ドストエフスキーPart46 [無断転載禁止]
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前スレ
ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止]
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1504199868/
カラマーゾフ以外の著作でも構いません、話しあいましょう。ドストエフスキー関連何でもあり。
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1504199868/_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured 第一 編
白痴
僕 の 主治医 は こちら へ 帰る 路銀 として、 なけなし の 金 を 分け て くれ まし た。 それに、 あちら で およそ 二 年間 という もの は 自腹 を 切っ て 置い て くれ た ん です」 「じゃあ、 何 かね、 払っ て くれる 人 が い なかっ た という のかね?」
冒頭からここまで読んだ。2ページ半である。大不調のなか、ここまで読めたことに満足している。 主 治 医 ゴロが悪いな。ゴッド ポリティックス アールツト のほうが。 4ページずつだとかえって分からなくなると思うな
特に「白痴」はスピーチ合戦のようなところがあるから カラマーゾフって一節で題名とかつけてあるからキリよく読めるよね
他もそうしてくれるといいけど
1章だと長いときと短いときがあるからキリよく読みたい自分としてはちと困る
1章長さが違うのはあたりまえなんだけどね おはようございます、というより真夜中にこんばんわ
自分は聖教新聞をいちにち3部読むという、超人的作業に取り組んでいるのである。
二宮金次郎のごとく、外を歩いてる時も、読んでいるのである。これマジで。
この5年ほどの間に読まずにたまりにたまっておったのである。......... しかし、白痴を読むと宣言し、みんなが
注目してくれてるのだから、こんな時間であるが、読みます、いまから。 「ところで どう だ な、 公爵、 あんた は あちら で 教授 について 学問 を し て 来 た のかね?」
と 不意 に 薄 黒い 顔 の ほう が 尋ね かけ た。 「ええ…… 勉強 し まし た よ……」 「だが おれ
は まだ 何 も 習っ た ため しがない」 「なあに、 僕 に し た って ほんの ちょっと かじっ た ば
かりで」 と 公爵 は ほとんど わびる かの よう に 付け足し た、「 僕 は 病気 だっ た ので、 系統
的 な 教育 を うける だけの 能力 が ない 者 とさ れ て い た の です」
-----------------------------------
まで。
公爵のこの返しはいいね。優しさと、なんて言ったらいいのか、わざとらしい謙遜とは真反対の
ものがある。 彼らはなんでもかんでも知っている。彼らのしばしの間も休むことのない
物好きな才知や才能は一つの方面にのみ集注される、 ...... いうまでもなく、
現代の思想家に言わせれば、いっそう重要な人生の興味や見解に欠けた
方面へ向いているのである。
それにしても、『なんでも知っている』ということばの意味は、かなりに
限界をつけて考えねばならぬ。 ―― 誰それはどこに勤めていて、誰と知り
合っているとか、財産はどれぐらいで、どこの県知事をしていたとか、誰
と結婚して、持参金をいくらもらったとか、誰が彼の従兄弟にあたり、誰
がまた 従兄弟にあたるとか、等々、いずれも、こういったようなたぐいの
ことである。
略
自分の秘密という秘密を知られている人たちのほうでは、この連中がどん
な興味に動かされているのやら、むろん、見当はつくまいけれど、彼らの
多くは一つの完全な学問にもなぞらうべきこの知識によって、たしかに慰
められており、また自尊心をもち、さらにこのうえもない精神上の満足に
さえも到達している。しかも、なかなかおもしろみのある学問ではある。
私は学者や、文士、詩人や政治家たちの間にさえ、この学問のなかに、
おのれの偉大な妥協と目的を見いだし、いや、見いだしたばかりか、
ただそれのみによっておのれの出世をとげた人びとがいることを知っている。 >>428
> 主 治 医 ゴロが悪いな。ゴッド ポリティックス アールツト のほうが。
引用はキンドルの電子テキストで、この翻訳者は、なんたらというひとです。
自分は紙の書籍、木村浩訳で読んでいます。 「悪霊」ですが、場面転換が少なく会話中心で進む物語から、
シェイクスピアの戯曲を連想しました。
しかし、会話のまどろっこしさ、
登場人物の自己主張の強さはやはり桁違いで、
安定のドスト感に溢れていますね。(ここはある意味良い点。)
人によってはひたすら疲れると思います。
私はいつになったら面白くなるんだろうと思いながらちびちびと読みました。
(上巻一番の山場と思われる)日曜日の事件を経て第二部に移り、
物語の担い手も世代交代する。終盤になり、
彼らが街とその社交界を揺るがす気配をみせますが…?。
先行きは不安だけど最後まで見届けたいというところでしょう。 白夜は、地下室の自意識と未成年の若さゆえの理想が混じっているような印象がある
まだ途中なので結末は分からないが、主人公は夢想家として夢想の中に幸福と光悦の至高を見出そうとする、ただし一人ぼっちであるため同時に哀愁ただよう喪失感も見つけてしまう
興味がある人もおこるかもしれないという期待で、少しながいんだけど最初の方でよかった部分を勝手にのせてみるよ 彼らは現実の生活をしており、彼らの生活は他人に注文されたものではなく、夢や幻のように雲散霧消するわけでもない。その生活は永久に更新されていくから、いつまでも若々しく一時たりとも同じ姿ではないのです。
ところが臆病な空想ときたら、陰々滅々として、俗悪なほど単調で、これは影の奴隷、想念(イデア)の奴隷、突然、太陽を覆い隠し、あれほど太陽を大切に思っている真のペテルブルグの心を憂愁で締めつける、あの雲の最初の一片の奴隷なのです。
憂愁に捉われてしまったら、空想なんて何になるでしょう!あの尽きせぬ空想も、絶えざる緊張の中で、ついに疲弊し、憔悴してゆくことが感じられるのです。なぜなら、誰だっていずれは大人になり、以前の自身の理想からは脱け出して卒業してゆくものだからです。 理想は打ち砕かれ、バラバラの断片となり、灰燼に帰すのです。
もし他の生活がないのなら、この断片を組み合わせてなんとか作り上げざるを得ません。
ところが魂は、何か別のものを望み、要求するのです!
そこで夢想家は、火を掻き起こすように、自身の古い夢想を掘り起こし、この灰の中に、せめて小さな火の粉でもないかと探し求め、その火の粉に息を吹きかけ、新しく燃え上がった火で、冷えてしまった心を暖め、心の中にかつてあったものすべてを、
あれほど愛おしく心を震わせ血を滾らせ、目から涙をしぼり、あれほど華やかにこちらを騙したものすべてを再び蘇らせようと、空しい努力をするのです! >>436
>シェイクスピアの戯曲を連想しました。
ドストエフスキーはシェイクスピアが好きだったらそーいう影響はあったんだろうね
悪霊は下巻に入る前くらいからいろいろと動き出す感じに思えたよ
スタヴローギンもキリーロフもよく出て来るようになるし、自分は後半の方が面白く感じた 白夜といえば、冒頭の文が、美しかったね!
紙も電子も、手もとにないけど!!
ああ、見たいな。あの美しい出だしを。 >>441
ドストエフスキーは、思想家というより研ぎ澄まされた感覚を持っていたんですねえ!
かっこよく、書けない表現できないけどお!
激しく何かを感じていたんですねえ!!
考えてみれば、わたしたちさえも、若きころは特別の感受性を持っていましたねえ?
それを、美しい言葉で表現できる人を、詩人と呼ぶのですかねぇ! ほんとうに、きみらが抜き出してくる引用は美しいなぁ!
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理想は打ち砕かれ、バラバラの断片となり、灰燼に帰すのです。
略
火を掻き起こすように、自身の古い夢想を掘り起こし、この灰の中に、せめて小さな火の粉でもないかと探し求め、
その火の粉に息を吹きかけ、新しく燃え上がった火で、冷えてしまった心を暖め、心の中にかつてあったものすべてを、
あれほど愛おしく心を震わせ血を滾らせ、目から涙をしぼり、あれほど華やかにこちらを騙したものすべてを再び蘇らせようと、空しい努力をする
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この比喩はいっしょう忘れられないなぁ >>446
> 「キリストのヨルカに召された少年」
ああ、あれも忘れられない作品だね。それと「弱い心」
内容は忘れてしまってる。でも、美しさと儚さの印象だけが。 ドスト死後百何十年?? そんな最近の作家に、感じられないんだよね。
ぼくには。というのは、あまりに素晴らしい信仰と思想と芸術だからです。
この通俗的な(とぼくらには感じられる)現代とあまりに隔絶してるからです。 ぼくも、だいすきな箇所、美しい箇所の引用ガンガンしたいなぁ。
ところが電子テキストがぼくの納得のゆく翻訳文じゃないんですよね。 >>443
素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが
若き日にのみあり得るような夜だったのである。
空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それ
を振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどで
ある──
いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれ
な人間どもが住むことができるのだろうか?
これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさい
ものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び
醒ますように希望する!……
(米川正夫=訳)
ネットで見つけてきたよ。 …… それとも それ は、 たとえ 一瞬 でも 君 の 心 の 隣人 と なる
ため に 創造 さ れ た の だろ う か?…… Iv. トゥルゲーネフ
--------------
エピグラフ として、この詩が。こちらは「安 岡 治 子 訳」 とくに初期のころだけどドストエフスキーの文章って意外と詩的だとおもう 白夜、最初から声に出して朗読したよ。
自分で言うのもおかしいけど、おれの朗読って詩人みたいなのw
美しい声で、精確な発音なの... おかしな人間の夢が読み終わったけどこれすごくイイね
とても気に入ってしまったし、なぜもっと知名度がないのかも不思議におもうくらいよかった
罪と罰でラスコリニコフが夢をみて復活するが、まさにあの夢の続きを予感させ、カラマーゾフで来世を信じない無神論者が死んでから千兆キロあるいたあの世界がある
どうでもよくなったおかしな人間が自殺を決意するが、ある夢から覚めると、すべての思想が逆転する
まるでキリーロフの死後をみているようだった 勝手ではあるけど、ドストエフスキー好きな人にはオススメしたいとまで思った
100ページくらいだしね
そしてドストエフスキーはやっぱ読み終わると、精神的に疲労する副作用もあるのでちと休憩
以下の思想が逆転する物語
一人前の青年になってからは、一年増しに、いよいよ深く自分の恐ろしい性質がわかってきたのだが、なぜか前より幾らか平気になった。
まったく、なぜかとしか言いようがない。というのは、いまだにその理由をはっきりさせることができないからである。おそらくそれは、おれの魂の中で、トスカが、憂愁が、烈しさを増していったためだろう。 この恐ろしいトスカは、おれの全存在を超えたある事情に関わっていた ── ほかでもない、それは、この世のことはどこでもすべてどうでもいいという確信が、おれの心を捉えてしまったということ。おれはずっと以前から、そのことを予感していたが、
完全なる確信としては、ここ一年のあいだに、何かこう突然やってきたのだ。おれは忽然として悟った ── 世界が存在しようがしまいが、あるいはこの世の一切が消えてしまおうが、おれにとっては同じこと、どうでもいいことなんだ、と。
そう、おれは、自分には何ひとつなかったということを、おのれの全存在をもって直感したのである。 あ、ちなみに、トスカとはロシア語で心が萎えた状態を意味する。らしいです
憂鬱に近いのかな >>456
> おかしな人間の夢が読み終わったけどこれすごくイイね
> とても気に入ってしまったし、なぜもっと知名度がないのかも不思議におもうくらいよかった
うわぁ!もう「おかしな」いったのか?早すぎるよぉ
君についていこうと精一杯がんばってんだぞぉ?
