文学は阿片である――この二十世紀において,それは,宗教以上に阿片である。
阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。現代のぼくたちの文学をかへりみるがいい――阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても,その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。
阿片がその中毒患者の苦痛を救ひうるやうに,はたして今日の文学はなにものを救つているのであらうか。
所詮は他の代用品によつても救ひうる人間をしか救つてゐないではないか。
とすれば,そのような文学は阿片の汚名をのがれたとしても,またより下級な代名詞を与へられるだけのことにすぎない――曰く,碁,将棋,麻雀,ラジオ,新聞,なほ少々高級なものになつたところで哲学,倫理学,社会学,心理学,精神分析学……。
ここでもぼくはそれらに対する文学の優位をいふほど幼稚ではない――ただ持ち場の相違に注意を求めるだけにすぎぬ。
文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。……
……いや、その一匹はどこにでもいる――永遠に支配されることしか知らぬ民衆がそれである。さらにもっと身近に――あらゆる人間のうちに。
そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。
 かれのみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも。その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者であるかれは、阿片でしか救はれぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。
その彼のペシミズムがいかなる世の政治も最後の一匹を見逃すであらうことを見ぬいているのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。