ぼくも所詮は人間だった、当たり前だけど
このスレに書き込むことになるとは
まずもう書き込まないという前言と相違することに、ごめんなさいしないとだねw
レスに横槍いれて勝手にレスします

>>717
正統派と異端派では三位一体の定義が異なるから、集団なのか個人なのかの判断は難しいね
唯我論という意味においては間違っていないと思うよ
ただ宗教においてはどうしても唯我論にならざるを得ない一面がある
この私にとってこの私の神はどういう存在なのか、という主観は人間である以上は外せない
この私に見える色は果たして他人と同じであるかどうか、その判断は客観性を失う唯我だからだろうね
信仰は色の見え方とよく似ている

ただしドストエフスキーにおいて言うならば、正教会は三位一体を肯定(というよりこれ以上の教義はない)しているので、聖霊とは一つの神の位格になり、旧約聖書はユダヤという集団であるけれど、新約聖書で人類にキリストがその範囲を広げられたとも解釈できる
なので集団的唯我論というよりは、ただ唯我論と言った方が意味は近いのかもしれないと思うよ
聖書モノローグ的な書物だけど、聖書を読むの人間はポリフォニー的にしか捉えられない、ということになるのかな

聖書の冒涜とはおそらく、神を知っていてという自覚があるのに神に立ち還らないこと、だと言える
ドストエフスキーがそのことを書いている
曰く、悪霊のキリーロフかな