悪霊、白痴、白夜、ぜんぶが中途半端になるぅ 死の家の記録にシロートキンって名前が出てくるよな
素人菌 遠藤周作沈黙の原作をはるかに超えると思える映画
マーティンスコセッシ監督サイレント? >>460
白夜もおかしな人間の夢もドストエフスキーでは短編の部類だから先に読んじゃうのもいいかもね
100ページくらいだからけっこう読みやすいよ 地下室の手記の主人公は性根が腐りきってるね
5chでもあそこまでひどいのは中々いないんじゃないかな 言い方の違いになってしまうが、性根が腐っていると言うより地下室の人間ほど気まぐれの自由を重要視する人間はいないよね
普通の人なら自分の私利私欲を理性的に認めるために他人の私利私欲も認めざるをえない
が、地下室の彼は一貫してそれを認めない
何故なら、人間とは常に理性で選択するのではなく理性に反して行動することもあるのだと主張して、それを高貴ととらえて実際に行ってしまう
だから同時に自分の利益も放棄せざるを得ない
ってこんな苦痛はごめんだよね普通w >>470
内容を思い出せないが、的確な要約のおかげで「そんな感じだった」と。
こういうことが、「ドストエフスキーが青年に悪影響を与える」みたいに言われる論拠なのかな? >>470
> 普通の人なら自分の私利私欲を理性的に認めるために他人の私利私欲も認めざるをえない
ただ、ふつうの人で「他人の私利私欲も認める」ひとなど、見たことない氣がするw 思うに、ふつうの人間、おれたち凡夫こそ、正真正銘の悪人・性根が腐ったネラーのような気がしてきた 男道(革命)
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2018/02/post-7a32.html
男がホモとして体を売る能力を会社が買い取った。
そのために、日経平均株価は「会社の業績」であると同時に「女の値段」であることを意味した。
マルクス。
いまだ生きているナチズム。尾木ママ追放、美女歓迎。 >>470
>地下室の人間ほど気まぐれの自由を重要視する人間はいないよね
> 何故なら、人間とは常に理性で選択するのではなく理性に反して行動することもあるのだと主張して、それを高貴ととらえて実際に行ってしまう
> だから同時に自分の利益も放棄せざるを得ない
--------------
例によって本文は読まずに、君のコメントだけから考える。
「理性に反して行動することもある」というのは、おそらく事実であろう。疑問点もあるが。
「それを高貴ととらえる」ことはなぜなのか?それは地下室本文に説明してあるんだね?もちろん。
そうして、「自分の利益も放棄」することになるんだね? >>457
> 以下の思想が逆転する物語
>
> 一人前の青年になってからは、一年増しに、いよいよ深く自分の恐ろしい性質がわかってきたのだが、なぜか前より幾らか平気になった。
これは「ドストエフスキー自身の青年時代」なのか。自分はこのような感覚を持った経験がないように思われるのだが。忘れているだけなのか?
「自分の恐ろしい性質」。。。「恐ろしい」とまで思ったことはないのだが。自分の性質を。
しかし、そこに深く思いを致すことが、非凡な天才の所以なのかも。
「なぜか前より幾らか平気になった。」
自己を肯定できるようになったのか?
> まったく、なぜかとしか言いようがない。というのは、いまだにその理由をはっきりさせることができないからである。おそらくそれは、おれの魂の中で、トスカが、憂愁が、烈しさを増していったためだろう。
ぜんぜんちがうらしい! 「おれの魂の中で、トスカが、憂愁が、烈しさを増していったためだろう。」
なんという悲劇的性質なんだ! >>458
>この世のことはどこでもすべてどうでもいいという確信が、おれの心を捉えてしまったということ。おれはずっと以前から、そのことを予感していたが、
> 完全なる確信としては、ここ一年のあいだに、何かこう突然やってきたのだ。おれは忽然として悟った ── 世界が存在しようがしまいが、あるいはこの世の一切が消えてしまおうが、おれにとっては同じこと、どうでもいいことなんだ、と。
> そう、おれは、自分には何ひとつなかったということを、おのれの全存在をもって直感したのである。
--------------------
この感覚は、ちょっと見ると病的に感じるが、ちがうのか?
... しかし、ドストエフスキーだったとおもうが「わたしは人間だ。ゆえに人間的なものでわたしに無関係なものはない」(ぜんぜん思い出せない)と言っていた。つまりこれは、単に「病的感覚だ!」で済ますことではないんだ。
カラマーゾフでも、どの作品でも読めばわかるが、彼は憂愁もあれば、それに比例して巨大な人生の喜びの感覚を持っていた。
上の「おかしな」の文だってが、そうだ。わたしたちとぜんぜん無関係でないからこそ、美しさと深遠さをもって、胸に迫ってくるんだ。 ドストエフスキーは魂の熱量がぜんぜんちがう。
だから、彼の創作した登場人物たちも、常人には理解しがたい。
では、無関係か?といえば、そうではない。
私たちの人生の中で「そうした瞬間」はやってくるのだ。
たとえばミーチャが捕縛されて裁判にひきずり出され「魂の煉獄」を経るがごとき。 >>479
こんばんわw どんどん書いてくださいね。
ぼくも書けないときは、何も書けないww >>476
>「それを高貴ととらえる」ことはなぜなのか?
彼は理性的な欲望つまり整った私利私欲を自他共に否定する
そうすると「自分が得するかたこうしよう」みたいな選択を嫌がり(これが性根が悪くみえるし理性的な選択の否定でもある)、気まぐれな自由という自分の意志のみを遂行しようとする
そうすると損得感情がないので現実的にはうまくいかないし、苦しみとは疑念であり否認であると主人公はわかっている、が、それでもそういう一般人にオレはならないよ!自由なんだよ!意思を持っているんだよ!
みたいな感じで現実に起こる不一致(苦痛)を高貴ととらえちゃう
まー自分を個別化して歪んた肯定の仕方だけどね
見てるひとはなんてひねくれてるんだと思うよねw >>478
どうでもいい、これは悪霊でもよく出てくるけど、ようはドストエフスキーのニヒリズムとか虚無主義のことを言ってるんだろうね
彼が体験したニヒリズムを言葉するとそういう表現がピッタリだと思ったのかもしれない >>478
>... しかし、ドストエフスキーだったとおもうが「わたしは人間だ。ゆえに人間的なものでわたしに無関係なものはない」(ぜんぜん思い出せない)と言っていた。
罪と罰でテレンティウスの言葉を引用するね
「homo sum: humani nil a me alienum puto. (TER. Heaut. 77)」
「我は人間。人間的なものにして我に無縁なるものはなしと思う」 >>483
>どうでもいい、これは悪霊でもよく出てくるけど
「白痴」でもよく出てきますよ
因果律によって現実理解に秩序と形式を与える「意識」
つまりカント風の悟性についての懐疑でしょうね
スイスの療養所で癲癇性の分裂病的な病理から
奇跡的に回復したムイシュキン公爵が
形式主義的名誉にこだわるロシア貴族社会と
営利追及の自由主義との相克の中で分裂して
やがて意識の薄明の中に帰っていく
ルソーの社会契約論では文明社会の成員の行動原理は
「自尊心」(名誉)と「利己心」(生存欲求)によって説明され
主に自尊心が闘争原因となり、利己心は憐みに派生して共同性の担保となるとされる
こういう考えにドストエフスキーは鋭い疑問を投げかける
その答えがムイシュキン公による「同情主義」の破綻なわけです 燃えろ燃えろペチカよ燃えろ
燃えろ燃えろ地球のために >初めは細くて砂糖のように白い指がパランパランとガラスをたたいていた窓が、開いたかと思うと、可愛らしい若い女性の顔がそこから覗いて、花の植木鉢を売り歩く行商人を呼び止める ─ ─
ドストエフスキー 白夜
上は長い文の一部だが、「細くて砂糖のように白い指がパランパランとガラスをたたいていた窓が」だが文法構造がわからん。
「細くて砂糖のように白い指」が主語で、その指が「パランパランとガラスをたたいていた」のかね? 皆が時には憐憫の情を抱き、時には同情的な愛情を抱くか、あるいは単にその存在に気づきもしないような、か細いひ弱な女の子が、
突然、一瞬のうちに、思いがけず、えも言われぬ素晴らしい美人に変身
─ いかなる力が、あの悲しげでもの想わしげな瞳に、あんな炎を煌めかせたのか?
何ゆえにあの蒼白い瘦せこけた頰に赤みが差したのか?
何があの優しい面差しを情熱で包んだのか?
なぜあの胸はあんなに膨らんでいるのか?
何があの哀れな女の子の顔に、力や生命や美を突然、呼び覚まし、あんな微笑みで顔を輝かせ、あんなに明るく火花のように煌めく笑いで生気を蘇らせたのか?
こちらは辺りを見回し、誰かを探し求め、誰が原因なのかを言い当てようとする……。 ところが、そんな一瞬は、あっという間に過ぎ去り、
ひょっとするともう翌日には、
以前と同様のもの想わしげで虚ろな眼差し、
同じ蒼白い顔、従順でおずおずとした物腰、
それに過ぎ去った興奮に対するどこか重苦しい憂愁や
悔しさの痕跡さえ目にすることになるのだ……。
それを見たこちらは、もう二度と取り戻せない一瞬の美が、
萎れてしまったこと、彼女がこちらの目の前で煌めいて
見せたのは、単なるまやかしで、実に空しかったこと、 >>488
>「細くて砂糖のように白い指」が主語で、その指が「パランパランとガラスをたたいていた」のかね?
