0420吾輩は名無しである
2019/05/04(土) 13:47:43.30ID:9rYEpyX3>掟とは縛るものであることは同じであるが、
>西洋では心の中の抑制となることが多く、
キリスト教的倫理観だと内なる神という良心との対話になる
>東洋では外側から抑制する法やモラルに置き換えられる
仏教だと「魔がさす」という言葉にもあるように
「悪」外部からは到来する
しかしこれはキリスト教における悪魔の誘惑にも似ているが
神とリンクした良心のような内面性はそれほどない
どちらかと言うと朱子学や陽明学の明徳論が自己抑制的である
しかしこれもキリスト教のように個人の内面が唯一神と直結するようなものではない
いわゆる東洋的発想だと自我が溶解して個人の人格が他者とリンクすることによって
倫理が達成される
こういう自己解体による倫理性の確保という視点が
ドストエフスキー作品にも見られるのだが
もちろんこういう考え方はキリスト教とは相いれない
というのも一種の汎神論になって信仰も解体されてしまうから