「限りにおいて」、肯定的な、レイシズムに反する要素は一切見いだせないのですか?
見出せないで、ひたすら否定的な部分を連ね続けるのは、「お前もレイシストだ」という、公民権運動に反対する白人男性が白人女性を糾弾した遣り口でしかないのです

どこが反レイシズムなんだ?ということは、反レイシズム性を全く見いだせないで批判だけしている
表現の言葉狩りをしているだけで、現実に「気持ち悪い」という罵声を浴びた山田詠美にフェアではない
なぜ、「完全な差別」「レイシズム以外の何者でもない」という表現だけは後生大事に抱えているのか?
自分が読んだ小説が反レイシズム性を持っていることをなぜ抑圧し続けるのか?
それはミソジニーと、「男も女も同じ」という表現に現れる「どっちもどっち」という相殺理論をものすごく強く感じる

どうしても反レイシズム性をかけらも感じ取ることができないと主張し続けるなら仕方ないけれど、反レイシズム要素を含む小説に対して「とにかく表現の限りにおいて完全な差別」とだけ主張し続けるのは理解できない