>>299
本は自己を写す鏡である、と仮説したらどうだろうか
本来理解できる事は既に知っている事だけになる
先にも言ったけど、理解しようとする事と理解できるという事は質的差異がまったく違う
何が違うのかと問えば、意志の介在の有無がある

よく磨かれた鏡がある、そしてその反対に合わせ鏡が置いてある
鏡に写った人間が何に驚くのか、共感するのか、悲しむのか、嫌悪するのか、喜ぶのかを見ている
見ている者とは自己であり、見られてる者とは自己自身であるならば、自己自身が何を思うのか本によって確かめられることになる、そして合わせ鏡とは措定する第三者になる
これが本ということになる

本を読むことで他人の声が紛れこむ
そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、その第三者を理解しようとする自己自身の意志が見えてくる
この私が何を思うのかではなくて、この私自身が何を思っているのかをこの私が眺めることが出来る、と言える
自らの意志を1人で眺めることが読書とも言える
その過程を、影響を受けたとか変わった、と呼んでもいいと思うよ
実際ぼくもそうだしw
そしてドストエフスキーは個々のキャラが強いから、誰か1人くらいは共感するヤツがいるよねw