オルテガ・イ・ガセットによる大衆と創価学会の定義

これはいわゆる政治・経済的な意味での大衆(経済力や社会的地位の階層的なピラミッドの中・下層を占める多数者)を指すものではなく、「生き方」としての大衆を指す哲学的概念です。
主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
だから支配者層や富裕層やインテリ層にも大衆はたくさんいるわけです。

それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。

今ある自分の気楽な生活環境は、自分自身に先天的に与えられた永久不滅のものであると信じて疑わず、他者や先人への感謝もなく、平気でそれを打ち捨てようとします。
蛇口をひねれば当たり前に水が出る環境を、先人がどれだけの苦労をしてこしらえたかは、海外の生活環境を見ればよく分かります。
平和や人権という当たり前に見えるものが、過去にどれだけの闘争と犠牲を払って成就されたものか知る由もありません。
大衆は環境が激変したときにようやく、そのことに気付きます。

彼らはいわゆる「甘やかされたお坊ちゃん」であり、現代文化の中に生きる野蛮人です。
大衆は責任を放棄し、安逸な思考停止に陥り、やがてそれは全体主義やファシズムを生み出します。