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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】
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0001名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/13(水) 10:06:29.73ID:9ooWCRMi0
尊師降臨

過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/

田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
0002名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/13(水) 19:48:35.25ID:4F5v757W0
写真のテーマ主義の脱却というのが重要だと考えている。傍流写真はその意味で非常に重要である。
0004名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/13(水) 19:49:39.10ID:4F5v757W0
猫の写真の大ブームはいつからきたのであろうか?動物写真の有名な写真家に25年位前にインタビューしたことがあって彼はアンタークティカを動物写真取材で環境を破壊しないために自分の排泄物も持ち帰ると言っていた。その岩合さんは最近では猫のトップフォトグラファーになってしまったようだが、あまりに有名な猫写真家なので猫との言葉のコミュニケーションがうまくいってないのである。
0005名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/13(水) 19:49:58.05ID:4F5v757W0
尊敬する日本で最も有名なクリエイティブフォトグラファー田村代表が東京都写真美術館で10年ほど前に講演会をしたときに絶叫したワンセンテンスがある。
0007名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/15(金) 05:47:48.05ID:TMxFCISk0
この一言で会場は静まり返った。猫写真は本より否定されるものではないが猫が可愛すぎるので危険な存在である。そこいら辺で初めて写真を始めた人が猫写真展をやって見に来る人が列ができて30分待ちなると言うのは有名なラーメン屋さんと同じで危険だと思う。
0008名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/16(土) 06:11:34.66ID:ngKH6gn20
ペトリカメラのリヒテンシュタインモデルにはリヒテンシュタインの国のシンボルがカメラの前のほうについている。リヒテンシュタインはスイスとオーストリアの間の小さな国だと思っていたがウィキペディアで調べたらカール一生の頃にできた国でヨーロッパ中に領地を持っていたらしい。それでチェコに所有していた領地でいろいろトラブルがあったりしたようである。
18世紀の初めのころから存続しているリヒテンシュタインが自社ブランドのカメラを極東のペトリカメラに依頼すると言うのはカメラ好きからするとかなり複雑なメーカー関係がそこに浮き彫りにされているのでこういうカメラを持って写真を撮るのは結構嬉しいことなのだ。
0009名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/17(日) 01:53:39.42ID:3aVUh0d40
我楽多屋のにだいめさんとか猫の中田さんとかそーゆー私の周辺にいる連中は普通の日本人であるから、テレビドラマに出たガッキーとか言う女性のことが話題になっていてそのガッキーと言う人は絵空事のテレビドラマで雑司が谷鬼子母神の参道にある普通の家をなんとかBarに見立ててそこに出入りしたりしていたそうである。テレビドラマの好きな連中は現実とフィクションの違いが気がつかないから猫の中田さんなどは雑司が谷のロケ地を通って本物のガッキーがそこにいるのではないかなどと余計なことを気にするのも楽しそうだ。

時代に遅れてはならないと思ってにだいめさんにガッキーが本名は何と言うのかと聞いて3回を教えてもらったがもう忘れている。だから私は東京の路上でガッキーとすれ違ってももちろん気がつかないであろう。
0010名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/18(月) 06:37:54.76ID:Ic4WZHEf0
これは非常に能動的ななおかつ表現手段の目的化と言うやつで世の中に大流行しているレンズマウント交換アダプター1000日回峰行者阿闍梨とかレンズマウント交換美少女写真家上野とかは単にレンズを交換して遊ぶことが目的化していて、それは別に悪い事でも何でもなくて経済を回転させるには良いことであると思うけれども私は昔の人間だからレンズはマウント交換したらやはり表現の荒野をめざすのである。ここら辺が世代の違いですね。

ところでトップコールのごく初期のこの1連の交換レンズであるが自動絞りのリングのところが3.5センチではライトグリーンに塗られているのが非常にお洒落である。ペイントで塗られているのではなくアルマイトがそういう色彩なのだ。標準レンズは普通のクロームで100ミリレンズは持っていないからわからないが確かレッドであったかな?シャッターボタンで色分けして区別すると言うのは当時のレンズは35ミリと50ミリと100ミリが大きさが同じなので混乱しないようにと言う親切心だったらしい。これもいい感じだね。
0011名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/19(火) 06:57:26.85ID:6KLqIZbc0
内田百聞が戦争中に市ヶ谷の家から歩いて丸の内の日本郵船の会社に出かける時に毎日水筒に紅茶を入れて持っていった。砂糖の入っていない紅茶は甘い味がすると百鬼園は書いているがまさにその通りである。

写真家のSeike Tomioがまだ東京に住んでいた40年近く前だが家に遊びに行った時に写真家はロンドン仕込みの本格的な紅茶を作ってくれた。紅茶のポットをキルトの熱い布で被ったりして何か大変なティーセレモニーであったが、写真家が言うにはどうも本当の味が出ないと言うのである。紅茶をうまく飲むと言うのはそれほど難しいことなので写真家はその後英国に行ってしまった。
0012名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/20(水) 05:40:41.98ID:7xrE1l3C0
帰ってきた酔っ払いとかイムジン河で有名な作詞家が私のFacebookに書き込みをしてくれてその人の情報によればびっくりドンキーで1200何十円で売っているそうである。これにはびっくりした。何年もびっくりドンキーには行ってないが松茸を扱うような店になったのかと思った。

別の友達で清里の良い環境にいる人が書き込んで教えてくれたのは、すでになくなった神田の青果市場で仕事をしていた時に業者さんから聞いた話であるとして韓国産とかカナダ産の松茸は香りが足りないので化学的に合成した香料を薄めたやつをふりかけているのだそうである。何か懐かしいなと思ったのは私が何十年来知り合いの友人の離婚した前の配偶者が高砂香料のオーナーなのである。
0013名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/21(木) 06:59:03.67ID:hbixptls0
最近手に入れたペトリカメラのリヒテンシュタイン向けのOEMカメラがやはり同じで28ミリ50ミリ135ミリの3本のレンズが付いてそれがセットケースに入ってネットオークションで5000円であったのでこれはすごいバーゲンだと思った。

しかしそれ以上に私が感心したのは世の中は不合理だからペトリの一眼レフは安物だと言う差別認識があるけれどもこれがリヒテンシュタインの国のマークをつけたプロフェッショナルブラックのカメラになるとそのカメラの角が3段階ぐらい特進するのである。そのことは別のところで描きたいのだが今日私が気にしている事はその標準レンズのアピアランスなのだ。

55ミリef 1.8のCarenarブランドになっているこのレンズの表示の方法が色分けされていて一瞬でわかるので非常に使いやすい。私なども後期高齢者になってきて視神経の方がいかれているのでこういう色分けは非常にありがたい。

カメラ本体の製造番号のデータから見ると1976年の夏に作られた個体のようであるが1976年夏と言うのは私は1時帰国してヨーロッパを翌年から巡回させた現代日本写真家展示会のために東京とかそこら辺をうろうろしていたのである。その時手に入れたのは出たばかりキャノンAE1であった。当然の話で29歳の若造にこんな素晴らしいペトリカメラの魅力が分かるはずもない。
0014名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/22(金) 06:21:04.07ID:0571dm2o0
アルパと言う会社はスイス製のレンズはマクロスイターだけであってそれ以外はフランスのアンジェニューであったり、ミュンヘンのズーマーであったり後半になるとペンタックスのタクマーレンズを採用するようになる。なりふり構わないレンズ選びと批判することもできるが逆に考えると自社のレンズにこだわらない自由な考え方を持っているのは尊敬することができる。そのアルパの研究本に合わせてレンズを揃えたりした。例えばミュンヘンのズーマーが出した600ミリの望遠レンズであるがこれが製造本数が20本とかそういう感じでやたら細かい。

ところがこのアルパの研究本に入っていないレンズを25年位前に手に入れたのがこのフォクトレンダーで出した35ミリから80ミリのレンズである。ご承知のようにこのレンズはアメリカでバカ売れしたBessamaticと組み合わせて大ブームになったので当時のソ連でも同じカメラとレンズを作って売り出すと言うほどのビックヒットであった。1950年代の後半であるから当時はまだ普通に使えるズームレンズがなかったのである。常用のズームレンズの登場と言うのは1980年になってからなのだ。

それでとにかく魔法のレンズであるからこれを最高級のアルパカメラに使いたいと言うわけでごく少数のレンズが生産されたらしい。でも今これを使うと言う事は無い。25年前にフロリダの人から375ドル払って買ったと言う事はよく覚えているしその打ってくれた人がよくこの珍品に気が付きましたねとよいしょしてくれたのもよく覚えている。

ズームレンズに関しては数年前にタムロンのズームレンズのアダプトオールのシステムのやつをネットオークションで23本買ってそれに支払ったのが100円であった。それで23本のレンズをライカフレックスにつけたりアルパフレックスにつけたりしているからもうズームレンズは買う必要がないと言う

幸せなズームレンズの国に住んでいる私 なのだ。
0015名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/22(金) 23:12:07.31ID:Cla9Fdwb0
日本写真芸術専門学校は90分のひとこまが2000円位だったと思う。毎回その月の支払い調書を私が自分で持ち込んだオーバーヘッドプロジェクターで学生諸君に見せるとやたら受けたものである。田中長徳をあまり安く使っているといけないと言うので3年目に確か250円位ギャラが上がったと思う。オーバーヘッドプロジェクターは私の私物であって佃島からタクシーで渋谷まで運んだのであるが写真学校辞める時にまたタクシーで持ち帰るのは嫌だから学校に寄贈してきた。考えてみればまだPCから直接液晶画面などできない時代だったのだ。Jリーグがスタートした直後だったのでヨーロッパのサッカーの日本人の活躍の話をすると受講生諸君は真面目に聞いてくれた。

真面目な写真芸術の話になるとみんな寝ていたりうるさくなる。それで私はでかい声を出して901教室の1番奥に向かってチョークを投げるのである。何年かやっているとその問題児にピタリと当てることができるようになった。私はエースのサウスポーなのだがなかなかコントロールが良いのである。
0016名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/24(日) 05:58:15.78ID:DkAp3ycJ0
ここにあるのはリヒテンシュタインがOEMでペトリに依頼したカメラのアウトフィットである。リヒテンシュタインはカール一生の頃に作られた歴史ある国家であるが、タックスヘイブンなのでいろいろカメラメーカーなどが暗躍している。このカメラはOEMであるがどうもロットがかなり余ったようで私が手に入れたのは立派な金属ケースに入って、接写リングと小型のストロボライトとケーブルレリーズまでついていて驚いたのは日本語の取扱説明書があったことだ。このカメラの名前は

カリーナ

と言うのである。カリーナと言えば1970年頃に登場したトヨタの新しい車の名前であってずいぶん撮影のために磨きました。しかし不思議なのはリヒテンシュタイン向けにはそんなカリーナと言う名前は全然表示されてない。リヒテンシュタインの国の紋章を簡略化したのがカメラ本体に付いているだけ。

要するに余ったやつを国内でセットにして売ったものらしくてその日本語の取扱説明書の最後に日本メールオーダーとか言う会社の名前が印刷されていた。多分スポーツ新聞あたりに安い広告を出して日本国内で販売したものと思われるが私のようなペトリカメラ人類にとっては貴重なアウトフィットである。トータルの価格が5000円であった。いちどのスーパーマーケットの買い出しの値段でこれほど遊べるのである。
0017名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/25(月) 06:30:21.46ID:KpfTkb6w0
日本では1万数千円しそうな普通のホンジェラスから来たパナマ帽子が4000円位なので感心したのは生活必需品のせいであろう。その後市場でハモンセラーノを買うときに専門店のご主人と話をしたのであるが、通常のハモンセラーノとイベリコ豚のハモンセラーノの味くらべをやって、味なら通常の豚肉の方がはるかにうまいと言うことを教わって日本に帰ってきたらちょうどイベリコ豚のブームらしくて町中そこら中にイベリコ豚の端が立っていてとんでもないインチキな国にやってきたと気分が悪くなった。

パナマには続きがあって私が本当に欲しいのはクラッシャブルパナマなのであるがこれはちょっとしたライカカメラと同じ位の値段がする高価なものなのである。マラガで帽子を買った数年後にライカコレクターからクラッシャブルパナマをいただいてこれは嬉しかった。クラッシャブルパナマの正しい使い方と言うのは小さく折りたたんでパンツのポケットに入れるのがかっこ良いのであろうがライカクラスの値段がするクラッシャブルパナマであるからそんな事はした事は無い。

昨年と今年は夏に強風が吹き荒れていて大切なパナマをなくしてはいけないので夏に1度も出番がなかった。ライカもパジャマも閉まっているのではダメで実際に使うのが1番正しい事は言うまでもない。
カメラエプソンRd1
0018名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/26(火) 06:22:49.46ID:rCJhhi6c0
バブルぼけとかフレアーとか言うものはマイナスのイメージでやられていたのである。それがモダンな現代の世の中になってそういうマイナスイメージではなくなって不思議な画面効果を生じさせるプラスのファクターとして認識されるようになったと言うのは私のようなオールドレンズ時代の人間にとってはかなりびっくりすることではあるのだ。

それで繰り返しになるけれどもバブルぼけもフレアーも自分の写真表現にはもともと無縁であると言う事ははっきりさせておかなければならない。1973年にヨーロッパに行ってウィーンで7年間暮らしたわけだが最初東京で買って持っていったレンズはSigmaレンズの数本であった。ニッコールは高くて買えないからそういうことになったのである。ワイドラマと言う名前のSigma18ミリのレンズがあって値段は安かったがフレアーが多すぎて使えなかった、ゴーストもすごかった。それですぐヨーロッパで手放してしまったがこのレンズはアルルの写真ワークショップをスタートさせた写真家のルシアンクレイグが好んで使っていたそうである。

この写真家の仕事は私は大嫌いであるが確かによく見ればフレアーだらけのゴーストがすごい。私から見ればはしにも棒にもかからない写真作品であった。
0019名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/27(水) 06:18:24.41ID:sxUqpEYl0
初めて出かけたイスタンブールはまさに素晴らしい街であった。ブルーモスクからガラタ橋のほうに降りていった路地の突き当たりあたりにカメラ屋さんがまとまってあるところがあってそこを物色して適当なライカM2を発見したのでお店の人と交渉してM2クローム本体1台と、ニコマートとレンズ数本のトレードに成功して私は有頂天であった。まぁイスタンブールのカメラ屋さんからすれば型遅れのライカレンジファインダよりほとんど最新型のニコマートの方が商売になると判断したのであろう。

1968年に標準レンズ付きで60,000円近くしたニコマートの当時の価格の感覚はニコンエフに比べればかなり安いと言う印象であった。このカメラは大成功して世界中にかなり販売されたと思われる。この間懐かしさにつられて1台のブラックボディーを手に入れたらちゃんと使えるのでますますびっくりした。ネットオークションでその価格が日本円で500円と言うあまりにも無残である。
0020名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/28(木) 05:42:39.71ID:xuEKVerN0
ベル&ハウエルの35ミリ撮影機が当時はスタンダード機材であった。最近手に入れたベル&ハウエルのEyemoであるがファインダーがやたら長いやつがあった。これが私には何であるかわからなかったのだがファインダーを覗いてびっくりしたのはこれこそシネマスコープ様の専用ファインダーであった。そのファインダーのシェアをiPhoneで撮影したのがこの画面であるが画面全体は50ミリのシネマスコープ画面であって中央のフレームは100ミリ相当のシネマスコープの画面なのである。

今の時代にシネマスコープで撮影しようとは思わないが、ベル&ハウエルのこのカメラはスプリングドライブであるからバッテリーを気にしないで取ることができる。35ミリのアリフレックスとかたくさんあるのだけれども十数年前にそっちの方を管理してくれている友人にバッテリーのチャージャーを頼んだままそれっきりになっている。それに対してスプリングドライブのプロ用35ミリカメラは自分の筋肉のパワーでフィルムを巻き上げるのだからこちらの方が信用ができる。
0021名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/29(金) 05:58:55.99ID:ocQLOUBA0
路面電車などに乗っていて東洋人である自分が何が違和感があるかと言うと風貌と言うよりも座高が高いから座っている現地の人よりも頭半分突出しているのである。これがどうも格好悪いと言う事がわかってそれ以来私は無意識のうちに猫背になって座ったときの座高を短く見せるような防御反応が働いていたようだ。

それから40数年経過してしまったので今更強制することも不可能であるが、普通の生活で部屋の中で第三者が私を観察するときには私の猫背はほとんどわからない。それがこのように佃の大通りの道を隔てて反対側からバスストップの椅子に座っているところを撮影されると猫背がちゃんとわかるというのが面白い。

このバスストップは中央区のミニバスの停留所であるが東京都の老人パスが使えないのが実に不便である。数年前足の状態が悪かった時に通漬けの聖路加病院に行くのでこれに乗ったのだがコミュバスは中央区を行ったり来たりして行くから家から隅田川を渡って15分で到着する聖路加病院が混むバスだと47分かかると言うことがわかった。
0022名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/30(土) 06:26:11.88ID:n1rROhv70
ところでレニングラードに仕事で行った時に私はレニングラードカメラを持参した。仕事は全部ニコンのフルサイズのデジカメでしたのであるが趣味のカメラとしてレニングラードと言う名前のソ連カメラをレニングラードに里帰りさせてあげたいと言うアイディアがあった。それで数本のフィルムをレニングラードでレニングラードによって撮影してなかなかの良い写真が撮れたと思っている。

杉ちゃんという人はギャラリーバウハウスでも写真を展示したりしている写真家であって同時に日立の偉い人でもある。その杉ちゃんが会社の業務で2ヶ月ほど富山に工事の監督に出かけたのである。杉ちゃんは毎朝現場に行く時に運河のほとりから朝の富山の運河の風景を撮影する。そして帰りにも撮影する。

それが私がレニングラードを取材していたときの宮殿の脇にある水路の様子にそっくりなので私が杉ちゃんがアップする写真に対して、レニングラードの朝とか夕方の写真だと、レニングラードの夜景が綺麗とか書き込んだのであるが2ヶ月と言うものを完全にそのコメントが無視されていた。

一旦東京に戻ってきた杉ちゃんであるがすぐ会社からの業務命令でまた富山に行ってくれと言うことらしいのである。それを杉ちゃんはレニングラードに戻ってくれと言われたと書いてあったのでこれは嬉しかった。要するに私のレニングラードの冗談が杉ちゃんに通じたわけである。

レニングラードは第二次大戦中にほぼ2年半ドイツ軍の攻撃に持ち堪えた英雄である。それでレーニンから英雄都市の称号を受けたりした。
0023名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/31(日) 00:01:15.50ID:yIsUtnjk0
でもくPraktinaはなかなか優れたシステムカメラであってそれ以来40年以上手元にある。ただしこのカメラは自動絞りのシステムが途中で完全に変わってしまったので初期型のモデルFXと後期型のモデル2aでは交換レンズに互換性がないので注意が必要だ。

交換レンズは各種あって1番短いのが25ミリFlektogonであるがこのレンズはマウントがエム42とかExaktaは普通にあるけれどPrakticaは非常にレアである。10年以上ドイツで探し回ってアメリカのeBayで探しまくってなくて、ある日私のカメラレンズの先生であるタムロンの金型制作部長の前田さんから新宿のカメラ屋さんに25,000円で出ていると言うことを教えてもらって走って買いに行った。

他にレアなレンズは180ミリゾナー、それと同じブランドの300ミリである。これも専用マウントは非常にレアで私は旧東ドイツの古い都エルフルートからeBayで手に入れたのである。

50ミリはテッサーレンズが1番だが、Flexson 59/2と言う名前の不思議なレンズもあってこれは実際にはPancolor50/2の別ブランドなのである。
0024名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/01(月) 06:35:59.93ID:pp9RfAXl0
ローライフレックススタンダードを肩から下げて大和法隆寺の夕暮れの風景の中を歩いていたのである。これは事実であるのだが法隆寺に到着したらすでに山門が閉じられていたのでがらんをぐるりと回って夢殿の前まで来てそこでローライフレックスで撮影をしたと言うことなのであるが、そこら辺は記憶が半々であって実際に山門が閉じてしまって夢殿の前まで行ったのであるが、ここでローライフレックススタンダードで撮影したら素晴らしいであろうと言う記憶がそのままに刷り込まれて法隆寺でローライフレックスで撮影したと言うような記憶が形成されているらしい。

ローライフレックススタンダードのこのカメラはフレームファインダーになるところが磨挙げられてアルミニウムの金属の光沢が出ているのでそれが気にいっている。それともう一つはカメラ本体から紐が付いていてその先にレンズフードが結び付けられているのである。そのレンズフードは佃のカメラジャングルで紛失してしまったのであるが、思うにこれを実際に使っていた前の持ち主はかなりの写真の腕があった人と思われる。

つまり私がゆうに断腸亭クラスのローライフレックススタンダードの使い手と言うわけだ。
0025名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/02(火) 00:25:44.75ID:UDneYcwC0
しかしあの当時のサッカー場と言うのはまだ人口芝生とか言うのではなかったような気がする。人口芝生より普通の芝生の方が良いのに決まっている。オーストリアのウィーンなどでもそうだが公園の芝生の中に立ち入る事は禁止されている。ところが日本から来たツーリストの皆さんは

あら!素晴らしい芝生

と言う感じで勝手に芝生の中を歩いているので、また非国民が極東から来たと言うので批判されたものである。プラハの路面電車で普通はレールの間は石畳で固められているが街の北のあるセクションだけ石畳ではなくてそこに芝生が植えられているところがあってそのセクションを路面電車で走るとなんとも自然主義な感覚がそこに芽生え、私はそれが大好きであった。もうプラハに行く予定は無いけれどもあのプラハの北の郊外に近いところの石畳ではない芝生の上を走る路面電車はちょっともう一度乗ってみたい気がする。
0026名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/03(水) 00:46:58.68ID:SeqTovOa0
日本製のコンドルカメラはそのスタイルがニコンS2にそっくりなのだ。オリジナルのニコンよりもこちらのコピーカメラのニコンの方がオリジナルのニコンの特徴を真似て作っているそっくりさんだから、こちらが本物のように見えるのも面白い。ところがこの同じカメラメーカーでニコンエスツーの後の当時の最高級カメラニコンSPにそっくりのカメラも制作していたことがわかってびっくりした。かなりニコンのコピーカメラなど勉強しているつもりなのだが勉強不足であった。

ニコンSPと言うカメラは28ミリから135ミリまでのユニバーサルファインダーを装備していてアメリカのフォトジャーナリストなどが愛用したカメラである。そのカメラの特徴はファインダーのウインドウが異常に横に長いと言うところなのだがそれをそのまま真似るとほとんどニコンSPのそっくりになるのだ。

巻き上げレバーの存在感と巻き戻しクランクの立体感が本物のニコンSPよりもこちらの方がリアルに作られている。しかもレンズ交換ができないから写真に打ち込むとなったらこのフェイクニコンSPの方が写真はちゃんと撮れそうな気がする。
0027名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/04(木) 05:47:50.63ID:tL0NZAwZ0
ずいぶんあちらこちらに書き古したことであるがソ連製のジュピターと言うレンズは実際にはカールツアイスのゾナーであるわけだから悪いわけがない。そのことに気がついていた私は1970年代のオーストリアウィーンに滞在中にもっぱらこのレンズをメインとして使っているのである。果たして非常に良い結果でモノクロームのプリントにはベストマッチのレンズであった。

ギャラリーバウハウスでこの10年間に67回個展を開催しているがそのポストカードになったのが仕事場の壁に貼ってあってそれを見るとソ連製のジュピターで撮影した作品が圧倒的に多い。写真を選んだのはギャラリーバウハウスの小滝ディレクターであって彼は別にソ連製レンズフェチでは無いから良い写真を選んでいたら必然的というか偶然にソ連製の50ミリレンズに行き着いてしまったセレクションになったと言うわけだ。
0029名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/05(金) 07:02:51.78ID:a+PPnOAr0
私もカメラ人類としてはかなりハイブローなほうに来てしまっているから最近では実際にフイルムを入れて使えないと意味がないなどと言うところは既に超越してカメラが壊れていたってフィルムがなくたって全く構わないのである。それで25年お付き合いのあるeBayインターナショナルで色々と当時のこのカメラを物色しているのは生きがいのあるカメラ道楽だと思う。

銀座ではレストランウィークとか言って落ち込んだお客を掘り起こす運動やっているようだが私はもともと対人関係は悪い子人間と話をするのも面倒だし、誰かと会って一緒に食事をしても別においしいとも思わない。典型的な変人であるから部屋にこもってせいぜい感染しないようにするのがベストなライフだと思う。
0030名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/06(土) 00:07:05.96ID:+W/lKHjl0
若い頃であったから近くの女子大小路に飲みに行って暴れたりもしたのである。トヨタの自動車工場に行くときにはカローラのレンタカーを借りて往復していた。1日中スタジオで車を磨いて撮影をして1日に2回ほど名古屋の現像所の人がフイルムをピックアップに来るのである。それがあまりにも定期的に長いことやっているので現像所の人に、ここに住んでおられるのですかと聞かれたのだがいくら我々タコ部屋のアシスタントでも工場の撮影現場に宿泊する事はありません。当時の日当が2000円であって、給料は35,000円だったから1ヵ月出張になると給料を超える高い収入になるのである。

毎日毎日40キロの砂袋を持って走り回って運動をしているから最初のトヨタのスタジオの撮影で体重がいっきょに10キログラム増えたのである。体に良い事は間違えない。
0031名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/07(日) 05:46:13.60ID:67ZrNHLr0
ツァンパを作って食べるシーンで1番感動したのは何もないところで川の水で大麦の粉を練って食べるというのがいかにも良さそうである。でも基本的には日本人の味覚には合わないのであろう。ツァンパに関して初めて私がしたのは1980年に出た藤原信也の前東洋街道でラマ教のお寺に偉い坊さんを訪ねてそこでツァンパを食べたときの印象をひどいものであると書いているのである。異なった文化に対しての尊敬が藤原には最初からかけている空子のツァンパ嫌いなのを読んであーこいつは駄目だなと思った。
0032名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/08(月) 06:47:18.02ID:KJXvJp6h0
自分は自分の作品の存在感に関しておろしたばかりの歯ブラシとか、まだ使っていない靴墨とかおろしたてのクレヨンのような存在感があるものを描きたい。

つまりクレパスへの使用方法と言うよりもその存在感に対する憧憬なのである。考えてみればごく初期のパソコンで最初は256色しか再現できないのが16,800,000色になってすばらしいと思ったこともあるが、色の数が多いから良い仕事ができるわけでもない。

パブロピカソは12色のクレヨンで良い仕事をしたではないか?
0033名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/09(火) 01:33:34.34ID:JjZ6mVJl0
東行の最後の目的地隅田川のほとりに暮らして30年を超えたのである。ベンジャミンブリテンの隅田川のテーマになったところであるからなかなかポエティックでいいと思うかもしれないが実際にはアスファルトジャングルである。佃島の住吉神社には70年代終わりにレヴィストロースがやってきてこういう街に住みたいものだと言ったそうであるが、彼は記念写真で石灯籠の脇に立って写っていたから足元がどうなっていたかは気がつかなかったに違いない。

コンクリートジャングルの東京の街の中で私の狭い行動範囲からするとこの写真に写っている長さ20メーター位の範囲が私の生活圏でほんとにただ1つ地面を踏んで歩くことができる貴重なエリアなのである。そのせいぜい数10本の方向であるがこの歩行は脳天に響かなくて非常に優しい。その方向感覚がそのまま30年間暮らしたプラハの地下鉄の終点の本ルナパークだった原っぱを思い出すのである。
0034名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/10(水) 06:00:24.79ID:yzr5qywt0
私のFacebookなどで10年前に写した写真があって着ているシャツもパンツも今と同じであると言うフレーズがよく出てくるが、40数年前にウィーンの古道具屋さんで亡くなったウィーンのジェントルマンのワードローブ一式を購入してもうこれで一生着るものはいらないと感じたのであるが日本だとなかなかそういうちゃんとしたものを着る機会もない。それで相変わらず擦り切れたカモフラージュジャケットにお尻のポケットの穴が開いたカーゴパンツなのである。
0035名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/11(木) 01:12:49.76ID:1T/vPKLI0
レンズのフォーカシング感覚で1番人気があるのは最近中国製でも同じものが復刻された8枚弾のズミクロンであるそれの35ミリ。しかし初期型のズミクロン35ミリよりも超えるセクシーな操作感覚のフォーカシングのカメラがあるとしたら私はまずこのロードSL取り上げたい。

セレンメーターが入っているカメラであるから当時のカメラは非常に苦労したようで何が苦労したかと言うとセレンメーターのついていないカメラは巻き戻しクランクを何の問題もなくつけられるがセレンメーターが素行占拠してしまうと巻き戻しクランクを設定する位置がない。それでこのカメラも非常に不思議なからくり座異空になっていてよくこんな面倒な作りをカメラに設定した感心するそのこと自身が魅力なのである。

もう一つ私がカメラ美学として凄いのはこのカメラのSLと言うロゴタイプなのである。どこのフォントにも存在しないような非常に不思議な東洋の美学がそこに具現化されているのがこのカメラの魅力だな。ただしレンズは明るいf1.9なので実用性はほとんどない。こういうカメラで絞り開放で使った事は50年来1度もありません。
0036名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/13(土) 00:36:47.78ID:WxGfbRIM0
それで関連して思い出したのは、ブロック塀屋の娘であって、ユージンスミスの映画の解説ではないがそれは実在の女性なのである。ヨーロッパをどっか旅行中に知り合った人でいろいろ話をしてみたら実家が建材店であってブロック塀を見るとノスタルジーを感じると言うので好きになりなかなかXXな感じになった。女性というのが強いものであるなと感心したのはブダペストの民宿で1本きりのジーンズを洗濯したので、ペンションのお母さんのスラックスを借りてそれで市内見学に出ると言うようなフレキシブルな人間なので男性なんか最初からかなわないと思った。

それからしばらく経ったらベルリンの壁と結婚をしたドイツ女性と言う人がいてこれもなかなか素敵な感じの知的な人だった。ブロック屋の娘さんに関して言えば、私が会った後に30年ほど前にロンドンに語学留学してそこで英国人の先生が好きになっていろいろがんばっていよいよと言う時にその先生が同性愛者でダメでがっかりしたと言うコレスポンデントが最後に佃島に届いてそれから後は消息不明で30年経つのだけれど彼女は間違いなく還暦にはなっているな。
0037名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/14(日) 11:25:10.10ID:Tml6oz9X0
アルパ研究会でひょうたんから駒と言うのは当時日本に漂着するアルパカメラはほとんどが壊れていた。カメラ屋さん修理屋さんもそんなのは修理引き受けたくないから手先の器用な連中がスイス製の高級カメラを分解して自分でカメラを修理するようになったのである。

四半世紀前の話である。その当時は定年退職したらカメラの修理屋になるか手打ち蕎麦屋になるかと言う人生の2つの選択肢があって皆さんそれに夢を描いていた。しかし冷静に考えてみれば定年退職した部長の自慢の手打ちそばなど部下は食べたくないであろうし、カメラ屋さんも同じ理由でそういう偉い人に修理は頼みたくないものであって結局この人生設計は達成しなかったのである。

しかしこの表彰状を見て驚いたのはその日付がちょうど25年前の12月14日つまり25年前の我々の結婚記念日の日付であったことだ。その時ずいぶん長い時間が経過したなと思ったがそれからさらに25年が経過して今年は金婚式なのである。表彰状に格好をつけるために私の実印が押してあるのが面白い。実印等は日常生活で最も使わないものであるから最後に実印を使ったのが四半世紀前と言うわけだ。
0038名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/15(月) 09:25:27.18ID:rKNzARrn0
私は石ころが趣味で外国に行ってプラハとかリスボンの石ころを拾ってきたりする。神奈川県の大磯に行ってそこの石ころを拾ってきたこともある。別に日本最初の海水浴場だからその記念にとかそういう意味ではなくて単に石ころと自分が等しい価値を持っていると言う興味にあるのだ。

それで田中 正造が所有していた3つの石ころだが想像していたよりも大きかった。それが発見であった。他には書きかけの原稿とか新約聖書とか憲法の本とかいろいろ入っていて資料によれば自ら採集した川の下りも入っていたようである。他のものは栃木県の中を文化財になっているのに、川法は食品であるから重要文化財としての認定を受けられなかったのであろうか?
0039名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/21(日) 16:24:59.01ID:54MH9Etn0
私に綴り方を教えてくれたのは長く編集長をやっている矢野さんなのである。これを私は家の文章学習塾と呼んでいる。30代そこそこで文芸誌の編集長になって初めて瀬戸内寂聴さんにお目にかかったとき、矢野さんは気を遣っていろいろ動いていたら寂聴さんにピシャリと言われたそうだ。

編集長はチョロチョロしない!

