>>505
アブラハムはモリヤの山で、老年にしても授かった愛する子イサクを神の命で捧げることになる
アブラハムは子を憎んでいたのではない
子を愛していたからそれが殺意と区別がつかなくなるほどの愛がそにはあり、相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」がその裏に潜むことになる
自分自身のように愛することに私は尻込みする、とラカンはいったが、同じくぼくたちもここで「躓く」

神人は賤しい姿をとり、時間の中で愛し、そしてその生命さえも犠牲にされた
しかしその神人さえも愛の暗い可能性とつまずきを不可能にはできなかった
そこに人間の最大の悲惨も同時にあるが、自分自身のように愛することの意味をこれを取り去ってしまっては語り得ない

その愛のわざが人間にはかえって逆のものになり、より悲惨なものになり得るかもしれないという可能性がそこにはある
この暗い可能性、人間がつまずいて、そのつまずきの中に留まることを罪とした

だからイエスキリストはいう「私につまずかないものはさいわいである(マタイ11)」と、そしてその先は言わない
人間は最大の矛盾をはらんでいる、自分自身のように愛することで自分自身とその相手さえほろばしてしまう可能性が同時にまとわりついてくる

つまずきと暗い可能性とはそういうものです
書けば書くほど駄作の論文ができそうな勢いで、とてもレスでは説明しきれません
死に至る病と旧約のアブラハムの聖句、もう少し踏み込むならばフロイトも同じことを性を交えていっているので参照をオススメします