>>931
偶像崇拝は罪なんだけど、自分が偶像を避けることはもちろんとして、じゃあ偶像崇拝を人がやっている時に見過ごすのか関与するのか、どちらが正しいのかはグレーな部分ですね
懐疑人ドストエフスキーも迷うところだろうねw

無我になれ、というのは一見キリスト教にも見られる感覚と思いがちだけど、仏教の無我とは差異がある
自己の確たる自立が必要となる、と前提しないと、自分自身のように隣人を愛する、という隣人愛が成り立たないように思えるよ
そこには明確な「善」の意識なくしては何も語れないからだろう

大海に落ちた一滴が大海に「なる」のが仏教の無我であって、大海に落ちた一滴が一滴のまま大海と「向き合う」瞬間に同時に自己が存在する(と認識でき得る)
キリスト教において自己(善悪)の放棄は神の放棄と同じだから、それならもちろん仏教的無我は罪だろうね

ムイシュキンが美しい人なのは、自己の放棄が見られる
ただ、彼が神を愛していたため、という理由で神の被造物である人間を愛したのかどうか、は分からない
なぜならムイシュキンは子供をよく可愛がっていた、という箇所があって、これは単純にムイシュキンには自尊心が欠落していたという一点がそうさせたに過ぎないのかもしれない
が、それでもドストエフスキーはムイシュキンをキリストのように書いているので、もっと違う解釈ができるのかもしれないけどね