【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
大躍進蒲田攻勢は、あたしがホームレスすけべ爺と間違えられた事件の検証がテーマでした。
次回の大躍進は、先日の話にも出てきた銀座と並ぶペコちゃんの聖地、中野です。
わが教団への入信は写真修行に最適ですから、多数の参加をお待ちしております。 チョートクって、たしかにホームレスに間違えられてもしかたがないレベル。 昼前から佃公園のベンチでワンカップ飲みながらひとりでブツブツ言ってるよ。 >ギャラリーバウハウスで私の写真家生活半世紀の活動をちょっと記念した写真展が22日から始まった。
今日は何日じゃ? 用意周到なあたしは本日ばうはうすに詰めていましたので前日に推敲した原稿を用意したわけです。
ここを見ている皆さんも偉大な写真家であるあたしの栄光の精華を実感できるいい機会ですから
ぶらパチや買い物のついでに、ぜひ神田明神の左までお越しください。 在老ワロタ
確かに煮ても焼いても食えなさそうな老人がポツンと
座っているんだろう 爺っちゃん、にわかにα7とマウントアダプターが欲しくなったんだね。
フリッカー見てるとほんと多いんだよ。阿浪に頼んで手配してもらったら? α7とマウントアダプター、信者の皆さんがCT70祝いにプレゼントしてくれるなら受け取るに吝かでない。
ヨロシク。 以前見たアメリカの作家の作品ではアメリカ人の端いろいろなショットが収録されていて、
事故現場で亡くなった人は徐々にきれいをかぶせられていて
その柿で調べ物をしている警察官の目には全部目線が入っていました。
あるいは着ぐるみを着た人が60でドライブインの呼び込みをしているのですが
その着ぐるみの動物の目にも目線が入って誰だかわからないようにしているというのは
結構皮肉でした。そういういわゆる1連のGoogleとか表面のためのカメラと言うわけです。
センセ、だいじょーぶですか? 安原一式ってコンタックスレンズ作った京セラの元社員が作ったらしいが
日本製のレンジファインダーの中でどのように評価されてるの?安原一式 バヴハウス行ってきた。
やっぱり先生は上手い。
いい写真ばっかりだったよ。 新しく発表された来館者の75ミリの明るいレンズですが絞りの値が
いっぺんに強と言うのは誤射からすれば既に1.3あるいは1.4の部類に入るのではないでしょうか。
日本工学のニッコールの50ミリF2点5かなり無理して0.1建子車の中で
読み込んだと言うクラシックなストーリーを思い出してしまいました。
ではまた明日のカメラ塾でお目にかかりましょう。
原文ママ 日カメで新東京老人を連載させてくれるんだっけ、よかったね爺っちゃん。うさぎいいね。ノーPC、ノーセルラーフォンの時代。
昔の爺っちゃんはかわいい。今の爺っちゃんは・・・やっぱりキモかわいい。 フォーカシングは非常に硬くとても普通の人間には回せません。絞りリングもどうにか回るぐらい。レンズ表面は傷だらけ。何にもわからない写真家を名乗る人です。海外からジャンク品を購入して生活費を稼ぐ人間です。 フォーカスも絞りも動かす必要がなく、更にヴィンテージな写りが楽しめる究極のスナップレンズであり、
三十数年にわたってあたしの名作を生み出した名レンズ、信者各位への下賜品です。
これの良さがわからない人は、己の眼が曇っていることを自覚・懺悔すべきなのです。 田中長徳です。Switar 50mm AR f1.8 ライカマウントアダプター付です。1981年からアルパに付けて使っていました。この10年はアダプターでライカに付けて使っています。ライカレンジファインダにフォーカシングが連動します。
このレンズは非常に優秀ですが初期の個体はこのようにコーティングの焼けがある個体が見られます。レンズの反射光を見るとぎょっとしますが撮影にはほとんど影響がないというのが私の経験です。フォーカシングもスムースです。
詐欺乙。
まあ履歴に残っているクレームみれば落札する人にかける言葉もないわな。
諭吉9人分の高い授業料。
佃島家賃の一部になるのかな。 奥のID是非公開希望!
ブラック出品者なんだろ?
ガラクタ売って、小銭稼いでって、そうとう生活困ってるんじゃね? 最近はライカにつけてるレンズも安物が多いし背に腹は代えられなのだろう。
生温かく見守ってあげよう。 >ピクセル等倍チェックを生きがいにしているあなたそれちょっと違いませんか?
ピクセル等倍の何がいけない!!! 今日のチョートクはさらにぶっ飛んでるなw
もうわざとか本気で誤変換してんのか見わけがつかん
でも内容的にはまさにおっしゃる通り
俺も加工現像が大前提の今の写真って写真じゃないと思ってたから
といってJPEGで撮ろうとは思わないけど 子犬ポーランド製のクラシックなにがんで歩を持ってワルシャワの街などをぶらぶらするのも良いでしょうね。ではまた明日のカメラ塾でお目にかかりましょう。
悪い、本当に意味がわからん。翻訳希望。 ブログを久しぶりに見たら、大道さんと今年2度目の遭遇をしたと
書かれているね。
今回は新宿で。画像3枚あり。大道さん、まだナイコンクルピクS7000使ってるんだねw 大道さん基本的に自分の求めるスペックに会えばカメラは何でもいいからね
俺もメインはスナップだからあの域まで行きたいわ レンズ沼の皆さんは沼の中にぶくぶく生息しているだけで世界を見ないと言う印象がある。そして実写テストだけで満足して後は珍しいレンズ探しと言うあらぬ方向に行ってしまうのだ。
2018年最初のブーメランだな。 デジカメ好きにもおすすめかもしれないお得情報
グーグル検索⇒『立木のボボトイテテレ』
D5I0O 都会ではB型イン振るが流行ってるので、爺っちゃん気を付けてね。 バヴハウス行ってきた。
やっぱり先生は上手い。
いい写真ばっかりだったよ。 人生気合っす!でも田中長徳さんって私よりも巨乳って感じがします。
ファットエルマー、ヘクトール73mm、ズマレックスは田中長徳さんの体型みたいでいいわ。 >>172
先生をMAX状態にしてさし上げたんですか?
テクニシャンですね。 ロシア系の業者のデカチンコボッキシタトキーと体系が似てる センセイ、風体はよれよれだが声は意外に若いな。
ひょっとしてまだ勃つんじゃないか。 バヴハウス行ってきた。
やっぱり先生は上手い。
いい写真ばっかりだったよ。 絶対に1を間違える事はありません。
この南向きは
美術手帖の迷子のトップに
でも奥さんのカメラで撮り頑張ってこのカメラの中には優秀なものもたくさんあります。
新顔レフカメラの素晴らしいのは
誰か訳してくれ CT70見に行ってきた。
受付の姉ちゃんがネガが失われて一点物なんですよと紹介してくれた
黒枠やパーフォレーションのついたのが温黒調でこってりした調子で好ましく感じた。
来週末までだから今のうちに見に行くべきだろう。 2月11日には葛飾区の立石青砥方面を皆さんと撮影しました。
去年のことか
今日の未来日記か 中華野口るっくすはF用北斗レンダーよりbokeh味が自然でいいですね。
ライカ形のレンズは1眼レフ形と違ってマウントの中まで皇軍を突っ込めるので雪渓が違うのです。
カメラ沼の主であるあたしの脳内レンジファインダーでは素晴らしい作品が見えているのです。 ドイツのガメラの見本市には笑ったが
フルサイズの画面と使っているレンズの感覚が一致するなどと言うのは若い人がそれを口にするとあこいつは受け売りだなと言うことがすぐわかってしまいます。それよりも自分はサイズにはこだわらないと言っていたほうがよっぽど写真の達人に周囲の人が誤解してくれますよ。
なかなかいいこと言うね
その通りだわ 日曜日は寂しい磊音公園で会いませう
お酒は各自持参ということでお願いします 痔が悪化してしばらく徘徊出来ないらしいが大丈夫ですか? 毎日のブログとカメラ塾を更新できるので問題ありません。あたしは何と言っても
ライカ真理教の教祖ですから、音の静かな来夏をいじるふりをしながら隠密撮影するのが得意なのです。
市役所の前で誰がkissしていようがf阿津kしていようが気づかれずに物にすることができるのですね。 尊師が市役所の前でf阿津kしていたってホントですか? それは扉脳的想像力を働かせればすぐに判ることなのです。 世界五大ライカ使い
アンリ・ブレッソン
ロバート・キャパ
木村伊兵衛
土門拳
田中長徳 今回のアクロスの生産中止で1番ショックを受けているのは
最初に写真を撮り始めたときのフイルムがレオ版消す消すであった世代の人たちです。 アローのガキと組んで、ツアコンか。生活苦しいのはわかるけど、見苦しいからやめてほしいね。 年金未払いだろうし生活苦しいのはわかるけど、見苦しいからやめてほしいね。 リアルライフ充実派であるあたしは着実に伝説の巨匠への歩みを進めているのです。
皆さんも教祖であるあたしに帰依し、下町解放軍に参加することをお勧めします。
これにより脳内ファインダーの曇りを取り去り、新たな地平に立つことが可能になるのです。 私がカメラ評論をやっていた時代はフィルムカメラの時代でしたからまだ面白かった。フイルムの時代は大きなカメラに対する小さなカメラと言うセオリーがまだあったんです。このカメラは小さいけれども山椒はひりりとと辛いみたいなカメラ評論もできました。
デジタルカメラの時代になるとそういう面白いお話はできなくなってしまったみたいです。
こりゃメーカーから相手にされない訳だわ(笑) >>197
ゲルダタローが死ぬまではライカだよ
前期の代表的な写真はほぼライカで撮ってる 爺っちゃん、最近の間宮六の作例写真は心霊写真だね。微粒子優等生の不死悪ろすが昔の写りになるのも不思議だよ。 2018年4月27日 (金)
【金賞】 田中長徳さん
<講評> 東京名所の一定番といえる御茶ノ水、聖橋から東の秋葉原を望む風景です。
暗く垂れこめた雲が東京の雑多な箱庭的パノラマ感を際立たせる効果を出しています。
近景の主役は、これも定番と言える人力開削された堀に一瞬顔を出す丸ノ内線ですが
電車の位置もどんぴしゃり好位置で作者の熟練を感じさせます。正方形フォーマットに
粗粒子高コントラストの画質も昔の新聞を思わせる封印された記憶を連想させます。
橋の西側には現在、側壁の耐震工事桟橋がありますのでこちらも絶好の被写体ですね。
この調子で頑張って下さい。 風体はアレだし、性格も歪んでるけど写真はセンスあると思うが・・・ 爺っちゃんが現像タンクからポリ瓶に液を戻してるってことは古液+新液少々、
疑似アールエス方式で使ってるってことだね。 爺っちゃんお帰り。ネガ現像の完全暗黒は何故なんだろうね。まさかlightroom装填したんじゃ?
X線だと磁気テープのプリントエコーみたいになるだろうしカメラの交戦曳きだと村になるしね。 昔の爺っちゃんはかわいいと書いたから採用してくれたんだね。 爺っちゃんはお漏らししてもいいようにパンパー巣着用中です 賢人であるあたしは人間が主役であった時代を目撃し、記録する為に越南にいます。
コンピュータが切り出した鉄骨やパネルで作られた建築群や車両は味気ないですね。
決して老バジェットで個展用の作品群を作り出す為ではありませんので悪しからず。 基本の基本
成田空港から出国するときには写真機にフィルムを装填せずに行きます。
なぜかと言えば検査官のお姉さんが足元に向けて一枚写せと仰せになるからです。
あっらー悪張ると叫んでシャッター押したら爆発するんじゃないかと怪しんでいるのですね。 誰でもできるパソコン一台でお金持ちになれるやり方
念のためにのせておきます
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8AR 愛本爺さんはあたしと同じ教祖である丈夫スさんのデザインですから作り込みがさすがです。
新しいほうの愛本シックスは性能はいいのですがぺったんこのアルミ弁当箱でいただけません。
アクアインターフェイスが窓のまねをしてフラットになったのも残念ですね。 ブックオフでふと思ったけど、
10年ほど前ってカメラスタイルが一冊まるごとバルナック特集するぐらい勢い有ったのね。
チョートクさんも熱く語っていていい感じ。
もっと早くこの趣味始めたかった。 爺っちゃん、家畜管理オリンピックにおかんむりだね。デジカメ板だとカキコないのが寂しい。 >>237
むしろ、その頃って一番フィルムカメラに元気がなかった頃じゃないかなあ 写真がうまい。
文章も上手。
ルックスも抜群。
性格も良い…
悪いとこあるの? いよいよ明日からギャラリーばうはうすであたしの個展が始まります。
越南ぶらパチの成果とプリント技術をじかに目撃できる最高の機会ですから、
ここをご覧の皆さんは例によって神田明神の左までお越しください。 神田明神の左って毎年正月にお神酒振る舞ってるところ? 左数軒だよ。こないだ逝ったけど爺っちゃん居なかった。MGFB高くなったね。 あと半月だね。爺っちゃん元気そうでなにより。ビネガーシンドロームには気を付けようね。 センセー、捻挫の具合は如何でしょうか?
まもなく要介護ですね。 ブログがココログ・ニフティから¥100有料設定のあるnote.muに移行する告知が出ているな。 なんかゴミみたいなコンテンツばかりだね。
ちゃんと仕上げて本にすれば、団塊爺が
少しは買うのに。 本にするには出版社、デザイナーと協議して商品化されるまで労力がかかるし書いてから
印税入るまで何か月もかかってしまう。信者各位は尊師へのお布施にご協力を! ブログ有料にしたり古希祝いにもらったM2もオクに出すようじゃ尊師もいよいよだね 爺っちゃんのブログ、無課金で楽しませてもらってるよ。基本的におなじみの昔話だし・・・
フィルムと印画紙に課金したほうがいいね。 信者からのお歳暮にも品質が落ちたとケチをつける始末。老害街道真っしぐら。 >>259
まあ、100円程度なら払ってもいいが、コンビニ振込にしてくれないかな。クレジット引き落としだと何か余計に取られそうだしw オリジナルプリント売ればけっこう稼げるんじゃないだろか?
一枚3000円で100枚はいけるだろ。 チョートクセンセ明けましておめでとございます。
他人の誹りは気にせずに今年もエグくガンバて稼いでくださいね。 新年早々、赤いたぬきの老人力炸裂ですがあたしは気にしていません。
津波ならぬタクシー遺忘でF2喪失ですが前進あるのみなのです。
そのうち葉月ルーペからコマーシャルのオファーがあるかもしれませんね。 爺っちゃん、フェイスブックで詐欺広告に噛み付いててワロタw チョートク先生、急に騒がしくなったフルサイズミラーレス戦争に一言よろしく。 土木工事ばっかりにお金を使って写真家の方には全然お金が回ってこない。 これは1種の偏向報道と言う意味か?嵐が2020年いっぱいで辞めると言うのでいろんなメディアがその事しか報道していない。私などはへそまがりだからその背後で政府が何かとてつもなく悪いことをしてそのニュースを隠しているような気がするのである。
大体1芸能人のバンドがもうすぐ辞めると言うことがNHKがテロップを出して流すと言うほどの一大事なのであろうか。
その嵐を私は全く知らなかった。数年前に札幌から東京に戻ってくる飛行機に若い男性の顔が並べて書かれていたのでこれはテロリストの国際手配かなと思った位のものである。 ミラーレスが欲しければ、あなたが気に入ったものを買えばそれでいいのです。
あたしは1億画素であろうが百万円のデジタルライカであろうが、ねかを写します。
ですから、あろうカメラに行くのが最良の選択ということですね。 先月の朝カメは私の写真だらけ、巻頭ヌードは凄かっただろ?私のような有名人でも
オナニーはするのだがこの前某週刊誌の若い女のグラビアの写真でオナニーした。シュッシュって感じで
いく、いく、精子が出る瞬間ページをめくった、そうしたらカルロスゴーンが出てきた
なんと最終的に私はカルロスゴーンで射精したのである。最近オマーン代表がどうのこうのアジアカップがどうのこうの
女子サッカーとかも興味ない、やっぱ体育会系女子は嫌いである。オマーン国際女子って読むと?
オマーン国際女子に興味ある人は博多カメラのゴゴー商会、広島ミッキーカメラ、岡山アサノカメラ
フラッシュバックカメラ、代官山のフォトムトリに集まるといいね
写真家 篠山紀信 参加費4000円も取るのか。浅草みたいな中国人、朝鮮人だらけの汚い場所に金払っていく
とかあり得ねえ。 overtourism決死隊、混雑に紛れたらサヨウナラだね。以前は2千円じゃなかったっけ? 4000円もあったらアロウカメラで超高級一眼レフが買えるじゃん。 4000円もあったら赤羽で三日間は吞めるじゃん 来るかどうか分からん団塊オヤジの信者から4000円取るより、
超徳が傷痍軍人の格好で雷門の脇に座ってた方が、
寄付が集まるのに… ここをご覧の皆さんもあたしの下町解放軍戦争時テト攻勢に参加しませんか?
残念ながら雪渓を拝めそうにありませんが新たな異国を発見できるかもしれません。
持参する写真機は王様ハッセルでも売るライカでも愛フォンでも何でもいいのです。 わが解放軍の快進撃を恐れる守旧派反動勢力の抵抗にあいましたが、こういう時は
蓑を身に着けて寒がるふりをしながらスパイカメラで偵察するのがいいかもしれません。
あたしは既に次回作戦に向けて転進命令を出しているのです。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合いによって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年大企業にいる人で、
なんと会社から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて、
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 ブログ終了かよ
もう金にならないことはしないんだな ※これのせいもあるのだろう。
「ココログ」全面リニューアルのお知らせ(2019/3/19)
昨年の12月にココログは15周年を迎えました。
今回、ココログはサービス開始以来で最大規模の全面リニューアルをいたします。
対象者はココログベーシック/プラス/プロ、ココログフリーと全利用者になります。
これに伴い、管理画面が利用できなくなるメンテナンスや、終了する機能、
新規に追加される機能などがありますので、ぜひご確認ください。
◇リニューアル理由 ・システムの老朽化のため ・今後もよりよい機能を提供するため
アンパンマンに主役の座を取られた尊師は寂しそうだったね。 13年継続したChotokuカメラ日記は本日よりこちらに移転しました。
note.mu/chotokucamera chotoku.cocolog-nifty.com昇天。 最近問題になっているネット上の過去アーカイヴ消失のひとコマ。 カメラ雑誌の記事1ページ書いても1-2万円だからね。
ネット媒体だと5千円でも書かせてくれるだけマシって感じだから
ブログ記事を有料化して小遣い稼ぎでもしないとスタバにすら入れない。
Photo of the Dayなんかずっと無料だが、日銭を稼がなくても食って
いけるだけのバッグボーンがあるんだろうな。 >>295
Photo of the Dayのthisistanakaはペンタックスの犬だからな パナに喧嘩売って虫の息じゃないの?
紙媒体からは完全に消えたし。 >>297
パナとマミヤに喧嘩売った時点ではまだ干されていなかった。
でも、キヤノン、ニコン、ソニーからは徐々に嫌われていったね。
オリンパが写真展をやってあげたりして好意的だったけど。
いまはリコー(ペンタ)、オリンパぐらいしか味方がいないんじゃないの。 荒川遊園地アンパンマンショーを撮影する尊師もシュールな絵だったが、
こちらも一瞬コラージュじゃないかと思った。世の中いろいろあら〜名という例だね。 長州閥が和を命令する元号発表。マスコミ狂騒も困ったもんだね 昨日新進気鋭のフォトグラファー
今日徘徊無残の呆け老人
諸行無常の響きあり monoマガジンのGR特集に大量寄稿ご苦労さまです。GR3マップカメラでぶっちぎり首位で売れまくっておます。 爺っちゃん見てる?ブローニー現像とイーゼルブレードに気をつけてね。
暗室作業する爺っちゃんの背中に哀愁を感じる今日この頃。 暗室作業、誰かにやってもらってるんじゃないんだ。まあ暇だろうし。 初回ロットはお布施ロットなので、不具合あるのはセンセーが一番ご存知です。
おそらくフジの28単XF10からいつ乗り換えようか算段中ではないかと推察しております。 今日も元気にお散歩中。
カメラはLeica IIIf、レンズはジュピター35mm F2.8 。。。 チョートク先生は中央区立図書館長の田中次賢さんの兄さんですか? >>308
マイケルケンナにしろアンセルアダムスにしろ超一流写真家はプリントのプロでもある。
どちらかといえば撮影技術よりプリントの方が比重が大きいかも知れない 長徳さん、コシナ顧問やるくらいなら、日大芸術学部で講師くらいやれば良いじゃん。講義1コマ15,000円、週1x4週で月給6万円。 チョートクさんのワークショップ、告知ページのどっこにも書いてないけど
現地行ったら参加料取られるから注意な。
別に払うのにやぶさかではないけど、どっかに書いとけよって思う。 ワークショップで小銭を稼ぐのが
最近の写真家の流行りみたいだけど、
どんだけ貧乏なんだよ!って言いたい。
下手すると生活保護の外人さんより
貧しいんじゃない? スマホに魅入られた連中ばかりになって絵画も売れないそうだから厳しいのだろう。 もっと煮込んでスマイルシャッター装備の地鶏カメラにしましょう。これでスマホに勝てるぞ そこまで晒すのは如何なものかと思います (菅官房長官風) 旅で写真を撮影することは、人生の究極の目的でないことは明らかなのだけど、それなら、視点を180度変えて、人生の目的とは何か?と質問されれば、そんな言葉に置き換えられるものでもない。
その論理から言えば、旅にカメラを持参するのは、「旅を撮影することがその目的では ないのだ」という見方も成り立つ。 오빠, 사랑해 잘 벌어주고 爺っちゃん、かわいいよ。現像リール液量は事前に計って壁に表を貼っておこうね。
例・小x1=300 小x4=1050 大x1+小x2=900 大きい益子焼は自分で計ってね。 オクに比較的珍しいレンズを出品しました。ワタシが日常的に常用してきたもののため
使用に当たってはクリーニングが必要です。入札を待っています。
頼みになるのはあなただけ。週末のnoteの日もよろしくお願いします。
O.T >>342
パナソニックのマイクロフォーサーズ一眼レフ、DMC-L1をブログで
ボロカスに叩いて、パナが激怒し、雑誌やネットメディアから干された。 素晴らしい評価ですね。
フォーカシングは非常に硬くとても普通の人間には回せません。絞りリングもどうにか回るぐらい。レンズ表面は傷だらけ。何にもわからない写真家を名乗る人です 「レンズは非常にきれいです。」と説明にありましたが、光学系はカビだらけ、
鏡筒は埃だらけの詐欺同然の商品でした。
梱包は新聞紙で適当に包んだだけで非常に危険な状態でした。
皆さん気を付けてください。 カメラ記事にはいいね!が10個近くついているが、往年の欧米有名写真家の記事には
少ししかついていない。これが今の日本の現状なのだろう。 >>346
ロバート・フランクとかリー・フリードランダーなんて、
現在の日本ではそれ誰?だろう。現在活躍の写真家の話題にしないと。 >>348
清里でロバート・フランクの特別展やっていたら、フランクが
亡くなって、追悼展になってしまった。 超得の守備範囲は故ロバート・フランク、ウィリアム・クライン、
リー・フリードランダー、デビッド・ダンカンとか、1950-1970年代に
活躍した超ロートルばかりだからね。 チョートク先生のnote、今日から無料だってよ。良心的! メーカーさんにお願いです。レビューしてほしいカメラがあったら是非ご連絡ください。
真面目なレビューをします。
だってさ。 もう提灯記事は書かないと言ってたような気がするが・・・・ ブログにこんな書き込みをされていましたww
せっかく上がってきたのに、またおボケ発生ですか❗️
どうしてこういう自分のビジネスにマイナスになるのを取り上げるのか?
あっちとこっちで言っていることが真逆ではツキがどんどん堕ちます。
まず言動を統一すべきです、あなた自身が自分を駄目にしている。
インパクトを出そうとしているのでしょうが、
この手法は絶対におやめ頂いたほうがよいと思います。
貴方は昔は狩猟をしていました、その名残ですね、
でも、この時代には毒舌は他者への攻撃とみなされ排除されるばかりです。
あなたはビート武ではありません。なにかお嫌なことがありましたか?
嫌なこと、裏切り、頓挫、などあってもここは貴方の大切な仕事場なので
ここにぶちまけてはゲロしては絶対にいけません。
私がお話をお聞きしますのでDM下さい、
私は力のない人間なのでなにもお力にはなれないかも知れませんが
ウサばなしなら幾らでもお聞きします。呑みたいのならおごります。
こうなるから毎日投稿はやめなさいと言っているのに! 尊師はたけしと同じく欧州が認めた賢人だから突っ走っていいんだよ。 皆さんもあたしが唯一無二の存在であることに気づいていただけたと思います。
ジョナスめかしてムービーを構えるのも正しい行為なのですね。
物申すのも文化衰退を憂えている爺争論でよろしいかと思うのです。 ttps://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/426711291
Ricoh GR1 プロトタイプです。このカメラで写真集やカメラの本をたくさん撮影しました。
各機能は問題なく作動しています。
来年のザルツブルグでの写真展の費用のために手放します。
最近寄る年なみで収入が減って手許不如意の状態です。
あなただけが頼りです、よろしく。
お布施と想ってnoteの購読もお願いします。
支払い、配送 わが人民は、千年来の敵である日本が強要した不幸と苦痛を永遠に忘れず、血塗られた恨みの代価を必ず払わせるであろう 爺っちゃん塩町で写真展やるんだって? 暗室作業がんばってね。 なんと言っても先立つものはゲルです。
あなただけが頼りです。
オクとnoteでのお布施を重ねておねがいします。
この際どんな超珍記事でも書きます。
メーカーさんもよろしくお願いします。 先生のお作品、川崎市民ミュージアムに所蔵されてたのかね?
地下収蔵庫浸水でキュレーターの仕事が廃棄物になるのも多いだろう。 再収蔵で思わぬ臨時収入がありました。自然の恵みに感謝です。 今回はちょっと珍しめのレンズシャッター機などを多数出品しました。
来年のザルツブルグでの写真展の費用のために惜譲します。
あなただけが頼りです。よろしくお願いします。 人生気合いっす!という感じでブログをアップしてます、世界の!世界の!有名写真家のにながわみかです
私は沢尻エリカも使って世界の!世界の!写真家になったのですがエリカは逮捕されました。
MDMA?なんか意味のわからないローマ字?私はライカMdaみたいなファインダーがついてないカメラが好き
ファインダーがない方が素敵、ミノルタMDレンズもいいわ、ついでにライカMdもいいわ
コンタックスもいいけれど、ライカもいいわ。MDMAはフラッシュバックカメラ、松本カメラ
鈴木特殊カメラ、博多ゴゴー商会には売ってないのよ、コンタックスなら神戸元町カメラがいいわ
MDMAはフラッシュバックカメラがアルかも知れないわね チョートク先生は風体はアレだが写真は上手いからなー。
今度出るパノラマ写真集楽しみ。 写っているのが旧き良き欧羅巴だからね。そこに価値があると思う 利口さんの粋な計らいで爺あ〜るさんのあたしは
レンズの中の鈴木清順監督になったのです。
良いムービーが撮れそうですね。 パノラマ写真集、限定500部だってよ。けっこうふっかけて来るんだろうな。 踏み切りを渡り始めて持っているパノラマカメラで撮影をしてそのまま踏み切りを渡り切ろうとしたらもうシグナルが鳴っているので踏み切りのちょうど真ん中あたりの中洲のところで立ち止まって待っていたら駅員さんが走ってきて赤旗を持っている。
そこは立入禁止だから引き返せと言うのである。
要するに自称写真家72歳が踏切内部に取り残されたと言う格好になった。その数日前にFacebookで読んだのであるがどこかの踏み切りでおばあさんがバケツと洗剤を持って立ち入って踏切内の何かを磨いていたら、
そこにある自動感知器が作動して列車が止まったそうである。こういうのは列車オーライ妨害罪になるのだな。 現代のカメラ世界で世界中を荒らしまわっている病がある。5大陸に関係なく猛威をふるっている。恐るべき風土病である。
この風土病に有効なワクチンというのがない。カメラ人類はその風土病にかかるとその事しか考えなくなる。したがって全世界の労働生産性が著しく低下して経済に非常に重要なダメージを与える。
その風土病はレンズフードを欲しがると言う心の病である。 >>384
爺になると、駄洒落を思いつくと人に言わなくては我慢できなくなる。 あたしの駄洒落に真実が隠されているのは皆さん良くご存じの通りですね。
レンズ風土の違いがソ連に優秀なレンズをもたらしたのです。
作品を見入るあなた、パノラマ写真集は早目のご予約が超得なのです。 パノラマ写真が面白いのは画面全体が劇場の舞台の見取り図のように見えることだ。劇場の舞台であるからどこでもすぐにドラマがそこで開始されるのである。この写真の左側を歩いている子ん子などもなかなかの俳優さんに見えるのが面白い。 ヨーロッパ行ってヘボ写真撮ってくるだけで、一流写真家になれたいい時代だったなあ いや、それは違うぞ
ヨーロッパ行ってヘボ写真撮ってくるだけで、自称写真家になれたいい時代だったなあ
が正解 富士フイルムの1億画素のデジタルカメラが人気で生産が追いつかないと言う話を聞いた。誠に奇っ怪な話である。お金持ちの中国人の旅行者が買い漁っていると言う噂話を聞いたがまさかそんな事はなかろう。
私がデジタルカメラに関して話をしたくない人はいわゆるスペックオタクである。実際に写真を撮らないで理論上で武装をしている連中のことだ。せいぜいテスト撮影と称して1枚か2枚撮ってそのまま新しいカメラの情報に浮かれているのである。 デジカメ創生期はいざ知らず
今ではほとんどウラシマ状態のチョートクさんが
新しいデジカメを論評すること自体が『間違いだらけ』と思うが・・・ 超得はR-D1を使って、デジカメを知った気になってればいいよ。 ついこの間、最新機種のD200を導入したところです 超得って、ミラーレスカメラを使って、オールドレンズの蘊蓄を
語ればいいのにね。 キャンディッドフォトはノーファインダーで
被写体に気付かれないように
気付いた時はもう切られている
木村伊兵衛
田中長徳 私の実家は昭和30年代に零細な万年筆製造業であった。その名前をスプリング万年筆と言うのである。インクに万年筆を差し込んでカチカチ音を立てて押すと自動的にスポイトの役目をしてインクが万年筆に入ると言う単純な仕組みであった。
ペン先が曲がっていてひっくり返して使うと太字が書けると言うアイディアの商品もあってこれはMagari Penと呼ばれていた。
1時は日本橋の大手の百貨店にパイロット万年筆などと並んでウインドウを出していたが昭和32年の大不況で不渡り手形を食って一緒に倒産したのである。だから私が幼年時に最初に覚えた日本語は不渡り手形であった。 >>401
超得は自分が竹内涼真だと思ってるからなw 例の富士フイルムのそれが読者が多くて20,000ページビュー以上行ったようである。最近の私の人気記事は、自称写真家72歳上池袋の踏み切りに取り残されると言うタイトルのノートであってそれでも500ページビュー位のものである。
それの40倍位のページビューがあったと言う事はスナップショットに対する世の中の興味が非常に膨らんでいると言うことだろう。 高レベルなスペックなカメラの開発競争は他にやる術がないからこれからもどんどん高性能化していくであろうがちょっと立ち止まって一息ついてもらうと言うのが1番良いと私などは考えているのだ。
しかしこういう言い方が正しくないのか一息つくと言う事はカメラメーカーの言葉で言えば競合他社に負けると言うことなのだ。
私のようなカメラ隠居が見ていて腹立たしいのは素人さんがどこからかカメラの売り上げ台数が低迷しているのをコピペしてきてそれで堂々と論陣を張っていると言うことだ。
こういう床屋談義は私が最も好まないことなのである。 最低のクオリティーのブラックペイントはライカエム通とかM3時代のブラックペイントである。1週間ですぐ剥がれちゃう。だから私のブラック仕上げのM2のことを私はボロ金ライカと呼んでいた。 私は写真がうまいだけではなく、文章もうまいのである。 私は印刷のチェックの前の日あたりから喉が痛くなって咳が出るようになった。濃厚接触であるから、これはコロナウィルスではありませんなどと周囲には説明していたのである。
しかしこの時の佃島から中野区中央までの往復はかなりきつかった。翌日から人事不省になったのである。
思うにこれは私にだけ感染するゲノム構造のパノラマカメラウィルスなのではないかと思い当たったのである。この1連の200数10点のシリーズは1995年ごろから撮影してプリントは確か2000年であった。 ソール ライターをまがいものと断じるチョートクセンセ
さすがストリートスナップの大御所 写真を撮ると言うのは孤独な作業であるから革命家が1匹にカメラが1人あれば良いのだ。イラスト写真参照。革命者はレンズフードもフィルターもつけないんですよ。
それがカメラ展示会になるとスペック原理主義の皆さんの集団ヒステリー状態になるのが問題でさらにコロコロウィルスで勢いがつくと言うのは人類破滅への一大プロセスであることには変わりがない。
エゴン・シーレもグスタフクリムトも当時のスペインのコロコロウィルスにやられてなくなっているのである。そういう身近な人が亡くなるようなメメントモリである。人類に対する警告である。
それにしても消費税でこれだけ貧乏神に搾取されているのにそれに加えて際限なくコロコロウィルスの試練を受けるとは21世紀は想像もできない素晴らしい時代だ。
まぁ大東亜戦争でアメリカに負けたんだから仕方ないね。 マックス美術批評家上がりで写真家になって周りから叩かれて苦労した人。
飯沢の場合は写真家になりたかったのが批評家になって大成功した人。
なんとかライターがまやかし者であることを知ったのはこのビデオだった。
写真家が世の中幸せにするにするなんて新興宗教じゃないんだからね。
文化村程度低いんだからそういうところでお客さんがたくさん集まるのは大成功といえます。 >>410
飯沢耕太郎って、誰でもホメホメでこっちが恥ずかしくなる。 鉄道オタクというかてっちゃんというのが私はよく理解できない。私の写真展などで鉄道が映り込んでいる写真を買ってくれる方がいらっしゃる。
そういう人に聞いてみると私は写真の中にてっちゃん的な要素が入っているのだそうである。これは問題だな。
コロコロウィルスに感染しているのであるがそれが発症していないだけと言うわけだ。仕事の関係でヨーロッパではずいぶん鉄道の写真を撮った。
ドイツの新幹線でドイツの1番西側フランス国境に近いフライブルクから延々と列車に乗ってポーランド国境に近い街まで旅行したこともある。
ベルリンではヘリコプターをチャーターしてドイツの新幹線が走っているのをポツダムからベルリンまで追跡して撮影をした。だからてっちゃんの様子は少しはあるのかもしれない。 来月の初めに私の45年前に撮影したヨーロッパのパノラマ写真が出版されるのだけれど、それはゼラチンシルバーペーパーにプリントされた写真なのである。
一方で私のノート等でよく登場する出版予定の写真をスキャンしたパノラマ写真はオリジナルプリントの複製であって手に取れないからこれは画像と言うことになる。
私は自分の仕事を新古典派主義の写真家であると認識しているから、1番力を入れているのはトラディショナルなゼラチンシルバープリントなのである。
ここが大事なところなのだが写真のその存在をコミュニケートするためにはインターネットなどでその写真のインフォメーションを画像として伝える事は非常に重要なことだと思う。
何しろ200数10点あるパノラマ写真であるがこれはエディションが1しかないのだ。 記者会見で官房長官が偉そうに品不足のマスクについて演説されるのはマイナス効果になっているのは確かである。九州のメトロの車内でマスクをしている人としていない人が口論になり非常停止ボタンを押したと言うのは1938年のナチス第3帝国と変わるところはない。
コロナウィルスは黄色い星なのである。そういうところが狂っているのである。 最近のデジタルカメラのデザインの無個性でつまらないのは今更ここに書くつもりもないけれども世の中で騒ぎになっているデジカメの中で1番私がデザインがダメだと思うのは1連の富士フイルムの製品である。
何かフィルム時代のコンタックスの国産のオートフォーカスレンジファインダカメラと共通したデザイン上の退屈さがある。おそらく同じようなデザイン関係の会社が下請けをしているのではないかと思われる。
フィルム時代のカメラのデザインが素晴らしいのはそれを100分の1秒と言う短い時間に見ただけでそのカメラの属性がわかると言うところにある。
ところが今のデジカメと言うのは刻印を見てもそれがどこのメーカーのカメラであるのかわからないというのが情けない。 ニュースの時間です。
3月の徘徊は止めましょう。
特に都内は、パフュームの東京ドーム公演で拡散されたウィルスがウヨウヨしています。
3月は自宅ひきこもりをオススメします。
首相官邸からは以上です。 まもなく写真集が出るぞ。
最後の写真集だって。
お前らちゃんとお布施しろよ。 >>417
パノラマ写真だから撮りおろしではなく、昔に撮ったものだろ。 私の仕事は報道写真では無いから撮影して何十年も経ってからそれを発表したりするのはごく普通のことである。3月にリリースされる私のパノラマ写真集もそうだ。これは50年前に撮影したものがようやく発表されるわけなのである。 あたしの患者数が600名を越えたのは嬉しい限りですが、
潜在感染者数が2万人もいるのは大きな問題ですね。
パノラミックなパンデミックの為には各個人の御協力が必要なのです。 実はクセのある個性的なレンズが好きなのである。高性能なレンズは水に例えてみれば蒸留水みたいなものでそこにうまみはない。 写真家って誰でも名乗ることができる。
写真家って職業ではない。写真家と言うのは生き方の方法なんだ。 >>421
常にF8パンフォーカスのヒトの言葉とは思えない あたしが好きなのは日射しがじかに写るようなレンズという意味です。
コロナは写りませんから問題はないのです。
高性能でも多角形のゴーストしか写らないのではつまらないですね。 50年前に思いつきで撮影したワンショットであるが半世紀も経過してしまうとそのまま日常の記録と言うことをさらに浮遊して何かフォトグラフィーのレベルに接近しているというのが写真の面白さである。 同棲時代と新婚時代は大泉学園に住んでいたから、日本デザインセンターの仕事を終えてから家人が大泉学園から電車を乗り換えてソニービルで会ったりした。
若いと言う事はそういうことであって長距離を移動することを別に何とも思ってないと言うのが若さの持っている属性と言うことなのかな。 ザルツブルグ近代美術館が所有している私のプリントも含めた企画展が今年の5月から9月まで開催されるらしい。わざわざ写真展を見に行くまでのこともない。私は半世紀仕込みの在廊嫌いなのである。
色々と言い訳をしたりいい繕ったりしたところで50年前の自分の写真家としてのルーカスは変更することなどできないからだ。 私はこのカメラを2セット持っている。ところがカタログは1枚も持っていなかった。ある時カタログとか取説とかそのカメラの修理のレポートなどを含むフルセットのカメラが出たので迷わずに手に入れたのである。
つまりカタログが欲しいために買ったらカメラのフルセットがおまけでついてきたと言う感じなのだ。 旅で写真を撮影することは、人生の究極の目的でないことは明らかなのだけど、
それなら、視点を180度変えて、人生の目的とは何か?と質問されれば、
そんな言葉に置き換えられるものでもない。
その論理から言えば、旅にカメラを持参するのは、
「旅を撮影することがその目的では ないのだ」という見方も成り立つ。
それで、旅に出る前に、東京は佃のカメラのジャングルの中で、
持参するカメラ選びにかなりの時間を費やすることになる。
言い方を変えれば、これから出かける旅を予感、予想して、
カメラとレンズを揃えることから、すでに旅が始まっているわけだ。 カメラの製造番号に固執するなどと言うのは古い人間であるが、私は古い人間だから別にそれを隠したりはしない。
最初に手に入れたニコンとか最初に買ったライカの製造番号は今でもちゃんと覚えている。ニコンカメラに関しては1番最初のレンジファインダーのニコン1型が6090001であった。
これは日本独特の天皇制を基盤にした年代の数え方で昭和15年は2600年であった。
その9年後に登場したニコンなので皇紀2609年なのであるが頭の2はカットして609と設定してこれを1番最初のニコンの製造番号に割り振ったのである。 72歳の老人であるから脳梗塞か何かでいきなり体が不自由になったのかとびっくりしたのである。それで一旦外したグリップを左側の1972年生につけるとちゃんとつくのである。
それでそのグリップを移動させようと思った1972年のモデル、つまりカメラのプレートが赤くてくまもんのシールが貼ってある方であるがこれにつけようとするとつけることができない。 逆ガリレオ方式と言うのはその名前がルネッサンスでいいですね。要するにガリレオの望遠鏡が凸レンズと凹レンズであったのを逆にしたわけである。
最もシンプルなファインダーであって、ライカM3などを使っているファインダーの初心者の皆さんに言わせるとどこまで画像が映るのかわからないと言うので不評なのである。私はこの不確かなファインダーのビューが非常に好きなのだ。 私が暮らした1970年代は私もよく歩いてウィーンではほとんど交通費は使わなかった。そしてウィーンのありとあらゆる場所のありとあらゆる大通りから路地裏まで歩いたので今でもwinの街は全部自分が認識していると言う自負がある。 クラシックカメラファンは誠に面倒な性格のじじいであると思う。それでブラックコンタックスの話に戻るのであるが時代によって少しずつバージョンが違うからそれを集めることが人生の目的になったりする。本末転倒と言う奴。
世の中のカメラ人類の私に対する批評と言うのはなんでまたあんな使いにくいカメラを好んで使うのかと言うことなのだが、私はその使いにくいと言うところが最高の使いやすさなのである。 >>390
> 富士フイルムの1億画素のデジタルカメラが人気で生産が追いつかないと言う話を聞いた。誠に奇っ怪な話である。お金持ちの中国人の旅行者が買い漁っていると言う噂話を聞いたがまさかそんな事はなかろう。
コロナで買った人がバンバン死んでるし、外出禁止で写真どころではない。
デジカメ業界は、コロナで壊滅状態。生き残る会社はアビガンの富士だけで、あとは倒産か撤退。良くて身売り。1番ヤバいのはペンタックス。次がニコンかな。 ソフトレリーズは私は結構好きな方でいろいろ持っていたが、酒の席などでカメラ人類さんにソフトレリーズを褒められるとその場で進呈してしまったりする。
結構この私の酔っ払った癖が危険なのはやはり酒の席で褒められたので私のテレビ番組を作ってくれたテレビマンユニオンのプロダクションの女性にSinnのクロノグラフを上げたこともあった。 私はずいぶん長いこと日本のJTBとかエグゼクティブマガジンのための仕事をしていたがその内容と言うのはいずれも普通の観光地に行って普通の観光地のつまらないところを面白く撮って、
ミシュランの星付きのレストランをいかにも素晴らしい場所であるように撮るのが仕事であった。写真家の仕事の限界と言うのはそういうところにあるのだ。職業写真家は視神経の幇間である。 あれだけ有名な片岡義男さんが企画を出しても没になるときは仏になるということが理解できて面白かった。編集者と言うのはそういう冷徹な一面も持っていないとダメなのだな。 印刷物と言うのは不思議な存在感があってペーパーの上にインクで擦ったものなのであるがに正義がそこに実現されていると言う感じがするのである。 今年はコロコロウィルスの影響で横浜で開催されているCP +がなくなった。非常に賢明な決断であったと思う。不特定多数の人が異常に接近してカメラに触りまくり口角泡を飛ばして、あることないこと自分の知識をひけらかすような非常に危険なデジカメのフェスティバルである。
私はコロナウィルスが登場する以前からCP+には行っていないが、考えてみれば1年おき位の方がカメラの進化を正しい動きで見ることができるから私は今回の一回休みには賛成である。 ところでのれんと言えば私には先祖が千葉県銚子の醤油製造業であったからその名残の古い暖簾がある。このとんかつののれんと同じようにいい具合に色あせているがその幅は10間近くあるのだ。 オムライスと言うと片岡義男さんを思い出す。片岡さんがオムライスが好きかどうかは知らないがオムライスの写真を撮影するのが好きなのである。だから片岡さんの街の写真集には必ず食堂のオムライスのサンプルが登場する。
私はその片岡さんのオムライスの写真を見てその当時の日本の食堂のオムライスの値段を調査したこともあった。 超得先生の「PANORAMA」写真集欲しいけどどこで売ってるんだろ? いきなりブラックコンタックス研究会を作ったのでカメラはブラックコンタックスである。レンズは3.5センチのBiogonである。フィルムは上海製の感度が100のやつ。
シャッター速度は500分の1で、速度を切り替えるのが面倒だからもっぱら絞りで対応した。このレンズは9年前にマンハッタンでも使ったやつだ。
ただし当時はマウントアダプターでライカM3についていた。それが今回はオリジナルのコンタックスに付けているので何やら大人になった気分である。
気分は1932年。まだ第3帝国もドイツで旗揚げするかしないかの時代の機材で写真がちゃんと取れる。 カメラにトラブルが起きてフィルムの巻がゆるいやつがあった。つまりそこから光が侵入したわけである。現像してみたら画面の周辺に光の惨劇が起こっていてそれはそれで気にいった。
だからその当時の作品は何も手を加えなくて実際の風景と光の惨劇が画面上で戦いをしているのをそのままプリントしたのである。
その頃から私はフイルムの光線引きというのが表現の1種なのではないかと思うようになった。レンズのゴーストはそれ以前から写真表現の1種だと考えるようになっていたのである。 こういうご時世であるから屋外でも最低1.5メーターの距離を取るようにした。ただメンバーが持ってきたカメラの集合写真の時は全員で息を止めてカメラを持ち寄って撮影をしてすぐ3メーター以上の距離をとって緊急避難した。
ウィーンに長く住んでいる私の友人がオーストリアテレビのレポーターのインタビュー現場の写真をFacebookにアップしていてびっくりしたのは、インタビューする人とされる人が5メーター位離れているのである。さすが先進国はやることが違う。 メールに慣れてしまっているからこういうペーパーの印刷物と言うのは何かありがたく感じることもある。
何か写真集もそうであって私は普通は自分のブログでいろいろ写真をアップしているのであるが紙に印刷した写真集と言うと何か気持ちが引き締まるようなというか人生のメジャーな発表の手段であると言うような感じがする。 500ミリとか1000ミリのレフレックスレンズでwinの教会の1番上にある十字架などをとっていた。 使っているうちに私の専門分野のストリートスナップショットにも使えることに気がついて買ったレトロフォーカスフレンズがこれだった。Flektogon3.5センチef 2.8である。 もっとも今大流行のコロコロウィルスなどにしてもすでにエイプリルフールのバリアを完全に超えているわけだから現実の方がエイプリルフールなどよりもはるかに進化してとんでもない状況になっているのは驚くばかりである。 それでフイルムを装填して実際使っているカメラは赤いシャッターレリーズボタンをつけている。それでないとどれがどれだか分からなくなってしまうからだ。
つまり11台のうちの1台はシャッターが壊れていて残りの10個のうちの1台だけは実際にフイルムを装填して使うコンタックスであって残りの9のコンタックスは単なる素振り用であることがわかる。
これが正しいブラックコンタックスの使い方であるかどうかは私はわからないのだけれども、一応これが私の個人的な正しいブラコンの使い方であると言うふうに閣議決定しておく。 ミモザの花が咲くと春になるのがプラハとかウィーンであって、このSudek のアトリエと言うのは写真家が亡くなった後に庭に建てられた小さなガーデンハウスなのであるがその設計図が偶然残っていたので資金を集めて再構築したものなのである。
大写真家が亡くなった後20年以上はそのまま更地になっていた。それで復活祭の頃に私はその空き地を訪れて残った石ころ等に座って目の前のプラハの地を眺めているとそこにチューリップなどが今朝咲いた風情で春の風に揺れているのである。 私が持っている数多くのクラシックカメラの革製品付属品で質が1番良いのはイタリアはローマで作られたレクタフレックスの中のレアモデル、60ユニットだけ作られたレクタフレックスローターというのがあってそれには木製の仕上げの良いガンストックがついている。
そのガンストックに付属している革製のキャリングストラップと言うのはオリジナルなのであるがこれは70年以上経過しているのであるが一昨日作られたと思うほどに皮がしなやかでピンピンしているのである。
人間の方が既にピンピンしていないわけだからそういうのを見るにつけ触るにつけ何かが癒されるような感じがするのだ。 ところが我々ライカを長年使っている人間からするとこれは人間の手のひらと指でペイントが剥がれたのではなくて人為的に加工したと言うことがわかって興ざめなのである。
そこら辺のライカ人類の気持ちをライカの会社はよくわかっていないようで10年位前にデジタルライカであると思ったが、何とか言う有名なアーティストの監修によると言うことではげはげなブラックライカを出してライカ人類の物笑いになったことがあった。
でもそういう工作されたライカを買う人は別に自分が 物笑いになっていると言う事はわからないからそこで商売がうまくいっているわけです。 私がニューヨークに1年行ったのは大昔であってすでに40年近く前なのである。それでニューヨークのマンハッタンのビルをずいぶん見て歩いてライカで撮影をしハッセルブラッドで撮影をして最後には8インチ× 10インチの大型カメラで撮影をした。
すでに崩壊して存在しないツインタワーも撮影してあるが考えてみるとニューヨークのスカイスクレーパーはグラスウォールでは無いのだ。 19世紀終わり フランスでスタートした映画産業とその1連のソフトウェアのフィルムの会社がパテフィルムである。撮影機材を作るだけではなくて映画フィルムの番組も作って世界中で席巻した。
今でもヨーロッパの古い町並みなどを歩いていると、古い映画館でパテフィルムと名乗っているところがある。会社のシンボルマークである雄鶏のサインも元気である。
なぜ会社が鶏のマークを使っているかと言うと創業者のもともとの家の商売が鶏肉レストランであったというのが面白い。 これはもともと危険品の保管所であったものだがそれが役目を終えたので不必要な文字を黒塗りにしてある。公開請求の黒塗りと言うものは嫌なものであるがブラックペイントのライカとか滝野川のモンドリアンだったら何にも問題は無い。 この画像のピスタチオはコロコロウィルスが元気になる前の昨年の年末年始に知り合いが香港に行ったときのお土産なのである。こういう木の実と言うのは酒飲みにとっては非常に重要なおつまみになるのだが、
この国は豊かすぎるのでなかなか木の実を食べると言うところにまでは行かない。それでも酒のつまみがなくなったときにしみじみこういうものを噛み締めていると幸せな気分になる。 カメラ雑誌か何かを見ていて、天才荒木がペンタックスを首から下げてカメラに向かって不機嫌な顔をしている写真があって、これはいいなと思ってペンタックスを買った。
大体天才荒木は神経質で不機嫌と言うのが普通なのである。あのHighになっている状況はあれはお芝居なのです。 私のいつも座る席は、といってもスタンディングプレースであるが店の正面から見て1番右側であった。もう使われなくなっているガスの配管が2つあってそれを握りながら立ち飲みをすると言うのが好きだった。
その習慣というものは恐ろしいもので東京スカイツリーのすぐそばにあるダークルームでも私は無意識のうちに現像のトレイの前でそこに配管されているチューブを握っていることに気がついた。
要するに立ち飲み屋であろうとダークルームであろうと同じ体の反応をそこに示しているわけだ。 あたしの下町解放軍は今月、防疫部隊になりステルス行動に移ります。
北区侵攻するはずが生物化学戦に対応した帰宅進行になるわけですね。
ステイホームでカメラを愛でるのが高度なストラテ爺というわけです。 仕事で撮影に行ったヨーロッパの画像なんかを見ていてもそれはデジタルカメラで撮ったのであるがどんなカメラで撮ったのかは完全に記憶から脱落しているのである。
デジタルカメラが記憶に残らないと言う事は大変な欠陥なのである。性能ばっかり追っかけている場合じゃありませんよ。 Facebookで私は、今や信用できるのはカメラの箱しかない。
と書いたのであるが、この間宮フレックスの箱を開けてみたら中に入っていたカメラがなかなか素晴らしいので訂正しておく。つまり
今や信用できるのは60年前のカメラの箱とその中に入っている間宮カメラである あたしはダジャレが大好きなのである。だから風土病には
こだわりがあるのである。 カメラに何かシールを貼ると言うのは私の趣味なのであるがカメラに関するシールを貼っても意味がない。カメラと無関係なシールがこの場合際立ってくるのである。この間生活に困ってネットオークションでライカM5を販売した。
これぐらいで売れればいいと言う価格で設定したのだが実際にその3倍で売れたのでありがたい。買ってくれた人はどうも中国系のバイヤーさんだったようだ。 赤瀬川さんのライカ同盟の出版記念会が銀座であったときに私は出かけていってメンバーに入れてもらいたいとお願いしてもう満員ですと言われたのである。
爆撃の激しい防空壕に遅れて行って入れてもらえなかったようなものだ。それでは命に関わると言うので偽物のライカ同盟を作った。
ソ連製のライカみたいなものである。
それで偽者ではあるがちゃんとカッコをつけようと思って会長に片岡義男さんをお願いして、坂崎幸之助さんとか東儀秀樹さんとかライカ同名の2軍と言う形でやらせてもらった。 歌舞伎座で私が本格的に興味を持つようになったのは大学生の時である。大学1年の時に結構真剣に銀座を撮影していた。そのスナップショットと言うのは50年後の今の私に連綿とつながっているのである。
だから当時は撮影に疲れると歌舞伎座に休憩に行った。いわゆる1幕だけ見ると言うやつである。 数年前に出した佃日記と言うのは限定300限定で15,000円もする趣味の本なのである。それを店長さんが手書きのPOPをつけて並べてくれたので感謝であった。こうして閉店した書店のスペースを見ていると想像以上に巨大な空間であったことがわかる。 67年前に私がパリにいるときに家人からメールがあってリバーシティ21のこの場所、我が家では佃煮ヒルズのまからん宮殿が帰ったらびっくりするような変貌であると伝えてきた。
それで東京に戻って見に行ってびっくりしたのはやたら立派な応接セットがそこに据えられていたことである。 今年はコロコロウィルス騒ぎで花見どころではなかった。私が花見をすると言うのではなくて部屋から目の下にある満開の桜に集まるお花見のカンパニーを見ると言う意味である。
大抵夜遅くまで楽しそうな声が響いているが今年はそういう声が聞こえない。日本の民草は将軍様の言うことを聞くと言うことがよくわかる。だからクーデターとか革命等は起こりようがないというのがよく理解できる。 『コロナ時代の正しい撮影術』
2020年発売予定。田中超得 レイモンドローイのデザインと言うのでカメラの歴史上に残ったと言う考え方もできる。戦後日本でこのアメリカのデザイナーの1番有名になったのは両切り煙草のピースのパッケージデザインであった。
当時の輸入タバコで憧れの的であったLucky Strikeもレイモンドローイのデザインと言うのでカメラの歴史上に残ったと言う考え方もできる。 これはメーカーのカメラ製品哲学と言うわけだが、40ミリのレンズしか出さないというのが逆にカメラ哲学がしっかりしていると言う見方をすることができる。このロード4ビーと言うカメラには、撮影中にフィルムを切断できるフィルムカッターも付いているし、
さらにスナップ用に使うフォーカシングのクリックストップも付いている。さらにそのクリックストップをオフにすることもできるというところが非常に芸が細かい。 子供の頃に日本カメラが発行していた世界のカメラと言う熱い雑誌があってそこでこのカメラに出会っていつかは欲しいものだなぁと思っていた。1何十年が経過して実物を手に入れたがそれより手に入れるのが困難だったのがそのカタログであった。
取扱説明書と言うのはこういう場合にカメラに一緒に入ってくることが多いのであるがカタログと言うのは単なる宣伝媒体なので使い捨てにされて消費されてしまうのである。 これでコロコロウィルスがさらに大反映したら阿部幕府は国民の80%の努力が足りなかったと言うのであろう。
私が責任をとれば良いと言うものではない。阿部ぴょん 私にとって銀座とニコンは切っても切れない親友関係なのである。それが銀座ニコンプラザがなくなって新宿のほうに統一されると言うのは残念至極である。
新宿のニコンプラザが私は好きでは無いのは何かタワーの上のほうにあって空気が薄いと言う印象も気のせいではあるがそういう気がするのである。 私の住んでいる佃の高層マンションも空気が薄いので、あたしの
頭の中も薄くなるのである。 でもそういういたずらはカメラに対する冒涜になるからやらない。私はライカの元祖であるUr Leicaカメラをライカの会社で周りに人がいなかったのでレンズをなめたことがある。
これはロシアンオーソドックスチャーチの聖人にそのお墓に接吻するようなものであるから尊敬であり信仰の対象なのである。しかしOEMのカメラのカバーを剥がすと言う事は量を暴くようなものだから冒涜的な行為である。 ドイツ語でNotと言うのは非常事態と言う意味である。英語だと同じ言葉は非定型に使われる。だからドイツの街を歩いて入るときに非常口はNot Ausgsngと表記されているのだが、これを英語的に考えると出口ではないと言うことになってしまう。こういうのも面白い。 だから今でもイスタンブールを見たり思い出したりするとその時の2週間ホテルで缶詰と言うことが直感的に思い出される。
今では文字原稿でも画像でもiCloudに乗っかっているから何の心配もないと言う便利な時代になったけれども逆に緊張感がなくなっている。善し悪しと言う感じだな。 一見乱雑のように見えるがそれなりに整然とした秩序がそこに存在する。天才と言うものはデスクトップが乱雑なものであると言うのはどっかで読んだことがあって。アインシュタインもジョブスも確かにデスクトップは大荒れの海原である。
でもこの写真家がもっとすごいのは立錐の余地もないほどにものが密集しているところにこの生活感がにじみ出ている。 私はパチンコも含めて賭け事は一切やらない。私の写真家としての人生が結構ワクワクするようなギャンブルだからそれが面白い。その面白さはパチンコの比ではない。 そうだね。有料課金なんてダメだ。自分の為に使ったほうがいい 東京の水路の下に停泊しているいわゆる天ぷら船はコロナウィルスのパンデミックの源だなどと言われてかわいそうである。 偽物ライカ愛好会で誰かの発案で東京湾の天ぷら船に乗って遊ぼうと言うことになったのは6/7年前だったかな?それはそれでなかなか楽しめた。 コロナウィルスがこういう状況になっているので私も皆さんも見ている現実世界は存在しない。全てがFacebook上のやりとりになっているらしい。私もおかげさまで2000人以上のお友達がいるがこの場合お友達と言うのは一体どういうものなのかと考えてしまう。
会ったこともない人がお友達なのである。もともと私は極めて社会的ではない人間なので、できることなら誰にも合わずに一生を終えたいと思っているがそんなことができるはずもない。 そのライカビットMPであるが製造番号等は刻印されていない。
ところがキャノンのラピッドワインダーはちゃんと製造番号が刻印されているのである。これは高級感からすればライカよりキャノンだな。 四谷荒木町のあろうカメラに悪の枢軸3人組と言う反社会3人組がいて、2年前に私が70歳の誕生日を祝ってくれた。天才荒木と私が激論を戦わせたことで有名なあるいは森山大道さんと会って禁止薬物をやり取りしたので思い出が深い
四谷JALホテルを会場にして会費8000円で募集したら80人以上のお客さんが来てくれた。しかもお土産で限定版の写真集を参加者に配ったのである。
この限定版写真集は私が尊敬する写真家の加納さんが編集してくれた 限定盤で100冊と言うのはちょっと類がないほどの部数が少ないので私も3冊持っているが宝物である。 ホテルの部屋に戻ってウイスキーを飲みながら緑のフィルターを見ていいなと思った。最近東京スカイツリーは何のキャンペーンであるか知らないけれども、深夜になるとタワーのトップにきれいなグリーンのライトを光らせるのである。
プラハのアトリエに30年以上住んだ記憶がもたらされた。アトリエの天窓の北側にはホテルインターナショナルと言う名前の典型的なスターリン建築のホテルがある。夜になるとそのスターリン建築のタワーの1番上に赤い星が光のである。 このレンズはゾナーの完全なコピーであるから優秀だ。ずいぶん書き古したことであるが1973年に同一条件でライカM3とキエフコンタックスコピーを使ってそれぞれ50ミリのレンズで同一条件で撮影して
それを11インチ× 14インチのバライタペーパーにプリントしてプロフェッショナルのフォトグラファーに見せたら彼はどちらがどちらか全く区別がつかなかった。ライカのレンズは10ミクロンでキエフのレンズはジュピターであった。 世の中皆さんテレワークをやりすぎて、それに飽きてやることがないとなると部屋の整理を始めるのである。それで昔の写真が発掘されるのでFacebookのタイムLINE上は子供の頃の自分の自慢写真でいっぱいになる。
それともう一つは不必要なものがたくさん出てくるので、それを今流行のメルカリあたりで出てくる。 10年位前に六本木ヒルズにすきやばし次郎ができたときに取材の関係でランチを食べに行った。野々宮と一緒に行ったのであるが寿司が15巻で1人15,000円だった。2人で30,000円のランチである。
非常に高いような気もするが逆に考えると客は私だけで店主が寿司のノーハウの秘伝について説明してくれるわけで、すきやばし次郎のワークショップだと思えば非常に安いと考えることができる。 四半世紀前にはここにタムロンの支店がJR板橋駅前にあったのだ。それで片岡義男さんとこの辺をぶらぶらして北の東京と言うタイトルで写真集を作ろうとして当時片岡さんが連載をやっていた小学館のラピタに売り込みに行った。
担当者は日本で有名な鉄道写真家の次男さんなのであるが結局企画はその人に蹴られたのである。私は感心した日本を代表する片岡義男のような作家であっても編集部は忖度せずに企画を没にするのだな。
その効果があったせいかその編集部員は今では小学館の偉い方になっているそうである。いくら親しくなって一緒に酒を飲んでも編集者は作家の情に流されてはいけないわけだ。 私のカメラは10年前に仕事で使った高千穂光学の10年落ちのデジカメであるがもちろん私の持っている中では最新型である。
当時私がやっていたブログでオリンパスが不正会計で社会的にやられていたので私はオリンパスに忖度して名前を変えて昔の高千穂光学と言う偽名で書いていたのも懐かしい。 このフードが楕円形なところが魅力なのであるが知らない人が見ると間に丸いフードが歪んでいると言う風な勘違いを起こすこともある。それでレンズフードに関する私が学んだ教訓なのであるが、カメラ本体は売ってもレンズフードは売るなと言うことなのだ。
私は同じカメラをたくさん持っているのだが何かの気の迷いで楕円形のレンズフードのついた個体を売ってしまった。 コロコロウィルスの自宅待機で皆さん昔のものを発掘していらないものはメルカリで出したりしている。それでローカルの郵便局にゆうパックの箱を買いに行ったらお客さんで混んでいて15人ほど並んでいたらしい。
15人ともメルカリのお客さんである。その他はお店は全部閉まって静かなものである。 ワールドトレードセンターも全く何も起こらない感じで普通に立っている。ツインタワーが亡くなった後に私は東京からニューヨークに向かって飛行機の中からマンハッタンのスカイラインを海外に眺めたときにツインタワーが見えないことに気がついて思わず涙が出た。
両親の葬儀等でもなかなかった私であるが反射的に涙が出たのはその大惨事に反応してと言う事はもちろんだが厳密に分析してみるとマンハッタンのよく知っている風景が殺されたと言う意味なのである。 地上から突入を捉えた写真は美しかった。未来のない美しさだ 私の実家は大昔万年筆製造業をやっていた。30年代の大不況の時に不渡り手形で潰れたのである。すぐ側に小さな印刷屋さんがあった。1枚1枚紙を手で刺すような零細な活版印刷である。
ボロボロの木造家屋の周囲におしろい花が植えてあった。そのオシロイバナの葉っぱの緑が私にとってはベーシックな記憶の中のグリーンなのである。 そのカフェはもうなくなってしまったので私はヨーロッパでプロ用の35ミリ映画撮影機を見つけるとそれを日本に持ち帰って佃島はすでに時代遅れのムービー機材レンタル屋さんのようになってしまった。
そういうことをやっているのは私だけかと思っていたらある時偶然に知り合った人がいてやはりプロ用の映画機材を集めるのが好きなのである。
その人の目下の大問題と言うのは住んでいるとこがアパートの余剰半なので木造建築の重さにプロ用機材が耐えられなくなっているらしい。 俺は実はねカメラショップよりも写真家になりたかったんだよ。
それで私はすぐにペーターに切り返した。
それはとんでもない話だペーター。フリーランスの写真家何かになるものじゃない。俺を見ろ。このザマだ。 これがフイルムカメラであればプリントを破ったりネガフィルムをハサミで切ったりすればそれで済むわけだがしまい忘れたデジカメの中に入っているメモリーを確認するというのは日常生活でまでやる事は無い。
それでこういうレアな画像に接することができるわけでありがた迷惑なのかそれともラッキーなのかよくわからない。 Facebook上で見ているとなかなか良さそうな作品である。そこで私は考えたのであるが良さそうな作品と言うのは単に沼地の写真の構図がわかっているだけなのだ。
良さそうな作品ですねと私がFacebookにアップしたら、おおたかの森写真家は今度お見せしますと言ってくれた。それはコロコロウィルスが退散した後の未来の話なのである。 中平卓馬さんがそうであるが記憶を失った後100ミリの望遠レンズ付きのキャノンの一眼レフを持ってお昼とハイライト1箱分のお金だけを家の人に渡されて撮影に出かけるのである。
中平さんがいつもランチに食べるのはスパゲティーナポリタンか生姜焼きであってそれとコーヒーと言うことになる。1970年の東京の喫茶店のランチと言うのはこの2つしか選択肢がなかったそれで値段は380円位だったのではなかろうか。 最近元気が良いのは宅配便とアマゾンとUber Eatsである。街中のあっちこっちで私が人通りのないところを歩いていてすれ違うのは例の四角い大きなリュックサックを背負ったUber Eatsのスタッフの皆さんである。
でもいろいろ噂を聞いてみると労働組合がないからアメリカ帝国主義に虐げられたりしてこれから労働組合を結成しようと言う動きがあったり大変なようだ。
時代背景は蟹工船の頃と全然変わっていない。 我が家の小鳥の歴史はライカインコ社会主義人民共和国と言って、ライカ銀行4代にわたる独裁政権であった。最後のライカ銀行が11年前に昇天したときその独裁帝国が滅亡したのである。
こういうペットロスと言うのは結構大変なものであってヨーロッパとか赤羽などに行った時に街を撮影するのと同時に私のもっと重要な任務はペットショップで小鳥を眺めてペットロスを癒すと言うことにあった。 ニコンのレンジファインダカメラで不思議なことがある。巻き戻しクランクのことである。普通の安いレンジファインダーカメラですら巻き戻しクランクの1番先にはフリーで回転するリングがはめられている。
ところが実に不思議なことだがニコンのレンジファインダにはそのリングがない。だから1日に20本も撮影すると指の皮が痛くなるのである。 東京ニコン日記は20年ほど前に出した800ページの新書版の写真集であって父親が亡くなったのと義理の母が亡くなったのを記念して西暦2000年に出版したのである。
そしてこの新書版の写真集は予告編と言うわけで映画で言うところのいわゆる本編はすぐにちゃんとしたハードカバーの本で出そうと思っていたがそのままになってしまった。次の出版はこの本を真面目に考えなければならない。 六本木ヒルズができた20年ほど前に本を出したことがあるがその際に私は手書きのイラストで六本木ヒルズが廃墟になっているところを描いた。
東京で人類が滅亡して何10世紀も経った後に他の天体からユニコーンがやってくるのである。 コロコロウィルスで外食産業が大打撃である。
店内飲食は取りやめて皆さんテイクアウトに力を入れている。個人事業主のUber Eatsは大忙しである。四谷のガラクタ屋に行く坂下にCOCO壱番館があるが「ニコニコエール弁当」300円である。
この会社は確か社長が音楽好きでストラディバリウスクラスの古い楽器を手に入れてそれを見所のある若いバイオリン奏者に貸すと言う文化運動をやっていたな。 確か早番の人だったと思うが働いている女性がいて、この女性の風貌というのがこれは何と言うのかペリカンにそっくりなのである。それで常連を気取っている我々須田さんと私にしてみると、
そのペリカンさんが今朝も元気だと何か安心するのだ。須田さんはコーヒーを口にしながら、ペリカンも元気だ. とおどけてみせた。 5月31日は木村伊兵衛先生のご命日であり私の誕生日でもある。恒例ならば文京区音羽の私の生誕場所に行って昔に思いを馳せるのであるが、今回は予想外のコロコロウィルスとさらに左足の捻挫の影響でそれは見送りとした。
一方で10年以上前のデジタルイメージをサーベイして色々と眺めているのである。この20年間ずっと私はモノクロフイルムからプリントを制作してそれを眺めていたわけだが視神経の方向がちょっとデジタル方面に移ってきているのはそれはそれで面白い。 私はオリンパスペンで育った世代であるから35ミリのフルサイズの半分のフォーマットなんてフイルムを使っている場合には使い物にならないのである。
ところがセンサーの場合はそうではなくてちゃんとした描写をするのである。これが私がマイクロフォーサーズに最初に教えられたことであった。 ところでこの楽しいお寿司屋さんと言うセットであるが聞くところによるとこれは味が甘いのだそうである。そういうものを子供に作らせて食べさせるというのは私がいつも批判している初等中等教育の最大の間違いと言うことになる。
楽しいお寿司屋さんで修行を積んだ子供が大人になって、すきやばし次郎とかああゆうところに行って聞きかじりの真似をされてはそれこそ迷惑である。 それでポーラの店舗であるがこの店が好きだったのは実は7、8年前までなのである。看板がいい具合剥がれてきて実に良い味を出していた。だから当時の私が好きだったのはポーラのお店よりも良い味が出たポーラの看板そのものだったのだ。
こういうポーラの看板と言うのは外国にはないから時々winの街並みなんかは歩いている時にみたくなるものである。 お店の人は私が差し入れに行くどっかの暴力団の親方と勘違いしたようである。こちらはお腹が減って何か食べたいのとここでしか手に入らない変わったものがあるのではないかと言うのでちょっとした買い物をした。
カレーの缶詰というのがあってそれが見たこともないブランドであってルーペで拡大したら北海道にあるメーカーのものであった。 小菅は私にとってランドマークであって、かつての東西ベルリンの壁に対するノスタルジーがここには濃厚に漂っている。
ベルリンの壁も89年の11月に消滅してしまったのであの壁の近くを延々と歩くと言う貴重な体験を追体験するために私には小菅の拘置所の綾瀬川のすぐ脇の高いコンクリートの家を歩くのが好きであった。 でも私は1人であっちこっちウロウロしているのが好きだから別に田中と言う苗字の会を作るのはできなかったけれどもそれは良いと思った。そのかわり世界の田中町と言う名前の写真集を作ろうと思ったのである。
これも馬鹿なタイトルであるが30年前にはそういうごくごく普通の写真集のタイトルがごく普通に受け入れられたのである。例えば世界の結婚式みたいなタイトルとほぼ同じである。 なんでも私の読者ですと言うのである。差額ベッドと言うのは病気が良くなる特効薬である。確か40数万円払って私は釈放された。その後順天堂のトップの先生とよく飲み歩いたりしたのである。
その先生は膠原病の専門家なので私が膠原病になったら全部直してあげますと親切で言ってくれるのであるが、私は膠原病になる予定はありませんからお気持ちだけで結構ですと申し上げた。 今回の阿倍野マスクの不祥事で会社の名前が同じなのでまさかと思っていたがKowaなどと言うのはよくある名前だから別の会社でやろうと思っていたのである。
それがある時Bougo Narsukoさんの100日で崩壊する政権を見ていたら会社のロゴマークが同じであることが判明してかなりがっかりした。要するに私の尊敬する会社は大幅に男を下げたと言うことになる。 コロナコロナと騒いでいたら今度はネットでマスクをつけているとみんな熱中症になると言うような話である。私はコロナマスク自警団が嫌いなのでマスクはつけていないが自警団に気をマスクはいっこだけでバックにしまってある。 正岡子規が描いた江戸時代の絵描きの小さな床屋さんにしても、青木が空間を描写した京都の飲み屋の陶然亭にしてもそういうものがドールハウスで再現できたらまた楽しいと思うが、これは私の好みだからあまりにもマイナーすぎて売れるはずもない。にゃん次郎 ガラクタ屋さんの常連さんは、にゃん次郎がデビューしたときに彼は童話作家でもあるので、にゃん次郎とたんぽぽのぽぽちゃんの友情物語を書いた。
にゃん次郎がコロナウィルスをやっつけると言う話である。ぽぽちゃんは白い羽になって飛んでいってしまってにゃん次郎と別れる悲劇なのであるが、
ぽぽちゃんはにゃん次郎がコロナウィルスをやっつけたと言うブレイクニュースを世界中に知らせると言う素晴らしいストーリーである。 思えば50年位前の話であるが東京にもクラシックなエレベーターが結構多数残っていた。私がニコンのカタログを撮影していた銀座8丁目のフォトスタジオもブラスでできたエントランスを開いて使うと言うクラシックなものだった。もちろんオートマチックではない。 伝統的カメラ雑誌としての教条的な教科書と言う存在がアサヒカメラの休刊になってしまうと、なんというか写真講座の戦国時代みたいなものが始まりそうで不気味な雲行きである。
私は長くお付き合いのある日本カメラのことも心配している。こーゆー雑誌は広告のお金で食っているようなものであるからこれだけ薄くなってしまうと広告収入の危険水域なのではないかと心配しているのである。 おでん屋さんと言えば昔は銀座のOtakohと言うところに行っていたが10年ほど前に福田和也さんとカメラの関係でお付き合いができてからは、銀座7丁目か何かにある老舗のおでん屋さんでよくあってそこであの写真同好会の写真を見せてもらったり審査をしたりしたのである。 30年来のレンズグルメの結果使ってみたいと思ったのが中国製のアルティザン21ミリef 1.5である。これでロバートフランクの真似をしてバスの中から撮影をしようと思った。病院に行くのに42分は時間がかかりすぎであるが、逆にリムジンをチャーターしてこれだけ中央区を行ったり来たりしてその料金が100円と言うのは破格である。 こういうバスからの風景を撮ると言う場合の私の先生はロバートフランクである。リーフリードランダーも車から撮影した良いショットは結構あるがリーフリードランダーの場合は住んでいるところがニューヨーク州の郊外のニューシティーであるから
やはり車で移動しなければならないからバスから撮影した街のエキセントリックな雰囲気と言うのはフリードランダーの場合の車からのショットにはあまり感じられない。そうなるとやはりバス写真の天才はロバートフランク先生である。 今回手放した作品は1980余年にまだ虎ノ門にあったことギャラリーインターナショナルで展示したものであった。九州のほうのコレクターが落札してくれたのであるがサインを入れようと思って金属の金属のフレームをばらそうとして大騒ぎ。なんとマイナスネジなのである。それほど昔の名作と言うわけだ。 その中には何しろ3泊4日であるから夜の撮影もあったのではあろうが8ページほど印刷に使われた写真の中には夕暮れの写真はあるが夜の写真は無い。それでズミルックス21ミリエフ1.4の実力が私には未だにわからないのである。
それでこの間のワークショップの時にその実力を試そうと思ってライカモノクロームにズミルックス21ミリエフ1.4をつけてもう一つは最近私が興味を持っている新しいレンズアルティザン21ミリエフ 1.5をつけてそのガチンコ対決をやろうと思った。 それで結論だけど、暮らしの手帖的なポイントオブビューから言うとアルティザンがベストチョイスである。でもレンズと言うのは安ければいいと言うものではない。ほぼ同じ性能ならば高いレンズの方がいいという考え方もある。何しろ世界でトップクラスの買う不満さんの会社のレンズだからね。 デジタルカメラでできる事はほとんどスマートフォンでできる時代になった。デジタルカメラはごく1部のそれを必要としているプロフェッショナルな人々のカメラと言う方向になっていくであろう。
悲惨なのは今までのデジタルカメラ特にミラーレスとか一眼レフのマーケティングと言うのはお金がある年寄りに買わせてますます彼らの要請を混乱させようと言う方針であるのがけしからんと思う。 こういう自販機に商品をサーブしていた人の話によると結構トリッキーなシステムになっているらしくて売り切れの表示が出ていても実はマシンの内部にはまだ1つ商品が残っているようである。何か販売の管理体制でそのようになってしまうのか、それとも機構上の問題なのかは知らない。 赤瀬川さんと話題になったのは言うまでもなく旧約聖書に出てくる神の怒りが通り過ぎるパスオーバーのことなのである。パスオーバーを翻訳すれば天使突抜になるわけだからこれはすごいタイトルの使命だと感心したのである。
それから十数年経って京都の会社からライカのDVDを出すときにここら辺を改めて撮影したのであるがどうも聞いてみると京都の言葉で突抜町と言うのは細い離れた2点を端に突き抜けていくと言う位の意味であってもちろんそこに旧約聖書に現れるような意味合いは全くないのだ。 エレベーターの方で思い出したのは既にもう存在しないと思うけれどもウィーンの国際郵便局にあったエレベーターはすごかった。これはドアも何もない単なる箱が止まることなく連続して動いているのである。だから乗る時はタイミングを見計らってパッと乗らなければならない。 一般に旧東ヨーロッパ体制で光の体制が1番気にしていたのはテレビの放送ではなく新聞とか雑誌の印刷物つまり紙媒体なのである。まぁコントロールが試合出と言うことがあったのかもしれない。
だからベルリンの壁が崩壊するときに私は東ベルリンの友人に頼まれて当時流行のグループABAのレコードを東ベルリンに持ち込んだこれは問題なく痛感できたが人から聞いていて西側の印刷物はダメだと言われているのでそれはジーパンの中に隠したのである。
かくして持ち込んだ雑誌は何と言う事は無い。美しい生活と言う名前のインテリア雑誌なのであるが。 オリンパスは、80年以上の歴史を持つデジタルカメラなどの映像事業を投資ファンドに売却する方針を明らかにしました。
スマートフォンの普及などで苦戦が続いていたためです。
発表によりますと、オリンパスは、デジタルカメラを中心とする映像事業を分社化し、
投資ファンドの日本産業パートナーズに売却するということです。
ことし9月末までに最終契約を結び、年内の取引完了を目指すとしています。
ペンEES−2「わたしのせいじゃありません〜!」というCMがあった。 オリンパスが消えて喜んでる人。
天皇陛下。
雅子皇后。
長徳天皇。 その軍部が発行したクレイジーな空襲対策のポスターはシリーズになっているがその1枚を見るとこれもとんでもない話で部屋の中に落ちた煙の出ている焼夷弾を男の人がしゃべるで持ち上げている。そしてそのイラストの脇のキャプションは
おりがよければ屋外に投げ出せ
何かコロナ対策のパンデミックつぶしと似たようなところがある。 この中華レストランなのであるがいつもその撮影するときのカメラアングルには苦労するのである。私が40年以上撮影していて1番ベストなカメラアングルと言うのは四條通から先斗町に入る角のところからPCニッコールの35ミリで1センチ位ライズして撮影するのがベストなアングルのようだ。
この建物の様式を調べたら私は世紀末建築と思っていたのであるが実際にはスパニッシュバロック様式と言うものだそうである。バルセロナオリンピックの前の年にずいぶんスペインのあっちこっちを旅行して仕事をしたものであるが言われてみればこういう様式の建築物がたくさんあったような気もする。 当時の2眼レフカメラの最高級機ローライフレックスに対抗して作られたのでいろいろローライト違う要素がメカニズムに盛り込まれている。そのうちで1番違うと言うのはこのコンパシャッターのシャッター速度の刻印が逆文字になっていることであろう。
ローライフレックスは普通にカメラを手に取ってシャッターは普通の文字の刻印であるが、フォクトレンダーのこのカメラは全て上から見て全部がコントロールできるような構造になっている。だから便利と言うわけでは無いのだがよほど頭の良い設計かが考えたものと思われる。 そんな50年前の昔話を参加者の皆さんにお話しした。その後この10月でなくなってしまう銀座ニコンスクエアの前で全員で記念写真を撮った。そこで解散となって私は1人で新橋方面に歩いた。コロナウィルス騒ぎがおさまってはじめてのホコ天であった。じいさんのエプソンアールディーワンにアルティザン21ミリef 1.5で夕暮れの人通りのない歩行者天国を撮影したのである。 私はマンハッタンのボスの関係でボスが中学の時の同級生が俵屋さんであったので食事は俵屋さんの座敷でとっていたのであるが夏のシーズンでも私のボスが気まぐれに川床で食事をしたいなどと言う事は皆無であった。
私などは非国民だから長く床の上に座っていることができないその意味では橋の反対側にあるスペインバロック様式の中華料理屋の方が好みに合っている。 >>544
> 10月でなくなってしまう銀座ニコンスクエア
https://capa.getnavi.jp/news/334832/
オリンパスが消滅し、ニコン銀座も消滅、コロナが終息する頃にはリコーとペンタックスも消滅しているだろう。 根本豊治当主が代々書いていた「田中玄蕃日記」が高い資料的評価を受けているようですね。銚子は全国から江戸へ繋がる水上交通の窓口で、かつ難所なので海難事故も多く、醤油業の当主は海難救助の現場を指揮したり、公的な役割を担っていました。日記に国木田独歩の父親が乗っていた龍野藩の御用船が遭難した記事があります。事後処理をしていた時に、宿の女性といい仲になって、生まれたのが独歩だったと言われています。 こういう有名なレンズをマウントアダプターにつけてデジタルカメラに使うと言うのが1番おしゃれなカメラの楽しみだと思いますが最近ではありがたいことに本当に多くの種類のクラシックレンズのマウントアダプターが登場しているので苦労しなくなりました。私の写真家としてスタートした当時にはマウントアダプター等はどこでも売っていなかったですから金属加工の製作所に図面を渡してわざわざ作ってもらったのが今昔の感ありです。 私が思うにこのレンズを絞り開放で使う面白さと言うのは何も夜の暗いところでではない。普通に日が照っている真昼の日陰の部分で絞りを解放にすると非常に現実離れした風景が取れる。今私が愛用しているというか研究中のアルティザン21ミリの明るいレンズもそうであるが、曇りの日とか夕方にストリートスナップを絞り開放でとると何か我々の視神経を超越したような不思議な光景がそこに展開するのである。キューブリックがバリーリンドンを取ったのはカールツアイスのef 0.7のレンズだったそうだがそれと似たような効果がありそうだ。 それで和久俊三先生の京都東山の豪邸にお邪魔して2泊3日でカメラ対談を試みたのである。和久俊三先生は国際関係の著名な弁護士さんでいらっしゃるから頭脳明晰である。
私は思いつきでものを話してすぐやめてしまうたちであるから最初から会話が成り立つはずもない。光文社の担当の編集者さんはこれは本にはならないと諦めてがっかりしていたらもう1人同行していたカメラジャーナルの中川編集長がその会話にならないことを強調して本にしたら面白いのではないかと言う提案があった。
それでカメラは病気と言う1冊はそーゆー背景で生まれた本である。本のカバーいわゆる腰巻は赤瀬川さんが描いてくださった。確か表紙も赤瀬川さんであった。 無料でもらえる杖であるからどうせろくでもないつえであろう。それなら自分で気に入ったものを手に入れた方が良い。カメラ選びと同じですね。それで。2日かけてヤフオクでありとあらゆるつえというかアンティークのステッキを品定めしたのである。
こういうものは趣味の品物であるから英国製のアンティーク等は100,000円近くするものもある。最初は家の近くに住んでいるかもちゃん頭の頭が握りについているのにしようと思ったがこれはどうも滑稽である。しかも値段は非常に高い。
探しているうちに九州は長崎の業者さんが出している中国製の全部ブラスで作られたグリップの部分がドラゴンであるのが目についた。歴史的なものである。 そーゆー厳しいユーザの方評価の中で最近私が注目しているのが中国製の極めて優秀なしかも同時に非常に高性能かつ価格破壊が進行しているレンズのことである。私はレンズは主に広角レンズが好きであってしかし表現者として余計なレンズの数を増やすと言う事は無い。だからこの50年に私が使ってきた自分の好きなレンズと言うのは4種類位しか存在しない。 60年代後半の世界の大きなムーブメントになったいわゆる日本語で言うところのコンポラ写真である。構図に全くこらずに画面の真ん中に馬鹿みたいにモチーフが置かれているというのがいわゆるコンパラ写真の特徴である。
要するにそこには知的な構図のバランスとかそういうのはなくて単にセンサーで画面を中央にセットしたみたいな変わり映えのしない構図というのがこの場合の表現の重要なポイントになっている。
スイスのカメラと言う雑誌で1972年ごろにその種類の退屈極まりない構図の特集をやったことがあってこれなどは私はしびれたのであった。そのタイトルはあまりよく覚えていないが確か
超陳腐主義と言うのである。
写真の美学を追っかけ回して結果として構図が陳腐になってしまうのは悲惨であるが、最初から陳腐な構図を目指していると言うことになればこれは表現として自立していると言う意味だ。 一方でFacebookでいいねをいくつもらおうとこれは都知事選挙では無いのだから基本的には何の関係もないポイントなのである。でも個人的に嬉しいのは自分の好きな写真をアップしてそれに5つ位いいねがついたときである。同行の志を持った人がいると言う感じでこれは嬉しい。
私の写真を本当に理解してくれる人はこの全世界で30人ぐらいではないかと思っているからである。 Eyemoと言うのは35ミリの映画撮影機で手持ちが可能なニュース映画によく使われていたカメラである。そこについているボシュロムのレンズなどは以前は撮影機を買うとおまけでついてきたものであるが今はレンズ単体だけで1000ドル位するようである。実にあきれ帰った次第である。 四半世紀前に250,000円もしたアウトフィットであったが結局思案した末にそれは買わなかった。でもそれから後に同じアウトフィットがたくさん登場してそれらは皆買ったので今では部屋の中でありフレックスの足の踏み場もない感じになってしまった。つまりおかず横丁とカメラ屋さんと言うのは無関係でもないと言うことなのだ。 >>554
富士フイルムのアビガンが承認されていたら、富士フイルムは天下を取れたかも知れないが、7月になっても承認されず、コロナに全く効かないと分かり、富士フイルム社員の落胆は半端なかった。
富士フイルムがオリンパスと同じ道を辿ることは容易に想像できるし、私のX-E3が不憫でならない。 26歳の時に行ったオーストリアのウィーンと言うところはまた非常に危険な街で当時はオタクと言う言葉は日本にはなかったかもしれないがwinあたりのお宅は皆電車の模型が大好きだった。
だからその筋の人には有名な模型の店がwinにはある。模型の列車に対する想いと言うのはドイツはもっとすごくて仕事でケルンの中央駅を撮影しているときに目の前に入ってきたドイツの電気機関車がメルクリンなのである。
要するに模型のメルクリンではなくてそれを等身大に拡大したメルクリンなのである。これはドイツ人の模型に対する病気の根源は深いなと安全たる思いであった。 それからしばらく経って京都のカメラ屋さんに行った時にこのカメラを手に入れたのであった。これはミノルタ16のプロトタイプと言える存在である。甲南カメラ研究所と言う所で作ったこのカメラが実際に市販されるときにミノルタ16オートマットになったのだ。関西のカメラコレクター阿波野さんの本を読んでいたらさらにその前のモデルが存在してそれは三河オートマットと言ったのだそうである。どのような違いがあるのか私は知らない。 秋葉原でマッキントッシュの買い物をしたこともあった。ステップと言う名前のお店でそれ以前は行徳から降りて徒歩15分位のところにあったのである。それが秋葉原に越してきた。一切サービスをしないお店の走りみたいなもので倉庫みたいなところにマッキントッシュの箱がうずたかく積まれていた。でもこの話も大昔であって私がパワーブックを使う前のLC 630を使っていた時代だから古典的な話である。 別に特殊なものでも何でもなくてブラック仕上げのニコンエフにレンズは2.1センチのミラーアップをして使うニッコールの超広角レンズである。特筆しなければならないのはその2.1センチの広角レンズは私が大学1年の時に使い出したその個体そのものなのだ。レンズを買うお金がないからそれを延々と使ってしまったと言う説明がここではできるであろう。 それで35ミリ付のワイドカメラの方を持っていってロバートフランクの会場に午前10時から午後4時半ぐらいまでいたのでほとんど写真は撮れなかったけれどもミュージアムの行き帰りにちょっと気に入った写真を撮ることができてそれが嬉しかった。 でも私は最初からフォクトレンダーのファンであったわけではない。いつのことであったか西武池袋店の何かの対談で赤瀬川さんと話をしているときにそれはライカの話であった記憶があるが話が一区切りしてから赤瀬川さんは私にChotokuさんは北斗レンダーに関してはどうなんですかと聞かれたとき私は返答に困った。
何の知識も持ち合わせていなかったからだ。赤瀬川さんの影響を受けて私は眠っていたフォクトレンダーの自分の引き出しを開けたのである。それから大変なことになったわけだ。 25年の間ずっとアーロンチェアに座って原稿を書いていたのである。そのうちのほとんどは佃島であるがその中の10年間は六本木ヒルズの49Fでやはり同じアーロンチェアに座っていた。この椅子は為替のトレーダーとか長い時間椅子に座っている人のために作られたものであって、よくできているのだが1週間ほど前にリクライニングをコントロールするノブが折れたのである。 フィレンツェのポンテベッキオは私が大嫌いなランドマークである。東京ねずみガーデンのネズミ海も大嫌いで行く予定等は私の一生の間にないけれども何かの画像で感心したのは偽物のポンテベッキオの方がフィレンツェの本物より立派なことであった。竜安寺の石庭のミニチュアサイズの蹴上の都ホテルの小さな庭の方が竜安寺の精神はうまく濃縮されているというのが私の考え方だ。こういうところに行くツーリストと言うのはどういう頭の構造なのかな? それで私の場合727はボーイング727と関連があると言うふうに考えているのである。1970年と言えば実に50年前のことであってその当時の我々写真家を目指す写真青年が例外なく使っていたのはブラック仕上げのニコンエフに直結式バッテリーのついたモータードライブ付きカメラであった。今でも同じものを持っているがその撮影のときの音はものすごく大きいのである。今にして思うとなんであんなものを尊敬の対象として信仰していたのかというのがちょっとわからないが時代と言うのはそういうものである。 うまく説明できませんが光景が変わっていくその直前の変貌する風景の予感を取ると言うことだな。予感等と言うものは写真では取れないのが当たり前だがそれが取れるような気分になると言うところがプリモフレックスの優れたところだと思う。 ところでそのプラハの有名なアーティストと最初に会ってインタビューをした時なのであるが彼が住んでいるアパートメントは私が30年近く住んでいたアパートメントの広場の向方なのである。それで雑談になってそのアーティストが言うには向かいのアパートメントの最上階に最近夜になると明かりがつくようになったからどなたが住んでいるのかなと思ったのですが、それはあなただったのですねと言う会話であった。 ロバートキャパのちょっとピンボケなら許せるけれど、この場合はものすごくHi Keyと言うのだから表現とかそれ以前の問題で完全にデジタルライカの操作ミスなのである。いかにautomaticな露出決定方式であっても絞りf0.95では1,000,000円のライカカメラも補正ができなくてても足も出ないと言う所なのだ。 1年ほど前の1年ほど前のFacebookに1年ほど前のFacebookに
雑誌が1年ほど前のFacebookに雑誌が企画でで困るとで困ると
写真家ので困ると写真家のカメラババッバッグバッグのバッグの中を
バックの中身をバッグの中身を、、、、
いいいいいか以下検閲以下検閲で以下検閲で削除 まだ若かった頃のロバートフランクが裸電球を見ながらストリップのフィルムをハサミで切っている写真が残っているがこれは戦後のやり方なのかな?それで戦前のライカのレンズのカートンのケースであるがこれがなかなかよくできていてフィルムを入れるにはサイズが足りないがSDメモリーを入れるのにはちょうど良い大きさである。しかもレッドであるからテーブルのジャングルの1番上に置いておけば見失うこともない。 その意味で世界で電信柱と電線のケーブルがごちゃごちゃしているところが好きなのである。中国とかもそうだしベトナムとかインドあたりが非常によろしい。このショットは先日トキワ荘マンガミュージアムに行ったときのその辺で発見したかなり貴重な物件である。 実際当時の日本のカメラメーカーは苦労したようであって、ニコンエスの交換レンズ等はレンズの後ろのほうの1番目立たないところに小さくメイドインジャパンのスタンプが押してある。もっと頭が良いのは当時のキャノンであってレンズのリアキャップにメイドインオキュパイドジャパンのスタンプが押してある。それを外せば何もわからなくなってしまうのだ。 それで服部時計店の古い写真を探し出したらまさにこの建物がそれであると言うことが分かった時は嬉しかった。興味深いのは左側にパリなんかで見られるのと同じような円筒形の巨大な広告塔があることだ。そこにマーガリンの広告が出ているというのが面白い。当時のマーガリンと言うのは戦後の子供たちの栄養失調を防止するかなり重要な物資だ。 もちろんオーストリアと言う国は、アドルフを生んだ国であるからそこら辺の話は観光局などは全く面で沙汰にしたくないのである。それともう一つは結構陰険なユダヤ人差別の不調が今でもある。シグムントフロイトは1938年にイギリスに亡命して翌年イギリスでなくなっているが、シグムントフロイトの名前をかぶせたパークと言うのは彼の死後から40年ぐらい経ってようやくwinに登場したのである。 qqマンハッタンにいるフォードのファイバーペーパーを
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オンラインでもちゃんと休みユダヤのお休み。オンラインでもちゃんと休みとった
ユダヤのお休み。オンラインでもちゃんと休みとったほうがユダヤのお休み。
オンラインでもちゃんと休みとったほうがいいユダヤのお休み。
オンラインでもちゃんと休みとったほうがいいよね でも私が1番不思議に思うのは、マスクもおしゃれ感覚でと言うようなピントが明後日方向の考え方を持っている皆さん方である。そしてそーゆーおしゃれなマスクを選んでいる自分はおしゃれさんと言う認識があるのがさらに理解できないポイントである。
私もマスク自警団の横暴に備えてマスクは1つだけ泥パックの中に入れているが幸いにして今までにマスク自警団に遭遇したことがないのは不幸中の幸いと言えるであろう。 家人カジンガNHKのカジンガNHKの音楽のカジンガ
NHKの音楽の泉で家人がNHKの音楽の泉でカジンガ
NHKの音楽の泉でオーストリアのカジンガNHKの音楽の泉で
オーストリアの国のカジンガNHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥が
家人がNHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥がカジンガ
NHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥が燕家人がNHKの音楽の泉で
オーストリアの国の鳥が燕カジンガNHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥が
燕でカジンガNHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥が燕であるとカジンガ
NHKの音楽の泉でオーストリアの国の鳥が燕であると言う家人がNHKの音楽の泉で
オーストリアの国の鳥が燕であると言う 私が感心したのはしかしこの在日米軍進駐軍のロバートキャパさんがなかなかいい子神経を持っていると言う点にある。普通は進駐軍であれば基地の中の風景とかそういうものを取るのが普通であるがこの撮影者は非常にフレキシブルな目で占領された直後の日本の状況を撮影していると言う意味で貴重である。その視神経のクラスはロバートキャパと比べても良いと思う。 毎回感心するのは東華菜館でのお店の人のサービスというのが1980年代の中国のトラディショナルなレストランでのサービスを思い出させることにある。原因は何がそうさせているのがわからないが良い感じである。 それとミラーレスのニコンにノクトニッコールを手に取ってみると別に大きいとか思いとか言う印象は全然なかった。それには理由があって私がよくカメラ本で書いていることなのであるがカメラにレンズがついたものを手に取っておくと重いと感じるが、いざ撮影する段階になってカメラを構えた瞬間にそのカメラの重さとボリュームと言うのは実は自分の肉体の1部になるのである。 一方でモノクロームのゼラチンシルバープリントで味があると言うのは完全なブラックの画像の色合いではなくて時代が経過するとそれがなんとなく退色してくるところにある。ニューヨークの近代美術館のコレクションを1年かけてたくさんたくさん見たのであるがもちろんアーカイバルスタンダードを外れてしまってオリジナルプリントが徐々に変色しているプリントなども見た。一般的にはこれは処理が悪いと言うことになってしまうのであろうが私の個人的な観察からすると実はそこに変色した美学があるようなのである。 ソ連製のジュピター50ミリの話に戻るがこれは完全なカールツアイスのゾナーのコピーなのである。でも最近作られたものだから性能は向上しているしコーティングもちゃんとしている。しかもプラハあたりで買うと値段がないのも同じで寄付を買えばボディーキャップの代わりについてくると言う感じなのだ。だからこういうレンズは何本あってもよろしい。 人間と言うのは不必要なものには大金を投じると言うことがジュネーブとバーゼルに行くとよくわかってそれが痛快であった。 私の持っているヴィンテージプリントは数は多くないが時々持ち出して自分が何を撮影したのかを確認することにしている。83平方メーターの狭い住まいでは無理だからマンションの1階にある広いロビーでプリントを広げて確認する。これが非常にプラスの効果を生んでいるのである。写真を見るというのはギャラリーにしてもそうだがある程度広い空間を必要とするのである。紙芝居のようにプリントを順繰り順繰りに見ていくのでは前後関係がわからなくなってしまう。前後関係のわからないと言う事は大した事ではないと思うかもしれないがそれは写真の事空間の広がりを殺してしまうことになるのだ。 しかし最近の50ミリ検討の明るいレンズは揃いも揃ってどうしてこんなに大きいのかが謎である。大昔は高専追跡を算盤と上戸鉛筆でやってレンズを設計していたから良かったのであろうか?最近の光線追跡は高度な電子計算機が行うからレンズの大きさ等は全然関係なく設計していたら結果としてこうなった。ライカのほうはレンジファインダーであるがニコンのほうはミラーレスであるからファインダーで画像をチェックすることができる。ライカM10Pでも画像はEVFチェックできるのであるが何かそういうピントの設定の仕方はオスカーバルナックに不義理を働いているように思えるのである。 私が最後に紙芝居を見たのは1966年の夏だった。大学1年の時で日大の写真学科1年の私は佃島に撮影に行ったのである。カメラはミラーアップしたニコンエフのブラックでニッコール2.1センチがついていた。佃小橋のたもとで紙芝居屋さんが営業していたのでそれを接近して撮影したのである。私のようなオールドボーイは紙芝居のプログラムは黄金バットでなくてはならないのであるがその時は別のタイトルであった。そのタイトルを覚えていると言うのは結構凄い記憶力だ。 この白いカメラはソ連のコスモノートの計画で日本の秋山さんが宇宙船に持ち込んだと言うカメラである。当時のスペースカメラの色には2種類あって1つはニコンのマットブラックタイプ。そしてもう一つはこのようなホワイトのタイプだった。どちらが宇宙に強いのかわからないがスペース空間で使っているのではなくて宇宙船の内部で撮影するのだかしフイルムを装填するには最も楽ちんである。この間ガラクタ屋さんの主催で東京の首都高爆走する2階建てバスツアーがあってその時にこれを持参した。1本ほどフィルムを取ったのであるが快適であった。しかしまだ現像していないので果たして写っているのが映っていないのかそれがわからないわからない。 清水寺のことで私が唯一認めるのはその空間構造である。何と言うのか古い材木で作られたゴシック建築と言う感じがするのである。あれだけ足場の急なところによくカテドラルを作れたものだと思う。 そのまま何十年か佃島に保管されていてついこの間それが発見されたわけである。まい泉のマークは時代によって変貌しているからこのマークをチェックすればいつ頃のまい泉であるかはわかるがそれをやるまでもない。ペンタゴン人民公社はそれまでのカールツアイスから名前を変えたのが1950年であるからだ。実用品としての灰皿と言うよりも工芸品としての存在感が際立っているのはやはりその出身がまい泉であるからであろうか? それと私がペンタックスにしびれたのは天才荒木がLXを首から下げてカメラのほうに向けて怖い顔をしているポートレートがあってそれもよかった。1960年代のデザイナーとかカメラマンと言うような形かな職業はそれが東京の人になるともっと強調されるのであるが東京の人はシャイだからすぐにカメラを睨みつけたりする愚行に出るのである。だから私も東京の人間だから天才荒木の真似をしてペンタックスLX大首から下げてカメラに向かって怖い顔をしようと思ったのであるが中古になってもなかなか買えないので十数年が経過した。 私が生まれ育ったのは文京区の音羽と言うまず東京では中心ではないがかなり中心に近い地域であった。そこで昭和20年代の後半にはやはりこのように牛が主要な交通機関として使われていた。交通機関と言うよりも運搬のための方法なのである。だから子供の時の音羽通りと言うのは時々路面電車が走って、思い出したように進駐軍のトラックが走って個人の乗用車等は0であった。そこを牛車がゆらゆら通。 それでかわいそうなウィリアムクラインはライカからスポンサーシップを受けることになってニコン使いであることをやめてしまったのは本当に残念である。
このニコンS3はそういう意味で私が尊敬しているカメラなのだ。私の人生の最後の日までスナップショットを撮り続けるカメラなのである。 西大の写真学科に入るようになって当時の砂漠は生きているのテクニックを調べたらこれは16ミリのスペシャルCine Kodakで撮影されているのである。フィルムストックはコダクロームであってそれからダイレクトに35ミリにブローアップしたと言う映画だった。結構江泊が良いのでさすがだなと思った。ドキュメンタリーの撮影であるから35ミリフィルムよりも16ミリフィルムの方が小型軽量だし便利である事は言うまでもない。 当時のアメリカ製の食品と言うものは闇市でしか流通していなかったので永井荷風などは出版関係者からもらったアメリカ製の缶詰などを食べていてその空き缶の処理に頭を悩ませていたそうだ。だから外人さんからダイレクトにもらうチョコレートと言うのはまさにほんま物のODAと言うわけだ。 ^_^ここら辺の基本的な商業の取引に関する考え方は面白い。例えばブティックで洋服がたくさんぶら下がっていてそこに服についているのは1種のプラスチックのカプセルなのである。そのカプセルを万引きして無理に外そうとするとそのカプセルが破れて腹は台無しになってしまうような一瞬の自爆攻撃みたいなプロテクションである。 パノラマカメラの凄いところはここなのである。パノラマカメラと言うのはどこに立つかと言う事だけがポイントであってそこから画像をどう切り取るかと言うような低次元な人間の美学に関する欲望は最初からシャットアウトしている。そこが素晴らしい。
Sudekは写真の美学構図に関してはヨーロッパのトップクラスの写真家であるが戦後すぐにパノラマカメラに出会って彼の写真論が根本的に変わったのである。それはいわゆる写真を切り取って構図で見せると言うピクトリアリズムなやり方は無効になったと言う意味だ。 20世紀全般の報道写真家のスタンダードな機材がこれであった。写真家ではアルフレッドスティグリッツ、ポールストランドも同じカメラを使っている。このカメラで1番有名なシリーズはスティーグリッツが雲の光景を撮影したのが有名である。それと5番街の鉄道馬車の終点を撮影したターミナルと言う名作とか、ブラインドと言うタイトルで盲の女の人を至近距離から撮影したものもある。スティグリッツは結構シャイであったようでその撮影には横向きのミラーアダプターを使ったそうである。人の顔1メーターから接写するのだからまともにカメラを向けるのは失礼だと言う考えであったのだろう。 Alfred Stieglitz was just timid. ネットオークションなどでのブラックロードの出現率と言うのは最近では一家月に一塊と言う所だ。この比率はかなり高いと思う。専用のグリップでロードグリップというのがあるのだが10年ほど前にネットオークションに出た時5000円と言う値段が高いような気がして手を出さなかった。それが最近ではブラックロードにグリップがついて値段が80,000とか90,000するのである。グリップ本体が5000円の時に買っておけばよかったな。 であるが昭和25年頃の製品で戦後の新しく日本を建設してやると言う非常にフレッシュな言う国道や触れている感じがする。そしてカメラの仕上げが材料からして本物であるので手にして本物の興行生産物の感じが指に伝わってくるのである。材料を押しまでに作ってしまったせいであろうかちょっと重いと言うのはこれは仕方がない。ダンスのローライフレックスなどを見ていて感じるのであるがなかなかうまい具合に手を抜いて材料を削っているところがある。 部屋で仕事をしていて時々15年前のニコンのデジタル一眼レフに50ミリから300ミリのズームレンズをつけて隅田川を撮影したりするのは気晴らしになって良い。ニッコールのレンズは使うのは広角レンズばっかりで1番使うのは2.1センチで過去50年来たのであるが何十年も手元にあって使わないオートニッコールテレポートズーム200ミリから600ミリとか、この6倍ズームと言うのは自分の写真の道具ではないと思っていたのであるが、でも猛暑の東京で室内にいて時間つぶしに隅田川の奥行きを見るのにはなかなか格好なレンズなのである。 私の好むシュナイダーのスーパーアングロン21ミリの初期型の方だが明るさがエフ4のやつだがこれも仕上げが良すぎて日中太陽の光を反射する時目がくらむことがある。だから絞りを設定する場合にBiogonでもスーパーアングロンでも同じなのだが絞りの値を見ないでレンズを正面から見て絞りリングを回して適当なところに設定すると大抵自分の思う通りの絞りに設定できる。 最新型のオリンパスが好きな連中はこういう本物の昔の良いオリンパスを評価しないのである。中古カメラ市場でも安いから物事のわかっていない連中は安いカメラだからダメと言う勘違いをしているらしい。しかし立ち上がりの速度とか撮影速度等と言うものは我々プロ写真家でもそんなに重要とは思わないのである。ましてや楽しみのために写真をやっている優雅なアマチュアの皆さんは確かにカタログスペックにはそう書かれているであろうが絶対にそれを使いこなしているとは思えない。 小池さんから案内状と一緒に丁寧な手紙が届いてその内容によればおいでを心からお待ちしているが何しろ仕事の関係でずっと会場にいられないなどと言うことが書いてある。こちらとしては写真家が会場にいない方が良いというのが私の考えである。昨年はロバートフランクの写真展を清里に見に行ったが私はロバートフランクがいなかったから失望などしていない。その後ロバートフランクは昇天して今年は神田明神の脇のギャラリーバウハウスで1部と2部に分かれて巨大な回顧展が開催中であるが私はそこでロバートフランクを探したりはしないわけである。 2本あるレンズは50ミリから300ミリの高倍率ズームと200ミリから600ミリの長望遠ズームである。いずれも憧れのレンズであって私は1970年代にニコン製品のすべての商品撮影をやったことがあるからこのレンズがいかに高いレンズであったのかをよく理解している。200ミリから600ミリのほうは20年前に中野のフジヤカメラの歳末特別ミーティングの福引で当たった記憶がある。6杯のズームレンズのほうは最近手に入れたものだがこれも憧れのレンズだった。本当はこーゆーレンズはスチール写真よりもムービーで使いたいのである。 今月はダイナーズと、アメックスで両方、カメラネタで楽しめるのであるが、アメックス の方のこれはバチエロンコンスタンチンの広告で、実に不思議な体験をした。 それはこのような内容で、これを見ると、バチエロンはやはり大人の顔をしたウオッチで あって、こういう顔の前には、ロレックスなど顔色なしだ。 まるでタイメックスみたいなデザイン(言い方が本末転倒だが)である。いつかは、バチエロンだな。 彼らの行動で、評価できる唯一の良いポイントは、その警察手帳の取り出す速さである。 自分のGRD2を尻のポケットから出す、その俊足とこれは良い勝負であった。 これは評価できる点だ。 ウォーカーエバンスに関して面白いのは彼が1930年代に撮影したアメリカのカントリーサイドの巨大なコカコーラの看板であるがそれをどういうテクニックをどうしたのか知らないが自分の仕事場にその看板そのものが飾ってあるのである。岡山の拾文銭銀水は若い頃にハイエースで隣村のビクターの犬の夜間盗みに行って追跡されたそうであるがそれと似たような種類なのである。
写真家と言うのは社会的には社会人でなければならないのが同時にちょっと偏執狂的な部分がないと長いこと写真家をやっていることはできない。 天才荒木は枕元にウォーカーエバンスの写真集を置いて寝て夜中に起き上がってそれを見るのだそうである。この家さんのポートレートには話題が及ばなかったがこの次天才荒木に会った時はこの写真の話をしてみたい。 1番わかりやすいカメラの説明書はドイツ語のものである。軍隊の命令調で何何をせよとか何々をしてはいけないとはっきり書いてある。それからちょっとわかりにくくなるのが英文の説明書で1番わかりにくいのはネイティブスピーカーの私でも理解に苦しむ日本語のカメラの取説なのである。 佃では、6−7年前の2月であったか、欧州行きの時、大雪でタクシーもないので、家人 に手伝ってもらって、Tcat まで行った。その時はAFはオンタイムであったが、LHは関 空に着陸したので、出発の遅れたことがあった。
画像は部屋から見た、隅田川ぞいの公園。 エプソンRd-1sにニッコール135ミリ(真鍮製の造りが良くて重いやつ) 飯沢は彼が写真評論家になる前からの知り合いだが最近偉くなってしまって写真表現を自分の道具生活の糧にしているようなところがある。そういうのはお払い箱である。写真評論家は写真の交通整理をやる人なのに写真表現をやっている人間であると勘違いする連中が多い。 この写真展のために私は300枚位のプリントを制作したのであるがそのセレクトに漏れた写真はそのままに保管していたのである。これはもちろんドライマウントでは固定されていない。これが1969年の話であって銀座のニコンサロンではその後2回個展を開催した。トータルで3回やったわけである。1973年から1980年まで私はオーストリアウィーンに暮らしていたのであるが、69年に展示したプリントのそれ以外のプリントは捨てるつもりであったのだがそれを忘れたままウィーンに行ってしまったのである。 本郷を例のごとく、徘徊して120フィルムで3本撮影して、止む。 もっとフィルムを持参すればよかったと、悔いたが、さあここだ。これが新時代の銀塩カ メラの使い方であると、考え直した。
それで、カメラはGパンの尻ポケットから取り出したR7に切り替えた。銀塩カメラでの 撮影とデジカメでの撮影を同時に進行することに、何の違和感も感じなくなっている自分 に吃驚したけど、思えば、この2種類の区分分けというのは、ちょうど車で移動するの と、徒歩で移動するのとの違いのようなものである。 無論、銀塩カメラが徒歩で、デジカメはクルマでの移動という意味だ。
本郷の裏手の例の「見学禁止」の札で有名な3階建ての下宿の前で、R7が例のレンズが にっちもさっちも行かない状態になる。 この事故はよく起きる。もっとも自分の場合は普通の人とは比較にならないほどのショッ トを撮影するから、その意味で比較にはならないのだけど、大事なシーンでカメラが動か なくなるのはこまる。 氷川丸少年は氷川丸の真正面のタワーの上階に棲んでいる。これは凄い。 東京港の飛鳥の場合は、時々、世界のどっかに行ってしまうけど、氷川丸の場合は、山下 埠頭にどっかりを腰を据えているから、不在の時はないわけだ。 これは大した利点である。 賢者の野口ルックスのコーティングの色がグリーンなのがおしゃれである。お金持ちのアルチザンのほうはアンバーコーティングであるからその印象はかなり異なる。アメリカの著名なフォトグラファーひろ若林が1960年代の初めに緑色のコーティングのロッコールレンズで傑作をとっていたのも懐かしい。その意味で緑色のコーティングは偉大なノスタルジーなのである。 カメラ選ぶよりもっと大変な人生の大問題。それはカメラストラップ選びである. カメラは売ってもストラップは売るな。 世界で1番最初のautomaticな2眼レフカメラで私が惚れているのはセレンメーターの受光部分なのである。この昆虫の目玉のようなセレンメーターの光を受ける部分は子供の頃には未来的な素敵なオブジェであった。それがどんどん時代遅れになって半世紀が経過すると流行が1周したせいであろうか、またかっこ良い物体に見えるようになった。 50ミリあるいは5センチのテッサーレンズと言うのはもちろん戦前のレンジファインダーの金沢子にもついているし戦後の東ドイツで作られたほとんどのカメラの標準レンズがこれであった。ところが慣れというのは恐ろしいもので私の場合この歪んだテッサーでないとちゃんと写真が取れないような気がするのである。でも写真家にとってそういう思い込みと言うのは撮影の時に結構大事な心理的要素であるのは確かなのだ。 十数年前にオーストリアウィーンのペーターケルンの店で発見して手に入れたのである。その皮ケースが欲しかったのであるが、革ケースの中には本物のありフレックスカメラが入っていた。別に名倉録音機も付いていた。でも私が欲しかったのは皮ケースだけなのだがそれだけは売ってくれなかった。 昨日、持参したのは、フィルムカメはコンタックスlllaで、デジカメはGRDであった。 今朝はその気分が変わって、リコーR7、コンタレックスにビオゴン21ミリをつけたの を持参した。これはかなりの重さになるのだが、最近では荷物は振り分けにしているの で、ある程度の重さのカメラが必要なのだ。
この振り分け荷物スタイルは、これは30年ほど前、イスタンブールから、ウイーンへの 列車の旅の時に、そのトルコ領内を走行した2等車で向かい合った、羊飼いの青年から教 わったものだ。やじきたのそれではない。もっとユーラシア的なのである。 私の新宿は新しくできた北村写真機店の道を南に行った右側にあったにっかつロマンポルノ映画館の隣のラッキーカメラであった。1966年の11月の末に父親とこの店に行ってライカM2のブラックペイントを買ったのである。当時のお金で130,000円位下から大変高い買い物であったが、父親に言わせると100,000ちょっとのお金で息子が写真家になったのだから安いもんだと言う考え方もあるらしい。 1950年代のロッコールはグリーンコーティングが売りであった。リチャードアヴェドンのアシスタントから有名になった寛若林と言うアメリカの写真家がいて彼が愛用していたのがミノルタの一眼レフにこの緑のコーティングの標準レンズなのである。その作品があちらのカメラ雑誌の表紙になったりしたので我々のロッコールを尊敬する度合いはますます高くなった。 締め切り1秒前にキャンセルのヤフオクのセラーさんだが、
到着したカメラはオークションではシャッターの動作確認しましたとあるのに、
故障している。おまけにフォーカシングも全く動かせない。
こういうのは評判落とすな。
大切にしてくださる方に使っていただきたいと言うセラーさんのコメント。
壊れていたつかえねーよな。ウーロンと月餅どこいった???
因果応報だな 40年近く前にヨーロッパから帰国した時に奈良のお寺巡りをしたことがあってその時に肩から下げていたのがこのカメラであった。夢殿高どこだか忘れたけれどもう秋の陽射しが傾いてそれをこのカメラで撮影していたことを思い出す。要するに私の場合ローライフレックススタンダードを肩にかけて斑鳩の里をウロウロすると言う行為そのものがメランコリーオブジェになっているのだ。 思い出したのはストラディヴァリウスのことである。この古い楽器は何億円もするがバイオリンで残っているのは600位だと言う。それで世界中でストラディバリウスとモダンのバイオリンをちゃんとした演奏者に目隠しテストをしてその評価をさせると言うことをずいぶんたくさんやってきた。
その結果が面白いのだがプロの演奏家が目隠しテストをすると皆さんモダンバイオリンの方をストラディバリウスと間違えるのである。つまり価格が100分の1以下の安いバイオリンを何億もするストラディバリウスと取り違えるのである。ストラディバリウスが2億円でその100分の1の安バイオリンと言うのは訂正の必要があってそれでも2,000,000円もするもんな。この価格のトリックと言うのは非常に大切なものであってストラディバリウスが古今東西の名演奏家によって使われたのは事実だがそれ以上にコレクターがその価値を認めていると言うことなのだ。
カメラムックの編集者、ホビージャパンの松下さんが新宿のどっかのカメラ屋さんで野口ルックf1.2をテストしてみてその値段が4,000,000円だと書いてあった。コレクターズプライスだったらそのくらいしても当然だと思うが私がこのレンズを十数年前にテストしたときに、そのニュートラルな発色にしびれた。比較の相手はソ連製のジュピターであって私の場合はジュピターのどぎつい描写が好きなのである。
50ミリf 0.95のアルティザンの面白さは開放でstillライフをとると前後が完全にボケてしまって独自な空気感が浮上することにある。面白いのはドイツ製と言われている野口ルックスよりも中国製のアルティザンの方がレンズ本体がグラマーなので素人が見るとこちらが高いレンズに見えることだ。 それはもちろんうちの写真家団体の会長が文化勲章受賞者になれば周りに写真家の地位が向上したと言うので言い訳にはなるのである。でも文化勲章に対する批判のスタンスと言うのは断腸亭が1番鋭くて、隣が天皇陛下で一緒に会食をしたときの日記の件が面白い。 撮影が終わってから金谷船長と久しぶりにお話ができたのが嬉しかった。金谷船長は氷川丸の顔というか顔役なのである。だから隣のニューグランドでもスタッフの全員が金谷船長を知っている。まぁ当たり前か。12年ぶりにいろいろお話をして昔話が飛び交った。 30年ほど前にロバートフランクが世界巡回展の途中の横浜美術館での彼のムービングアウトの写真展で会ったとき私は偉大な写真家と何を語らったかと言うとデートローラーの話であった。私も変わり者だからフランクのスイスドイツ語と私のwinドイツ語でどれだけ話が通じるか試してみたくなったのである。 日本のカメラ愛好家には何が何でもカールツアイスと言うブランド志向があったはずだが最近はカールツアイスのレンズと言うのはタムロンあたりが作っているからそれはそれで結構なのだけどカールツアイスの歴史を知らないで端に念仏のように拝んでいる人々がいるのは情けない。
不思議なのは戦後西ドイツで作られたこのコンタックスカメラというのが現代の中古市場では異常事態と思われるほど安価なのである。でも優秀なカメラであるから私もネットオークションで見つけるために安いのは手に入れている。そのおかげで部屋の中がシュトゥットガルトのコンタックスだらけだ。世界で最も高価なゾナーのレンズなどがレンズキャップがわりについてくるのもありがたい。 このローマの写真家が何が良いのかと言うことを考えてみると確かに冒頭にもちょっと触れたがモチーフが良いのである。私が1番毛嫌いしているのは日本の写真愛好家で何かと言うと高級なライカを振りかざすのは趣味であるからどうでも良いのだがその人が撮影するのがそこら辺にある石の仏であったりする。ちょっと離れたところに旅行した時に撮った五百羅漢なのである。
日本の石の地蔵が極東ローカルであってローマの石像彫刻がローマ帝国の末裔であるからすごいと言う価値観ともそれはちょっと異なる。要するに写真と言うのは私がいつも振りかざしているように写真教育不可能論と言う非常に厳しいルールがあって写真家の視神経の質と言うのは最初からその人その人に与えられているものであるからたかがインチキ教育などで写真のレベルが上がると言うようなものではないと言うことを今回ローマのeBayのセラーから改めて教えられたのだ。 人もいないし雀もいないし非常に快適な午後であった。カメラ雑誌風にテクニカルデータを書いておけばM10P SAFARI Noctilux0.95である。 おかず道楽と言う屋号で思い出したのは20年以上前に私の読者で前田幻健太郎さんと言う人がいて私をメインに据えた写真雑誌で写真籠絡と言うのを作ろうと言うのでいろいろ活躍していた。すでに亡くなったポマードの総理大臣も写真付きだからその人も入れて大々的にやると言う話だった。それでその打ち合わせと称して銀座にある加賀料理のお店などでかなりたくさんご馳走になった。どうも私と飲むのが目的であって写真道楽とと言う雑誌うんぬんはその餌であったようだ。 そういう複雑怪奇な入り混じった感覚を体験しながら街を撮影しているのである。かっこいい女の子が来たら撮ろうとか言うのはこれは若い頃の話でわれわれは時間体験が重症化しているからもうちょっと複雑なことを考えているのだ。 佃島に住んで30年になるが30年近く前に門前仲町の角に何か見たこともない前衛建築が立ち上がってきたのでこれは一体何であろうかとワクワクしていたらパチンコ屋なのであった。関西にある近代建築を1985年に8 × 10インチのカメラでシリーズとして撮影したことがある。それらの関西の近代建築はもうほとんど存在していないのであるがそれ以上に面白かったのは当時の関西のラブホテルである。これが世紀末建築でなかなかイケてるのでそれを専門に撮影したこともあってそれは写真展とかカメラ雑誌で発表した記憶がある。 歩行中に物物物を言うのは1種の優秀なテクニックであって片岡義男さんがそうである。片岡さんと東京の北部をずいぶん歩きまわったが彼を感動させる風景に出会うと、これは映画のセットですよ。のフレーズを片岡さんは繰り返すのである。別に同行者の私に言っているわけではなくて自分自身に語りかけているのだ。 早速喜び勇んで手元にあるはずのアサヒフレックスの交換レンズを探したのだがあいにく1個も発見できない。あんなにたくさんあったのに全部清掃したように影も形もなくなっているのである。
まぁそういう時はそういう時だから焦らずに登場するのを待とうと思う。 それでこの間見た富士山はブラック仕上げの富士山なのである。赤瀬川さんがマットブラック仕上げのニコンの大井町の通りのことを書いているが、この富士山もマットブラックに見える。カメラの特別なものには仕上げが2つあって1つはマットブラックでありもうもう一つはホワイト仕上げである。ニコンカメラではスペースカメラはもっぱらマットブラックである。それに対してミノルタなどはスペースカメラはもっぱらホワイトになっている。どちらが優秀なのかよくわからないが結局スペース等ではどちらも仕上げであっても同じと言うことなのか? この5月ごろにやはり左足の痛みで歩行が困難になった。かかりつけの医者は聖路加国際病院であって定期的に循環器医療の方で治療を受けているのでどこも悪いところがないが、歩けなくなるのは困る。ところが事情の知らない人は私が心不全で歩行が不能になったと勘違いするのである。実に皮肉なことであるが聖路加国際病院に予約を入れたのだが私は足が痛くて歩いていけないのでそれをキャンセルしたことがあった。 >>640
超得さん、それって「閉塞性動脈硬化症」の可能性がありますよ。 最近のデジタルカメラの面白くないところはまさにそこに理由があるわけだ。高性能画質の競争とかやっていてそれでも競争ができないから家のはレンズが違いますなどとホラ吹いているわけで、そしてそのレンズは実際に作っているところはみんなおんなじOEMの工場だったりする。
レンズグルメの愚かな民を誘導するなんていうのが簡単なことだ。 1950年代後半のライカの交換レンズと言うのはなかなか研究すると面白くて例えば皆さんが大好きな8枚弾の頭ミクロンであるがこの35mmは1部のロットではライカバイオネットアダプターが付いていてネジを外すとそのままライカスクリューマントに使えたりするのである。 橋のたもとに腰を踊る様子のに適当な四角い石のオブジェがロッコか7個あるのでそこに座っていっぱいやって気持ちが良くなったら立ち上がって橋の上から下街を見下ろすというのがこの東京バルコニーの一大特徴なのである。 大昔のフイルムはバルナックライカに装填するのが普通だったからみんなフィルムの先端のベロは8センチ位にきられていたのである。それがなくなった後は今度はハサミでそのフィルムのベロを切る目安として小さな穴がパーフォレーションの脇に開いていたのである。それがなくなって今のような状況になりました。 ジュネーブのサロンとかバーゼルの時計見本市に行ってもう腕時計はたくさんと言う気になった。特に男性は生活に皮膚必要なものを買うではなくて生活に必要のないものを買うと言うのが生きる証みたいなことになっている。軍事パレードでずらずら並んだミサイルのようなものがその典型である。 我々アシスタントは大型フラッシュGunにこの電球みたいなフラッシュバルブを差し込んで工場の撮影などではあっちこっち走り回ってフラッシュバルブを炊くのである。こうすると光が増量すると言うのではなくて色がよく出るようになるのだ。 この時代のロバートフランクの仕事はとにかく多くが深くて今から見ると極めて稚拙なアナログの画像システムと真剣に取り組んでいる感じがしてそこがすごい。ごく初期のビデオカメラを使って、ホームインプルーブメントと言う作品も取っているがこれなども当時はアナログの電子データをアナログでコピーしているからもうボケボケアレアレなのである。そのボケ具合は森山大道なんかよりずっとすごい。 しかし当時の日本のカメラの状況からするとこういうのはコピーライカであってちゃんとした一流の写真家が使うものではないと言うような認識があったらしい。このカメラを使っていたアンリカルティエブレッソンなどと言うのは凄いと思うのだが実際にはその事実は無い。 イタリア製のカメラと言うのには2種類あって1つは完全なおもちゃカメラレベルの仕上げであるがこれはそうではない方、つまり超高級な仕上げなのである。カメラのスペックからすると果たしてこれだけ高級な仕上げが必要であったのかと言うところに疑問を生じる。 レンズはアルティザンの21ミリと50ミリの明るさ0.95のやつを持参したがフイルム交換はしなくて良いのであるがレンズ交換がめんどくさいので結局21ミリだけで撮影した。だからテレビの画面ではかなり引いた距離の写真が登場しているが本当はもっと50ミリで接近したかったのである。 当時のカメラの仕上げの話であるが戦場写真家はクローム仕上げのカメラを持って最前線に入ると敵のスナイパーの目標となって攻撃されるからカメラはブラックが良いと言うこれは戦場の神話なのである。何かの機会に報道写真家の藤木高嶺さんにインタビューしたことがあってその話を持ち出したらそんな事は絶対にありませんよというのがお答えであった。彼が使っていたのは普通のクローム仕上げのニコンエフであったからだ。
そういう事は真実としてあるであろうが、我々団塊の世代時代のカメラ愛好家には変な癖があってブラック仕上げのカメラに惚れるのである。自分が世の中に出られなかったからせめて気分だけは一流の報道写真家の真似をしてみたいのだ。 でも私にとって銀座と言うのはニコンとイコールなのである。1970年にニコンの広告ニコンFのカタログをとっていたのも銀座の8丁目のスタジオだったし、デビットダグラスダンカンさんと三木淳さんに偶然会って楽しくお話ししたのは銀座1丁目の銀一カメラサービスだった。 都電の車掌さんというのが憧れの職業であって、駄菓子屋には都電の車掌さんのカバン、電車カバンと言うものを売っていた。中には切符とパンチが入っていた。それで、ごっこをしたものである。 それで思い出したのは50年前の話である。東京芸術大学の女子寮というのがあってこれは当時すでにボロボロで大変な物件であった。もちろん男性は立ち入れないのは当然であるからその時私は家人にライカを渡して女子寮の中を撮影してもらったのである。何か似ていますね。 だから私が50年間やっているストリートフォトグラフィーでカメラのフレームに入ってくる人々は非常にプロフェッショナルなエキストラさんであると言う言い方もできる。実に自然にフレームに入ってきてフレームアウトしていくからだ。それに彼らは十分なギャランティーをもらっているからいきなり私に駆け寄ってきて俺の肖像権はどうなるなどと馬鹿を言う人もいない。 それでランチと言えばホテルオークラのベルエポックなのである。当時のアメリカと言うのは占領軍の延長線上にあったからお金を持っていて当然と言う認識があったのが1980年のお話。その当時にはまだ東京にもこういう個性的な看板を掲げた喫茶店があちらこちらにあった。 オールドレンズフェスティバルというのが新宿の丸井で2週間もやっていたそうである。ドイツのフォトキナですら期間は5日間なのに2週間もやるというのはすごいオールドレンズブームなのである。そのオールドレンズブームを牽引している震源地の皆さんはよく存じ上げているので非常に心強い。 それから50年間オリンパスワイドを使ってきた。今でも手元に1ダース位のオリンパスワイドがある。故障さえしなければこいつがあれば絶対大丈夫と言う自信がある。朝日新聞写真部長の福田さんがまだ駆け出しの頃にこのカメラを使って休暇中に撮った写真が抜擢されてかなり大きく発表されたそうだ。 ドイツのシュテルンと言う雑誌に写真を掲載したこともある。その時の原稿料が私の安月給と同じだったのでこれはフリーになった方が良いのではないかと勘違いをしたこともあった。 城田さんはアメリカ仕込みのハロウィンを展開した。近所の子供たちを連れてそこら辺をめぐって、トリックオアトリートとやるのである。まだ日本がハロウィンの商業主義に目覚めるずっと前の時代であったが今のハロウィンは大嫌いだ。単なるかぼちゃとお化けと蝙蝠のバカ騒ぎである。 それで今思い出したのであるが、その後に大量生産で作られたレニングラードはスプリングモーターの巻き上げのやり方は西ドイツ製のレンジファインダのパクリなのであるが、このプロトタイプのほうはスプリングモータではなかったような気がする。 Arriflex 16 STが素晴らしいのはちょうど猫がうずくまっているようなスタイルが非常にクールであることだ。 レンズマウントアダプターでクラシックレンズをデジカメにつけるのは私は好まない。ソニーのこのカメラにライカのレンズを組み合わせると言うのもカメラ美学としてはぶち壊しで絶対に使いたくない。だからこーゆーレンズの組み合わせで喜んでいる人は私が及びもつかないような新しい時代のカメラ美学を持っている皆さんと言うことになる。 大写真家は新品のフィルムを買ったのではなくサープラスのショップで期限切れを買ったのである。そこら辺がクールだと思う。 考えてみれば伝書鳩で軍事関係の連絡を取ると言うことに関してはかなり長い歴史がある。もう一つは軍事用の観測気球であった。20年位パリに滞在していた時時差の関係で偶然早朝にアンテナ5で伝書鳩の割と長いストーリーを見たのである。伝書鳩は非常に長い歴史を人類と分けているということがわかって目が開けた感じがした。 フォルカーシュレンドルフがまだ30代だった頃に映画のスティールの手伝いをしたことがあってまさにその通りだった。暗くなったらカールツアイスのスーパースピードレンズに交換するのである。 明るさがf2.8と言う破格の明るいレンズであった。ところがそこでがんばりすぎたので作られてから60年経過してみるとレンズが曇っているのが多い。私はこのカメラにしびれているのでちょっと油断すると大変な数の同じモデルが集まってくるのである。でもそれのどれもがレンズが曇っていると言うのは仕方のない次第である。それでも今は画像を処理してPhotoshopでコントラストをあげたりすることができるからレンズは多少曇っていても以前のようなダメージは少なくなった。 ハノイの街を縦横無尽に歩きまわった。新しい地下鉄システムができたのを知ったのはずっと最近のことであるがまだサービス開始には至っていないようである。ハノイの街の中心街で人口密度が異常に高い南北のメインストリートがあって観光客は誰でもここを往復してハノイが好きになるか嫌いになるか自分のサイコロの駒を振らなければならないのだ。 パリのメトロが私も好きなのはメトロができた当時の内装を後生大事にいまだに使っているようなところである。だから今でもこのフランクの看板のようにとんでもない19世紀の空気がそこらに漂っているのである。それが良い感じだ。 初期の一眼レフと言うのは面白いことにまだレトロフォーカスの超広角レンズが開発される以前の時代なのである。だから必要に応じて一眼レフカメラはミラーをアップして無理矢理短いレンズをボディーに突っ込んで実用を出していた。そこら辺に機械学としてのダンディズムを感じるのである。 ところで写真家と言うのは体力勝負であるからウォーカーエバンスの一緒に使っていたカメラを分析するのも面白い。最初の写真家は単にツーリストとしてヨーロッパに行ったのだからベストポケットコダックとかそういうもので撮影している。それから普通の6 × 9センチの蛇腹のカメラになってさらに進化して4インチ× 5インチのカメラになって、農業保全局の仕事ではデアドルフの8 × 10インチを使っていた。 その左側にあるArriflex 35BLには1000フィートのマージンが付いていて実際にフイルムを装填して最初の100フィート位は回したのであるがそのままになっている。もう現像をすると言う予定もない。エドワードSteickenは彼の人生の終わりの頃に自分の住んでいる庭から目の前にある巨大な樹木生Arriflex 35で撮影していた。単にその真似をしてみたいだけなのだ。ただし私の住んでいる環境には巨大な樹木は無いからカメラは隅田川の上流に向かってフィルムを回したのであった。 時々彫刻家あたりから仕事が来て自分の作品をとってくれと言うのでその時には50ミリのテッサではなくて58ミリのビオターを使った。50ミリのレンズだとパースペクティブが出すぎて彫刻がヘンテコリンで映るのである。58ミリだとパースペクティブが自然というか彫刻の持っているボリューム感と言うものがうまく表現できるのでその場合はもっぱら58ミリであった。 面白いのはこの後に出たオートマチックの間宮フレックスと使っているダイキャストが全く同じなのである。だからずっしりと重いけれどもカメラとしての信頼度と言う所には安物で間に合わせると言うところがない。何しろ骨格は同じであるからだ。ローライフレックスの1番高い機種まで使ってその後どうなるかと言うと私が戻ってきたのは間宮フレックスのレンズ交換式のやつなのだ。それはあのダイアンアーバスが好んで使っていた2眼レフbネのである。 それともう一つ面白いと思ったのはウォールストリートなどで株のトレーダーがどこでも平気で腰を下ろしてランチを食べ始めることである。これもカルチャーショックだった。それともう一つ1982年の11月にロサンゼルス経由でニューヨークについて翌日1番近くのバーガーキングに買い物に行ったらクーポンを渡された。そのクーポンを次回持っていくと同じハンバーガーが無料になると言うので、それが得だとか言うことではなくてジャンクフードの価格と言うのはそういう値段の構造になっているのかと言うことがわかったことにある。 その翌年文化庁の派遣でニューヨーク近代美術館に1年行っていた時に私はマジソンスクエアガーデンのそばにあるカメラ屋でリトルニコンをウインドウの中にあるのを見続けていたのである。それは小さなモーターの回転台の上に乗っているカメラでカメラ本体は真っ二つに切断されていて中身は金属ですと言うような意味合いのことが書かれていた。 こういうカメラは恐ろしいからシャッターは切らないようにしているのが基本のルールである。後で聞いたらこのカメラは人類の文化遺産として後世に保存するためにシャッターが切れないようにセットしてあると言う話であったがそのようにセットしてあるのもシャッターが故障しているのも実は同じことであるから、ご神体に際するお店の神神が真面目であることがわかる。 面白いのはアメリカが不景気になってきたのをきっかけにアルパカメラが日本に流れてきて、20年かけて日本の労働者の賃金が韓国より下になったのをきっかけにアルパカメラは全部覇権国である中国に行ったのである。それが時代の趨勢と言うものだ。 プレスカードの顔写真がすごく若いのには理由があってこれは文化庁の派遣でニューヨークから帰ってきた翌年すなわち1984年に作ったプレスカードなのである。毎年高い会費を払っているから写真を差し替えれば良いのに写真を撮るのがめんどくさいからそのままになって40年経過してしまった。 それで1日かけてライカフレックスのマウントアダプターでこのように全部のレンズをつけて遊んでいたのであるが、私のようにいつもカメラをストリートで持ち歩くような人間にはやはりこのレンズつまり28から70ミリが1番使いやすい。タムロンののこのシリーズでは28ミリから80ミリと言う別の製品があってこれも手に入れたレンズの群れの中に入っていたのであるがちょっと大きくなるのである。 しかし日東光学はマイナーな工学メーカーであるから昭和30年代であったか天下の日本光学から会社の名前が似てるとか言う理不尽なクレームをつけられたことがあった。この間ネットオークションに登場したカメラがこれで私はびっくりした。その名前がコメットと言うのである。 現在進行中の東京シリーズは当然のことながら最初からモノクロモードで撮っているのである。半世紀前の報道写真と言うのは二台のフィルムカメラのボディーにそれぞれモノクロームとカラーフィルムを入れていた。昔のメディアであるから両方が必要であったのだ。ところが最近はデジタルカメラで普通のカラーで撮影しておいてそれを後でモノクロームに変換するのが当たり前になった。 今ではメモリーを入れさえすれば何千枚でも何万枚でも自由自在に撮影ができるのであるがアナログ時代と言うのはそうではなくて実際にそれだけの長さのフィルムを巻いて光を通さないドラムマガジンに入れなければ撮影はできないのである。私は以前からこの光を遮断したロールフィルムの暗室というのが好きでいろいろな大きさのマガジンを集めて持っている。 現地でアシスタントとして車付でグラーツに住んでいるオーストリア人の友人ペーターを頼んだ。その男は今でもFacebookで付き合いがあるから不思議なものである。その話はともかく超望遠レンズで撮影するときにこのピストルグリップを東京に忘れてきたことに気がついたのである。手持ちで望遠レンズを撮影する時はかなり有効なアシスタントなわけだ。 それで撮影でプラハの路地裏を歩いていたときにオートバイのバックミラーのかけらを拾ってきた。自分で鏡として使うのはこれで充分であった。それ以前どうしても自分の顔が見たい時はニコンエフをミラーアップしてそれで自分の顔を見ていたのだ。 カメラはライカモノクロームでレンズはコラプシブルのエルマー90ミリであった。コラプシブルの90ミリエルマーと言うのはへこませると50ミリの標準レンズと同じ長さになるのである。だからそのままライカのエバレディケースに入るというのが当時の説明書の売り物であった。 このカメラの程度のことに戻るけれども、私はこのカメラをコレクションしている立場から言うとこれだけ汚い軍用カメラと言うのは実はレアなのである。だから私の個人的な偏屈な価値観からすると、きれいな軍用カメラよりもこういう汚い軍用カメラの方が好きである。 ところがそれが何か安っぽいボディーキャップになってしまって最近びっくりしたのは1,000,000円以上もするライカのデジタル最高級機もどっかそこら辺の100円均一のジャンクコーナーにあるような安っぽいプラスチックのボディーキャップを付けているので私はがっかりした。1,000,000円のライカだったら別に金無垢のボディーキャップにしろとは言わないが、カメラを使うときに手に取って楽しくなるような精密感のあるボディーキャップが欲しいものである。 ネットオークションでミノルタの一眼レフ用の28ミリef 2.5と言うのを同じセラーから2本手に入れた。別に明るさが2.5で使う事は無いのであるがこれはレンズを手に取るときの気分の問題なのである。言い換えればエルマーの3.5よりもヘクトールの2.5の方が気分が高揚するようなものだ。ヘクトールと言うのはエルンストライツの愛犬の名前だったな。 おそらくフリードランダーはエル米と28ミリは持っていた子使っていたであろうからこのロッコール28ミリを欲しがる理由と言うのを私が考えるにその小さなサイズと軽量なことだったのではないかと思う。エル米と28ミリはずっしり重いレンズだからフリードランダーの説明に同行した私の体験からしてもフットワークの良い子の写真家にとっては余計な28ミリの重いレンズと言うのはあまり持ち歩きたくはなかったのだと思う。 それで杖の先を探して、新小岩から今まで歩いてきた道をずっと戻って杖の先を探そうと冗談で考えたがこれは私がパリの路上にスーパーアングロン21ミリのファインダーを落として後で気がついて拾いに行くと同じ位大変なことである。 私の記憶している原風景としての川崎の街はやはり50年前の風景なのである。平たいかわらぶきの民家が延々と並んでいてそこを臨港バスが走っている。そしてその行く手浜町の先には地平線からはるかに高く工場地帯がある。これが私の川崎の原風景なので今回ほとんど50年ぶりの川崎には驚いた。巨大な近代都市に変貌しているのだ。なお25年前にセメント通りに焼肉を食べに行った時は夜だったので街の風景は全然見ていないので記憶にない。 そればかりか今度は強盗キャンペーンと言うメリットを受けたのである。強盗キャンペーンは北海道とか大阪行きは中止するなどと政府は騒いでいるが情けないね。かなりの割引になってそれを政府が補填すると言うがもともとは我々の税金で払っているわけだから強盗からお金を返してもらったようなわけだ。 最後に1番気に入ってるカメラを手にした記念写真を撮らせていただくことになった。なんと瓜生さんが持ち出してきたのはロバートキャパが使っていたのと同じカメラなのである。 新宿駅西口と言うのは当時はまだ存在しなかったのであってそれは淀橋浄水場が取り壊された広大な空き地であったからだ。それとちょっと後に浄水場の跡地の脇に小さな2階建てのプレハブができてそこがヨドバシカメラの最初のお店だった。Slickの三脚を買いに行ったりするとお店の天井に穴が開いていて上からその穴を通して下に物を投げようとしてそれを下で店員さんが受け取ると言うワイルドな流通形態を持っていた。 その頃よく記憶しているのはフランスのパリマッチのカメラマンがブラックペンタックスにカールツアイスの20ミリのレンズをつけていたのがかっこよかった。これはまだペンタックスが35ミリの広角レンズよりも広いレンズを出す以前の話なのである。ペンタックスが28ミリのレンズを初めて出したときのアサヒカメラの広告はよく記憶していてHiroshi Hamayaさんが西ドイツエッセンの鉄工所か何かでこのレンズを使っていてすごい広角だなと思った小学生の私であった。 1960年代と言えばまだカラー放送が実験段階であって新聞のラジオテレビ欄を見ると空放送は特別なマークが付いていたな。 三井埠頭の終点で私はフイルムが終わったのでラビットワインダーつまりぴょんぴょんワインダーのカメラのフィルム交換をしていた。すぐ脇にはボロボロの自動販売機の飲み物のやつがあって電信柱の間新しいのが立っている。そのコンクリートの電信柱に寄り掛かってフィルムを交換した。 でも私の汚いカメラに対する政治信条と言うのもこういう時代であるからかなり変わってきているのは確かである。以前は手元にあるカメラの全てがいつでもスクランブル体制になったときに使えるようにしておくというのは防衛路線の基本であった。でもそれはかなり変わってきているのである。要するに使えるカメラは両手で持っている1台だけであると言うことだ。30年ほど前にウィーンでソ連製カメラのコレクションで有名なコレクターにインタビューしたときに私がちょっと理解できなかったのはそのコレクターはカメラが壊れていても許すと言うことなのである。 足掛け8年ウィーンに住んでいたのでその値段がじりじり上がっていくのもよく覚えている。最初の頃はマローニー10個で7シーリングだった。それが10個で8シーリングになったと思ったらすぐ10シリングに値上がりして、私がwinを引き上げる頃は10個で12シリング位になった。
オーストリア在住の写真家古屋誠一がまだ名前がなかった頃に彼の車でユーゴスラビアの国境近くの小さな街に遊びに行ったことがある。そこで買った立売のマローニーは驚いたことに値段は価格を換算すればウィーンと同じなのであるが、その量はマローニー10個ではなかった。マローニー1リットルなのである。 今年の後半にギャラリーバウハウスでオムニバスのパノラマ写真展が開催される予定である。私も昨年の春に1975年に撮影したパノラマ写真のシリーズを写真集として発行している。
三重県鈴鹿市在住の写真家杉野さんはスナップショットや風景も良いのだが私の刺激を受けたわけでもあるまいが3台のソ連製のパノラマカメラを手に入れて地元を撮影している。これがなかなか良いので私は注目しているのである。
Sudekと言う写真家は非常に厳密なコンポジションで写真を構築する映像の美学に自分の表現の視点を置いている人であるが、一時期パノラマカメラを使うようになってその審美眼から吹っ切れて写真家としてのポイントオブビューが非常にフリーになったのが面白い。
その理由は非常に面白いことであって写真家は本来現実をクロップしてつまり削り取って自分の表現とするわけだがパノラマカメラにはそのやり方が通用しないのである。写真家がどこに立つかと言うその立ち位置だけが唯一可能な表現の方法なのである。
これがパノラマカメラの難しさであり同時にパノラマカメラの表現の魅力であると言うことができるであろう。杉野さんの仕事を見ているとこの作品などが典型的であるが、何か色彩化されたフンボルト炭鉱のSudekの仕事のように見えるのが面白い。 35年ほど前にミラノに行った時に例の最後の晩餐を教会の中で見てあまりにコントラストが低いので薄くなっているのが残念だと思っていた。それが25年ほど前に行ったときにはちゃんと修復されていた。
ここら辺が古美術の修復の1番の難しいポイントではないかと思う。同じ頃と言うよりももうちょっと前つまり1973年の5月11日の午後にウィーンの中心からちょっと北東に外れたところにあるフォルクスオペラの近くの通りなのであるが、その四つ角のメガネとか双眼鏡などを扱う古いお店の建物の上に描かれていた広告の壁画と言うのも忘れられない。
その各種の光学製品の壁画の中にカメラは残念ながら含まれていなかったけれども、極めて典型的な近代の光学のサンプルがそこにビビットに描かれていた。これは凄いと思ってニコマートELにニッコール85ミリをつけたコダクロームで撮影をしたのであるがそのオリジナルはどっかに紛失してしまった。 ウィーン時代の私に関する誤解と言うのは、どこかのお金持ちのボンボンが遊びに来ていると言う勘違いであった。実際には私の周囲にいた日本人の絵描きとか音楽学生がボンボンなのであって、私は本物の無産者階級だった。赤瀬川さん流に言わせればライカを持った無産者ですね。 カメラ雑誌が時々思いつきでやっている今モノクロが面白いなどと言うのはお笑い種である。何が滑稽かと言うとフルサイズのフルカラーのデジカメで撮っていると味が濃すぎるからたまにはあっさりお茶漬けみたいなモノクロもいいよねと言うレベルの考え方なのだな。
要するに流行廃り風俗としてモノクロに興味を持っているだけだ。それは勝手にしなさいと言っておく。何しろこっちは60年来命がけでやってるんだからな。 なんでもこの銀色のお盆のセットはギャラリーバウハウスでも写真展を開催したプラハ在住の女性の写真家から送ってもらったそうである。私はプラハには30年ぐらい滞在していたのであるが、この銀色のトレーが出てくるカフェをほとんど知らないのである。かすかな記憶をたどればプラハの伝統的なカフェのいくつかが同じ銀色のお盆でサーブしていた記憶がある。 Facebookと言うのはなかなかすごいやつであってそういう半世紀前の知り合いの人とまた友達になったりすることができるのだ。こうして観察するとBodoはなかなかかっこいいじじいになったことがわかって嬉しい。私も同じようにクリスマスシーズンの頃は大変モテるようなお髭のおじいさんになった。 ウィーンに暮らした私のアパートメントの話だが、ベートーベンは生涯で10回位転居をしているのである。その場所を細かく書き込んだ本があったので私はウィーンの街をベートーベンの昔のアパートを探して歩いた。驚いたことにそのほとんどがまだ現存しているのである。そしてそのほとんどが安アパートなのであるところがいい感じだ。 久しぶりに雑司ヶ谷墓地を歩いた。一時期永井荷風に入り浸っていたので断腸亭のお墓参りをしたこともある。近くのお花屋さんで花を買って水を持って墓石を清めたりしたのだからかなりハイブローと言うわけだ。ところがそれからしばらくたって行ってみたら永井荷風のお墓の位置がわからなくなった。今回分かったのは墓石の周りの立木をかなり刈り込んでしまったために風景が一変してしまったのである。 メカライターさんが良いカメラですとっても便利です、レンズ描写も素敵です、と通りいっぺんのお愛想言うのとプロフェッショナルな報道写真家がカメラを酷使するのはもとより同じレベルでは語れない。 東松さんの風貌に初めて触れたときに私は非常に奇妙な印象を持ったのである。大写真家の写真の作風というのが非常にシャープであるのに対して実際の東松さんと言うのは30代の普通のおっさんなのである。こういうギャップと言うのは我々は最初から覚悟しておく必要があるのだと言うことを教えられた。 今更言うまでもないけれどもスナップショットの面白さと言うのは52年前に撮られたこの家族の姿である。小さな女の子が少なくとも50代半ばになっているわけだ。その意味で写真と言うのは実に素晴らしいものだと思う。 写真の面白さと言うのはここだな50年以上経つとここに写っている20代の人間が間違いなく後期高齢者になれるわけだ。別に何の努力もいらないと言うところが素晴らしいと思う。 そこににだいめのギュンターが来たので本に掲載されている昔の写真を彼に説明してせっかくだから持参した本も進呈したのであった。ウィーンのカフェと言うのはそういうカフェであるから私は自分の20歳代にそういう生活習慣を構築してしまったために極東ではびこっているスターバックスなどに行く習慣は最初からない。 皮肉なものでそれから40年近く経って経済雑誌の表紙の撮影で大手の会社のトップの人を撮影させていただく機会もあった。だから私は男性ポートレートに関してはそれなりに自信を持っているのである。30代の時に週刊誌の取材で頼まれて山本富士子をとって来いと言われて出かけたらそれは新映画の制作発表のプレスコンファレンスで私が撮影したのは別の女優さんだった。それで仕事が来なくなった。 当時、カメラ屋街の側で、毎朝、すすっていた酸っぱい羊の羊腸をそのままぶった切ったスープとか、同様に子羊の頭を半割にした料理を食った記憶もあるうが、あの野趣ある食い物屋ももう見えない。
エジプシヤンバザールにて、家人から依頼された、からすみを買う。昨年の秋に買った店だと思ったら、どうも数軒あるうちの、その隣りの店で買ってしまったようである。聞けば、からすみは黒海の産で、加工はトルコでしているとのこと。
晩酌用に、ベルーガの小さい缶も求める。とは言え、ファーストクラスなら、5往復はしないと食えないほどの量である。
午後2時帰宅。
無為。
家人に電話。インターネットが通じるので、浅田恵理子ほか数名から、メールあり。その時間の部分だけ日本感覚なのは変である。
午後5時すぎ、昨日と同様にバスルームの修理に来る。フロントの青年、ムラツ(村津)君と話しをする。最初のイスタンブール訪問が30年前と言ったら、自分はまだ生まれていなかったとのこと。トルコ東部の生まれで、目下、イスタンブール大学で心理学を専攻している学生だ。オフの時に、このホテルでレセプションをしているという。 こちらはスペイン料理のレストランなどを完全に飽きてしまったので、五つ星ホテルに住みながらそこらのスーパーで魚の缶詰をたくさん買ってきて、美味いスペインの赤ワインで食事をしていたのである。魚の缶詰にイカの缶詰にタコの缶詰とかいろいろ食べたがそのメーカーの缶詰の中にタラの缶詰があることを知らなかったのである。 アイレスと言う名前のカメラはなかなか昭和30年代には名前の知られたブランドであった。1番有名なのは3Lと言うモデルでライカM3にそっくりなカメラであるが、私が好きなのはその前後のモデルでバイカウントと言うやつである。。当時の最先端デザインと言う感じがして気にしているとうまいスナップショットが取れそうな気分になる。ファインダーのブライトフレームウインドウあたりがおしゃれだ。この気分というのがスナップショットの場合1番大事なんですね。 ニューヨークマンハッタンに住んでいた1年の記憶でよく覚えているのはタイムズスクエアのホテルで家人が軍手をはめてニューヨーク・タイムズをめぐっていることである。当時のタイムスはあれはインクが良くなかったのかどうか知らないが日曜版等全部見終わったときに両手が真っ黒になるのだ。それで軍手。 しかしインドのカレーは辛い競争と言う馬鹿な日本的方向には行っていないようである。それで長年デリーのカシミールを19歳の時から食べているが最近あまり辛く感じなくなったのは70歳以上の老人であるから味覚が減退しているのだと思う。 コロナの関係でもう日本が鎖国になったから当分リスボンで食べることができないと思っていたらこの前書いたようにヨドバシカメラで缶詰を扱っていることがわかって手に入れた。Facebookでそのことを紹介したらあっちこっちでこのばか流の缶詰を買う人が出てきて、普段は人気のない品物がいきなり日本のあちこちで買う人が出てきたからヨドバシカメラの人は変に思っているかもしれない。 これは当時のキャノンL1と言う最高級モデルから2段階下がった腹版であって500分の1秒のシャッターが付いていてセルフタイマーもシンクロ装置も付いていなかった。そしてその大学の先生が発表した写真と言うのは何の変哲もないアメリカのどっかのどこにでもありそうな森の写真であるのだが、もちろん私の大嫌いな姉ちゃんフォトグラフィーではない。尻が馬鹿ですねネーチャー。 ヒルズにあたしの取材に見えた、現役ばりばりのカメラマン諸氏に聞いた。いずれも達人 も「リアルビューファインダー?、、、、別にいりませんね、あんなの、、、」というの が答えなのである。
氷川丸の年越しの撮影では、人間さまを沢山撮影する。その為のデジタル一眼レフである。 レンタルダークルームのありがたいのはいけば用意ができていて終了したらドライとフラットニングをちゃんとしてくれることである。思い返せば湾岸戦争の頃だから30年以上前になるがアメリカの軍用放送FMを聴きながら深夜0時のサウジアラビアからの放送をスタートにして深夜ダークルームをしていたこともある。でも大変だったのはやはり準備と後片付けと乾燥なのである。 こういう時代背景だからさすがの串カツ田中も休業と言うことにその時に気がついた。ここのダークルームを使いようになって5年ほどになるが、ダークルームの後はいっぱいやるのはいつもの例であってその時は、並びのいかにも下町と言う感じの田中食堂で飲食するのである。お年寄りの夫婦がやっていたので1年ほど前に閉店になって、その後は押上の橋のそばにあるラーメンのチェーン店でビールを飲んだりした。 ところがもう一方で我々が見過ごすことができないのは往年の高級一眼レフと言うのはそこに魂が入っているような感覚でユーザを惹きつけるのである。いや実際に魂が入っているのは事実なのであって、1人の人間の人生と長い時間一緒に走り続けていたフイルム高級一眼レフなのである。。
だから日本が特別なサービスでクラシックな一眼レフを修理すると言うことに心を動かされるニコンファンは多いと思う。そこら辺の商売としてなかなかうまいアイデアを思いついたものだと思う。 ヨーロッパの夏であるから日本の夏に比べると涼しいのであるが、どうも車の中が暑い。不思議だ不思議だと思いながら全工程を走ってようやくウィーンに到着してみたら何の事は無い、ヒーターがオンになっていたのである。私の乗ったフォルクスワーゲンはガソリンゲージのついているやつだが、1967年に東京で見かけたこのクラシックなフォルクスワーゲンはリアウィンドが2つに分かれているやつだから多分ガソリンゲージなんてついていなかったと思う。電源は6ボルトで動くやつだな。 あたしと言えばやはりニコンなのである。ライカ教祖とかアルパ大王などと
呼ばれるあたしではあるが、やっぱりカメラはニコンなのである。しかも、
ニコンFをミラーアップして使うニッコール21mmが至高であって、スーパー
暗黒ン21mmなどは足元にも及ばないのである。 それともう一つこのおおたかの森に私が興味を持っているのはフラッシュバックカメラと言う結構エキセントリックな中古カメラ屋さんがあることだ。だからおおたかの森在住の私の友人は東京の銀座まで来なくても地元でクラシックカメラのためにお金を散財することができるのである。沼地をとって好きなカメラを地元で買うと言うのは理想の写真家生活ではないか?
話に聞いてみるとフラッシュバックカメラはそのお父様が大昔青山でクラシックカメラと言うお店を経営していて私は父上の方からはちょっとカメラレンズを買ったことがあるのである。 ライカはフィルムに限るというのがあたしの持論である。デジタルの
ライカなんぞはそもそもライカですらなくて、あれは単なる画像生成機
であって、カメラではない。しかも100万円近くもするイメージエンハンサー
なんてなんの意味もない、あたしに言わせればガラクタなのである。
あたしが金欠でデジタルライカを買えないからそんなことを言うのだろうと
思っている奴は犬に食われればいいのである。 要するに当時のCCDとフィルムと言うのは光の感じ方の属性が最初から違うと言うことであったのだろう。そして我々スチールフォトグラフィーの世界でもCCDになりさらに新しいシステムになってしまったおかげで、ライティングに関してはかなりいい加減でも大丈夫と言う時代になったのだ。
しかし人間の視神経のレチナと言うものはもうちょっとデリケートであるからそこら辺の展示の証明と言うものは厳密に決定されるべきものなのである。そこら辺を小瀧さんはちゃんとわきまえているというか、これはヨーロッパやアメリカの国際的スタンダードと評価できるギャラリーのライティングなのである。 そういえば当時のプラハ市長はカメラ付きで市庁舎でインタビューの時に私に彼が自分のコンタックスT2のゴールド仕上げを見せてくれた。それから25年位後にプラハのPと一緒にプラハの路地裏レストランにいたらそこにいた紳士が寄ってきて、お久しぶりです私をお忘れですかと言うのである。聞き返したら20年前のプラハの市長さんであった。 あたしはソ連が大好きなのであるが、その理由はカメラやレンズなどではない。
たしかにキエフとかルビテルとか、ジュピターなどが好きなことは否定しないが、
ボルシェビキとか労農赤軍とかゲーペーウーとかNKVDとかKGBとかの単語を
聞くだけで心躍るのである。もし私がレーニンと同時代に生きていたら、スターリン
などよりも出世したと思うぐらいである。かと言ってあたしは共産主義者では
なく共産趣味者であり、左翼小児病ではないのである。 それで永六輔さんとの会話の最初にこれは永六輔さんの記憶を試すと言う意味ではなかったが、今日お話しさしていただくのは実は2度目です最初1960年代の半ばごろに淡路町の近江屋洋菓子店でお目にかかりましたと言うことを言ったら、永六輔さんはそのことを覚えていらしたようだった。 あたしがチェコのプラハにアトリエを構えていたのは、チェコには尊敬する二人の
写真家がいるからなのである。ひとりはヨーゼフ・スデク、もうひとりはヨーゼフ・
コウデルカであり、二人とも最終的には風景写真に行きつくのであるが、あたしは
いわゆる姉ちゃんフォトが嫌いである。ではなぜスデクとコウデルカがいいかと
言うと、スデクにはプラハの街を撮ったストリートスナップがあり、コウデルカには
いわゆるプラハの春で侵攻してきたワルシャワ条約機構軍の戦車を撮った報道
写真があるからである。ストリートスナップと報道写真、このふたつはあたしの中では
侵しがたい写真芸術の領域であって、だからあたしはプラハに住み、ストリートスナップ
を撮っていたのである。 日本の場合はなんというか写真展のオープニングが写真を見るのではなくて酒飲み大会ドンチャン騒ぎと言う楽しみの村の寄り合いみたいなことになっているのは残念な次第だ。写真展が写真を見るチャンスではなくて社交の道具になってしまっているのである。 この間ギャラリーからの帰りに無意識に聖橋を見ていてあーこれは、バウハウス様式だなとなんとなく思いついた。聖橋は1927年に作られたものだしワルター・グロピウスがバウハウスで活躍していた時代と同じである。ワルター・グロピウスの先輩にあたるペーターベーレンスの集合住宅などが私は好きでベルリンウィーンで撮影していたこともあった。 日本の年代で数えると昭和15年である。という事は篠山紀信とか天才荒木とか森山大道とかそういう皆さんが同世代と言うわけだ。写真家の須田さんだけはすでに虹の橋を渡ってしまいました。 昨年の11月のブラパチワークショップは新小岩であったがその時はライカインコのステッキを持っていった。何か金属音がするので変だと思って見たら石づきがなくなっている。これは佃島のマンションのエントランスに忘れてきたと言うことに思い当たって、ワークショップの後に家に戻ったらちゃんと傘立ての穴にステッキの石づきだけが忘れられていた。 あたしがウィンに住んでいたのはオーストリーに尊敬する写真家が
いたからではなく、たまたまそうなったのである。というのは同居人が
クラシックバレーをやっていたのだが、その腕を磨きたいからウィンで
修行すると言い出したからなのである。それなら、あたしも同行して、
ウィンのストリートスナップで写真家としての可能性を広げたいと
思ったからなのである。ウィンを歩き回っていると、カメラ店にライカが
多くあることに気づき、ライカを日本で売れば生活費の足しになると
思って、以前から親しかった銀一カメラの丹羽さんに連絡をとり、銀一で
売ってもらうことにした。この時からあたしのライカ遍歴が始まったのであった。 このカメラのゴールドプレート仕上げにグリーンのグッドペルカというのがなかなか良い味を出している。こういうところでグッドペルカがレッドになってしまうと低俗になってしまう。何十年も前に非常にレアなハンガリー製の35ミリ一眼レフDuflexの改造品でゴールド仕上げにグリーンの皮が貼ってあるのを見たことがあるがこれはなかなか上品で良い感じだった。 フォクトレンダーのVittesaはその当時ドイツの他の同じクラスのカメラにはないような蛇腹式のコンパクトな非常に良いカメラであった。そして1950年代にはアメリカ市場で爆発的に売れたのである。 この沼に金色のライカを落としたりすると沼の生霊が出てきてあなたが落としたのはどのライカですか?金のライカですか?金属のライカですか?プラスチックのライカですか?それともiPhoneですか?と聞いてきそうな感じがする。 所持している同じレンズの中の1つで面白いのは実際にNASAの管理がされていたである。レンズの後ろのほうの出っ張っている部分のバレルに手書きで製造番号が書き込まれていてさらに汚い手書き文字でNASAとあるから紛れもなくこのレンズは本物であると言うことが理解できるのである。 10年前まで六本木ヒルズの49fが仕事場であった頃の話だが、大江戸線の六本木ヒルズ駅を降りて地上に出るまでの時間と言うのはエスカレーターに乗っている間に通勤者が年老いてしまうのではないかと思うような長い時間を要した。 これが長年の私の謎であった。それに対する福田さんの答えは明快であった。当時の新聞社でネガを管理するときには1番スタンダードなネガフィルムのサイズは4インチ× 5インチなのである。その1枚のネガフィルムは4インチ× 5インチの紙の袋に入れるのだ。それが大量にファイリングキャビネットに整理してあると言うことで同じサイズの袋に35ミリのネガフィルムを入れるとなると4枚ずつカットするとその長さが4インチ× 5インチのフィルムと同じになると言う極めて事務上のコントロールの仕方なのである。 昨年の5月から9月までザルツブルグ近代美術館で開催予定だった私の写真展であるがこれはコロナで中止になってしまって残念なのであるけれども、ザルツブルグ近代美術館のコレクションとなっているたくさんの写真の中でその画像ファイルを見て面白かったのは当時撮影したウィーンのスナップショットよりも、極東の日本で撮影されたショットの方が何かエキゾチックに感じるというのが面白かった。 ルーブル美術館に行った時に別に撮影をするわけでは無いから荷物預のところに金属ケースに入れたワイドアングルローライフレックスを係りの人に手渡そうとしたのだがお互いに自分の責任回避をしていたので金属ケースはルーブル美術館の磨き上げた大理石の床の上に落下した。
ミロのビーナスのあたりまでその落下音は聞こえたはずである。それでもプロフェッショナルな金属ケースであるから傷もつかなかったし同時に大理石の床が削られると言うこともなかった。これが理想的なエンバイロメンタルプロテクションなのである。 十数年前にスペインのマラガに行った時あそこはパブロピカソの生まれた家などがあってそういうところで観光客をしていたのであるが古いレストランの前を通ったら店の看板にクスクスと書かれているので思わず入ってみた。注文してから40分かかったのにはびっくりした。一体どのようなクスクスの調理をしているのか未だに興味がある。 断腸亭は写真に興味があったから最初はローライコードを買ってその後もっと明るいレンズがよろしいと言うので出入りの写真機屋さんに頼んで当時最も明るいレンズであった明るさが3.5がついたローライフレックスを手に入れている。それで自分の家のライブなどを撮影しているのは実に貴重な写真の記録である。 今にして40年前のウィーンの暮らしを思い出してみると実に不思議な感覚に打たれるのは何をやって食っていたのか未だにわからないと言うことでこれが私自身の人生の謎なのである。 一方で、優雅な定年退職組でお金と時間のあまっている皆さんは「やはりデジタル一眼レ フはフルサイズでないと、撮った気がしまへんな」なのだ。
しかし自分のような、雑誌A4変形の仕事の世界に住んでいる人間では、まず画面はフルサイズである必要はない。 見に来てねということなので先日見に行ったら今回は焼きが良かった。若い頃は広角で対象に踏み込んだ
撮影をしていたのだなということに気づいた。昔は写真機による撮影が晴れのイベントだったが今はネットに無断で載せられる恐怖があるから嫌がられるのだろう。
フランクの時はまだ少し残っていた御茶ノ水駅の跨線橋がなくなっていたのが印象に残った。 この1983年夏のメキシコ滞在中に原田画伯のロングインタビューを行った。カメラは まだ本体とカメラがケーブルで結ばれているビデオである。オリンパスと契約してこれを 1年間かり出したのだ。こういう自由さは今のカメラメーカーさんの機材貸し出しには欠 如している。そのインタビューは延々と長いのだが、原田画伯の声が聞こえるだけで、自分のカメラはホテルの窓から下の通りへの視線縦横に走って、向かいのコカコーラの広告 のネオンを撮影したり、カメラはアングルアップして、メキシコの月の出を撮ったりして いる。そのVHSのビデオカセットはまだ手元にあるが、それを再生する機材はすでにな い。これがたかだか26年前の画像なのに再生できない。
デジカメのJPGもあまり将来に期待はできないような気がする。 ライカで撮影した画像はその意味で、火事にあわねばまず大丈夫だ。 石川さん愛用のカメラの話がこのインタビューの主役なのであるが、彼の二台のプラウベ ルに金属のレンズフードは1個しかもっていないことが判明。それで冒険撮影から戻る と、そのゆがんだレンズフードをハンマーとペンチで補修するとのこと。
不思議な存在感のある人と書くと分かりやすいのだが、その存在感のないところに存在感
があるとも言えそうだ。すでに何事か成し遂げてしまった後の何も手にもっていない開放
感みたいなのが、32歳にただよっているのが実に不思議なのである。
帰宅してバスルームでぬるい湯につかって、石川直樹を何にたとえようと考えた。
眼前に浮上したのは、「素焼きの大きな甕」である。その真ん中に斜めに長い割れ目が出 来ていて、そこから中に満たされた清水がゆっくりと滲んでくる。
これが自分の石川直樹像だ。そういうのに比較すると自分などはそこらの「猫の茶碗のか
けら」であることも分かった。
例によって、対談にはライカと1929年製のプラウベルの1型を持参した。出掛けにま たもデジカメを忘れたので、今回も石川さんのショットはなし。ポケットの中に忘れてい たミノックスA型で真正面から石川さんを撮影した。まだ現像に出していない。 それで出版社と相談してそこの2年間分の日記をハードカバーの本にした。文芸評論家の福田和也先生からサジェスチョンされて作った日記なのである。元はと言えば福田さんと私がしこたま飲んで終電の丸ノ内線に飛び乗ったその車内で福田さんはいきなり私に向き直って素面になり、長徳先生佃日記を出版なさいませんか?と言ったのであった。 それで私は嬉しいので早速フイルムを装填して撮影した最初の1枚がこれなのだ。ブラックコンタックスは逆ガリレオ式ファインダーであるから画像が小さく見えるのが逆に新鮮であった。さらに新鮮なのは繁華街であるマリアヒルファー通で銀行の看板を交換しているところに出くわしたのである。
看板の取り替えと言うのは50年とか75年にいっぺんと言うレアなオポチュニティーであると思うからこれはと言うので一生懸命撮影した。一生懸命と言ってもたくさんカットを撮影したと言うのではなくてたった1枚だけである。出会いと言うのはそういうもので良いのだと私は考えているのだ。 私はメスカップを持っていないような現像作業の非国民なのであるが、手元の片手鍋で適当に現像液を希釈して問題なく仕事をしていたのである。3年ほど前から益子タンクを使うようになってどうも現像液の量を間違えて時々失敗をする。これが35ミリであれば現像液が足りなかったりした場合横画面の撮影なら画面の上の方が真っ黒になるからこれは私の好きな光量不足の表現と言うわけで、そのままプリントしてしまう。現に2年前に開催したギャラリーバウハウスのハノイをテーマにした写真展で現像不足の横画面の作品がちゃんとコレクターが買ってくれているのである。 あたしがフォコマートにこだわるのはエルンスト・ライツGmbH謹製
だからであって、そうでなければダーストでも、オメガでも、富士でも、
ラッキーでもなんでもいいと思っている。それぐらいエルンスト・ライツ
製というのはありがたいのであり、ニューヨークライツが作った三脚や
エルンスト・ライツ・カナダ(エルキャン)製のレンズなどは由緒正しく
ないからあたしは使わないのである。 つまりスピーディーが自慢のローライフレックスにとってこのピストルグリップがローライフレックスの撮影の迅速性の足を引っ張っている理由と言うのは右手でフィルムクランクを回して手を持ち替えてもう一回右手でハンドグリップを握ると言うところにある。
ローライフレックスの他のシステムと言うのは実によく考えられていると思うのだがこのグリップに関してはどうしてこういうスタイルになって右手でしか操作できないようになったのか未だに不明だ。 それよりも我々が気になるのはこの写真でローライマジックを使っているグレースケリーがホールドしているローライマジック用のオリジナルのストラップのことである。普通のこの当時のローライフレックスのストラップはカニのハサミと言うタイプのやつでカメラ本体に当てると自動的に結合するモデルである。ところがどういう理由か知らないけれどもローライマジックはローライフレックスよりも1段階下のクラスと認識されていたようで安物の安全ピンを曲げたようなストラップアイレットが付いている。 それでグレースケリーと言うとケリーバッグぐらいしか知らないので一体どんなものかと思ってウィキで調べてみたら1,500,000円位する大変な高いカバンであることがわかったそんなものを買うぐらいならまだライカM10/野口ルックスをつけたのを買ったほうがいいかもしれない。
この有名人が使っているローライフレックスの写真を見て面白いのはマリリン・モンローなどはカメラの手つきが全然なっていないことである。おそらくカメラマンがマリリンのアクションが決まらないので持ってきたローライフレックスを持たせてポーズを決めたと言うような印象がある。
それに対してグレースケリーの持っているローライマジックは彼女が実際にカメラを操作しているのがわかって心強い。要するに指を観察すると指の行くところにちゃんとデバイスがあるわけだ。それでグレースケリーが実際にこのカメラを愛用していたと言うことがわかる。 私の経験では一昨年の秋にライカM10と野口ルックスの組み合わせで撮影をしてみたのだがその印象は10メーター位の撮影距離で街中のスナップショットをやると10メートルのところにだけピントがあってその前後がなだらかにぼけることだ。実際に人間の視神経もそのような見え方をしているのであろうが、視神経の場合は連続して風景をスキャンしているからそれに気がつかないだけなのであろう。 今でもその巡回修理の声を思い出すことができてその声を思い出すと私の頭の中には昭和20年代の文京区音羽5丁目の風景が浮かんでくる。ボロボロの木造家屋が立て込んだ路地裏であって、電車通りと言うのは今の音羽通りであるがそこに2路面電車がゴトゴト走っていた。あとは馬さんとかうしくんがガラガラに車を引いて通った。 今の時代はカメラ選びがまず人生の一大仕事である。カメラの存在の幅というのが、ペン ペンからデイアドルフまで、なんでもありの広い守備範囲になったのは嬉しい。
反面、写真家はそれぞれに首を突っ込んでしまうので、時間がいくらあっても足りない。 それでここが大事なのであるが、カフェの日よけは一方が斜めに下がっているのがあたしの感じる「御茶屋の美学」である。 しかしパリのルーブル美術館の入り口で極東の人間が怪しいプレスカードを提示して無料で入ろうとしたときに彼らができる最善の対応と言うのはそのバックグラウンドを考えるよりも黙って入れた方がリスクは少ないし結果的に文化的なことになるのである。 日本の場合はなんというか酒飲み大会ドンチャン騒ぎと言う楽しみの村の寄り合いみたいなことに
なっているのは残念な次第だ。 不思議な存在感のある人と書くと分かりやすいのだが、
その存在感のないところに存在感があるとも言えそうだ。
すでに何事か成し遂げてしまった後の何も手にもっていない開放感みたいなのがただよっているのが
実に不思議なのである。 眼前に浮上したのは、「素焼きの大きな甕」である。
その真ん中に斜めに長い割れ目が出 来ていて、そこから中に満たされた清水がゆっくりと
滲んでくる。これが自分だ。そういうのに比較するとそこらの「猫の茶碗のかけら」であることも
分かった。元はと言えば私がしこたま飲んで終電の丸ノ内線に飛び乗ったその車内で
私に向き直って言ったのであった。それで私は嬉しいので逆に新鮮であった。
さらに新鮮なのは繁華街であるマリアヒルファー通で銀行の看板を交換しているところに
出くわしたのである。看板を交換と言うのは50年とか75年にいっぺんと言うレアな
オポチュニティーであると思うからこれはと言うので出会いと言うのはそういうもので
良いのだと私は考えているのだ。今でもその巡回の声を思い出すことができて
その声を思い出すと私の頭の中には文京区音羽5丁目の風景が浮かんでくる。
ボロボロの木造家屋が立て込んだ路地裏であって、電車通りと言うのは今の音羽通りで
あるがそこに2路面電車がゴトゴト走っていた。カフェの日よけは一方が斜めに下がっているである。 考えてみれば日大写真学科の4年間と言うのは私にとって反面教師とでも言えるものであって、そういうのが嫌になって私は東京をスナップする方向に自分のフォーカスを合わせていたのだ。だから結果として見る⇒日大芸術学部写真学科と言うのは私に写真学科の退屈な授業から逃げ出してスナップシューティングのほうに目を向けさせてくれたと言うわけで非常に立派な大学であると言う見方も可能である。 思えば10年以上前のことであるから今日本で大流行のマウントアダプターでありとあらゆるレンズはありとあらゆるデジタルカメラにつけて遊ぶと言う時代にはまだなっていなかった。私が命名したところのデジタルカメラマウントアダプター1000日回峰行と言うやつである。 やはり現代のセルフポートレートの定番と言うのは斜め45度上から光が当たったいわゆるレンブラントライティングと言うやつだ。GRができて25年になるとか言うのでそれ用の記事を送ったら一緒に顔写真も送ってくださいと言うリクエストが来たのである。それで慌てて部屋で最新型のiPhone 6を手に持ってレンブラントlightningっぽいカメラアングルで1枚だけ撮影した写真がこれである。 アルフレッドスティグリッツが20世紀の初めごろに5番街にあったギャラリー291での最初の写真分離派の企画、と言うのは写真に残っているがもしかしたらアルフレッドスティグリッツはこれと同じような写真展の構成図を制作していたのであろうか?もし存在していたらそれは国宝を超えるような貴重な文化資料になると思う。 しかしアルパの最も初期のモデルがいいなと思うのはその手触りとシャッターの音を含める操作感覚なのである。スイス製のメカニカルな高級時計のネジを巻いているのと同じ感じのフィードバックがそこにもたらされるところが素晴らしい。それに何が素敵かといってバッテリー切れの心配がない.。これはすばらしいですね。 あのむさ苦しいじいさんに会うのに4000円も取るのか。強気だね。 須田さんが手に入れたばかりのトヨタカローラ1100であっちこっち歩きまわったり酔っ払って谷中の裏のお寺の石段をカローラで登ろうとした。一緒に雪の降っている飛騨高山に行ったこともある。 思えば尊敬する写真家ウォーカーエバンスのほとんど処女作品と言えるのがアメリカの詩人ハートクラインと一緒に発表したBrooklyn Bridgeの作品であった。 スイス製のAlpa Rotoと言うカメラがあってこれはフィルムカメラで360度全部取れると言う進んだカメラである。グローバスコープと言う70年代に作られたパノラマカメラは35ミリフィルムを使って360度の撮影ができる。それらのカメラを所有しているのであるが唯一の問題点はあまりにも縦と横の比率が長すぎると写真家としては美学的なコントロールができなくなると言う問題がある。 あたしはじつはライカよりレクタフレックスのほうが好きなのである。
それはフランスのエスプリを感じさせるボデーのデザイン、ロゴの
なせるわざで、機能的には大したカメラではない。しかし、一眼レフと
いうのは正義であって、あたしは一眼レフ党を創立したいぐらいに一眼レフ
にぞっこんなのである。 この日の10年前の記憶は明らかではないが確か西新井あたりから竹ノ塚に向かう長い長い路線のバスに乗ったのではなかったか?そこには私にとってベルリンとかプラハのよりはるかに遠い旅の記憶がある。 四半世紀前パリのポンピドーセンターの路地裏を歩いているときに上の方から口笛で聞こえてくるザインターナショナルを耳にした。上の方を見ると屋根を修理している労働者の青年2人が口笛でインターナショナルを吹いているのである。そこで私は冗談心から同じく口笛で彼らの曲に伴奏をつけたのだった。 あたしのように長年、ウイーンとかプラハとかローマンカソリックの重々しい金泥とデコ レーション過多の環境に埋没していると、こういう北ドイツめくシンプルな神様の家を見 ると「ああ、これこそが本物の信仰であった」というフレッシュさを感じるのである。 こういう大樹は昔にはそこここに存在した。あたしの幼年時代がそうだった。フェリーチェ ベアトーも幕末から明治の江戸の巨木を撮影している。
そういう巨木は切ってはならない。 何しろデジタル一眼レフが登場するずっと前の話だから実用品としての価値をちゃんと持っていたのだ。キャノンフレックスの交換レンズが35ミリは明るさがエフ2.5だし、85ミリはef 1.8と言う高級レンズであった。私はライカM2にほぼ同じレンズ構成と思われる85ミリef 1.8を愛用していたので視神経のストレスと言うのはなしにライカからキャノンフレックスにシームレスに移動できたのであった。 原田さんの遺作展は満員の大盛況だった。友人の野々宮らを「千円で呑み放題」とさそっ
て定刻より10分遅れて会場に駆けつけたら、すでに酒も水の一滴すらなかった。焼け石
に水状態であった。 撮影した8 × 10インチのモノクロフィルムは100数十枚になった。ホテル暮らしであるから現像はできない。1983年の夏になってSohoのロフトで留守番をすることになって初めてダークルームでそれらのフィルムの現像が出来るようになった。 四半世紀ほど前に一緒に仕事をした編集者が言っていた言葉で記憶に残ることがある。それは雑誌や本を作っているときに編集者が作るのがめんどくさくなるとすぐ座談会に逃げると言うのである。
これはかなり正直なダイアログであると思う。それで私がなぜクラブハウスを辞めたのかと言う理由は2月5日から35日間連続して毎日午後6時55分から7時30分まで毎日1日も欠かさずにクラブトークでカメラ話をやっていたのである。 ウィーンのランドシュトラッセのマーケットに行くと内臓専門のお店があって驚くほど安いのであるが牛の舌は大きいのが1本大体500円位でかえたのである。いやもっと安かったかもしれない。それを買って帰って野菜と一緒に煮込んだり大して手間をかけないのだが牛の舌を調理して食べると言う事は何か毎週毎週繰り返されるウィーンの普通の暮らしの中での句読点のようなものに感じられた。 ピンチヒッターであるが当時沢木さんと同じ原稿料をいただいてその額にびっくりしたことがある。それから20年後にホーチミンのラウンジで沢木さんに偶然会ってからお付き合いが続いているのだが、その私のピンチヒッターの話は沢木さんは忘れていらしたようである。その時の記憶が私にとってはっきりしているのはその場所が四谷荒木町のあろうカメラのすぐ裏手にあるお寿司屋さんであったと言うことにもその理由がある。 しかし私も1時は都市風景の写真表現はもう飽きたからここで心機一転してお花写真家になろうと決心はしないけれどもちょっとやってみたことがあった。しかし私が撮影するお花はどうしても都市風景みたいになってしまうのでやめました。
桜の花に関して言えばそこに日本的な精神を重ね合わせて撮影する人が多いのであるが私はそれは大嫌いだ。単なるバラ科の灌木に過ぎないのであってそこに大和魂などを重ね合わせては桜の花にしてみれば迷惑この上ない。 お店に置かれている小さなアクセサリーで家の佃のカメラジャングルにあるものと共通しているものが少なからずあったので気分はリラックスしておおたかの森にいるのに佃島にいるような気分になった。 ヨーロッパの古い建物を見ていて私がいいなと思うのはレンガ造りのエントランスが塗り込められて壁になっていると言う光景である。そういう見えていた光景が見えなくなると言うのもかなりラグジュアリーなツーリズムでないかと考えているのである。 つまりカメラとレンズは趣味の領域で考えるならばどんなに高くてもどんなに安くてもそれは趣味の表現の自由と言うことで歓迎されるのである。最近の私は中国製の安くて高性能で明るいレンズに興味を示しているのであるが、実際にそういう作例をネット上にアップしても誰も信用してくれないのでカメラクラブの友人知人が持っている高級なライカデジタルカメラとか、1,500,000円するような高い野口ルックスを借りて比較撮影をすることがある。
それで皮肉な事というか当然のことながら、価格の差が15倍ぐらいあるにもかかわらずその画質の差は全くないのである。だから高いレンズがいいとか安いレンズがいいとか言う話でない事は言うまでもない。 25年前にプラハでウィリアムクラインに会っていろいろ一緒に歩きながら話をした。10年ほど前にウィリアムクラインが来日したときに彼はステッキを手にしていたのでおやもうそんな歳になったのかと思ったが、写真家にはステッキが似合うなとその時思ったのである。 最近の1連のモノクロブームに私は腹を立てているじじいである。若い連中がモノクロにはまるのは、いつもおいしいご馳走ばかり食べているけれどたまにはあっさりしたお茶漬けもいいよねと言っているようなものでこれは視神経のほうとうの極みなのだ。 インバウンドの観光客が来なくなって1年半になるのであるが確かに外国人観光客にとっては日本と言うのは食品とかそういうサービスが安い国だと思う。私が長く住んだチェコのプラハですら最近簡単に頭の中で計算してみると極東の東京の方が生活費が安いのである。ところが30年前のプラハの物の値段を考えると今の6分の1位ではなかったか? 思えばパノラマカメラの撮影で1番理想的な撮影はチェコのプラハの巨匠Sudekだと思う。1898年末のコダックパノラマカメラを使っていた大写真家であるが、彼がこのカメラを使い始めた1950年代にはすでにこのパノラマコダック用のロールフィルムと言うのは生産中止になっていた。それで写真家は8 × 10インチのフィルムを半分にカットしてダークルームでフィルムを1枚装填してテープで固定して撮影に行ったのだ。1枚撮影するとまたダークルームに戻ってフィルム交換と言うわけだ。 エントランスホールのソファーと絨毯がなくなったのでよく見るとそこにあるのはダビデの星なのである。前からこれはダビデの星じゃないかと思っていたのであるがそれまでは巨大な絨毯が引かれていたので全貌が見えなかった。そして床が全部見れるとやはりダビデの星なのである。これがニューヨークだったらダビデの星もわかるけども何か適当なデザインを使ったのではないかな?ここは日本だからね。 手に入れたばかりのニッコール2.1センチの広角レンズをブラック仕上げのニコンに付けていた。それで子供たちが集まっている紙芝居のおじさんの姿をごく近くからファインダーを覗かずに撮影したのであるから私のテクニックはこの半世紀全く変わっていないわけだ。 三角形のペンタプリズムと言えば頭脳カメラが象徴的である。その帝国光学は後にヤシカカメラに吸収されたのである。ある時幻のカメラである頭脳カメラの上から見たペンタプリズムとトップカバーのスタイルの写真を見ていた時に、手元にあるヤシカの一眼レフのかなり初期モデル、ヤシカペンタマチックのトップカバーに非常に似ていることに気がついて私はこれが頭脳カメラの染色体なのかと面白があったことがあった。 あたしが日ゲイを卒業して日本デザインセンターに入社した理由は、
なにしろ亀倉雄策たちが設立した広告会社だったからだ。あたしは
学生時代ニコンエフに色々なレンズを付けて撮りまくっていたニコン党員
だったから、ニコンエスピーやニコンエフのデザインを担当した亀倉は
神のような存在だったのだ。そしてチーフデザイナーに田中一光がいた
のも大きかった。しかし、入社するとトヨタの車ばっかり撮らされて、
これは写真芸術ではないと感じたので退社し、フリーランスになったのである。 和服デューティーをやる人は新人が多かったそうなので知り合いも新人の時代にそーゆー仕事をやったのであろう。日本航空などもビヨンドライトというのがあったから西海岸に到着した機材がさらにアメリカの国内線に接続している場合がある。知り合いの場合はそれでアメリカの有名な女優さんに「ビューティフル」と褒められたそうである。これはアメリカ大統領ファーストレディーに褒められるよりも名誉なことではないのか。 Midoriと言うリキュールは今ではもうJalには搭載されていないと思うけれど、マンハッタンなどでは結構人気のリキュールで1980年代にマンハッタンに住んでいた若手美術評論家の奥様がこれが好きであった。ダイニングに行ったときのアペリティフでMidoriを所望なさるのである。それで家人と私はその人をみどりちゃんと呼んでいたのである。 作例写真によく登場するスワンボートも嫌いだけど作例写真によく登場するもう一つの嫌いなモチーフと言うのはモトクロスと言うオートバイの競技でライダーが空中に浮かんだところを高速シャッターできれいに捉えましたと言うのも大嫌いだ。そういうようないろいろな理由で私は作例写真家としては三流の存在なのである。 あたしはいわゆる風景写真、ネーチャーフォトが嫌いである。また、
ねえちゃんフォトも嫌いなので、ポートレートは撮らない。乗り物の
写真はほとんど嫌いで、とくに飛行機のたぐいが嫌いである。というと
友人の田村彰英に申し訳ないのだが、田村の撮る飛行機の写真は
ほんとうに素晴らしい。田村彰英と言えば、本名は田村茂なので
あるが、ペンネームを田村茂という日本リアリズム写真集団の写真家に難癖を
つけられた、やむを得ず通名にしたのである。この一件以来、あたしは
日本リアリズム写真集団というものが嫌いである。 1971年当時100,000円と言う本体価格だから大変な高いカメラであった。私が日本デザインセンターを辞めたときの月給が55,000円なのだから大したものだと思う。それでこのフォトミックAファインダーが何が魅力かと言うのを説明するのに適当な言葉が見つからないのでいつも会話するときはガンダムみたいなファインダーと言っているのである。
といっても私はガンダムが何であるか知らないから適切な使用方ではないと思うのではあるがそれを聞いた人はそれなりに彼らの知っているガンダムと言うイメージで私の言わんとすることを理解してくれているようだ。言葉の利用法と言うのはそういういい加減なところでもちゃんと機能するから便利だと思う。 1985年であったと思うがシンガポールとマレーシアに撮影に行ってその時、名物のスコールが降ってきたら使ってやろうと言うのでこのカメラを持参した。ところが実際にはうまくいかないものでマレーシアで東洋最大のモスクを撮影したときにいきなりスコールが来たのである。近くに止めておいた車に走り込んで今こそ水中カメラの出番と言うわけでセットアップして出ようと思ったらスコールは瞬間的に降って瞬間的に停止するので既に雨は止んでまたヒノヒカリが差してきた。 カレーに関して言えばニューデリーにカレーの武者修業に行ったことがあって我々異文化のツーリストはまずノンベジタリアンカレーに連れてかれてチキンカレーか何かを食わされるのである。それで翌日から街を一人歩きして菩提樹の下にインド哲学をやっているような白衣のおじいさんが巨大な鍋をかき回しているところから、本物のベジタリアンカレーをステンレスのカップに入ったのを受け取ってチャパティーが3枚か4枚あってヒンドスタンTimes16分の一に切ったやつの上にそれが乗っていて路上にしゃがんで食べるのである。 二十年前、やはり真夏の佃の午後にわだかまる夏雲をカラーで撮影した。それは妙に黄色 い夕暮れであった。そのショットを日本カメラの連載に発表して、なにやら黄色にシフト するニッコールのことを書いた記憶がある。今にして思うと、あれはレンズのバルサムが 黄色く変色していたのだった。 この個体は外見はご覧の通りだが、レンズの色相は確かである。 当時のレンズの名称のtokyoというあえかな文字が良い感じである。 新川の雁木のテイクアウトは非常にうまい。そういう蕎麦屋がなじみであるとありがたいが、文芸評論家の福田和也さんから聞いた話であるが銀座8丁目の何とか言う老舗のお蕎麦屋さんで何かの雑誌に大酒のみが天抜きの話を書いたら、翌日から来た若い客が全員天抜きで燗酒を注文したそうだ。女将さんは気骨のある人だからちゃんと説得して若い人に天ぷらそばを注文させたそうである。 この数年、良く使用するレンズがソ連製の戦前のこの鏡玉である。これをヘキサーrfに付 けてみると、「フルサイズのアナログカメラ」としては非常にバランスがいい。 世の中はデジタルでないと商売にならばいのは分かるが、最近見た展覧会とか映画で、グ ルスキーとカニンガムの事が気になった。かれらの仕事はデジタルとアナログのハイブリ ッドであることに気がついた。 これはこの数年のかなりの「あたしの中での発見」だと思うのでそのうちちゃんと書いて みたい。 バブルの頃は年収の売り上げが30,000,000位あったんだけれど最近では典型的な貧困老人家庭になっている。それで月に1階ぐらい銀座8丁目の肉のハナマサに緊急の食料をまとめ買いしに行くのである。
業務用のカレーのレトルトの激辛というのが98円である。これに慣れてしまうと普通のスーパーで売っているレトロ柄じゃなくてレトルトカレーは買えないね。それと韓国製のわかめのふりかけと言うのをいつも買っているのだがこれは塩分が少なくて非常によろしい。 しかしカメラの下につけるグリップの位置で正統派と言うものは存在しないわけであってそこら辺のこのアクセサリーの開発の目的がやはりわからない。それで思い出すのは友人スミスのカメラワークのことなのである。初期のスミスが日立を取材した時は4台から5台のニコンカメラにいずれもハンドグリップをつけていた。その話はなくなった森永純さんから聞いている。 私は本場のインドカレーでもベトナムの本場のPhoのでもそうだが路上でしゃがんで食べるのが好きなのである。一般のツーリストの人は水の扱いが汚いとかたまり水でカップを洗っているからとかいろいろ有用であるが私はそういう野趣があるのが好きなのだ。もっともデリーの駅前の菩提樹の下で食べるカレーの場合はしゃがんでいるけれどもベトナムの場合は菩提樹の下でもちゃんと小さい子供が風呂場で使うような小さな椅子を用意してある。これは私のような腰痛持ちには座るときにはかなり注意が必要である。 あたしがパノラマ写真を好むのは、チェコの巨匠ヨーゼフ・スデクが
パノラマカメラで都市風景を撮影しているからである。スデクの頃は
まだ回転スリット方式のパノラマカメラがなかったが、パノンgワイドラックス
を出して、新しい表現ができる可能性が出てきた。あたしはとくにロシア
のKMZ製のホリゾントなるパノラマカメラが好きである。ワイドラックスが
35ミリフィルムを使うのに対して、ホリゾントは120ロールフィルムを
使えるという優位性があるからだ。あたしが貧乏で安いホリゾントしか
買えなかったなどと言う輩は犬にでも食われればいいのである。 持参したカメラは16ミリのArriflex 16SRだった。リスボン発アムステルダムの便である。これならば飛行航路でうまい具合にパリの上空を飛ぶことができる。朝7時ごろリスボンの空港を発ってちょうど8時半頃に太陽がパリの街並みを斜めに照らす時間帯に偶然とは言いながらパリの上空から映画撮影ができた時は嬉しかった。ズームレンズでクローズアップしてエッフェル塔と凱旋門を大きく拡大して撮影したのは言うまでもない。 もっともこの7 8年北京に行っていないから今でもあるかどうかはわからない。北京のオリンピックもその前と後では大変な違いであって私が行きつけの食物や街などはそっくり退屈なショッピングモールになってしまった。東京の場合は立売のホットな食べ物というと焼き芋である。でも焼き芋と言うのは私の記憶ではつぼ焼き芋と言って最初は街中で固定して売っていた。 1980年頃の話であるがアメリカのモダンフォトグラフィーのKepler編集長について日本のカメラ外車のトップの方にインタビューしたりカメラ工場を見学に行ったりした。その当時は中国製のカメラなど全く相手にされていなかった時代にモダンフォトグラフィーの編集長は中国製のカメラに興味を持って10日間ほど北京などに取材に行ったのである。
モダンフォトグラフィーは当時75万部の発行部数を誇るメジャーなカメラ雑誌であった。そういうメジャーな雑誌の編集長にしても雑誌で中国カメラ特集は最初からできないと考えていたらしく針金当時24ページぐらいにでも小さなリーフレットみたいな中国カメラレポートを出したのである。 世の中デジタルカメラがなかなか伸びなくて伸びるのは高級なクラスのやつばっかりでヘンテコリンな時代であるが私も考えてみれば最近ではクラシックなフィルムカメラは持っていくけど、デジタルカメラは持っていうかない。画像を記録するのはもっぱらiPhone SEなのである。 15年位前に日本路地裏学会と言う研究機関を冗談でやっていて、Momoki会長について東京のあっちこっちの路地裏を探検したことがあるがその時持参したのはこの間宮フレックスオートマットであった。75ミリのレンズと言うのはこれだけ1本持っていればたいていの路地裏の写真は撮影可能なものである。 Adox 300と言う製品なのであるが何が山白なのか未だによくわからないと言うところもこのカメラの存在感の謎を深くしている。カメラは裏蓋を開けると中に独立式のマガジンが入っていてそれを交換すると言うシステムである。間宮曲35の場合はカメラの下半分をそっくり交換すると言うやり方であるからどちらが優れているかに関しては一言では言い難い。それで私は間宮マガジン35とこのカメラを複数台所有していてどちらが優秀なカメラシステムであるのかこの20年来研究しているのであるがいまだに結論は出ない。カメラ研究と言うのはそういうものだと思う。 カメラメーカーのカメラを作る人はレンズに対してはなかなか鬱屈した審美眼を持っているようである。例えば間宮光学の間宮さんが作った理想的な中判カメラにマーシャルプレスがあるが、Sekorと言う優秀なレンズがありながらわざわざマーシャルプレスのためにニッコールを提供してもらっているのである。
レンズのブランドによる差別化と言うのは今ではカールツアイス等はみんなコシナレンダーになってしまったから何とも思わないけれども、1950年代のまだよちよち歩きした西ドイツのカールツアイスの時代にはそのレンズブランドをオプトンと呼んでいたのである。当時のアサヒカメラのローライフレックスのレポートなどを見るとJenaのテッサーは優秀だけれどオプトンテッサーは大したことないなどと差別的に扱われていたのである。 数年前にガラクタ屋さんで手に入れた理コレットである。このカメラは初期の一般向きの35ミリカメラとしてはまずその作りが非常に良い。標準は45ミリレンズ付きでおそらくこれはトリプレットレンズだと思うけれど私はトリプレットレンズが大好きだ。 ジョナスの映画と言うのは映画館ではなかなか上映される機会がないからそれをピンポイント的に探して映画館に見に行くというのが10年に1度位の楽しみであったのだが、10年ほど前にアニエスベーがDVDのワンボックスにしてしまった。10,000円位の値段でロンドンから買ったのであるがこれが良くないのである。良くないと言うのはジョナスの仕事のことではなくて目の前にDVDボックスがあるといつでも見られると言う安心感からジョナスが遠ざかっていくのだ。 大漫画家に「紅い花」とか「ねじ式」の話を聞けなかったのは残念であるが、そういう話だったら、つげさんは自分の誘いには乗ってこなかったのは確かだ。
もっぱら、あたしがつげさんに「ライカ」を薦めたのに対して、つげさんは国産一眼レフ に固執していた。ニューヨークでつげさんから依頼されたミランダTを買って、翌年、帰 国してからつげさんのお宅をたずねた。
例の3畳の仕事場には大昔の本棚があって、そこにはカメラが充満していた。持参したミ ランダTの値段が2万円というと(これはマンハッタンで買った価格なのだ) 昔、ネットが普及し始めの頃はオフ会して名刺交換したり職業や家族の事ベラベラ喋ってたけど、今考えたら恐ろしい事してたんだな 1970年代にウィーンの友人に連れられてドナウの北、ワイン村にに出かけた。フォルクスワーゲンのVanで出かけるのであるから最初から地元のワインを買うつもりなのである。ドナウ川の南にある小さな村はワインの名産地でワインと言うのは上がワインの畑であってその下が地下蔵になっていてそこで醸造されるのである。その年にかもされたまだ辛いワインをカントリーのど真ん中の荒屋で味見していたらいきなり同行の日本人のバリトンの声楽家がからたちの花を歌いだしたのが良かった。 馬のおしっこめいたアメリカンバドワイザーなど最初から飲む気がないからアメリカ人はかわいそうな人種だと私などは思うのである。世の中、自粛の大流行で皆さん早くフリーになってどっかに行きたいと念願している気持ちはわかるがその行く先が1泊2日の単純な温泉旅行では自慢にもならない。不要不急の1泊2日を止めておうちで静かにしている方がはるかに精神的には充実すると思う。 あたしはコロコロウイルスなんてまったく怖くないのである。あれは
風邪の一種だから、大騒ぎするほうがおかしいのである。だからマスク
もしたくないのであるが、マスク警察とトラブルのも面倒なので、いちおう
外出時にはマスクをかけることにしているのである。日本の感染者数
などさざ波に過ぎないので、大騒ぎするほうがおかしいのである。まったく、
世の中狂っていると思うが、無駄に波風を立てないのがあたしのモットー
なのである。 カールツアイスの最高級の素材で作られたレンズはいつも携帯して歩くにはやはり歳をとってくるとずっしりしてあまり快適とは言えない。つまり作りがあまりよろしくないフォクトレンダーのレンズの方が傾向性には飛んでいると言う皮肉な状況なのだ。
戦前に作られたプラウベルマキナであるが標準レンズは100ミリのef 2.9であるが、旅行者用レンズと銘打った100ミリのef 4.5というのがある。わずかに重さは軽いのであるがこれが探すとなかなか発見できないので手に入れるまで苦労した記憶もある。結局人形町の喫茶店Kaiseikenのマスターから譲っていただいた。
ブラックコンタックスにこの21ミリレンズをつけた組み合わせが好きだ。フォーカシングをするわけではないし21ミリのファインダーをつけるわけではない。ただこのカメラを目の高さに捧げ持ってノーファインダーで撮影をするのである。 74歳の誕生日を迎えて痛感する事は、私は人間関係に恵まれていると言うことだ。金銭関係には恵まれていないけどそれより重要なのは人間関係。あろうカメラを中心とした悪の枢軸3人組が私の74歳を祝って新しいwinの写真集を出してくれるのである。感謝感謝。 本当に幸せなヤツはSNSで自分は幸せアピールなんかしないんだよ いいじゃない。団塊世代は自己自慢したがるものだから
アカギ先生の本もアナログ時代の過去自慢が多かった
雑誌に広告出していた千曲商会、従業員がコロナを嫌って退社したので閉店だそうだ
オーナーコレクションも閉店セールに出すとニュース報道 >>834
コロナを理由に使っただけ。クラカメが売れないのが理由。 長徳さんのまどろっこしいグダグダな文章は飽きるんだよね
あまり頭良くないんだろうなと思う >>834
アカギコは段階の世代よりも10年若いよ。 仕事で結構世界中に行っているが行ったことがないのはハワイアイランドである。その当時オーストラリアの東海岸を集中的に取材したことがあってゴールドコーストで市長さんにインタビューした時、街中の表示が日本語になっているのを見て、これは道路表示ですよ。シンガポール占領ではないんだから、そこまで日本人ツーリストに気を使わなくてもいいのにと思った。さらに不思議なのはハワイに行ったことがないのでわからないがほとんど日本語で用が足りるそうである。 あたしはライカの権威のように見られているが、中川一夫さんの足元にも及ばない。 ハトヤのコッペパンのトラディショナルな食べ方はキラキラ橘商店街の会長が話していたが、ハトヤでコッペパンを買って並びのお肉屋さんでコロッケを買ってサンドイッチにするのがうまいと言うのである。
50年ほど前に銀座の日本デザインセンターに勤務していた時に昭和通りを渡って築地の裏手にあるコロッケ屋の銚子屋でコロッケサンドを買ったものだが、50年も経過すると有名になりすぎて味が落ちた。あるいは我々が贅沢になりすぎたのか? 私も数だけはたくさん本を出しているがあとがきには力を入れていると言うよりも、同業者とか編集者が見るからそれなりの気をつかっているのである。それで数年前から私が若い時の写真とひげ爺になってからの写真を使った写真集をどっかの出版社で出してもらおうと画策していたのであるが、半世紀お付き合いのあった築地のほうは去年なくなってしまうし、人形町のほうもこんなことになってしまったのでとりあえず出版社の予定がない。
どこかの真面目な出版社がそういうコンセプトの写真集を出してくれないかな? あたしの代表作は「ウィーン・ニューヨーク・新潟」(1991年)である。
タイトルはヴィム・ヴェンダースの映画「パリ、テキサス」に
影響を受けてつけたものだ。このロードムービーをスチルで
置換するとどうなるか、という実験的な写真集である。「なんだ、
下手くそ」などと言う輩は犬にでも喰われればいいのである。 >>839
どこをどう見たらあんなポンコツジジイがライカの権威になるんだ?
団塊ジジイってホント頭おかしいよなw 森下はつい最近麻布のフォトギャラリーインターナショナルで最新の個展を終わらせたそうだ。評論家の飯沢がもっと楽しい写真を撮りみたいなお節介を焼いてきたらしい。若い写真家にしてみれば嬉しいことなのであろうが、飯沢が風太郎の心からその成り上がりを知っている私にしてみるとこれは不愉快な話である。
でも森下はちゃんと自分の強靭な視神経を持っているから飯沢が吹くコブラの笛で踊るようなやつではない。 あたしはカメラ評論家ではあるが、写真評論家ではない。写真を文字で
表現するのは至難の業であることを身をもって知っているからなのである。
写真評論家という職業が尊敬すべき存在であったのは桑原甲子雄、
渡辺勉、金丸重嶺の時代が最後であって、飯沢ナントカなどという
ただの提灯持ちは評論家の名前に値しない。評論家とは批評家である
から、ただ写真家の紹介に終わっているような写真評論家は存在価値が
ないとも言えるのである。 あたしはalneaというハンドルネームでヤフーオークションをやっているが、
堂々と本名を名乗って取引をしている。こそこそ匿名でガラクタを売りつける
輩とは根本的に違うのである。あたしの出品するオールドカメラはそれぞれ
由緒正しいものであり、それだけの価値があるから、その価値を皆さんと
共有したくて出品しているのである。決して金儲けをするつもりではないし、
金に困っているわけではない。あたしの出品物は無造作に新聞紙に包んで
あるだけ、などを誹謗中傷の評価をするやつは犬にでも喰われればいいのである。 長徳先生御本人ですか?
何故ここに書き込むのでしょうか? 普通のカメラ付きさん例えば今は九州に住んでいる本小原さんなどはそうであろうがカメラをきれいに掃除してシャッターの不具合を調整してカメラを磨いてそれで満足と言うことなのである。これはカメラの楽しみの本質と言うことではあろうが私は性格が曲がっているからやはりそこにフィルムを入れて撮影したいと言うことになる。それで1つ思いついたのであるがカメラに付いている50ミリのレンズだけで写真を撮ろうと考えついたのである。以前このカメラを使っていた時は35ミリレンズをつけてずっと使っていたのだがどうもそれは人生を面白くする要素にはならないと言うことに気がついたのだ。 アル研と東亀にいた方でやたらと長徳さんをこき下ろす発言ばかりの爺さんは本当に不快でした。
でも会うと「尊敬する長徳先生!」全く態度が違う。
あの方は長徳さんに何か怨みでもあるのでしょうか? 私は1番使ったローライが55ミリの広角レンズのワイドアングルローライフレックスであった。ところが古いカールツアイスのレンズは経年変化で発色が黄色っぽくなるのである。それでもっぱらシュナイダーのクスナーがついたローライマジックを使っていた。このレンズは非常にシャープで発色もニュートラルなのである。それでこのローライマジックの本体にカールツアイスのワイドアングルコンバージョンレンズをつけると合成に焦点距離は52.5ミリになるのだ。
撮影の時に二台のローライフレックスを持っていくよりも1台のローライマジックを持参してワイドアングルの撮影が必要なときには広角のコンバージョンレンズをつければそれで用が足りるのである。
でもこれは理論的にそうなると言う意味であって1台のローライマジック2にこのようにワイドアングルコンバージョンレンズをつけっぱなしにしているから実際に撮影に行く時はワイドアングルコンバージョンレンズ付きのローライマジックともう一つ普通のローライマジックをもっていくこともあるのでどうも頭で考えているように人生はうまくいかないものだ。 >>851
私は気が触れた方とは極めて儀礼的な対応で逃げ切る まだサンダー平山さんが元気だった頃、銀座通りをアンダー平山さんと私が2人歩いていると向こうから来る通行人が良かったものであった。ちょうど私の本当サンダー平山さんの本が同じ渋谷区松濤の出版社から出た頃の話であるが、私をサンダー平山さんと見間違えて彼の本を差し出してサインをしてくれと言う人がいた。いちいち説明するのもめんどくさいので
田中長徳、、、サンダー平山の友達
とサインしたことがある。もう一つ面白かったのは銀座松屋の中古カメラ市の階段のところで坂崎幸之助さんと雑談をしていたらそこに私の読者の方が私の本にサインを求めてきた。私がサインをしたらその人は脇に立っている坂崎さんに向かって
あんたもついでにサインしといて
坂崎さんは人間ができているからちゃんとサインをしました。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合いによって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて、
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 あたしはASCIIのMacPower編集部に出入りしていた関係で、Macintosh
というコンピュータを使うことになった。編集部でまず薦められたのは
ノートパソコンのPower Bookで、あたしのようなNomad(遊牧民)に
とって、どこにも持ち運べるPBは便利この上ない。デスクトップには
なにを置こうかと思っていたら、NeXTというワークステーションの中古が
あった。かのジョブズがアップルを退社して創立したコンピュータメーカー
である。これは見てくれもよく、ちょうどハイテク家具のようなので、喜んで
譲ってもらった。しばらくして、ジョブズがアップルに戻ってきて、iMacやら
iPhoneを発売したので、これを使うことにした。とくに音声入力の尻はキー
ボードを使わなくてすむから、あたしのような無精者にはピッタリなのである。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人(アルパカ先生)など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合い(塾長)によって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて、
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業(いすゞ)の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 ウォーカーエバンスの使っていたライカカメラは1950年代の機材の保険のリストによればライカの3大なのだけれどもこれは30年代半ばだからバルナックライカで撮影されたのに違いない。カメラアングルが極めて基本の基本のドキュメンタリーであって何の衒いもないと言うところがエバンス先輩の凄いところだ。
彼が写真家としてスタートした26歳の時に当時のインタビューで若い写真家は自分は効果を狙ったような写真は大嫌いだと語っている。ウォーカーエバンスが憧れていたスティグリッツに白写真的な効果としていろいろなマニピュレーションを加えているのだがウォーカーエバンスにはそれがなくてどこまでもどこまでもストレートフォトグラフィーの道を突き進んでいるところがすごい。 私が使っているのは15年以上古いデジタルカメラである。工業デザインは何でもそうなのであるが1番最初に作られた工業デザインの存在感というのが1番素晴らしいものであってその後に続く1連の改良モデルと言うのは改悪モデルであることが多い。 私は貧困老人になってから思いつきでいらないカメラを買うと言うことがかなり少なくなったが私の周りにいる50代の元気な東京市民の皆さんは思いつきでいろいろ購入なさっているのは実にうらやましい。まず指を食するなら日立の杉ちゃんとかその親友の漂流者さんと言う所だな。 >>861
自分が50代の頃はそうやってたのに、他人がやるのは気に食わないんだな ウィーンに暮らしていた時はすぐそばの馬肉屋さんで大量に桜肉を買っていたのであるがいつも場内で鯨の肉を買って不思議に思うのはこれは魚類ではないのになぜここで売っているのかと言う単純な疑問である。でもそこで手に入れた鯨の肉を刺身にして食べるとうまいのでその証言的な疑問はすぐにクジラと一緒に飲み込んでしまうのである。
アメリカかどこかで漁師さんがいきなり船に乗っていたらクジラに飲み込まれたと言うニュースを最近聞いたがいきなり真っ暗になったそうである。クジラは変なものが口に入ったのでそれをすぐ吐き出したそうであるが、動物の本能としてそれは当然のことであろう。家のライカインコもそうであって鳥の豆だと思って食べたものが小さなビーズであったりしたのですぐホット吐き出したりした。野生動物は偉いなぁ。 それで10年以上1番最初のこのデジカメにはこのレンズがつけっぱなしになっている。レンズ交換はしないからほこりがつく心配もない。世界中持ち歩いてぶつけたりしているのでフィルターの枠の部分は46ミリのフィルターがもうねじ込めないほどに変形しているがデジカメは別にフィルターがつかなくてもPhotoshopで色は合わせられるから心配する事は無い。広告写真の仕事をやっていた40年ほど前には全部フイルムカメラであったからスタジオなどでスタジオさんに見えを着る時などは200枚ぐらい入ったフィルターケースをスタジオに置いておくのである。でも実際に使うコダックのフィルターは2種類位だった。 25年前にカメラジャーナルと言う個人カメラ雑誌をやっていた時に坂崎幸之助さん目は待ってくださったのでその中のセクションで坂崎さんのページでこのカメラについてご存知の方は?と言うコラムをやってこれが人気コラムになったことがあったな。それはまだカメラ関係の情報が印刷物で流通していた頃の懐かしい名残なのである。 デビットダグラスダンカンとウォーカーエバンスを写真の歴史の中でどちらが重要かと考えてみるまでもなくて、英雄なき戦争の写真家は相撲で言えば序の口だし、エバンス先輩のほうは横綱と言う位の差はあるのだ。にもかかわらずエバンス先輩のカメラが3,000,000円位でダンカンさんのカメラが1億円で売れたと言うのはこれは別に世の中の不条理と言うような深刻な話ではなくてカメラのプライスの設定と言うのはもともとポピュリズムの上に成り立っていると言うだけの話である。 もう誰にも相手にされなくて寂しいんですね。
若い頃いくら華やかだとかカネがあるとか言っても子供のいない老人の末路はみな同じです。
私は友人よりも家族の大切さを歳を重ねるほど実感する。 余命いくばくも無い爺さんからかうのやめなさいよ(笑) 友人スミスの大きな写真展がこの秋にギャラリーバウハウスで開催されるそうだ。スミスは完璧主義性であるからジャーナリズム命と言うわけで片時もカメラを手放したことがない。最低の状況でも1台のミノックスカメラを持ち歩いていたそうだ。そういう友人スミスであってみればiPhoneなどは最も素晴らしい機材に思ったに違いない。通信ができるなどと言うのは私の場合はどうでも良いことであって、ちゃんとした画像が撮れると言う意味でかなり評価しているのである。 レンズはテッサーの50ミリがついている。だから安心して使うことができると言うことになるのかな?もっともライカカメラを売り出したエルンストライツはそれ以前は35ミリのムービー撮影機器を作っていたのであるがそれについていたレンズはエルンストライツせいではなくてカールツアイスのテッサーなのである。しかしながらライカの父と言われたオスカーバルナックはもともとカールツアイスからヘッドハンティングできた人間であるから別に驚くには当たらない。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人(アルパカ先生)など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合い(Y縣塾長)によって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社(いすゞ)から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて(2ちゃんねる、アルパ研究会、東京カメラ倶楽部、)
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢(猫がほらさん)までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業(いすゞ)の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 ■日本人は自分が世界の先進国で、世界中の人が日本にあこがれ、日本を尊敬し、日本を見習いたいと思っていると、勝手に思い込んでいるようだ。
僕は、南米ブエノスアイレスでも、夜中に二時間もホテルを捜してさまよったことがある。
この時は、少なくとも10軒は断られ続けた。
部屋がないわけではないのだから、単純に東洋人に対しての人種差別だ。
北部アフリカのチュニジアでも、ホテルは出来るだけ東洋人を泊めないらしく、部屋があるにもかかわらずフランス語で「コンプレ(満室)!」と何度も断られた。
南米を旅行していると、子供たちから「チーノ、チーノ」と声をかけられてからかわれるのは、誰もが経験あるだろう。
チーノとは文字通りでは「中国人」という意味だが、僕が「ソイハポネス(僕は日本人だよ)」と言ったら、「だったらチーノだ」と言われたので、
チーノとは東洋人一般を馬鹿にした言い方のようだ。
LAでも、普通に生活していると、本屋でも、レストランでも、日本人を馬鹿にしたような態度をされることがある。
ユニバーサルスタジオの「アニマルショー」で、昔、客がどこの国から来たか呼びかけて、客が大声で「ハーイ!」と返事をしていたが、
日本人が随分いたのに、日本人だけが呼ばれなかったこともある。
日本人は自分が世界の先進国で、世界中の人が日本にあこがれ、日本を尊敬し、日本を見習いたいと思っていると、勝手に思い込んでいるようだ。
しかし、そう思っているのは日本人だけで、実際は、日本人は、世界中で馬鹿にされ、差別される立場だ。
日本人は、黒人差別はよくないと言うが、実際はアフリカでは、黒人が日本人を差別している。
僕はケープタウンのホテルでいじめられたこともあるし、ジンバブエのバスの中で、黒人の酔っ払いに日本人を馬鹿にしたことを言われて、絡まれたこともある。
世界の観光地、カリブ海になると客はほとんど欧米人だ。
そこに場違いな東洋人がふらふらと迷い込むと、欧米人観光客からも、ホテルのスタッフからも、現地の黒人からも差別を受けることになる。
僕が2004年に行ったT&T(トリニダードトバゴ)では、インド人からかなり冷たい扱いを受けたよ(涙)。 >>873
そりゃお前の風采とか態度物腰、言葉使い(語学力込)等に
問題があったからだろよ
日本人一般の問題にすり替えるなよ 私はニコンエフツーのチタン仕上げを行がって使っていたのであるが、旭川かどっかに取材に行った時に手元が滑って部屋の中にあるだるまストーブにチタンのエフツーがぶつかってきたり落ちた。チタンのエフツーはどこも傷がついていなかったがだるまストーブの角に傷がついたので関係者に謝ったと言う記憶がある。
ところで森山大道さんが使っているペンタックスはブラックばっかりだと思っていたが70年代後半から80年代初めに森山さんが撮影したこれは非常に珍しい富士山の登山道の写真なのであるが森山さんは二台のカメラを持っていったらしくて1台のカメラが登山道の砂の上に投げ出してあるのである。それはペンタックスの子通のクローム仕上げであった。ここら辺に関して私は森山大道さんのカメラの趣味を尊敬しているわけである。 >>872
カメラサークルで人脈作って選挙に出るとかほざいてたじいさんだろ!?
あれ、まだ生きてんの?
結局自己アピールすればするほど嫌われていった悲しい人だったな もうみんなアレの事は無視してるんだから話題に出すなよ 全身ヴィトンで金のカメラとか持ち歩いてカメラ市に出没している。
明らかに何らかの発達障害がある人だと思った。
関わるとろくな事ない。 もう私は中古カメラ市のにも銀座のカメラ屋にも行くつもり無いので言いたい事言ってるというねww そのずっと前の話になるが1981年にニッコールの交換レンズの撮影でヨーロッパを回ったのである。その時持参したのはニコンエフが1台エフツーが二台エフスリーが1台だった。それ以前のヨーロッパに行ったときにはずっとニコンエフを使っていたのでそのロケの時も主にニコンエフで撮影した記憶がある。105ミリのレンズで好きなのはこのトリプレットの暗いレンズである。当時のニコンは交換レンズを普及させるために当時のメインレンズであった105ミリF2点5よりも10,000円位安いレンズを製造販売したのであるが日本人の感性としてゴージャスが大好きだからあまり売れなかったらしい。 ヤシカカメラ関係の資料で気がついたのだが頭脳光学が倒産した後ヤシカカメラがサポートしていたようなのである。だからこういう似たようなデザインがペンタプリズム上に構築されたのであろうがその存在感は同じ時代に作られたニコンエフのペンタプリズムよりもはるかにデザインとしては上のクラスだと思う。
それでこのヤシカペンタマチックであるがどうも国内で見る事は稀であって私が購入した二台のカメラはいずれもロンドンとかリバプールとかそこら辺で発見された個体であった。
ペンタマチックには最初のモデルと次のモデルすなわち1型と新潟が存在するのであるが、資料を調べてもどうも何が実際に1と2で違うのかがわからない。 人にレンズを売る場合、前後のレンズキャップを着けるなど常識だろうがっ!!
外道がっ! やはり人に恨みを買う生き方は「結局損する」とこの爺さん達から学んだ このクリスタルの一眼レフはゼニトと同じものなのだけれどもまずトップカバーがカメラ人類の好むグレーハンマーと音仕上げである。グレーハンマーと音仕上げの一般に販売されたカメラは非常に少なくて私の知る限りライカの顕微鏡用のカメラでMDというのがあるがその最初のごだいがグレーハンマー豚仕上げだった。ライカでは最近になってあの面サイト仕上げを出しているがこれはグレーハンマートーンとはちょっと異なっている。だからこのクリスタルカメラは市販された世界でただ2種類のグレーハンマーと音仕上げカメラになるわけだ。
グレーハンマー豚仕上げの何が良いのか?どうもブラックペイント仕上げよりもその手のひら頭の接触面の感覚が膝が高いようである。でもそれは気分的なものであってだから写真が良くなるわけでないのは言うまでもない。今回気がついたのであるがクリスタルカメラはトップカバーがハンマーと音仕上げであってボトムのカバーは普通のクローム仕上げである。ソ連のカメラメーカーが手を抜いたのであろう。ところが昔私がコレクションしていたスイス製のアルパカメラであるが、あれはトップカバーとボトムカバーの仕上げが違っていたことに気がついた。トップカバーがペイントでボトムカバーがクローム仕上げであったりする。つまりアルパにしてもクリスタルにしてもこの方が高級な仕上げであると言う認識をすることもできる。 思えば、「退屈」とは、最大の娯楽なのである。
だから、遊び方を最初から「固定」してしまう一般の商船のクールーズは自分などはごめ んだ。 山下公園の氷川丸の向かいのタワーに棲む、例の「氷川丸少年」の見聞したところによる と、レジデンス船というのがあるそうで、彼は東京港だかどこかでその船を見学したらし いが、これは大変なお金持ちのクルーズで、ようするに船に棲んでいるのである。
その意味で、昔の水上生活者は今思うと大変な贅沢だ。
氷川丸少年の見聞によれば、かのクルーズ船の見学をした時に、上品な老婦人がデッキチ エアで、なにか厚い本を読んでいたそうで、ただただそれだけなのである。 まあそういうのが本当の贅沢であるのは疑う余地はない。
稲垣足穂の本の中に、どっかに日食観測に行く船の中で、大半の連中が浮かれている中 に、欧州の天文学者の若い人が独り、そのグループから離れて、独り計算尺を使っている のが、粋であったというくだりがある。
思うにこれなどは理想的な船旅だ。
ところでライラに自分がぞっこんになったのは、これが「客船ではない」と言う一事に尽きる。 要するに普通の人の考え方からするとライカのオーバーホールも医療もちゃんとやれば新品同様になると言う間違った考えを持っているらしい。カメラにも人間にも寿命があるからその寿命の間に一生懸命生きると言うことが実は大切なのだけれども若い方はそこら辺がわからない。
3年前の2月に事故で亡くなった心臓外科のお医者さんはクラブエダムでの良い飲み友達であったが彼から教えてもらったのは、レヴィストロースが70年代終わりに佃の住吉神社に来て石灯籠の前で記念写真を撮っていて佃島に住みたいと言ったそうである。私などはそのレヴィストロースが憧れた佃島に30年以上住んでいるから哲学的に考えてもこれ以上の人生の幸せは無い。
世の中ワクチンを2回打ってもうハワイでもどこでも行けると意気込んでいる人は私から見ると不気味である。私はひねくれ者だから日本が鎖国になったのを機会にもう外国に行くのはやめた。外国に行きすぎるほど言っていたので残りの時間は日本で東京の佃島とその周辺を楽しもうと考えているのである。 私のめちゃくちゃの町歩きと言うのは最初から目的地が決まっていないから1種の老人の徘徊である。それはそれで面白いのであるが例えば今日のように千代田区1番町25番地に行こうと目標を設定したときには社会的な問題がそこに生じるのである。定年退職した人が自分の長年通っていた会社にいけなくなったとかそういうこともあるし、私が尊敬するライカの神様である中川一生先生はかなりお年をめしてから銀座のカメラ屋さんから佃島のご自宅に帰れなくなったのでタクシーを呼んだのである。その中川先生のご自分の家の分からなくなったと言うタワーマンションに私は住んでいるわけだ。
ケルンのフォトキナの会場で私のボスのケプラーさんが3号館の1階のライカのブースをわからなくなったと言っていたのは別にビック?ではない。その時からケプラーボスは30年も活躍なさったのである。
明日も出かけるぞ千代田区1番町25番地。これは朝鮮であると言っているのは貧乏神である。だから私もこれは挑戦と言っておこう。 なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分か っているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我 が任務である。 ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であ るから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。
それに対して、ビオター75mm ff1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが 実は現在なわけだ。 プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm ff2というのがあ る。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字 の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売 り」はしない。
あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れようと思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かなかったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追ったりするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。 お前から落札してやったんだから、返信の連絡くらいよこせよバカがっ! 当時の小村レンズはあの頃は安物だと思っていて私が最初に手に入れたのはこの135ミリF2点8でペンタックスマウントのレンズであった。私が高校生時代に小石川植物園でのモデル撮影会で私の気に入ったモデルさんが江波杏子であったなどと言うのは古典的な話であるがこのレンズで撮影したと言うわけだ。
江波杏子と言う女優さんはヤクザ映画で有名らしいがそちらの方面の映画は1度も見たことがない。 強行開催でいろいろ主催者側も気をつかっているようであってオリンピックマークの前で記念写真を撮影したりすると人の流れの渋滞が起きるから警備員が立っていて立ち止まらないようにと東京都民を脅迫しているらしい。
それで思い出したのは1970年であったか日本に初めてパンダが来た時私はそれを見に行ったのであるが、やはりガードマンが立ち止まるなと都民を脅迫していた。もっとも立ち止まっていけないのはパンダだけではなくてホーチミンの遺体をハノイに見に行った時も警察官が立ち止まるなとハノイ人民を脅迫するのである。
東京駅の新しいドームができた時も善男善女が集まってドームの内側を競走で撮影しているのは大笑いであった。 カメラで私が記憶しているのはキャノンが出した35ミリカメラで太陽電池を使っている我々の間で太陽野郎と呼んでいるカメラであってその当時東京カメラクラブで開発設計の人を呼んでいろいろ話を聞いたのであるが、当時はパワーのある太陽電池がなかなか得られなくて量産したやつは何かどこであったかメキシコ製と言うような記憶もあるが間違っているかもしれない。 >>897
太陽電池の35mmはリコーではないですか?
リコーはソーラーカメラを幾つか出していましたが。
https://i.imgur.com/LrVUfw7.jpg ウィーン時代に結構使ったカメラであって35ミリのカールツアイスの広角レンズと同じく25ミリのレンズもよく使った。ウィーンの中古カメラ屋さんで偶然に手に入れた藤田の400ミリef 5というのがあって、これは建物の上のほうの装飾品を撮影するのによく使った。このカメラは左利きの人のために作られたのではないかとよく言われているがそれは結構納得できる。でもカメラの操作するときの体の感覚と言うのはライカやニコンのような右手中心でばかりやっていると頭がへんてこりんになるので時々は左手で操作した方が写真の思考回路が正常に戻るようである。 1950年代終わり頃にはフィルムバックを交換していろいろなフイルムを使うと言うカメラが流行した。そのトップクラスはカールツアイスの今田レックスである。ただし値段も天文学的であったし実際にフイルムバックを交換して使ってみると実に煩雑な使い心地なので今でも持っているが使うのはやめてしまった。 それでこの1ヵ月ほどのテレワークで写真を撮らないわけではなくて椅子を180度回転させると隅田川の夏の風景が見える。これは正確ではなくて1月前には梅雨であってグルーミーなはっきりしない風景が目の前に広がっていた。それでそれぞれのカメラにモノクロフィルムを入れて1日に23枚ずつ撮影をした。
トータルで1ヵ月の間に72枚ほど撮ったわけだが時間が確実に過ぎていくからモノクロフィルムの最初の頃は典型的なモンスーン気候のグレーの東京であって後半のほうはオリンピックのアスリートが逃げ出すほどの暑い東京である。撮影済のフィルムは別にすぐ新聞に使うわけでは無いからそのままカメラの中に入れたままになっている。要するに今の時代が便利なのはニュース性のあるモチーフはiPhoneで撮影してすぐにアップできるが大切に撮ったモノクロフィルムはそのまま半世紀後に発表しても良いわけだ。私の今の仕事のやり方はそれであって主に発表しているモノクロフィルムはこの間のギャラリーバウハウスの東京の写真展でもそうだが概ね半世紀前の写真なのである。 この手の初期型の一眼レフのオートフォーカスレンズはコシナレンダーも一生懸命作っていてそれが時代遅れになった時に中野のフジヤカメラに大量に出て山積みになっていたので私も面白がって買ってきた。それを初期のライカレンジファインダにレンズマウントアダプターで取り付けてオートフォーカスライカだなどと遊んでいたのであるがそれも単なる1時の思い込みである。フォーカシングはマニュアルフォーカスに限るな。 ニッカカメラは元を正せば日本で最初のライカカメラのコピーを作った会社であるそれがこの時代にヤシカカメラに買収された。前後して当時ユニークな一眼レフで話題になった頭脳フレックスを作った会社もヤシカカメラに買収された。だからこの前後のヤシカカメラのカメラのラインナップを見ていると一眼レフカメラのペンタプリズムのスタイルが頭脳一眼レフに似ていたりする。
このカメラのデザインもなかなか優れているのでそこら辺のデザイナー集団が設計したのかもしれない。普通のカメラメーカーのデザイン部が作れるようなデザインではないからだ。 >>903
日本で最初のライカコピーを作ったのは精機光学(キヤノン)。 それからしばらくしてこのカメラがどんどん家の中に増殖してきてまた西ドイツの時代に西ドイツ製の5-16ミリカメラを携帯してライカの本場ライカの会社に撮影に行ったこともあった。要するにこれは趣味の映画撮影と言うわけである。ありフレックスの数が増えて何がやりたいかと言うとなるべく汚いカメラの個体を手に入れたいと思うことになるのである。何か戦前の大学生の弊衣破帽にも似た感じなのかもしれない。北ドイツ放送局が使っていたリフレックスとか、放送局出身のカメラをずいぶん集めたのである。 1970年に日大写真学科を卒業してその後日大にはほとんど行ったことがないけれども、卒業制作で提出した東京のスナップショットのシリーズがどうなっているのか知りたくて後輩の堀野に頼んで見てきてもらったらまだ変色はしていないと言うので一応安心したのが既に10年以上前である。あれから10年経っているからまた見に行ってもらいたいがひょっとしたらプリントが変色しているかもしれないな。 言うまでもないことだが85ミリと135ミリと言うのは描写も全く異なるレンズである。ニッコール伝説で三木淳がデビットダグラスダンカンを撮影したのが8.5センチのゾナコピーであったから良かったのであって、13.5センチのゾナーコピーではこんな事は起きなかったのかもしれないと思うと何やら面白い。
13.5センチのレンズは普通はファインダーをつけて使うしニコンSPの場合は正確なファインダーがついているが、45年前にwinで撮影していた当時は私はファインダーは一切使わずにソ連製コンタックスの50ミリファインダーの中心に適当に検討をつけて撮影をしていたら何か面白い構図になってもっぱらアクセサリーファインダーを使わないまま74歳になってしまった。もう手遅れだね。 ライカ人類の唯一のコンプレックスはカールツアイスのレンズが使えないことであると言う主題を何十年も書いている私であるが結局ライカ人類が行き着くところはカールツアイス西ドイツで作られたBiogon 35なのである。ところが西独のこのレンズには大変な欠陥があって仕上げがよすぎるので旬の真夏のサンライトの下で撮影すると◇仕上げのレンズのバレルが乱反射してまともに距離も絞りも設定できないと言うことがある。
もう一つの問題点は21ミリでも35ミリでも同じレンズバレルなので共通しているのであるが絞りの設定がゆるくて勝手に動いてしまうというのが西ドイツ製のカールツアイス広角レンズの最大の欠点である。それで使っていてトラブルが起きると頭に来てすぐ売り払ってしまうのであるがしばらくするとやっぱり欲しいと言う気になってまた手に入れたりするのでレンズの悩みは尽きない。 >>910
カール・ツアイスのホロゴン15mmF8にはライカMマウントのものがある。
知らないの?w 揚げ足取りつまんね
信者と街撮り行くのはやめたのか? ゾルキー4型と言うカメラはソ連製だから当然ではあるが当たりとハズレが激しくて私が使ったのはほとんどハズレの個体であったがこのイエローサブマリンはなかなかシャッターの調子がよろしい。ソ連並みのいろいろなアイディアがカメラを使いにくくしているのも面白い。要するに巻き上げのダイヤルを1度に回すことができないようになっていてそれはファインダーの出っ張りが指のアクションを^_^妨げるのである。しかしそれ以上にこのイエローサブマリンの素晴らしいのはレンジファインダーベースは短いけれどもファインダーの見かけの倍率は高いので絞りがF2位のピントの浅い状態でも距離がレンジファインダーでちゃんと合わせられることだ。 >>911
センセーはウルトラワイドもM用も両方お持ちだ >>915
それを知らずに下らん揚げ足をとるニワカバカ
ちなみに俺は超得のファンでもないし信者でもない 私の場合はそれほどひどくはなかったけれども公園のベンチかどこかに座ってカメラをベンチの上に置いてそれでワンステップずつゆっくりアクションを積み重ねてフィルム交換をすると言うのをだんだんに覚えてきた。モダンな35ミリレンジファインダカメラで巻き戻しクランクと言うものが付いているがあれは両手がしっかりしてないと使えないものであることもわかった。だからそれに対抗するために私の場合はまずベンチに座って両足の膝でカメラをしっかり挟んでそれで左手でクランクを回して巻き戻しをした。
健常者であったときには普通に歩きながらフィルム交換をすることを自慢していたものだが、考えてみるとそれは自慢でも何でもなくて単なる遊びであることがわかったのである。ベンチに座って右手だけでやるフィルム交換でパリの空気が少しだけ変わってきたように感じたのは錯覚かもしれないがちょっとした発見であった。
7本だけ撮った写真は使っているレンズはニッコールの2.5センチだけである。何かいい写真がとれたような気がしたのでその時とその年の秋に今度はカサブランカに行ってこの時もニコンレンジファインダカメラであったが気分を変えるためにニコンSPを持参した。レンズは同じ2.5センチだった。 健常者って…
センセーなにか障害をお持ちなんですか!?
それともパラリンピックが始まったからセンセーお得意のエスプリ?? 戦後の我々カメラ人類が感じている基本的なカメラデザインと言うのはレンジファインダのライカタイプではなくてニコンエフに代表されるようなあるいはこのヤシカペンタマチックに代表されるようなカメラのトップカバーにペンタプリズムの三角型が付いていると言うカメラデザインに象徴されているのだ。
どっち往年のフイルム一眼レフのデザインでヒットしたオリンパスomシリーズなどはマイクロフォーサーズのデジタルカメラに移行してもそのデザインを上手く継承している。最近登場したニコンエフエムツーをそのままリメイクしたデザインのAPS-Cサイズのデジタルカメラも市場では人気が高いようである。 デジタルカメラマガジンと言う雑誌を創刊号から15年位連載などやっていて8年位前に止めにしたのであるが何がつまらないかと言うと無意味なデジタルカメラの新製品に対して編集方針としてびっくりしてみせると言う忖度が面白くないのである。広告料をとるわけだから仕方ないけれどもお前ら何やっているんだと言う感じがする。
それでも最新型のデジタルカメラがいかに凄いところまで来たかと言うことを調査するために10年来行っていない有楽町の大手量販店などに行こうと思っているのだが期待感が最初からないからそのままになって歳を過ごしている。それで私の場合クラシックカメラのアンティークネタになるのであるがこちらの方がはるかに面白い。最近また大発見の連続で長生きして良かったと感激しているのである。 ハンガリー製のレアな一眼レフデュフレックスというのがあってそれの修理をペーターに頼んでおいたのだがライカの社長さんがその前後に来日する時修理の出来上がったハンガリー製の一眼レフと日本で展示する1番最初のURライカの二台が社長のアタッシュケースに並んで私に届けられたのにはびっくりした。ライカの社長もまさかレアなハンガリー製一眼レフをドイツから日本に運ぶ任務を命令されるとは思っていなかったであろう。 1連のレアライカに関してはライカエムスリーにライカビットをつけたライカMPも同じであってこれも後期のロットのライカMPはネックストラップアイレットのスタイルが犬の耳ではないので専門のフェイクメーカーからするとどちらかと言うとフェイクが作りやすいモデルなのだそうである。まぁそういうカメラを何万ドルも出してインベストメントを狙って金庫にしまっておくと言うのは本当のライカの楽しみを知らないかわいそうな連中である。
私の場合は人から借りたこのオリーブドラブのライカはなるべく使おうと思ってちゃんとした撮影のときにはこれを持参する。いつだかとバスの車内でライカ好きの親父さんに遭遇したときにオリーブの軍用ライカの話になったのだが彼から見れば単なる色の違う古い代価であるからゴミみたいなような認識だったのが面白かった。一昨年の夏の話であるが8月の盛りにギャラリーバウハウスの撮影でハノイに行ったのである。その直前のネットオークションでこのカメラの値段が3,600,000円位であったからなくしてはいけないと思ってホテルのロッカーにちゃんと閉まって数字を記憶して鍵をかけたのである。ところが翌日撮影に行くときにその鍵の番号を忘れてしまったのでフロントレセプションを煩わせてマスターキーで開けてもらった。 1980年にオーストリアにやってきた尊敬する写真家リーフリードランダーに私のポートフォリオを見せて意見を得たときに彼が目を止めたのは私がカメラアートと言う英文雑誌に掲載したフォトグラファーおんざbicycleと言うワンショットだった。すごい速度感が出ていて流れ去る路面を左手の自転車のハンドルをホールドするショットでものすごい危なっかしい画面のスナップショットだった。リーフリードランダーはこれを撮影した後フォトグラファーはどうなったのかね?などと聞いてくれたのも嬉しかった。 森さんは東京総合写真専門学校の校長先生もなさった方であって60年代の東京撮影した春日さんとは親友だったそうで一緒に会社を起こしたりなさっている。森さんがオリンパスワイドの使い手で、春日さんがかろうワイドの使い手、お互いに切磋琢磨した若い時代があったのであろう。
その京都をとっていた当時の森さんの写真を何かで拝見したことがあるのだが私がすごいなと思ったのは彼が使っていたのは1番最初のオリンパスワイドつまりKnobで巻き上げるタイプのやつでそのカメラを森さんは頭の上に乗っけていると言う不思議なポートレートであった。 京都出身の人と話をするときにこちらがキーワードであまり知らないにもかかわらず勝手に地蔵盆の頃がいいですねと言うと話の相手の京都の人はそれに引っかかってそれぞれいろいろな思い出を語ってくれるのは本当に嬉しいことだ。でもそういう人々から聞いた話ではやはり最近では地蔵盆の集まりがなくなってきていると言うことなのである。帰ってきた酔っ払いの作者である私の友人なども地蔵盆の頃はそこでもらえるお菓子が楽しみであったと感慨深げである。でもその人は1969年に京都を引き払って東京方面に移住してしまったので、その作詞家の頭の中にはやはり私よりもはるかに強烈な地蔵盆の頃の記憶というのが残っているのであろう。
1番最初のモデルのオリンパスワイドでこういう素晴らしい作品を取った森さんの視神経は凄いと思う。 ロシア製時計で「クレムリンの塔の大時計を制作したメーカー」のウオッチというのもある。
スイス製のRolexもIWCも結構だけど、帝政ロシア、そしてかのスターリンも愛用のウオッチも捨てがたい。
この前の土曜、あの写真部の「反省会」で、福田和也さんに会った時、彼の時計もソ連製であって、その意を強くした。カメラも時計もロシア製に限ると思っているのは、あたしも考え違いのようであることはよく分かっている。福田さんが言うには、なんでもなにかの小説で、誰か人物の所持品を調べていて「なんだソ連の時計か」とそれを脇に捨てるけしからんシーンがあるそうである。それは知らないが、ソ連製ウオッチは安くて実用でシックであると思う。
ただしこのPAUL BUHREはシルバー側で無論、安いものではない。サイズはFMの大型くらいだ。
誰も持っていないブランドの時計を持つというのは、わがままの行き止まりである。 1982年のニューヨークの1年間の滞在でもっぱら近代美術館でプリントを見ていたのであるがそれ以外には8 × 10インチのディアドルフカメラでマンハッタンを撮影していた。そのためのロケーションハンティングに行く時にブラウンのメモを持って歩いて面白そうな街角を瞬間的にスケッチしたのである。これはスケッチとも言えないものであって1つの街角を大体10秒位でその空間構造を変えてしまうと言う荒っぽい仕事だったが、文字で書き記すよりも空間構造のラフスケッチのほうがよほど私には役に立ったと言うわけだ。 団塊世代って「オレ有名人の友達いる」の自慢でマウント取る爺が多くて正直ウザいです
私は一応話を合わせていますが、その有名人の功績をさも自分の手柄のように武勇伝として話すのが聞いていてイタい人だなぁと思う
老い先短いから言わないけど 以前某カメラ店行って古いライカを見てたら隣にいた変な爺さんが色々話しかけてきてとても不快な気持ちになった事がある。カメラの蘊蓄だったらまだ良いのだが「あんたは何の仕事してるの?」とか「家はどこだ?」とか聞いてくるので怖くなったよ。
常連だか知らないけれど、入って来た客を品定めするような目で見るのもどうかと思うよ。
店のカウンターにデン!と数人が陣取って一見さんはお伺い立てないと品物を出してさえもらえない陰鬱な空気が漂っている。これじゃあ中古カメラ屋の未来は無いよなぁと思ってたら案の定その店は潰れた。 東雲都橋のバス停は今でもあるがそこから先が延々とあってオリンピックスタジアムなどがある地域である。看板を細かく観察していて面白いのは食堂の暖簾が今とは違って右書きの文字列なのである。戦前から営業している有名な食堂であったのかな。東雲と言う言葉に青春時代もほのかなロマンを感じていてバスの終点まで来て失望してしまったわけだがそれから50年以上経つとあの失望と言うのは実は失望ではなくて私の人生の初期のかなり重要な記憶のスナップショットの1部であったことがわかるのが痛快である。
そのバスストップは今でも同じところにあるがあの頃はその先が海だったのだけれど今は巨大な埋立地のエントランスと言う位置関係が完全に逆転してしまった。定点観測が好きな人がいるが私は定点観測が大嫌いである。だから坊主憎けりゃ今朝まで憎いの例の通り、定点観測が好きでそれを撮影している人間まで嫌いになってしまうのだ。理由は単純であって定点観測が好きな人は写真が持っている本来の理性的な素晴らしい作業と言うものを最初から放棄しているからだ。写真のリアリズムが真実を伝えると言う時代遅れの写真のリアリズムも嫌いだ。 タモリさんより力を持っているのは番組のスーパーディレクターさんであってかつてゴルバチョフ大統領を番組に読んだそうであるが、その人は変わった人で飲料水のボトルのキャップを集めていると言う小学生みたいな趣味を持っていた。全国ネットのテレビに出ると言う事は悪い事はできないものだということがわかって次の週に札幌に行って定食屋で食事をしていたら運びのおばさんが、あんた先週テレビに出ていたねと言われた。
しばらくしてからギャラをもらったのであるがそのギャラの値段が結構良いのにはびっくりした。しかしこれは私のギャランティーに関する距離感が狂っているだけだと思う。何しろ戦後50年間ずっとカメラ雑誌の原稿料がスタンダードだと思っていたからな。 友人スミスの代表作としては写真集「ピッツバーグ」がある。これは彼が生涯かけて作った写真集であって出版までに大変な苦労があったそうだ。代表作としてその次に私が思い出すのがアルベルトシュバイツアーを撮影した1連のシリーズである。私がこの写真に最初に出会ったのは写真が撮影された直後のカメラ雑誌アサヒカメラのポートフォリオであった。
アルベルトシュバイツアーがオルガンを弾いているそれを脇から撮ったなかなか自然体の写真なのである。私が興味を持っているのはシュバイツアー本人よりも彼が弾いているクラシックなオルガンなのである。そこに燭台が2つ付いている。その燭台のそれぞれにはろうそくが2つ付いている。この写真を最初に見た時はまだ中学生だったと思うからそれから20年ぐらい経過してオーストリアのウィーンに生活すると言う事は考えなかったけれども、当時ウィーンで借りていたピアノはアップライトピアノであって面白いことに燭台がついていたところが外されてはめ込まれていた。要するに電気が使える前の時代からピアノと言うのはその存在感をちゃんと誇示していたと言うことになる。 一昨年のちょうど夏の終わりごろに雑誌の取材で私が半世紀馴染んでいる上京区の路地裏あたりの同じような小さいウインドウを撮影に行ったのであるが、25年ぶり位にそこを訪問していささかの間違いもなくいきなりその目的の場所に行けたのは私の土地勘が凄いと言うことを自分自身で驚いたことであった。
もう一つ気になっているのは堀川通りの元西願寺と交わってちょっと下ったあたりにニューヨークなどではよくある電話交換局でそのスタイルがアールデコをしているやつがあってそれも私の好きなモチーフだった。十数年前にそのことを思い出して界隈をウロウロしたが既に撤去されてしまったようである。アールデコ様式の電話交換局と言うのはマンハッタンのぶらぶら歩きの時になかなか格好なランドマークなのであるが今はもう無いであろうな。マンハッタンのクラシックなダイナーもそういう種類のメランコリックオブジェであったがこれももう存在しない。 ^_^ところでこのレンズの実物に遭遇したのは20年位前のオーストリアのウィーンのライカショップのカメラミュージアムのウインドウの中であった。これはライカショップのコレクションと言うのではなくてウィーン在住の有名なコレクターの者なのだ。その人に私は以前東京で会ったことがある。名刺をもらってびっくりしたのはニューヨークとかグリーンとかパリなどに弦楽器のクラシックな楽器を販売している経営者であって要するにストラディバリウスをハンドリングしているわけである。そういうコレクターが銀座のカメラ屋のジャンクボックスの中に銀色のニッコールの52ミリのフィルターを発見して10個ほど手に取ってたくさん買うからちょっと負けるなどと言っているのはなかなかコレクターズ魂である。 ニューヨーク近代美術館で何かの資料を読み飛ばしていた時に日本人以外にはありえない定吉と言う名前が私の記憶に残った。それから40年近くが経ってその人のことを思い出してウィキペディアで調べたら大変な経歴を持った人であることがわかった。それをここでコピペしても意味がないので定吉ハルトマンに関してはそれぞれネットで見てもらいたい。 ^_^そのリコーがワイドカメラブームのかなり最後のほうに出したのがリコーワイドだった。過去60年位ありとあらゆるレンズシャッター式の35ミリレンズ付きカメラを使っているのだが実はこのカメラは今まで使ったことがなかった。吉行淳之介さんが親友の島尾敏夫さんにカメラを持っていないと言うのでプレゼントしたのがこのカメラなのである。つまり指の棘のカメラである。その息子の心臓がこのカメラを真面目に使って当時西武線ひばりヶ丘行きの電車を待っている女子中学生のスカートの中にリコーワイドを突っ込んで撮影をしたと言う武勇伝が残っている。確かにこれは本当のストーリーだと思う。半世紀以上前はそういうのが普通に行われていたと言うわけではないが伸三だったらそういう事はやりそうだ。 以前コンテナ船の120,000トンクラスのやつに乗った時にブリッジで使われている双眼鏡を見たらそれはどこかのメーカーのものであったか忘れたけれどもそのサイズはレンズが50ミリの倍率は7倍なのである。ただちょっと意外に思ったのはそこら辺のサードパーティー製の安物であるというのがちょっと気にかかったのだがブリッジで仕事をしているプロフェッショナルはそんな事は気にしていないのであろう。半世紀プロ写真家をやっている私がソ連製の安物のニセライカを使っているのと同じ理由だと思われる。 1976年の夏に私はヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会の準備のために日本に行って登場の写真家の皆さんと打ち合わせをした。その時にカメラ毎日の山岸さんにもお目にかかった。その時山岸さんは私の作品がちぎられて販売されたことに大変な責任を感じていてその責任を自分で忘れないようにするために20冊ほどのその1974年1月号の雑誌をまとめて包装していつでも仕事場の自分の見えるところに置いてあると言うような話をなさった。山岸さんは打ち解けて学士会館で私にカレーライスをご馳走してくれたがこれが山岸さんに会った最後であった。 その日本で最初に飛行したモーリスファルマンが所沢の飛行記念館に展示されているそうだ。私の初期の飛行機に関する記憶は稲垣に全て頼っていて彼は手製のエンジンも作ってそれを回転させたら止め方がわからなくなりその強音がすごいので隣近所に迷惑をかけた事がある。アビエーションのパイオニアが実際にモーリスファルマンのスタイルの飛行機を作ってそれを大八車に積んで移動していたら通行人にいぶかしがられて、それは何かと聞かれてといたですと答えたのは確かにその頃の飛行機の主力と言うのはそのような形状であったからこれは間違いではない。 田中理事中はどうなるんですか?
日大のOBとしてどうお考えですか?
同じ田中さんとして その中でライカといふぉんを比較してみるに、ライカは36枚が一度のセッションである から、そこで息継ぎができる。ノブでフィルムを巻き戻して、カセットを取り出して、や れやれと息を入れる。一方にいふぉんはこれがデジカメであるという認識に意義を挟むカ メラ人類は居ないであろうが、なにしろ36GBも容量があるので、撮影枚数という認識 がない。
人間の身体的な視神経の記憶も別にカウンターがついているわけではないがそれ がそのまま記録可能なのが、いふぉんと言ってよい。ライカにはオンとオフとが存在(3 6枚ごとに)けど、いふぉんにはそれがない。そのことが良いのか悪いのか、それは今の ところ不明であるが、近々、ケータイのカメラ論は誰かによって書かれるであろう。 こういうカメラは今が底値であって私が手に入れたこのモデルはなんと500円であった。それで送料が600円だからトータルで1100円である。落札した時は光の加減でよく気がつかなかったのだが到着してびっくりしたのはカメラのフロントの部分が銀色に磨くんであるのだ。これが気に入った。まさに夏向きのカメラである。
20年以上前にまだ中古カメラ市に行っていた頃であるが坂崎幸之助さんが見せてくれたライカM2のボディーがやはり銀色に磨き込まれていた。聞いてみればツアーの時に夜は外に出られないのでずっと1台のライカM2を磨いてレーザーの部分の剥がれているところが完璧に銀色になったのだそうである。
おそらく私の銀色のオリンパスワイドも個人のスナップシューターが手磨きで作ったものかもしれない。 そこに割り込んで入った爺さんが「アイツ俺の事本に書きやがって!」と頭にきて恨んでたよ それで私も片岡先生の影響が出てしまって今にも壊れそうな木造建築を見るとそこに桂離宮を感じるようになってしまった。その木造建築の勝ち方と言うのはヨーロッパにも木造建築がたくさんあるが存在としては日本の場合の方が降ら切り程度、つまり壊れやすさがあっていかにも東洋の禅寺の深さそのものである。
私が生まれ育った文京区音羽の家は関東大震災直後の2階建てカリブ神であった。それが壊されると言う時に私はボレックスの16ミリムービーカメラを持って壊れる瞬間を撮影に行った。重機が腕を一振りすると私の思い出のそのものであった木造2階建ては一瞬で砂煙の中に消失したのである。 偶然の機会で大昔のデータを拾ってそれを今の時代と比較するのは面白い。アルパのブームは完全に終焉したと思ったら数年前からどうも中国のコレクターさんを中心にもう一度復活しているようなのである。私がアルパに興味を示した頃は銀座のカメラ屋さんに壊れかかったのがたくさんあって私が行くとそれらを全部押し付けられたのである。最初は銀座の喫茶店でというか夜はバーで昼の数時間だけ喫茶店になっているところでアルパの研究会をやっていたがそのうち人数が増えて、佃島の集会所でやるようになった。
90年代の私は結構多忙でヨーロッパに行くことも多かったが手順が分かっているのでアルパ研究会の皆さんは私がいなくてもちゃんと集まりをやっていたのは大したものである。どのくらい昔の話かと言うとマックのコンピューターがLC620が現役であった時代のクラシックストーリーなのである。
当時の私はフィルムカメラで仕事をしていたからアルパを現役で使っていた。レンズも24ミリから600ミリまで揃えたのであるがまず使うレンズは50ミリが1番多かった。ただし世の中で一般に言われているマクロすいたがいいとか言うのではない。このレンズを礼賛している人は至近距離でピントが来ないことをありがたがっているようなところがある。
アルパカメラは製造時期の最後の方になって標準レンズはペンタックスのたくまレンズを使うようになった。それもエム42のオリジナルの沢間に自分のところのマウントアダプターを付けて販売していた。琢磨レンズの日本での評判が一挙に上がったのはこの時以来だと思う。 本物と複製芸術に関しては、かのベンヤミンが論じたのは大昔のことであって、オリジナ ルと複製の混乱の整理はそのうち、ちゃんと論じられる時が来るのであろう。
フェルメールの「オリジナル」が来日して、大阪に飛行機で駆けつけたら、人間の頭しか 見えなかったと言った編集者さんがいて、思えばこれは十年ではきかない大昔の話だが、 フェルメールを興行として見るのならこれは大成功なのであろう。
しかし画の前で立ち止まらないでくださいという警告があったりすると、これは事情が変 わってくる。ウイーンのフェルメールなどは、「人気がない」ので、誰も前に立っていな い。それゆえフェルメールと独占するにはウイーンは格好なのである。
液晶の自販機を最初に見たのは、両国駅構内であった。次に視たのは「鼠園」のある駅で、大勢の中国の観光客さんが、この周囲で一緒に記念写真を撮影していた。
自販機の商品の映像がリアル感と感じつのと同様に、フェルメールもその複製で十分であ る。無論、上の画像もフェルメールの複製である。
デジタルカメラの感度は高いのでこれは綺麗に見えているが、実物はもっと暗いのである。 それでペトリペンタの初期モデルのペンタプリズムに製造番号が売っていると言うところはダンディーであると思う。このカメラの魅力はもう一つあってこの写真ではわからないが上からトップカバーを見たときにペンタプリズムの中央あたりで細長くレーザーが貼られているのである。単に単純に細長いレーザーが貼られているのではなくペンタプリズムの出っ張った角度に合わせて処理されているから何か似ているものと言うとそうだな、お寿司のウニの軍艦巻きをそこに連想するのである。寿司屋を連想させるような一眼レフと言うのは素敵ではありませんか?
ペンタプリズムの矢印とその下のシリアルナンバー。さらにウニの軍艦巻きメータートップカバーのレーザーの処理。これだけではありません。最大のこのカメラの魅力はファインダーを除いたファインダーシェアに存在する。ファインダーシェアの右下のところにつまりフォーカシングスクリーンの右下の右入れた余白のところにペトリペンタの文字が刻印されている。つまり撮影をファインダーでやっていれば常に自分のカメラがニコンでもライカでもなくペトリであると言うことを認識できると言うのは素晴らしい。
30年近く前に何かのカメラエッセイでそのことを書いた。そしてその時に私が付け加えたのは当時の35ミリ一眼レフの非常に高級なカメラで同じようにファインダーを覗くとフォーカシングスクリーンの下のほうにそのカメラの名前が登場するというのがあるのだ。今は老人ボケになってしまったのでそれが何であったかさっきから思い出そうとしているのであるがまだ思い出せない。 アルパ研究会もう1度集まりましょうよ。
ニフティフォーラムの頃が懐かしいです。 写真を真面目に撮り始めてライカM2を使っていてその直後に大塚のカメラ屋さんで7500円で買った一番最初のミランダカメラと言うのに入れ込んでいたのは1970年代である。このカメラはミランダでももっと後のモデルでメーターが生きているのか死んでいるのかわからないが最初からマニュアルでとっているから何の問題もない。
えっとミランダマウントと言うのはなかなか厄介なレンズマウントであって専用のミランダマウントはミランダには着くけれども他のカメラにはつかないのである。そういう意味での汎用性がない。それでもっぱらミランダにつけるのはニコンマウントとかペンタックスマウントとか、このようにトプコンマウントなどである。
この組み合わせはトップコール35ミリで大昔ガラクタ屋さんで1000円位で買ったものである。要するにこの時代の日本のレンズの得意技であってレンズがフリーズして動かないのだ。それで普通は商品価値がないのであるがこの個体はほとんど無限の位置でレンズがフリーズしているから使い勝手がよろしい。大体私のスナップ写真と言うのは5メーターから10メーターより遠いところしか撮影しないのである。 たいていの写真家はブロードウェイと5番街の中心線の北側から取ろうとするのである。視神経に騙されてなるべくビルの高さを得るためにそのようなアングルを取るのだと思う。ニューヨーク近代美術館ではスティグリッツの仕事をたくさん見てきたわけだが竣工したばかりのフラットアイアンビルディングをユニオンスクエアパークの中から取ると言う事はほとんど考えもつかなかった。
と言うのも当時私はニューヨークを8 × 10インチのデアドルフカメラで撮影してからトランスペアレンシーをフラットアイアンビルのすぐ向かいの現像所に持っていったからラボの行き帰りにこの平らなビルをうまく撮影するベストアングルはどこにあるかと言う事はいつも考えていたのだ。 あたしの記憶違いで永代橋は毎年、御神輿が渡るのかと思ったのは勘違いであった。
この日終日、佃地方の大ガラスの部屋に居た。
機材はトキナー800mmのf8である。小型なレンズだ。アストロベルリンの800mmf5と いうのも持っているが、これは重さが10キロはあるので、手持ち撮影は無理である。
トキナーの800mmは映画のドキュメンタリーに良く使われたレンズで、二つに部活でき る。フランスの映画チームがこれをAATONにつけて撮影しているのを見たことがある。 シンプルなレンズのクレードルで撮影出来るから、最低2名のクリューで仕事が可能だ。
あたしの場合にはワンマンクリューである。タムロンのモノポッドに付けて、これをNF アダプターでOM-Dに付けた。 最初はバルコニーから撮影していたが、暑いので部屋の中の冷房のきいている場所から撮 影した。これだけ遠距離になると、硝子一枚加わっただけでは、シャープネスには関係が ないようだ。
一面の青い水の中の永代橋と御神輿とそれを船から眺める連中というのは、このまま「浮世絵」に描けそうだ。
いや、平成というのは勘違いで実は今が江戸時代なのである。 この映画のパンフを見て、監督の脇にあるのが、エクレールのカメフレックスなのである。これは懐かしい。同時録音の映画ならとっくに使われていないカメラだけど、ライトプレーンなら、小形軽量はカメラの方がいいわけだし、もともと飛行機のエンジン音が大きいから、サイレントカメラなど必要ないわけだ。なんでも、この映画の製作過程は何度もTVで紹介されたらしい(家人はそれを見ている)のだけど、何しろ朝の番組なので、私は見ていない。ドキュメンタリーはどんな機材が使われたのかに、最大の興味がある。カットの中には古い機材で撮影したので、絵の止まりの悪いシーンもあった。
パンフを見ると、アトーンも使われている。最初は16かと思ったが、これはアトーン35の方のようだ。映画の最後のクレジットの終わりの終わりに、懐かしい、エクレールのロゴが見えた。 1980年頃にプラハの中古屋さんいわゆるバザールで金色のメッキのPrimを手に入れてそれは20年以上使っていたのである。私の古いブログにも出てくる。最も手に入れた値段は日本円で500円位なものだから最初から問題にならない。ガラクタの時計はたくさん持っているのでいろいろ使っていたのだが、そのうちの1つでずっと使っていたのが今朝具合が悪くなったのでドアストッパーに使っているプラスチックバッグの中から適当につかみ出した中にこの赤い文字盤のPrimがあった。
それでしばらくこの時計を使うことになった。私が最後にPrimを手に入れたのは四半世紀前での話であって、この春にコロナで亡くなったチェコの写真家Pavelが1時篠籠田自動車の広報をやっていた時にSkoda自動車の会社のある古い街に行ってぶらぶらしているときにそこの時計屋さんで買ったのが最後だった。その時計屋の店主が私にこのクロノグラフはムーブメントが日本製ですから安心ですよと言ったのであるが、私はそうではなくてメカニカルムーブメントが欲しかったのである。その時に手に入れたPrimのクロノグラフはとっくにバッテリーが切れて今はドアストッパーのショッピングバッグの中に入っている。 10年ほど前に取材で北京に行ったときに北京で最も流行っている四川料理店に招待されたことがある。料理の大きな皿の上に赤い唐辛子が見えないほどかかっているのでこれは大変なことになったなと思ったらウェイターが手手唐辛子の山を全部床に払い落としたのでほっとした。
そこに来るまでにちょっとしたトラブルがあった。ホテルから四川料理家に来るときにタクシーに乗ろうとしたら日本の会社の偉い人が足をタクシーにひかれたのである。バイオレットと言う小型車だけれどそれでも800キロぐらいはあるのではないか。それで四川料理店に行ってバケツに氷を入れてもらってそれをで足を冷やしながら食事をしたのである。 ケツの左側がかゆいのですが、聞き手は右です。どうすればよいでしょうか? カメラがワルツならフィルターもワルツを使うと言うのは我々のようなブランド第一主義者にとっては非常に重要なことだ。それで実に不思議なのはフィルターサイズが43ミリと言うのである。私の知る限り43ミリのフィルターサイズと言うのはあまり知らない。そのことを疑問に思っていたらFacebookの友人が教えてくれたので膝を打ったのである。すなわち
4分の3拍子のワルツであるから43ミリは当然である
なるほどねよく分かりました。 【調査】<20歳以上年上の男性は恋愛対象に入る?>拒絶反応を示すコメントが殺到!「20歳に手を出す40歳は気持ち悪いな」 [Egg★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1617035454/
66 ニューノーマルの名無しさん 2021/03/30(火) 01:54:48.78 ID:b9x9oPMj0
今21歳の女だけど40代の男とか絶対無理
お父さんと同じ年代じゃん
なのにたまにいけると勘違いしてクソキモいオヤジいるから本当無理無理無理
頼むから40代のおっさんは20代の女にプライベートで話しかけないで下さい 頭脳レンズはその開発がいろいろあって初期の頃はレンズの後のエレメントが非常にビー玉のようになっていたのである。これを仲間内ではピンポン玉と呼ぶのである。とんでもない描写であって私などは絶対使いたくないがこーゆーレンズを手に入れる人が実際に写真を撮っているわけではないのでピンポン玉でも何でも問題ないと言うわけだ。
そーゆーレアな高いレンズを手に入れても自分だけで磨いて自己満足しているだけでは楽しみが半減するのでカメラクラブの例会の時などにそーゆーレンズを持ってきて自慢したいのである。そういう場合私はまた大げさに驚いてみせるというのが忖度の家なのだ。 エム42のマウントの一眼レフで1番私が好きなのは1947年に登場したカールツアイスドレスデンのコンタックスエスである。そのカメラとこのカメラのレンズマウントが共用できると言うのもありがたい。考えてみればペトリの一眼レフを使っていた有名写真家と言うと女性写真の巨匠秋山先生ぐらいしかいない。だから我々は秋山先生の後に続いてペトリの一眼レフを使う写真家になるべきなのである。
ペトリと言うカメラメーカーは労働組合がなかなか元気だったようでストライキなどをやっている。ペトリ闘争勝利記念と言う刻印の入ったペトリの一眼レフなんかも欲しいと思うぞ。 コンタックスSを設計製造したのはカールツアイスイエナではなく、ツアイス
イコンである。このあたりを間違える自称事情通がいるのは残念なことである。 年寄りだからストレートで飲むなどと言う事はなくてハイボールにするのだがいつも飲んでいる安いウイスキーの方が角よりも安いのである。ハイボールと言うのは実に不思議な飲み物であって世界中のその場所と天気と気分によって千差万別の味がする。だからといってアルゴンキンで飲んだ名物のハイボールが世界で1番うまいなると言う馬鹿げた事は言うつもりはないけれども。
過去50年の自分が飲んだウイスキーの歴史の中で50年前の方が良いもの飲んでいて今はひどいものを飲んでいると言うよりも50年前のサントリーは確かに甘かったと思う。30年位前に岡山の田舎の紳士がどこかの銅像から出てきた古いサントリーウイスキーを送ってくれたのだがこれは本当にうまかった。 カメラ友達んで長いお付き合いのある盆小原さんは数年前に故郷の九州に戻ってそれまでは枝村酒店の常連であったりしたのが寂しかったが確か3年前の大晦日に私のブラパチワークショップに参加してくれて、その時クリスマスプレゼントと言う意味でこのカメラをもらったのである。オリジナルにブラック仕上げがあったかどうか記憶にないがこれは偽物貫禄同名のお盆さんが自分で理ペイントしたもので非常に仕上げが良い。
東松さんが大活躍した1960年代は写真家と言えば35ミリ一眼レフで撮影するというのが通り相場であった。本格的コンパクトカメラが登場したのが1980年代の終わりであって、それがリコーGR1であった。それから写真家はカメラをポケットに入れて撮影に行くようになる。森山大道さんとかロバートフランクさんがそうであった。 私は変人であって人に会って話したりするのもめんどくさいし立ち飲みなら飲みながら酒の味と酔っ払った感じを味わいたいのでそこで考えたのは部屋に日本酒の額があれば立ち飲み屋に行く必要がなくなると言うことである。
それで菊正宗の立派な看板を手に入れた。本来ならばこれは壁からぶら下げる必要があるのだけれども、佃のカメラジャングルはカメラだらけでそういうスペースがないので床に置いて楽しんでいる。50年前にソニーのプロフィールと言うブラウン管の四角いでかい黒いのがあってあれを床の上に置いてみんな音声を消して画像を眺めて満足していたあれみたいなものだ。
宮内庁御用達の金色の文字が入った立派な菊正宗の看板で、特に菊をレリーフにしたところなどはかなりマニエリスムの存在感が強く迫ってくるところがよろしい。それと昼間の天気の悪い日などに机の前で原稿を書きながらふと壁際にある菊正宗の看板に目をやると金文字が鈍く光るのである。ちょうどウィーンのバロック教会の祭壇の奥にあるバロックの金泥の光方と同じなので極東に行って日本酒の看板を見ながらヨーロッパのバロック教会の光を同時に楽しむことができる。 プラハの30年で1番幸せだったのは考えてみれば、窓から入ってくる光なのである。もともとポートレート制作用の絵描きのアトリエであるからその光は素晴らしい。 同じポン大卒の田中
頭の中身じゃなく人脈のみで成り上がった 4sb時代のカメラがコンバーチブルでいいなと思うのはラピッドワインダーは好みに応じてつけたり外したりすることができる。北井さん1967年に王子野戦病院闘争の時にお見かけしたが彼はラピッドワインダーをつけて撮影していた。それから何十年か経過してドイツ表現は建築の撮影の時にアシスタントとして同行したのであるがその時わかったのはこの写真家はショットを実にたくさん撮影をすると言うことだった。
撮影して考えると言うのではなくて撮影しながら撮影しつつ考えると言うやり方なのだ。だから北井さんは実際にラピッドワインダーを必要としている写真家なのである。以前アンリカルティエブレッソンがキャノンのレンジファインダのおそらく4sbを構えてファインダーを覗いている珍しい写真があったのだがブレッソンはラピッドワインダーなどは使わない。 40年ほど前にマンハッタンで8 × 10インチで撮影をしていていろいろ面白いことがありました。三脚を立てていけないところは適当な新聞の自販機とかゴミ箱とかの上にカメラを置いて撮影すれば問題なし。
三脚禁止の場合はこれでわかるように私が8 × 10インチのカメラを手でホールドしているのです。人間三脚。Noteなので画面が切れていてよく分かりませんがちゃんと2本の足を開いて立っていてホールディングをよくしています。大昔バチカンのシスティーナ礼拝堂のライブをパノラマカメラで露出は2分の1で最後の審判のでかい絵画を撮影していた時にセキュリティーの人が三脚使用禁止ですと言ったのです。
その時私はPanonパノラマカメラにライツの小型三脚が付いていたのでこれは三脚ではありません。カメラの1部ですと言い張って撮影を強行しました。本人が3脚ではないと言っているのだから広島の1億5000万円の有罪の連中が自分でお金を計算して潔白と言っているようなものだね。
東京駅上空での8 × 10インチの撮影はうまくいきました。1970年代にアメリカで活躍していたニコラスニクソンと言う人がいてこの人はマンハッタンのストリートスナップを8 × 10インチの手持ちで取るのです。私も真似をしてマンハッタンでやったことありますが逆に撮影されている人はスナップされたと気がつかないんですね。 MACRO Switeと言うレンズは我々がアルパカメラ研究会をやっていた当時はあんまり人気がなかった。アルパカメラそのものがどこか壊れていて人気がないので銀座のカメラ屋さんに行くとみんな私に押し付けてくるのである。それで好きものが集まってアルパカメラを研究する会と言うのをスタートさせたらそのうち喫茶店では申し訳ない位人が集まるので佃島で始めたのが四半世紀前なのである。
MACRO Switeのアルパ研究会での仲間内の値段と言うのは25,000円であった。それでもずいぶん高い気がした。今ではその10倍払っても買えないような状態になったのは世の中がマウントアダプターで何でもレンズをデジカメにつけてしまうと言う悪い腐臭がスタートしたからである。レンズの良し悪しがわかる人なら
MACRO Switeを撮影してみてこれは国産のタクマーレンズと変わらないねと言うのが正しい回答なのだけれども、皆さんブランド主義者だからMACRO Switeで撮影してみてやっぱりアポクロマートは違いますななどと感心している。実際には接写したボケボケの何が何だかわからない作例写真だからアポクロマートも何もないんだけどね。
レンズはブランド品であるからそのように実力は関係なくブランドイメージで一人歩きするものなのである。それでカメラ屋さんが買ったりするわけであるからこれは経済のためになっているがその反面、ブランドレンズだから良い写真が撮れるなどと言う事は絶対にない。
スイスのジュネーブにあった8ミリカメラで非常に精密なCarenaと言うマシンがあった。それがスイス製の精密8ミリカメラでは儲からなくなったせいであろうか、会社はリヒテンシュタインに移して日本に安いOEMの一眼レフを頼んでそれを販売するようになった。日本のペトリカメラとかコシナカメラが制作していたが、もともと日本製カメラのレンズが悪いわけは無いから優秀な描写をするのである。
私自身もレンズブランドにずいぶん騙されてこの年になったわけだがそのレンズブランドに騙されたことが一巡して日本製のOEMのカメラとレンズに価値を見いだすようになったと言うのは年の功と言うわけだ。 その1970年代に私が何をしていたかと言えばウィーンの街をモノクロフィルムで切り取って現像液のフィルム用は買えないから印画紙用を手に入れてそれを適当に希釈して現像していたのだ。その膨大なモノクロのネガが積もり積もって2000本になってそれから20年経過してようやくウィーンモノクロームセブンティーズと言う写真集になった。
つまりペトリカメラが作った使いやすい一眼レフと言うのは当時の私の生活体験で一切クロスオーバーすることがなかったのである。それがちょっと残念なので最近かつてのペトリカメラの一眼レフで遊んでいるわけだが、同じペトリカメラで作られたCarenaブランドは好きだけど同じペトリカメラであるレビューフレックスが嫌いと言うのは私もしょうもないブランド志向のカメラ人類であると言うことを証明しているのだ。まいったね。 ロバートキャパはコンタックスとライカを持ったスティールフォトグラファーであったが残っているキャパのポートレートを見るとこのカメラEyemoを構えているショットがある。多分これはキャパのカメラではなくて知り合いの映画カメラマンから借りてワンショット撮影したものだと思うが、当時はスチールカメラマンよりもムービーカメラマンの方が格式が上であったのであろうか?しかし結果として戦争を撮影したムービーのカメラマンはついに名前が上がらなくて ロバートキャパのほうは100年も継続するビッグネームを獲得してしまったのである。
その有名なロバートキャパが35ミリ映画撮影機Eyemoを構えているスナップショットがあってそのキャプションには
8ミリカメラを構えるロバートキャパ
と書かれていたので私はびっくり仰天。いくらキャパでもアマチュア用の8ミリムービーカメラは使いません。間違いの元はベル&ハウエルの当時の映画撮影機は35ミリでも16ミリでも8ミリでもそのスタイルは皆同じである点にある。これがキャプションライターの勘違いの元なのである。 キャパの有名な写真ってやらせだったって有名だよね。 Capaの写真は自分が写されてるポートレートがベストw https:/pbs.twimg.com/media/FBYLsSIVIAYc9xZ.jpg
https:/video.twimg.com/ext_tw_video/1447354337181585418/pu/vid/360x640/_PF-fX7yz5lg7C_B.mp4 パンツ遠藤と同じ
ダラダラと長い文書いてマスターベーションしてるだけ
オヤジ特有だな
昔ながらのtーcup掲示板とかにいるだろ 経験値だけで長文を書くのって自己満足なんだろ
公開マスターベーションだよ このスレッドは1000を超えました。
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