だね キリーロフ
自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき(どうでもよくなるとき)、
はじめてえられるのです。
これがすべての目的です。 キリーロフ「赤ん坊をハンマーで叩き潰すことも素晴らしい」 >>486
自然状態について、本来人間は憐憫と同情を持って生まれたとするルソーと、人間は本来は敵対関係で生まれたとしたホップスと、どちらかが人間の本性に合っているんだろうかとこういう話でよく思う
結果として両者も人間間の服従契約の否定に至るが、出発点が違うのに同じ結論になるのはおもしろいよね >>495
> 自然状態について、本来人間は憐憫と同情を持って生まれたとするルソーと、人間は本来は敵対関係で生まれたとしたホップスと、どちらかが人間の本性に合っているんだろうかとこういう話でよく思う
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仏ならどちらもちがうと考えはしまいか? 憐憫と同情と慈悲も、敵対と闘争と勝他も、
どちらも人間生命に内在しており、縁に触れて出生(しゅっしょう)するのだと。
平たくいえば「善人も悪人もいない」善いことをするとき善人とよばれ、悪いことをするとき
悪人とよばれるのだと。 天才バカボンがキリーロフやカミュのシシュポスと同じとは盲点だったわw >>497
> 宮前真樹。
かなり売れそうで、それほどは売れなかった印象。 人間の持っているものは端くれながらでも闘争心でしょう。 キリーロフは昼夜逆転の生活を送っている。
夜中から朝方まで部屋を中をうろうろしながらずっと考えごとをしている >>501
>人間の持っているものは端くれながらでも闘争心でしょう。
それをドストエフスキーは
物質的欲求に由来する「生活の闘争」と
階級や名誉に由来する価値闘争に分類している
だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
いわゆる「地下室人間」のイメージが提示される アメリカ合衆国。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2018/05/post-76c2.html
トマス・アクィナスのアメリカ訪問。
アクィナスが分かれば世界が分かる。
南米サッカーが戦争につながる理由も「夢で追いかけてくるアクィナス」
をめぐる宗教上の対立だった。 凡人に狂気は無く最も理性的な人間にこそ狂気は宿る
とはチェスタトンだったかな
ドストエフスキーも似たような事を言っていて
悪人であるには理性的でなければいけない
といったことを「未成年」でヴェルシーロフに語らせている
また、チェスタトンは
永遠について思索するよりも一瞬の決断についての方が大切だと言っているが
これと似たような事は「白痴」でも述べられている
永遠と瞬間が同期するという発想はドイツロマン主義にも見られるが
チェスタトンやドストエフスキーの瞬間というのはそういうものではない
諸瞬間で下される判断や状況の背後に潜む「秘密」について述べているわけで
それが5大長篇という一種の犯罪小説のモチーフにもなっている
トルストイが「人生論」でも述べているように
人間に自由意志は無いわけだね 詩の世界のヒーローはトマス・アクィナスだ。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/118785946
トマス・アクィナスを理解すれば、中世ヨーロッパ史からアメリカ合衆国、ヨーロッパ全土の現在、
そして道徳とは何か?まで理解できる。 >>507
トルストイにこそ当てはまる気がする
本当の倫理家の精神の一部は狂人なのだろう トルストイやドストエフスキーが自由意志についてどこまで自由としていたかは難しいが、ドストエフスキーについてはこの自由意志にこだわったのは確かだと思う
必然性と可能性の中でどこまで自由に意志できるかを探ってみたんじゃないかな?
そもそも自己が自由に意志するとは何なのか
そもそも自己とは何なのかを考えるとパンクするねw キルケゴールは人間とは精神であり自己であるとした
自己とは自己自身に関係に関わる関係であるとし、つまりは第三者の目の介入を必要として、それを人間の尺度としている
絶望している人間の尺度とは社会であり、世界であり、人間(他者)であると言っている
もし人間が自己の尺度を神とした場合、その人間の尺度はどんなに無限にかわるのか!と
また絶望とは、神の前にして、絶望して自己自身であろうとすることとも言っている
ヴェルシーロフやイワンは最後はで自己自身であること、理性を離さないこと、それらを見放さなかった
つまり絶望者である
じゃあ彼らはどうすれば救われたのか?
分からないことだらけでヤニなるよねまったくw >>511
>もし人間が自己の尺度を神とした場合、その人間の尺度はどんなに無限にかわるのか!と
訂正→その人間の自己はどんなに無限になるのか
ねようw 自己なんて世界の0.00無限なのに、自由意思もひっくるめて、依存しすぎだね。 「未成年」は節約生活ノウハウみたいな箇所が妙に面白いわけだが。 しかしイポリートの夢に出て来る
三叉戟のような形態の蛇蝎は何を意味しているのか?
ギリシア神話における
ネプチューンによるイポリートへの罰のことなのか
監獄のような小部屋で三叉戟状の蛇にして蠍に追い詰められが
庇護者たる母とその知人男性は無力で
5年前に死んだ筈の愛犬ノルマ(黒犬)がほぼ相討ちという形で
イポリートを死の淵から救う
この悪夢から覚めた時にムイシュキン公が現れ
イッポリートを死の部屋から救い出す
しかし、この「救済」をイポリートは欺瞞だと糾弾する
で、この夢の事をどういうわけかムイシュキンは事前に知っていた
スイス的あるいはキリスト教的ムイシュキン公による善美と博愛の思想が
ギリシア的かつ能動的ニヒリストであるイポリートによって非難される 詩の世界のヒーロー。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/118785946
一部抜粋。
「思い出のあるコミュニティー」だけが彼女の「世界の終わり」の願いを押しとどめていた。
フランス革命、パリコミューン、ロシア革命、ハンガリー動乱に学んだ日本は中学校の恩師をなかなか異動させないようにした。
「意味のある活動」をすれば恩師は自分のことを覚えている。
「世界に終わりがきてしまえばいいのに」
そう思った時に、母校の周りをうろついた。
「思い出のあるコミュニティーがないこと」
これが全体主義の起源である。
ノスタルジーを感じることが時には人間には必要だった。
【聖地巡礼の心理学とは、世の中に終わりが来てしまえばいいのに、ということと全体主義の克服にある】
https://youtu.be/BUI5M1myqSA >>515
ドストエフスキーは夢に特別な意味を与えているね
自身が癲癇とかで何かそういう夢を見たのかもしれない ドストエフスキーは何回読んでも新たな発見がある。
長い小説だから、読んでる途中でだらけていい加減に読んでしまう箇所が何箇所かある。
その箇所が二回目三回目に読むとき、新たな発見になるわけです。 >>503
> それをドストエフスキーは
> 物質的欲求に由来する「生活の闘争」と
> 階級や名誉に由来する価値闘争に分類している
これは「地下室」本文に書かれているのですか? 特に気になったのは、
> だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
> 名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
> いわゆる「地下室人間」のイメージが提示される > だから生存の維持に必要な物質的欲求が満たされた利子生活者になったら
> 名誉心などに起因する価値闘争から身を護るために孤立する
ぼくにはどうも そう思われない。というのは、名誉心などに起因する価値闘争は夢の世界へ
と圧迫される氣がする。夢で、あるいは仮想世界で噴出するのでは。
ともあれ、このスレについていくために必須なのは「まず自分自身が読むことだ」読みもしないで、そこに書いてある字面だけおっても空転だ。イメージの共有ができてないからだ。 >>484
> 罪と罰でテレンティウスの言葉を引用するね
> 「homo sum: humani nil a me alienum puto. (TER. Heaut. 77)」
> 「我は人間。人間的なものにして我に無縁なるものはなしと思う」
レスが遅れましたが、原典まで出して頂き感謝。強力な教養を相手にひけらかす為の武器としてではなく、ドストが「古典のなにを読んでいたか」
そして「彼がその文をどう解釈し、なにを引き出したか」 >>504
ヘルマン・ヘッセ「カラマーゾフの兄弟、ヨーロッパの没落」 (1919年)
ドストエフスキーの諸作品において、ことにもっとも強い焦点を結んで「カラマーゾフ」において、私には私が自分の用語で「ヨーロッパの没落」と呼んでいる事柄が、おどろくほどの明瞭さをもって、表現されて予言されていると思われる
ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくニーチェでもなく、じつにドストエフスキーであることは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつ
カラマーゾフの理想、古い古いアジア的な神秘の理想がヨーロッパの思潮になりはじめている
それが私がヨーロッパの没落とよぶところのものである
「アジア的」理想とは何であろう
いっさいを理解し、いっさいを肯定するために、あらゆる固定した倫理や道徳から離れるということである
長老ゾシマが第一にそれを告知し、アリョーシャがそれを実践し、ドミトリイおよびはるかにそれ以上にイワンがもっとも明瞭にそれを意識して述べたような、ひとつの新しい危険な恐ろしい神聖さを実現せんがために既存の固定した観念から離れるという方向である
イワンが物語の進行につれて、文明人からカラマーゾフ人に、ヨーロッパ人からロシア人に、形のととのった歴史的タイプから、未来のための無形式的素材になってゆく
最初彼の身をつつんでいた落ちつき、悟性、冷静、科学性の威容からずれ落ちていった、もっともぐらつきそうにもなかったカラマーゾフ族のひとりが、ヒステリー、ロシア性、カラマーゾフ的なものへ移行していった
ロシア的人間、カラマーゾフとは、殺人者であって同時にもっともデリケートなたましいの所有者である
それは申し分のない利己主義者であり、また申し分のない献身の英雄である
ヨーロッパ的な、確固たる、道徳的な、倫理的な、ドグマ的な立場から、この人間の真相をきわめることはできない
この人間のなかには外と内、善と悪、神と悪魔とが同時に存在しているのである つづき
同時に悪魔でもある神とは、太古のデミウルク(原初的創造神)である
彼は劫初から存在した神である
彼のみが種々の対立の彼岸に立っており、昼と夜、善と悪との区別を知らない
彼は無でありまた全である
彼はわれわれには認識できない、われわれはすべて対比と対照によってのみ物を認識することができるのだから
われわれは個体であって、昼と夜、暖と冷の対立にしばりつけられており、神と悪魔の両者を必要とするのである
対立の彼岸、「無にして全」の中にはただデミウルク、善も悪も知らない全の神だけが生きているのである
ロシア的人間の本質、それは諸対立、諸特性、諸道徳から脱出しようともがく人間である
それは自己を離れ、個体化の原理という帳の背後の世界へ帰ろうとしている人間である
こういう人間はなにものをも愛せず、またすべてを愛する、なにものをも怖れず、またすべてを怖れる、なにごともなさず、またすべてをなす
こういう人間はふたたび原材料、形態のない霊的素材に戻ったのである
現行の形式では、こういう人間は生きることができない、ただ没落してゆくばかりである
この没落人、この恐ろしい幽霊をドストエフスキーは、彼の魔力をもって芸術の世界へ呼び出した
ロシア的人間はとっくにロシアの外に進出して、ヨーロッパの半ばを支配しているのである
ヨーロッパは疲れていることが明らかになったのである
ヨーロッパは故郷へ帰りたがっている、そして休息したがっている
そして創り直され、生まれ変わることを望んでいることが明らかになったのである >>523
> ヘルマン・ヘッセ「カラマーゾフの兄弟、ヨーロッパの没落」 (1919年)
これの存在してることだけ仄聞してたが、まさか2ちゃんで引用してくれて、はじめて読むことになろうとは。ありがとう。
ヘッセは、考えてみれば、自分にとって、ドストの次に愛読した外国文学といえる。そのヘッセが、ドストエフスキーの系譜のひとりであることを感じた。
> ヨーロッパの青年、とくにドイツの青年が、自分たちの偉大な作家と感じているものが、ゲーテでなくニーチェでもなく、じつにドストエフスキーであることは、私たちヨーロッパ人の運命にたいして決定的な意味をもつ
ひとりヨーロッパ人にかぎらず、私たち日本人にとっても特別の文豪であろう。おそらくは、中国人韓国人アフリカ人にとっても。 「まず自分自身が読むことだ」と書いておきながら、日常茶飯事に
まぎれて読めてない。
カキコの時間はあるのに。だから私は彼を尊敬するというのだ。
わたしにとってカキコは簡単だが、ヨミコは恐ろしいほどの努力が必要なんだ。 ヘッセも文学上にてまぎれもない天才だよね
彼はアベルの血だけではなくカインの血もまた肯定しようと試みて、それを人間の本性のように書いている
迸る思いのままに生きること、二元論の同時性を求め、アブラクサスを神として、善と悪の同時共有曰く全一性の本質を人間に見出そうとしたように思える
一切は無くてつまりは一切は在る、ということ
ドストエフスキーの類似性をここに見る
ヘッセは、すべて無いならば「自分を自分で支配すること」で、創造を見つけようとしているように自分には読んで思えた
ヘッセは、自己からわき出る素直な感情を大切にしたと言っても間違いにはならないだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています