【死霊】埴谷雄高【虚空】
盟友だった大岡昇平と武田泰淳の新スレッドが立ち上がったので、
久しく存在しなかった埴谷雄高のスレッドも立ち上げる 『死霊』は肉体を生み出す現存宇宙を否定し、
未出現宇宙による虚体を夢想するユートピア小説
生物の肉体があるから殺し合ったり食ったりする
意識だけで存在すれば争いはなくなり、
平和な世界が実現するという青年の夢想 ある意味ヴィッセル首位沈んでいくけど平家の幻アイナックは? >>37
古本屋でも今なら全集揃で8万くらいなのに、どうして50万もしたんだろう 情弱で意地っ張りか
年寄りだったんだろうな
片方は冷やかしじゃねーか? >>38
>>古本屋でも今なら全集揃で8万くらいなのに、
それは全然、実態と違う。
全21冊で24000,29700,32000,32800、33000,35000,38000,39000、40000,42000,44000,49500円の例がある。
むしろ、全集21冊揃いで4万円以下が多い。
相場を上げたいあんたは古本屋だろう。
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B3%B0%E6%B7%B3%E5%85%A8%E9%9B%86 >>41
俺は埴谷豊全集を武田泰淳全集と勘違いしてしまった。
埴谷が全集を出していたとは思わなかった。
埴谷も武田も、文学者が偶像崇拝された時代に生きていた。 晩年は対談とTV、映画の出演で稼いでたイメージ。
朝比奈隆と何かイメージが被る
日本でだけ有名な巨匠 『死霊』は戦後日本文学の金字塔
翻訳不可能ゆえ未だ海外には知られぬ大作家埴谷雄高 埴谷さんの晩年の理解者で池田晶子て人がいるんだけど。1986年の二人の対談みてると
〈自同律の不快〉について、「宇宙の初めが充実と考えるか、不足と考えるかで全然違う。
初めを充実と考えることで〈自同律の愉快〉になる」て言ってる。で埴谷も同意してるんだけど。
こういうのって〈自同律の不快〉の発想を無視してると思いますね。解放を謳っていた運動が閉鎖的抑圧
に変わってる、その光景を目撃した世代の呆然があったはずだし、それこそが「永久革命者の悲哀」の
テーマだし。具体的な光景、革命運動の矛盾や反転、があってのあのA→Bのはずがいつのまにやら
A=Aにすり替わってることへの不快なわけで。そこでそういった苦渋や悲哀を無視して単なる
哲学的問答にすり替えてしまうのって。池田晶子って人のセンスの悪さ以外ではないと思うが。
またその池田に付き合って、体験から出てきた命題なのに哲学的問答、禅問答に変えてしまう
埴谷も埴谷。なんでそういう哲学的問答のつもりで出てきたわけじゃないと教えてやらないのか。
それは美人には弱いはわかるけどね。そこで自分の思想的発想を言えないなら所詮その程度の
ことかと後世の読者に思われてしまう。自分で自分の思想の意味を変えてしまって、ちょっと見て
られないんだけど。 しかもこれって、思想史からすれば、歴史や革命の概念を進化させよう
として編み出した命題について、ただの池田のような哲学愛好者の好きな哲学問答・禅問答に
引きずり下ろすという、この池田の手つき自体が思考における〈自同律の不快〉なわけでね。
池田の言うようにすれば「最初から最後まで宇宙は無限。事細かに眺めれば何も変わっていません。
エネルギー総量一定の法則!だから何も気にすることはないのです♪」
で万事解決(笑)そんな阿呆な哲学理論で埴谷の〈自同律の不快〉は〈自同律の愉快〉と一緒とか
この読み方自体がかなり不快(笑)。〈自同律の不快〉を換骨奪胎してその根元のバネを破壊してる
し埴谷の中の人間的な怒りや苦渋や悲哀も無視してる。
まあ埴谷に同情すれば、若い世代で自分の文学思想に傾倒してくれる読者しかも美人が現れて
嬉しかったんだろうし、1986年になって戦後文学の意味もなくなってきたように感じて色んな読み方
が出てくるのを止めないほうがとも思ったんだろうが。しにても池田晶子の読み替えは不快。 池田晶子は哲学者であろうとして哲学者になりきれなかった。
勉強したけれど、絶望的にセンスが無かった。
気鋭の女性哲学者のイメージ戦略が成功してメディアで持て囃された。 池田晶子て人は存在論に関心があって埴谷とも話してたが、埴谷の存在論がどこから生じたのかを
洞察してなかったと思う。なので二人は哲学史から引用して語るんだが、元々埴谷の目撃した諸々から
思想も現れてきたことを洞察しない。何を目撃して考えるようになったかが肝心なのにそこを視ない。
そこもそうだけど現実の歴史、理想、挫折。組織の規模でも個人の規模でも、あくまでも〈私〉という
現場、現実からすべて立ち上るのを軽視する。池田は〈私〉て誰?死ぬのは誰?とすべて抽象論で
纏めてさも高尚な議論をやっていると考えていた。結果埴谷と存在論について話しても
現実との接点がないあやふやな問答にしかならないことになった。池田の全盛期(笑)世界を
旅して在世の哲学者と対談する企画があった。それでガーダマーとドイツでわざわざ対談する。
『2001年哲学の旅』(新潮社)という写真多数の綺麗な本になる。まさしくこの人の立ち位置が
分かる美麗な本だけど(笑)ガーダマーはハイデッガーの弟子なのでその話になるが、ガーダマーは
池田の存在論について、しきりと「ハイデッガーが問うていたのは存在じゃない現存在。
現存在から考えられた存在です。〈私という世界において〜がある〉
の意味なので貴方の問いとは同じでない。あなたの問いはよく分からない」
と言って池田に単に存在ではなくハイデッガーが問うたのはむしろ現存在だと言ってる。
要するに生々しい生体験や経歴をおろそかにしてなかった、て言いたがっている。当然で、経歴から
〈私〉の思考も感性も世界も萌芽するんだから。加えて言えば存在論だって萌芽する。
埴谷に日本人から何でもないことで殴られてる台湾人の痛みが共有されたから大東亜共栄圏、八紘一宇
についての洞察が生まれた。それがあったから存在論にしても空論にはならない。
いつでも他人の痛みが張り付いてる。
ところが池田のほうはガーダマーに「よく分からなかったのかしら」とあたかも難解なんでしょうか
とでも言いたげな返答をする。つくづくこういう対話を読んで、
この人に付き合わなくてはならなかった人間たちの徒労を感じた。。 池田晶子はモデルもやった美人の哲学好きの人というだけで大したことはない
この人は中上健次同様40代半ばにガンで早世してしまった
中上といえば、1990年前後に会ったこともない埴谷に『十九歳の地図』の
主人公のように脅迫電話をかけたことがあって、当時埴谷がそれを文芸誌に書いた
中上は埴谷をクソミソに罵倒したが、内心では埴谷を尊敬していたのではないか
三島も大江も一目おいていた埴谷こそ戦後日本文学の陰の王であり、
中上は王殺しをして自分が王になりたかったのだろう
ある時期から彼は自作の文庫化を拒否するようになったが、
これなど埴谷がそうしていることを真似したと思える 埴谷の好きなジャイナ教だが、ジャイナ教の彫刻の肩張りと首の短さがアフリカの古代ヌビアの彫刻と共通してることを指摘しておく。 まあまあまあの津田夫人が出てくると話がわかりやすくなる
ボート転覆後の会話は面白かった
が、次の章の長大な独白で挫折して20年
キリスト受胎は精子と卵子の結合ではないだろう 『死霊』第7章でイエスと釈迦が断罪される
人類史上最も高潔な人間でも動物や植物を食わねば生きていけない
徹底的に倫理的な埴谷はここで肉体なくして意識だけで生存できる
虚体を創出するが、それが存在の革命に他ならない 動物も動物や植物食べてるし、植物は植物で動物の死体を栄養にしてる だから埴谷はすべての生命存在のあり方が間違っているといい、
それを生み出した現存宇宙をも否定する
未出現宇宙による虚体こそが理想なのだ その価値観そのものが人間の存在を前提にしてるんだから人間だけいなくなればいいんだよ >>61
実際、埴谷は子供を産むことは罪悪だとして、奥さんに3回中絶させた
書かれなかった『死霊』の結末は三輪与志と津田安寿子の心中だ 昭和の年配男性の「中で出さないと勿体ない」みたいな感覚なんだろうか
結婚しても性交渉しないか避妊すれば良さそうに思うんだが
3回中絶とかどうなんだろう 普通の感覚だと中絶の方が出産より罪悪だろう
何か言い訳っぽく聞こえる 埴谷に普通の感覚などないことはこれまでのレスを読めば分かるだろう そこが疑問なんだわ
晩年の発言読んでると意外と感覚は普通なんじゃないかと思える 埴谷は生殖についての簡単な常識や、中絶が生命を危険に晒す行為であることも認識してない、獣に過ぎん。
だからと言って、必ずしも作品を否定する理由にはならんが。 長編『死霊』短編集『虚空』『闇のなかの黒い馬』
埴谷の小説はこれだけだから制覇はやさしいな 小説は難解だが、対談は平易だから一般向きではある
読み応えと言い換えているが、要は小説を読めていないということだ 埴谷の小説は持ち上げられすぎ。
日本でだけの評価。 「死霊」は失敗作だろう。
埴谷は小説は書けないが、分析は得意な評論家。
言い換えるとメタ言説の人。
小説より対談が良い理由。 失敗作か
笑えるな
まあ、そう思ってりゃいいんじゃね 「死霊」は、そもそも小説の体を成していない。
晩年、作家自ら語る事で成り立った、メタ言説的な小説。 最近、純文学の漫画化が流行っているが
腺病質で青臭い感じが伊藤潤二の画風に合ってる気がする
ホラー映画だと偽って何処かで映画化しないだろうか
映画ならソクーロフ監督の雰囲気に近い
アレクサンドル・ソクーロフ監督「死霊」
観てみたい 埴谷には、色々と踏ん切りのつかないことがあって、それが死霊を未完のまま終わらせたんだろうが、死霊は宗教のジャイナ教とスピリチュアルの中間だろう。
今のスピリチュアル・ブームの最先端を行っていたとも言える。 &ロセンスとかの方がいい文学じゃないの。霊能者。能力者なんだよ。 こんな単純な世界構造東大はひどいな。東京海洋ならこんなことない。 >>85の引用する映画『全身小説家』初めのほうで埴谷邸に井上が弟子を引き連れて訪問。新年会を
やる場面がある。0:06:01に「1990年正月」と字幕が出る。そっから0:48:11くらいまでその埴谷を
かこんだ井上たちとの新年会の場面。最初は井上が劇団作って回る話を初めて盛り上がる。0:09:24
あたりから険悪になっていく。埴谷「それからね、あなた結婚するがいいか結婚しないがいいか。
いずれにしろお前は絶望すると。(井上と埴谷の間に座ってるメガネの青年に話しかけている。)
結婚してもお前は絶望する。結婚しなくても絶望する。」メガネの青年「絶望ってどういう意味です
かね」埴谷「絶望ってつまりね」0:09:37「(青年の後頭部を左手ではたき)やめとけ。いいかげんに
。(周囲に笑い声。埴谷も笑ってる。)お前(聞き取れず)じゃないかよ。ね!もっともらしくて。
(青年、井上を見上げながら)「でも、先生」井上「だめだよ。お前だめ。(左手で青年の後頭部を
押し下げながら。右手にグラス持ってる。埴谷笑ってる。)お前やめとけ。」この場面、弟子なんだか
よく分からないが、そこまで発言を封ずる理由が不明。せっかく埴谷が乗ってきてるところで何故青年
の発言を封ずるのか。0:09:54埴谷「お前が言ったのは」井上「やあ勉強してないもん。やあ、俺は
いつも」席の誰か「(聴き取り不明)」0:10:01別の誰か「誰が言ったんだ今」たぶんメガネの青年
「勉強しますよ俺は」井上「しますでしょ。ならいいよ。しかしね。ーしてない。ホントに勉強して
たらね。違うもの」埴谷「文学者はね、精神の勉強しなきゃダメ精神の(首がカクカク動いていかにも
老人。健康状態がみてて案じられる)」たぶんメガネの青年「先生の言うことは全部分かりますよ」
「やってくれ。分かるだけじゃなくてね、分かるだけじゃなくて実証してくれそれを。表現して
実証してくれ」 >>86続き
0:10:34メガネの青年「やりますよ。」埴谷「みんな馬鹿なんだから」井上「常にね、ずうっと、
ホントのことを喋ってきたわけ。ーつまりエゴイズムをまったく抜きにして喋ってきたわけ」青年「
はい、はい」井上「だから今日貴方を今日ここへ連れてくるわけよ。」青年「なるほど」井上「(
激高)黙ってろ!お前は。いい加減に!ショウジィ。お前だめだぞぉ!」青年「はい」井上「何だよぉ
お前!」埴谷「(諭すようにしかし独語のように)ダメとは言えない」井上「いい加減にしとけぇ」
青年「(小声で)はい」井上「(顎で外を指し)出ていけお前!」埴谷「出ていく必要ない」青年
「いや・・・」井上「いい加減にしとけぇ!」埴谷「黙ってりゃいい黙ってりゃいい」井上「いい
加減にしとけ!」埴谷「黙ってりゃいい」井上「お前もホントにいい加減にしとくぞ。」埴谷
「今日だけの問題じゃない」井上「お前、今日だ、今日だけとは言わないよ。全部言ってやろうかぁ。
埴谷「今日だけの問題じゃないからね」井上「お前行けぇ!破門するぞ。限度が過ぎるぞ。出ていけぇ
外に表に出てろ」青年「はい」井上の背後の男性「いや出ていく必要ない(呼び戻す手ぶり)」
井上、振り向いて右こぶしを男性の胸に入れる。埴谷苦笑。「何が!いい加減にしとけ!」井上、
右手を大きく振りかざし指さして外に出ろとばかりに「出せ!出せって!」井上の横の女性が井上
の右手を抑える。井上「出せ!」右手の女性にも「何がよ!」 このシーン。久しぶりに視たが、こうまでまあ言わば弟子と言ったって一般人なわけだけど、ああいう
人の発言をああまで押さえつける必要あるのかという疑問を持たざるを得ない。ぜんぜんフランクでは
ないし、あそこで埴谷が言い負かされたところで埴谷のそれまでの歴史や業績が雲散霧消するわけじゃ
なし。守りすぎだという感想が出る。ああいうふうに発言を押さえつけられ、行儀良くして、ありがた
く御説を拝聴して、それで何があるというんかさっぱりわからん。あげくにあんな何でもない返答くら
いで出ていけとか破門だとか苦笑する。埴谷も井上のああいう高飛車な、言葉を封ずる姿勢をピシャっ
と注意すればいいのに。「俺は聴きたい。止めるな。」くらい言えばいいのになにか同意してしまって
カッコ悪い(笑)こんなことしてるから戦後文学だかなんだか時代遅れと言われ、相手にされなくなった
。身内を守っていいカッコばかりしたがるから。井上のことを好きでしようがない女性がとにかく
これでもかと登場するのがこの映画の特徴だが、ま男性的魅力は認めるに吝かではないにせよ、ああい
う一般人の素直な言葉を封じる姿勢、狭量、それをしかも良いことみたいに勘違いするズレ方。ああ
いう戦後文学の本性をあからさまにしてくれたのはこの映画の功績だと思います。 井上光晴の小説は昔も今もろくに読まれない
埴谷雄高の『死霊』とは月とすっぽんだ
埴谷と井上が仲良しだったことは事実だが、
文学の評価という点ではどうでもいいこと それとあの映画視ててあそこで井上に惚れてのろけてた女性陣がいて、ま男性でも同じで「私の良い
ところを見抜いて云々。井上先生だけです。私の心を見抜いたのは」みたいな。どっか麻原尊師に
ついていった弟子の、最盛時の供述に似てるんだよね。そういう人間の弱みやコンプレックス、
自尊心に付け込んでる。そいでいつの間にか傘下にしてしまってる。まあ天才的な丸め込み方に
長けていた。それで文学伝習所を組織して全国行脚してた、ていうけど、でその小説教室の場面も
映画には出てくるけど。あの伝習所から実際にプロとか出てきたのか。井上関係でプロの作家になった
のは娘の井上荒野だけでしょう。しかも荒野は伝習所の生徒ではない。厭な言い方すれば父親の
‘教団’の組織運営を間近にみてただけの人なわけで。あとはいない。じゃ無駄だった。その無駄だった
理由も映画見てりゃわかる。やっぱりしかめつらしく井上が一々批判。あの埴谷邸での新年会での
キレ方と似たような感じで一々批判。気に食わなそうに。特に割合上手い人に対して辛そうに言ってる
。「実は左翼で挫折した主人公が、なんてことない出会いをそれっぽく書いてるだけ」とか、要するに
い方変えれば、まあ読めましたよ、てこと。とりあえずそこを言っとけばいいのに言わない。あとは
その人が書き続けてどうなるか。作風を変えるか。ヴィヴィッドな目を盛り込めるか。 とにかく上手いってわけでしょう。こんな伝習所行くだけ無駄。てかこの人には見せないほうがいい。
実際プロになった人はいない。文学伝習所って、そもそも井上の考えていた文学って何。伝習って何。
映画全体を通じて分かってくるのは、井上は経歴詐称の常習だった。しかしそれをやらなきゃ生きて
いけなかった。根本がそれであとは、自分の炭鉱体験や共産党体験もあるけど一等先にあったのは
経歴詐称を続けたってことで、彼の文学なんてものがあるならそれこそ文学だというしかない。嘘を
並べて自己を鼓舞してた(笑)しかもそれは、彼の親族だけが映画の撮影で聞かされて「井上さんは
こう言ってますが」とか。で「それは聞いたことない」が多すぎる。そればっか(笑)なぜか
関係者が、文学擁護の‘虚構’をよく使うのも井上が虚構を日常的に使うのが多かったからではないか。
で、思い通りにならぬとなれば新年会のように荒れてキレまくる。なんで埴谷はああいう男の頭を
一回こずいてやらなかったのか。不思議だ。井上の権威付けに使われてるのがだんだん分かろうに。
「あの戦後文学の巨匠。埴谷雄高さんは俺の先輩で」とばかりに。いい加減にしろと今あの映画
みてて思えてくる(笑) 井上光晴なんて二流の小説家なんてスルーすればいい
あの映画も今や見る人はほとんどいない
埴谷雄高はお人好しで自分に擦り寄ってくる人には優しかった
書評を頼まれればどれも褒めたから、そういう言動を今さら検討してもしょうがない
まあ『死霊』だけ読めばいい あの映画で印象的なのは上で描写されている場面と
もう1箇所は井上の手術の場面で、実際に腹を切って中が映ってるとこ
井上もどの場面が映画になるのか知ってただろうから、
そこまで曝け出すかという、まさに全身小説家
また嘘つきみっちゃんと陰口を言われながらも
バレそうになったら命懸けで嘘を突き通すような人間というのは
やはり称賛したくなるものを感じのだが あの宴会での意味不明なキレ方を見てて、こういう封じ方をこの連中は日常的にやってるな、という感
が非常に匂った。やれ巨匠だから、勉強してるから、お前はしてないから、まだ早いから、などと
もっともな理由をつけ、率直な対話を封じ込める。こういう封じ込めがだれだけ有害でありかつ将来的
に抑圧的なピラミッドを作る可能性があるか、埴谷が気づかないのがおかしい。自分がさんざん糾弾
してきたものであるにもかかわらず。未来の無階級社会はどうなったのか。あんなこと放置してるから
「知のスターリニズム」とか言われる素地ができあがる。仲間内の庇い合いもあそこまでいくと限度を
超えてる。井上も埴谷もダメ。同じムジナだとしか言えない。 ついでに他の戦後派?の人にも言及するが。埴谷と1980年代の論争までは肩を並べていた吉本の対談集
『対幻想【平成版】』に、映画『全身小説家』のことを喋っている箇所がある。対談集のテーマが平成
後の性の変容で、それであの映画での井上の女装やストリップの話を出してる。ああいう願望はわかる
とか。あとは伝習所の弟子との宴会が楽しそうとか、井上の外科手術をそのままうつしてて印象的で
ある。『ゆきゆきて神軍』は反則映画で迫力あったがそれに比べればそうでもなかった。
それだけをあの映画の感想で吉本が喋ってるんだけど。宴会の場面は井上も楽しそうだった、て
それだけ?と言いたくなる。あの強引な言葉封じをみて何もなしはなかろうと。ああいうところみて
たかだか酒の席での揉め事と済まさないほうがいい。むしろああいうなんでもない(というなら)
場面でその人間たちの馬脚は出るんだと言っていい。あそこは無視しないほうがいい。そのほうが
戦後派とよばれる人間たちのためにも良い。恰好な墓碑銘。精神の限界を指摘してあげることにも
なる。 小説家の評価は小説テクストのみですべきだよ、おバカさん 吉本は1971年の磯田光一との対談で、井上の小説に言及し、井上はいつまでも天皇体験や炭鉱体験、
共産党体験に固執してるが実は今はただの都会に生息するぐうたらな職業作家。ぐうたらな職業作家
であることを見ないことが見えてからはあの人の小説は読まなくなった、と言ってる。なのでもはや
あの映画の公開時には言及する価値もなくなって、辛うじて対幻想という視点から、あの中の女装の
場面が残ったということなのかもしれない。にしても《その中で唯一女装して、余興でじぶんの文学
伝習所の聴講生なんかとコンパをしているシーンは愉しそうにしています。》は事実誤認が激しい。
第一あのコンパのシーンは稀に見る封じ込め。不機嫌。かつ相槌うってるだけの素人にキレて追い出す
というむしろ狭量さが丸出しな不届き千万なシーンである。
あれに追従していることで埴谷の理念の痩せ方も哀れなくらいにあからさまになってる。 井上の見苦しい因縁つけ暴力を止める理念がない。それがあの場面の最も印象的な行き止まり感。みて
てせいぜい良心的な学校教師。但し「学生は学生らしく勉強が本分」「目上には逆らってはいけませ
ん」とかその手の古臭い観念に絡め取られていったんではないかと見えてくる。どうみても隠居した元
校長先生。かび臭い善悪や道徳から抜けれない。
ちょうど「死霊」の第1章の初めで三輪與志と矢場徹吾が公園で、尨犬の耳を引っ張っていじめている
子供を見かけ、矢場徹語が近づいて子供のうしろから両の耳を引っ張り上げ、放り投げる。狂気じみた
しかし痛快なシーンがある。あのシーンを覚えている人間からすれば、井上が青年に「外へ出ろ!」と
か師匠づらして喚いてるのにたいして「お前こそ外へ出てろ!」くらい言って、井上の耳を掴んで
引きずり出してもいいくらいなものである。「出ることない」どころじゃない。追い出さなきゃいけ
なかったのは井上の方だったんだから。自分が書いた象徴的な名場面さえ耄碌してもはや覚えてなかっ
たのか。 小説家の言動より小説テクストの評価だけすべきだ
偉大な小説はそれを書いた小説家を超えるものだから 埴谷は小説家でもあれば批評家でもある。むしろ両方読ませる。それだけの力量があった。井上の映画
に出てくる埴谷をだから惜しんでいるのだよ。こんなものじゃなかろうと。
ついでにもっと言えば、NHKの『「死霊」の世界』に出てきた埴谷は好きなワインと自己の妄想に酔いし
れて、インタビュアーがひたすら御説拝聴に回ってるのを良いことに、調子に乗ってるよいよい爺にし
か見えない。井上の、他人の相槌さえ封じ込める閉鎖性も見苦しいし、さも巨匠と大事にされて、
井上のような権威主義者によって高く祭り上げられている埴谷も埴谷。あそこで井上みたいなくだらな
い権威主義を廃棄できずにいるのが限界がみえて悲惨。 まさか映画公開の30年後にこんな見方をされているとは夢にも思わなかったろうが仕様がない。そう
見えてしまうものは どうせならここで批判されてる埴谷を擁護してくれた
ら有り難いけど。それはないわけね。 全19巻の全集の埴谷雄高、全集に収録されてないテキストもある埴谷雄高。これらを認めない摩訶不思
議な論調(笑)しかも『死霊』を論じるべきと言いながら題目だけで内容はない。意味不明。だいたい
埴谷雄高のことなど近年の10ー30代読書家でさえ読んだことがあるかも危ういし、その上の世代だって
40ー50代で読んだことある人のほうが珍しいだろう。宇多田ヒカルが読んでたのが宇多田ヒカルの読書
家ぶりが伺えて感心したぐらいだから。埴谷雄高のことをとにもかくにも話題にする読んだことのある
人で30歳未満の現代人がどれだけいるかは疑問。すでにそういう人になってしまっている。文庫本で
主要な作品は入手はできるが、しかし実際はそれさえも目に入ってない。ここの場所で話題にして
昔話をしている人間が実際は変人レベル。 しかもこんなドマイナーになって忘れ去られた作家にたいして未だに名誉だか死守せむとして頑張っ
て、場末の掲示板でさえ目を光らせている人間て何(笑)或いはそんなたいそうな話ではなくて、ただ
ついていけないだけかもしれないが。どだいしかし俺にしたところで、こういう話がなにかの足しにな
るなどと思ってるわけじゃなく、いわば年寄り昔話でしかない。誰も知らないんだから埴谷雄高のこと
など。年寄りが論ずべきテキストは『死霊』だけとかおかしいとか、その誰も読まない作家につい
てまたみみっちい視点でアプローチしてる。少しは門戸の広がる視点を持ったらどうかと言いたくなる
。恥ずかしいというか。せこいというか。埴谷雄高のような真の自由や社会を考えてきた人間の読者が
、今度は他の読者に、不自由な、せせこましい、狭量な、読み方を促している。恥ずかしいと思った
ほうがいいのだが。埴谷の読者も落ちぶれたというか。無残というか。あれが埴谷を守ることだと
思っているのか。埴谷に思うように喋らせない、馬脚を出させない先輩思いの井上光晴に似て非なる。 埴谷が狭量だと初めてチラとでも垣間見せるようになった最初はやはり1980年代前半の吉本論争。あそ
こで現状認識として、日帝のアジア侵略、日本大衆搾取、以上の意味を見てない。ことが本人の言葉で
明らかになった。にたいして日本資本主義が、アジア人をまた日本人を、搾取するは事実としても、
そこで考察を辞めるべきではない。アジアに技術を輸出、都市を建設、交通やインフラを整備。日本
ではインスタント食品の小売で大衆の生活を助ける。安く奇抜なファッションで生活を潤す。資本主義
が自然破壊をするばかりでなく、手つかずの自然よりも人間と共生できる自然に作り変えてもいる、
など。資本主義の両面を見るべきだと言った。
実際は埴谷はパチンコ好き。プロ野球好き。飲み歩きが好き。と資本主義のもつ享楽や娯楽、デカダン
を享受するタイプだったのに、なぜか吉本との論争では資本主義の悪ばかり押し出し、もう片面は
見ないという姿勢で押してしまった。この辺から埴谷の理念の痩せ方が始まっていったのではないかと
思える。 実際は吉本の方は反対に資本主義の良いところを拡大していたように今から思えば見えるし、ああいう
吉本の論を読みながら、読者は現場で疎外されて傷ついてたわけで、埴谷の正しさ
だって今となればわかる。しかし埴谷が資本主義のなかでの生存について、不幸や搾取だけしか見れな
い。そこだけは人間の心情とかけ離れていたような気が今持ってする。埴谷のほうが余裕がなくなって
いたわけだ。吉本の言い方を借りれば、〈現在〉に追い詰められていった。サブカルチュアの質によっ
て追い詰められる。それをいうなら、井上光晴が女性陣を操るのに長けた詐欺師。戦後文学の虚像を
ひたすら死守するだけの頑迷に落ち込むのも同じ背景を持ってる。一生懸命に「先生」を尊敬せよと
言い続ける。で肝心の正念場は逃げる。ごまかす。喚いて叩いて黙らせる。そうなってた。その手の
権威主義者に囲われるだけの存在になっていったのが晩年の埴谷だったんでしょう。 立川がじら
森博嗣が、埴谷雄高の『死霊』を絶賛した上で「骨格のない、蛸のような
小説」と書いていたことを思い出しました。デーモンズの『髄』も同じよ
うに、骨の髄的な、中心の繊細さそのままに骨まで生成しきらない部分を
しっかり示していて、構造のままに新たな物語をつくっていく世界の有用
さを感じました。
2019年12月14日 7月頃のレスで、映画『全身小説家』の一場面について、井上光晴と埴谷雄高
のことを延々書いているレスがあるが。途中、「小説のテキストこそ大事。テキ
ストは小説家を超える」とか半畳を入れる人もいた。そのくせ、肝心な
小説について一言も書くことはない(笑)ただ半畳を入れるだけ。ああいう半畳を
入れることで埴谷を守りたかったのか分からない。生前の晩年の理念的衰弱
を延々、井上光晴に無意味に守られるだけの「巨匠」になってしまっていた。
しかも無意味に守られている自己について無自覚で視ていられない。そういう
ことになってしまっていた。と言ってるだけだけだったのだが。
ま一番の元凶は素人の率直な感想を封じ込め、
「巨匠」を尊敬せよ、口を挟むな、と大声+暴力で封じ込める井上光晴なわけ
だけど、井上光晴みたいな権威主義の中間管理職を排除し、一般人に率直に
喋らせることが『死霊』の作者たるものの任務なのに、半ば井上光晴の
権威主義に追随する体たらく。そこを見逃さないレスだったわけで。あの毒舌の
吉本でさえ見逃した、戦後文学の最期がここ、と言ってもいい迷場面だった。
あれが実は井上光晴などが日常的にやっていたであろう権威主義の衣を
まとった口封じであり、自由の正反対である檻の萌芽であることに当人は
気づかない迷場面である。あまりに見苦しいので再三は見たくはないが、
あの映画が撮られたおかげで幸か不幸か永久に残る。あれこそ戦後文学の
理念の成れの果てだった。
あの迷場面をみてて、埴谷雄高の書いたものなど読む気ない。と言われた
ところで致し方ない。実際戦後文学の名作と言われたものなど、今や大学に
ある文学部の研究者くらいだし、読んでいる人間といえば。もちろん商品として
も売れやしないし(笑)埴谷雄高の文庫本以外で残ってる近代文学派というと
せいぜい三島由紀夫。吉本隆明くらいでしょう。あとは売れないから絶版化
してる。商品としてはもう絶滅してる。 井上光晴なんて昔も今も相手にされていない
井上が埴谷にすり寄り、左翼なら誰にも優しい埴谷が受け入れていただけ
大江や埴谷を読む人はいま少ないが、文学の価値は読者の多寡では決まらない
お前の評価などクソの役にも立たない
はよ、消え失せろ 大雑把な話にはついて行く気が起こらないんだなあ。具体的に、どの作品
のどこがどうで、だからこう言える。くらいにやってもらわないと。ただ
いたずらな貶し合いはする気はないので。非生産的だしね。
大江健三郎の小説は生き残ってる部類でしょう。ただ、彼の、故郷を舞台
にした一連の小説はどうかな。ああも同じ登場人物、同じ場所、で反復する
必要があったのか微妙に感じるけどね。いわゆる「ギー兄さん」ものね。
まあそれだけの意味があると自分では考えていた。それは分かるが。
埴谷雄高の小説まで貶めてはいない。ただ、にしては語る人いないね、と
言ってるわけで。読む価値ないとまでは私は書いてない。むしろなぜ誰も
語らないのかな訝しいと言ってる。「小説家は小説だけ論じればいい」
とか言う割にね。語らないわけだからさ。
あの体たらくでは読む気がなくなるとしても仕方ないと言ってた。埴谷雄高
が人付き合いが良いから井上光晴にも付き合ってたとしてもあの宴会の場面
はひどいね。今見返しても。井上光晴にたいし、「お前こそ出て行け。俺は
この人と喋りたい。お前こそここから出ろ」と言ってたら見直してた。
埴谷における無階級社会の理念からすれば、そう言って当然だと思うのでね。 埴谷雄高に関しちゃ、奥さんを何回も堕胎させたという事実一つで
読むに値しない作家と俺のなかでは決まっているね。
いかに高邁な思想を語ろうとも、しょせんはクズさ。 >>114
絶対に子供を作らなかった埴谷雄高こそ人間界最高の存在
こんな不完全な人類は滅びろというのが埴谷の主張
虚体こそが理想だから
まあ、今の宇宙を肯定する輩には埴谷は理解できんだろう
それでいいしな 人類滅亡を理想とした『死霊』は日本文学不滅の金字塔 岩井俊二(1963年1月24日 - )影響を受けた100のコンテンツ 2023/11/29 2023/12/05
ゴジラvsキングギドラ/メリー・ポピンズ/ミクロの決死圏/ウルトラQ/ウルトラマン
キャプテンウルトラ/ウルトラセブン/怪奇大作戦/マイティジャック/スペクトルマン
鉄腕アトム/鉄人28号/ゲゲゲの鬼太郎/昆虫物語 みなしごハッチ/樫の木モック
けろっこデメタン/新造人間キャシャーン/デビルマン/空飛ぶゆうれい船/長靴をはいた猫
ルパン三世/侍ジャイアンツ/アルプスの少女ハイジ/猿の軍団/猿の惑星
日本沈没/宇宙戦艦ヤマト/ガンバの冒険/まんが日本昔ばなし/元祖天才バカボン
機動戦士ガンダム/未来少年コナン/カリオストロの城/太陽の王子 ホルスの大冒険/さらば愛しきルパンよ
あしたのジョー2/ポセイドン・アドベンチャー/犬神家の一族/新・座頭市/警視-K
太陽にほえろ!/国盗り物語/どうする家康/徳川慶喜/花神
傷だらけの天使/俺たちの旅/青春の蹉跌/萩原健一/はなれ瞽女おりん
宇宙戦争(H・G・ウェルズ)/銀河鉄道の夜(宮沢賢治)/井上靖/人間失格(太宰治)/金閣寺(三島由紀夫)
罪と罰(ドストエフスキー)/死霊(埴谷雄高)/失われた時を求めて(マルセル・プルースト)/風/WINDLESS BLUE(風)
海風(風)/愛のバラード(大野雄二)/氷の世界(井上陽水)/松任谷由実/イエロー・マジック・オーケストラ
ムーンライダーズ/大貫妙子/ゲルニカ/A LONG VACATION(大瀧詠一)/市川崑
橋本忍/黒澤明/篠田正浩/神代辰巳/長谷川和彦
寺山修司/鈴木清順/大森一樹/市川準/森田芳光
大林宣彦/ジョージ・ロイ・ヒル/ルキノ・ヴィスコンティ/イングマール・ベルイマン/フェデリコ・フェリーニ
テレンス・マリック/天国の日々/ウィリアム・フリードキン/ポール・マザースキー/円谷英二
本多猪四郎/フランシス・フォード・コッポラ/ベルナルド・ベルトルッチ/白土三平/芥見下々
藤本タツキ/石田スイ/能條純一/田渕由美子/岩舘真理子
大島弓子 >>114
人間なんて所詮そんなもの
あまりにも高尚だと思い込み過ぎだよ 埴谷なんぞ読む時間があったらカラマーゾフを読み返した方が五千万倍有意義。 >>114
最近の若いヤツ、こういうことを主張するのが増えた
夫婦のプライバシー問題に他人は介入すべきでないのに、
堕胎や不倫を上から目線で切る倫理家ぶる、イヤなヤツ
埴谷の妻は埴谷に惚れて押しかけていった
何度堕胎を強要されても別れる気はなかった
それくらい女から惚れられる男は滅多にいない
倫理家ぶりたいヤツは女をチヤホヤしないと
付き合ってもらえない情けない男だろうな 夫婦のプライバシー問題以前の人間性の問題だろう
アホくさ 夫婦のプライバシー問題なんてのはここ数年ごちゃごちゃいわれてる程度の「流行り」の話でしかない
うっすいんだよてめーは >>126
どうせこのバカは『死霊』を完読できないヤツだろう
相手にもしたくない低偏差値w 埴谷が死霊で紹介したと言われるジャイニズムの思想だが、これは東南アジアに根を張るtheravada小乗仏教と近しい。
ジャイニズムの本国のインドではジャイニズムは仏教よりも、信者的には教養の高い層に信仰者が多いとされてる。
表向きに、日本は大乗仏教の国とされてるが、実は日本には小乗仏教もジャイニズムも入って来てたのではないかと思う。 完読w
9章の途中でバッサリ終わってんのに
偏差値もなにも大して難解なことは書かれていない
誰でも読める
7章だけは想像力が試されるが、それ以外は青春小説の範疇よ