【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
尊師降臨
過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/
田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない アル研と東亀にいた方でやたらと長徳さんをこき下ろす発言ばかりの爺さんは本当に不快でした。
でも会うと「尊敬する長徳先生!」全く態度が違う。
あの方は長徳さんに何か怨みでもあるのでしょうか? 私は1番使ったローライが55ミリの広角レンズのワイドアングルローライフレックスであった。ところが古いカールツアイスのレンズは経年変化で発色が黄色っぽくなるのである。それでもっぱらシュナイダーのクスナーがついたローライマジックを使っていた。このレンズは非常にシャープで発色もニュートラルなのである。それでこのローライマジックの本体にカールツアイスのワイドアングルコンバージョンレンズをつけると合成に焦点距離は52.5ミリになるのだ。
撮影の時に二台のローライフレックスを持っていくよりも1台のローライマジックを持参してワイドアングルの撮影が必要なときには広角のコンバージョンレンズをつければそれで用が足りるのである。
でもこれは理論的にそうなると言う意味であって1台のローライマジック2にこのようにワイドアングルコンバージョンレンズをつけっぱなしにしているから実際に撮影に行く時はワイドアングルコンバージョンレンズ付きのローライマジックともう一つ普通のローライマジックをもっていくこともあるのでどうも頭で考えているように人生はうまくいかないものだ。 >>851
私は気が触れた方とは極めて儀礼的な対応で逃げ切る まだサンダー平山さんが元気だった頃、銀座通りをアンダー平山さんと私が2人歩いていると向こうから来る通行人が良かったものであった。ちょうど私の本当サンダー平山さんの本が同じ渋谷区松濤の出版社から出た頃の話であるが、私をサンダー平山さんと見間違えて彼の本を差し出してサインをしてくれと言う人がいた。いちいち説明するのもめんどくさいので
田中長徳、、、サンダー平山の友達
とサインしたことがある。もう一つ面白かったのは銀座松屋の中古カメラ市の階段のところで坂崎幸之助さんと雑談をしていたらそこに私の読者の方が私の本にサインを求めてきた。私がサインをしたらその人は脇に立っている坂崎さんに向かって
あんたもついでにサインしといて
坂崎さんは人間ができているからちゃんとサインをしました。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合いによって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて、
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 あたしはASCIIのMacPower編集部に出入りしていた関係で、Macintosh
というコンピュータを使うことになった。編集部でまず薦められたのは
ノートパソコンのPower Bookで、あたしのようなNomad(遊牧民)に
とって、どこにも持ち運べるPBは便利この上ない。デスクトップには
なにを置こうかと思っていたら、NeXTというワークステーションの中古が
あった。かのジョブズがアップルを退社して創立したコンピュータメーカー
である。これは見てくれもよく、ちょうどハイテク家具のようなので、喜んで
譲ってもらった。しばらくして、ジョブズがアップルに戻ってきて、iMacやら
iPhoneを発売したので、これを使うことにした。とくに音声入力の尻はキー
ボードを使わなくてすむから、あたしのような無精者にはピッタリなのである。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人(アルパカ先生)など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合い(塾長)によって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて、
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業(いすゞ)の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 ウォーカーエバンスの使っていたライカカメラは1950年代の機材の保険のリストによればライカの3大なのだけれどもこれは30年代半ばだからバルナックライカで撮影されたのに違いない。カメラアングルが極めて基本の基本のドキュメンタリーであって何の衒いもないと言うところがエバンス先輩の凄いところだ。
彼が写真家としてスタートした26歳の時に当時のインタビューで若い写真家は自分は効果を狙ったような写真は大嫌いだと語っている。ウォーカーエバンスが憧れていたスティグリッツに白写真的な効果としていろいろなマニピュレーションを加えているのだがウォーカーエバンスにはそれがなくてどこまでもどこまでもストレートフォトグラフィーの道を突き進んでいるところがすごい。 私が使っているのは15年以上古いデジタルカメラである。工業デザインは何でもそうなのであるが1番最初に作られた工業デザインの存在感というのが1番素晴らしいものであってその後に続く1連の改良モデルと言うのは改悪モデルであることが多い。 私は貧困老人になってから思いつきでいらないカメラを買うと言うことがかなり少なくなったが私の周りにいる50代の元気な東京市民の皆さんは思いつきでいろいろ購入なさっているのは実にうらやましい。まず指を食するなら日立の杉ちゃんとかその親友の漂流者さんと言う所だな。 >>861
自分が50代の頃はそうやってたのに、他人がやるのは気に食わないんだな ウィーンに暮らしていた時はすぐそばの馬肉屋さんで大量に桜肉を買っていたのであるがいつも場内で鯨の肉を買って不思議に思うのはこれは魚類ではないのになぜここで売っているのかと言う単純な疑問である。でもそこで手に入れた鯨の肉を刺身にして食べるとうまいのでその証言的な疑問はすぐにクジラと一緒に飲み込んでしまうのである。
アメリカかどこかで漁師さんがいきなり船に乗っていたらクジラに飲み込まれたと言うニュースを最近聞いたがいきなり真っ暗になったそうである。クジラは変なものが口に入ったのでそれをすぐ吐き出したそうであるが、動物の本能としてそれは当然のことであろう。家のライカインコもそうであって鳥の豆だと思って食べたものが小さなビーズであったりしたのですぐホット吐き出したりした。野生動物は偉いなぁ。 それで10年以上1番最初のこのデジカメにはこのレンズがつけっぱなしになっている。レンズ交換はしないからほこりがつく心配もない。世界中持ち歩いてぶつけたりしているのでフィルターの枠の部分は46ミリのフィルターがもうねじ込めないほどに変形しているがデジカメは別にフィルターがつかなくてもPhotoshopで色は合わせられるから心配する事は無い。広告写真の仕事をやっていた40年ほど前には全部フイルムカメラであったからスタジオなどでスタジオさんに見えを着る時などは200枚ぐらい入ったフィルターケースをスタジオに置いておくのである。でも実際に使うコダックのフィルターは2種類位だった。 25年前にカメラジャーナルと言う個人カメラ雑誌をやっていた時に坂崎幸之助さん目は待ってくださったのでその中のセクションで坂崎さんのページでこのカメラについてご存知の方は?と言うコラムをやってこれが人気コラムになったことがあったな。それはまだカメラ関係の情報が印刷物で流通していた頃の懐かしい名残なのである。 デビットダグラスダンカンとウォーカーエバンスを写真の歴史の中でどちらが重要かと考えてみるまでもなくて、英雄なき戦争の写真家は相撲で言えば序の口だし、エバンス先輩のほうは横綱と言う位の差はあるのだ。にもかかわらずエバンス先輩のカメラが3,000,000円位でダンカンさんのカメラが1億円で売れたと言うのはこれは別に世の中の不条理と言うような深刻な話ではなくてカメラのプライスの設定と言うのはもともとポピュリズムの上に成り立っていると言うだけの話である。 もう誰にも相手にされなくて寂しいんですね。
若い頃いくら華やかだとかカネがあるとか言っても子供のいない老人の末路はみな同じです。
私は友人よりも家族の大切さを歳を重ねるほど実感する。 余命いくばくも無い爺さんからかうのやめなさいよ(笑) 友人スミスの大きな写真展がこの秋にギャラリーバウハウスで開催されるそうだ。スミスは完璧主義性であるからジャーナリズム命と言うわけで片時もカメラを手放したことがない。最低の状況でも1台のミノックスカメラを持ち歩いていたそうだ。そういう友人スミスであってみればiPhoneなどは最も素晴らしい機材に思ったに違いない。通信ができるなどと言うのは私の場合はどうでも良いことであって、ちゃんとした画像が撮れると言う意味でかなり評価しているのである。 レンズはテッサーの50ミリがついている。だから安心して使うことができると言うことになるのかな?もっともライカカメラを売り出したエルンストライツはそれ以前は35ミリのムービー撮影機器を作っていたのであるがそれについていたレンズはエルンストライツせいではなくてカールツアイスのテッサーなのである。しかしながらライカの父と言われたオスカーバルナックはもともとカールツアイスからヘッドハンティングできた人間であるから別に驚くには当たらない。 これだけ世の中があれてくるとは思ってもいなかったが、
わたしの別の友人(アルパカ先生)など、匿名掲示板に、ちょっとした知り合い(Y縣塾長)によって
スレッドを立てられてしまって、怒り心頭に達していた。
その彼の知り合いというのは、やはり長年(いすゞ)大企業にいる人で、
なんと会社(いすゞ)から、匿名掲示板にアクセスして、その匿名掲示板のとりこに
なってしまって書き込みを続けていると言う。
どうやら、その知り合いは、ほかの掲示板でも、やたらに書き込みを続けていて(2ちゃんねる、アルパ研究会、東京カメラ倶楽部、)
いろんなところで個人的なつきあいの軋轢(猫がほらさん)までおこしているようだ。
はっきりいって性格破綻者だ。 年齢は50代だし、大企業(いすゞ)の管理力なのに
こうした精神的にやんでいる人が多すぎる。
まあ、そんな人が多いのが匿名掲示板の特徴なのかも知れない。
ようするに、世の中の掃き溜めのようなものなのだ。
だから、わたしは彼にそれを説明して、いっさいかかわらないほうが
精神衛生にとっていいよ、と話して説明したものだ。
とてもかわいそうな事例だ。 ■日本人は自分が世界の先進国で、世界中の人が日本にあこがれ、日本を尊敬し、日本を見習いたいと思っていると、勝手に思い込んでいるようだ。
僕は、南米ブエノスアイレスでも、夜中に二時間もホテルを捜してさまよったことがある。
この時は、少なくとも10軒は断られ続けた。
部屋がないわけではないのだから、単純に東洋人に対しての人種差別だ。
北部アフリカのチュニジアでも、ホテルは出来るだけ東洋人を泊めないらしく、部屋があるにもかかわらずフランス語で「コンプレ(満室)!」と何度も断られた。
南米を旅行していると、子供たちから「チーノ、チーノ」と声をかけられてからかわれるのは、誰もが経験あるだろう。
チーノとは文字通りでは「中国人」という意味だが、僕が「ソイハポネス(僕は日本人だよ)」と言ったら、「だったらチーノだ」と言われたので、
チーノとは東洋人一般を馬鹿にした言い方のようだ。
LAでも、普通に生活していると、本屋でも、レストランでも、日本人を馬鹿にしたような態度をされることがある。
ユニバーサルスタジオの「アニマルショー」で、昔、客がどこの国から来たか呼びかけて、客が大声で「ハーイ!」と返事をしていたが、
日本人が随分いたのに、日本人だけが呼ばれなかったこともある。
日本人は自分が世界の先進国で、世界中の人が日本にあこがれ、日本を尊敬し、日本を見習いたいと思っていると、勝手に思い込んでいるようだ。
しかし、そう思っているのは日本人だけで、実際は、日本人は、世界中で馬鹿にされ、差別される立場だ。
日本人は、黒人差別はよくないと言うが、実際はアフリカでは、黒人が日本人を差別している。
僕はケープタウンのホテルでいじめられたこともあるし、ジンバブエのバスの中で、黒人の酔っ払いに日本人を馬鹿にしたことを言われて、絡まれたこともある。
世界の観光地、カリブ海になると客はほとんど欧米人だ。
そこに場違いな東洋人がふらふらと迷い込むと、欧米人観光客からも、ホテルのスタッフからも、現地の黒人からも差別を受けることになる。
僕が2004年に行ったT&T(トリニダードトバゴ)では、インド人からかなり冷たい扱いを受けたよ(涙)。 >>873
そりゃお前の風采とか態度物腰、言葉使い(語学力込)等に
問題があったからだろよ
日本人一般の問題にすり替えるなよ 私はニコンエフツーのチタン仕上げを行がって使っていたのであるが、旭川かどっかに取材に行った時に手元が滑って部屋の中にあるだるまストーブにチタンのエフツーがぶつかってきたり落ちた。チタンのエフツーはどこも傷がついていなかったがだるまストーブの角に傷がついたので関係者に謝ったと言う記憶がある。
ところで森山大道さんが使っているペンタックスはブラックばっかりだと思っていたが70年代後半から80年代初めに森山さんが撮影したこれは非常に珍しい富士山の登山道の写真なのであるが森山さんは二台のカメラを持っていったらしくて1台のカメラが登山道の砂の上に投げ出してあるのである。それはペンタックスの子通のクローム仕上げであった。ここら辺に関して私は森山大道さんのカメラの趣味を尊敬しているわけである。 >>872
カメラサークルで人脈作って選挙に出るとかほざいてたじいさんだろ!?
あれ、まだ生きてんの?
結局自己アピールすればするほど嫌われていった悲しい人だったな もうみんなアレの事は無視してるんだから話題に出すなよ 全身ヴィトンで金のカメラとか持ち歩いてカメラ市に出没している。
明らかに何らかの発達障害がある人だと思った。
関わるとろくな事ない。 もう私は中古カメラ市のにも銀座のカメラ屋にも行くつもり無いので言いたい事言ってるというねww そのずっと前の話になるが1981年にニッコールの交換レンズの撮影でヨーロッパを回ったのである。その時持参したのはニコンエフが1台エフツーが二台エフスリーが1台だった。それ以前のヨーロッパに行ったときにはずっとニコンエフを使っていたのでそのロケの時も主にニコンエフで撮影した記憶がある。105ミリのレンズで好きなのはこのトリプレットの暗いレンズである。当時のニコンは交換レンズを普及させるために当時のメインレンズであった105ミリF2点5よりも10,000円位安いレンズを製造販売したのであるが日本人の感性としてゴージャスが大好きだからあまり売れなかったらしい。 ヤシカカメラ関係の資料で気がついたのだが頭脳光学が倒産した後ヤシカカメラがサポートしていたようなのである。だからこういう似たようなデザインがペンタプリズム上に構築されたのであろうがその存在感は同じ時代に作られたニコンエフのペンタプリズムよりもはるかにデザインとしては上のクラスだと思う。
それでこのヤシカペンタマチックであるがどうも国内で見る事は稀であって私が購入した二台のカメラはいずれもロンドンとかリバプールとかそこら辺で発見された個体であった。
ペンタマチックには最初のモデルと次のモデルすなわち1型と新潟が存在するのであるが、資料を調べてもどうも何が実際に1と2で違うのかがわからない。 人にレンズを売る場合、前後のレンズキャップを着けるなど常識だろうがっ!!
外道がっ! やはり人に恨みを買う生き方は「結局損する」とこの爺さん達から学んだ このクリスタルの一眼レフはゼニトと同じものなのだけれどもまずトップカバーがカメラ人類の好むグレーハンマーと音仕上げである。グレーハンマーと音仕上げの一般に販売されたカメラは非常に少なくて私の知る限りライカの顕微鏡用のカメラでMDというのがあるがその最初のごだいがグレーハンマー豚仕上げだった。ライカでは最近になってあの面サイト仕上げを出しているがこれはグレーハンマートーンとはちょっと異なっている。だからこのクリスタルカメラは市販された世界でただ2種類のグレーハンマーと音仕上げカメラになるわけだ。
グレーハンマー豚仕上げの何が良いのか?どうもブラックペイント仕上げよりもその手のひら頭の接触面の感覚が膝が高いようである。でもそれは気分的なものであってだから写真が良くなるわけでないのは言うまでもない。今回気がついたのであるがクリスタルカメラはトップカバーがハンマーと音仕上げであってボトムのカバーは普通のクローム仕上げである。ソ連のカメラメーカーが手を抜いたのであろう。ところが昔私がコレクションしていたスイス製のアルパカメラであるが、あれはトップカバーとボトムカバーの仕上げが違っていたことに気がついた。トップカバーがペイントでボトムカバーがクローム仕上げであったりする。つまりアルパにしてもクリスタルにしてもこの方が高級な仕上げであると言う認識をすることもできる。 思えば、「退屈」とは、最大の娯楽なのである。
だから、遊び方を最初から「固定」してしまう一般の商船のクールーズは自分などはごめ んだ。 山下公園の氷川丸の向かいのタワーに棲む、例の「氷川丸少年」の見聞したところによる と、レジデンス船というのがあるそうで、彼は東京港だかどこかでその船を見学したらし いが、これは大変なお金持ちのクルーズで、ようするに船に棲んでいるのである。
その意味で、昔の水上生活者は今思うと大変な贅沢だ。
氷川丸少年の見聞によれば、かのクルーズ船の見学をした時に、上品な老婦人がデッキチ エアで、なにか厚い本を読んでいたそうで、ただただそれだけなのである。 まあそういうのが本当の贅沢であるのは疑う余地はない。
稲垣足穂の本の中に、どっかに日食観測に行く船の中で、大半の連中が浮かれている中 に、欧州の天文学者の若い人が独り、そのグループから離れて、独り計算尺を使っている のが、粋であったというくだりがある。
思うにこれなどは理想的な船旅だ。
ところでライラに自分がぞっこんになったのは、これが「客船ではない」と言う一事に尽きる。 要するに普通の人の考え方からするとライカのオーバーホールも医療もちゃんとやれば新品同様になると言う間違った考えを持っているらしい。カメラにも人間にも寿命があるからその寿命の間に一生懸命生きると言うことが実は大切なのだけれども若い方はそこら辺がわからない。
3年前の2月に事故で亡くなった心臓外科のお医者さんはクラブエダムでの良い飲み友達であったが彼から教えてもらったのは、レヴィストロースが70年代終わりに佃の住吉神社に来て石灯籠の前で記念写真を撮っていて佃島に住みたいと言ったそうである。私などはそのレヴィストロースが憧れた佃島に30年以上住んでいるから哲学的に考えてもこれ以上の人生の幸せは無い。
世の中ワクチンを2回打ってもうハワイでもどこでも行けると意気込んでいる人は私から見ると不気味である。私はひねくれ者だから日本が鎖国になったのを機会にもう外国に行くのはやめた。外国に行きすぎるほど言っていたので残りの時間は日本で東京の佃島とその周辺を楽しもうと考えているのである。 私のめちゃくちゃの町歩きと言うのは最初から目的地が決まっていないから1種の老人の徘徊である。それはそれで面白いのであるが例えば今日のように千代田区1番町25番地に行こうと目標を設定したときには社会的な問題がそこに生じるのである。定年退職した人が自分の長年通っていた会社にいけなくなったとかそういうこともあるし、私が尊敬するライカの神様である中川一生先生はかなりお年をめしてから銀座のカメラ屋さんから佃島のご自宅に帰れなくなったのでタクシーを呼んだのである。その中川先生のご自分の家の分からなくなったと言うタワーマンションに私は住んでいるわけだ。
ケルンのフォトキナの会場で私のボスのケプラーさんが3号館の1階のライカのブースをわからなくなったと言っていたのは別にビック?ではない。その時からケプラーボスは30年も活躍なさったのである。
明日も出かけるぞ千代田区1番町25番地。これは朝鮮であると言っているのは貧乏神である。だから私もこれは挑戦と言っておこう。 なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分か っているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我 が任務である。 ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であ るから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。
それに対して、ビオター75mm ff1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが 実は現在なわけだ。 プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm ff2というのがあ る。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字 の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売 り」はしない。
あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れようと思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かなかったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追ったりするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。 お前から落札してやったんだから、返信の連絡くらいよこせよバカがっ! 当時の小村レンズはあの頃は安物だと思っていて私が最初に手に入れたのはこの135ミリF2点8でペンタックスマウントのレンズであった。私が高校生時代に小石川植物園でのモデル撮影会で私の気に入ったモデルさんが江波杏子であったなどと言うのは古典的な話であるがこのレンズで撮影したと言うわけだ。
江波杏子と言う女優さんはヤクザ映画で有名らしいがそちらの方面の映画は1度も見たことがない。 強行開催でいろいろ主催者側も気をつかっているようであってオリンピックマークの前で記念写真を撮影したりすると人の流れの渋滞が起きるから警備員が立っていて立ち止まらないようにと東京都民を脅迫しているらしい。
それで思い出したのは1970年であったか日本に初めてパンダが来た時私はそれを見に行ったのであるが、やはりガードマンが立ち止まるなと都民を脅迫していた。もっとも立ち止まっていけないのはパンダだけではなくてホーチミンの遺体をハノイに見に行った時も警察官が立ち止まるなとハノイ人民を脅迫するのである。
東京駅の新しいドームができた時も善男善女が集まってドームの内側を競走で撮影しているのは大笑いであった。 カメラで私が記憶しているのはキャノンが出した35ミリカメラで太陽電池を使っている我々の間で太陽野郎と呼んでいるカメラであってその当時東京カメラクラブで開発設計の人を呼んでいろいろ話を聞いたのであるが、当時はパワーのある太陽電池がなかなか得られなくて量産したやつは何かどこであったかメキシコ製と言うような記憶もあるが間違っているかもしれない。 >>897
太陽電池の35mmはリコーではないですか?
リコーはソーラーカメラを幾つか出していましたが。
https://i.imgur.com/LrVUfw7.jpg ウィーン時代に結構使ったカメラであって35ミリのカールツアイスの広角レンズと同じく25ミリのレンズもよく使った。ウィーンの中古カメラ屋さんで偶然に手に入れた藤田の400ミリef 5というのがあって、これは建物の上のほうの装飾品を撮影するのによく使った。このカメラは左利きの人のために作られたのではないかとよく言われているがそれは結構納得できる。でもカメラの操作するときの体の感覚と言うのはライカやニコンのような右手中心でばかりやっていると頭がへんてこりんになるので時々は左手で操作した方が写真の思考回路が正常に戻るようである。 1950年代終わり頃にはフィルムバックを交換していろいろなフイルムを使うと言うカメラが流行した。そのトップクラスはカールツアイスの今田レックスである。ただし値段も天文学的であったし実際にフイルムバックを交換して使ってみると実に煩雑な使い心地なので今でも持っているが使うのはやめてしまった。 それでこの1ヵ月ほどのテレワークで写真を撮らないわけではなくて椅子を180度回転させると隅田川の夏の風景が見える。これは正確ではなくて1月前には梅雨であってグルーミーなはっきりしない風景が目の前に広がっていた。それでそれぞれのカメラにモノクロフィルムを入れて1日に23枚ずつ撮影をした。
トータルで1ヵ月の間に72枚ほど撮ったわけだが時間が確実に過ぎていくからモノクロフィルムの最初の頃は典型的なモンスーン気候のグレーの東京であって後半のほうはオリンピックのアスリートが逃げ出すほどの暑い東京である。撮影済のフィルムは別にすぐ新聞に使うわけでは無いからそのままカメラの中に入れたままになっている。要するに今の時代が便利なのはニュース性のあるモチーフはiPhoneで撮影してすぐにアップできるが大切に撮ったモノクロフィルムはそのまま半世紀後に発表しても良いわけだ。私の今の仕事のやり方はそれであって主に発表しているモノクロフィルムはこの間のギャラリーバウハウスの東京の写真展でもそうだが概ね半世紀前の写真なのである。 この手の初期型の一眼レフのオートフォーカスレンズはコシナレンダーも一生懸命作っていてそれが時代遅れになった時に中野のフジヤカメラに大量に出て山積みになっていたので私も面白がって買ってきた。それを初期のライカレンジファインダにレンズマウントアダプターで取り付けてオートフォーカスライカだなどと遊んでいたのであるがそれも単なる1時の思い込みである。フォーカシングはマニュアルフォーカスに限るな。 ニッカカメラは元を正せば日本で最初のライカカメラのコピーを作った会社であるそれがこの時代にヤシカカメラに買収された。前後して当時ユニークな一眼レフで話題になった頭脳フレックスを作った会社もヤシカカメラに買収された。だからこの前後のヤシカカメラのカメラのラインナップを見ていると一眼レフカメラのペンタプリズムのスタイルが頭脳一眼レフに似ていたりする。
このカメラのデザインもなかなか優れているのでそこら辺のデザイナー集団が設計したのかもしれない。普通のカメラメーカーのデザイン部が作れるようなデザインではないからだ。 >>903
日本で最初のライカコピーを作ったのは精機光学(キヤノン)。 それからしばらくしてこのカメラがどんどん家の中に増殖してきてまた西ドイツの時代に西ドイツ製の5-16ミリカメラを携帯してライカの本場ライカの会社に撮影に行ったこともあった。要するにこれは趣味の映画撮影と言うわけである。ありフレックスの数が増えて何がやりたいかと言うとなるべく汚いカメラの個体を手に入れたいと思うことになるのである。何か戦前の大学生の弊衣破帽にも似た感じなのかもしれない。北ドイツ放送局が使っていたリフレックスとか、放送局出身のカメラをずいぶん集めたのである。 1970年に日大写真学科を卒業してその後日大にはほとんど行ったことがないけれども、卒業制作で提出した東京のスナップショットのシリーズがどうなっているのか知りたくて後輩の堀野に頼んで見てきてもらったらまだ変色はしていないと言うので一応安心したのが既に10年以上前である。あれから10年経っているからまた見に行ってもらいたいがひょっとしたらプリントが変色しているかもしれないな。 言うまでもないことだが85ミリと135ミリと言うのは描写も全く異なるレンズである。ニッコール伝説で三木淳がデビットダグラスダンカンを撮影したのが8.5センチのゾナコピーであったから良かったのであって、13.5センチのゾナーコピーではこんな事は起きなかったのかもしれないと思うと何やら面白い。
13.5センチのレンズは普通はファインダーをつけて使うしニコンSPの場合は正確なファインダーがついているが、45年前にwinで撮影していた当時は私はファインダーは一切使わずにソ連製コンタックスの50ミリファインダーの中心に適当に検討をつけて撮影をしていたら何か面白い構図になってもっぱらアクセサリーファインダーを使わないまま74歳になってしまった。もう手遅れだね。 ライカ人類の唯一のコンプレックスはカールツアイスのレンズが使えないことであると言う主題を何十年も書いている私であるが結局ライカ人類が行き着くところはカールツアイス西ドイツで作られたBiogon 35なのである。ところが西独のこのレンズには大変な欠陥があって仕上げがよすぎるので旬の真夏のサンライトの下で撮影すると◇仕上げのレンズのバレルが乱反射してまともに距離も絞りも設定できないと言うことがある。
もう一つの問題点は21ミリでも35ミリでも同じレンズバレルなので共通しているのであるが絞りの設定がゆるくて勝手に動いてしまうというのが西ドイツ製のカールツアイス広角レンズの最大の欠点である。それで使っていてトラブルが起きると頭に来てすぐ売り払ってしまうのであるがしばらくするとやっぱり欲しいと言う気になってまた手に入れたりするのでレンズの悩みは尽きない。 >>910
カール・ツアイスのホロゴン15mmF8にはライカMマウントのものがある。
知らないの?w 揚げ足取りつまんね
信者と街撮り行くのはやめたのか? ゾルキー4型と言うカメラはソ連製だから当然ではあるが当たりとハズレが激しくて私が使ったのはほとんどハズレの個体であったがこのイエローサブマリンはなかなかシャッターの調子がよろしい。ソ連並みのいろいろなアイディアがカメラを使いにくくしているのも面白い。要するに巻き上げのダイヤルを1度に回すことができないようになっていてそれはファインダーの出っ張りが指のアクションを^_^妨げるのである。しかしそれ以上にこのイエローサブマリンの素晴らしいのはレンジファインダーベースは短いけれどもファインダーの見かけの倍率は高いので絞りがF2位のピントの浅い状態でも距離がレンジファインダーでちゃんと合わせられることだ。 >>911
センセーはウルトラワイドもM用も両方お持ちだ >>915
それを知らずに下らん揚げ足をとるニワカバカ
ちなみに俺は超得のファンでもないし信者でもない 私の場合はそれほどひどくはなかったけれども公園のベンチかどこかに座ってカメラをベンチの上に置いてそれでワンステップずつゆっくりアクションを積み重ねてフィルム交換をすると言うのをだんだんに覚えてきた。モダンな35ミリレンジファインダカメラで巻き戻しクランクと言うものが付いているがあれは両手がしっかりしてないと使えないものであることもわかった。だからそれに対抗するために私の場合はまずベンチに座って両足の膝でカメラをしっかり挟んでそれで左手でクランクを回して巻き戻しをした。
健常者であったときには普通に歩きながらフィルム交換をすることを自慢していたものだが、考えてみるとそれは自慢でも何でもなくて単なる遊びであることがわかったのである。ベンチに座って右手だけでやるフィルム交換でパリの空気が少しだけ変わってきたように感じたのは錯覚かもしれないがちょっとした発見であった。
7本だけ撮った写真は使っているレンズはニッコールの2.5センチだけである。何かいい写真がとれたような気がしたのでその時とその年の秋に今度はカサブランカに行ってこの時もニコンレンジファインダカメラであったが気分を変えるためにニコンSPを持参した。レンズは同じ2.5センチだった。 健常者って…
センセーなにか障害をお持ちなんですか!?
それともパラリンピックが始まったからセンセーお得意のエスプリ?? 戦後の我々カメラ人類が感じている基本的なカメラデザインと言うのはレンジファインダのライカタイプではなくてニコンエフに代表されるようなあるいはこのヤシカペンタマチックに代表されるようなカメラのトップカバーにペンタプリズムの三角型が付いていると言うカメラデザインに象徴されているのだ。
どっち往年のフイルム一眼レフのデザインでヒットしたオリンパスomシリーズなどはマイクロフォーサーズのデジタルカメラに移行してもそのデザインを上手く継承している。最近登場したニコンエフエムツーをそのままリメイクしたデザインのAPS-Cサイズのデジタルカメラも市場では人気が高いようである。 デジタルカメラマガジンと言う雑誌を創刊号から15年位連載などやっていて8年位前に止めにしたのであるが何がつまらないかと言うと無意味なデジタルカメラの新製品に対して編集方針としてびっくりしてみせると言う忖度が面白くないのである。広告料をとるわけだから仕方ないけれどもお前ら何やっているんだと言う感じがする。
それでも最新型のデジタルカメラがいかに凄いところまで来たかと言うことを調査するために10年来行っていない有楽町の大手量販店などに行こうと思っているのだが期待感が最初からないからそのままになって歳を過ごしている。それで私の場合クラシックカメラのアンティークネタになるのであるがこちらの方がはるかに面白い。最近また大発見の連続で長生きして良かったと感激しているのである。 ハンガリー製のレアな一眼レフデュフレックスというのがあってそれの修理をペーターに頼んでおいたのだがライカの社長さんがその前後に来日する時修理の出来上がったハンガリー製の一眼レフと日本で展示する1番最初のURライカの二台が社長のアタッシュケースに並んで私に届けられたのにはびっくりした。ライカの社長もまさかレアなハンガリー製一眼レフをドイツから日本に運ぶ任務を命令されるとは思っていなかったであろう。 1連のレアライカに関してはライカエムスリーにライカビットをつけたライカMPも同じであってこれも後期のロットのライカMPはネックストラップアイレットのスタイルが犬の耳ではないので専門のフェイクメーカーからするとどちらかと言うとフェイクが作りやすいモデルなのだそうである。まぁそういうカメラを何万ドルも出してインベストメントを狙って金庫にしまっておくと言うのは本当のライカの楽しみを知らないかわいそうな連中である。
私の場合は人から借りたこのオリーブドラブのライカはなるべく使おうと思ってちゃんとした撮影のときにはこれを持参する。いつだかとバスの車内でライカ好きの親父さんに遭遇したときにオリーブの軍用ライカの話になったのだが彼から見れば単なる色の違う古い代価であるからゴミみたいなような認識だったのが面白かった。一昨年の夏の話であるが8月の盛りにギャラリーバウハウスの撮影でハノイに行ったのである。その直前のネットオークションでこのカメラの値段が3,600,000円位であったからなくしてはいけないと思ってホテルのロッカーにちゃんと閉まって数字を記憶して鍵をかけたのである。ところが翌日撮影に行くときにその鍵の番号を忘れてしまったのでフロントレセプションを煩わせてマスターキーで開けてもらった。 1980年にオーストリアにやってきた尊敬する写真家リーフリードランダーに私のポートフォリオを見せて意見を得たときに彼が目を止めたのは私がカメラアートと言う英文雑誌に掲載したフォトグラファーおんざbicycleと言うワンショットだった。すごい速度感が出ていて流れ去る路面を左手の自転車のハンドルをホールドするショットでものすごい危なっかしい画面のスナップショットだった。リーフリードランダーはこれを撮影した後フォトグラファーはどうなったのかね?などと聞いてくれたのも嬉しかった。 森さんは東京総合写真専門学校の校長先生もなさった方であって60年代の東京撮影した春日さんとは親友だったそうで一緒に会社を起こしたりなさっている。森さんがオリンパスワイドの使い手で、春日さんがかろうワイドの使い手、お互いに切磋琢磨した若い時代があったのであろう。
その京都をとっていた当時の森さんの写真を何かで拝見したことがあるのだが私がすごいなと思ったのは彼が使っていたのは1番最初のオリンパスワイドつまりKnobで巻き上げるタイプのやつでそのカメラを森さんは頭の上に乗っけていると言う不思議なポートレートであった。 京都出身の人と話をするときにこちらがキーワードであまり知らないにもかかわらず勝手に地蔵盆の頃がいいですねと言うと話の相手の京都の人はそれに引っかかってそれぞれいろいろな思い出を語ってくれるのは本当に嬉しいことだ。でもそういう人々から聞いた話ではやはり最近では地蔵盆の集まりがなくなってきていると言うことなのである。帰ってきた酔っ払いの作者である私の友人なども地蔵盆の頃はそこでもらえるお菓子が楽しみであったと感慨深げである。でもその人は1969年に京都を引き払って東京方面に移住してしまったので、その作詞家の頭の中にはやはり私よりもはるかに強烈な地蔵盆の頃の記憶というのが残っているのであろう。
1番最初のモデルのオリンパスワイドでこういう素晴らしい作品を取った森さんの視神経は凄いと思う。 ロシア製時計で「クレムリンの塔の大時計を制作したメーカー」のウオッチというのもある。
スイス製のRolexもIWCも結構だけど、帝政ロシア、そしてかのスターリンも愛用のウオッチも捨てがたい。
この前の土曜、あの写真部の「反省会」で、福田和也さんに会った時、彼の時計もソ連製であって、その意を強くした。カメラも時計もロシア製に限ると思っているのは、あたしも考え違いのようであることはよく分かっている。福田さんが言うには、なんでもなにかの小説で、誰か人物の所持品を調べていて「なんだソ連の時計か」とそれを脇に捨てるけしからんシーンがあるそうである。それは知らないが、ソ連製ウオッチは安くて実用でシックであると思う。
ただしこのPAUL BUHREはシルバー側で無論、安いものではない。サイズはFMの大型くらいだ。
誰も持っていないブランドの時計を持つというのは、わがままの行き止まりである。 1982年のニューヨークの1年間の滞在でもっぱら近代美術館でプリントを見ていたのであるがそれ以外には8 × 10インチのディアドルフカメラでマンハッタンを撮影していた。そのためのロケーションハンティングに行く時にブラウンのメモを持って歩いて面白そうな街角を瞬間的にスケッチしたのである。これはスケッチとも言えないものであって1つの街角を大体10秒位でその空間構造を変えてしまうと言う荒っぽい仕事だったが、文字で書き記すよりも空間構造のラフスケッチのほうがよほど私には役に立ったと言うわけだ。 団塊世代って「オレ有名人の友達いる」の自慢でマウント取る爺が多くて正直ウザいです
私は一応話を合わせていますが、その有名人の功績をさも自分の手柄のように武勇伝として話すのが聞いていてイタい人だなぁと思う
老い先短いから言わないけど 以前某カメラ店行って古いライカを見てたら隣にいた変な爺さんが色々話しかけてきてとても不快な気持ちになった事がある。カメラの蘊蓄だったらまだ良いのだが「あんたは何の仕事してるの?」とか「家はどこだ?」とか聞いてくるので怖くなったよ。
常連だか知らないけれど、入って来た客を品定めするような目で見るのもどうかと思うよ。
店のカウンターにデン!と数人が陣取って一見さんはお伺い立てないと品物を出してさえもらえない陰鬱な空気が漂っている。これじゃあ中古カメラ屋の未来は無いよなぁと思ってたら案の定その店は潰れた。 東雲都橋のバス停は今でもあるがそこから先が延々とあってオリンピックスタジアムなどがある地域である。看板を細かく観察していて面白いのは食堂の暖簾が今とは違って右書きの文字列なのである。戦前から営業している有名な食堂であったのかな。東雲と言う言葉に青春時代もほのかなロマンを感じていてバスの終点まで来て失望してしまったわけだがそれから50年以上経つとあの失望と言うのは実は失望ではなくて私の人生の初期のかなり重要な記憶のスナップショットの1部であったことがわかるのが痛快である。
そのバスストップは今でも同じところにあるがあの頃はその先が海だったのだけれど今は巨大な埋立地のエントランスと言う位置関係が完全に逆転してしまった。定点観測が好きな人がいるが私は定点観測が大嫌いである。だから坊主憎けりゃ今朝まで憎いの例の通り、定点観測が好きでそれを撮影している人間まで嫌いになってしまうのだ。理由は単純であって定点観測が好きな人は写真が持っている本来の理性的な素晴らしい作業と言うものを最初から放棄しているからだ。写真のリアリズムが真実を伝えると言う時代遅れの写真のリアリズムも嫌いだ。 タモリさんより力を持っているのは番組のスーパーディレクターさんであってかつてゴルバチョフ大統領を番組に読んだそうであるが、その人は変わった人で飲料水のボトルのキャップを集めていると言う小学生みたいな趣味を持っていた。全国ネットのテレビに出ると言う事は悪い事はできないものだということがわかって次の週に札幌に行って定食屋で食事をしていたら運びのおばさんが、あんた先週テレビに出ていたねと言われた。
しばらくしてからギャラをもらったのであるがそのギャラの値段が結構良いのにはびっくりした。しかしこれは私のギャランティーに関する距離感が狂っているだけだと思う。何しろ戦後50年間ずっとカメラ雑誌の原稿料がスタンダードだと思っていたからな。 友人スミスの代表作としては写真集「ピッツバーグ」がある。これは彼が生涯かけて作った写真集であって出版までに大変な苦労があったそうだ。代表作としてその次に私が思い出すのがアルベルトシュバイツアーを撮影した1連のシリーズである。私がこの写真に最初に出会ったのは写真が撮影された直後のカメラ雑誌アサヒカメラのポートフォリオであった。
アルベルトシュバイツアーがオルガンを弾いているそれを脇から撮ったなかなか自然体の写真なのである。私が興味を持っているのはシュバイツアー本人よりも彼が弾いているクラシックなオルガンなのである。そこに燭台が2つ付いている。その燭台のそれぞれにはろうそくが2つ付いている。この写真を最初に見た時はまだ中学生だったと思うからそれから20年ぐらい経過してオーストリアのウィーンに生活すると言う事は考えなかったけれども、当時ウィーンで借りていたピアノはアップライトピアノであって面白いことに燭台がついていたところが外されてはめ込まれていた。要するに電気が使える前の時代からピアノと言うのはその存在感をちゃんと誇示していたと言うことになる。 一昨年のちょうど夏の終わりごろに雑誌の取材で私が半世紀馴染んでいる上京区の路地裏あたりの同じような小さいウインドウを撮影に行ったのであるが、25年ぶり位にそこを訪問していささかの間違いもなくいきなりその目的の場所に行けたのは私の土地勘が凄いと言うことを自分自身で驚いたことであった。
もう一つ気になっているのは堀川通りの元西願寺と交わってちょっと下ったあたりにニューヨークなどではよくある電話交換局でそのスタイルがアールデコをしているやつがあってそれも私の好きなモチーフだった。十数年前にそのことを思い出して界隈をウロウロしたが既に撤去されてしまったようである。アールデコ様式の電話交換局と言うのはマンハッタンのぶらぶら歩きの時になかなか格好なランドマークなのであるが今はもう無いであろうな。マンハッタンのクラシックなダイナーもそういう種類のメランコリックオブジェであったがこれももう存在しない。 ^_^ところでこのレンズの実物に遭遇したのは20年位前のオーストリアのウィーンのライカショップのカメラミュージアムのウインドウの中であった。これはライカショップのコレクションと言うのではなくてウィーン在住の有名なコレクターの者なのだ。その人に私は以前東京で会ったことがある。名刺をもらってびっくりしたのはニューヨークとかグリーンとかパリなどに弦楽器のクラシックな楽器を販売している経営者であって要するにストラディバリウスをハンドリングしているわけである。そういうコレクターが銀座のカメラ屋のジャンクボックスの中に銀色のニッコールの52ミリのフィルターを発見して10個ほど手に取ってたくさん買うからちょっと負けるなどと言っているのはなかなかコレクターズ魂である。 ニューヨーク近代美術館で何かの資料を読み飛ばしていた時に日本人以外にはありえない定吉と言う名前が私の記憶に残った。それから40年近くが経ってその人のことを思い出してウィキペディアで調べたら大変な経歴を持った人であることがわかった。それをここでコピペしても意味がないので定吉ハルトマンに関してはそれぞれネットで見てもらいたい。 ^_^そのリコーがワイドカメラブームのかなり最後のほうに出したのがリコーワイドだった。過去60年位ありとあらゆるレンズシャッター式の35ミリレンズ付きカメラを使っているのだが実はこのカメラは今まで使ったことがなかった。吉行淳之介さんが親友の島尾敏夫さんにカメラを持っていないと言うのでプレゼントしたのがこのカメラなのである。つまり指の棘のカメラである。その息子の心臓がこのカメラを真面目に使って当時西武線ひばりヶ丘行きの電車を待っている女子中学生のスカートの中にリコーワイドを突っ込んで撮影をしたと言う武勇伝が残っている。確かにこれは本当のストーリーだと思う。半世紀以上前はそういうのが普通に行われていたと言うわけではないが伸三だったらそういう事はやりそうだ。 以前コンテナ船の120,000トンクラスのやつに乗った時にブリッジで使われている双眼鏡を見たらそれはどこかのメーカーのものであったか忘れたけれどもそのサイズはレンズが50ミリの倍率は7倍なのである。ただちょっと意外に思ったのはそこら辺のサードパーティー製の安物であるというのがちょっと気にかかったのだがブリッジで仕事をしているプロフェッショナルはそんな事は気にしていないのであろう。半世紀プロ写真家をやっている私がソ連製の安物のニセライカを使っているのと同じ理由だと思われる。 1976年の夏に私はヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会の準備のために日本に行って登場の写真家の皆さんと打ち合わせをした。その時にカメラ毎日の山岸さんにもお目にかかった。その時山岸さんは私の作品がちぎられて販売されたことに大変な責任を感じていてその責任を自分で忘れないようにするために20冊ほどのその1974年1月号の雑誌をまとめて包装していつでも仕事場の自分の見えるところに置いてあると言うような話をなさった。山岸さんは打ち解けて学士会館で私にカレーライスをご馳走してくれたがこれが山岸さんに会った最後であった。 その日本で最初に飛行したモーリスファルマンが所沢の飛行記念館に展示されているそうだ。私の初期の飛行機に関する記憶は稲垣に全て頼っていて彼は手製のエンジンも作ってそれを回転させたら止め方がわからなくなりその強音がすごいので隣近所に迷惑をかけた事がある。アビエーションのパイオニアが実際にモーリスファルマンのスタイルの飛行機を作ってそれを大八車に積んで移動していたら通行人にいぶかしがられて、それは何かと聞かれてといたですと答えたのは確かにその頃の飛行機の主力と言うのはそのような形状であったからこれは間違いではない。 田中理事中はどうなるんですか?
日大のOBとしてどうお考えですか?
同じ田中さんとして その中でライカといふぉんを比較してみるに、ライカは36枚が一度のセッションである から、そこで息継ぎができる。ノブでフィルムを巻き戻して、カセットを取り出して、や れやれと息を入れる。一方にいふぉんはこれがデジカメであるという認識に意義を挟むカ メラ人類は居ないであろうが、なにしろ36GBも容量があるので、撮影枚数という認識 がない。
人間の身体的な視神経の記憶も別にカウンターがついているわけではないがそれ がそのまま記録可能なのが、いふぉんと言ってよい。ライカにはオンとオフとが存在(3 6枚ごとに)けど、いふぉんにはそれがない。そのことが良いのか悪いのか、それは今の ところ不明であるが、近々、ケータイのカメラ論は誰かによって書かれるであろう。 こういうカメラは今が底値であって私が手に入れたこのモデルはなんと500円であった。それで送料が600円だからトータルで1100円である。落札した時は光の加減でよく気がつかなかったのだが到着してびっくりしたのはカメラのフロントの部分が銀色に磨くんであるのだ。これが気に入った。まさに夏向きのカメラである。
20年以上前にまだ中古カメラ市に行っていた頃であるが坂崎幸之助さんが見せてくれたライカM2のボディーがやはり銀色に磨き込まれていた。聞いてみればツアーの時に夜は外に出られないのでずっと1台のライカM2を磨いてレーザーの部分の剥がれているところが完璧に銀色になったのだそうである。
おそらく私の銀色のオリンパスワイドも個人のスナップシューターが手磨きで作ったものかもしれない。 そこに割り込んで入った爺さんが「アイツ俺の事本に書きやがって!」と頭にきて恨んでたよ それで私も片岡先生の影響が出てしまって今にも壊れそうな木造建築を見るとそこに桂離宮を感じるようになってしまった。その木造建築の勝ち方と言うのはヨーロッパにも木造建築がたくさんあるが存在としては日本の場合の方が降ら切り程度、つまり壊れやすさがあっていかにも東洋の禅寺の深さそのものである。
私が生まれ育った文京区音羽の家は関東大震災直後の2階建てカリブ神であった。それが壊されると言う時に私はボレックスの16ミリムービーカメラを持って壊れる瞬間を撮影に行った。重機が腕を一振りすると私の思い出のそのものであった木造2階建ては一瞬で砂煙の中に消失したのである。 偶然の機会で大昔のデータを拾ってそれを今の時代と比較するのは面白い。アルパのブームは完全に終焉したと思ったら数年前からどうも中国のコレクターさんを中心にもう一度復活しているようなのである。私がアルパに興味を示した頃は銀座のカメラ屋さんに壊れかかったのがたくさんあって私が行くとそれらを全部押し付けられたのである。最初は銀座の喫茶店でというか夜はバーで昼の数時間だけ喫茶店になっているところでアルパの研究会をやっていたがそのうち人数が増えて、佃島の集会所でやるようになった。
90年代の私は結構多忙でヨーロッパに行くことも多かったが手順が分かっているのでアルパ研究会の皆さんは私がいなくてもちゃんと集まりをやっていたのは大したものである。どのくらい昔の話かと言うとマックのコンピューターがLC620が現役であった時代のクラシックストーリーなのである。
当時の私はフィルムカメラで仕事をしていたからアルパを現役で使っていた。レンズも24ミリから600ミリまで揃えたのであるがまず使うレンズは50ミリが1番多かった。ただし世の中で一般に言われているマクロすいたがいいとか言うのではない。このレンズを礼賛している人は至近距離でピントが来ないことをありがたがっているようなところがある。
アルパカメラは製造時期の最後の方になって標準レンズはペンタックスのたくまレンズを使うようになった。それもエム42のオリジナルの沢間に自分のところのマウントアダプターを付けて販売していた。琢磨レンズの日本での評判が一挙に上がったのはこの時以来だと思う。 本物と複製芸術に関しては、かのベンヤミンが論じたのは大昔のことであって、オリジナ ルと複製の混乱の整理はそのうち、ちゃんと論じられる時が来るのであろう。
フェルメールの「オリジナル」が来日して、大阪に飛行機で駆けつけたら、人間の頭しか 見えなかったと言った編集者さんがいて、思えばこれは十年ではきかない大昔の話だが、 フェルメールを興行として見るのならこれは大成功なのであろう。
しかし画の前で立ち止まらないでくださいという警告があったりすると、これは事情が変 わってくる。ウイーンのフェルメールなどは、「人気がない」ので、誰も前に立っていな い。それゆえフェルメールと独占するにはウイーンは格好なのである。
液晶の自販機を最初に見たのは、両国駅構内であった。次に視たのは「鼠園」のある駅で、大勢の中国の観光客さんが、この周囲で一緒に記念写真を撮影していた。
自販機の商品の映像がリアル感と感じつのと同様に、フェルメールもその複製で十分であ る。無論、上の画像もフェルメールの複製である。
デジタルカメラの感度は高いのでこれは綺麗に見えているが、実物はもっと暗いのである。 それでペトリペンタの初期モデルのペンタプリズムに製造番号が売っていると言うところはダンディーであると思う。このカメラの魅力はもう一つあってこの写真ではわからないが上からトップカバーを見たときにペンタプリズムの中央あたりで細長くレーザーが貼られているのである。単に単純に細長いレーザーが貼られているのではなくペンタプリズムの出っ張った角度に合わせて処理されているから何か似ているものと言うとそうだな、お寿司のウニの軍艦巻きをそこに連想するのである。寿司屋を連想させるような一眼レフと言うのは素敵ではありませんか?
ペンタプリズムの矢印とその下のシリアルナンバー。さらにウニの軍艦巻きメータートップカバーのレーザーの処理。これだけではありません。最大のこのカメラの魅力はファインダーを除いたファインダーシェアに存在する。ファインダーシェアの右下のところにつまりフォーカシングスクリーンの右下の右入れた余白のところにペトリペンタの文字が刻印されている。つまり撮影をファインダーでやっていれば常に自分のカメラがニコンでもライカでもなくペトリであると言うことを認識できると言うのは素晴らしい。
30年近く前に何かのカメラエッセイでそのことを書いた。そしてその時に私が付け加えたのは当時の35ミリ一眼レフの非常に高級なカメラで同じようにファインダーを覗くとフォーカシングスクリーンの下のほうにそのカメラの名前が登場するというのがあるのだ。今は老人ボケになってしまったのでそれが何であったかさっきから思い出そうとしているのであるがまだ思い出せない。 アルパ研究会もう1度集まりましょうよ。
ニフティフォーラムの頃が懐かしいです。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。