0538吾輩は名無しである2018/12/25(火) 18:25:26.78ID:FfVw4eYg 理解できないものを「隠されているから理解できないのだ」とするのがグノーシスの考え方で中期プラトニズムが「神々しいプラトン」に到達するためにアリストテレスを学び、それによって隠されたプラトンにたどり着こうとする イレナイオスはユスティノスよりもキリスト教内で活動したため、哲学要素が少なく、ロゴス・キリスト論をギリシャ哲学によらず研磨している Q資料と言うのは19世紀に各福音書が時系列をもって別々の作者によってつくられたとする前提を受け入れて作られた概念 それはマルコとルカの福音書のもとになったものだから、この二つと共通点を持っていないならば、せいぜい断片でしかない トマスの福音書はほかの福音書と共通の伝承を伝えていて、けれど他にない伝承を含んでいるけれど、他の福音書はそういうものではない なぜか、「ロゴスが受肉した」ことを強調しているけれど、これはヨハネが中期プラトニズムの影響を受けて「ロゴスの先在」に触れ、ユスティノスがキリスト教の哲学的説明を行ったあとの時代 キリストの「復活」が救済の根拠だった共観福音書の時代からキリストの「受肉」に救済の根拠が移っていくのはヨハネ〜ユスティノス・イレナイオスの時代で、ナグ・ハマディの文書にはこの時代の空気を伝えるものが含まれている 救済のために復活したイエスと救済のために受肉したイエスは一世紀には前者が、二世紀には後者が説得力があるとみなされるコペルニクス的転回が二世紀前半に起こっている 「使徒たちが復活を見た」だから救済される、と言っていた時代から使徒の弟子の時代になると、「師匠が復活を見た」では説得力がなくなっていく 「復活を信じない人たちに救済を信じさせるためには、その人たちが信じていたストア的宇宙観に訴えかけなくてはならない」 そこで使われるのが論理で、アリストテレス的哲学になる この哲学の導入は、「エルサレムとアテナイに何の関係があるのか」というように強い反発も生むけれど、ユスティノスのような哲学を神学の根拠にできるという風潮は生き延び続ける ただし、ニケイア信条やカルケドン信条は徹底してアリストテレス的要素を否定する結論になる このアリストテレスを利用したがる波は常に存在し続け、教義発展におけるダイナミズムをもたらす 0539吾輩は名無しである2018/12/25(火) 18:33:03.89ID:FfVw4eYg 「世界の起源について」 Now, the word, who is more exalted than anyone, was sent for this work only, to announce what is unknown. He said, “There is nothing hidden that will not appear, and what was unknown will be known.” 今や、何者よりも卓越したロゴスが、「知られざること」を伝えるそのためだけに遣わされた。 ロゴスは言った。「隠されているもので現れないものは存在しない、知られていないものは知られることになるだろう」
では、何が超時間的な受肉なのかと言えば、「ロゴス」という抽象概念を実体化させるという試みです この知識が人に与えられることは、キリスト教徒だけでなくプラトンや哲学者たちにも与えられていた、というのがユスティノスの「ロゴス・スペルマティコス」という考えです 0580吾輩は名無しである2018/12/27(木) 00:08:01.20ID:0W2ocpl6 それこそ普遍的に、プラトンやユダヤ人たちも神からのロゴスを「受容」して(神が種を蒔いたように)、正当な知識を残したのだと主張します その中で、唯一イエスだけが全的ロゴス、開花しきったロゴスとして現れたことになり、ここでも歴史的一回性は保たれてはいるものの、わずかに普遍的・超時間的になっているのです 「神が受肉した」「ロゴスが受肉した」これは超時間的でありえます ただし、「イエス・キリストが受肉した」これは歴史的でなくてはならないんです(少なくとも4世紀以降は) 繰り返しますが、わたしの記載は「ロゴスの受肉」という哲学的・普遍的な発想が出現した2世紀初頭にのみ関わるものです 超時間的なのは「受肉」のほうではなく「ロゴス」の方で、受肉incarnatioは徹頭徹尾歴史的です ロゴスが人に宿る(Assumption、受容)こともしばらく「受肉」として扱われますが、これはアレキサンドリア学派とアンティオキア学派の間で論争が続くのですが、要するに「受肉」が超時間的と言うと(歴史的な論争の経緯があるので)あまり正しくないということです 0581吾輩は名無しである2018/12/27(木) 00:15:15.02ID:0W2ocpl6 パウロはロゴスの受肉と言う言葉を一度も使っていません そして、ユスティノスがキリスト教を真の哲学だ、と言明し、生涯哲学者の衣を脱がなかったのに対してパウロは知識による信仰を否定します テモテ人への手紙 Avoid the l irreverent babble and contradic of what is falsely called “knowledge,” for by professing it some have swerved from the faith. 俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。
書評エッセイ。 おまえらの評価をくれ。 0589ムー大陸 ◆POG0Nh1MOnGz 2018/12/27(木) 19:27:23.85ID:6mBhrilh>>548 不条理じゃなくて普通にハッピーな話じゃん。 あと異星にタクシーがあるというのはひねり過ぎていて理解が得られないと思う。 0590吾輩は名無しである2018/12/27(木) 19:42:12.24ID:5+7oZLBV>>589 おお、ムーさん、感想ありがと。 タクシーがダメかあ。 地球的な都会の異星のつもりだったよ。 0591ムー大陸 ◆POG0Nh1MOnGz 2018/12/27(木) 19:48:12.62ID:6mBhrilh>>580 なるほどー。私のいい加減な印象論に付き合ってくださりありがとうございます。 ただ、これもなんとなーくの印象なので、よろしければ博識さんの見解を知りたいのですが、 「イエス・キリスト」「の」「復活」と 「イエス・キリスト」「の」「受肉」では、 両者とも歴史的時間を契機(この表現でいいのかはわかりませんが)としているにせよ、 帰結として現れる「救済」の時間の性質が異なる気がする。たぶんこの「の」に差異が存在する気がするのです。 「復活」という一回性のできごとによって人類が救済されるということと、 超時間的なロゴスが、イエス・キリストの受肉によって、歴史的時間にいわば「短絡」され、 それによって救済が実現するということの間には、時間の概念について、なんらかの転換があるのではないかと思うのですが、 そこらへん、博識さんの意見が聞きたいです。もしお時間がありましたらm(_ _)m 0592ムー大陸 ◆POG0Nh1MOnGz 2018/12/27(木) 19:51:17.12ID:6mBhrilh>>590 まあ「アルファヴィル」って映画では、パリの街が異星ってことになっていて、 宇宙空間も高速道路になっていたりするので一概に否定はしないが 0593吾輩は名無しである2018/12/28(金) 01:02:02.33ID:RM6sSwmp>>591 A is B, B is C ならば A is C. 三段論法はどんなに論理が嫌いと言いながらも利用せざるを得ません あるいは、嬉々として三段論法で救済の論理を作ります ここで、Aにイエス・キリストは入れていいのでしょうか? イエス・キリストはJesus is Christ.救世主であるイエスという二つの属性を持ちます Jesus Christは固有名詞のようでありながら、Jesusという人性とChristという神性が結合させられています A is incarnated. 受肉するという動詞は、Aが固有名詞では成り立ちません 非人格的概念が擬人法的に実体化するという動詞で、主語に制限があります 一方で A is resurrected. 復活するという動詞はAが固有名詞でも一般名詞でも成り立ちます 問題は、イエスとはキリストなのか、キリストとは何なのかです ナザレのイエスが受肉した、あるいはイエス・キリストの人性が受肉したということはできません イエス・キリストの神性が受肉したことになります ナザレのイエス、あるいはイエス・キリストの人性が復活した、と言うことはでき、イエス・キリストの神性が復活した、と言うことはでき、さらにイエス・キリストの人性と神性が復活した、ということができます ここで、問題なのは固有名詞、歴史性を引き受けた存在としてのJesus ChristはすでにChristという、人類の救世主(メシア)という属性を与えられた・受容した名詞でもあることです メシア=キリストがユダヤ的な王や祭祀であること可能性は置いておいて、人類を救済しうる能力は神的である、ならばメシアは神的であることが要請される 問題はJesus Christという主語の中に、「受肉」と「復活」という動詞を切り分けるものがあります A is perfectly human. A is perfectly devine. AがJesusという人間であり、かつChristという神的存在であるとき、アリストテレスの論理学を使うとおかしな問題が生じてきます 0594吾輩は名無しである2018/12/28(金) 01:18:20.83ID:RM6sSwmp Jesus Christ is resurrected. Resurrection is for salvation. So Jesus Christ is Christ, who redeem us. 人間でないものが復活したとしても人間は救済されない だから復活した故に救済する方は完全な人間でなくてはならない 神性と人性の入り混じった人間と「似ていないもの」では救済にはならない Ressurection is Deeds of God. Jesus Christ is Redeemer. So Jesus Christ is devine. 救いは神の力によるものでなくてはならず、だから救い主は神的でなくてはならない Jesus Christ という言葉自体にキリスト論があり、少なくとも救済を前提とするメシアとしてのイエスは人性を持ち、神性を持たねばならない A is B. A is C. ここでBがCと通じるのか、通じ合わないのか 相容れないとするなら解決策は論理を追求するとBかCが誤りとなる Jesus Christ is human. Salvation is only derived from other God. これはキリストの神性を否定するエビオン説、養子説 Jesus Christ is not human. そもそも人間ではなく神以外のものではないとする、これが様態論(単神論) さらに Jesus Christ is not human, the God これは単神論 Jesus Christ is not human, a God これは三神論を含む多神論 Jesus Christ looks like human, a/ the / - God これが仮現論 グノーシスによらず、仮現論的な描写は聖書にもある これらの異端は全て、A is perfectly human. A is perfectly devine.という難問に立ち入らないための合理的な選択 それでも神性と人性の完全なJesus Christはニケイア信条で確定された 0595吾輩は名無しである2018/12/28(金) 01:41:49.45ID:RM6sSwmp なぜ数あるアリストテレスの論理を無視する非アリストテレス的Jesus Christが成立したか、は全て救済のため 復活によって救済する、ならば復活したものは救済の力を持つ神的存在でなくてはならぬ 受肉によって救済する、ならば受肉したものは救済の力を持つ神的な存在が完全な人の形をとらねばならぬ しかし、このJesus Christという一見固有名詞、でありながら「救済するもの」という重い機能的状態を付加されていることばはアリストテレス的には矛盾している 「受肉」という言葉とついになるのが「生む」という言葉 Jesus Christ is born from Mary. Jesus Christ is perfectly human, and perfectly devine. ここまで誰も文句は付けられない、ところが Mary is mother of the human, and mother of the God. マリアは人を生んだから人であり、かつ神を生んだから神の母である マリアは人の母であり、神の母でもある マリアは人でもあり、神でもある これが大問題で、一たびイエス・キリストを歴史的存在として受け入れると、あらゆる神的でかつ人的な存在があふれ出す すると、歴史的・一回性であったイエス・キリストという出来事が普遍的・超時間的になっていく これを再び一回性に回収しようとする、ブリリアントな試みに乗り出したのがネストリウスと言う人で、失敗こそすれ、彼自身はネストリウス主義者であったことは一度もなかった、と評される人です 「受肉」による救済、と「復活による救済」が超時間的か否かで違いがあるように思われる、とのこと 問題は「イエス・キリスト」ということばに含まれていて、「受肉」と「復活」においては人性と神性で「イエス・キリスト」という言葉に問題があります アリストテレスの破綻がここにはあって、あえてアリストテレスを貫こうと三段論法が成立する形態をとろうとすると、「イエス・キリスト」の人性・歴史性が抜け落ちて神性・機能性が強調されます しかしニケイア公会議以降はこれらの異端は成立しなくなります その上で、じゃあ異端が解決しようとしたアリストテレス的アポリアを突き詰めたところにいるのがネストリウスの提示した問題と解決になります 0596吾輩は名無しである2018/12/28(金) 01:52:44.24ID:RM6sSwmp 2世紀というのがアリストテレスの論理(プラトン神学の婢としての)に教義を合わせて行った結果、反動が出て3世紀に公認されるとともに教義の統一をあくまで救済に求め、「イエス・キリスト」の神性と人性が「定義」されます この時点から「イエス・キリスト」の印象はそれ以前とは異なったものになっています あえてアリストテレスの排中律を配した「反知性的な選択」(by 森本あんり)をとった結果、問題が噴出し始めていきます 「受肉」と「復活」のずれは、「母」という言葉で問題点を提出したネストリウスと同じ問題圏にあると思います 問題は「の」が「受肉」と「復活」で違うかだったかと思いますが、その通り。「イエス・キリストの復活」と「イエス・キリストの受肉」では文法論として違いがある 後者ではイエス・キリストの「キリスト性」を「普遍名詞性」を強調するため、時間性も変わるでしょう
who is Jesus? イエス論・言行録 What is Christ? キリスト論・メシア論・救済論 Who is Jesus Christ? What is Jesus Christ?