ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止] [無断転載禁止]©2ch.net
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ナチスドイツでも低級職員のはなしばかりしていると、ナチスの熱狂や
活動的意味が分からない。権力を握ることが権力志向的ではないのなら
ロシア革命共産党が権力を握ったという事実があったろうか。
権力の独立性も最終目的として、語呂合わせ的でよくないと思う
。ニーチェ、権力をへの意志は読んだかい?
目的が結果にたどり着くのではなくて、目的の生成過程が権力を形成するんだと思うけど。 >>916
読みやすさなら望月訳がいいかな
ずっしりではないけど新訳だけあって現在の言葉になってるというメリットもある
アンカレとかクロイチェルソナタとか死の家もあって意外といい >>917
>目的の生成過程が権力を形成するんだと思うけど。
ドイツもロシアも反西欧主義のスラブ主義が原動力
共産主義思想というのは後付けにすぎない
ドストエフスキーの小説で都市経済や西欧合理主義が槍玉にあがるのもそのため
ソヴィエト成立後は体制内で西欧主義者とスラブ主義者との間で暗闘が起こるので
たとえばドクトルジバゴのような小説が書かれてしまう
基本的にロシア人というのは迷信深い百姓なのね
で、ドイツでヒトラーが受けたのもドイツ人の百姓根性に訴えたから
そこでドイツはもちろん旧ソヴィエトでも
都市部住人であるユダヤ人が悪玉としてスケープゴートにされた
その反動でシオニズムが活発になる >>911
オーウェルの恐ろしいところは、権力維持そのものを最終目的とすることが人間にはありえる、という本性を暴いたことだと思う
人間は目的達成のために欲を満たそうとするのではなければ理解がいっそう難しくなる
殺人ですら強盗のためか、強盗ですら金のためか、目的のための行使ならば理解できるし、権力把握でさえその自由気ままな行使のためならば理解もできまた反抗もできるだろう
ただオーウェルの世界では、まるで快楽者のように、殺人のための殺人を最終目的に、権力維持を何かに使うのではなくて権力維持を目的に権力を求めうるということ
オーウェルの世界は、この目的と作用の曖昧さの不条理な感じが奇妙でとても恐ろしさを感じるよね
ドストエフスキーの犯罪者はどことなく先の目的のために犯罪を犯すもの(ラスコリニコフとか)、が多いので理解をできる(しようとできる)けど >>920
>権力把握でさえその自由気ままな行使のためならば理解もできまた反抗もできるだろう
> ただオーウェルの世界では、まるで快楽者のように、殺人のための殺人を最終目的に、権力維持を何かに使うのではなくて権力維持を目的に権力を求めうるということ
> オーウェルの世界は、この目的と作用の曖昧さの不条理な感じが奇妙でとても恐ろしさを感じるよね
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非常に参考になりました。注釈をありがとう。さらに理解を深化させるため、「このあとの
部分をこんど引用したいです」
オーウェルは大審問官にインスパイアされているものと推測しています。
右手親指を痛めまして、タイピングがつらく、カキコが遅くなりますがw。 >>ニーチェの権力への意志は読んだかい
権力へのは誤訳だけどな ドストエフスキーが死の家(再読中)で、犯罪とは無縁のような人が大きな犯罪を起こすことがあると、そして彼の心理を考察している
そして読者に直接問いかけている珍しい箇所で、お気に入りの言葉なので、勝手に紹介するよ(以下) 「一番似つかわしくないような人間が突然の爆発を起こすのもすべて、止むに止まれぬ、発作的な個性の顕現衝動、自分を取り戻したいという本能的な欲求、
自己を発見し、踏みにじられた己の人格を顕示する願望といった諸々が突如として湧きあがり、さらには恨み、激怒、狂気、発作、痙攣にまで達した結果ではないだろうか。
略、もちろん理性の声に従えば、どんなにあがいても無駄だと悟ることだろう。しかし問題はまさに、これが理性の作用ではなく、痙攣の作用だというところにあるのだ。
略、一方踏み出したら最後、当人はもはや自分の行為に酔って、歯止めがきかなくなってしまう。だからこそ、あらゆる手を尽くしてでも、人間をそこまで追い込まないようにすべきである。皆が安心していられるように。
そのとおり、だがはたしてどうすればそれが可能だろうか?」
可能なのかな? 殺人ボケ、結局現実逃避の殺され役。殺人の速さからしての言論の粘着的多さ。
日本の土壌では加害も被害も多い。
シオニストはまあきらいじゃないけど。 農民を徴兵してもなんか盛り上がらないよ。強制もよくないし。演説の巻き込みとか。 >>925
日本の土壌では加害も被害も多い。
ドストエフスキーは、犯罪はひとつの自己の顕示といった
深く考えると裏には、だれかに抑圧されて自己をとりもどすために痙攣にみをまかし時には犯罪として顕れると
そうなると、彼が自己を顕示すると彼にとっての誰かは抑圧されて、今度は抑圧された彼が誰かに自己をとりもどすために誰かを抑圧して自己を顕示する
加害者は被害者であり被害者は加害者であるか
>そのとおり、だがはたしてどうすればそれが可能だろうか?
連鎖がとまらなくて結局は止まらないのかな
だけどまだ理性が残っているけどね 927は正しいな。だが脳の回転が遅いと死兵を出すだろう。 「 犯罪とはひとつの自己顕示... 」憶えておきましょう! それが障害ならばそれを定義し、示されれば、変わるかもしれない その行為に偽りがなければ悪にはならない気がする
例えば物を盗んでしまう子供は無垢だが
そういう性質を受け入れて、それを正当化してしまうのは反教に値するんじゃないだろか >>924
〔I〕地獄と地獄の業火について。神秘的考察
諸氏よ、『地獄とはなんぞや』と考察するとき、余は次のごとく解釈する、『すなわち、もはや愛しあたわざる苦悶
である』時間をもっても、空間をもっても、測ることのできない無限の生活において、ある一つの精神的存在物は、
地上の出現によって「われ在り、ゆえに、われ愛す」という能力を授けられた。彼は実行的な《生きた》愛の瞬間を、
一度、たった一度だけ与えられた。
(米川駅手入力)
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ゾシマ長老の教訓集にある この部分は、なんというすばらしい書き出しであろうか。少年時代にも美しく感じたが、
壮年になってからますますその含蓄の深さに驚異の念をもつ。
ドストエフスキーなので長大な文であり、以降は略すが、ごく一部。
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「いまになってやっとわかった、いまさら愛することを熱望したところで、もはや愛の偉業をた
てることもできないし、犠牲になることもできない。なぜならもう地上の生活はおわってしまって、アブラハムもた
とえ一滴の生ける水(つまり昔の実行的な地上の生活の恵み)ももたらしてくれない、そしてその生ける水で、地上
にいた頃は蔑視していたが、いまは大いに燃えさかっているこの精神的愛の渇望の炎を消してはくれないからだ。も
はや地上の生活はないし、これ以上その時間もないのだ! 自分の命も他人のために喜んで投げだそうにも、もはや
それはできない、というのは、愛の犠牲にささげることのできたあの生活は過ぎ去ってしまい、いまではあの生活と
この暮らしのあいだに底知れぬ深淵が横たわっているからだ」
(X訳 コピーアンドペースト) ここには宗派を超えた教えが書かれていると感じる。
キリスト教らしい「愛」「ゆるし」という言葉が頻出するが、そうした表面をとりのぞけば、仏教の偉大な宗教家の教えとその比喩に共通している。
次の部分は「自殺について」
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しかし地上において われとわが身をほろぼしたものは気の毒である。
まことに自殺者は気の毒である ! これより不幸な者はほかにないと余は思う。
彼らのために神を祈るは罪悪である、と人は言う。
そうして、教会も表面的には彼らを破門するようなぐあいである。
けれども、余は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。
キリストも決して愛をとがめて、怒られるわけはなかろう。
余は自白するが、こういう人々のために一生涯、心のなかで祈っていた、今でも日ごと祈っている。
(米川駅) しかし、今回いちばん引用したかったのは、このあとに続く部分、すなわち「サタンの倨傲?悪について」の部分であった。
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しかし、地獄の中にも傲慢、残忍を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を覚知し、かつ認識したにも
かかわらず、サタンとその倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。
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の書き出しで始まるところ。
後日引用します、指が具合悪いのでw >>934
ドストエフスキーのテーマの一つに、彼の言い方では「不幸な人」、つまりは罪を犯さざるを得なかった人たちをどう救えばいいのかが書かれている
例えば、医者は健康な人に必要ではなくて不健康な人に必要なように、キリストは満ちるものより足らないものにこそ必要なんだと
上のレスで誰かが言っていたが、トルストイが善人の側に、ドストエフスキーは悪人の側に立っている
魅力の要因でもあるよね 死の家の記録がよかったから地下室の手記に手を出したが読むの苦痛やて。。。
とりあえずドストエフスキー本人が自己愛性人格で苦しんだ人なのはよく理解出来たけどな 地下室は短編だけど難解だ
読むスピードが落ちるよね
まさに自己愛にとどまるかとどまらないかの葛藤がすごい
書けるってことは自分もそこで苦悩したんだろう
作家はあるじ告白文を描いてるのかもしれない >>938
河出版全集(米川正夫訳)と筑摩版全集(小沼文彦訳)を舐めるように読んだのだが、ドストエフスキーの作品の中で『地下室の手記』が一番難解だと思う。 最近のレスで権力についての話題がでてるね
ドストエフスキーが権力について言うには、権力は習慣によって培われるものであり理性でも感情でもないところに所属しているらしい(次レスで引用)
もしそうならば、権力から遠ざかることもできうるし、人間を追いつめることから避けられるかもしれない
そこから方法を考えると、環境を変えるか又は悪い環境を自主的に避ければいいことになる
聖書の律法とは「汝するなかれ」が多い
キリストも、悪に抗するな遠ざかれと言われてはいないだろうか
これは別問題だし個人的意見で誤りの可能性を含んでいるのを自覚の上でいうけど、「善とは積極的な行為よりも積極的に悪を避けること」に本質があるのではないかな
そんなふうにおもってしまう 「暴虐行為は習慣である。どんなに優れた人間であっても、習慣の作用によって獣の域まで粗暴化し、鈍化することがありえるー私はこの意見に与する。
血と権力は人を酔わせる。粗暴さも堕落ぶりもどんどん進行していく。理性も感情も、もっとも常軌を逸した現象を許容し、ついにはそれを快楽と見なすようになるのである。」死の家の記録から キリスト教自体が世俗権力と距離を置いて
信仰に基づく理性と良心に価値を置くものだから >>940
クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎないしそれをやぶったからとて宗教的にどうということではない
キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
悪を避けるよりドストエフスキーはアリョーシャを僧院に留むるな、とした
ドミトリー(様々な悪徳にふけるもの)もドストエフスキーは悪と見なしてない
信仰者で、誠実で(自分に対しても)偽りがないなら悪ではないのだろう
なぜならドストエフスキー本人がそっち側の人間だから >>943
>クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
そこを言われると返事にこまるけどね
個人レベルに限るならば不可能ともいえない
>キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
見落としていたありがとう
やはりゾシマがアリョーシャを外の世界へ行かせようとしたのが、ドストエフスキーの思惑なんだろうね
悪霊であった、善をなそうとして悪をなしてしまう、という思考が引っかかる
なので善の行為は何なのかは考えますw >>943
君のカキコを見て 次の如く感じた
> クリスチャンの国が悪を避けるだけの国に思えるか?
まさに事実そのとおり。苛烈に戦争や暴力を正義の名のもとに行う
> 悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎないしそれをやぶったからとて宗教的にどうということではない
「悪というか違反や犯罪はただの習慣にすぎない」とは、なんのことか?そして後半の
なぜ「宗教的にどうということではない」のか?
ここに書いてあることが違うと言っているのではない。説明不十分だ。
>
> 悪を避けるよりドストエフスキーはアリョーシャを僧院に留むるな、とした
> ドミトリー(様々な悪徳にふけるもの)もドストエフスキーは悪と見なしてない
> 信仰者で、誠実で(自分に対しても)偽りがないなら悪ではないのだろう
> なぜならドストエフスキー本人がそっち側の人間だから
ここの部分は、カラマに即して書いてくれてるから、わかりやすい。
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ただし総体的に、次の印象をもった。
キリスト教およびキリスト教国とキリスト教信仰者は大きな偽善の中に生きていると。
>キリストが裁くなとしたのは罪人=不法の者
そういう信仰を持ちながら、教会へ行き、世俗ではひとを裁き死刑にし、戦争で他国を叩きのめす。
キリストの理想と世俗を分けろという二律背反であり、このことは意外にも重大なことである。 >>940
> 聖書の律法とは「汝するなかれ」が多い
> キリストも、悪に抗するな遠ざかれと言われてはいないだろうか
> これは別問題だし個人的意見で誤りの可能性を含んでいるのを自覚の上でいうけど、「善とは積極的な行為よりも積極的に悪を避けること」に本質があるのではないかな
学校空間における いじめ問題で考えてみましょう。
教師も世間もマスコミも「汝いじめることなかれ」と律法をときます。「しかし」重要なのは
その本心です。
2ちゃんねるやツイッターを見てください。
「いじめに抗するないじめから遠ざかれ」とキリストは言われたのですね?
「誰かがいじめられていても、関わると自分に被害が及ぶと考え、見て見ぬふりをする」
場合や「どうせあいつらキチでクズだから止められない」と考える。どちらも根本は無力感です。
「いじめに抗するないじめっ子から遠ざかれ」となれば、それは紛れもない悪なのです。
日蓮の「事の一念三千は、無力感の超克である」と池田先生は言った。
善と悪は同時に、この瞬間に、われらが この胸の中に ある。
いかなる場合も「賢く、時と度合いを見計らって」自分の力の及ぶかぎり悪をなすものを止めるものこそ、正義のひとと呼ばれ、かつまた私たちはそういう大人になりたいし、自分の息子たちを娘たちを、そういう理想を胸に抱くものとして育てたい。 よくキリスト教を批判するのに過去の戦争を持ち出すけど、結構そういうのは一部の特権者の行為だよ
集団とは善い個人と悪い個人の集まりにすぎない
個人への批判は個人にするべきだし、集団も同様にね
と思っているが、おそらくこの考えも正しいかどうかはわからない
トルストイは、歴史は1人決定ではなく関わった無数の総意による結果といった
キリスト国のげんじょうも、個人ではなく集団として批判されるのも仕方ないんだろうか
少なくとも戦争は反対する民意が足りなかった結果に過ぎないと考えるとね >>947
> よくキリスト教を批判するのに過去の戦争を持ち出すけど、結構そういうのは一部の特権者の行為だよ
> 集団とは善い個人と悪い個人の集まりにすぎない
> 個人への批判は個人にするべきだし、集団も同様にね
>
> と思っているが、おそらくこの考えも正しいかどうかはわからない
> トルストイは、歴史は1人決定ではなく関わった無数の総意による結果といった
> キリスト国のげんじょうも、個人ではなく集団として批判されるのも仕方ないんだろうか
> 少なくとも戦争は反対する民意が足りなかった結果に過ぎないと考えるとね
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いついかなる時代のキリスト国であろうと、もし彼が裁判官なら罪人を断罪し、しかも同時に神に祈って教会へいったのでないか? 裁判官が極悪殺人犯に死刑を下すのは「法的正義」です。
それをやらなければ、おそらく社会はまわっていかない。これは他のいかなる職業でもいっしょ。
いついかなる時代のキリスト者であろうと、キリストの山上の垂訓を胸に抱きつつ、「そうはいっても... 現実は」と生きたのでないか?
ぼくはそこを言っています。つまり教えの「根本が偽善」であるという指摘です。 ドストエフスキーも この問題について 指摘していたと記憶
いっけん無信仰で通俗的に見えるドストエフスキー作品の主人公ではない登場人物たちは
この至極あたりまえの「疑念」キリスト教徒の現実を指摘していて、まさにそのゆえに「無信仰」なのではないか? 聖書では罪人は教会がさばけと書いてるし、政治も教会がやった時代があった
でそれが暗黒時代と言われる これじゃなくて?こ
>>942
>キリスト教自体が世俗権力と距離を置いて
>信仰に基づく理性と良心に価値を置くものだから ミスった
これが本来のキリストの意向だったと思ってた 上 まず被害者の救済に当たること。犯罪者何て逃がして放っておいていい。
ずっと後に裁判。でも現代社会に体たらくなる割っきりの裁判なんていらない。 自論として個人と集団をわけるなら第三者の介入の有る無しを境界線にできるんじゃないかな
あなたと私である状況は個人といえる、が、それを見るものの存在が発生する(これは社会でも時には神でもいい)と、そしてその関係(あなたと私)への同意ないし拒否の介入があると集団になる
私が神に祈るのは個人として前に立っているが、教会で祈るならば集団として神の前に立っているといっていい ブロハルチン氏とか主婦、初恋なんっかを語るやつはいないのか 「弱い心」が好きです。
マスターコビッチ氏も再登場するし。 >人はある種の考えに遭遇し、とくに人々の悪業などを目にしたような場合に、
疑惑におちいって、こう自問することがある。『この人を力ずくで捕えるべきだろうか、
それとも謙抑な愛で捕えるべきだろうか?』そういう場合はつねに、『謙抑な愛で捕えよう』と、
そう決めるがよい。ひとたびそう決心すれば、全世界を征服することもできるのだ。
謙抑な愛はおそろしい力であって、あらゆる力のなかで最もつよく、これに匹敵するものは
なにひとつない。
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おまえらこんばんわ。今日ろくなもん食ってなくてサ〜、考えもまとまんねぇ。おれの駄文より
おまえらの意見聴きたいんだよねぇ。
上のゾシマ長老の説教を どう考えるぅ? おれの場合2ちゃんのクソスレ内に限るが、かならず相手を力で叩きのめそうとするんだよねぇ
言葉の力でさ 毎日毎時毎分、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように心がけねばならぬ。
いまお前が小さな子供のそばを通るとき、意地悪そうな顔をし、心に怒りをいだき、口ぎたない言葉を吐いたとすれば、たとえ自分のほうでは子供に気がつかぬとしても、
子供はちゃんと見てとるに相違ない。そうして、そのみにくい穢れた姿が、
頼りない子供の胸に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。
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ゾシマはこれを「用心深い実行的な愛」と呼ぶ。「愛」とは、恋愛でもなければ性愛でもなかった。
すなわち「ひとの振る舞い」のことであった。これらの振る舞いはひとつキリスト教特異のものではない。責任ある立場のひとはすべからく かくあるべし。また信仰者であるか否かの試金石はここにあるのだろう。 >>963
これドスには、思っ切りブーメランじゃね。私生活荒れすぎで、年下の奥さんにどれだけ迷惑をかけたと思ってるだよ。ゾシマの思想と言われたらそれまでだけどさ。 >>964
これは理想でさ、現実にはそのとおりいかないよw ぜったいに
でも、こういう理想を「胸に抱いている」という点が大事なんだ! >>961
相手を許すか叩きのめすかの選択って話だよね
話がちと違うけど好きなシェイクスピアも似たようなことをいってる
もっともヴェニスの商人で、約束を破ったアントニオをシャイロックが裁くか許すかの場面だけど
「慈悲は強制されるものではない。
恵みの雨のごとくに天より降りそそぐ
この下界に。そこには二重の祝福がある。
与える者に、そして受ける者に、
最強なるもののうちの最強なるもの、それは
玉座にある者には王冠よりふさわしいものとなる。
王笏は仮の世の権力を示すもの、
人びとを畏怖させ跪かせるしるしでしかない、
そこにあるのは王に対する畏れだけだ。
だが慈悲は笏を与えられた権力にまさり、
王たるものの心の玉座に坐を占め、
神自らの象徴となる。
地上の権力が神に似た姿となるのは
慈悲が正義を和らげるとき。」 >>964
ドストエフスキー半生は確かにめちゃくちゃな人だよねw
隣人だったらきっと鬱陶しいかもw ある種の天才は程度の加減がないから特出してるのかもしれないとおもうんだ最近
この程度は量の程度でなく質の程度
一歩踏み出したなら二歩も変わらないという感じ
まるでラスコリニコフのように それは現実世界でその作家自身が裁量がないと言う意味で? >>969
割り切っていうとそういうことかな
現実社会に適するものはできる限り普通でなければいけない
量の程度を越えれば秀才だけど、質の程度はわきまえている
しかし特殊なケースで評価されるものは非凡人的になる
量の程度は個性によるけど、質の程度には無頓着でとても極端になる
簡単言えば躊躇がないから現実社会で不適合になる、だから天才として時に英雄として評価される
まー勝手な心理的な憶測だけどね ひとつ疑問なんだけど、たとえば正しいことをいう人は、その正しさに見合ううように自分自身も正しくないといけないのかな?(社会ではそうじゃないともちろん叩かれるけど、政治家とかそうだよね)
でもなぜなんだろう
小説家も書いている内容に見合った性格を持っていなければならないんだろうか?
技術と人格は分けて考えるべきなのか、一緒にして考えるべきなのか
技術も含めてそのものは何者であるといえるのか
法律を守らない法律家がいたらもちろんやだけどねw >>971
> ひとつ疑問なんだけど、たとえば正しいことをいう人は、その正しさに見合ううように自分自身も正しくないといけないのかな?(社会ではそうじゃないともちろん叩かれるけど、政治家とかそうだよね)
正しい人間なんてもんは、そんなバケモンはこの世にいないと思います。
自分はまったく正しくないが 正しいことを発言し続けなくちゃいけない。
そうして「叩かれ」たらいい。叩かれれば叩かれるほど どんどん立派になる、しあわせになっていく。
その確信でやっていきましょう!!お互いに 揚げ足をとるようだけど立派なんて化け物はいるのかい 「何が正しく、何が正しくないかどうかと言うことはーー人間の決められることじゃないさ。人間てやつは常に迷ってきたし、これからだって迷いつづけるのさ、しかも正しいとか正しくないとか決めようとするときほど、ひどい迷いに落ち込むのさ。」
戦争と平和でもう一人の主人公アンドレイがいう言葉だけど、そしてこれを言ったら何も始まらないがw、トルストイも正しさについては葛藤があったと予測できる
まーこれはほんと結局分からないと言ってるのと同義だがw
正しさとはなにか、自分に置き換えなくても正しい発言はいいのかわるいのか、考えてみるのもいいかもね
このへんはプラトンとかがいい分野かもしれない あまりにも有名な罪と罰の「自己確信」への言及
ラスコリニコフがシベリアで夢をみて復活の兆しを見る
病原菌とは過信した自己確信に他ならない
「この細菌は、理知と意志とを付与された幽霊であった。これに食い入れられた人たちは、たちまち悪魔に魅入られた狂人のようになるのだ。
人類は、いまだかってなかったほど強烈に自分が賢くてしっかりした者であると考え、自分の判断や信念を動かし難いものと考えるようになった。
全村、全市、全国民がこれに感染して。ことごとく狂人になってしまった。誰もかれもが不安な気持ちにとらわれて、互いに互いを理解せず、各自が自分一人だけ真理を把握していると考えて、他人を見ることが悩ましくなり、自分の胸を叩いたり、泣いたり、悶えたりする…。
誰が誰を裁いたらよいかもわからなければ、何を悪とし、何を善としたらいいのか、その区別さえもつかなかった。なにびとを罰し、なにびとを弁護したらいいのか、それもわからなかった。」
まるで現在の社会のようだね 深夜で、投稿すべきか迷いました。
ドストエフスキー氏の天才は
深い思想を こうした芸術的イメージで描けることです(何を今更ww あなたが前に記述してくれたとおり)
熱中してあなたの引用を読んでいる。明日のために、カキコせず寝るべきなんだが、あまりにも美、あまりにも重要部分のため、放置できなかった ぼくは夢想する。すべての国民がドストを読み、こうしたシーンについて、深く思索し討議することを。
そこに描かれていることは いったいなんなのか? 現代われわれの宗教生活に照らしあわせて 考えたとき
また、社会の諸矛盾に引き当てて これを考えたとき。。。それなのに、浅薄な愛や、 カズオ・イシグロってドストっぽいらしいけどどうなん そーなんだ
イシグロって人の小説はよく行く本屋だとSFの分類の棚にあるからそっち系かと思ってた
臓器移植のドラマ見たくらいの知識しかないけど ドストエフスキーが特に好きじゃない読書家から見て、
ドストエフスキーのもので完成されている作品は「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」みたいな感じですか?
ぶっちゃけでお願いします。 5大長編で完成度を比較すると
罪と罰 > カラマ > 白痴 > 悪霊 > 未成年
ですね。
罪と罰で頂点に達して、あとは下がるばかり。
ここぞ!と盛り返したのがカラマ。 >>981-982
おまえら馬鹿だねぇ。
カラマーゾフの兄弟は未完の作品で大切なのは描かれなかった第2の小説。
何も読めていない浅薄な輩の典型的な例だな。 罪と罰が頂点と言ってる人に対して、
「罪と罰クソ。カラマーゾフの兄弟こそ至高」って言うだけでマウント取れるもんなあ。 完成されていないってことは可能性が無限にあるということだから確かにもっとも至高であるとも言える
これはごもっともなんだけどね
でも罪と罰を一番にはソーニャの存在です
ソーニャとか最高じゃねw >>981
右に行くほど、行き当たりバッタリ感が強くなりますね
悪霊なんか、スタヴローギンの役割が、当初の構想に比べてドンドン大きくなっていってる。
逆に当初より小さくなっていったのが、ステパン先生。 『悪霊』で描けなかった中年同士の恋は、『未成年』で実現される。 悪霊はステパン氏の恋もあるけど、後半は政治的な方向に進む傾倒がつよい気がする
というか、悪霊って結構死んでるよね
ドストエフスキーばかり読んでると、最後は死ぬのが当たり前みたくなっってくるこの錯覚w >>983
アリョーシャがテロリストになるという物語か ヴィトゲンシュタインはカラマーゾフから罪と罰に回帰した 眠れない時は、カラマーゾフを読もう。
なかでも、ゾシマ長老の教えを読もう。 それから 一週間 後 に 彼 は 死ん だ。 彼 の 柩 は 町 じゅう の 人 の 手 で 野辺 送り さ れ た。
司祭 長 が 切々たる 弔辞 を 述べ た。 人々 は、 おそろしい 病気 に 彼 の 寿命 が つき た こと
を 嘆き 悲しん だ。 ところが、 葬式 が すむ と、 町 じゅう の 者 が 私 に 背 を むけ て、 私 を
客 に むかえる こと さえ やめ て しまっ た。 それでも、 はじめ は小人数 だっ た が、 だんだん
大勢 が 彼 の 供述 は ほんとう だっ た の だ と 信ずる よう になり、 しきりに 私 を 訪ね て き
ては、 大いに 好奇心 を そそら れ 喜び を 隠し きれ ず に 根 ほり 葉 ほり 聞き出そ う と かかっ た。
なぜなれば、人間はただしきひとの堕落と汚辱を好むものだからである。
(なぞの客末文) >>992
暗記するほどカラマーゾフを熟読した後に罪と罰へ回帰したんだよ それから一週間後に彼は死んだ。彼の 柩 は町じゅうの人の手で野辺送りされた。司祭長が切々たる
弔辞を述べた。人々は、おそろしい病気に彼の寿命がつきたことを嘆き悲しんだ。ところが、葬式が
すむと、町じゅうの者が私に背をむけて、私を客にむかえることさえやめてしまった。それでも、は
じめは小人数だったが、だんだん大勢が彼の供述はほんとうだったのだと信ずるようになり、しきり
に私を訪ねてきては、大いに好奇心をそそられ喜びを隠しきれずに根ほり葉ほり聞き出そうとかかった。
なぜなれば、人間はただしきひとの堕落と汚辱を好むものだからである。
(なぞの客末文) ところで、苦しみ多かりし神のしもべミハイルのことは、今日にいたるまで日ごと祈祷を怠らないでいる。 〔E〕 ロシアの僧侶とその可能なる意義について
僧侶とははたして何者であろう? 現今、文明社会においてこの言葉はすでに冷笑をもって発しられている。
悲しいかな、事実、僧侶なかまには多くの徒食者、肉の奉仕者や、邪淫のやからや、傲慢な無頼漢が交じっている。
世間の教養ある人たちはこの点を指摘して、「お前たちなまけ者だ、社会の 穀 つぶしだ、他人の労働で生きている恥知らずな乞食だ」などと言っている。 しかし、僧侶のなかにも、真に謙虚、温厚な人たちがたくさんあって、
静寂な孤独のなかで熱烈な祈りをささげることを渇望している。 このスレッドは1000を超えました。
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