、その人の内部に
成長したものも死滅する。そのときは人生にたいして冷淡な心持になり、はては人生を憎むようにさえなる」
ゾシマ
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僕 の 大事 な 大事 な、 なつかしい、 喜び を 与え て くれる おかあさん、
そう な ん だ よ、ほんとう に 人間 は だれ でも いろんな 人 や いろんな こと で すべて の 人 にたいして 罪
を 持っ て いる ん だ よ。 僕 は これ を どう 説明 し たら いい のか わから ない ん だ けど、 そう に ちがい ない
という こと は、 胸 が 苦しく なる くらい 感じ て いる ん だ。 それなのに、 いったい どうして 僕 たち は こう やっ
て なん にも 知ら ず に、 腹 など たて ながら 暮らし て き た ん だろ う ね?」 ――「 いったい 年 が なん です、 月 が なん です!」 と 兄 は 絶叫 する、「 なに も 日数 なんか 数える こと は
ない、 人間 が 幸福 を 知り つくす には、 一日 あれ ば 十分 です よ。
みなさん、 なん だって われわれ は 喧嘩 を し たり、 おたがいに 自慢 し たり、 たがい に 受け た 侮辱 を 忘れ ず
に い たり する ん でしょ う。 それ より いきなり 庭 へでも 出 て、 いっしょ に 散歩 を し たり、 ふざけ たり し て、
たがい に 睦み あい、 ほめ あい、 接吻 し あお う じゃ あり ませ ん か、 そして 自分 たち の 人生 を 祝い ましょ う
よ」――
「 神 の 小鳥 たち、 喜び の 小鳥 たち、 お前 たち も 僕 を 許し て おくれ、 僕 は お前 たち にも 罪 を おかし た ん だ
から」 もう こう なる と、 だれ ひとり 家 の 者 で それ が どういう こと なのか わかっ た 者 は い なかっ た。 が、 兄 は
嬉し泣き に 泣い て こう 言う ので ある。「 そう だ、 僕 の まわり には これ ほど 神 の 栄光 が 満ち あふれ て い た の
だ、 小鳥、 木々、 草原、 空 と、 それなのに 僕 ひとり だけが 汚れ に まみれ て 生き、 僕 だけが すべて を けがし て い
た の だ、 そして こうした 美 と 栄光 に 気づい て い なかっ た の だ」――
僕 が こうして 泣い て いる のはいる のは 悲しい から じゃ なく て、 うれしい から なん だ よ。
僕 は 自分 の ほう から 小鳥 たち にたいして 罪 を 負い たい のさ、 ただ お かあさん に 説明
でき ない けど ね、 だって 僕 には 小鳥 たち を どういう ふう に 愛し て やっ たら
いい のかさえ わから ない くらいな ん だ もの。
僕 が だれ にたいして も 罪 が あっ たって いい でしょ う、 その かわり
こっち も みんな から 許し て もらえる わけ だ からね、 そう すれ ば もう 天国 だ よ。 そう なれ ば 僕 は いま 天国 に い
る こと に なる じゃ ない か?」 >>186
なるほど
すべては単独性ではなく同時にすでに存在してる
ヘッセのシッダールタを思い出した
あとメフィストフェレス(こっちはややこしくなるので控えるけどw)
今度こそ本当に疲れたので休憩するw また
「これは石だ」と彼は戯れながら言った。「石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物。あるいは動物、あるいは人間が生じるだろう。
昔なら、私はこういっただろう『この石は単に石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。
だが、石は変化の循環の間に人間や精神にもなれるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』。以前ならたぶん私はそう言っただろう。
だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、髪でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、
『ずっと前からそして常にいっさいがっさいであるからだ。』」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています