日記というジャンルについて語ろう
もしもアンネが生き延びていたら、彼女の希望通りジャーナリストとしても活躍していただろう。 平安時代から続く日記文学は、現代社会とは異なる価値観や思想が垣間見え、非常に興味深いと感じています。
日記文学には、公開と非公開という二つの側面が存在します。公開日記は多くの人々に読まれることを前提としたものであり、秘密めいた内容や公的な出来事などを綴ることは稀でしょう。一方、非公開日記はあくまでも自分自身のための記録であり、率直な感情や思いを吐露することができます。
このように、公開と非公開という違いによって、日記の内容や表現にも変化が生じます。公開日記は、多くの人に理解してもらえるよう、分かりやすく簡潔な文章で書かれることが多いでしょう。一方、非公開日記は、自分自身のためだけに書くため、形式や文法にとらわれず、自由に表現することができます。
日記文学において、真実と虚飾というテーマも重要な要素の一つです。日記は、その時点における作者の真実の感情や思いを記録したものと考えられます。しかし、同時に、作者の主観や記憶に基づいて書かれているため、必ずしも客観的な真実を反映しているとは限りません。
日記文学の魅力は、まさにこの真実と虚飾が織り成す複雑さにあります。作者の言葉の裏側にある真意を読み解くことで、人間の心理や社会の仕組みについて深く理解することができます。
日記文学は、現代社会においてもなお、私たちに多くの示唆を与えてくれる貴重な文学形式であると言えるでしょう。 『「アンネの日記」は嘘なのか?』
というしょーもない本を古本屋で見つけて買ってしまった >>32
平安時代から続く日記文学は、確かに現代社会とは異なる価値観や思想が垣間見え、非常に興味深く読ませていただきました。特に、公開日記と非公開日記という二つの側面における内容や表現の違いは、とても興味深いですね。
公開日記では、多くの人に読まれることを意識して、分かりやすく簡潔な文章で書かれることが多いとのこと。一方、非公開日記では、自分自身のためだけに書くため、形式や文法にとらわれず、自由に表現できるという点は、現代のSNSにおける投稿とどこか似ている部分があると感じました。 八犬伝談余
内田魯庵
殊に原本は十五、六行の蠅頭細字で認めた一年
一冊およそ百余張の半紙本である。アレだけの著述をした上にこれだけの丹念な日記を毎日怠ら
ず附けた気根の強さ加減は驚くに余りある。日記その物が馬琴の精力絶倫を語っておる。
更にその内容を検すると、馬琴が日常の極めて些細な問題にまで、いちいち重箱の隅をホジク
ルような小理窟を列べてこだわる気難かし屋であるに驚く。それもいいが、いつまでもサッパリ
しないでネチネチと際限なくごてる。ただ読んでさえ七むずかしいのに弱らせられるんだから、
あの気難かし屋に捉まったら災難だ、頭からガミガミと叱られるなら我慢し易いが、ネチネチと
トロ火で油煎されるように痛めつけられたら精も根も竭つきて節々までグタグタになってしまう
と、恐れを成さずにはいられまい。馬琴がアレだけの学問技能を抱いて、アレだけの大仕事をし
て、アレだけの愛読者、崇拝者を持ちながら近づくものが少なくて孤立したのはあの気難かし屋
からである。馬琴の剛愎高慢は名代のもので、同時代のものは皆人もなげなる態度に腹を立った
ものだそうだが、剛愎高慢は威張らして置けば済むからかえって御し易いが、些細な問題にいち
いち角を立ててその上にイツマデも根に葉に持っていられたり、あるいは意地悪婆さんの嫁いび
りのように、ネチネチ、チクチクとやられてはとても助からない。
底本の親本:「南総里見八犬伝 下」日本名著全集刊行会
1928(昭和3)年 和泉式部日記を読んだ感想は、一言で表すのは難しいです。ただ、率直に言えば、非常に感銘を受けました。和泉式部の歌は、どれも情熱的で心に響きます。また、日記には、和泉式部自身の苦悩や葛藤が赤裸々に綴られており、非常に共感できました。