>>527
> その暗い可能性が、訪問者の現在の自己自身を崩壊させる

「暗い可能性」ちょっと聞いただけでは、まったく思い当たらない。できるだけ早く、そこを見てみる。

> 他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
> アリョーシャの、あなたは殺していない、という言葉がイワンの、オレは殺していない、という言葉と重なったときにイワンの自己自身は崩壊する
> 自己自身は自己の中で現れるのではなく、他者との関係において初めて現れるものだから
> イワンがアリョーシャの言葉、つまりは「隣人愛」を受け入れられないかぎり発狂は終わらない、と言える
> そこにイワンのつまずきという大きな深い罪がある
> この罪がイワンの分裂、悪魔の分身の生みの親です

ここも同じく、そのキリスト教的一種の複雑さとハッキリ適合するのか?ラカンの言葉?で説明できるのか? 今の時点で理解できぬ。

> 上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
> 結局は同じことなんです

おれは、君とラカンとキルケゴール等の西洋哲学者自体への、信仰及び人間およびキリスト教解釈を疑う。
それにたいし、ドストエフスキーの、カラマーゾフの、ゾシマの思想については、きわめて高い思想であり、てっていてきに討論されるべき内容だと思う。

> その対象について語るとき、その対象自身に関わろうとするけど、そのもの自体と関係するのではなく、その関係にさらに関わっている「最後の関係」について話しているにすぎない
> だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
> あくまでぼくの場合はだけどね

ぼくはゾシマの思想の表現をとおして、自己の信仰と希望について、創価学会と日蓮仏法へと帰着させたい。