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福田恆存「一匹と九十九匹と」
0001吾輩は名無しである
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2019/02/24(日) 22:19:26.89ID:Q5OQzYah
文学は阿片である――この二十世紀において,それは,宗教以上に阿片である。
阿片であることに文学はなんで自卑を感ずることがあらうか。現代のぼくたちの文学をかへりみるがいい――阿片といふことがたとへ文学の謙遜であるにしても,その阿片たる役割すらはたしえぬもののいかにおほきことか。
阿片がその中毒患者の苦痛を救ひうるやうに,はたして今日の文学はなにものを救つているのであらうか。
所詮は他の代用品によつても救ひうる人間をしか救つてゐないではないか。
とすれば,そのような文学は阿片の汚名をのがれたとしても,またより下級な代名詞を与へられるだけのことにすぎない――曰く,碁,将棋,麻雀,ラジオ,新聞,なほ少々高級なものになつたところで哲学,倫理学,社会学,心理学,精神分析学……。
ここでもぼくはそれらに対する文学の優位をいふほど幼稚ではない――ただ持ち場の相違に注意を求めるだけにすぎぬ。
文学は――すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に対して、百匹のうちの失はれたる一匹に対して、一服の阿片たる役割をはたすことにある。……
……いや、その一匹はどこにでもいる――永遠に支配されることしか知らぬ民衆がそれである。さらにもっと身近に――あらゆる人間のうちに。
そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。
 かれのみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも。その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者であるかれは、阿片でしか救はれぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。
その彼のペシミズムがいかなる世の政治も最後の一匹を見逃すであらうことを見ぬいているのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。
0002吾輩は名無しである
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2019/02/26(火) 21:15:15.41ID:hyFXz5YT
文学は阿片である
0004吾輩は名無しである
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2019/04/27(土) 23:39:39.63ID:9ZFcVyPD
誰が何と言おうと史上空前の文芸評論家猫飛ニャン助。スゴイ。本が好きで良かった。
0006吾輩は名無しである
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2019/07/20(土) 20:15:45.52ID:ELmN4CpG
かきくけ96
0007吾輩は名無しである
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2019/08/18(日) 12:33:03.15ID:dnI2rvkS
「福田恆存」『自分で考える』中村光夫著から

 それは現代人の精神の自省、あるいは自虐とも言うべき彼自身の内面の劇が、いつの場合にもそのモチーフになっていることで、
これを彼ほど徹底的に容赦なく遂行した人は我国にはいないのです。
 彼は自分の精神が生きようとする限り演じざるを得ない喜劇、その惨めさ、空しさ、滑稽さなどを知り抜くとともに、
現代人もことごとく彼と同罪であり、同類であることも信じて疑いません。
この自身ははなはだ強いもので、彼は自分の同類または同罪の人間しか現代人とみとめないとも言えます。
彼の批評がときには独断的、あるいは偏狭というようなそしりをうけるのもそのためと思われます。
しかし偏狭でも独断的でもない批評が面白い筈はないと彼はまた確信しているので、彼のパンテオンには、
偏った好みで選ばれた神々だけが祭られているのかも知れませんが、その神々に彼はひとつひとつ自分の血の贄をささげているのです。
 しかし僕が彼に本当に感心し、尊敬するのはこの点ではありません。
このように現代人の精神の否定的諸相を身をもって究めた彼の救いを芸術に求める信念の純粋さです。
荒廃と混乱のなかで美と調和を求める彼の叫声の強さです。この意味で、彼の評論の代表作は「芸術とは何か」です。
0008吾輩は名無しである
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2019/10/06(日) 10:24:57.50ID:tly00MMp
「小林秀雄 芸術と生活」『現代作家』福田恆存から

 なるほど現代はつねに凡庸である。それはいまだ自己証明をなしえぬ、とりとめのない偶然性にすぎず、それゆえにこそ、そのなかに生きるぼくたちの責任が問われねばならないのだ。
現代はその自己証明をぼくたちにまっている。ぼくたちしだいでどうにでもなるのだ。
小林秀雄の眼に過去が美しくみえ、死んだものだけが完璧にみえたのは、けだし当然なことなので、まさしくかれのいうとおり、
「僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。」(「無常と言ふ事」)
 それにまちがいはない。ぼくもまた過去の追憶を愛し、そこにのみ完璧を見る。ぼくもまた死したるひとにのみ信頼する。
が、それだからこそ、ぼくたちは現代をおろそかにしえぬのだ。
なぜなら現代というものはない。それは刻々に過去になりつつある瞬間の連続にすぎぬ。
ぼくたちが現代に生きるとは、一瞬一瞬を過去に送りこむことを意味する。
思い出が美しいものならば、一瞬ごとに思い出をつくりだしつつある現在を、ぼくたちはどうしてゆるがせにしえよう。
 
