日記というジャンルについて語ろう
もしもアンネが生き延びていたら、彼女の希望通りジャーナリストとしても活躍していただろう。 跳舞猫日録 2022 06-23 Life is a showtime. 昔は他人の日常になんて興味を持てなか った。いや、スキャンダラスな日記は面白いというのはわかる。これは賛否が 割れるだろうが、永井荷風やゴンクールや田中康夫や塩山芳明はそういった 「スキャンダラス」な書き手だろう。でも、ウェブで表現されている日記は必ずし もそんな日記ばかりではない。もちろんぼくの日記も含めて、ごく平凡なもの ばかりだ。今日、朝ごはんを食べて会社や学校に行って、こんなことをしてこん な本を読んでこんな音楽を聴いて……何だかテンプレを作れそうな、パター ンにハマった日記ばかりだ(繰り返すが、この「パターンにハマった日記」の括 りにはぼくの日記も含まれる。確実に)。でも、最近そういった日記の尊さがわ かるようになったのである。 ぼくの書けることなんて大したことじゃない。ロスジェネという 世代に生まれた人間ならではの「この年になっても小沢健二の『LIFE』やスチ ャダラパー『5TH WHEEL TO THE COACH』を聴いている」というような繰り 言ばかりだ。でも、その旨味はそんな風に頭でっかちに「退屈」と切り捨てては 済ませられないものであるように思われ始めたんだ。 そして今、ぼくはもっと色んな本を読むようになった。日記ということで言えば 阿久津隆『読書の日記』を好んで読むようになった(1000ページもある本な のだけれど、ぜんぜん飽きない)。あとはコラムなので日記とは違うけれど、でも 書き手のその時その時の真摯な生き方が見えてくる十河進『映画がなければ 生きていけない』シリーズ全6巻を2周した。桜庭一樹の『桜庭一樹読書日記』 や『東京ディストピア日記』を楽しんで読むようになり、後は『中原昌也作業日 誌』を読んだり青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読んでみたりしている。他人の 日記を読めるようになったことで他の人の読書傾向から学んで読書の幅を広 げられるようになり、「(かけがえのない)他人の人生」に少し想像力を働かせ られるようになった。 >>27 自己慰撫以上のものではないね なんか勘違いしてるな こういう人は元からこうだろう 歳を食ってポジショニングを変えただけ >>27 あ、踊る猫の人だ なんどかXでやりとりあったな 「まず書いてみる」のに向いているnote 村上裕一 yuichi murakami 2023年11月25日 それから本当に日記として書かれるある種の自閉的なテクストは見られるこ とを想定していないはずですが、それを公開のブログなどで書く場合、見ら れることを想定していないのに見られることを想定して投稿されるという矛 盾に追い込まれるはずで、他方、何か分からないが書かれるテクストという ものは見られるも見られるもないところで現れるものですから、それは誰か らも注意されていないがしかししっかり存在している匿名風の個人のような もので、であれば森の中に木か雑草を一本生やすような仕立ての場所に置か れるのが望ましいので、今のnoteはそんな感じがするような気がしました。 あらゆるジャンルの人が何かしらの文を残している感じがしますからね。 twitterでもいいのですが、twitterは短すぎる割に見つかりすぎるので、文に よって自分を曝け出す試行をするのにはそこまで適切ということではないの かなと思ったりもします。タイムスタンプを残すのには最適です。 平安時代から続く日記文学は、現代社会とは異なる価値観や思想が垣間見え、非常に興味深いと感じています。 日記文学には、公開と非公開という二つの側面が存在します。公開日記は多くの人々に読まれることを前提としたものであり、秘密めいた内容や公的な出来事などを綴ることは稀でしょう。一方、非公開日記はあくまでも自分自身のための記録であり、率直な感情や思いを吐露することができます。 このように、公開と非公開という違いによって、日記の内容や表現にも変化が生じます。公開日記は、多くの人に理解してもらえるよう、分かりやすく簡潔な文章で書かれることが多いでしょう。一方、非公開日記は、自分自身のためだけに書くため、形式や文法にとらわれず、自由に表現することができます。 日記文学において、真実と虚飾というテーマも重要な要素の一つです。日記は、その時点における作者の真実の感情や思いを記録したものと考えられます。しかし、同時に、作者の主観や記憶に基づいて書かれているため、必ずしも客観的な真実を反映しているとは限りません。 日記文学の魅力は、まさにこの真実と虚飾が織り成す複雑さにあります。作者の言葉の裏側にある真意を読み解くことで、人間の心理や社会の仕組みについて深く理解することができます。 日記文学は、現代社会においてもなお、私たちに多くの示唆を与えてくれる貴重な文学形式であると言えるでしょう。 『「アンネの日記」は嘘なのか?』 というしょーもない本を古本屋で見つけて買ってしまった >>32 平安時代から続く日記文学は、確かに現代社会とは異なる価値観や思想が垣間見え、非常に興味深く読ませていただきました。特に、公開日記と非公開日記という二つの側面における内容や表現の違いは、とても興味深いですね。 公開日記では、多くの人に読まれることを意識して、分かりやすく簡潔な文章で書かれることが多いとのこと。一方、非公開日記では、自分自身のためだけに書くため、形式や文法にとらわれず、自由に表現できるという点は、現代のSNSにおける投稿とどこか似ている部分があると感じました。 八犬伝談余 内田魯庵 殊に原本は十五、六行の蠅頭細字で認めた一年 一冊およそ百余張の半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠ら ず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。 更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジク ルような小理窟を列べてこだわる気難かし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリ しないでネチネチと際限なくごてる。ただ読んでさえ七むずかしいのに弱らせられるんだから、 あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチと トロ火で油煎されるように痛めつけられたら精も根も竭つきて節々までグタグタになってしまう と、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をし て、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋 からである。馬琴の剛愎高慢は名代のもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立った ものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえって御し易いが、些細な問題にいち いち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いび りのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。 底本の親本:「南総里見八犬伝 下」日本名著全集刊行会 1928(昭和3)年 和泉式部日記を読んだ感想は、一言で表すのは難しいです。ただ、率直に言えば、非常に感銘を受けました。和泉式部の歌は、どれも情熱的で心に響きます。また、日記には、和泉式部自身の苦悩や葛藤が赤裸々に綴られており、非常に共感できました。 無名アーティストのWildLife https://web.archive.org/web/20210126141917/http ://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/index.html read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる