>>638
> バスケ部でゴルフのアイアン持ってきたら、野球部で将棋の駒もってきたら、なにしてんのってなるでしょ
> 文学のロシア作家のスレで東洋の宗教の話されても、なにそれってなるのは分かるでしょ
>
不思議なたとえをもってきたね。君にとっては宗教というのは一文化圏に限定されたものだという解釈だ。
文学のロシア作家であるドストエフスキーは、東洋の宗教とは無関係だ、という意見だ。
君にとって、たとえばキリスト教というのは、野球部員のバットに過ぎない。ドストエフスキー作品中に
出てくるキリスト教も、ひとつの「物語中の物語」に過ぎない。もっと言えばきみの信仰はアクセサリーにすぎない。
キリスト教が世界と宇宙を解釈しうるなら、創価学会とは何かを説明できるはずだ。
そしてもっとも大切なことは、創価学会員である僕こそがもっともよく「ゾシマとアリョーシャの物語」について
説明しうるという、この事実だ。

僕らは、キリーロフやイヴァンの自己欺瞞などには、まったく幻惑されない。ちょっとネットから引いてくる。

「もし神がいないとすれば、その時は僕が神なのだ。」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ、したがって、僕は我意を主張する義務があるわけだ。」
「僕は自殺する義務があるのだ。なぜって、僕の我意の最も完全な点は、−ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ。」

ドストエフスキーはなんのために、こんな観念論に陷った、なんの価値も産まない、否定的人物像を描いたのか?

悪霊については詳しく知らないが、「罪と罰」から推定すれば、こうした観念の遊戯から立ち上がり、生まれ変わるためではないか?