小林秀雄は現在を棄てて、ヨーロッパの天才のうちに、そして日本の古典のうちに、身をかくした。
その底部に、かれは不連続のもの、永遠に確固不動のものを発見し、それに感動することを願ったのだ。
 
しかし、いかに病的であってもこの二十世紀を、いかに低俗であってもこの現代を通ぜずして、ぼくたちははたして歴史の底部にまで貫徹しえようか。
見えすぎる眼がどうして現代のドラマを見ないのか、鋭い感受性がどうしてその苦悶に感動しないのか。
それはくだらぬことかもしれぬ、まちがっているかもしれぬ。
が、たとえそうだとしても、ある時代がある時代に優っていたり劣っていたりするわけのものではない。
現代の苦悶がもしくだらぬものならば、室町のそれも十九世紀のそれもくだらぬのだ。
長篇ひとつに盛りこめるほどのドラマを密室に埋めてしまった小林秀雄の眼に、なぜ現代の凡庸人の苦痛が尊く映じないのか。
0009吾輩は名無しである
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2019/10/12(土) 22:56:10.61ID:ruuIZbxE
「対話・生と死」(矢内原伊作)『福田恆存対談・座談集 第七巻』

福田 それはそれでいいと思います。でもね、それだけで問題はかたづかないと思うんですがね。
矢内原さんのばあいはいつでも思想とか芸術作品とかが問題になっているんじゃあないかしら。
いわば成功者、勝利者だけしか信じてやらないんですね。
ニーチェやチェーホフにおける生の苦痛と誠実とはみとめるんだけれでも、
僕やそのへんのおかみさんの苦痛は――それがあるということはみとめても、価値はみとめないんですね。
いや、矢内原さんだけとはいいません、ぼくだってそうなんです。
ただぼくのばあい、それではいけない。それでは人間いつになっても救われないという感じがするので、
むしろそういう勝利者のメタフィジックを一切ぶちこわしてみようというわけなのですよ。

矢内原 それはわかる。その場合福田さんは一切をぶちこわすということ、なにものも信じないということを信じておられる。
そしてそれがぼくにわかるということは、ぼくがニーチェだけではなくて、福田さんをも信じていることではないでしょうか。

福田 ぼくは信じていただけるとしても、何によって信じますか、作品も何もない人が、世の中がいやになったということ、
それだけでは論理として希薄だから信じられないでしょう。
0010吾輩は名無しである
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2022/02/05(土) 22:35:05.72ID:jQN0nW3O
『文藝時評大系 昭和篇1第18巻 昭和十六年−昭和十七年』 ゆまに書房
昭和十七年三月 生活と文学の混同 同人雑誌二月号月評 福田恆存『新文学』
昭和十七年四月 作者と素材について 同人雑誌創作月評 福田恆存『新文学』
昭和十七年五月 他人の真実 文藝時評 福田恆存『新文学』

『文藝時評大系 昭和篇1第19巻 昭和十八年−昭和二十年』 ゆまに書房
昭和十八年二月 文藝時評 文学至上主義的風潮について 福田恆存『新潮』

『文藝時評大系 昭和篇2第1巻 昭和二十一年』 ゆまに書房
五月 終戦後の小説 福田恆存 『文明』

『文藝時評大系 昭和篇2第4巻 昭和二十四年』 ゆまに書房
三月 創作合評(二十二回) 伊藤整・福田恆存・神西清 『群像』
十二月 知識階級の敗退 一九四九年の文壇的考察 福田恆存 『人間』

『文藝時評大系 昭和篇2第5巻 昭和二十五年』 ゆまに書房
一月 文藝時評(1) 対面交通 福田恆存 『改造文藝』→福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)
二月 文藝時訴(1) 対面交通 福田恆存 『改造文藝』→福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)
六月 時評を書くための独白 福田恆存 『夕刊毎日新聞』

『文藝時評大系 昭和篇2第6巻 昭和二十六年』 ゆまに書房
五月 文芸時評 福田恆存 『朝日新聞』→福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)
六月 文藝時評 福田恆存 『朝日新聞』→福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)
七月 文芸時評 福田恆存 『朝日新聞』→福田恆存文芸論集 (講談社文芸文庫)
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