確かそんな意味の言葉で爆弾を投下されたのである。

10年前に連載をしていたときに雑誌の目次を見ると言う事はほとんどなかったが、今回10年ぶりに見て気がついたのは目次の文字の大きさが上がっていることである。こういうところに自分の名前が掲載されると言う事は、晴れがましくもあり恐ろしいことでもあるのだが、大相撲の番付表みたいなものでなかなか細かく見ていくと面白い。

新潮巻末にはそれぞれの人名と経歴がついている。同じ町内の方で今月号の雑誌に関係したお名前を探すと吉増剛三さんがある。私は1947年生まれの写真家と紹介されている。この雑誌以外に私は自分を紹介するときに写真家随筆家とか、写真家作家とか書いたりするが、家の編集長の前ではシンプルに写真家なのである。物書きなんてとんでもない。
0040名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/22(月) 09:40:22.11ID:HhtGU3T50
10年前にプラハからアストロベルリン800ミリef子と言う15キロ以上ある望遠レンズを買った。到着してびっくりしたのはチキータのバナナの段ボールを何枚かつなぎ合わせてその中にさらさらのパッキングでプロテクションを作ったさらにその内側にレンズが入っていたことである。

そのレンズはレンズ単体で送られてきたわけではなくてシッピングケースの非常に頑丈なものに入っている。だから国際的にこういう品物を送るときはシッピングケースの表面に送り状を貼ればそれで用が済むのである。それでチキータの箱を分解して皿皿をゴミ袋にいくつか詰め込んでほとんど半日仕事であった。

その15キロもある重い望遠レンズをバルコニーに持って出てイッポンテストでフィルムを撮影しただけで後は使っていないのである。レターパックでカメラが到着したと言う話をFacebookに書いたら友人で以前アメリカのeBayで買ったスーパーイコンタがやはり封筒に入って到着して、プチプチのプロテクションもなかったらしい。でも考えてみればスーパーイコンタは蛇腹式カメラで本体を閉じてしまえばシェル構造になっているからそのまま封筒に入れて地球のあっち側からこっち側に送ってもまず大丈夫だと思われる。
0041名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/23(火) 00:11:30.77ID:lPALVhga0
eBayは25年位のお馴染みの私だが四半世紀前にアメリカのどこかのセラーさんでOdd dogと言うハンドル名の人がいた。そのタイトル写真が太郎君と同じようなすんづまりのちょっと体型が可愛らしい小型の黒いワンチャンでおまけにすごいぎょろぎょろした目玉である。そのタイトルフォトが気にいっていたのでいかにもその黒いのがセラーのお店のオーナーと言う感じがした。

それから25年経ってその当時のことを思い出していたのであるが偶然に探していたベル&ハウエルの付属品をゲットしてそのセラーさんの名前を見たら、Odddog2となっていたのでやたら懐かしかった。2と言うサブタイトルが付いているから2代目になったのであろうか?

そのOdddogがまだ初代の頃に手に入れたのがこのミノルタに付いている35ミリの広角レンズなのである。ミノルタスーパーAは1950年代の終わりごろにレンズ交換式のレンズシャッターを各メーカーが本気で作っていた5日の中で最も素晴らしい作りのカメラであった。スーパーロッコール50ミリのef 2とそれからf1、8の付いているモデルもあった。交換レンズは85ミリと100ミリと135ミリがあったが意外と手に入らないのが35ミリレンズなのである。それをOdddogで手に入れたら革ケース付きのフロントリアのオリジナルキャップのついたものだった。ただし25年使っている間にキャップも何もなくなって手元に残っているのはレンズ本体だけ。

手元に3台のミノルタスーパーAがあってそれぞれに、50ミリ、35ミリ、135ミリのレンズをつけっぱなしにしている。レンズ交換ができるカメラなのにレンズ交換をしないと言うのは水俣で有名になったユージンスミスみたいだな。
0042名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/24(水) 06:47:17.23ID:xG/JXOg10
文芸春秋の何とか言う専門雑誌でデザイナーズマンションで暮らすと言う特集があって私の部屋を取材に来たことがある。たまたまその時尊敬する黒川紀章先生もご自身の部屋にいらしたのでそこを見せていただいてちょっとお話を聞いたのも忘れられない経験であった。

この2月にコロナで亡くなったプラハのフォトジャーナリストPavrこの2月にコロナで亡くなったプラハのフォトジャーナリストPavelが日本に来るので安いホテルを探していると言ってきたことがある2003年頃の話で、10平米の狭い狭い部屋だけど寝るだけなら何とかなると言うので彼が来る予定で空気で膨らませるベッドなどを用意していたが結局彼は来る事はなかった。

中銀カプセルタワーが1番きれいに見える一瞬と言うのは、東京駅を出た新幹線が新橋のガードをくぐるその一瞬に見える未来建築としてのAugenbrick一瞬に見える瞬間が1番素敵である。それがなくなってしまうのは残念だ。
0043名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/25(木) 08:58:02.42ID:755pIeq50
友人の野々宮はセスナ飛行機に乗って関東上空を行ったり来たりして周囲に迷惑をかけているのであるが以前上空から観察して佐野厄除け大師だと思ったら全く別のお寺であったと言うことがわかって、野々宮のセスナ飛行機には同情しない方が良いと言うことを決心したのであった。

佐野厄除け大師はマイナスのイメージなのは年末にしょうもない広告を打ってそれで有名になったことにある。本来の名前は、、惣宗寺(そうしゅうじ)であって歴史は西暦900年にさかのぼるそうだ。それでその間にいろいろなことがあったらしいが1番有名なのは寺が建立されて1000年経った頃に田中正造の葬儀がそこで行われたと言うことである。田中正造が人生の最後まで持っていた信玄袋の中に聖書とか書きかけの原稿とかちり紙とかのほかに3つの小さな石があったそうだ。これは何かいい感じだな。

その路傍の石は栃木県の文化財になっていて田中の縁のコレクションで公開されているらしい。写真を見ると画像があまりはっきりしないのであるが左の下のほうにある物体がその石ころであろうか?
0044名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/26(金) 09:00:00.32ID:5RrVWm6a0
ローライフレックスはもともと上の方から覗くと言う独特の撮影スタイルで人気のあるカメラであるが人によってはアクションファインダーとして目の高さでリアルなピントを見たいと言う人もいる。でもローライフレックスの実際の使い方としてはこれは10年前に私が書いた2眼レフワークショップでも触れたことであるが本来のローライフレックスはウェストレベルファインダーで使うものなのだ。アクションのあるモチーフの場合はカメラに付いているフレームファインダーを使うのが正しい撮影方法なのである。

1950年代のニュース写真の取材のカメラのギャザリングを見ていて面白いのは、レンジファインダのライカやコンタックスに混じって、フレームファインダーバージョンにしたローライフレックスを使っているカメラマンが多いことだ。もっと面白いのは自動車競走のルマンなどであるが、望遠レンズをつけた35ミリ一眼レフに混じってローライフレックスのフレームファインダーで撮影しているモータースポーツもカメラマンが結構いたことである。

そういう意味からするとペンタプリズムファインダーの出番は無いようにも思えるが私がこのプリズムを使うときには、長年覗くのに慣れている右と左が逆のウェストレベルファインダーはもう飽きたから少しは現実に近いファインダーの世界に自分の視神経を遊ばせてみようと言う時である。

25年前によく使っていた二台のワイドアングルローライフレックスはその1台にいつもペンタプリズムファインダーをつけていた。それは撮影の目的と言うよりもマンハッタンのカメラやから買ったそのファインダーはアメリカの写真家が使い方が荒いものだから頭が凹んでいるのである。そこにバンドエイドを貼るとなかなか人間的な存在感があって気にいっていたものだった。

それで最初の?の答えになるのだけれども、プリズムファインダーをつけて重くないですかと言う質問がFacebookであったのだが、確かに部屋でプリズムをつけたローライフレックスを手にしているときは非常に重く感じる。

それは自分の体がカメラに対して重さを感じているからだ。ところが条件が変わっていざ撮影となるとプリズム月のローライフレックスは自分の体の1部になる。だから重さ等は感じなくなるのである。私が標準体重より10キロ位重い人間の油を体にまとっていてもそれほど苦痛にならないのと同じことだ。
0045名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/27(土) 00:14:21.97ID:f7VeeEtZ0
Mayerの戦前のレンズで好きなのは当時アメリカ市場のために作られた100ミリf 2.8というのがあってこれは仕上げも素晴らしいし描写も素晴らしい。タムロンの金型制作部の前田さんと言う人は私が本気でカメラやレンズの話をして負けない唯一の博学のジェントルマンであるが、30年位前に中古カメラ市に行ったら前田さんがいて、今日は何がお買い得ですかと言ったら私を黙ってそのレンズを売っているブースの前に引っ張っていってくれたのである。

当時25,000円したからずいぶん高いと思ったが今ではその10倍でも買えないレアレンズになってしまった。
0046名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/28(日) 07:07:53.57ID:MJyzms040
カメラを手に入れた後にガラクタ屋さんが私のギャラリーバウハウスの友人スミスのトークショーに来てくれてその時の話によれば、やはりこれは理ペイントではなくてオリジナルのブラックペイントのようである。面白い話としてはガラクタ屋さんの常連さんで知り合いの人であったかその常連さんの父上であったかそこら辺は忘れたけれども、このブラックペイントのヤシカペンタを手に入れてかっこいいブラック仕上げではあるがニコンエフのブラック仕上げには劣ると言うので結構差別されたようなのである。

しかし2020一年の現代で価値観から考えればニコンエフのブラックは当たり前すぎてそれよりもペンタのブラック仕上げのほうがレベルが高いのは当然である。シャッターが壊れていても別に写真を撮るためには家人からお下がりでもらったiPhone SEがあるから何の問題もない。
0047名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/29(月) 13:43:48.78ID:UihBFFs80
雑誌中央公論の巻頭グラビアで各界の有名人何かを取ったことがあるが、その時にはエルマー65ミリと言うレンズが男性ポートレートの場合非常に向いていると言うことに気がついて私は愛用していた。それと同じ考えで55ミリから90ミリと言うのはまさに男性ポートレートの理想的な焦点距離なのである。

そういう事は理論的にわかっているのであるが実際にこのレンズで撮影することがなかった。最初から65ミリのエルマーレンズを一眼レフに付けて撮影すればフットワークで距離はなんとでもなるものだし最初からズームの設定焦点距離を決めるのがめんどくさいからだ。
0048名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/11/30(火) 09:16:20.15ID:6TnUpFJz0
ローライマジックはロンドンから買って使い始めたらセレンメーターがちゃんと動いているのであるがトランスペアレンシーで撮影するととんでもない露出がずれる。しかも最初のローライマジックは露出をオーバーライドすることができない。それで今は3台のローライマジック2型を使っているのである。

その数年前に二台手に入れたローライマジックに付録で付いていたと思われるローライブランドの感度25のモノクロフィルムが出てきたので思いつきでそれをローライマジックに入れて1本撮影した。カメラの操作感覚の歯切れが良いので実に素晴らしい撮影体験である。

フィルムカメラのライカやローライが素晴らしいと言うのはまさにこのことなのであってデジタルカメラはどんなに進化しても操作の感覚が素晴らしいと言う感じがもたらされないのは非常に不幸なことだと思う。そしてデジタルカメラの場合は行く先が全く見えない性能向上戦争。

普通のローライファンの皆さんはカールツアイスのレンズが良いと言っているけれども私はカールツアイスのレンズは古くなると黄色っぽくなるので嫌いである。シュナイダーの砂がよろしい。このレンズはちょっと色彩が青っぽくなるのが私の好みなのであるが、黄色っぽくなるよりはるかに素晴らしい。ただしこの場合はモノクロームで撮っているからそーゆーうんちくは全く関係なし。
0049名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/01(水) 06:32:04.66ID:FssO7QYL0
最近ペトリカメラのマイブームになっているのであるが、ネットオークションなどでペトリカメラやレンズは長年いろいろ見てきた訳なのだけど、この専用のカメラバッグと言うのは今まで見たことがない。カタログ等でも見落としていたのである。ネットオークションで数ヶ月500円のままで誰も落札しないので私が落札した。ゆうパックの着払いで送料が1030円であった。

このカメラケースはショルダーからかけた状態で上蓋を開けてカメラを簡単に取り出すことができる。カメラの置いてある床の下がめくるとパテーションになっていて小さな3つの小部屋があるから大きなレンズでなければ2本入れてあと数本のフイルムを入れることができる。

カバンをぶら下げるスリングは革ではなくてプラスチックなのだけど実際にはそのほうが使いやすい。こういうカメラケースは設計した人はショルダーからかけると言う認識しか当時はなかったであろうが実際の撮影の現場ではこれをたすき掛けにするのである。レンズを交換するときにたすき掛けにしたカメラバッグが胸のほうにあってレンズを交換したら今度はカメラバッグ本体を背中のほうに回すのだからこれがプラスチックの方が滑りやすいから取り扱いが楽なのである。実に数十年ぶりに実用のギャゼットバックが手に入ってうれしい。

念のため付け加えておきますがカメラバックでバッグではありません。
0050名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/02(木) 06:59:20.74ID:HD+pRBVC0
ローライマジックで撮影するときに常に手首にリストストラップを通しているわけではない。しかしカメラを落としそうになったときにこのぐらいのカメラのしっぽがついていると落下はさせないものである。ネックストラップが付いていると安心してカメラを路上に落としたりそれからもう一つの事故であるがカメラのリングが外れて落下すると言うこともある。その意味でリストストラップはカメラを扱うときに注意力のレベルがより高くなるものだと思う。

私がライカカメラを落としたはい災害は1973年の夏にオーストリアウィーンで撮影中にライカM3にテリーと200ミリがついて一眼レフ装置のVisoフレックスがついていたのをライカのネックストラップアイレットが外れてウィーンの硬い石畳の上にカメラが落下した。その修理代金と言うのは1ヵ月の生活費を上回るものだった。それ以来生活のダメージになるからカメラは落とさないことにしているが決してその生活信条のようにカメラを地球にぶつけたことがないわけではない。
0051名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/03(金) 08:01:05.95ID:9FhslLXq0
ウォーカーエバンスが人生の最後に作った写真集で、ファースト&ラストというのがあるがそこには2枚のウォーカーエバンス自身のポートレートが並んでいて26歳の時と晩年の時の2枚の写真なのである。これが非常に良い感じで大昔ハードカバーの写真集を持っていたことを思い出してそれは今手元にないので同じタイトルのソフトカバーの写真集を手に入れたらそこにはこの典型的な2枚のエバンスのポートレートは掲載されていなかった。

要するにブックカバーの帯みたいなところに、呼び込みの文章と一緒にちょっとKitcheな感じで印刷されていた小さな2枚の写真なのである。それでこの50年前の写真をFacebookなどにアップして世間を困らせてやろうとしたらあっという間に200近いいいねをいただいたので感謝感謝。

そのコメントもいろいろあってトレンディーな若いカップルの俳優さんかと思いましたなどと褒めてくれるのである。しかしながら女性の方はどうであるかは知らないけれども、時々の私の感覚としては20代半ばのへなちょこな目つきの鋭いヘンテコリンな男の子であった私よりも今のひげ爺で何やらわかったようなふりをして周囲の写真家とかデジタルカメラの悪口ばかり言っている自分の方が面白い。
0052名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/04(土) 00:38:17.00ID:4xX6ll3L0
それでハノイでは持参していたコニカ現場監督に持ち替えて撮影をしたら当然のことながらちゃんと映っていた。その年の3月の初めに千葉県銚子市の犬吠埼に出かけたのである。犬吠埼の灯台とその周囲の断崖絶壁と言うのは非常に荒々しいものであってポルトガルの1番西側の大西洋に面したロカ岬などよりも迫力がある。これが現場監督を持参して数枚撮影したのである。

そのフィルムを現像してみたらフィルムの前半分はハノイの街角が写っていたのでびっくりした。数本ハノイで撮影したのだが最後の1本を取り切らずにそのまま持っていたので、ハノイと千葉県の調子の犬吠埼が連続的になってしまったというのがこれはある種のフォトモンタージュだなぁと思う。

犬吠埼の灯台と言うのはなかなか飛行機の最終着陸態勢で上空数百メートルから観察すると迫力のあるものである。ヨーロッパから帰ってくるときに成田空港へのアプローチにはいくつかあるけれども犬吠埼川のアプローチに当たると私は嬉しくて仕方ない。
0053名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/05(日) 08:30:00.95ID:mxuYdqp90
撮影した時期であるが1967年の11月終わりにライカを手に入れたのだから翌年の夏あたりと推測することができる。同じ時期のショットでやはり銀座の御幸通りで鏡に映ったセルフポートレートもある。それはともかくこの時期の私はごく普通の島国の日本人だらけの中にいる青年であった。それから5年後にオーストリアのウィーンに行ったときびっくりしたのがウィーンの中心街をライカを持って歩いているときに鏡などに瞬間的に自分が映ったときの驚きである。

目のつり上がった正体不明の東洋人が歩いているのだ。

写真家の川田さんが全く同じことを若い頃ヨーロッパに撮影に行った時に自分が異邦人であると言うことがストレスになったと言う話を直接聞いたことがある。これは一体何なのであろうかと考えるのだ。

ヨーロッパで日本人がストレスを感じて1周の内面的な人種差別感覚を持っていたと言うのは日本が開発途上国の時期と重なっている。それが経済大国になってヨーロッパのホテルに泊まる日本人がいっきょにホテルのクラスが3つアップグレードされるようになってから我々の日本人コンプレックスは少しは解消したのかもしれない。それと同時に日本人の態度が非常に大きくなったのは情けない。

それから30年近くが経過してまた後進国になったからまぁそこら辺は心配することもないか。
0054名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/06(月) 08:10:56.41ID:4NdbwVHz0
1980年のポーランドの戒厳令の直後にワルシャワに取材に行った時に私はウィーンから1キログラムの砂糖を持っていった。あちらのカフェでお砂糖が手に入らないのでその防衛手段なのである。撮影と言う労働をするときにはコーヒーにお砂糖を入れないとやっていけない。ワルシャワのカフェでコーヒーを頼んだらブラックしかないので私は1キログラムの袋を開封してスプーンでお砂糖を入れて飲んでいたら周りの人もほしがったので分けてあげた。

しかしその時気がついたのだが最初からお砂糖が入っている飲み物がある。ペプシコーラである。当時のポーランドはまだ帝国主義のコカコーラは入っていなかった。だからわざわざwinからお砂糖を持っていく必要もなかったわけである。そのことを皮肉とともに思い出して佃島のスーパーのことを考えてみるとスーパーの店にお砂糖はあるのにそこがチェックアウトを待つ人で満員になって買うことができないと言うのは結局ポーランドのあの頃の物不足と全く同じと言うことに気がついた。物質の流通がダメになっているのである。

東京で買うことのできないお砂糖の代わりにケーキを買ったと言うことには故事来歴を思い出した。マリーアントワネットのパンがなければお菓子を食べればいいじゃないと言うことである。
0055名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/07(火) 08:50:04.34ID:6WAKjfM00
プロの映画用カメラを別に撮影するのではないが室内の見えるところに置いておくというのが私の人生の目的になってしまって亀フレックスなどは知らない間に増殖してごだいぐらいに数が増えてしまった。それに関連して各種のアクセサリーも収集してもう後には引けないところまで来てしまったのである。初期の35ミリの映画撮影機のかなりプリミティブな存在感の良さというのがこのカメラにはあって例えばごく初期の映画術で普通であった手回しクランクでフィルムを撮影することもできるし、スプリングモーターをつけて映画を撮ることもできる。ー

10年以上前パリに滞在していた時にウィーンのライカショップのペーターのところで亀フレックス本体と各種交換レンズに加えてたくさんのマガジンとか付属品がいちどに登場したのでまとめて購入したことがあった。パリの仕事を終えて東京に戻ってきたら不幸なことにウィーンから来た山のような段ボールの方が先に私よりも佃島に到着していたので、マンションのエントランスから中に入れないような状況になってあの時は困り果てたのである。
0056名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/08(水) 06:41:51.91ID:ALOGav7a0
ボロボロになったフィアットの小型車というのが私の好きなモチーフである。1973年にウィーンのアパートに住み始めた時にいつも通り掛かる街角にフィアットの500がボロボロになったまま家捨てられていてそれを見るのが楽しみであった。その理由は単純であってフィアット500が走るのはコマネズミが走るようなもので当たり前で道具としての目的にかなっているのであるが、一旦これが車でなくなってそこに車の分解を開始すると同時にオブジェとしての存在感がどんどん開示されてくるのである。

このエジプトカイロの路地裏の黄色いフィアットも同じ感じだな。これは何と言うのかフィアット500よりもちょっと大きいエンジンサイズのやつでよくこれがフィアットアバルトとして改造されて、リアのエンジンカールを半分開いたまま固定して高速道路で私の車を追い抜いていくその後姿が実に痛快であった。

エンジンカールを半開きにしたフィアットアバルトのかっこよさと言うのは同じ時代の車で考えれば本田エス800のキャブレターを膨らましたもっこりした感じよりもはるかにダンディーなのである。
0057名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/09(木) 06:51:26.23ID:SEyCHLsY0
スーパーのフジマートでキャッシャーのおばさんが葉っぱを切りますか?と聞いてきたので家持って帰ります炒めて食べるとおいしいからと言ったら、おばさんは笑ってそういうことではなくて荷物が大きくなるから2つに切りますかと言う意味ですと言うので私は、切らないでください2つになってしまうと手に持てなくなるからと言うのでそのまま持ち出したのである。一緒に大きなネギも買ったのであるがこれらを持つテクニックについていろいろ考えた。

70も半ばになって思い大根を持ち歩く技術について考えると言うのは非常に人生の経験としては重要である。背中にはリュックサックに刺身やら生牡蠣やらメンチカツやら白菜やら入っているのである。それで大きな大根と長いネギをワンブロックごとに右手と左手で持ち替えて支えるようにして歩いた。老人で体力が低下しているからこれでも結構な運動量であって、時々いつもの定位置のベンチにちょっと座ってそれからまた歩いたりしたのである。

家のタワーマンションに到着する最後の50メートルで気がついたことなのだが右手もしくは左手にホールドした重い大根をもう一つの手を添えると負荷が減少すると言うことに遅ればせながら気づいた。物理の高校の授業で赤点を取ったような経験があるからなかなかそういうところまで頭が回らないのであるが、しかしもう遅い。それでも最後の50メートルは重い大根を楽々と持ち運ぶことができた。
0058名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/10(金) 06:38:15.33ID:7Z5sC0050
グリップのほうはアナトミカルなスタイルでいかにも使えそうな感じなのだけど最大の欠点はグリップの取り付け角度がそのようにされているのであるがこのグリップは右手でしかホールドができないような構造になっているのである。ローライフレックスの場合右手でフイルムクランクを操作して、このグリップのケーブルレリーズでカメラに直結してやはり右手でシャッターレリーズをしなければならないことになる。

ここが非常な問題点であって、右手でフイルムクランクを操作して巻き上げてから手を持ち替えてグリップを握ると言うのはローライフレックスのスピーディーな操作感覚を300%ぐらいマイナスにするのである。それでもこのようにカメラにつけたスタイリングがなかなかカッコ良いので騙されて買う人が多いのがローライフレックスの品役と言うものである。

しかし世の中には別の道具の使い方と言うものもあってグリップをこのようにセットアップしてその見え方を楽しんでいると言うのは別にマイナスでも何でもない。
0059名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/11(土) 10:05:06.26ID:ka3NDTI00
1970年代にドイツでユダヤ人の女流写真家がいて彼女がいつも使っているのがライカM3に5センチのf2.8のエルマーレンズなのである。そういえば最近大流行の傍流写真主義で活躍しているFacebookの投稿者である出雲の女性写真家がやはりライカM3、50ミリエルマーレンズなのだ。その人は他にレンズを持っていないらしくてここら辺はライカ使いのトップクラスであると思う。別にアンリカルティエブレッソンが50ミリレンズしか使わないと言う歴史を引っ張ってくるまでもない。

それで私の場合キャノンスクリューマウントの50ミリf 2.8と言うのに昔から異常な興味を持っているのである。先程の出雲の女性写真家は1本のレンズで真面目に写真を撮っているのだが、私の場合は三千本のレンズを食い荒らしているわけだからそこらは非常に真面目でないのはこれは仕方がない。

このキャノンの50ミリf2.8のレンズが素敵なのはレンズのバレルそのものは50ミリf 1.8と同じものを使っていてそれでレンズが小さいと言うところにレンズ機械学のダイナミズムみたいなものを強烈に感じるのである。人気のあるレンズだからネットオークションに登場したりするとごくありふれて大量に供給されている50ミリf 1.8よりも落札価格が高くなったりするところも面白い。
0060名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/12(日) 07:32:27.03ID:KbMK7xQC0
有名なフィアットアバルトの場合はリアのエンジンのカウルが閉まらないので半分開けて走ったりしているわけであるがこちらはちゃんと問題を解決しているところが素晴らしい。1型から3型までがあって最初のモデルが特殊バイオネットマウントで50ミリレンズ1本しか作ることがなかった。つまりレンズ交換は可能なのだけれどもつけるレンズがないと言うカメラなのである。

最初のモデル1型はしばらく使っていたがネットオークションに出したらイタリアのコレクターが買ったのである。次のモデル2からは標準的なライカスクリューマウントになったのでレンズ交換ができるようになった。私が1番使うのはそのモデルである。かなりへそまがりなのはご覧のように距離計のカップリングのローラーがライカの場合は12時の方向にあるがこれだと3時の方向にある。距離計の精度は心配になるけど私の場合は広角レンズしか使わないので別に問題が起こった事は1度もありません。

それで最終モデルがモデル3となるのだが実際問題として私は違いが何だかわからない。ネックストラップアイレットの有無のような気もするが。このカメラがすごいのは巻き戻し機構がついていないことにある。つまり最初からダブルマガジンで使うように設計されているのだ。

それでこのカメラを使うために私はプラスチック製のフィルムリロード用のカセットをたくさん買ってきてこのカメラ専用に使っていた。そうすればダブルマガジン方式で使えるのである。ただし最近は撮影の本数が減っているから1日20本取るとしたら重労働であるが、1日1本取るだけならば撮影が終わってダークバッグでゆっくりフィルムを取り出してパトローネに指で戻せばいいだけの話である。
0061名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/13(月) 00:11:14.08ID:t8O8e9kZ0
SX 70のプリントの使い道と言うのは1970年代にはいわゆるエロ写真を撮影するのが目的であって、今のようにインターネットでポルノグラフィーが大洪水と言うような情けない時代ではなくてちゃんと品格が当時はあったのである。

ウィーンの旧市街のフランシス金チャーチは小さいおしゃれな広場であってそこで1976年に劇映画の撮影をして私も手伝ったりしたりしたのであるが、そこにクライネスカフェと言う名前の小さな文字通りのカフェがあってそこのカウンターに座って

例のものを見せてくれ

と言うとお店の人が袋に包んだ数十枚のSX 70のエロ写真を黙って私に差し出すのである。あのサービスは粋なものであったが今でもやっているのであろうか?映画第3の男のウィーンのペニシリンバイバイみたいな感じで。
0062名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/14(火) 09:58:54.41ID:qgbZXGSJ0
ところで私が50一年前に持っていたロードカメラはクローム仕上げである。その理由は知らないが当時このカメラのブラック仕上げがあると言う事は知っていたのだがほとんど見かける事はなかった。それがこの10年位の間であるが幻のロードのブラックカメラがどんどん登場するようになったのだ。なぜか?

答えは単純であってネットオークションなのである。漁業と同じようでブラックロードのカメラが大量発生してびっくりすることもあるしこの数ヶ月未来なと言うこともある。以前はブラックロードが現れると必ず手に入れるようにしていたのだがそのおかげでサッカー選手のチームの数と言うほどではないがかなり増えて片手の指の数では数えられない位になってきた。

そうするとそこに私のカメラの傲慢というのが働いてきてロードで写真を撮るよりもブラックロードをずらりと並べるというのが本末転倒で人生の目的になってしまうのである。同じようなカメラに介する人生の間違いと言うのは他にもあって1932年に登場したいわゆるブラックコンタックスをサッカーチームの数ぐらい揃えてそれを閲兵するのが楽しみになっている。これも間違ったカメラの楽しみ方なんですね。しかしこの間違った思想と言うのは第3帝国的でけしからんわけであるがそれによってホロコーストが起こるわけでは無いから少しは許せると考えているのである。

ブラックロードのブラックペイントの仕上げと言うのは何度も書いたことがあるがあまりにもペイントの質が良いので全く理解してそのことを指摘しておこう。ライカM2を1967年の11月の終わりに手に入れて1週間経ったらトップカバーが全部剥がれたのでそれでライカが嫌いになった私であるが労働の場合はそういう事は無い。労働50年間使っていて、考えてみれば12月の14日が我々の金婚式なのである。金婚式とロードと言うのはエクイバレントなのだ。
0063名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/15(水) 09:04:16.95ID:t9IXNedh0
パンを現代美術としていかに展示するかと言うことをお店のご主人は知っていたのであろうか?ところが残念なことに2年位前から店のガラス戸のカーテンが閉まって閉店になってしまったのだ。そしたら捨てる神あれば拾う神ありでどこかのブックデザイナーさん家そういう形かな職業の女性がお店を買い取ってご自身でパンを焼いてまたコッペパンを並べるようになったそうである。

ただしその女性は仕事があるから早朝にパンを焼いてなんでも朝6時半から8時半とかそういう短い時間だけしかコッペパンを販売していないのだそうである。何かお豆腐屋さんに近いコッペパン屋さんと言う感じがするが考えてみればオーストリアウィーンなどではパン屋と言う職業が重要であるから午前6時にはしっかりお店が開いているのである。その意味ではヨーロッパ的ですね。

ぽちが欲しがるコッペパンと言う話は、この店の大昔の紙袋のバージョンにそういうプリミティブなイラストが存在したのを知ったのである。でも横丁のぽちはコッペパンは食べないと思うけどね。
0064名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/16(木) 06:45:31.21ID:gQ3xljFI0
1985年の頃にシンガポールとクアラルンプールに行ってあそこら辺はスコールが凄いから1台のニコノス1台の生カメラバッグに入れていた。クアラルンプールで東洋最大のモスクを撮影中にスコールが来たので近くに止めておいた撮影の車まで走って帰ってニコノスを用意して去って撮影しようと思ったら雨はあっという間に止んでしまった。そういうわけでカメラとしては面白いのだけれども、本格的に活用するチャンスが1度もないのである。

1番最初のモデルを取り出してみてちょっと感動したのはご覧のように富士山のマークの昔のロゴが付いている事だった。そんなに昔のカメラではないと思っていたのだが、実はかなり昔のカメラであることがわかって嬉しかった。
0065名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/17(金) 00:10:48.64ID:xsgTIWuM0
ロードSLカメラでもう一つ私が興味を持っているのはニコンSPみたいに一体型の長いレンジファインダーウインドウでその中にセレン式メーターが組み込まれているわけだが、ロゴタイプのデザインが非常にユニークな点を評価しているのである。この非常に個性的なフォントはポストスクリプトのフォントの中には絶対に見いだすことができないかなりユニークな存在で何かじっと見ているとそこに東洋の神秘みたいな存在感覚を感じるのである。

2つ目の面白さは非常に高級な40ミリef 1.8のレンズが付いていることだ。1.8のレンズと言えば35ミリ頭ミクロンがあまりにも有名だけれども。それより5ミリ焦点距離が長くてしかも明るさがエフ1.8なのである。大変な高級レンズですね。

しかし私の場合ロードカメラは40ミリの明るさがエフ2.8で充分だ。大体絞りはエフ8よりも小さい状態で使うからef 2.8で撮影した経験もないほどなのである。

ロードの前シリーズが素晴らしいと思うのは最初のモデルから最後のモデルまでカメラの焦点距離は40ミリ1本だけで他に浮気をしなかったと言うところがすごい。コルゲンコーワのカメラ等はその逆の方向であってレンズシャッター式の 35ミリワイドカメラを始めとしてその後に50ミリ、85ミリ、100ミリ、さらに28ミリ付のえすダブリューカメラまで出している。

ロードSLの3つ目の特筆すべきポイントはその以上に長いフォーカシングレバーにある。このフォーカシングレバーのスタイルはロードカメラシリーズの他のモデルにはないこのモデル独特のものであるが操作してみるとわかるとこの操作感覚がなかなかエロチックなのだ。そこがこのカメラの魅力と言ってよろしい。フォーカシングのフィーリングがエロチックで代表的なレンズと言うのは35ミリ頭ミクロンの初期モデルの8枚弾と皆さんが足に言っているやつであの指が明かりのついたフォーカシングレバーは素敵だがそれとは方向が違うけれども匹敵できる位の素晴らしいフォーカシングフィーリングなのである。こういう優れたカメラ弥次喜多さんさんはガラクタ屋さんでフード付きで2500円で買ってきたと言うから大変なバーゲンハンターだな。
0066名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/18(土) 00:25:36.84ID:OS5p0Zme0
パリの東駅で忘れられないのは現代日本写真家展で日本に行く時に朝っぱらに駅に降りたから駅を出そうなところで初めて、アルミケースにライカが6台入っているのをコンパートメントに忘れてきたのを気がついて慌てて戻ったら、ちゃんとそこに残っていた。

この路線でドラマチックなのはフランスのナンシーの手前の小さな川でそこが国境になっていて越えたら当然ながらドイツ語からフランス語に権利である。日本人は島国でそういうのに慣れてないから非常にトリッキーでそれを楽しみにしていた。

帰ってきた酔っ払いとイムジン河の有名な作曲家は、この夜行列車で旅の仲間の3人とワインを飲んで楽しんだそうだが、当時は私は若かったからユーレイルパスを持っていてファーストクラスのコンパートメントで他はみんなアメリカ人で1人の奴がコンパートメントのカーテンを閉めるので、あーこれはこいつらやるなと思っていたらマリファナパーティーが始まったのである。これは匂いでわかるからやばいよね。
0067名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/19(日) 06:28:29.58ID:pQjuzVG80
今回の喫茶店の行った目的はハムサンドを食べることだった。60年代の喫茶店の定番メニューであって他には当時の定番メニューと言うのはスパゲッティーナポリタンと、生姜焼きが交互にメニューに登場するのである。そしてみんな煙百で知っているタバコはハイライト。

シンプルなハムサンドが甘かった。お礼を言って神楽坂の坂をゆるゆる歩き出して先ほどマスターに30年ぶりに来ましたと言ったのは間違いであることに気がつく。1981に当時ガールフレンドと行ったのが最後の訪問だからじっくり40年ぶりなのである。

このイングリッシュスタイルのハムサンドと言うのはどう思う日本独特のものだと思う。ニューヨークのはボリュームが大きすぎるし、パリのはジャンボサンドだからかなり存在感が違う。こういうの本当の日本食と言うのではないか?
0068名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/20(月) 06:44:54.78ID:7X2Kklx00
それで考える、1936年生のライカカメラを戦後になって距離計付きのモデルに改造するにしてももともとの板金加工のライカ等と言うものはライカの会社では作れなくなっていたであろうし旧型ライカのボディーサイズのシェルのダイカストタイプのものが用意されていてそれに部品を組み込んで最後に受け取ったオリジナルの製造番号をスタンプしたと考えるのが自然である。

当時のライカのサービスはどんなに古いライカであっても最新型のモデルに改造が可能であって、私が見たものでは300番台の穴スティグマとレンズ付きのモデルをブラックシンクロ付きのスリーエフに改造したものがある。コレクターの立場と初期の300万と言う非常にレアなオリジナルライカが改造されてただのゴミになってしまったと言うので残念がっているわけである。しかし一方ではアメリカなどにこのような公式改造されたカメラを集めるコレクターがまた存在するのだ。

バルナックライカの板金加工のやつとダイキャストのやつとか後のカメラでは握ったときの感覚が明らかに違うのでそこら辺は好みと言うことになるのだがこういう改造ライカで撮影をするのはそれなりに楽しい。
0069名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/21(火) 00:14:41.57ID:MZtZzOsr0
そこで話はいきなり変わるのであるが、10年前にジュネーブサロンに行った時に私に声をかけてくれたのが帰ってきた酔っ払いとかイムジン河で有名な時計の王様の選手であった。その時私は感激して、ジュネーブサロンと言うのは面白いことに飲食が無料なのである。それでその紳士と昼間から大宴会を大いにやれた。

その時ヴァシュロンコンスタンティンのプレスに行って感心したのは、新製品は3種類だけであってそれが500,000と5,000,000と50,000,000の時計なのである。なるほど時計のカスタマーと言うのはそういう幅が広いなと言うことであった。私はその500,000のほうの顧客だから1番メーカーを数で設けさせているわけだ。何10年も時計の話をあちこちに書き散らしていたのであるが私の自慢の時計はチェコのプラハで買ったチェコ製のプリムと言う奴が多くてこれは500円位で30年使ってネジが切れたりしているので、それで考え方が変わったのである。私の持っていた1台のチェコ製時計は金属ベルトが外れたので有楽町のなんとかカメラに見積もりを出したら8000円するとか言われた。それで断って歩いて佃島に帰るときに途中の時計屋さんに聞いたら800円で直してくれたのである。

でもネジの切れた時計はまさかそういう値段ではなかろうから1時私がよくやっていたのは有楽町のなんとかカメラにたくさん並んでいる腕時計の中で1番安いやつのクオーツを買っていた。大体500円位で買えるのである。しかし1年たつとバッテリーが切れるからそれを交換するのも面倒である。それで最近やっているのはこの時計がそうなのであるがネットオークションで大体2000円位で買えるやつだ。1週間か10日使ってクロノメーター並みの精度だからまたこれで良いわけである。
0070名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/22(水) 06:15:49.04ID:rnoIcTtg0
私の1番好きなオールドクラシックデジタルカメラがこのオリンパスペンデジタルの1番最初のモデルである。12年前に私はペットロスになって参っていた時にデジタルカメラマガジンの編集部からこのカメラを使ったムックを依頼されてそれでかなり助けられたこともあった。新しいデジカメのムックと言うのはペットロスにもかなり効いたものと見える。

その中の白いカメラというのが1番気に入っているのはまず歴代の辺デジタルシリーズの中でこれが1番デザインとして優れているからである。細かいところの作り込みはかなり上品であって旬こーゆーデジタルカメラを作れるデザイナーはいないと思う。それでその動く速度がちょっと遅いと言うのは、雅な感じがしていて私は気にいっているのである。

現在のデジタルカメラの最高にだめなところは性能を至上主義で速読こそベストであると考えられているのは頭の良い人が作っているからデジタルカメラのゆとりと言うようなものは最初から考えに入っていない。デジタルカメラのシェアがスマートフォンに食われているのは仕方のないことだが、それを打開するためにただただ西野第一のほうに突き進んでいくのは私は疑問を持っている。
0071名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/23(木) 00:14:42.09ID:Pibk7uUa0
ところで実際にローライマリンで撮影をしたダイバーは大変だったであろうなと同情するのは何しろ撮影枚数が12枚であるから水に潜ったら12枚ぐらいすぐとってしまうのでまた船の上に戻ってフイルム交換をしなければならないと言う手間が同情するのである。

フランスのアクアラングのメーカーが作っていた35ミリ版のカリプソは水中ハウジングに入れなくてそのまま使えるというのが素晴らしい機能であってそれをニコンが引き受けてカリプソニッコール、今のニコの子になった。フォーマットからすれば35ミリだからマイナスポイントではあろうが一旦ダイビングしたら36枚撮影ができると言うのはかなりのメリットであったのだろう。

ところでローライマリンを私が手に入れた理由と言うのはふざけた理由であってこの中に水を入れて金魚を買おうと思っていたのである。ところがそういう馬鹿な考えはローライを侮辱していることだと言うことにすぐ気がついて、ローライのカメラとマリンを連結する細かいパーツ等はなくさないようにビニールの袋に入れてローライマリンの本体の中にしまってそのまま40年が経過したと言うわけだ。
0072名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/24(金) 00:06:54.27ID:WoahuzPo0
全部の原稿であるから写真集の終わりのほうに乗せた私の若い頃の写真を他の人が撮ってくれたやつも一緒に出てきた。その中の1枚がここに示す写真であってこれは1975年頃にベルギーに行った時にベルリンというか当時の東ベルリンの友人が撮影してくれた20代の私である。ライカM2にソ連製のジュピターレンズをつけているからやってる事は昔も今も同じである。

感心するのは当時の東ベルリンのDP屋さんで普通にプリントしたものが40年経過してもちゃんとアーカイバルスタンダードになっている点だ。まだメルケルが大学生の時代である。

家人が写真集を読み返していてあとがきの一説にこんなことを書いていたと言うのを私に指摘してくれた。曰く

2025年はライカカメラが登場して100周年になる。私はその時にドイツのライカの本社をもう一度訪問しようと思う。

写真集を出した1995年には私はライカに対してまだ夢を持っていた。ところが今のライカのようなヘンテコリンな会社になってしまったのでこの夢は全部取り消しと言うことである。
私にとっては東西ベルリンの壁が崩壊したのは良かったがライカの会社があんなになってしまったのは残念無念。
0073名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/25(土) 00:08:20.82ID:IE7Fknar0
当時のライカビットの広告にもそのリーフレットに記載されているのであるが早く巻き上げられるだけで巻き上げながらフォーカシングをするのは不可能であると説明があった。人間の体は一本しかないから当然の話だ。1950年代のタイムライフで活躍した当時の写真家はスーパースターであるからあちこちにカメラを構えているポートレートが登場して私はそれを分析していたのである。

その調査結果によるとライカが60%でレンジファインダのコンタックスが35%。そしてローライとか大判カメラは残りの%を占めていた記憶がある。コンタックスのレンジファインダカメラと言うのは1932年に登場してから西ドイツの最後の製品までついにレバー巻き上げになる事はなかった。そこで思ったのであるがタイムライフのカメラマンでこの迅速巻き上げ装置を使っていた人がおそらくいたのではないかと言うのが私の推測である。

細かく製品を観察するとCllと刻印されているのである。つまりコンタックス3には使えないと言う意味であるらしい。実際に戦前のコンタックス3につけてみると、露出計のブロックに巻き上げのレバーが当たってしまうから迅速に1回転させることはできない。それで分割で2回、作動させて使えば充分実用になる。

巻き上げ装置の部分が高くなっているのでその穴に指を突っ込んでシャッターを切る必要があるが逆にアクシデントでシャッターが切れてしまう心配はないのでまず安全である。戦前のドレスデンと戦後のコンタックスモデルの最大の違いは戦前のものは巻き上げ部分がそのままシャッターダイヤルになっている。戦後のものは巻き上げの部分の下にシャッターダイヤルが別に設定してあるのだ。だからこのアクセサリを使ったときの使い勝手であるが戦後のコンタックスにつけたほうが使いやすいと思う。
0074名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/26(日) 08:39:59.81ID:lGzbZEaO0
1980年代の半ばにHiraki Osamuが編集する小学館だか集英社だか忘れたけど写真芸術本があってその1冊の最後のショットにこれを使ってもらったことがあって嬉しかった。開きがまだ元気だった頃の話である。開に最初に会ったのは彼が初めてヨーロッパに来たときのことで、プラハの中央駅に迎えに行ったのである。あーゆー風貌の東洋人であるからすぐわかった。意気投合して写真芸術論を戦わせたがその時いっしょだったのはプラハのPavelであるから今何を話しているかの概略を日本語から英語あるいはドイツ語に翻訳して伝えるので時間がかかった。

そのPavelもこの2月にコロナで80歳の生涯を閉じた。

縦画面で撮影したニューヨークのパノラマシリーズはまとめてまだカメラのDoiがあったときに渋谷のギャラリーで展示したのだが私がびっくりしたのは私本人はロケーションでヨーロッパに行っていたのでギャラリーに展示を任せたのであるが日本に戻ってきてびっくり仰天。全部ドライマウントで裏打ちされていたのである。ギャラリーは良かれと思ってやったのであろうがこれではプリントの保管がまずできない。それでその場で全部破棄してもらった。
0075名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/27(月) 06:08:34.63ID:2p76qvJl0
チベットのらさで何をしたかったかと言うと私の場合はアルパの360度周囲が映るパノラマカメラを持っていてそれでらさの街を取ろうと思っていたのである。しかしこのカメラは重さが5キロ位あってバッテリーがないと動かないので面倒になってやめたのである。今の時代ならiPhoneのパノラマモードもあるしね。

河口はそのような大冒険をしたのであるが、東京の杉並区に彼が住んでいた家が小さな公園になって残っているので時々そこに行ってみることもある。ヒマラヤ山脈の雪の峰を超えたすごいアルピニストであるわけだが、80になって彼が亡くなったときの事故というのが昭和20年であったがよる歩行しているときに防空壕の穴に落ちてひどく体を痛めたことが原因でなくなったのである。

人生の生き死にを極めた冒険家の大宗教家でもそのように単純な事故でなくなるというのが悲惨であると同時に極めて宗教的な直感であるとも思える。
0076名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/28(火) 07:42:06.56ID:bhKIOZlm0
長く暮らしたオーストリアウィーンの私のアパートメントから5分のところに巨大な公園があってそこ皇帝フランツヨーゼフが好んで散歩したりとか中にポルゼランのアウガルテンの工場があったりとか、ウィーン少年合唱団の指揮者があったりするところなのであるが広大な公園の2カ所に巨大な第二次大戦当時の大空陣地がある。1つはスクエアな巨大なコンクリートの構築物でもう一つはこれと似たような円形の大空陣地なのである。

ウィーン暮らしのときの散歩の行き帰りにこの奇妙な巨大なコンクリートのオブジェを見るのが楽しみであった。なんでも戦争が終わった後にコンクリートが硬くなっていて壊すのに非常にお金がかかるとか言う理由でその巨大な建築物はそのまま残されて、オーストリア軍が再度使ったりあるいは水族館になったりした。ただし家のウィーンのアパートメントのそばにあった巨大な2つのコンクリートのオブジェは別の目的を持たないままそのままオブジェとして放置されている。まぁそのほうが良いかもしれない。
0077名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/29(水) 00:09:35.98ID:zTKg9M080
そういう細かい事はともかくとしてウィーンの路面電車の雪の夕方の風情と言うのはなかなか寒くて大変なのだが思い出すと懐かしい。さっき書いたように本当に寒いのは雪の降ってない冬の夜であって雪が降るとやや暖かく感じると言うことをもう一度申し上げておきたい。このタイプの電車は今はもちろん走っていなくてウィーンが時に観光客ようにわざとクラシックな電車を旧市内で走らせるときには使っているのであるが私がウィーンに住み始めた1973年にはこのクラシック電車は未だに使われていた。

家人がウィーンの音楽大学の1年生であった頃ドアが開けっ放しのこの電車でアカデミーに通っていたのである。この電車を見て思い出すのはウィーンの名物の馬車カーである。電車の内部は暖房は聞いているがドアは開けっ放しだから運転手さんは寒いそれで運転席の脇だけ毛布みたいなもので外の寒い空気を遮断しているのである。これが何か記憶に非常に残っている。その記憶と共通点があるのがウィーンの馬車であって冬の寒い時はお馬さんに毛布みたいなマンテルをかけているのである。
0078名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/30(木) 07:14:05.76ID:cjFJAeVq0
1980年代初めにKonica FS1と言うモータードライブ付きの便利なカメラがあってそれをニューヨークに携えて行ってその後メキシコシティーでこのカメラでたくさんスナップシューティングをやったのである。ニューヨークではニコンのリトルニコンで有名なEMが欲しかったが当時日本円のレートが280円だったから買えなかった。帰国した翌年にニコンF3の広告に登場した私であるが、実はあれはコニカカメラで撮影したのである。もう時効ですね。

コニカFS1と言うのは一体どういう型番なのかなと思っていたら大昔に似たような名前のカメラが存在してそれの改良型であったと言うことを私はつい最近にしたのである。レンズは52ミリのものが付いていて1.8かもしくは1.4と言うことになっている。面白いのはそのレンズのロゴタイプがこれは何と言うのか日本語で適当な言葉が見当たらないのであるアメリカのNASA航空宇宙局がよく使っていたような未来的な文字を使っているのが凄いと思う。だって1960年に作られたカメラで2001年宇宙の旅ができたのが1968年だからね。
0079名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/12/31(金) 02:22:18.89ID:Jgl3JasF0
天下のエプソンだからお金のない会社と思われるのが嫌だったようで坂崎さんと私はそれぞれ300,000円のギャラを頂戴した。もっとも日本郵船で講演会をやったときのギャラは1,000,000円であったからバブルの残りみたいな時代でしたね。そのトークショーの直後に私の写真集が出ることになって編集者さんが思いつきで坂崎さんと私の対談を入れたら良いと言うことになったので、急遽坂崎さんと私が別件の打ち合わせで彼がもうこれでスタジオに行くと言う時にあと15分待ってくださいと私がお願いして立ち話でトークをやったのがそのまま写真集のイントロダクションになったのであるがそういう切羽詰まったときの対談の方が何かリアリティーがあって私は好きである。

それであれから15年が経過してクラシックデジタルカメラとなったエプソンをいまだに使っているわけだが別に不足は何もない。唯一の問題点はSDメモリーはもう過去のものになってしまったことぐらいだが、画像は毎回iPad Proに吸い上げているから2 GBのSDメモリがあれば別に不便も感じていない。

最近の最新型のデジタルカメラに私が興味を示さないのはまず性能第一主義であると言うことが面白くないのと、私の目から見ると全部同じカメラデザインに見えるので全く魅力を感じないのである。
0080名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/01(土) 03:56:49.39ID:zUvYKlL90
そういう昔の文筆家の暮らしを真似たいと思っている私にとって神楽坂で重要なのは文芸雑誌の編集長矢野さんである。15年位前に福田和也さんから紹介されて、その直後にプラハの連載をやりたくて相談をしたらすぐに快諾の返事が来た時は嬉しかった。その連載は24回やってその後単行本になった。つまり私にとって新潮社の矢野さんと言う編集長は、かつて稲垣が年1度原稿を買ってもらっていた当時の編集長にオーバーラップするのが私のこの界隈での世界感覚なのである。

日本の代表的な雑誌と言えば文芸春秋と新潮があるけれど前者の編集長は割と後退が激しい。後者の編集長はそのポストに20年いらしたと言う方がいてすごいなと思ったのだが、矢野編集長の場合はそれを遥かに超えて30年を超えているのである。

1947年、昭和22年の5月号のこの雑誌はそれまで無地の表紙だったのが初めて5月号から色刷りの表紙になった記念すべきIssueである。私はこのissue を複数持っていたので矢野さんにも差し上げたことがある。1947年の5月号のトップが稲垣のヰタ マキニカリスなのである。これを見た後のユリイカの伊達得男が騙されて当時久が原に住んでいた稲垣の下を訪ねてそれからお付き合いが始まったと言うわけだ。

その時のこの雑誌の編集後期によると、太宰治の新作を掲載したかったのだが印刷用紙が統制になっていて今回はペーパーが足りなかったので次の号に繰り越しになりましたと言う言い訳がなかなか素敵である。
0081名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/02(日) 05:58:39.68ID:NIg0SCP20
一方のミノルタオートマットのほうはずっしり重い大和魂と言う感じがする。カメラは精密機械であるがこの当時のドイツ製のカメラと日本製のカメラを比べてみると日本製のカメラがいずれもずっしりと重いのである。要するに工作制度が悪いのでそれが上げられないから壊れないように頑丈に作るたのではないかというのが私の素人考えである。

当時のミノルタ製のカメラでもう一つ好きなのがあってそれはプラウベルマキナをそのまま国産化したようなカメラでミノルタオートプレスと言うやつだ。これも大和魂が頑張っていると言う存在感がある。戦前と言えばまだニコンカメラはなかったしキャノンがニッコールのレンズを借りて頑張っていた時代だからそういう時代背景を考えても当時の千代田光学のレベルと言うのは並大抵なものではなかったと言う気がしている。
0082名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/03(月) 06:22:10.30ID:C6w2ihSn0
コンドル2と言うカメラであるが自社製のシャッターと自社製のレンズを使っているところがすごい。対抗するローマのレクタフレックスなどはミラノのガリレオからレンズを買うのが悔しかったのか全部外国製のつまりフランスとかドイツのレンズを自社のレクタフレックスに使っているのである。

このカメラがへんちくりんなのは50ミリF2のレンズが付いていてレンズシャッターなのであるがそれをわざわざコラプシブルなメカニズムにしていることだ。例えば日本のコニカの最初のモデルなどはやはりコラプシブルレンズであるがこれはセルフコッキングになっていない。ところがコンドルの場合はちゃんとセルフコッキングになっているのである。なんでそんな面倒な手間をかけてカメラを作るのかよくわからない。

しかしこのイタリア製の工芸品とも言えるようなカメラの作りは素晴らしいので時々鑑賞しているのである。Facebookの友人で自分ブランドの時計のファクトリーを持っている人がいてその人が時々Facebookで紹介する時計のメカニズムのパーツ作りの話はかなりマニアックで面白いのである。

それで私がこのカメラの話をFacebookにアップしたら結構長い評論を加えてくれて、専門家の工作の立場からしてもこれはなかなかめんどくさいらしい。◇仕上げの巻き上げパーツであるが上下を残して中央部分がロレットになっている。このロレットの文様がライカなどでは◇になっているのであるがこれは碁盤の目のようになっているのが特別な工具を作だ手間のかかる仕事であると分析してくれた。

なるほどそんなものなのかと感心したのである。撮影しているときにはそういう細かいデザイン上の事とか美術的な仕上げの事等は全く気がつかないのは当然だがこのカメラを手に取ってみると何かルネッサンスを感じるのである。ちなみにレンズの周りもカメラの精密機械としての普通の仕上げの常識を超えているようなところがある。◇仕上げの表面が特に素晴らしい。
0083名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/04(火) 06:10:37.47ID:SnvwsKzw0
当時はアルパ研究会と言うのをやっていて1本のレンズの相場が25,000円であってそれでもずいぶん高いと言う気がしたのだが今では250,000円でも買えないようなダントツな値段になっている。

ユニークなことにこのレンズを愛好する人はごくレベルの低いアマチュアさんのお金持ちであるから全く例外なく作例がひどいのである。ピントがボケボケでさすがスイス製のレンズがすごいとか言って褒めているからこれはすでにエンターテイメントの部門としては伝統的な存在感を誇っているのである。

私も1時はアルパのコレクターになってアルパのコレクターガイドと言うのは非常に親切でドイツ語版が500冊出ただけで英語版すらないのであるがそれぞれの細かいアクセサリーまでいくつのユニットが作られたのか全部細かく説明されている。でも私の場合は写真表現として使えるカメラしか欲しくないからアルパのカメラを整理して今では7台位になった。

第3世代のアルパカメラはモデル9というのから始まってモデル11で終わるのであってそこに非常に多くのバリエーションがある。不思議なことに当時のアメリカ政府はこのバカ高いカメラを政府の公式な記録カメラとして使っていたのも実に不思議な次第である。日本にも同じ時代にごく少数が入ってきたのであるがアルパ11と言うモデルでは標準レンズ付きで450,000円と言うので当時のライカカメラよりはるかに高かった。

それでここに紹介するのはポストアルパと呼ばれているやつで、当時の電話機の度数形を撮影してそれを顕微鏡で見てそれぞれの加入電話に電話代金を請求するときの道具として使われた複写用アルパなのである。ついこの間というか80年代後半までこの電話度数を撮影するアルパカメラが生産されていたと言うのも考えてみれば不思議な気がするのだ。

クリスマス時期でもあるしそれ以上に結婚50周年記念を祝うわけではないけれど今まで持ったことのないアルパを手にしようと言うのでこれを手に入れたのだ。最近の私のフィルムカメラとデジタルカメラの分離の考え方は以前とかなり変わってきて、以前は何が何でもフイルムで取らなきゃだめだみたいなことを言っていた。これで1種のノイローゼになるのは周りにあるすべてのフィルムカメラがすべて使えるように調整しておくと言う強迫観念なのである。
0084名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/05(水) 21:57:42.67ID:F+WA1OH20
しかも私の経験でもっとすごいのはつげさんから家に電話がかかってきたことだ。私は電話に出なかったけれど家人が取り次いだときの印象というのが地獄の底からかけてきたような電話の声だったと言うのである。もちろん本人は名前は名乗らなかったがすぐ誰だかわかったのでこちらからコールバックした。これが1980一年の話でそれ以来時々多摩川住宅の団地中央の喫茶店で会って国産カメラの話をしたのである。ジーパンにワイシャツに下駄履きで背筋を伸ばして1人称で自分はと言う体育会系の人と言う感じがした。

ちょうどShosukeさんが生まれた頃の話でつげさんはなかなか精神的に大変だった時代だろうがカメラがそれを救ってくれたのであろう。大漫画家の時代からするとカメラを売る、の時代だから原作をライブで見せてもらえたような貴重な体験であった。
0085名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/06(木) 00:10:28.93ID:RHNdRaeG0
クレムリンから赤旗が降りてようやく西側にこのヘンテコリンなカメラが流れるようになった。25年位前に京セラコンタックスの広告の仕事でシュトゥットガルトに行った時に小さなカメラ屋さんでこの20ミリレンズを発見したのである。とにかく交換レンズが珍しくて値段はともかく発見したら買っておくと言うモードの私であったから勢い込んで20ミリのこのレンズを手に入れた。ガラクタ屋さんで買った品物は全部プライスのシールを貼ったままにしてあるがこの20ミリの広角レンズもその時のプライスタグが貼ってある。

まだドイツマルクを使っていた時代でプライスを見たら200と書いてあるのですぐ手に入れた。珍しいものを買ったと言うので嬉しかったがそれから1年ぐらい経過してよくPrice Tagを見たらこれは200ドイツマルクではなくて100ドイツマルクなのであった。ドイツ人の筆記体の数字の1と2は間違えやすいのである。だから定価の2倍で買った馬鹿な東洋人が私なのである。でもセラーもバイヤーもハッピーになったのだからその事は問題なし。

十数年前の日本カメラの連載でタイトルは忘れたがこのカメラとこのレンズの組み合わせでカラーで写真を発表したことがあった。言うまでもないことだが非常に優れた描写でちゃんと映っていたのである。
0086名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/07(金) 08:48:19.02ID:ZOXUvUNY0
35ミリ2眼レフと言うのはいくつかあるが私が長年使っているのはカールツアイスのイマダフレックスの2眼レフである。優れたカメラであるのだがあまりにも重いというのが問題である。今の私は後期高齢者であるから体力低下しているのは当然として還暦の頃でもこのカメラは結構重かった。それでイマダフレックスの後に使うカメラと言うのでこのカメラを思いついたのである。

日本にArcoと言うカメラメーカーが存在してそこの蛇腹式の35ミリカメラが当時のアメリカのボルシーに気に入られてOEMの打診があったそうである。天才カメラ設計家のジャックボールスキーから見ても、Arcoはかなり魅力的でそのような交渉をスタートしたのだが結局話はまとまらなくて、しかし日本のこの会社はカメラ雑誌などで、アメリカが特許を買いに来た会社。と言うのでこれは当時良い宣伝になったらしい。何しろ敗戦国日本だから。
0087名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/08(土) 00:06:47.23ID:RGf/8S0k0
このカメラだけは第二世代第3世代と異なり、独自マウントであって互換性がない。その20年ほど前に外神田でブガッティを持っていると言う人がいて彼の仕事場によく遊びに行ったのであるが、その時お願いして現物合わせで旋盤でマウントアダプターを作ってもらったのである。もともと本田の優秀なエンジニアであった人だからいっぱつで完璧なマウントアダプターができた。これはエム42をアルパレフレックスにつけるためのアダプターであるからこのクラシックなカメラに現在フィッシュeyeから1000ミリまで全部レンズがつくと言うわけだ。

こういうマウントアダプターをプロフェッショナルに作ってもらうと言うのは実は大変に迷惑なことであって、30年位前だがコシナレンダーの仕事のお手伝いをしていた時に私が持っていた非常に珍しいハンガリー製の一眼レフDuflexのマウントアダプターをコシナの小林さんに作ってもらったことがある。このレンズマウントアダプターでケーマウントのレンズは全てハンガリー製のレアな一眼レフに着くのである。小林さんは紳士であるから別に嫌な顔はしなかったけれども迷惑なことであったと思って反省をしている。

ところでこのアルパにはタクマーレンズが付いているがこれには理由がある。1970年代のアルパカメラと言うのは標準レンズとして1連のタクマーレンズを指定していたのである。それ以前はマクロスイターとかフランスの安全に生(アンジェニュー)とかを自社レンズとして使っていたのであるが、ペンタックスのタクマーレンズの優秀さに気がついたのかあるいはそれが1番安くて手っ取り早いかったのかそこら辺は知らない。そういうわけでアルパの正式レンズはペンタックスのタクマーであると理解することもできる。
0088名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/09(日) 05:04:14.67ID:4saia2s10
大阪芸大で10年間写真芸術論をやっていて、私はもともと写真教育不可能論者だから産学共同路線の卒業生はすぐ就職できますなどと言うインチキには反対していたのだった。大体私が日大写真学科を出て卒業して50年になろうとするのにまだ増えていないと言うわけだから自分のことを見れば産学共同路線がインチキである事は言うまでもない。

10年間の大阪で私が楽しみにしていたのは芸大の授業と言うよりも芸大が刈り上げている天王寺都ホテルから徒歩5分位のところにある立ち飲み屋である。そこのお店の天井に近いところにお酒の看板がいくつか並んでいてそれを見ながら難波の常連のお客さんの会話を聞くというのが素晴らしい体験だった。

それで考えた事はお酒の看板を部屋におけばそこが立ち飲みの居酒屋になるから楽しいのではないかと言うアイディアである。それを実践したのだがお酒の看板と言うのはヒノキの1枚板でできていてかなりの重さがあるからそれを壁にぶら下げるのは危険である。それで床に置いて菊正の辛口を買ってきて満足していたのが2年前である。

しかし何か違うなと気がついたのは1年位前のことであってまず立ち飲みのすきま風とか夏の暑さの感覚が部屋では得られないこと。2つ目は立ち飲みをしている客はいつも自分1人であると言うこと。3番目はウィットの利いた会話と言うよりも私は第三者の会話を聞いてそれを楽しむのが趣味だから立ち飲み屋にはいつも1人で入るのであるが、お客さんの会話がないので自分の頭の中の独り言で考えがいっぱいになってしまうこと。これが問題なのである。

もう一つ思い出したのは古い写真で大阪天王寺の立ち飲みのお店の上にかかっている日の利いたの1枚看板は菊正宗でばかりあると思っていたのにその古い写真を持ち出して見たら大関の看板であった。私の記憶等は本当にいい加減なものである。
0089名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/10(月) 05:32:50.86ID:GoOx9J/W0
須田さんが私に教えてくれたカレー屋さんと言えばくだんのインド大使館のすぐそばにあったアジャンタである。今は別のところに移転したらしいが。私は10年ほど前にインドのデリーにカレーの武者修業に行って、デリー駅のすぐそばの菩提樹の木の下で野立カレーに感激したクチである。インド哲学者みたいな白い服を着た老人がでっかい鍋を1日中かき回しているような哲学カレー店である。

お客さんはみんなしゃがみ込んでヒンドスタンタイムスを10億分の1にちょんぎった紙の上にチャパティーを乗せてもらって値段は1皿のカレーと一緒で15円位だったかな?外人の客、私の事店が来たので店のオヤジは道端の最上クラスの石の上に座りと指示したのである。それで翌日からその野立カレーのペイヴメントの石の上が私の常の席になった。六本木あたりだったらこれは外人で賑わうカレー店と言うことになるのであろうな。
0090名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/11(火) 00:08:33.85ID:mDqLn+BD0
もう一つ思い出したのはwinのライカショップのペーターのことだ。オンラインで新しい中古カメラが出たり何かして、その細かいことを問い合わせるとその2日後にはそのカメラが東京に到着しているのである。というのもペーターは私のクレジットカードのデータを持っているからこちらの注文に関係なく送ってきたりすると言うのは商業上の道徳に反するのであるが彼はブルネイの大金持ちのお客さんを持ったりしているから、極東に住んでいる私もそれと同じ位の大金持ちと勘違いしているようなところがある。
0091名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/12(水) 00:13:35.37ID:nH2vcKs+0
ウィーンに暮らし始めた1973年にアリフレックスの会社はドイツの隣の都会のミュンヘンであると言うことに気がついて手紙を出した。しばらくしたら当時のアーノルドリスタの会社のすべてのカタログが到着したのは嬉しかった。その中に好ありフレックス16ST のカタログもあったのでそれこそ穴が開くほどカタログを見つめていたのである。

要するに3本ターレットのレンズで当時の使い方としては10倍のズームレンズをメインにつけて、それよりもちょっと短い10ミリの広角レンズをつけて、さらに望遠レンズの方が300ミリをつけるというのが当時の記録映画の普通のコンフィギュレーションである。この末広がりを英語ではDivergentと言うのだと言うこともその時初めて知った。

何がダイナミックであるのかと言えば三脚にのせられたリフレックス16の場合、望遠レンズが長いとその末広がりの状態がさらに強調されるわけである。こーゆー末広がりのタレとと言うのは別に新しいものではなくて顕微鏡の対物レンズのターゲットに使われているごくお馴染みのものなのであるがこれを映画撮影機に使用したと言うのはあまり例がない。

フランスの亀フレックスの35ミリ映画撮影機では3本ターレットで同じような様式で末広がりになっているのである。これもなかなかダイナミックで素晴らしいカメラのメカニズムである。その後プロ用の映画撮影機はターレットがなくなってシングルポートになってしまったのは残念である。
0092名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/13(木) 00:11:42.54ID:vcDIlQ3p0
長年このカメラを使っていて唯一の問題点はハンドリングが悪いと言うことなのだ。それでカメラジャングルを探していたら私は30年ほど前にコシナレンダーのお手伝いをしたことがあってその時の使い残しのフィルムカメラ用のパームグリップが発見された。それをつけてみるともちろんカメラは別のものであるからそのままぴったりつくわけでは無いのだが一応取り付けは可能なのである。それで試してみたらかなり良好なハンドリングなのでそのままこのように使い続けている。

コシナレンダーと言うのは面白い会社で以前はお付き合いがあってずいぶん色々と小林さんにお世話になったのである。一番びっくりしたのは会社のエントランスに今までOEMで作ったカメラが全部展示されていて私がびっくりしたのは、ウィーン時代つまり1970年代に欲しくてついに買えなかった西ドイツ製と言われていた超高級8ミリカメラが実はコシナレンダーが作っていたと言うことである。

もちろんOEMのビジネスと言うのはそれは当たり前なことなのであって、私が勉強させてもらったのは1980年の初めごろにアメリカのモダンフォトグラフィーの編集長のケプラーさんのアシスタントで日本中のカメラ工場を見学して歩いてOEM専門のカメラメーカーでいろいろなカメラを見せてもらったことだ。コシナレンダーは今ではカールツアイスのパートナーになってなかなか立派な仕事をやっているがはじめの頃はそうではなくてOEMプロダクツのサプライヤーであったわけだ。
0093名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/14(金) 00:09:46.19ID:YQ5jYdGc0
私もオークションに参加しようと思ったのだがフイルムカメラのコレクションは膨大にあるので思いとどまった。それでもファイナルプライスは60,000円台と普通の人からしたら何の価値もないカメラだけれども我々からするとずいぶん安かったなと言う印象である。

カメラの細かいスペックは不明なのだが外見をよく観察してみるとこのカメラは単に3本レンズターレットのスプリングドライブのカメラである。もう少し時間がたつとキャノンスクールピック16と言うビデオのニュース取材が登場する前に非常によく売れた16ミリフィルムカメラがあった。

報道のニュースをフイルムの16ミリで取ると言うのは当時の定番の撮影スタイルであって1番人気だったのはベル&ハウエルの16ミリカメラである。これが1番使われるパーセンテージが高かった。ベル&ハウエルの16ミリカメラを持ったニュースカメラマンに少年時代の私は憧れたものでもあった。
0094名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/15(土) 00:17:18.14ID:HmsRvYkR0
500ミリとか1000ミリの望遠レンズの撮影で1番重要なのはカメラアングルである。撮影範囲が非常に狭いから1歩脇に歩いただけで全体の写真の印象が完全に変わってしまう場合もある。その後いろいろな超望遠レンズを手にして例えばミュンヘンで作られたNovoflexと言う640ミリF9と言うレンズも使ったがカメラの全長があまりに長くて持ち歩きがしにくいのであまり使わなくなった。

ところで1番最初のタイプのこの500ミリのソ連製レンズであるがその魅力と言うのはまさに虎屋の羊羹がつやつやしていると言うような感じの非常に上質なブラックペイントなのである。そしてレンズバレルには誇らしくブリュッセルグランプリ1957と刻印されているのである。

ブリュッセルでグランプリがあった事は私も知っているがなぜこのレンズがどういう背景でグランプリを受賞したのかと言うことがいまだにわからない。同じ年のグランプリを受賞したカメラに、当時最も進んでいた35ミリカメラでKometaというのがあってこれはライカM3に似たレンジファインダカメラである。二台しか作られていなくてそのうちの1台はエキスポが終わった後分解されてしまった。もう1台は私の友人のwin工科大学の先生がコレクションしている。だから事実上世界で1台しか存在しない貴重な帚星なのである。
0095名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/16(日) 06:06:17.99ID:9jiVNKbv0
iPhoneには朝日新聞のシールが貼ってあって、これはいちど中央線で車内にiPhone忘れた時に中央線の終点までこれが運ばれていてJRの忘れ物案内に電話したときに、忘れ物にどのような特徴がありますかと聞かれて私が朝日新聞社のシールが貼ってありますと言うのですぐに特定できたのである。これは非常に有効な個体識別システムなので今の家人からお下がりのiPhone SEにはハリネズミのシールと刺身の安売りパッケージの蓋からはがした環八と言う楕円形のシールが貼ってある。

カメラは友達にブラックペイントにしてもらったレオタックスGで左に見えるレンズはキャノン35ミリef 1.5とウォレンサックベロスティングマット90ミリエフ4である。

真ん中にある白いデジタルカメラはオリンパスの1番最初のモデルであって思えばいまだにこれを愛用しているのである。最新型の1億画素で鳥の飛行中の目玉にピントが合う何と言うデジカメは品がないから使わないことにしている。もう一つのタイメックスのウォッチも今使っている。これを撮影した時から12年が経過して使っているのは古いオリンパスデジカメとタイメックスと言うわけだ。

グリーンと赤いリンゴは食べてしまって既にありません。
0096名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/16(日) 15:07:41.49ID:9jiVNKbv0
新型ライカM11のマグニチュードのことを考えてみる。今朝ほど南の方で起こった海底火山に比べるとその影響はほとんど無視して良いと思うけど、フイルムライカの時代に比較してデジタルライカはどんどん手品のネタを変えていかないと乗り遅れると言うところが悲劇である。

その日本での定価1,000,000円を超えると言うのは1954年にライカM3が日本に入ってきたときの実勢価格とほぼ同じかそれより安いかもしれない。当時のライカの輸入価格が275,000円だった。

手元にはライカエム8よりも先に世界最初のデジタルレンジファインダカメラになったエプソンもあるし、ライカM10、モノクロームもあるからM11は私のウィッシュリストには入らない。

ライカとアップルが仲良くなったわけだから、デジタル画像を撮るのはiPhoneとiPadで充分である。

ライカM11買う理由はどこら辺に存在するのであろうかと考えている日曜の午後。
0097名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/17(月) 01:54:46.07ID:qGpukHTh0
ところで1980年代に銀座のカメラ屋さんにこのカメラのどこかしら具合の悪いのがたくさんあって誰も買わないのでそういうカメラを全部家のほうに引き取ったことがあった。ちょうどアルパ研究会が真っ盛りの頃で、αの一眼レフと言うのは最初の頃のファインダーはすごく明るくて見やすいのであるがアルバアルバ10dより後のモデルはファインダーが暗くていけない。

普通はカメラと言うものは新型になればファインダーは明るくなるものであるがその逆を行っているというのが実に個性的である。1台のカメラで通常の暗いファインダーよりもさらに暗いのでアルパ研究会で分解してみたらなんとファインダースクリーンの就航レンズが裏返しに入っていたのだ。
もっと光を!
0098名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/17(月) 02:08:11.46ID:3SrPn3yd0
         _人人人人人人人人人人人人人人人_
        >   そうなんだ、すごいね!      <
       ´ ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
            __、、=--、、         __
           /    ・ ゙!       /・   `ヽ
           | ・   __,ノ       (_    ・ |
           ヽ、 (三,、,         _)    /
            /ー-=-i'’       (____,,,.ノ
            |__,,/          |__ゝ
             〉  )          (  )
0099名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/18(火) 06:39:51.34ID:SNvIx4o10
ウィーンに暮らしている間に同じレンズを同時に2つゲットしたことがある。ウィーンのカメラコレクターでライカカメラをタンデムにセットしてそこに28ミリのこのレンズをつけてステレオ写真を撮ろうと言う素晴らしいアイディアであった。ところがこういうカメラ付きと言うのは面白いもんで、日本にもそういう人がいると思うがシステムを組んでしまうと安心して後は撮影するだけだと言ってその先に進まないのである。

数年前にこのレンズが復刻版で登場したのでライカの会社はなんとつまらないことをするのだろうと呆れていたのである。その後もっと呆れたのは90ミリのソフトフォーカスレンズを出したことである。ライカの会社は他にもっとやるべきことがあると思うのだが時代がずれた方向でどんどんピントがずれた製品を作っていくのでもうずいぶん前から相手にしていないのである。

それとこのレンズであるが呆れたことにライカエムマウントなのだ。本来はバルナックライカのために作られたものだからスクリューマウントで復刻すべきなのであるこういうレンズを本当に欲しがっているバルナックライカユーザは最初から使えないと言う変なことになってしまう。
0100名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/19(水) 06:01:14.48ID:5tlwn0JI0
ユニレックスの露出のコントロール方式というのがシャッタースピード優先で絞りがオートになると言う点である。これが私にとってかなりユニークに思われたのだ。先にシャッタースピードをセットしておいて絞りを押し込んでいくと絞りの針をリリースしたパワーが押さえ込んでそこで針を固定するのである。それが適正露光と言うわけでこのアナログ感覚が何かいい感じ。

もう一つユニレックスで魅力的なのはクローム仕上げのカメラはどこからどこまで全部がクローム仕上げと言うような感じのアピアランスなのだ。私は手にしてないが標準レンズ用のフードまでシャイニーなクローム仕上げなのだそうだ。一方でブラック仕上げのほうはレンズの根元まで全部オールブラックというのが初心者カメラにしてはかなり高級な仕上げなのである。
0101名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/20(木) 05:24:31.58ID:6HiDiJCS0
朝日新聞の金曜日の夕刊にブックタイムスと言う広告欄があってそこで写真の連載をやっていた時に、神保町の古い喫茶店キャンドルがなくなって残念みたいなことを書いたら、お店から朝日新聞に抗議の手紙が来たことがある。なんでも都市開発計画で一橋のほうにできた新しいビルの1階に移転すると言うのである。それで新しい喫茶店に移転してから私はお詫びに行った。

新しいキャンドルは高層タワーの1階にあって感じは変わったけれども、懐かしい子はそのまま使われていた。そこで片岡義男さんと昔の神保町の話をした。当時片岡さんは植草仁一さんのアシスタントをやっていたからそこら辺のお話になった。キャンドルはそのままでうれしかったが唯一残念だったのは私が青年時代に飲んだビターなコーヒーがなくなってマイルドな味になってしまったことだった。
0102名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/21(金) 04:10:16.64ID:AoqRLDju0
本郷菊坂にある前衛的なマンション顔本のお友達ご紹介のでこぼこマンションであるが、菊坂通りからは全く見えなくて行ったり来たりした。少し離れた所から望遠レンズを使って撮ると圧縮効果で詰まって見えてそのでこぼこ加減が際立つ。すぐそばに立っていると本郷菊坂のマンションはそのデザインの素晴らしさがわからない。こんな素晴らしいデザインなのにこれを正式には何と言うのかなと考えていたら、アローカメラ我楽多屋の二代目さんが教えてくれた。

本郷菊坂なんとかハイツと言うのである。どうやって入力して検索したのか未だに不明だけれども二代目さんはすごいなぁ。本郷のでこぼこマンションでは絶対出てこないもんね。

それでこの本郷菊坂でこぼこマンションの上層階の方がなぜこんな凸凹状態になっているのかと言うことを考えていたらカメラ友達のゴスペラーズの酒井さんからすぐ連絡が入ってこれがドンピシャのお答えなのである曰く

マンションの隣接の建物に対する日照権の問題じゃないですか?

あーそうだな思い出した。街の立て込んだところで高層マンションを建てると日照権を周りに確保するために上層階は斜めにセットバックしているのである。それは記憶していたがこの本郷菊坂凸凹マンションの場合は、セットバックの仕方がかなり芸術的で凸凹なところがあってそこが世界中の集合住宅を見飽きた私の好みにあったと言うわけだ。
0103名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/22(土) 05:40:13.74ID:rE/bI5rB0
1970一年に登場したキャノンF1の場合は敵方の対象ニコンに対抗するために頑張りすぎてデザインが甲冑を着た武者のようになってしまった。力が形に出すぎたんだね。それ以前のこの辺のカメラのシリーズが使う道具としての存在感とデザインが実にうまくコントロールされている。

このキャノンの入門編のカメラは割と最近ネットオークションでマクロ50ミリレンズがついて4000円位で手に入れたのである。触っていると実に写真を撮っていると言う感じが強烈に印象付けられるので良いカメラだと思う。

そうこうしていたら同じカメラのボディーに70ミリから150ミリと言う地味なズームレンズがついて、しかもレンズの明るさがエフ4と言うのが出てそれも気にいってゲットした。こちらは落札価格1000円で業者さんだから10%の消費税がついている。社会人になった証拠に入手した半世紀前のキャノンが今では1000円と言うのはどうも理不尽だと思う。

それともう一つ書いておかなければならないのはが愛用したカメラはニコンであろうがキャノンであろうが全部仕上げはクロームであったと言うことだ。ここら辺が我々はB級写真家だからこけおどしの目的ですぐブラック仕上げを手に入れてしまうのは全く情けない。
0104名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/23(日) 06:47:01.29ID:O5MDEvwI0
その喫茶店クラシックで使われていたガラスのコップがこれである。ワンカップ大関のカップなのであるがこれを使うと言うところもなかなかすばらしいと思う。そのことを何十年も忘れていて最近思い出して使ってみるとなかなか都合が良い。

ワインを味わう時などは厚手のグラスと薄手のグラスを使い分けたりしていたのが若い頃からの私の週間であったが、このコップはかなり厚手のものなのでそれ1種類だけでたいていのワインは飲めると言うことに気がついた。考えてみたらブルゴーニュあたりのデギスタシオンをする時も実用的なコップであったことを思い出した。

このワンカップのグラスは家に1つしかないので紛失しないように気をつけているのである。最も頑丈だからキッチンで落とした位で破損するものでは無い。
0105名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/24(月) 05:15:11.79ID:jFxFJO4d0
オランダ坂のうらのうらのあたりの誰も歩いていないところを歩くともなく歩行していたらバックパックの青年が私に声をかけてくれた。なんでもその人は自称ホームレス写真家と言うので、アサヒカメラなどにも作品を発表している人なのである。40分位の立ち話が続いてそこで別れた。

思えば1980年代ニューヨークから帰ってきた直後には東松さんから結構電話をいただいたのである。当時の東松さんはキャノンイオスを使っていたので交換レンズは何が良いかと言うご質問であった。それで50ミリのf1.8の1番安いやつが良いですと申し上げたらそれを早速手に入れて使っていらしたようである。

東松さんの長崎をテーマにした写真展、長崎曼荼羅を見に行った。なかなか見ごたえがあった私がお勧めした50ミリの安いレンズもその中に入っているようであった。今にして思うと東松さんの仕事は全てフイルムなのである。

フイルムで一生を記録した写真家。

東松さんは2012年の12月に亡くなっている。佃島を歩いていたらこれは不思議なことなのだが前をトランジスターラジオを聴きながら歩いている男性がいて競馬中継の帰りか何かだと思うがいきなりラジオニュースで東松さんの訃報が私に伝えられたのである。そして日本カメラに訃報を書かせてもらったのも忘れられない。
0106名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/25(火) 05:32:31.34ID:T9I7iOwt0
アドルフロースの友人にカールクラウスがいた。あるいはロースが目をかけていたアーティストにオスカーココシュカがいる。私がウィーンに住んでいた頃、オスカーココシュカはまだ存命中であって、ウィーンから出ている美術雑誌プロトコールに一緒に作品を出したことも今思うと凄いと思う。

オスカーココシュカの作品でよく覚えているのは私が長く住んだドナウ運河の風景を彼が描いている作品だ。1947年と言うから私が生まれた年のドナウ運河の風景画だが、そこに描かれているポプラの木が当時より大きくなっているのが感動した。

Sudekが撮影したマジックガーデンは芝生がメインで大きな木はほとんどない。以前迎賓館に使われていたホテルプラハだけど、重要なゲストと言うと世界中のミュージシャンもそうだが今の天皇陛下も皇太子時代にここにお泊まりになった。

12年前だけどホテルプラハの部屋から午後の光で反対側のなだらかな傾斜を見たら眼前にアドルフロースのMuller邸宅が見えたので懐かしかった。確かにアドルフロースが言うように装飾は犯罪かもしれないが、プラハ郊外の午後の光の中であまりにもシンプルに立ち上がっているので、その向こうに見えるプラハのシンボルのゴシック大聖堂も顔色なしなのである。
0107名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/26(水) 06:50:15.14ID:4WpPVUbZ0
最後にもう一度1つ思い出したのはパッケージツアーでユングフラウヨッホなどに登っていた記憶があるのだ。しかもその時ワイドアングルローライフレックスで山の写真を撮っていたことを思い出したのがもう一つのスイス体験だからトータルで6回と言うことか?

なぜこれを思い出したのかと言うと1980年代に日本カメラの手伝いでフォトキナを取材に行ったのだが、ホテルも飛行機も全部予約が取れなくて編集部で緊急事態と言うことで編集長と私はヨーロッパ5カ国を回るツアーみたいな所にメンバーとして参加したのである。それでケルンを一泊2日で見てその後スイスでユングフラウヨッホの頂上に上ったりしたと言うことがあった。

この時はロンドンに滞在したのは日曜日であってダイアナさんがどっかの教会に行くところに出くわして、そこら辺のロンドなぁと一緒に大きな声で

ダイアナ!!!

と絶叫したらこっちを向いてくれたのでそこをローライで撮影したこともあった。まぁいずれにしても私はスイスに縁がない人間でスイスの時計とスイスのカメラ位が私のスイスとの関わり合いと言うわけだ。
0108名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/27(木) 06:37:07.11ID:IRkjIfAO0
同じ時代のテッサー5センチは最小絞りはエフ22まであるのに、なぜゾナー5センチ1.5は最小絞りがF11までなのだろうか?単純に考えれば絞りすぎるとピントが悪くなるから絞りは11時までに抑えたいと言うのは単純な推測であるが私の考えではこれはどうも違うと思う。要するに当時世界で1番明るいレンズであったから、他の50ミリレンズに対して差別化を図るために最初おしぼり(最小絞り、うちのシリがとぼけててごめん)のほうはF11で留めておいたのではないかというのが私の考えである。

その方が最も明るい標準レンズとしての高級感と言うものをアピールするためには絶好のやり方だったのではなかったか? 5センチF2のゾナーレンズは絞りはちゃんと16までついている。第二次大戦直後にソ連製のキエフ、つまり実際問題としては当時のコンタックスそのものを寄付と言う名前にしてこれを立派なセットケースに入れたなかなか豪華なアウトフィットがある。

レンズは35ミリから135ミリまでフルラインのアウトフィットであるが5センチだけは2種類のレンズが付いている。それが1.5の明るさのレンズとF2の明るさのレンズである。同じ標準レンズが2つ付いているわけだが私が考えるにこれは明るいほうの50ミリレンズは実はもっぱら絞り開放で撮るための特殊レンズだったのではないかと言う考えである。

それで5センチF2のレンズはユニバーサルレンズとしてあらゆる撮影目的に使われたと言うわけだ。
0109名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/28(金) 06:04:45.66ID:fU0uUG/t0
1953年の東京がテーマになっているのがすごい。私が6歳の時でようやく物心がつき始めた頃の東京である。その頃の東京の風景がOZUのフィックスされたショットで撮影されているのはスチールフォトグラフィーにも近い。

ドラマの家庭内のショットは撮影所のセットなのであるが、私がびっくりしたのは出演者の立ち居振る舞いが畳の生活であるから立ったり座ったりなのである。文京区の音羽の家の当時の暮らしを思い出したがあの頃の生活は全て立ったり座ったりであって俳優の笠智衆が老人並みの演技で畳から立ち上がるところがなかなか良かった。

畳に座ったり立ったりと言う動作を私なども50年近くやっていないので時々えらい目にあう。20年ほど前に何かの用事で京橋のアイランドでギャラリーが大きな写真展をスタートするときに明治神宮にお参りに行った。賽銭箱の前でお辞儀をするのではなくて本殿に上がって巫女さんの踊りを見たりして45分ぐらい正座していたのである。終わって立ち上がろうとしたら足がしびれてだらしのないことになった。

だから東京物語を見て感心したのはかつての東京はこのようであったと言う少年時代の記憶の復活である。20年ほど前にヨーロッパのカメラツアーで20人ほど参加者のお客さんで笠智衆のお嬢さんと言う方がいらしてそれを懐かしく思い出した。

それともう一つ、原節子が引退した後に漏らしていることだが、畳の上での立ち居振る舞いの演技がきつくなったと言うのである。確かに体には良くないよね。
0110名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/30(日) 06:18:31.73ID:qYQNLZvT0
今回の3月から始まるギャラリーバウハウスの写真展にはちょっとした仕掛けがある。ネタバレしてしまうと面白くないのでここでは書かない。足掛け8年ウィーンに住んでいて20代の青年の人格の形成期にwinで影響を受けたものだから私が帰国した当時はかなり変人と言うので周りから警戒されたのである。それから50年近くが経過しようとしているが若い頃に固定された性格と言うのはそう簡単に変わるわけでもない。

それはさておき重要なのはウィーンでの毎日のスナップショットであった。毎日ライカを持ってと言うとかっこいいが実際にはライカは生活のために東京に送ってしまったから通常使っているのはソ連製のカメラであったりする。アパートメントから下に出て最初に出会った人をスナップすると言う変な習慣ができていてある日私のソ連製のカメラを横切ったのがこの女の子なのである。

写真写りはいいしスナップショットとしてはそこそこのクオリティーなのでこれを数年前にギャラリーバウハウスで展示した時は複数の購入希望者があったのだ。ところが私はネガフィルムの管理が悪いので、最初のプリントは最初のお客さんに買ってもらったがその後のプリントをするために探し回っても何しろ2000本のネガの中にこの画像が写っているショットを戻してしまったので、納屋にある草の中から1本の針を探すようなことになってしまい結局発見できなくてお客さんに誤ったことがある。
0111名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/01/31(月) 05:20:05.15ID:h1mzBD3b0
300年ほど前に宮廷画家だったカナレットと言う人が300年前のベルベデーレ宮殿の風景を描いた大作がある。ウィーンの美術館に展示されているがそれを見るとこの風景と全く変わらないのである。ただし庭園を歩いている人は日本人はアメリカ人のツーリストではなく18世紀の午後の服装をしていることが最大の違うポイントだ。

ベルベデーレ宮殿が尽きるあたりの右側に白っぽい建物がかすかに見えているが私はそこに住んでいたことがある。Saresianagasse33と言う場所でウィーンの歴史文化財に指定されているので赤と白の金属板がエントランスに打ち付けてある。それを読むとウィーン工房のヨセフホフマンが亡くなるまで住んだアパートメントがここなのである。毎日アパート出入りしているのにそのことに私は全く気がつかなかったのだ。
0112名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/01(火) 05:05:43.99ID:Q/yzjfNx0
1979年にアサヒカメラの連載の仕事でヨーロッパをあっちこっち撮影しているKitai Kazuoさんのアシスタントをしたときに彼からライツミノルタCLをいただいた。大写真家の説明によると手伝ってもらうギャラが安いからその1部としてカメラあげるよと言う事だったらしいが、木村伊兵衛賞受賞者の使っていたカメラが使えるなんて夢のようであった。しかも1連のシリーズで撮影したキャノン25ミリも一緒にいただいたのである。

このカメラを使って私もヨーロッパをかなり撮影したのであるがその目立たないサイズとまさにコンパクトライカの特徴を十分に生かすことができた。唯一このカメラで問題なのはポーランドのようなマイナス20度位の寒いところで撮影すると静電気のスパークが激しいことである。

日本のような普通の冬で撮影するには何の問題もないのだけれどこの静電気の稲光には困った。それで私の写真集ではわざとそのエクレールを生かして静電気のスパークを写真表現の1部と言うふうに考えて発表したこともある。それはそれなりになかなか良い効果を出していたと思う。

ライツミノルタCLに使っていたレンズは20ミリのソ連製のRusarもあった。これがギリギリでTTLの動作がするのである。1970年代のウィーンでそういうことが自慢であったのだが今は最初からTTLの動作等は相手にしていない。
0113名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/02(水) 06:14:10.30ID:WxVuY1w10
それ以来日本のあちこちで意識的にコップ酒を飲むことにしているのが、この長崎でのコップ酒より歌うまいコップ酒は飲めない。長崎市内の中心部にある歴史的で有名な茶碗蒸しの何とか言う店には文芸評論家の福田さんと言ったりしてなかなか良かったのだがああいう所ではコップ酒はなかなか度胸がないから頼めないし第一似合わないと思う。

このコップ酒の写真はかなり気に入っているのであるが当時持ち歩いていたカメラは出たばかりのオリンパスペンデジタルである。おそらくそれで撮影したのであろう。宿泊したところは何しろ長崎初体験であるから思案橋のそばのホテルであった。すぐそばに思案橋カメラと言う中古カメラ屋さんがあってそこにぶらりと入ったら店の親父さんが私を知っていたのでそこからまた楽しい中古カメラ談義になった。

長崎土産に買ったのは1番最初のモデルのコニカである。箱に入っているやつで今でも大切にしている。ありえないことと言うものの例えとして大昔には

長崎からおこわが来る

というのがあったが今ならそれは意味が変わって

長崎からコニカが来る
0114名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/03(木) 07:41:30.00ID:9j5YaZDQ0
そのカラーフィルムを現像してみたらちゃんと画像は現れた。スキャンしてみたらカラーバランスはもちろん現像の期限が切れてから30年以上経過しているのである。それをPhotoshopで補正して日本カメラのカラーページの原稿にしたらそれはそれなりに見える画像になったのである。

写っているのは老夫婦であってその2人が立っている背景からそこがすぐどこだかわかったのだ。Josef Sudek が生まれた街Kolin の中を広場の老夫婦の記念撮影であった。おばあさんのほうは派手な東ヨーロッパ製のワンピースを着て、おじいさんのほうは東ヨーロッパのこざっぱりした服装すなわち色がはっきりわからないズボンに地味な半袖シャツである。背筋を伸ばしてカメラをしっかりと見つめている。

その夫婦がいなくなってカメラがプラハの中古カメラ屋さんに持ち込まれたわけだ。ごく普通のチェコ市民のささやかな夏の休暇の記録は彼らにとっては見ることができなくてそれを1万キロ離れた極東住人の別の老人が見ていると言うのは何か意味があるのか意味がないのかわからない。

チェコプラハと言えば日本の映画監督Ozuが高く評価されている。毎年日本映画祭と言う特別なプログラムが街で1番有名な劇場Latermaで公開されるのである。私が体験したカメラの中に入っていたフイルムが過去の人々の存在感を浮上させると言うストーリーはもし小津監督が生きていれば面白いシナリオを書いたかもしれない。
0115名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/04(金) 06:10:44.29ID:SO4VrcuF0
1つの大企業のトップが新しい製品をトップ自身が宣伝すると言うのは実はあまりうまい手段では無いのである。だから専門の広告代理店に任せるのが良いのだけれどもしばらく前のニコンのトップが新しいデジタルカメラを発表したときのプレゼンなどもかわいそうだった。社長さんはおそらく何度も練習したのであろうがなれない結婚式の祝辞みたいになってしまったのはかわいそうなのである。

話を戻すと1番最初のiPhoneはいろいろ神話があって中国で作っているときにカメラテストで写したセルフポートレートの女子がそのまま消し忘れで製品に紛れ込んでしまってiPhoneの中国の女神みたいなことでブームになったのも記憶に新しい。あぁそうか皆さんは出てから10年経っているからそんなこと知らないよな。

最初のiPhoneのモデルはホワイトとブラックがあって私などはプロフェッショナルブラックを喜んで買ったのであるが今にして思うとホワイトがなかなか上品ですべすべした感じで存在感がある。それで手元にはオリジナルボックス入りのiPhoneが何台か並ぶようになった。フイルムカメラの場合はから家と言うのがあるがこちらの場合は、Wi-FiにつなげばそのままFacebookも見ることができるしeBayの入札だってできるのである。

操作がちょっとばかり遅いなどと言うのはそれはクラシックiPhoneの魅力と言うものだ。
0116名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/05(土) 07:11:16.31ID:de4lgcvy0
露出計のふたは空いているから、彼は撮影の前に露出を図った可能性がある。この時代のセレン式メーターは通常の室内の照明だったらちゃんとメーターの針が触れていたからである。装填してあったフィルムが感度100であったとしたらここの実際の露出は絞りF2でシャッター速度は50分の1秒か25分で1秒位のものだと思う。

以上が今まで私が長年この写真を見たときの印象であったのだが、今回新しい事実に気がついたのである。よく見ると彼はシャッターボタンを押していない。なんでそんなことが今まで気がつかなかったのかなと不思議に思った。そしてセルフタイマーのレバーの位置を見ると12時の方向よりもちょっとずれたところで写真がとられていることがわかる。これはコンタックスのセルフタイマーのシャッターが切れる瞬間のセルフタイマーレバーの角度なのである。

このことが私を非常に喜ばせたのである。言うまでもないことだがこれは小津安二郎の作品なのである。それもかなり優れたセルフポートレートであると言える。
セルフポートレートにセルフタイマーを使うと言うのは通常の記念撮影では当たり前のことであるがこのような鏡を使ってセルフポートレートでセルフタイマーを使うと言うのは小津安二郎はかなりのテクニシャンであると言うので改めて見直した。
0117名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/06(日) 06:44:58.40ID:rSGIwt0+0
それでニコンの会社は慌てて35ミリの自動焦点の引き伸ばし機を作ったのであるが結局トップクラスの引き伸ばし機の座を取ることができなかった。3月から始まるギャラリーバウハウスでの写真展の準備のためにスカイツリーのそばのダークルームで今作業をしているのであるが55年と言う年月を考えるとなかなか感慨深いものがある。

引き延ばしの時間のデータであるがこれは千差万別でここに書く必要もないのだけれども、23秒と言う露光時間でヴァリアブルフィルターが3.5で絞りがエフ8と言うのでドンピシャで良い調子にプリントを飛ばしていたのである。

ところが作業の後半になってからネガの濃さは同じなのにどういう理由か知らないけれども画面がかなり暗くなってしまった。つまり印画紙が真っ黒と言うわけである。半世紀やっていて不思議に思うのはネガの濃さと言うのは見た目だけではわからないと言うことを教えられたのである。

それでもフルタイムで5時間ダークルーム作業をしていてプリントしたのが40枚であった。単純に時速計算で考えると1時間に8枚プリントしているのであるからこれは世界記録ではないかと思う。
0118名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/07(月) 08:08:09.97ID:6FPR59vD0
我々が超望遠レンズを使う普通の目的と言うのはパースペクティブを指定した1種の圧縮効果でちょっと変わった画面構成をすると言う場合が多い。例えばチェコはプラハのカレル橋を超望遠レンズで撮影して、その前後に映り込んでいる橋も一緒にしていかにもモルダウ川が橋だらけであると言うような視神経のトリックを作成するときに使う。

しかしこの場合は全く違っていて単純に遠くの物をクローズアップして撮影すると言うかなり気のきかない撮影テクニックなのである。撮影のときの心得と言うのもこの辺であるがまず両足をしっかり地面に立てること。それとできればそこら辺にある建物に寄りかかるのは効果的である。

シュテファン大聖堂のトップを視神経で集中して見ておいて次の瞬間にカメラを構える。つまりタワーのトップと自分の目玉の間に邪魔者としてカメラが入ると言うような心持ちである。

このテクニックを使うと1000ミリレンズの狭いファインダーでタワーのトップを探し回る必要がないので非常に有効である。1000ミリレンズの場合はレンズの外側にライフルスコープのように見当をつけるデバイスが付いているからそれを使ってもよろしい。

撮影の瞬間には息を吸って止めるのであるがその止めた瞬間にシャッターを切ってはいけない。息を止めてゆっくりと吐き出す最初の4分の1秒位の短い時間にシャッターをリリースするとうまく撮影することができる。

奈良原一高さんはスペインの闘牛を1960年代にライフワークにしていてニッコールの350ミリを使っていた。彼の自慢話で自分は闘牛場でいつも1番長い望遠レンズを振り回しているカメラマンだったと言うフレーズがある。しかし私は奈良原一高さんの3倍の長さを振り回していたカメラマンであるからそこら辺がちょっと自慢である。IKKOさんの350ミリに対して私が使っていたのは正確には1050ミリのレンズなのだ。だから誤差なしで3倍の焦点距離と言うわけだ。
0119名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/08(火) 08:43:43.83ID:MOaYI12b0
同じ時代にイタリアはローマのレクタフレックスと言う会社がやはり3本ターレットの迅速にレンズ交換ができるカメラを開発販売している。こちらのほうは世界で62台しか作られなかった。そのうちの2台を私は所有している。つまりある意味で富の配分が不均衡に行われている事の良い例であると思う。しかしこちらの3本ターレット式のレクタフレックスはアクセサリーではなくて最初から特殊モデルと言う意味で問題が多い。

ライツの3本タレとアクセサリーの場合はそのアクセサリーがすべてのライカのエムモデルに装着可能である。当初はライカM2とM3だけと言うことになっていたけれども私が実際にテストした関係ではエム4からエム42そしてライカのエム6までつくのだ。ライカエム6ー2になってライカの会社はダイキャストのサイズを変えてしまったのでつかなくなった。それにしてもライカの考えているアクセサリーの互換性と言うことからするとすばらしいと思う。

使えるレンズはライカのスクリューマウントでレンズの後があまり飛び出していないものに限る。当時のインストラクションでライツの会社は細かいリストを出していて1部の使えるレンズでも機能的に当たるところがあるからそれは工場に送ってサービスを受けるようにとサジェスチョンしている。

長年この面白いアクセサリーを使ってきた私の経験からすれば、レンズを3本つけると取り回しが大変で実際には使いにくいからこのようにレンズは2本で留めておくというのが重要なポイントである。それともう一つは21ミリクラスのレンズはレンズの後ろが出っ張っているからつけることができない。それを避けるためにマウントアダプターでレトロフォーカスの21ミリをまず装着してそれをターレット本体にねじ込むと言うやり方がある。

Orolf これがこのレアな付属品のコードの名前である。
0120名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/09(水) 05:51:44.78ID:f+uefUZ70
マンハッタンに暮らした私の感覚からしてもニューヨークと言うのはちゃんとしたParkがない街である。Battery Parkからワシントンスクエアパークの間にまともな公園は1つもない。それで100数十年前にニューヨーク州はこれはまずいと言うのでセントラルパークを作ったのである。

ご承知のようにマジャール人は日本人と同じように苗字が先で名前が後に来る。だからアンドレ・ケルテスではなくてケルテスアンドレになるわけだ。70年代に映画の仕事をしていた時に映画カメラマンでハンガリー出身の人がいた。その名前をAtira Szavo と言うのであるがこれは西洋的な言い方でファーストネームが先に出てくるから正式な名前は入れ替えなければならないと言う話を撮影の合間にしてお互いに極東から来た人間であるなというので笑やったことがある。

もう一つマジャール人には我々極東人と同じように生まれた時に幼児のお尻に蒙古斑があると言う話にもなった。ところが東洋人のルーツである我々に果たしてそれがあったのかと言うことに関してはあまりにも昔であるからわからないと言うので大笑いになった。

そういう意味で私はアンドレ・ケルテスとかロバートキャパに対して人種的な近親姦を持っていると言うわけなのだ。
0121名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/10(木) 11:20:42.27ID:U+Xd+BPx0
プラハで面白いのはイタリアあたりの安いワインが入ってきてこれが例の最近登場した捻って開けるタイプのワインなのである。ところが皮肉なもので同じEU圏であるとは言いながらイタリアからプラハに輸入されるワインは高い。それで私が飲んでいるチェコ製のワインは安い。何かプラハのコンシューマーからすると捻って開けるワインの方がトラッドな栓抜きで開けるワインよりも価格からするとプラハでは割高になるので何かそちらの方が高級ワインであると言うような錯覚がはびこっていなければ良いと思う。

それで友達からもらった1本の赤ワインであるが捻って開けようと思ったらそうではなくトラッドな栓抜きで開けるやつだった。カベルネ・ソーヴィニヨンだから当然だ。プレミエとかグランクリュとか言っていたのは大昔の話で今は何でもありがたい。

それで栓抜きをキッチンから持ってきた。30年前にルフトハンザの仕事をやっていた頃に広報の人からもらった栓抜きであるがこれが非常に使いやすい。ギャレーでどんな乱気流であっても簡単に開くような構造になっている。さすがプロの道具だと思う。

ヨーロッパに住んでいた時に友人に招かれた時などは必ず1本の赤ワインを持参したものであった。そういう良き腐臭(風習に直す)と言うのも思い出したのである。
0122名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/12(土) 06:25:04.11ID:nrki0DQ90
私がめかすにあったのは彼が還暦の頃の話なのである。

リトアニアとニューヨークでジョナスめかすの大規模な展覧会が開かれている。出雲の小池さんは東京で開催されている潮田さんのマイハズバンドの写真展に行けないのでそのかわり写真集を買ったそうである。私もその真似をして展覧会のカタログをアマゾンに注文した。

表紙を見て面白いと思うのは還暦頃のジョナスめかすが大きなフイルムの缶を両手に持っていることだ。20世紀のフィルムアーティストはなかなかカッコ良い。今のYouTubeバーではマイクロエスディーを手に持ってポーズをとっても小さすぎて見えないからだ。

ところで1973年のオーストリアフィルムミュージアムのめかすの仕事の上映の時の逸話だが彼の映画の中でフィルムミュージアムのエントランスの宮殿の階段が一瞬映るのである。会場に共感の笑のどよめきが起こった。いわゆるご当地主義と言うわけで盛り上がったわけであるが私はジョナスめかすはウィーンに来なくて良かったと深く共感したのである。
0124名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/14(月) 10:19:00.03ID:1SSRMzFU0
二子玉川の駅の近くにライカジャパンの支店ができたときアサヒカメラの取材で出かけていった。アルバイトの高校生みたいな店員が、ずいぶんきれいにぬれましたねと言うのでそれ以来ライカジャパンが本格的に嫌いになった私だった。

右にあるのがライカに付けたコラプシブルエルマー90ミリである。当時のライズのカタログによれば短くした場合はそのままエバレディケースに格納できると書いてある。要するに携帯性が大事と言うことなのであるが、当時木村伊兵衛が有名な女優をスナップしているところの写真が残っていてそれを見ると木村伊兵衛はちゃんと90ミリのコラプシブルレンズをエバレディケースに入れているのだ。ここら辺が紳士のたしなみと言うやつだな。

ところでジェントルマンでない私のたしなみと言うのは、ハノイで撮影で金庫からこのレアなライカを持ち出してケースに入れたままいざ取ろうと思ってフロントのフラップを開けたらそこに90ミリのこのレンズがコラプシブルな状態でついていたのである。自分は12ミリの広角レンズが入っていると思ったので視神経が混乱したのである。

しかしまぁそれはそれで良いと言うので自分の視神経を12ミリから90ミリに切り替えて撮影をスタートしたらそれはそれなりにいい感じに撮影ができて今日の撮影の調子はいいぞと喜んでいた。ところが何か様子が変なので調べてみるとライカM3にまだフィルムが装填してなかった。

ライカ使って50年以上だがそういう人には言えない秘密も結構あるのだ。
0125名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/15(火) 06:19:26.13ID:QVQnP5oy0
朝日新聞の元ジュネーブ支局長の柳沢さんはお酒はいけない方なので大昔アルパ研究会をやっていた頃に何度か珍しいスイス製のワインを頂戴した。アルパと言うカメラはスイス製であるからそれに対してスイス製のワインと言うのは非常にコンビネーションがよろしい。

さらに感心したのはこのスイスと言うところはワインができる北限であろうがそのワインの味が結構ドライで素晴らしかった。私はスイスのワインは知らないがベルギーを取材でずっと旅行した時にベルギーの南部のHuiと言う小さな村がワイン生産の北限であると言うことを聞いてここのワインもなかなか辛くてよかった。

しかし辛いワインがいいというの私の単純な思い込みであって、1976年にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展示会のディレクターだったDr Otto Breichaの場合かなりのワイン通なのであるが、どこからか探してきた私が味わった中で世界で1番辛口のワインと言うのをオープニングレセプションのワインとして提供したのはまずかった。あまりにも辛いのでレセプションに来た皆さんの会話が回転しないほどの辛さなのである。その名前を確か
Ur Udoler
といったと思う。
0126名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/16(水) 05:40:31.92ID:h8OB/3GY0
だから60年代後半の私の東京のスナップショットと言うのはほとんどがモノクロームの映画用フィルムで撮影されたものだ。モノクロの映画用フィルムが魅力的なのはパーフォレーションの穴の形がスチールカメラ用のフィルムのパーフォレーションは四角いのに対してムービーカメラ用のパーフォレーションは米俵のような形をしているのである。

それでライカの古いカメラボディーで撮影したりするとフィルムがアパラチアゲートに十分に押し込まれていないことからパーフォレーションの1部が画面に切り込んで映るのである。これにはしびれました。なぜその闇に魅力を感じたのかと言うとその闇と言うのは写真を撮られた瞬間に記録されたパーフォレーションが作った闇であるからだ。

要するに画面の下のほうにパーフォレーションの影が映るのでロバートフランクの作品などでやはり戦争直後の写真等はパーフォレーションが写っているのである。本末転倒であるがフランクの写真が良いとか悪いとか言う以前にパーフォレーションの影が写っているのがかっこいいと思うようになった。

ロバートフランクがそのような映画用フィルムを使ったのは単純な理由であってお金がなかったからなのである。グッゲンハイムフェローシップをとってからは彼もちゃんと普通のスーパーエックスのスチールカメラ用フィルムをかえるようになった。

パーフォレーションが画面の下のほうに映るのであってこれを何と言うのか分からなかったが仲間内ではアンダーパーフォレーションと呼んでいた。しかし本当はなんと言っていいのかわからないので銀座の富士フォトサロンで写真展を私がやっている時ネイティブスピーカーの写真に興味がありそうな外人さんが来たので私の写真を見せてこれを英語でなんて言う?と聞いたら彼はかなり考えてそういう言葉は存在しないと思うけれどもあえてそれを説明するなら

アンダーパーフォレーションエフェクツ

と教えてくれたのである。日本市場で35ミリのモノクロフィルムがまた高くなったのでニューヨークからこのフィルムを取り寄せようと考えている。250ドル位の値段で400フィート巻である。すなわち75本から80本の36枚撮りフイルムが取れると言うことになる。
0127名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/16(水) 22:50:11.08ID:h8OB/3GY0
初期のデジタルカメラは2 GBよりかは大きい容量は認識しないとかいろいろ面倒なことがあった。このカメラは2009年の登場であるから2 GBは認識しないのではないかと思ってそれでもテストだと思って16 GBを入れてみたら9999+と言うカウンターになったのでびっくりした。

要するにサイズは1番小さくしておいて画質がノーマルそれで3対2のアスペクトレシオにするとそんな膨大な数字になるのである。こうなるとメモリーは空気みたいなものだからいくらでもとれると言うので最初は安心していたのであるが、冷静に考えてみると盲女峰下手な鉄砲を無限に売ってもそこで得られるものというのはたかが知れている。

それでこれからどうしようかと考えているのである。
0128名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/17(木) 06:02:36.79ID:jU3M9LXO0
ところでPaneraiには思い出があって、四半世紀前に何かのようでフィレンツェに行った時にライカM3を中心部のカメラ屋さんで買ってドームの前に出たら目の前にPaneraiの本社があったので飛び込み取材をしたのである。当時私はモノマガジンで連載をやっていた。

Paneraiではいきなり変な東洋人が来たので怪しんで広報のミラノに電話して変な奴がきたけど入れて良いかと聞いていたようである。何しろイタリア語だから想像上だけどそんな感じであった。それで取材がオーケーと言うことになっていろいろなものを見せてもらった。そのストーリーをモノマガジンに書いたらPaneraiの日本の広報の方からお礼のメールが来た。これからは段取りをつけますからいらっしゃる前にはちゃんと連絡してくださいとの事だった。

ところでやたらでっかい時計というのが流行になってすでに4半世紀が経過している。でも私はPaneraiの1.5倍位のサイズの腕時計を持っている。これはソ連軍の水中作業班が使うミリタリーウォッチなのである。この時計の2倍のサイズではない。せいぜい1.5倍なのである。2xと言うとまさに目覚まし時計が腕についているようなもので変なことになる。

アメリカの時計屋さんから同じものを2つ買ったので1つは時計ファンの東儀秀樹さんに差し上げたら喜んでくれた。しかしでっかい腕時計にも限界と言うものがあるのだな。
0129名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/18(金) 05:39:07.38ID:Hs9mmdyb0
さすがこういうウインドウディスプレイはちょっとやそっとのことでは破られないようになっているのがすごいと感心したのである。要するに荒っぽい仕事と言うやつであって真夜中に鉄の棒か何かで殴ったのだけど強化ガラスはそんなの全然受け付けなかったと言うわけだ。

荒っぽい強盗が仕事に失敗してそのままに放置されているようで外見からするとかなり時間が経過しているようだが逆に本物の強盗が失敗してこうなったと言うのを店の自慢にしているのではないかと私は邪推した。それならばそれで大変な効果があると思う。

それでレマン湖の湖の中心に近い桟橋を歩いていたら顔見知りの人に出会ったのである。帰ってきた酔っ払いで有名なあの時計の方でも有名な人であった。寒い1月のジュネーブの朝に適当な会話は無いのでどうですか?と聞いたら帰ってきた酔っ払いさんは、昨日ジュネーブに到着した直後にスリにやられましてクレジットカードから財布から何から全部取られましたと言うネガティブな挨拶なのでこちらもがっかり力を落とした。

ジュネーブと言う街は表面的には華やかなのかもしれないがその反対のネガティブイメージを5分もたたないうちに2つ体験したのでジュネーブは怖いスイスは怖いと思った。
0130名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/19(土) 11:41:18.54ID:vOLlyss60
それより20年以上前の事ホテルインターナショナルのスターリン建築を撮影したくてプラハのピーに頼んで車で遥か北側の丘の上に連れて行ってもらった。そこから見るとなかなかの風景であってメインのモチーフがスターリン建築でその南の地平線にプラハの旧市街がしんきろうのように浮かび上がってくるのである。これはいい写真が撮れてどっかに発表したのであるがどこだったかな?

今ではスイスで活躍しているバイオリニストのお嬢さんであるUraがまだ小さな頃だからかなり昔の話だ。

ホテルインターナショナルは別の資本に買収されて西側の名前がついてある時プラハのアトリエから見てびっくりしたのはそれまで赤かった星がグリーンの星になっていることだ。しかしその後不況が押し寄せてきたのか私が最後にプラハのアトリエに行った67年前には電気の節約のせいであろうか星のライトは消されていた。

思えば私のプラハのアトリエの30数年はなかなかのドラマチックな時代であってアトリエのすぐそばにソ連文化局の施設があった。ある日の夕方その前を通ったらもう不要になったソ連文化局の共産主義を象徴するくさかりがまとトンカチのデコレーションのモチーフが捨てられていたので、それをアトリエに持ち帰って部屋にセットアップしてしばらく楽しんでいたこともあった。ソ連中でレーニンの銅像が次々と家壊されていたときのことである。
0131名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/22(火) 11:20:39.26ID:tpfZIycp0
あれから時間が30年近く経過してフィルムライカは人気であるがデジタルカメラのトップのクラスのカメラはデザインは全然だめだ。そういうことを打開しようと思ってバックヤードの発明家連中がライカM3の皮を被ったデジタルカメラなどを作るのであろう。しかしこれも1時の気の迷いと言うものであって本当に満足できるものではない。

デジカメで満足しようとするのなら1,000,000円を超えるライカのデジタルエム型モデルを買ったほうがはるかに利口だと思う。もう一方で何とかスワップと言うクラシックなフイルムカメラのバックを交換してそこに大仰なアダプターとiPhoneをつけてとりあえずクラシックフィルムカメラでiPhoneの画像が撮れると言うのも何やら悲しい感じがするけれどもそれもこれもみんな今のデジタルカメラが高性能すぎてあまりにもデザインのレベルが低いと言う証明になっているとしたらまたこれは大変なことだ。
0132名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/23(水) 06:09:58.12ID:lK5fE0zx0
40年前の島尾夫妻の生活を見てまた私がうらやましいと思ったのは、彼らの生活スタイルがベトナムの難民みたいだなと言うことであった。これは差別と言うのではなくてその逆なのである。生活が自由であると言うことを羨ましく思ったのだ。20年ほど前にハノイでホーチミンルートを動かしていた当時の青年将校インタビューする機会があってその家が、ハノイの西洋館であったのだ。それで建物の1階がきちんと洗い場で2fでくつろいだのであるがそこの居心地の良さの記憶というのがまさに豪徳寺の島尾の椿さんの家の西洋館なのである。

島尾の家に行って面白かったのは戦前の西洋館であるから真夏は窓を開け放していてそこでアジアの高温多湿でじっくり汗をかきながらくつろいでいる島尾を見てこいつはヤポネシアの住人だなと思ったことだ。
こちらはにわかづくりのウィーンもどきだから暑くてたまらないのだ。
0133名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/25(金) 22:00:53.48ID:eSof4vD20
かなり凝った構造のレンジファインダと言うわけなのだが手に入れた時からファインダーはブラックアウトしていた。別にそのファインダーを掃除しようと言う気もないからそのまま30年経過してしまってこの間のワークショップのときには、いつもの私独特のテクニック、つまり脳ファインダーで撮影したのである。

50ミリレンズをノーファインダーで撮影するというのは別に勇気の要ることでもなんでもなくて、中途半端な感じで画面を構成しようと言う続伸が最初からないからそのほうがいいかもしれない。ワークショップで20枚近く撮影してさっき午後の光が綺麗なので隅田川をちょっとうろうろしてずいぶん写真を撮影したがまだ数枚フイルムが残っている。

それでまだ現像していないのであるがこういうのがデジタルカメラではなくてフイルムカメラの楽しさと言うわけだ。
0134名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/26(土) 06:32:15.63ID:A/z+lFKQ0
このフェドシベリアであるがいかにもありそうな感じがするのだけれども実際には割と最近オーバーサイズのパーツを作って後から付けたサモワールライカと言うわけだ。それの元祖と言うのは朝鮮戦争の頃に軍用カメラとしてアメリカ軍の指名を受けたカードンライカコピーである。これはもともと非常に寒い朝鮮半島の撮影と言うことを想定してつくられたカメラであった。

それで巻き上げがオーバーサイズになっていたり暑い手袋をはめたままでも操作できるように底蓋開閉器がスプリングでいつもちょっと浮き上がった状態になっているのである。そういう非常に寒い地域で使うカメラと言う想定でこのサモワールライカは作られたようである。

もともとのフィードカメラはその価格が25ドル位であったのが、このようにシベリア向きに改造されたのは250ドル位で流通していたからかなりのマネーゲームになったものと見える。でも最近はすっかり見なくなった。
0135名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/27(日) 06:16:32.52ID:/BIy1ub80
ハッセルブラッドを使う撮影で1階のフィルム本数と言うのは大体20本から30本である。マガジンは2本しかないから、カメラマンの撮影の進行を見ながら常に手元に1つだけあるフィルムをすぐ使える状態にしておかなければならない。それと撮影本数だけではなく撮影の順番もメモしておかなければならないから結構慣れるは何と言うことがないけれども面倒な仕事である。でもそれを3年間やるとオートマティックにフイルム装填がこなせるようになった。

15年位前だと思うがビクターハッセルブラッド生誕100年と言うので日本カメラの取材でスウェーデンのゲーテブログに招待されたことがあった。それに合わせてハッセルブラッドのムックを1冊作るのでカメラは何を持っていこうかと考えた。一番最初の1600fだと故障が怖いからその次のハッセルブラッド1000fにした。3月とは言え港の水が全部凍り付いている街を歩きながらたくさんの写真を撮影した。その時に別にフイルム交換で苦労したと言う記憶は無いから私は12枚撮影ごとにフィルムをオートマチックに交換していたのであろう。
0136名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/02/28(月) 05:37:00.33ID:NqolJvIh0
Vitessaがユニークな点は非常にコンパクトに折りたためるカメラでありながらカメラ本体の上に突き出した|を一気に押し込むとこれでフイルムとシャッターチャージができるのである。北斗レンダーの会社にはかなり天才がいたものと見える。1950年代でこのカメラはアメリカで非常に人気だった。その後日本製のデザインとしてはつまらないカメラがどんどん入ってきてフォクトレンダーを駆逐してしまうのは実に恐ろしいことだと思う。

1990年代に信州中野のカメラメーカーがこのブランドの使用権を得て我々は一般的にこれをコシナレンダーと呼んでいるわけである。そのコシナレンダーの小林さんの仕事をお手伝いしたときに開口一番このカメラが好きですかと聞いたら大嫌いですというのがお答えであった。曲がりなりにも自社製ブランドの北斗レンダーと言うわけだからこれは小林さんもちょっと気が緩んで本気を言ってしまったのかなと後で考えた。

しかし小林さんがおっしゃる事は正論なのであって1990年代の日本でこれだけ手の込んだコストの高い儲からないカメラを作るのは全く正常でないばかりかまず日本のカメラメーカーの技術としてこれだけのカメラを作る事はもうできないのだということが私なりに理解されてがっかりしたのである。でもそういうことを考えるとクラシックなフィルムカメラの魅力と言うのがますますキラキラ輝いて見えるのは言うまでもない。

このカメラは10年近く前にガラクタ屋さんで手に入れた。5000円しなかったと思うけれども安い買い物だったと思う。
0137名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/01(火) 06:19:28.66ID:q+2mtd850
家人が芸大で最初に下宿していたのが目白の親戚の家であってその家の近くに徳川家の子孫のお屋敷があった。目白界隈では徳川様のMasako様と呼ばれて尊敬されていたようである。そこのお雛様がなかなかすごいもので幕府出身の雛人形であるからゆかしく立派なのは当然のことであるが、このお雛様がシュールレアリズムなのは全部が犬の顔なのである。だから周囲の人は徳川様のお犬様と呼んでいたそうだ。

その徳川様の家は時代が時代であるから下宿業などを営んでいて、その下宿人の1人が私が日大芸術学部の大教室で芸術心理学を教わった桜林先生であった。声の小さい存在のはっきりしない大学の先生であって大教室でぼそぼそ講義をするので学生は勝手にそれを聞かずに騒いでいたのである。写真で言えばちょうどプロボークの時代だから何を言っているんだと言う印象を私も持っていた。

50年前家人と知り合った時になんとなく徳川様の話になったらその下宿人の桜林先生は東京芸大でも講義をしていると言うので狭い世界だなと感心したのであった。なんでも桜林先生は徳川様のMasako様に思いを寄せていたと言う話があってここら辺はなかなか明治文学めいていて良いと思う。

毎年桃の節句になるとそのことを思い出す。
0138名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/02(水) 05:49:11.84ID:eAg992Kl0
昭和30年代に文京区のお父兄少年時代を過ごした私は祖母が信心深いので深川の不動さまにお参りすると言うので連れて行ってもらったことがよくあった。音羽の南の果ての江戸川橋の電車の停留所から九段下を通過して大手町から呉服橋日本橋を経由して永代橋を渡って深川の大不動様と言うコースである。

少年の私にとって何か空恐ろしい感じがしたのはこの永代橋を渡るときの路面電車の橋を渡る時の響き渡る音であった。これから別の世界に入っていくぞと言うようなアラートに聞こえたのである。つまり永代橋を区界として音羽の自分の現実世界と深川のもう一つの世界の分水れいがまさに永代橋であった。

そういうランドマークを毎日見ていると言うのも何か痛快なものだと思う。
0139名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/03(木) 04:35:32.41ID:X1x4E9FY0
ブルックリンブリッジウォーカーエバンスが26歳の時に撮影したのが名作と言うことになっているが若き写真家ウォーカーエバンスもなかなかアングルに苦労したと思う。私もそれを真似して撮影したのだがうまく撮影ができなかった。自由の女神に至ってはツーリストが何億枚の写真を撮ったであろうが成功したものは行ってもない。

この写真家が撮影した自由の女神は何が良いかと言うと非常にロングショットで撮影されていると言うことである。この人のカメラアングルは他にもいいのがあってブルックリンブリッジから手前に巨大な建物と煙突のような建築物を映してその多くにわずかにEmpire State Buildingが写っているやつもあるこれもなかなかよろしい。

私がびっくりしたのはこの写真家は若い子神経を持っている人だと思っていたらこの撮影は5年前にご自身の70歳の誕生日の記念にニューヨークに行って1ヵ月そこを撮影したと言うのでびっくりしたのである。要するに視神経が若いと言う事は非常に大事なことであるわけだ。
0140名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/04(金) 06:28:12.00ID:SSmJNuev0
夕方カテドラルとか街並みを撮影したが恐ろしい湿度で日本よりすごいなと思った。翌日は車をチャーターして西にかなり離れた所のヘレスのお酒の工場を取材に行った。そのチェリーの酒蔵の名物は白ねずみさんであって雑誌のお約束だからそのポートレートもちゃんと撮影した。舞台に小さな梯子がかけてあってハリネズミさんはそこに走ってきて舞台の上に登ってシェリーワインを飲む。

シェリー工場の土産に上等のシェリーワインをもらってきたが旅の初めにこういうお土産は迷惑なのである。ホテルの部屋で掃除に来たメイドさんにあげることにしたらメイドさんが言うには自分が部屋から盗んだものと思われるのは困るから一筆書いてくれと言うのである。それでホテルの便箋に英語で私田中長徳はここにシェリー酒2本をカルメンなんとかさんに寄贈するものであります。年月日サイン。

これが旅のスタートであってそのあと1ヵ月半に及ぶスペイン行ったり来たりの旅が始まるのであるが、このホテルの印象が強いので他の事はすっかり忘れてしまっている。
0141名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/05(土) 19:51:05.68ID:lfMdCGwb0
写真の表現する目的と方法論であるがこの第3信号型と言う言葉を最初に発明したのはShimao Shinzoであって1980年頃の話だ。視神経の信号型の話は何度も書いているから国では繰り返さないけれど、第一新生形と言うのは新聞写真等に出てくる単にそこに写っている者の属性をダイレクトに伝達する写真。第二信号頃の写真と言うのは報道写真からポルノグラフィーまでありとあらゆる商業目的に奉仕している写真のことである。第三信号型の写真と言うのはそれ以外の本来の写真の自立した自己の表現を目的として進んでいく写真のことを言うのである。

このテスト印刷の大きな紙を見て私が非常に面白く思ったのは、画面のそれぞれの写真のサイズは非常に小さいのだけれどそれぞれの写真がどの写真であるかと言うことを私は認識することができる。つまりここでは視神経の第一信号系統が生きているわけだ。

そしてそれぞれの写真の複製の1枚のイメージを見たときそれをクローズアップすればそこに第3信号系統の視神経の刺激が生まれてくると言うわけである。
0142名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/06(日) 08:27:01.04ID:OiqFaZEz0
それで当時1万3500円のこのファインダーを変えると言う人は本当に1部のお金持ちであったのだろうか?このファインダーのシステムと言うのはなかなか凝っていて2つの対物レンズの1つが50ミリと35ミリであってもう一つは50ミリから135ミリの視野を示すのである。カールツアイスのファインダーはご本の対物レンズがタブレット式になっていて28ミリから135ミリまで使える。

ライカのユニバーサルファインダーは35ミリから135ミリである。ところがこのキャノンのファインダーは変倍色でなおかつターゲットになっているところがゴージャスである。ゴージャスであるから非常に大柄であってしかも重さがすごい。当時この高級ファインダーを手にした人はそのずっしり感に満足していたのであろう。

私もその1人であってこのファインダーをいろいろなカメラのトップにつけて感心しているだけで実際の私の撮影はファインダーは使わないのが流儀であるから落とすこともないし傷がつくこともないと言うファインダーコレクターとしては理想の環境と言うわけだ。
0143名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/07(月) 08:33:28.27ID:FYAQAfzA0
センサーが高い頃の話であるから、計画フルサイズの画面の真ん中のその1部のほんとに狭い部分しか画像を記録することができなくて、いってみれば良の穴から天井の足みたいなことになってしまうと言う説明だった。

こういう複合型の映像デバイスで思い出すのは60年位前にまだインターネットが登場する以前の話であるが報道関係の現場でニコンエフで撮影した画像をカメラの後につけた拡大焼き付けデバイスみたいなものでポラロイドフィルムで複写するのである。フィルム感度はかなり落ちるのであるがそれを現場でそのままデンソー写真で送ると言う報道の最前線で活躍した非常に高い付属品があった。

その名前をスピードMagnyと言うのである。カメラアートと言う当時の日本で発行されていた英文雑誌に広告が出ていてプロフェッショナルの報道関係では結構売れたようである。

デジスワップはクラウドファンディングで進行しているようである。199ドルがデバイスの値段で49ドルがソフトウェアと言うから心配なのはお金持ちが興味を示さないと言うことだ。これの10倍位の値段にすれば売れると思うのにね。
0144名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/08(火) 05:53:25.39ID:hO7sva360
手前にある小さなプリントがそれなのであるが何を私が思い出したかと言うとちょうど40年前に私がお世話になった細江英公先生が提唱していたミニグラフのことを記憶から浮かび上がらせたのである。細江先生によれば自分のプリントはもう高価で誰でも手に入ると言う値段では無いからそこで一計を案じて小さな小さなプリントを作ってそれにサインしたものを誰でも手に入るような数千円で販売すると言うアイディアがあった。その話を聞いたのは先生の四谷のスタジオであったかそれとも日本橋の三越の向かいにあった当時のZeit Foto Salonだったのか記憶に確かでは無いのだが。

世界的に有名な写真家の先生であるから、フルサイズのオリジナルプリントのその1部と言うところに大写真家の精神が宿っていると言うのは確かに私も認めるわけであるが、テストピースの小さな印画紙の切れ端に大写真家のサインを入れてしまうというのはどうも理解できないところがある。

ダークルームの作業をしているときに偶然テストピースを見てそんな40年前の話を思い出したのである。細江先生は私を非常に評価してくださって銀座ニコンサロンで最初の個展が大学4年の時にできたのも先生のおかげだし、ニューヨーク近代美術館で1年間写真の研究に行けたのも先生のおかげなのである。
0145名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/09(水) 08:07:14.66ID:+92euvPW0
プラハにたくさんある路面電車のストップの数ある中で私が好きなのはプラハの北東部の丘の上にある停留所から見えるこの肉屋さんの風景である。最初に見た時はびっくりしたのである。要するにマニエリスムの本場のプラハならではの看板と言うわけだ。モノクロームでライカで撮影しているときにこの看板の下に老婦人が立っているというのが面白くてそれを一生懸命撮影したのであるが考えてみると別に看板の手前に人間が立っている必要は全くない。

数年前の雪晴れの午後に路面電車に乗っていて撮影したショットがこれである。光が綺麗なのでなかなか気に入っているのである。
0146名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/10(木) 09:43:51.81ID:w7wH40xB0
Exaktaと言うカメラは研究所とかラボラトリーではたくさん使われたのであろうが、写真家の愛用カメラと言うことで考えてみると1人しかいないのである。プラハ出身でマグナムで活躍しているヨセフクーデルカのみである。ヨセフクーデルカはこのカメラに25ミリの広角レンズをつけて1968年のプラハの街にソ連の戦車が入ってきたときの貴重なドキュメンタリーをたくさん撮影している。

同じ写真集で登場しているのは昨年コロナで80歳で亡くなった私の50年来の友人Pavel Vachaであるが彼が撮影したソ連軍のタンクとその周りのプラハ市民の群れの中に偶然ヨセフクーデルカがExaktaぶら下げててくるところが映っている。その偶然性が非常に興味があったので昨年11月号の新潮社が出している文芸雑誌にそのことを書いた。

このカメラのデザインはバロックをカメラデザインで具現化させたと言えるようなまさにドレスデンでデザインが作られたのにふさわしいと言うべき優れたカメラスタイリングなのである。ところがつい最近気がついたことなのだがeBayでいろいろこのカメラの付属品を見ていたらこんなおしゃれなアクセサリーファインダーに出会ったのである。

バロック様式の一眼レフだと思っていたのであるが、ファインダーをこの縞模様のやつに交換するとあら不思議いっきょに本格的アールデコのカメラ的存在になってしまう。こういうデザインをアイディアとして持っていると言う事は当時の東ドイツもなかなか捨てたものではないと思った。

それで買おうと思ったがファインダーのみの値段が100ユーロ以上するのである。要するに我々カメラ人類の足元を見られていると言うことなのでこれはまずいと言うことで買うのはやめました。
0147名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/11(金) 11:48:00.33ID:QSKfoPWl0
この時代のソ連製のレンズはその背景は今まで調べて結局わからなかったのであるが1958年のブリュッセルのエキスポで何かのグランプリを取ったと言うことらしい。それで特定のレンズには誇らしく1958ブリュッセルグランプリと言う刻印がついているのである。それでその時代の一眼レフは全部レンズマウントが39ミリのやつなのである。

面白いのはこのクリスタルカメラのファインダーの見え方であるが実にシャープでピントの頭が掴みやすい。西側のカメラはフレネルレンズでファインダーを明るくしているがソ連製のカメラはコンデンサーレンズを使っているので直感的な見え方はソ連製カメラの方が見やすいと私は思う。

グレーハンマー仕上げの外見は顕微鏡とかあるいはソ連製の16ミリ映画撮影機などにも使われているから特別珍しい仕上げと言うわけでは無いのだがなぜかstillカメラでは数が少ないと言うところがポイントである。もう一つ面白いのはトップカバーはグレーハンマー仕上げであるが、ボトムカバーは普通のクローム仕上げになっている。これと似たような仕上げ、つまりトップカバーとボトムカバーが違うスタイルの仕上げと言うカメラは他にもある。

スイス製のアルパカメラがそれだ。
0148名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/12(土) 06:24:19.22ID:hCp0ZdgT0
もともとライカであろうが一眼レフであろうがノーファインダーで撮影するというのが私の基本的スタンスなのでファインダーは使わないのだけれどもこのカメラシステムのウェストレベルファインダーには惚れ惚れするような魅力がある。

なかなか分かりづらいと思うけれどもファインダーをカバーして余計な光を取り込まないようにするための4枚の金属製の壁であるがそのうちの3枚は微妙な曲率でプレスされているのだ。こういうウェストレベルファインダーは見たことがなくて、コストを重要視する日本のメーカーだったら単なる平らな金属板にしておくはずである。ところがこのカメラの場合は上質なクロムメッキである上に微妙な曲率で金属板が曲げられていると言うところが魅力である。

Exaktaカメラと言うのはドレスデンで作られたバロック様式の一眼レフであると言うふうにいつも冗談めかして書いているのであるが、バロックの語源というのが歪んだ真珠と言うことである。その論理からするとこのウェストレベルファインダーのセクシーな存在感はまさに歪んだ真珠であるな。
0149名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/13(日) 06:26:57.17ID:SMnsW0zC0
ところで小津監督が使っていたカメラと言うのは今彼の記念館に保管されて見ることができるらしいがその写真がインターネットで画像を見ることができてそれを面白いと思ったのはコンタックスカメラにイニシャルが入っていることだ。普通ならイニシャルはOzuであるはずなのだがそのコンタックスの実機を見てびっくりしたのはAzuと記載されていたからだ。これはどういうことか考えてみたけど外国語で発音する時むしろ最初の母音はOからスタートするよりもAでスタートした方が音の印象としては小津に近いのではないかと思い当たったのである。

それでこの迅速巻き上げ装置なのであるが慣れてみるとジャストいっかいてんでフイルムが巻き上がると言うところが快適でなおかつ痛快である。マイナスポイントを考えればシャッターダイヤルのリリースの位置がかなり奥のほうに入ってしまっているから指を突っ込む必要がある。これはマイナスポイント。しかし間違えてシャッターを押してしまうと言うようなアクシデントは防ぐことができる。

2番目のラピッドワインダーをつけた問題点と言うのはシャッター速度のコントロールが見えにくくなると言うことである。ただ私の場合頻繁にシャッター速度を変更しているわけではなくいつも500分の1秒で撮影しているのだから最初にセットしてしまえば別にそれで問題が起きると言うわけでもない。

小津監督は明るさがエフ1.5のゾナーレンズを愛用したようだが私は暗いところで撮影しないので今ついているこのレンズはソ連製の印ダスター5センチef 2.8である。記録を調べるとキエフコンタックスマウント用のそういうレンズは製造されていないのである。だからこれはどっかの物好きがライカコピーのフェードカメラ付いていたインダスター50ミリをマウントを入れ替えたものではないかと考えているのだ。
0150名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/15(火) 07:30:00.24ID:/zDbCh+I0
1年間のマンハッタン滞在の半分はタイムズスクエアの近くの安ホテルに暮らしていた。それで後半は当時ブームがスタートしたSohoのロフトで暮らすようになった。絵描きのアトリエなので仕事に必要な引き伸ばし機はあったけどフイルムを現像するためのダークルームはなかった。巨大なロフトスペースであるからダークルームカーテンなどを使うわけにはいかない。それでフイルム現像に使ったのはバスルームなのである。ここだと完全に光が遮断できる。トイレの便器の上に現像バットを置いて6枚ずつ8 × 10インチのフイルム現像をした。

フイルム現像がほとんど終りの時間になっていきなりお兄さんと言う名前のブラックキャットがバスルームのドアを頭で押して入ってきた。慌てて外にブラックキャットを押し出したのであるが、現像が上がった8 × 10インチのネガフィルムに黒猫のシルエットが写っていたんですと言うと写真を知らない人はそれを真に受けるのである。

この立ち上がった立方体の不思議なオブジェは確か日系人アーティストの作品だと記憶している。それをデアドルフで撮影した私の三脚の立ち位置は間違いなくワールドトレードセンターの敷地内に立っているのだ。
0151名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/16(水) 19:34:33.97ID:V0L3Gp++0
マンハッタンで撮影した数多くの8 × 10インチの作品の中でほとんどの作品は都市構造の空間分析みたいなことをしていて空気感は最初から表現していない。その意味でセントラルパークの春のショットは私のマンハッタンの作品の中ではかなり珍しい空気感をテーマにした作品と言うことができる。

Central Park ゛ではいろいろ面白い出会いがあった。池のほとりの一本道を私が8 × 10インチのカメラを持って南方向に歩いていくとその道の北の方向から4 × 5インチのカメラを持ったニューヨーカーが歩いてきた。普通なら道を開ける開けないで喧嘩になるところだが写真家はそこら辺はジェントルマンであるからお互いにデアドルフカメラの話になった。

話をしてみるとその人はニューヨークカメラクラブの副会長をやっている人で、当時のニューヨークカメラクラブは23丁目にあった。私はアルフレッドスティグリッツの研究をしていたから彼が数年間出したクオータリーの写真芸術雑誌カメラノーツの話をしたら創刊号からニューヨークカメラクラブが全部保管していると言うのである。それでそのニューヨーカーと知り合いになっていろいろ教えてもらうことが多かった。
0152名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/17(木) 00:24:06.92ID:O19ySQir0
撮影は大掛かりであって、音羽通りに電源車が泊まってそこから長いケーブルを路地の奥にある木造2階建ての建物まで引っ張ってきて強力なライトが出た。撮影が終わってカメラアシスタントの人からフィルムの切れっ端をもらったのが嬉しくて仕方がなかった。それはいわゆる真っ黒なフィルムであっていわゆる簡易争点式のときのフイルムのリーダーとトレーラーなのである。

手回し式撮影機に私は夢を持ったので文明堂のカステラの発行で同じようなものを作ろうとしたがうまくいかなかった。フイルムのメカニズム関係がどうなっているのか全くわからなかったからである。今では四半世紀前にロンドンで手に入れたパルボ撮影機があるが相変わらずフイルム装填がむずかしくてよくわからない。

だから私の場合はカメラを持った男ではなくて、カメラに弄ばれている男と言うわけだ。
0153名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/18(金) 06:41:20.18ID:PVSxabU00
それとカメラデザインがちょっと見た印象がシュトゥットガルトのコンタックスに似ている点だ。カメラの1部だけ見てコンタックスだと思って手に取ってみるといいやつが35だったりするのも面白い。シュツットガルト製のコンタックスにしてもドレスデン製のコンタックスにしても、標準レンズで使えば良いのだがすぐに交換レンズをつけたがあったりするのが私の悪い癖である。

ところがレンズシャッター式のヤシカ35はレンズ交換ができないと言うところが素晴らしい。焦点距離は45ミリである。Neoka35についているレンズが45ミリの頭脳レンズと言うので1部の好事家がもてはやされているが、あれは単なる思い込みに過ぎない。映りは普通なのである。

日本カメラで連載記事を最後の直に書いていた当時話のネタにカメラエッセイを毎月内容書いて掲載していたのであるがその時にこのカメラで撮影した画像をアップしたのである。45ミリで撮影する東京の都市空間というのがなかなか魅力的に映っていた。もちろん私のカメラの腕が良いと言うのではない。カメラが良いのである。それとレンズもね。
0154名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/19(土) 09:51:01.32ID:iEqxMNrc0
マンハッタンのモダンフォトグラフィーのコレスポンデントを私はやっていてAmdyグラウンドバーグも何かそこで仕事をしていたので7番街のオフィスで会った時彼は私に8 × 10インチのコンタクトプリントの作品を見せてくれた。ニューイングランドを撮影したシリーズでなかなか良かった。当時写真部長だったジョンSzarkofskiはニューヨーク近代美術館に収蔵作品がにてんだけある。それも大型カメラの作品だがジョンよりもアンディの方が写真はずっとクラスが上であった。

コダックのブランドレンズには他にコマーシャルEktar 14inchがある。これも欲しいレンズだったが高くて手が出ない。1983年の夏に10日ほどメキシコシティーに行った時にそこら辺の泥棒市場で売っていたのでそれを手に入れた。値段は100ドルだった。当時のニューヨークでは1500ドルはするレンズなのである。

マンハッタンでの8 × 10インチの撮影ではもっぱらこの2つのレンズを利用した。14インチのほうは標準レンズであるから私にすると使い方が難しい。まだ地上に存在していたワールドトレードセンタービルを立て画面でライズをいっぱいにきかせて撮影したりした記憶がある。

ワイドフィールド190ミリは1948年に製造されたものだ。私より1階歳年下と言うわけだがレンズの寿命は長いね。
0155名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/20(日) 06:23:12.12ID:CGw+yO+v0
面白いのはアコーディオンを持った連中が、いきなり列車に乗ってきて頼んでもいないのに演奏をしてくれることだ。1日の最初に顔見知りの連中に会った時は小銭をあげるけれど私も電車を行ったり来たりしているので同じグループに午後早く会って夕方にもう一回会うと言うことがよくあった。あちらも私を顔見知りみたいにしているのでその場合は朝1階の小銭だけで勘弁してくれた。

1970年代のその頃にパリのメトロに名物のおじいさんがいてワンチャンを連れてメトロの乗り換え口のところで小銭をもらっているのである。このおじさんがなかなかフォトジェニックでその人の追っかけをやっていたこともあった。その写真はアサヒカメラの1970年代終わりの頃のページに掲載されている。

そのおじいさんの行動範囲は結構広いので、朝出かけるほうに今日はどちらあたりにいそうかなと言う予想を立てて出かけていく。完全に空振りになることもあるが私の予想通りの路線の予想通りの乗り換えの通路に入るとやたら嬉しかった。

ライカカメラのほかにKitai KazuoさんからもらったライツミノルタCLも使っていたこれは不思議なカメラで静電気の稲光エクレールがバリバリ発生するのである。画面の中に電気が走っていると言うのは面白い。

アサヒカメラに掲載した作品は私のアイディアで、メトロのパリとしたのであるが編集部は知的な人々であるからこれは、パリのメトロの間違いであろうと言うことでごく普通のタイトルになってしまったのが40年前とは言えいまだに残念である。
0156名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/21(月) 06:48:43.96ID:fJ1VPYqt0
第二次大戦の戦争写真家の英雄伝と言うことになるとまずロバートキャパであるが彼はDDの撮影では途中で気絶してしまったので50ミリしか使っていない。その当時の別の写真家のポートレートを見るとブラックコンタックスを使った写真家がいてこれは別にクラシックカメラでも何でもなくてたった10年前の新型のコンタックスなのである。

その写真家のスタイルがすごいなと思うのはちゃんと皮ケースに入れて使っていることでフラップを開けた革ケース+135ミリのゾナーレンズをつけていることだ。若い頃はそのカメラマンのカメラの使い方を見てなんか格好悪いなと思っていたのであるがじじいになってみるといかにも達人と言う感じがして尊敬できる。

ところでここでお見せするのが1960年代のコンタックスマウントのKomuraレンズ135ミリである。135ミリで明るさがエフ2.8と言うのはカールツアイスはついに作れる事はなかった。カールツアイスゾナーは135ミリF4である。

コンタックスに対抗するライカの場合135ミリef 2.8のエルマリーとがあった。それでもレンジファインダーの精度に問題があると言うので135ミリレンズにゴーグルがついて画像を拡大しているのである。

戦後の国産のレンズが戦前のブラックコンタックスに非常に似合うと言うので私は最近ニヤニヤしているのだ。
0157名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/22(火) 05:20:16.68ID:IcBKNofX0
11年前の撮影が忘れられないのは持参した白黒フィルムは11本だけであったと言うことだこれを

マンハッタンイレブン計画

と命名したのである。手元に残っていた数本のモノクロフィルムとヨドバシカメラで買ってきた3本パッケージのトライエックスフィルムを足したら11本になったと言うだけの話なのだ。しかしマンハッタンイレブンと言う名前をつけると何か強そうなサッカーチームのような感じもするからわざとそういう名前をつけたのである。しかし冷静に考えてみるとUnited Statesではフットボールが盛んだけどサッカーは盛んじゃないからちょっと時空間がずれていると言う事は否めない。

11本の持参フィルムだから撮影は3日位で終わりになった。フィルムがなくなったらそのプロジェクトはもう卒業と言うのは非常にわかりやすいから私は好きである。以前の仕事はそういうやり方で例えばヨーロッパに取材に行く時にフィルムを300本用意したら毎日の撮影の本数を按分するのである。それでフイルムが終わったらそのプロジェクトは完成と言うことになる。

これが理想的な撮影スタイルなのだが今はデジタルでやるとプロジェクトに終わりが見えないというのが大問題だな。
0158名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/23(水) 06:01:39.87ID:ceXMNGiP0
そのオリジナルのネガフィルムは私の不注意でどっかに行ってしまって今残っているのはこのスキャンデータだけなのである。そのスキャンデータは750 KBしかないと言うかなり脆弱な画像データであるのだが感心したのはそれから数年後にそのカメラ雑誌がこの写真そのものを表紙に使ったことであった。

現代の印刷技術がアートの領域に達しているなと言うことで非常に感心したのはその750 KBしかない情けないデータをさらにトリミングしてほとんどスクエアな感じにしてA4サイズの表紙に使ったのだから大変なことだと思う。実際に使われたデータは500 KBもなかったのではないか?

私がマンハッタンの風景として最も好きなのはこの街角コーナーにも写っているが例のゴミ箱なのである。それから新聞株の自動販売機もなかなか好きだ。この地域はもうクリーンになってしまったがエントランスにウイスキー飲みながらダラダラ座り込んでいるジャンキーのおっさんなどもいい感じであった。

ウォーカーエバンスは尊敬する写真家であるが彼が膨大に撮影したマンハッタンの風景の中で一番好きなのはゴミ箱の写真なのである。その影響力が非常に強いので今でも私は外国の街に行くとゴミ箱を撮影することが多い。それはその都会の個性であるからだ。日本の場合はゴミ箱撤去する運動が盛んすぎてとんでもない変な都市風景になっている。
0159名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/24(木) 07:09:56.90ID:BD7nl8zK0
古いライカM3にカールツアイスのBiogon 3.5センチをつけて撮影したのはこれはロバートフランクの真似なのである。ロバートフランクがこのレンズをつけていたと言うのはジャックケルアックが彼のポエムの中で書いている。ロバートフランク、、、Biogon持った男よ、、、と言うのである。

私は戦前に作られたこのレンズが大好きであって、別に西ドイツで作られた゛カールツアイスとか信州中野で作られたカールツアイスが偽物であるとは言わないけれども、オリジナルなレンズにはその最初の生産された地点の魂が宿っている事は否定できない。やはりJenaで作られたレンズが本物である。

それでこのレンズの特徴を非常によく表現している作例がこれなのである。ピントが深くてなおかつ非常にシャープである。観察していて面白いのはこういう一般的なギャラリーでそれを見ている客と言うのは全てが自分をトップクラスの美術評論家と勘違いしていることにある。

この自分が美術評論家であると言う勘違いは実はギャラリーにとっては非常に大切なことであってそれでないと経済が回らないのだ。
0160名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/25(金) 06:09:39.77ID:1bkq3Spo0
ガラクタ屋さんで夜しかジェーシリーズにブラック仕上げが存在することを知ったのはわりと最近のことだった。なんでもガラクタ屋さんの常連さんで以前ブラック仕上げのヤシカジェイスリーを持っていた人がいてその人はブラック仕上げのニコンエフではないと言うのでかなりカメラ差別をされたようなのである。そういうのはいけないよね。

例の黄色い値札には1500円と書いてあってその脇に×が付いていると言うのはこれは不動品であると言う意味なのである。そのつもりでテーブルの上の置物にしようと思って何度かシャッターを切っているうちに高速の方が動くようになった。

それで20年位前にアムステルダムで買ったのり太17ミリの広角レンズをつけたのである。のり太光学はOEMで外国にかなり売れていたようだが国内では誰も知る人がいないと言うメーカーだった。

坂崎幸之助さんとカメラの馬鹿話をしているときにのり太が話題になって彼が見せてくれたのは17ミリのレンズでそれはニコンエフマウントなのである。そこら辺が坂崎さんのレンズとカメラ角というのがかなり先進的であることがわかる。

20年ほど前にアムステルダムに行った時に私が探していたのはオールドデルフト製のレンズであった。フェルメールの光が映るのではないかなどと馬鹿を言って探しに行ったのだがオールドデルフトから直ぐ側のアムステルダムでもそのレンズは中古カメラ屋さんになくてその代わりと言うのも変だが17ミリの乗りたレンズがあったのでそれを持って帰ったわけである。

20年前の買い物と言ったけれども当時支払ったお金はギルダーであったからもうちょっと前かもしれません。
0161名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/26(土) 05:36:04.76ID:HSvfYWX+0
その女なしだるまの乗った上にチラリと見える小鳥が飛んでいる小さな箱というのが、ライカインコの4世が家に来たときにこの中に入ってきたのである。そのライカインコがなくなってペットロスにやられていた2009年の夏に、デジタルカメラマガジンの編集部を経由してデータばかりの辺デジタルのムックを作る仕事が来たのである。

つまり私にとってPenデジタルと言うのは単なる新型カメラと言うよりもペットロスを救ってくれた恩人と言うわけだ。

゛一番最初の白いペンデジタルは今でも何の不便もなく使っている。デジタルカメラと言うものは大体12年から15年位古いやつが1番使いやすいと言うデジタルカメラの真実に最近気がついたわけだ。横浜のCP何とかと言う馬鹿祭りを追いかけているような皆さんはまだデジタルカメラの初心者です。

20年前にデジタルカメラマガジンができたときの創刊号で私が書いたのは以下のようなフレーズだった。

果たして将来我々はクラシックデジタルカメラが登場する時代に遭遇するのであろうか?〜〜〜〜〜田中長徳デジカメ風雲帳より

あれからあっという間に20年が経過して我々はクラシックデジタルカメラを楽しむ時代に生きていられる幸せがある。
0162名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/27(日) 06:02:32.91ID:zVfoInAi0
そういう時代交渉から考えてみるとウィーンの旧市街中心部グラーベンで撮影されたこの車はどう見ても1910年代から20年代ではないかと思う。面白いのは今では歩行者天国になって一般の車は通行できないのであるが、当時は車の通行は自由であるが車の数が少なかったから閑散としていると言うことなのであろう。

それより面白いのはグラーベン通りは東京の銀座通りみたいなものであるから私が長年住んでいたグラーベン通りのお店のことをよく覚えていてもちろん100数十年前のことであるからお店の意見はかなりあると思うけれども、画面の真ん中の左側にあるローゼンタールと言うお店は今でも存在している。

100数十年前のカラー写真が今でもちゃんと残っていてその時代の様子とか空気感がわかると言うのは素晴らしい。それに比べて最近のコンピューター合成によるモノクロームからカラーをインチキな色で立ち上げると言うのはどうも感心しないな。
0163名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/28(月) 05:59:54.60ID:kknUo/Qq0
家人は真面目な勉強家であるから3年ほどでウィーン音楽大学を優秀な成績かどうかは知らないけれどもとりあえず卒業したのだ。私はウィーン路上スナップショット自由大学の方があってそれが忙しいのでwinの街を縦横に歩きまわっていたと言う経歴がある。その私の経歴が買われてザルツブルグカレッジに呼ばれてMITの学生などにストリートスナップショットを教えたと言うのも不思議な展開であった。

最初の個展の案内状はいろいろな反響があったようでちょうどその年の秋に東京芸術大学の芸術祭のカタログを見てびっくり仰天。私の個展の案内には結構シニカルな感じで

あなたもトライエックスですか?

と書き込んでいたのだがそれに対してカタログでそれの回答が書かれていたのである。もっともその時は特集が高梨さんであったから私などは高梨さんの勝手な弟子と考えているのでそのように引用してもらえたようでこれは嬉しかった。

考えてみれば最初に作った1969年の私のToday Tokyoの案内状の文字が赤いと言うことがそのまま50年連続してこの間出した最新刊の私の同じタイトルの写真集も表紙は赤なのである。
0164名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/29(火) 08:48:57.48ID:zVNyfjS00
カメラジャングルからウクライナ製コンタックスの革ケースが出ていたのでこれは懐かしいと思って開けてみたら中にはドイツ製のコンタックスが入っていたのでびっくりした。それで思い出したのであるがこのドイツ製コンタックスは数年前にギャラリーNiepsの年末の蚤の市で中藤さんから手に入れたものである。戦前のコンタックスであるから不良品が多いのであるがこの個体はちゃんと動く非常に優秀な状態である。

毎日ウィーンの街をライカを肩にかけてどこまでも歩いて行ったと言うのはある意味では正しいが本当はそうでは無い。しかしながらソ連製のライカをとか、ウクライナ製のコンタックスをと言うふうに書いてしまうと文脈がバラバラになってしまうのでそれらのカメラを代表してらいかを肩にかけてどこまでも歩くと言っているだけの話なのだ。

それにしても思うのは当時のドイツ製のコンタックスと言うのはまさに世界で最高の存在のカメラであって、さらに最新鋭の当時の技術であったセレン式電気メーターを内蔵するなどと言うのは極めて宇宙空間的な未来を目指すものであったと今更ながら思うのである。もっともオリジナルのコンタックスでもウクライナ製のコンタックスでもこの時代のものはすでに電気露出計は壊れているし私自身が人間電気露出計であるからそれは何の問題もない。

ウクライナ製コンタックスを手にするとウィーンの街角の記憶がそのままにリアルに浮上してくるのである。
0165名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/30(水) 06:34:41.64ID:gOCYyB3r0
友人スミスのような真面目なことジャーナリストはありとあらゆる状況に対応しようと言うことでこのようにたくさんのカメラを持っていくのであろう。しかし考えてみればこの世界を正しい現実として哲学的に記録するためには、レンズ交換のメカニズムライターさんみたいなたくさんの交換レンズは必要ない。

ウィリアムクラインも名作東京を撮影したときにはニコンのスポンサーシップがあったから21ミリから500ミリまでのレンズを使いこなしていたけれどもこれは彼が撮影したのは30代であったからだ。

ロバートフランクの場合は常に1台のライカと言うところが潔い。それは素晴らしいのだがそれならばアンリカルティエブレッソンがライカに50ミリレンズだけでそれがかっこいいのかというと私はちょっと意見が違うのである。ブレッソンの場合は絵画の世界に関するコンプレックスが非常に強いから標準レンズよりも短いレンズが使いこなせないとニューヨークタイムスの30年以上前のインタビューでブレッソンはそう答えている。

それに対してロバートフランクは基本はライカに35ミリ1本だけというのがいい感じだ。ジャックケルアックもそのことを指摘している。
0166名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/03/31(木) 08:35:48.62ID:uOjb25WK0
アトリエの暮らしは非常にシンプルであるからまず朝起きるとお湯を沸かしてコーヒーの細く引いたやつをそこに入れて熱湯をかけてかき回して数分間コーヒーの粉が沈殿するのを待つのである。これはトルコから伝来した伝統的なコーヒーの飲み方なのだが面白いのはこれに慣れてしまって日本に同じコーヒーの粉を持ち帰ってお湯を足してかき回してもその粉が下に沈殿するまでの時間が東京では待てないのである。すべての時間経過がせっかちになってゆくというのがファーイーストの特徴だな。

フライパンを熱くしておいてそこに卵を2つとありあわせのハムと適当なトマトでも何でも入れてちょっと加熱してそのままリビングに持ってきて食べる。お皿に移し変えないというのがこの場合大切であってハム& Eggsが冷めないからである。普通の目玉焼きはサニーサイドアップと言うけれど、モスクワのホテルで高級ホテルで注文したらこれが通じなかった。ハノイのホテルで注文したらすぐにつうじたのであるがだからどうこうと言う事はここでは言う必要は無い。

この何十年も使い込んだ鉄のフライパンは油が馴染んでいい感じであったのだが遊びを大改装したときに誰かが気を利かしてそれを捨ててしまったのである。だから30年暮らした最後の数年間は新しい鉄のフライパンになってしまってハムエッグの出来が非常に悪かったのは今で思うと残念である。
0167名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/01(金) 08:51:12.71ID:nTdXCFVw0
カールツアイスのFlektogon35 をつけて撮影してみてそのピントの良さにびっくりしたのも40年以上昔の話なのであるが何やら懐かしい。ヨセフクーデルカの場合は同じ35ミリを手に入れようと思って美術評論家のAnna Farovaが東ベルリンに用があるときにレンズを買ってくるように頼んだのであるが、東ベルリンのカールツアイスの販売所では35ミリが在庫切れで仕方なくその代わりに25ミリ広角レンズを買ってきたのである。

それが結果としてヨセフクーデルカのジプシーの名作を撮影することに結びついたのであるからカメラ屋さんのレンズの在庫と言うのは意外と写真家にとっては重要なキーワードになってくるのである。

私の場合はプラハのカメラ屋さんでこの28ミリの日本製のレンズを求めた。このレンズはもともと廉価版のExaについていたのである。カメラ本体と一緒でその値段は5000円しなかったかな?

ウィーン滞在中のある日、その当時はまだウィーンライカショップができるずっと以前の話で私がアパートメントから小一時間かけて通っていたのがフォトラータと言う老舗のカメラ屋さんである。そこのウインドウで見慣れないキラキラクローム仕上げになった24ミリのこのカメラに装着可能な交換レンズを発見した。これがフランスのアンジェニューなのである。当時は全く人気のないレンズで10,000円もしなかった。今ではその10倍でも買えない値段になっている。
0171名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/04/22(金) 08:31:46.90ID:dXY6NX4W0
コルゲンコーワの会社がカメラメーカーであったと言うことを知る人はもう少ない。私はこのメーカーのカメラやレンズのコレクターを自負しているのだが専門の展示会用などに作られた巨大な広角のプロジェクションレンズなんかもある。何に使われたものか知らないが巨大な金属ケースに入っていて重さもかなりある。だから薬品メーカーと言うよりも私にとってはこの会社はライカやニコンと同じように光関係の会社と言う認識があるのだ。
0173名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/18(水) 01:03:30.77ID:gh7Ls5af0
長徳さんのバウハウス(フランク展2以来)GWに見に行ってきた。
係の人以外誰もいなかったのでゆっくり見ることができた。
興味深かったのはベタ焼である。
0174名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/24(火) 11:36:14.78ID:iyt0wuyK0
努力の甲斐があったのかないのかそこら辺がわからないけど、最近この3年寝太郎のニコマートは成績が良くなって1日に5,6回シャッターが切れることもあった。しかしこれは考え方次第であってシャッターが連続して切れると言う事は普通の中古カメラに近づいているからこのカメラが持っている本来の個性をどんどん失っていくわけだ。

二代目さんが打ち合わせのため佃島に来てくれた時私は思いついてこのカメラを二代目さんにお渡しした。そしたらその時に話題になっていた双眼鏡がこれは信州岡谷の出身なのであるがそれがいくつかまとめて翌日に宅配便で私のところに届いたのである。信州岡谷の双眼鏡と3年寝太郎ニコマートのトレードである。

その後この3年寝太郎ニコマートは思わぬ展開を見せて新たな大名のもとに収まった。ギャラリーバウハウスでの私のウィーンの展覧会の作品を買ってくれた日吉さんと言う人が3年寝太郎ニコマートに興味を示したのである。そのカメラの実物がここに示す画像である。Facebookで日吉さんが紹介したところによると連続シャッターを切っていたらちゃんと普通の状態に戻ったそうである。これはいろいろ考えてしまうなぁ。

3年寝太郎と言うカメラ本人の意思を持っている個性的なカメラ、つまり壊れているカメラでもなく使えるカメラでもない非常に微妙な立ち位置がこのカメラであったのだがそれが単なる普通の古いニコマートに戻ってしまったらしいのだ。私は何か人類の文化遺産が消滅してしまったような気がしてちょっとがっかりしているのである。
0175名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/25(水) 05:14:01.50ID:8ANXauLC0
鵠沼のブレッソンと言う人は以前は実家が千代田区富士見にあって洋服屋さんだった。そのクラシックな洋服屋さんのエントランスを撮影したのが私の20数年前に出た写真集東京ニコン日記に掲載されていて、その縁があって鵠沼のブレッソンと知り合いになったのである。

どうも私田中長徳の研究科と言うのは湘南方面に圧倒的に多いのだ。それで鵠沼のブレッソンさんはある時この写真のワンショットをそのまま3次元化したフィギュアを作って私にプレゼントしてくれた。

ジャッキアップした軽自動車と工場から出てくる青年とその前を通過するトレンチコートの大学生の私と言う素材を用意すればこの場所の再現は割と簡単なのであるが鵠沼のブレッソンは現場を見ていないからその意味では作りにくかったに違いない。

鵠沼のブレッソンの制作したフィギュアは他にもあって、写真集ウィーンとライカの日々の中でプラハで撮影した巨大な建物の側面に巨大なファスナーが描かれていてそのファスナーはまさに引き下ろすされようとするなかなかブラックユーモア的なショットがあった。これも鵠沼のブレッソンは私の写真集に掲載された1枚の写真をもとにしてフィギュアを作ってくれたのである。

この1枚の引き下ろさレールファスナーの建物の側面の写真は他にもいろいろな反応があってギャラリーバウハウスのお客さんのコレクターさんがプラハのこの場所を探して大体そんな簡単に見つけられるところではないにもかかわらずその場所をついに特定したと言うストーリーもある。なおそのプラハの周辺部にあったファスナーのある建築物は今は存在しない。
0176名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/26(木) 00:50:46.37ID:cYLBQ4/n0
しかしヨーロッパでの認識でIKEAと言うのはまさに安っぽい間であってブラックジョークになるようなブランドなのである。私の友人のヨーロッパの美術館系のやつとかジャーナリストとかIKEAと言うブランドを安物と言う意味のシニカルなブラックジョークで使っているのだ。

なぜIKEAが安物の上段ブランドなのか考えてみた。考えてみれば私が34年暮らしていたプラハのアトリエには6名家具はなかったが2つあったバルセロナチェアは後の時代にコピーされたものではなくてオリジナルなのである。そういうものを普通に使っていたし私が住んでいたウィーンのアパートメントに合った家具だってアールデコ時代のちゃんとしたものであった。そういうちゃんとした家具が備わっている生活が私のような偽物ヨーロッパ人にも普通であったからそういう中でIKEAと言うのはどうも感心しないのである。

その私のステレオタイプとしてのIKEAに対するブランドイメージが今回私がもらった肖像画のフレームで少しは改善されたと言うことなのである。結構大きな世界認識の変貌といってもよかった。
0177名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/28(土) 07:28:59.63ID:rN5v4Nwe0
地方の旅館などに行って出されるマグロの刺身と言うのはこのヨコワなのではないか?

とある。食通に関しては吉田健一は世界中を歩いていたので確かな味覚と知識があるのだがそこら辺は気がつかなかったらしい。私もヨコワとある。食通に関しては吉田健一は世界中を歩いていたので確かな味覚と知識があるのだがそこら辺は気がつかなかったらしい。私もと言う魚を吉田健一の食物衛生でして京都の錦工事の途中にある間口半減の小さな魚屋さんに30年ぐらい通っていたのであるがそこで時々ヨコワが出るとそれを買い求めて古い京都の西陣の友人のところに持ち込んで作りにしてもらっていっぱいやったりして楽しんだ。

つまり私もヨコワは錦小路で買うものだとばかり思っていたのだ。それがウィキペディアでメジマグロを検索してみたら驚いたことに私の好きなメジマグロとヨコワは錦小路で買うものだとばかり思っていたのだ。それがウィキペディアでメジマグロを検索してみたら驚いたことに私の好きなメジマグロとと言うのは同じ魚であることがわかってびっくりした。

要するに本マグロが成長する前の段階の本マグロの子供であるのだ。その味覚と食感と言うのはなかなか微妙なところであって考え方によっては本マグロとかクロマグロを追っかける連中は、ミシュランの星付きレストランしか信用しないと言うようなミーハーであって、メジマグロのほうはそこら辺の無名のビストロと言う感じがする。
0178名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/30(月) 09:02:44.55ID:G5x8st240
ライカに貼ったシールで今まで1番決まっていたのはライカエムファイブに貼っていた栗饅頭のパッケージに付いていたシールである。これはライカエムファイブのトップカバーと非常に良いバランスになっていて好きだった。そのライカエムファイブにホロゴン15ミリをつけて専用のファインダーをつけてリスボンに撮影に行ったのは10年位前である。もっとも人からの借り物だからレアなファインダーを落とすのはまずいので撮影には専用の15ミリファインダーは一切持っていかなかった。

もともとノーファインダーアナーキストであるからファインダーを使う事は無いのだ。寿司屋には若い頃から随分言ったけれど当時35,000円の給料の時に大泉学園の住んでいたすぐ近くの寿司屋で食べると払いが8000円位になるのである。収入のかなりの部分で寿司屋に払っていたわけだが考えてみるとあの方が生活と言うものにゆとりがあったのではないかと思うようになった。

この近くのスーパーの寿司の値段はご覧のような値段なのであるがドル換算にしてみるとかなり安い。ニューヨークの4分の1位だと思う。だから外国人には暮らしやすい日本であるが我々は円建てで収入を得ているのだからやはり高いと思う。もっともこれは考え方であって私がマンハッタンにいた40年前はレートが280円だった。だからレートが250円になればどんなに楽だろうなどと考えていたのも懐かしい。

この理科室の標本のようなシールであるがこれでまた食っている人がいるのだと思うと面白いが、このシールを止めにすれば100円位では安くなるのではないだろうか?六本木ヒルズに行っていた頃にあそこの出店ですきやばし五郎があるのでそこに取材のために行ったことがある。取材といっても自費であるから一人前ランチが1万5000円なのである。それで10貫位だったかな?
0179名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/05/31(火) 04:29:21.03ID:rMiyq2T70
75歳になって感じる事はやはり自分の時間が大切であるから他の人とお付き合いして時間を取られると言うのはあまり好まない。言い換えれば20歳の時に自分が培ってきたヨーロッパの個人主義と言うものがますます勢力を発揮してきたと言うわけだ。

写真家を50年やっていてようやく自分の写真で食えるようになったと言うのは何か感動的でもある。ところでこのショットはライカをごく最近手にした若年のカメラ人類がギャラリーバウハウスで撮影したものをくれたのである。その人は長身の黒ずくめの青年であって最初にギャラリーバウハウスに来てくれたと時に初めてお目にかかって彼が自転車で都内を走っているということがわかったのである。それで最近買ったばかりのデジタルライカで私を撮影してくれた。

そのペーパープリントされた写真を家人に見せたら年の割には肌がきれい等と褒められたので気をよくしているのである。確かに老人に特有の反転とかそういうものが私の場合ないからこれは得なことかもしれない。しかしここら辺が誤解の間違いであって75歳の後期高齢者が若く見えると言う事は33歳に見えると言うことではない。そうなったらまさに化け物である。ちなみにこれをとってくれた青年は33歳。
0180名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/01(水) 00:31:10.08ID:Vc6UmhSz0
ズミルックスの最初期のレンズはなかなか癖玉であって開放で使うのには私などは敷居が高すぎてうまく使えない。その当時に銀座の銀一カメラに中国製のレッドフラッグのアウトフィットが出ていて確かカメラレビューの記事のためにそのアウトフィットを拝借して撮影してみたら面白かったのは中国製の35ミリef 1.4のレンズがズミルックス35ミリと描写がそっくりなのである。その時書いたレポートでまさか中国上海はドイツからズミルックスを輸入して名前だけ変えて制作したのではないか?などと戯言を書いたのも懐かしい。

上に登場したレンズは東京のカメラ屋さんの広告であるが、なかなか天文学的なプライスタグが付いている。もっともこーゆーレンズを買う人は実際に写真を撮影するわけでは無いからレンズの描写云々と言う所からは1,000,000マイル離れているので何の問題もないのであろう。

最近連続的にスマッシュヒットを出しているアーティストアルチザンであるがここら辺のレンズをそっくりそのまま作ったら結構面白いことになるのではないか?
0181名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/02(木) 06:39:01.29ID:b5axDgfe0
コシナレンダー25ミリレンズの面白いのはレンズの第一面が完全にフラットな平面でできていることだった。このレンズの構成は知らないけれどもキャノンレンズの場合はレンズの性能を補正するためにレンズの1番後ろに平面グラスを追加しているのである。だからコシナレンダーの場合は平面グラスを1番前の部分に持ってきたのかな?などと考えているが本当のことはわからない。

友人の漂流者さんが3年間の会社勤務を終えて2週間の休暇に入っていて会社を辞めた記念に買ったのがこのレンズだそうである。そのことはFacebookで知ったのであるがよく見るとレンズの細かいところのデザインが私が使っている25年前のものとはかなり異なっているようだ。ようだ。

広角のスナップショットレンズでライカの魂で有名なのは35ミリのスナップショットElmarである。スナップショットは目測で撮影するから距離計連動は要らないと言う非常に割り切った考え方で作られた広角レンズであったが全然売れなかった。それで今ではレアレンズであるが市場に登場すること自身が非常に稀である。

そういうレアなレンズを意識して作ったコシナレンダーの25ミリはやはり小林さんがかなりレベルの高いレンズ人類であるからだ。そこら辺も大変素晴らしいことだ。撮影の方で考えてみるとレンズは小型軽量のほうがよろしい。だから理想はライカのレンジファインダのついていないモデルとかスタンダードモデルにつけるのが良いがそうなると距離計のついていないライカで90ミリなどで撮影をしなければならないことになる。だから普通の使い方としてはこのようにスリーエフなどにつけて使うのが1番ノーマルな正常のライカユーザと言うわけだ。
0182名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/03(金) 10:35:36.41ID:12o0bTIG0
最終日はなかなか面白い千秋楽であった。私の2.5キログラムもある写真集とかたくさん持っていらした方がいて銀色のマーカーでサインをしてくださいと言うのである。これは懐かしかった何か25年前の新宿ゴールデン街でボトルをキープするときの記憶が蘇ったのである。しかし25年前にはゴールデン街には行っていなかったからこれは別の婆の記憶とごちゃまぜになっているに違いない。

銀色のマーカーでちゃんとボトルにサインを入れるときはマーカーをまずよくふるのである。そのふったときのチャラチャラした音まで懐かしく感じられた。しかしサインするのはお酒のボトルではなくて写真集である。そこに銀色のマーカーでサインをすると何か自分の写真の腕が0.5%だけ上手くなったような気もするのは錯覚なのである。

ついでに分厚い写真集の天の部分にもサインをさせてもらった。それで銀色のマーカーにキャップをして持ってきた人に返そうと思ったのであるが、先に述べた大昔バーのカウンターで銀色のマーカーでサインしたことを思い出してちょっとやってみたくなったのである。オープニングの2ヶ月前の初日にもらった赤ワインのグラスに銀色のマーカーでサインをしたら何か30歳ぐらい若返ったような気分になった。グラスについたらちょうどいっぱい分だったのでそれを飲み干して非常におめでたい千秋楽となった。
0183名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/05(日) 07:52:58.97ID:ATcsja9h0
フライトレーダー24を設定して緊急事態発生のときのあれは何と言うのかASqark7700というのが世界中で結構頻繁に起こっている。緊急事態が発生したのでダイバートするか出発地点に戻ると言うやつで結構頻繁に起こっているのが不思議である。エアフランスでパリのオルリー空港を出発してバハマ諸島のどこかに向かっていたエアバスの319が大西洋上で戻ってくるなどと言うのは見ていてドキドキした。

小型の飛行機でもよく起こっているようでこれはついこの間見たものだがサンディエゴを出発して2時間位の距離のところに飛行するセスナの飛行機が出発して具合が悪くなったのかすぐ近くの空港にダイバートしているのである 。セスナ206と言うタイプでこれは野々宮がよく載っている172よりももうちょっと大きな飛行機である。フライトレーダー24のデーターを見たらなんと47年であるらしい。ウクライナ方面でよく出撃して飛んでいるC130ハーキュリーズなどでもかなり古い機材を使っているがこのセスナは47年と言うのでかなりびっくりした。クラシックライカと同じでクラシックセスナはかなり長いこと乗ることができるらしい。飛行機のフォルクスワーゲンみたいなものか?
0184名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/06(月) 05:24:50.34ID:1ZU7fu960
クラコフの旧市街の広場を横断しているときに花売りの青年がいたので彼が持っていた赤いバラの花束を全部買い取って、その青年に正確に2つの花束を作ってもらって今食事をしたレストランで戻って人生のレストランデビューにお祝いと言うことでその女の子とそれをサポート知っているおばさんにプレゼントしたのであった。

これが1981年の話であるから指折り数えてみたらもう40年が経過しているのである。だから15歳の女の子は50代半ばと言うことになる。時間の経過は早いな。家のエントランスの咲いているバラを見て直感的に40年以上前のことを思い出した。これから1ヵ月ほど時間が経過すると今度はエントランスのプロムナードの反対側に赤いバラが咲き誇るのである。

誰が書いたのか忘れてしまったが英国の作家でロンドンのだれも知らない小路の奥に赤いバラがだれも知られずに咲いていると言うテキストがあってそれをちょっと思い出した。
ポーランドのクラクフで出会った15歳の少女は私のことを覚えていることであろう。
0185名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/07(火) 06:32:56.13ID:m5Axb2Mz0
市場をウロウロしていておばさんが大きな魚を焼き始めたのを見てその心づもりで1時間位してから行ってみたらいい具合に焼き上がっていた。バナナの葉っぱで包んでくれた。食べてみるに今まで食べた世界の焼き魚の中で1番うまい。それで三日間冷蔵庫で保管してそのまま東京に持ち帰って家人に食べさせたらやはり非常にうまいと言うのである。人間はうまいものが引力になるからまたディエンビエンフーに行くとしたら市場でこの魚を買う事は重要な戻るための理由になる。

その他に気に入ったのはこれも市場で売っている豚の肉を皮付きのままハムにしたものでこれもなかなかうまい。この地域の名物で鶏肉で作って香料が入っている大きなハムもある。この大きい2キログラム位あるやつを買って食べかけの魚と一緒にディエンビエンフーを出発して夜ハノイの空港に着いてそのまま空港ホテルに1泊して翌朝ハノイを出発して夕方に羽田に着いた。

大事に持ち帰った魚の焼いたのは無事持ち帰ったけれど、大きな鶏肉のハムはホテルの冷蔵庫にそのまま忘れてきたことに気がついた。それほどこの魚の焼いたのを持ち帰ると言うことに神経が向いていたのであった。
0186名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/08(水) 08:06:27.69ID:7cUWDKmi0
スパーブカメラには前期型と後期型があって前期型はこのように巨大なカメラのサイズと重さから考えると不釣り合いな巨大なネックストラップアイレットが付いている。このネックストラップアイレットがどれだけ大きいかと言うとプロ用の16ミリ映画撮影機のありフレックス16に付いているヘビーデューティーなストラップアイレットよりもさらに大きいのである。ありフレックスの場合は交換レンズをつけると5キログラム位の重さになるけれど、スパーブの場合はせいぜいカメラ本体で800グラム位だからヘビーデューティーなストラップアイレットというのが何か無意味にかっこ良い。

フォクトレンダーの会社はこれは金属の無駄遣いであると言うことに気がついたらしくて、同じスパーブで後期のモデルはまともなサイズのネックストラップアイレットが付いている。それともう一つこのカメラには付いているレンズが2種類あってSkoparが標準であるがそれよりも高級なHeliarのついているモデルもある。当然こちらの方が値段は高いのであるがその写りは別に同じである。

久しぶりにカメラを手に取ってみたらなんとこの時代のフォクトレンダーのロゴマークというのが今てんやわんやでへんてこりんになっているウクライナの国旗の色合いと同じなので笑ってしまった。どっかの地方議員のピントのずれた連中が議会で全員これと同じカラーのマスクをつけて会議をするなどと言うのは愚かな限りである。
0187名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/09(木) 05:59:09.72ID:kgYnR+WG0
家人がウィーンに留学した1973年の夏の手前と言うからちょうど今頃だったと記憶するがウィーンの音楽アカデミーの1つのディビジョンはメッテルニヒの館にあったのだ。お風呂場と呼ばれる場所があってこれは実際にメッテルニヒがお風呂に入っていたところであるのがわかるのはそこに巨大なバスタブが置かれていたせいである。

そこら辺を撮影するので私はライカを持ってフレデリック先生にご挨拶したらその時彼は私が持ってきたソ連製のゾナーコピーに興味を示して、それを彼が持っているライカ3Gに付けて感心していた。その時の記念写真は撮影されている。

考えてみれば不思議な出会いであってライフの写真家が評価した場合極東のコピーレンズのゾナーは有名になったわけであるが、アメリカから来たウィーンの大学の音楽の専門家が評価したのはソ連で作られたゾナーレンズで有名にはなれなかったと言う意味である。

それで極東から来た東洋人である私はソ連製カメラとレンズを大いに愛用したのであるが、ほとんど何の効果もなかった。でも滞在の終わり頃になってウィーン人の友人が言うにはこれほどソ連製のレンズを宣伝した私であるからどこかキエフの郊外でもいいから私のキエフカメラを手にした小さなどうぞとは言わないけれども紙粘土の子達ぐらいは立ててもいいよねと慰められたものである。

ウクライナ出身のトップスターと言えばレオニードブレジネフである。ソ連のトップを走っていたい有名人の出身が、今ではロシアと戦争をしているウクライナと言うのは30年も経つといかに世界が変貌するかと言う良いサンプルである。
0188名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/10(金) 08:07:04.00ID:XsA1pedT0
この何でもないようなアクセサリーはどこにでもありそうなものだが探すとないのである。ガラクタ屋さんで以前買ったことがあるけれど、何しろできてから70年経過しているからレザーストラップが参加していてすぐに切れそうな危険性がある。

それで細かくオリジナルのニコンエスツーのボックスの様子を見ていくとカメラのボックスの裏側は完全なまっくろけであってそこに白抜きになっていてカメラ本体の番号とレンズの番号が記入できると言うことになっている。理由は不明であるがこのサンプルの場合は番号が書き込まれていない。何か特別な理由があったのであろうか?

ロベルトロット倫理が書いて世界的ブームになったニコンのレンジファインダの歴史の本があって、アメリカはニコンのレンジファインダのコレクターは先進国のレベルであると思う。日本語が母国語でないにもかかわらず当時のニコン製品の検査証のサインを研究したりそこに押されている三文判の研究をしたりする人までいるのだから頭が下がる。

ところで今回のニコンエスツーカメラ本体とレンズとエバレディケース付であるがこれには英文の取説も付いている。それよりも嬉しいのは50ミリef 1.4につけることのできる純正のフィルターが付いていることだ。フィルターが嬉しいのではなくてそのフィルター用のプラスチックケースとオリジナルの薄い紙の箱が付いていることである。これ探すとなかなかないんだよな。
0189名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/11(土) 06:33:35.64ID:F2bSj7r50
ところでこの50年と言うものを私がこのワイフカメラに対して不思議に思っているのはエンブレムのネームの上に付いているこの階段みたいなものなのである。なぜこういうデザインにしたのか意味不明なのであるが1つ確信が私の場合言っているのは同じ時代に出されたヤシカのレンズシャッター付きのアマチュア用カメラがあるがそのデザインがこのワイエフにそっくりなのである。すなわち金属の同じ形のフィギュアが付いているのだ。会社内部でこれを何と言っていたのか知りたいところであるが今となってはそれを調べるのも不可能であろう。しかし1つ確かなのは同じ時代のカメラに同じデザインが2つあると言う事はこの不思議なデザインの有効性を会社は理解していたと言うことなのであろう。

ワイエフと言うカメラはこの特殊なデザインのために好き嫌いが分かれるところなのであるが、私はこういうのは大好きである。オデッサの階段の営繕シュタインの映画のワンショットの部分をそのままシンボライズしたデザインと言う風にも思える。

それで私のカメラノートになんでこんなデザインになったのだろうか?と書き込んだら非常に明快な答えが戻ってきた。それは

指休めではありませんか?

なるほどフィンガーレストと言うのだったら納得がいきますね。パターンが横なので私はそのコツまでは考えつかなかったこのパターンがたてであればフィンガーグリップとかフィンガーチャンネルとして使えると思っていたのだ。
0190名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/12(日) 08:20:35.03ID:A0yx0+RT0
ヤシカに買収された後のホテルのほうは通常の操作方法で指でつまんでシャッターダイヤルを回してセットすると言うやり方だ。なんで買収したヤシカがこのユニークなシャッターの設定方法をそのまま受け継がなかったのかちょっと理解に苦しむ。

ファインダーシステムは左のカメラは倍率が等倍であって両眼を開けたままフレームを見ることができて見やすい。右のヤシカのほうは0.75倍位の倍率のファインダーに50ミリと100ミリのブライトフレームが浮き上がっている。言い方を変えれば左のカメラはライカM3みたいなファインダーシステムで、右の方がそれに対してライカM2みたいなファインダーと言うこともできる。もちろんファインダーの見え方はライカには比較にならないけれど私はもともとファインダーをよく未来館であるからこれで充分と言う言い方もできる。
0191名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/13(月) 07:17:54.96ID:nhhJLW460
軍用の偵察カメラになるとこれらは航空カメラであって上空から撮影するときにその目標を狙うのには標準レンズでは遠すぎて2倍位の焦点距離のレンズが1番使いやすいのである。イランイラク戦争の時にジェット戦闘機に乗せられて使っていた70ミリフィルムを使用してスクエアな画面を撮る軍用カメラがあってその名前は忘れてしまったが私は70ミリフィルムを手に入れてこれを使っていたことがある。カールツアイスの150ミリの望遠レンズが付いていた。レンズは最初からインフィニティーに固定されている。航空カメラの場合インフィニティーだけで撮影できればオーケーなのであるがポートレートも撮りたくなる。そのためにハッセルブラッド用の近接撮影用の接写レンズを用意した。このレンズをつけるとインフィニティーの焦点距離がレンズをつけることによって2.5メーターで撮影ができる。その撮影距離は目測でもいいしメジャーで測っても問題は無い。

ガラクタ屋さんの悪の枢軸が最近作ってくれた私の誕生日記念のTシャツと言うものがある。今年のTシャツの図柄は50年前にウィーンで撮影した花売りのおじいさんのショットなのであるがこれはキエフカメラに85ミリレンズをつけてちょっと位シーンだったのでほとんど絞りは開いて撮影した。そのような使い方ができる結構便利な100ミリ前後のレンズであるがそれがレンズ交換ができない固定式のカメラ本体に付いていると言うところが行きなもんです。。
0192名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/14(火) 00:10:35.29ID:1Z09KoqF0
春のバーゼルに行って面白かったのは日本の時計メーカーが1番奥の不便なところにブースが押しやられていてそこに行くまでにはエントランスから20分ぐらい歩かないと到達できないのである。それでメジャーなスイスの時計メーカーがエントランスの近くを占拠している。昔から家にあるホイヤーのモナコと言うのを使っているのであるがそれのメカニックが新しくなったと言うことを大々的に宣伝していた。ジュネーブとバーゼルで私が教えられた事は男も女も実用的ではないところに大金を振りまくと言うことだった。

普段使っている時計はドアストッパーの中に山のようにソ連製の時計のゴミが入っているのでそれの使えるやつを引っ張り出してきて使っている。この半年位はソ連製のクロノメーター並みの制度のやつがあってそれを愛用していたのだが、この腕時計は1950年代にイタリアで生まれたブランドらしくてもちろん私は知らない。

ネットで調べたらどうも本職は女性の靴を作っているメーカーでそこそこ有名らしい。それでこの時計の街はネットオークションで思いつきで手に入れて時計とは思えないような安い価格であったのだが試しに使ってみたら2ヶ月つまり60日使って誤差が全くないのである。こういうのはこの時計のメーカーが優れているとか言うような話ではなくて、たまたまこの個体が優れていると言うことなのであろうがむしろその方が尊敬できる。
0193名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/15(水) 04:33:58.97ID:q+r+mDSv0
放出品であるから使えないように電気のコード等はカットされているとセラーさんの説明であった。坂崎さんに見せてもらった時に同室はどのように設定するのかが謎であったが要するに35ミリのフイルムのモータードライブカメラであるからまだ自動ロコ等は設定されていない時代であるからマニュアルに従って適当にシャッター速度と絞りを決めたのであろう。

それよりも私がびっくりしたのはこの憧れの白バイカメラを作ったメーカーが当時フィルターとかアクセサリーで有名だったワルツと言うメーカーであったことだ。さらに驚いたのは撮影用のレンズが私が好きなワルツワイドに使われている35ミリF2点8のレンズなのである。市販されていた。実は移動の連中は実際にはCominarが生産していたからワルツワイドの場合は名前がダブルネームになっていた。しかしこの白バイカメラの場合は納入の関係か何か知らないがワルツと言う名前が堂々と登場している。

目黒オートバイに搭載された白バイカメラを思い出すとあの当時の小学校の通学路を思い出す。まだ車等は全く走っていない時代であった。
0194名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/16(木) 01:20:32.83ID:IV4bkjll0
前田さんと私はカメラやレンズのヘンテコリンな趣味というのが非常にクロスオーバーしているのである。それでいつだったか新宿か銀座でお目にかかった時にタムロンの金型部長の前田さんはライカエムディーに35ミリレンズをつけてファインダー枠のトップ金の巨大なやつをつけてきたのである。それを1年見た私はあぁこれはダメだこの巨大ファインダーはスナップショットには絶対使えないと言うことを確信してその後もこのバインダーは使わずにいる。

何が不向きかと言えばAlbada方式のファインダー工学系だからしかもその円形のボディーの直径が5センチはあるのでこれをカメラに付けた人が向こうからやってくると怪物の目玉のようにギロギロ光るのである。スナップショットには最も向かないカメラのコンフィグレーションである。

しかしトップ君が偉いと思うのはこういうアイディアに終わらなくて実物を作ってしまうと言う実例が他にも存在してそれは有名な一眼レフTopcon REスーパーのTTLメーターをそのままインシデントライト方式の露出メーターとして使うと言うアクセサリーがあった。要するにこれは普通のカメラの露出型は反射光の明るさを図るのであるがこの場合はインシデントライトつまり入ってくる光の強さを測ると言うかなり変わったアクセサリーであって、標準レンズの前に直径7センチほどある白い板9台のアダプターをつけるのである。非常に特殊なアクセサリーであるから今中古で探すのは難しいかもしれない。
0195名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/17(金) 05:07:57.97ID:38vkbxKS0
私がマクドナルドに対して遺物感覚異なる文明の感覚を持ったのは我が家はなかなか古風な家であるから立ち食いなどはけしからんと言う認識があったせいだ。そのまま引きずって半世紀を経過してしまったので今でもマクドナルドに行って何が食べたいと言うような欲望は一切ない。

しかしヨーロッパにいる時などは私にとってこの種類のハンバーガーショップと言うのはそれなりの使い勝手があるもので、ビールが飲みたいと思った時に1番安直にビールが飲めるのがほかならぬマクドナルドを始めとするハンバーガーチェーンショップなのである。

2001年9月11日の例のツインタワービルのアタックの時に私はドイツのカントリーにいたのである。そこがどこであるかも忘れてしまった元東ドイツのカントリーに私の友人で昨年コロナで亡くなってしまったチェコのジャーナリストパーヴェルと一緒に入ったときに、彼はかたくなにマクドナルドで食事をすることを拒否していたので結局何も食べないです張り心地の悪いベンチに座っただけで時間をつぶした。私はマクドナルドは食べずにカウンターで売っているビールを飲んだ。

気がつくと目の前のマクドナルドの店内ディスプレーが巨大なトレードセンターのツインビルの夜景なのである。つまり今さっきまで完全に破壊されたテロリストの標的がそうではなくてアメリカの富とステータスを象徴するシンボルとしていまだに眼前にそびえ立っていることにカルチャーショックを受けたのであった。
0196名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/18(土) 06:59:14.25ID:lSJmzlHf0
その春日さんの回顧展というのが昨年の8月に麹町のカメラミュージアムであったので行こうと思っているうちに時間が経過してしまって8月の会期のギリギリの時になって見学に行ったのであった。春日さんの東京のスナップショットに納得してさて帰ろうと思ったら各種の資料がウインドウに展示してあってその中に驚いた事は彼自身が使っていたカメラの実物が展示されていたのである。例えば土門拳が使っていたニコンSPのブラックカメラ等と言うものは展示されていて別々にそういうものかと言うだけであるが、好きな写真家の春日さんの愛機がガラスのケースの中に入っていると言うのはこれは凄いことだと思う。

そしてそのワイドカメラをよく観察するぞこれはおそらく写真家本人が素人のブラックペイントを施したものなので逆に不思議な存在感というかリアリティーがそこに感じられるのである。感動した私はそれをポケットにiPhoneを探したのであるがタイミング悪く家に忘れてきてしまったのでその撮影は叶わなかった。これはつい最近オンラインオークションに登場した同じイメージのカメラなのである。
0197名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/19(日) 07:27:42.85ID:KhTDFt/p0
当時のニューヨークでの私の撮影のやり方と言うのはライカとかソ連製のハッセルブラッドであるキエフを持ち歩いてあっちこっち歩いて撮影はするのであるがそれは撮影ポイントをチェックするための下準備みたいなものであった。それで本番と言うと8 × 10インチのカメラを持って撮影に行くのだ。

8 × 10インチのカメラにいつもついているのは広角レンズである。ほとんどのマンハッタンの撮影枠の広角レンズを使ったが1983年の夏にメキシコシティーに行った時にあちらでコマーシャルエレクター14インチを安く手に入れた。普段は標準レンズは使わないのだがせっかく手に入れた14インチなのでいい写真を撮ろうと考えて気がついたのがChrysler Buildingである。レキシントンアベニューを南に下ったところで何丁目だか忘れたのであるが、全景がシルエットになっていてその奥にChrysler Buildingがあってそこだけ風景が切り抜かれたようになっているのに気がついた。

それがこの作品である。撮影ポイントを厳密にチェックしてみたらかなりシビアな立ち位置が必要であって、撮影ポイントが1インチずれてしまうともう違う風景になってしまうので、大抵の場合私のカメラの立ち位置はいい加減なのであるがこのChrysler Buildingのショットだけは気を使った。

Chotoku Tanaka Foto Gallery  11× 14インチゼラチンシルバープリントプライベートコレクション
0198名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/20(月) 06:02:57.33ID:s1l9GEaz0
せっかくパルテノン神殿まで来たので撮影してやろうと言うので4インチ× 5インチのカメラに75ミリの広角レンズをつけてすべて手持ちで撮影したのは面白かった。そのシリーズの1部は当時私のやっていたカメラジャーナルと言う雑誌の後半の分厚いシリーズのトップ20何ページ掲載されている。持参したフィルムホルダーは15枚ぐらいしかなかったので1階撮影できるのは4 × 5インチのフィルムで30枚である。

わざわざホテルにフイルムホルダーを詰め替えに戻るのはめんどくさいので大きなダークバッグを用意していてパルテノン神殿の石垣の構築物に座りながらフィルム交換をした。古来からたくさんの写真家がパルテノン神殿を撮影しているであろうがパルテノン神殿の構築物に腰をかけてそこでフイルムを交換した写真家は私だけではないかと思う。

ギネスブックに登録しようかな?

パルテノンからの眺めで1番凄いのは向かい側にあるLiga Virosと言う山である。対して高い山ではないのだけどその山の格好が面白いのでアテネの風景を特殊なものに見せている。そちらのほうも気になって別の日に撮影に行った。。その時はライカカメラにソフトフォーカスレンズのTambar90mmをつけて行った。何か取れないかと思って探していたら山の上から見た光景でジョギングのランナーが走っているのである。はるか遠くで火事が起こって煙が盛んに燃えている。そのコントラストが日常的でないのでびっくりして撮影した。

その時のショットは当時のアサヒカメラにカラーで何ページか掲載されている。
0199名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/21(火) 06:58:57.13ID:fqZwavp10
この2ヶ月後に来島姉妹は80馬力ほどのエンジンを搭載したライトプレーンで世界最初の飛行に成功しているのである。その水冷式の80馬力のエンジンと言うものを当時アメリカのエンジンメーカーに制作を打診したのだがどこも作ることができないのでライト兄弟はそれを自分たちで作ったのだそうである。ライト兄弟はもともと自転車屋さんであったからエンジンからプロペラに動力を伝えたのがチェーンであったと言うのも面白い。ところが皮肉なものでその後の時代になってライト姉妹がいろいろ他の方式の飛行機に対して遅れをとったのがこのチェーン方式のエンジン駆動であったそうである。

エンジンで滑走して260メーターほど飛んだ世界で最初の飛行は有名でいろいろ紹介されているがオランダのステリックミュージアムに行った時くだんの写真が展示されていてその時私は初めて細く世界最初の動力飛行機の不要しているところを見たのであるが何がおかしかったかと言うと飛行は休日の早朝に行われていたにもかかわらずその写真には修正が加えられていて真上からの太陽の光が書き加えられているからライトプレーンの下にくっきりと影ができていたことだった。
0200名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/22(水) 06:30:23.64ID:w5WZrksm0
その通りからちょっと旧市街に下がった左側にこれもwinで有名なカメラ店のチェーンでパイオニアというのがあった。1973年の5月11日がモスクワでは大ドイツ戦勝記念日であって、その時モスクワのグアム百貨店でソ連製のハッセルブラッドを買いたいと思っていたので、同じモデルをウィーンのそのカメラ屋さんのウインドウの中に見つけたのであった。その場所でそのソ連製のハッセルブラッドは買わなかったけれどもその数年後に手に入れてこれはよくウィーンを撮影するときの私のカメラになってくれたのである。

そのカメラ屋さんから大通りを旧市街のほうにちょっと歩いて行った左側にウィーン工科大学のどこの部門か知らないけれども大学の建物があってそこのプロフェッサーからアメリカのウォレンサックレンズの90ミリライカマウントレンズを譲ってもらったことがあった。なぜそのプロフェッサーに会えたのかはよくわからないが、ウィーンの工科大学の知らないところに入って知らないプロフェッサーに会うと言う事自身はもともと不可能であるから誰かから紹介されたのであろう。そのプロフェッサーのお顔も大学の研究室のライブの感じもよく記憶していて私が値段を尋ねたら値段は500シーリングです1セントも負けませんよと英語で言ったのがいまだに覚えているのである。

第9区には大通りの裏手にアメリカ大使館があってカーター大統領と対談するブレジネフ書記長が目の前を通過していくのを見たと言う記憶は他のところで書いたけれど、それは私がウィーンの生活に慣れて6年も後のことである。いずれにしてもこの地域は私にとって最初の自分に向けて展開されたwinと言うことで記憶しているものがたくさんあるのである。
0201名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/23(木) 06:54:46.89ID:tddsiXWe0
緊急事態宣言で飛行機が出発地点に戻ると言うのはなかなかヒロイックな感覚があってヒマラヤにのぼるときのピークを責めることができなくて勇気ある撤退と言うのに似たところがある。そこが好きだな。

知り合いのCAさんで1,000,000時間も飛行したのに緊急事態宣言は一見も体験していないと言う人もいるからこれはうんうんと言うものだ。私の場合7700で出発の空港に戻って燃料を空中投棄して着陸したと言う貴重な体験がある。その時は基調からその説明を受けてこれから燃料投棄して出発空港に戻ると言われたけれども非常にレアな体験だから怖いと言うよりもワクワクするというのが正直な印象だった。

30年近く前のオーストリア航空のウィーンモスクワ経由東京便であるが離陸直後ブラチスラヴァ上空で服装重視側のウィンドシールドがヒビが入ったのである。それで出発時に引き返したのだった。ゴーaroundはよく体験することであるがこちらはなかなか体験できるものではない。

出発空港がダブリンというのがいい感じでどうしてもジェームスジョイスなどを思い出してしまうのである。もっともジョイスの時代にはダブリンからマンチェスターなどと言う飛行機の便はなかったな。
0202名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/24(金) 00:36:02.23ID:J94AZYCM0
そのカメラ屋さんにはその後も何度も通って結構気に入ったカメラを買ったのであるがそれの俺で雑誌東京人がどういう風の吹き回しか中古カメラ特集と言うのをやることになって私が東京のカメラ屋さんをいろいろ取り歩いたのであったけれどその東京人の拍子にそのカメラ屋さんが使われたのである。

このワイドカメラはプロの間では有名なProminarと言うレンズが付いている。市川崑監督が撮影した1964東京オリンピックなどではこのレンズがたくさん使われていたはずである。というのも当時はドイツ製のシュナイダー等は非常に高価であったからそれの数分の1の値段の国産の頃原稿あの会社の映画用レンズが対応されたのである。その当時はまだ安い国産品と言う認識であったけれど、最近は同じブランドでビデオ用のレンズを出していてこれはなかなか評判がいいらしい。

このメーカーはごく少数ながらこのワイドカメラについているレンズをそのままライカマウントにしたものを売り出したのだがこれが非常にレアなレンズであると言うことになって今だと250,000円位のコレクターズプライスなのである。これも馬鹿な話でそんなことをやるなら最初からオリジナルのこのカメラを使ったほうがいいのに、カメラ人類はあなたも私もバカですね。
0203名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/25(土) 07:29:57.39ID:3VCFlyPy0
目に見えないところに文字が刻印されていると言うことで考えた。これは中国の反体制派が見えないようにこんなところに刻印したのか?それとも当時の金文字のクオリティーが充分でなくて触っているうちに金色が落ちてしまうからこんなことにしたのか?

そんなことを思い出したのは日本の場合も前例があったからだ。日本の講和条約が発行する前には日本のカメラもレンズもメイドインオキュパイドジャパンの刻印を打つことが必要だった。敗戦国としてはこういう屈辱的な国民は打ちたくないものである。

今では皮肉なことにメイドインオキュパイドジャパンの刻印はコレクターズアイテムになって大変な値段がついている。でも当時はそうではなかったからニッコールの3.5センチの広角レンズ等はレンズの裏側のマットブラックに塗装されたところにごく小さな文字でなるべく醜く刻印されている。

それに対して同じ時代に作られたレンジファインダ用のキャノンレンズの場合は本体にはメイドインオキュパイドジャパンの刻印がなくて、レンズキャップに刻印されているのである。なるほど確かにレンズキャップのレンズと一体化したレンズの1部のものであると言うふうに理解すればこれも合格と言うことになったのであろうか?
0204名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/26(日) 06:12:34.62ID:jDJplaiR0
ライカエム4のコピーであるレッドフラッグもハッセルブラッドのコピーであるイーストウインドウもケプラーさんのこの貴重な小さなリーフレットで私に知識がもたらされたのである。当時の仏名で当時全盛だったフランス製の16ミリフィルムカメラエクレールの全く同じ物が参考展示されていて値段を聞いたら本物のフランス製の4分の1位の安い価格なのでこれは本当に欲しくなったりしたこともあった。

それで本題に話を戻すと私が萌えるのはこの当時の中国製標準レンズのパープル色のコーティングなのである。何かうっとりするような深い紫色であってカメラそのものよりもこのレンズコーティングの反射の色に全てやられてしまうと言うような感じだ。それでこのパープルコーティングのレンズで中国を撮影してやろうと思って20年位前の事だが当時のリコーの中国の工場を取材する目的で数日間滞在したことがある。

リコーの工場見学の本体と別れて私はさらに数日間パールリバーのそばの大都会をあっちに行ったりこっちに来たりして、パールリバーの一眼レフで撮影した。その時のショットは当時の日本カメラの私の連載でカラーで掲載されている。言うまでもないけれどパールリバーについていた58ミリレンズのパープルコーティングと言うのは言葉の遊びであって実際に撮影した画像が紫色に染まると言うわけではない。
0205名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/27(月) 03:37:01.30ID:JGCvqzP70
その時は自分の自慢のテッサ5センチの子の製造番号は最初のロットの2000何番目と言うやつなのであるがそのレンズマウントアダプターでライカM10につけて撮影してみた。ついでにの口ルックス50ミリef 0.9号でも同じショットを撮影してみた。それで後で2つの画像をちゃんと比べてみるとこれは当然のことながらしぶりはF11であったのだけれど、1,500,000円するの口ルックスの方がシャープなのである。まぁ当たり前ですね。

これで1930一年生のエルマーの方がシャープであったりしたら人類のレンズをここまでお金をかけて頭脳をかけて研究してきたその成果は一体何であったのかと言うことになってしまう。これが私の台北に行ったレンズ実験の最大の成果であった。

このときのツアーで教えられたのはクラシックカメラはその時代に合ったクラシックレンズが1番マッチングが良いと言うことである。私が言っているのは例のコレクターが言ういわれのない変な潔癖主義と言う意味ではない。実際に撮影に使っているのだから大体時代が合えばよろしいですねと言うような意味なのだ。例えば戦後になって私鉄があるとで西側のコンタックスが作られた時西側のオプトンにはまだレンズを作るゆとりがなかった。それで元祖本家のJenaでは西側の帝国主義のために25ミリの超広角レンズを提供したのであった。これがTopogon25ある。

今では高くなってしまったけれど40年前の私のウィーン暮らしの時はこのレンズは人気がなくて5000円位で売っていたものである。それで手に入れたこの東ドイツ製のレンズをブラックコンタックスにつけようと思ったらつかなかったレンズマウントが大き過ぎて巻き上げのノブと干渉してしまうのである。
0206名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/28(火) 05:35:14.94ID:fRwdu9fz0
ロボットの最初に登場した1930年代のカタログを見ていて面白いと思うのはオリジナルのロボットを出した会社も自分の会社の連続撮影できる新機軸のカメラをどのように宣伝しようかすごく迷ったと言うのがありありとわかるのが面白い。当時のカタログの表紙には女の人が池に落ちるところを分解写真で撮影しているのである。まず平和目的のカメラで本来はあったわけだから空中戦で敵の英国の戦闘機が炎を吹きながら落ちていくと言うのはよろしくないよね。

このカメラの動いているのを手放した後にまた欲しくなったのは毎度のことであるがそのときにはかなり安いやつで動かないと言うのを手に入れたのである。これはなかなか良い感じでこのトップカバーのなめらかなそして素晴らしいロゴタイプを鑑賞することができる。全体のちょっと大きめのグラマーなカメラの重さを体験することができる。

動かないオート寺スーパーが一番ありがたいのは実際の撮影に使うことができなくてその存在感を楽しめると言うことなのである。つまりロボットの1930年代のカタログのように誰かがすみだ川に落ちる瞬間を待っているなどと言う事はしなくて良いわけだ。最近動かないカメラを楽しむと言うそういう楽しみ方に気がついたのは後期高齢者になったおかげかもしれないこっちもどんどん体のパーツが動かなくなってくるからな。
0207名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/29(水) 06:34:48.63ID:oVEMofar0
私は日大写真学科の出身であるがあの当時それを止めて日吉にある総合写真専門学校に行こうかとかなり真剣に検討していたのであった。だからそれから60年の時間が経過しても日吉の学校に対しては尊敬の念を持っているのである。日大の場合は日大闘争が68年にあったけれど、ろくな卒業生がいないと言う事は言うまでもない。

赤羽の新幹線沿いの高架線脇あたりは傘が傘がとっていないあたりで例えばこのワンショットである。インチキなイタリア風ファサードを持ったような建築物があってもともとこのようなユニット建築は赤羽の風景から最も遠いところに存在したものであったが、今はそんなことを言うのは私のような時代遅れの人間である。

ウィリアムクラインが1957年に東京を撮影してエポックメイキングな写真集を作ったのと同じような意味合いで、東京の赤羽を撮影した春日さんの視神経のコンパスの方向に私は重力を感じているのだ。磁力ね。

撮影したカメラはKallo Wide E
これは改良形でセレン式のメーターが組み込まれているモデルである。メーターはすでに動かないけれども巻き上げレバーがボディーの下のほうに付いている。それとこのモデルの場合絞りの値が全部見渡すことができるのでとっさのスナップショットの時に使いやすい。オリジナルのメーターのついていないモデルのほうは楕円形の小さな穴に絞りの値が出るだけなのでとっさに絞りを設定する場合には非常に不便なのだ。
0208名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/06/30(木) 00:18:43.96ID:WsxJcmQO0
あの頃のイタリアの映画産業と言うのはかなり凄かったようでそのちょい役のギャラが大変な値段だったらしい。それで疋田先生はローマから日本に帰国するときに船便でフィアット500を買ってそれを送ったのだそうである。そして帰国後もずいぶん長いことそのフィアット500に乗っていらしたそうだ。この2つが私のフィアット500度の実体験的な出会いなのである。

そうだもう一つフィアット500の体験の記憶が今浮上した。イタリア製の子の小型車はライセンス生産でポーランドで作られていた。ポルスキフィアットと言う名前であるのだが、当時の西側世界では東ヨーロッパで作られた車と言うのでちょっと下に見られていたのである。1989年の2月に家人と私でその前の1988年12月24日に昇天したハリネズミを弔うためにウィーンに出かけたのであるが、視界不良のためモスクワを出たいアエロフロートは我々にインフォメーションすることなく勝手にプラハ空港に着陸してしまったのでびっくりした。

空港での飛行機待ちであるからビザ等はなしで我々はバスでホテルに連れていかれた。そこからプラハの友人で昨年亡くなったジャーナリストのPavelに電話したら彼は宿泊先のホテルオリンピックにポルスキフィアットで駆けつけたのである。その晩は非常に危険な坂でデモ隊と警察間とのぶつかり合いがあったそうである。私が持っていたソニーのベータカムビデオカメラは危険だと言うので彼は私のビデオカメラをフロントのトランクに格納した。すべての状況はリベラリストのために向いていると言うので実際にはその年の11月にビロード革命が成功したわけであるがそれの万祝と言うわけでもないけども私たちは近くのジャーナリストクラブにビールを飲みに行ったのであった。
0209名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/01(金) 07:47:06.28ID:NGyO/1Bk0
ロバートフランクにならってバスの中から撮影するときのカメラはクラシックなライカカメラと決めていたのであるがそれがある時思想をちょっと変えたのでハーフミラーのキャノンの一眼レフを使ってみた。このPelixと言うカメラは当時の最先端技術であったフランスのデュポンかどこかが作った非常に薄いペリークルミラを使っていて画期的なカメラだった。物質の原理上そんなに長いこと持たないと言われていたがカメラができてから50年以上経過するけどまだちゃんと使うことができる。

問題なのはミラーが動かないにもかかわらずその作動音が非常に大きいことだ。これは思うにキャノンセブンと同じ当時のシャッターユニットを使っているからではないか?キャノンセブンと言うのも1時は報道関係にかなり疲れていたようであるがそのシャッター音と言うのは一眼レフ並みに大きいのである。

でも私の場合走るバスの中から撮影するわけであるから路上ですれ違いにスナップショットをやるわけではないので別にシャッター音が大きい小さいと言うのはほとんど無関係である。どこから撮影したのかは今はもうわからないのであるがバスが新川沿いの堤防の脇を走っていてそこに鉄橋が見えていて川の幅がずいぶんがあってその先にまだ竣工してそんなに時間の経っていない東京スカイツリーが見えたので私はこれこそシャッターチャンスだと思って撮影しただけの話だ。

日本製の28ミリのサードパーティーのエム42のプラクチカマウントのレンズをマウントアダプターを使ってキャノンフレックスに変換してある。その28ミリのレンズと言うのは20年位前にまたできた直後の四谷荒木町のガラクタ屋さんで買ったと言う事は記憶していてその理由というのがこれは日本製のチノンの一眼レフなのであるが名前がアーガスフレックスとか言うのである。日本のレンズであるから安いレンズであるから素晴らしい性能である。
0210名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/02(土) 06:28:23.18ID:ejRChf3g0
考えてみれば重信はああいう形で有名になってしまったわけだし、秋田明大の場合はそれから10年近く経って何かのニュースで自動車修理工をやっていると言うことを知って少しの感慨に打たれたことがある。それぞれの道を歩んでいると言う意味なのである。

横木が撮影した重信のショットは舘市で上から見下ろしたような感じで普通の女子の闘争家と言う感じである。それに対して私のショットは結構変な風にドラマチックであって、これが何に似ているかと言うと社会主義ソ連の時代のレーニンのエキセントリックな巨大な肖像画みたいな感じがするのが不思議である。その理由は中心人物の秋田がドラマチックに描かれていて彼はやはりカリスマ的な魅力がそこにあって人々を惹きつけると言うことであったのだろうが、それ以上にはためいている赤旗がドラマチックである。よく見れば赤旗ではなくて日大の学生会と言う感じだが。

この当時は日大闘争のごく初期のスタートラインであるからデモ行進をしたときに日大の芸術学部の我々などは日大の効果を歌いながらデモをしたのである。まだ誰もヘルメットをかぶっていないと言うような思想的に軟弱な時代であったのだな。
0211名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/03(日) 13:46:06.25ID:NOPGeSw20
一時期小岩の駅前にあったカメラ屋さんで初代のPelixが安くてレンズがついて1万5000円位であったので見かけるとよくそこで買っていた。それで都合3台になった。適当な広角の28ミリをつけて都バスに乗って延々と撮影をした。撮影をしていて残念だと思ったのはこのカメラはシャッターはキャノンセブンと同じユニットを使っているらしくシャッターの音が大きいのである。

それ故ペリーくるミラーだから本来はシャッターの音は小さいはずなのであるが、かなり大きく聞こえる。もっともバスの中から取るからそんな事は関係ないのだがそこら辺が私のカメラのライフスタイルの美学というかしきたりというか癖と言うものがそれを許さないのである。

1968年のカメラ雑誌に登場した東松さんは、このカメラに19ミリのキャノンのレトロフォーカスレンズをつけていた。私も真似をしてそのレンズを手に入れたのだが初期のレトロフォーカスレンズであるからいかに広角レンズのピントに関しては寛容な私でもディストーションは凄いし周辺の画質は落ちるしひどいものであった。

最近でよく使っているのはタムロンの17ミリとの組み合わせである。他にもタムロンのレンズシステムは数年前に22本のレンズをネットオークションで100円で手に入れたから私の要請でもう交換レンズは不必要である。

このカメラが3台あったのだが最近4代目が加わった。それはネットオークションで落札価格が100円なのである。誰も入札者がいなかったので私が落札した。おそらく高級一眼レフパーティクルミラーのカメラのレコードLowはないか?
0212名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/04(月) 05:23:19.07ID:NVUePBI80
東京なら佃島から歩いて皇居の脇を通って半蔵門から四谷を経由してガラクタ屋さんに行くこともあった。20年位前のガラクタ屋さんの忘年会でそれが12月24日のクリスマスイブと重なってしまって、その時にそこに来るやつはもてないオヤジと言うことになって参加者全員で大笑いになったのであるがその時も気分が良いから真夜中に逆コースで三宅坂の坂を降りて銀座経由で佃島に戻った。

ガラクタ屋さんのにだいめさんは港区のお台場にお住まいだから自転車通勤をもう何年も続けているのであるが歩行と自転車のエネルギーの使い方と言うのは同一に断じることはできない。

いつも履いている靴はこの20年位ABCマートで買っている同じブランドなのである。それが5年位前に店員さんがサイズを間違えたようでそこでそのいつも履いている靴を履き替えてそのままガラクタ屋さんに行って猫の話とかしてカメラも買ってまた歩いて帰ってきたら右足の親指の爪が具合が悪くなって3ヶ月後に全部爪が生え変わったのである。

そのワンサイズ小さいスニーカーを捨てようと思って捨て忘れていて2年位前に南千住で段差につまずいて転びそうになったときに右足の具合が悪くなったのである。1時はひどい状態になって室内を立って歩くこともできないところになったので高い介護保険料を払っているので中央区の係りの人に様子を見に来てもらったのである。ところが政府はケチだから介護保険料は取るばっかりで実際には使わないと言う方針になっているらしくて、かかりつけの聖路加病院の先生の最終判断とか言う話であるのだが介護保険はできないと言うことになった。

ところが5年前に足の指の爪を潰したワンサイズ小さいスニーカーなのであるが思いつきでそれを出してきて履いてみたらすんなりはけるのである。老人で足の筋力が低下するワンサイズ下の小さい靴がはけると言うことらしくてその発見が面白く感じられた。

足の筋力が低下する前の私のレコードと言うのはこれも5年位前だが佃島から歩いて巣鴨経由で志村坂上のちょっと手前にある高校生の頃から言っている濱de屋さんに出かけた時はあれは4時間ちかくかかったかな。無論お酒を飲んだので帰りはメトロで帰ってきたのである。。
0213名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/05(火) 23:00:11.87ID:25gow0ko0
私も断腸亭のファンであるからカツ丼を食いに行ったがあまりに味付けが甘いので23回行ったきりである。その大黒屋も食中毒を出したとか言うので数年前に廃業してしまった。

佃島に住んで32年目になるのであるが、当初は今いるマンションから月島駅までの歩行時間が大体7分位であった。それが今は15分位の時間がかかる。当然の話であって周りに歩いている若い連中はみんな私を追い抜いていくのである。Prahaのアトリエは34年間住んだのであるが、6階建ての建築物の上にもう一回ペントハウスみたいなものがついているから都合7階建と言うわけで住み始めた頃はなんともなかったけれども50代半ばになってからなんとなく階段のけ込みがちょっと高くなったような気がしていたのである。

それでプラハ滞在の最後の数年と言うのはアトリエに行ったりあるいは労働者街の安ホテルに暮らしたりと言うような生活の仕方であった。そうこうするうちにコロナが襲来して私の古い友人がなくなったりしたのでもうプラハに行くのはやめようと決心した。コロナが怖いのではなくてプラハは魅力的な街だからそのまま私の残りの時間をプラハにとられてしまってプラハと心中をするのがまずいと思ったのである。
0214名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/07(木) 04:42:03.18ID:iPpFoNwm0
清里フォトミュージアムのその日の最初の客が私であって、じっくりフランクの名作を鑑賞することができた。帰りのバスの関係もあるのでミュージアムの中でランチでもと思ったらお客さんがあまりに少ないのでレストランは数年前に廃止になったそうである。結局午前10時から午後3時半までと言う5時間以上ロバートフランクとよつ憎んで対決できたと言うのは貴重な体験であった。

小雨が降り出した清里駅で新宿行きの路線バスを待っていたら雨の中をウグイスが鳴いていると言う不思議な体験をすることもできた。新宿に着いたのは夜10時近くて結構遅くて、そこからまたメトロで佃島に帰ると言うので気分がくさくさした。

清里はいいところなのであるが交通弱者であるからタクシーを頼むしかなくてそのタクシー代が10,000数千円になったのである。日本カメラの取材で行ったので領収書を保存しておいて後で精算するつもりがそのまま忘れて1年後に日本カメラは廃刊になってしまったので生産し損ねてしまったけれどもまぁそれはそれでいいか。
0215名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/08(金) 05:49:07.58ID:KLJJoueR0
それから50年も経過してタムロンの人と話をしていた時に私が切り出したのはあの赤羽の営業所と言うのはどう見ても普通の家のようで変でしたねと言ったらタムロンの人は少し大昔を眺めるような目つきをして実はあれは営業所ではなくてタムロンの社員さんが中立になって赤羽でレンズを受けてくれたのですと言うのである。そのことを知らなくて長年などであったのが初めてここで明らかになったのである。

この思い出のレンズ200ミリから400ミリで私が嬉しかったのは当時楢原さんがヨーロッパ1963とか言うアサヒカメラの連載のシリーズを出していてスペインの闘牛を撮影したショットがあるのだがそのキャプションでIKKOさんは、僕は闘牛場でいつも1番長い望遠レンズを振り回していたカメラマンだったと書いている。これは3枚構成トリプレットのニッコール350ミリのことなのである。それに刺激されて後になって同じ350ミリのニッコールレンズ、と言うよりも35センチのニッコールレンズも買ったのであるが、そのレンズはカメラジャングルのどっかに隠れてしまっていまだにかくれんぼ状態なのである。

このタムロンレンズは数年前にネットオークションで懐かしさのあまり手に入れた。ところがレンズマウントアダプターがついていないのでそのうち探そうと思っていたのだけれども、このシンプルなティーシリーズのマウントアダプターと言うのは探すとなかなか出てこないものなのである。
0216名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/09(土) 05:42:01.89ID:RzPfcRX70
私の場合このカメラで撮影中に注意している事は自分の指をカメラに食いつかれないようにすることなのである。ロバートフランクの数多い名作の中で私が1番感心したワンショットというのがあって、それは彼の相撲の中かどこかで撮ったワンショットなのであるが指だかカメラのストラップだか忘れたけれどもとにかく写真家の舞台裏が偶然映っていると言うやつだ。しかしロバートフランクは大写真家であるから我々のようなレベルの低い写真家はそういう写真はカットするのに対し、西フランクの場合はちゃんとそーゆー写真をピックアップしていると言うところが根本的な違いであると思う。

それでこの写真に示すようなスタイルでパノラマ写真を撮影すればまず自分の指が映るような事は無い。ホリゾントパノラマカメラにはご覧のように斜めにカメラから生えたようなスタイルのグリップが付いている。これはなかなかカメラ全体のホールディングをよくするので使ったほうがよろしい。カメラの上のほうに付いているファインダーはアルコールの水平レベルがついているからこれはファインダーの中でもプリズムで屈折して見ることができるが私はもともとカメラのファインダー主義者であるからファインダーは覗かない。ファインダーの上に付いている水平レベルが正しいかどうかをチェックしていると言う状況なのだ。

36枚撮りの普通のフィルムで大体22枚の撮影ができる。この22枚と言うのはパノラマを撮影するときにはなかなか適当な撮影枚数であるから気にいっているのだ。ニューヨークのマンハッタンで撮影した時はこれはもともと私の考えがあったのであの街は世界で唯一パノラマカメラを垂直に構えて撮影できると言う大都会なのである。それでマンハッタンで撮影したショットは全部縦画面で撮影した。
0217名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/10(日) 00:32:19.61ID:wSiiChkU0
隅田川の本流から芭蕉庵の近くで30軒堀と言うのであろうか水路が東側についていてその最初のブリッジが万ねん橋である。不思議な石碑が立っていてそこから見る隅田川の光景がドイツのライン川のなんとかに似ていると言うのであるが、確かに大きな川の真ん中に鉄橋があると言う事はわかるけれどもそれ以上にファーイーストの極東の風景がドイツに似ていると言うのはこじつけではないかと前から不思議に思っているのがこの橋のあるポイントなのだ。

2つ並びの画像と言うのは不思議な効果をもたらすもので、右側にブリッジがあってその左側の風景というのがどこにでもあるような東京の下町のどっかの会社のビルディングなのであるがこういう風に2つ並べて見せてしまうと何か別のドイツ的な画面効果がそこに浮上してくるのである。すなわち左側はドイツのどっかの小都市の表現派建築と言うふうに見えてくるのが面白い。
0218名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/11(月) 00:28:22.87ID:y5eFZKRg0
それの改良型のセカンドモデルと言うのは通常のライカスクリューマウントなのであるがちょっとイタリア人らしい捻りが入っているのでレンズ連動用のカムの位置が時計の12時の方向ではなく6時の方向についている。だからライカの交換レンズでモデルによっては距離計が連動しないと言うところがいかにも第3帝国のお友達と言う感じがして気にいっている。

でも私はそこら辺のフォーカルプレーンシャッターに騙されていてこの一見がアマチュアっぽいような感じのレンズシャッターカメラPerlaに興味を持ったのはそれよりずっと後の話なのだ。パールと言う名前がまた素敵だと思う。Garireo de Miranoの会社は自分の会社でレンズを作っているがローマのほうのこのカメラを作った会社は自分の所では光学レンズは作っていない。それで競争相手のミラノのレンズは使いたくないと言うことであろうかわざわざシュナイダーのXenarつけている。
0219名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/12(火) 12:24:56.56ID:9FlSgH6E0
ウォーカーエバンスはカメラを目立たなくするために隠しカメラのバージョンにしてクロームのコンタックスにペイントでブラック化してケーブルレリーズで撮影をしたそうである。しかも冬物のコートを着てそのコートのボタンの穴からレンズを出したそうであるがこれは結構目立つのである。ウィーンのソ連のスパイカメラのコレクターに見せてもらったが似たような隠しカメラがあってそれは軍服の心中のボタンの1つを透かし模様にしてそこに小さなレンズが付いている。そしてカメラそのものはとても小型で軍服の裏側にぶら下げるのである。それだったら何とか目立たないけれどもゾナーの明るいエフ1.5のレンズだったらかなり目立ったものだと思う。

おそらく撮影者のエバンスは地下鉄の乗客の自然な表情を取るためにそんな手の込んだことをやったのだと思うがエバンスが撮影していた6から35年後にブルースデビッドソンは1番治安の悪かった頃のニューヨークのメトロを撮影してやはり写真集にしている。こちらはカラーである。普通の一眼レフで隠しカメラにしないで普通にメトロの人々を撮影しているのである。

ここら辺がマンハッタンの人の考え方の基本の基本なのであるが路上とかパブリックスペースに登場した自分自身はどのように撮影されても自分も相手もそれは問題がないと言う認識がある。ところが日本ではやれ肖像権がとかプライバシーがとか変な初等中等教育の歪みでそういう余計な町内会自警団みたいな文句をつけてくる連中がいるのはお笑いである。

ブルースデビッドソンはニューヨークのメトロの撮影にはいつも1人で行ったと写真集に書いてある。1939年にマンハッタンのメトロを撮影したウォーカーエバンスには同行者がいたそうだ。
0220名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/13(水) 05:41:31.49ID:Kk7ijJEH0
スイスの中にある小さな国リヒテンシュタインは最近思いつきでできた国ではなくてオーストリアハンガリー帝国のカール一生の頃にできたわけだから写真の技術が登場する数百年前の古い国である。リヒテンシュタインはいろいろな商売をしているが1時はCarenaと言うブランドでスイス製の非常に高級な8ミリカメラを生産していた。しかしスイス製の8ミリカメラではそのコストがかかりすぎるのでヨーロッパのメジャーなカメラメーカーはどこでもそうであるのだが極東のコストの安いカメラメーカーでOEM生産をさせることになったのである。これが30年ぐらい前の話で、その当時私はアメリカのモダンフォトグラフィーのボスの手下であったから、長野県に日本のOEMメーカーの資材によく言ったものである。国産のニコンのカメラが流れているLINEの下をクロスオーバーしてライカの一眼レフの本体が流れていくなどと言うのはごく当たり前のことであった。

それでこのCarenaグランドの手取りの一眼レフはなかなかよくできているので何台か持っている。どうも発注元から注文を取り消されたのかもしれないがスポーツ新聞の安カメラの広告で出ていてセットケースにカメラとレンズ3本が付いて安く売っていたらしい。私が手に入れたのはそういうバックグラウンドのカメラである。

赤瀬川さんがあの頃金属人類学入門で指摘しているようにあの時代からカメラはプラスチック製になってしまった。でもこのカメラはリヒテンシュタインから注文が来るような高級ブランドであるからちゃんとしたヘビーな金属性であってそのブラックペイントの仕上げもしっかりしているのが嬉しい。
私の音声入力はいい加減であるからかれなと入力したら上のようなタイトルに勝手に変換されてしまった。何か足立区あたりにあるカラオケスナックの名前みたいでいい感じだね。
0221名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/14(木) 05:43:28.64ID:L1bNwOvg0
私は中学生の頃アマチュアの8ミリカメラの撮影を始めたのであるがその当時このカメラが欲しくなって値段を調べたら天文学的な数字であったのですぐに諦めた。当時の日本の8ミリカメラのズームレンズと言うのは3倍のズームが普通だったが国産の最高級機が5倍のズームであった。それに対してフランスのアンジェニューの最高級のズームレンズはなんと8倍なのである。最初から極東のズームレンズ等は相手にしていないと言うところがすごかった。

アンジェニューは高いレンズであるというのが我々の先入観であって、ライカフレックスの最初のモデルが出たときに交換レンズとしてアンジェニュー45ミリから90ミリと言う2倍のズームレンズが出た。晩年の木村伊兵衛さんがライカフレックスにこのレンズをつけて上野の桜などを撮影していたそうである。今だったらズーム日が2倍のレンズなんて全然相手にされていないけれども当時は高嶺の花であった。

私は5年ほど前にパリで写真展を開催してもらってもうこれでパリは充分と言う気がしたので当分行く予定も必要もない。たくさんのフランス製のカメラや映画撮影機やレンズに取り囲まれているのでそれだけでパリの空気でむせかえりそうな感じである。
0222名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/15(金) 00:20:17.16ID:iA11qanU0
尊敬するウォーカーエバンスが晩年近くになってどこかのカントリータウンに撮影に行っているときのポートレートが残っていて彼が首から下げているのはワイドアングルローライフレックスであった。そーゆー撮影の気分はよくわかるなとシンパシーを感じているのである。

露出計が壊れているローライマジックであるが私が好きなのはこの画像でもわかるようにGossenの文字がセレン式のトンボの目玉の下に浮き上がって見えることである。これは不思議な存在であって肉眼で見るとこの文字がなかなか認識できないのだ。ところが写真に写すと不思議なことに文字が浮き上がってきてこのようにはっきり見ることができる。これは実はかなりメーカーとしてはおしゃれな自己表現だと思う。ライカやニコンには真似のできないいきな自己表現だ。
0223名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/16(土) 00:24:13.12ID:SHOCHozf0
これも自分の個人的な思い込みなのだけれどもペリークルミラ付きのこのカメラは何台か所有しているがいずれも小岩駅前にあったカメラ屋さんで手に入れていた。それが20年以上前の話なのであるが当時標準レンズ付で値段が15,000円位した。それでも私は20代の青年だった頃の自分のこのカメラの値段がしっかり記憶されているからずいぶん安いなと思ったものであった。

ネットオークションに登場したこのカメラまさにこの個体であるのだがスタートプライスが100円であった。100円ショップの商品では無いのだからあまりにひどいと言う見方もできるが結局私しか入札がなくて100円で落札してしまったのである。そういう事は記憶をたどると以前にもあって3余年前のことであるがタムロンのズームレンズのセットが全部で23本あってこれも100円で落札した。だから私は人生でもう買うべきズームレンズと言うのはなくて人生で全てのズームレンズを買い尽くしてしまったと言うわけだ。

このカメラの唯一の欠点はシャッター音が異常に大きいと言うことなのである。どうもシャッターの構造は当時のメジャーなキャノンのレンジファインダカメラのキャノンセブンと同じなのではないかと思っている。

デザイン上の魅力と言うのはなんといってもロゴの白抜き文字と言うところだな。こういうロゴの書き込みと言うのは調べるってみると意外と例がなくて昭和30年代ごろに作られたボルダー版カメラでウェルというのがある。これは白抜き文字なのである。それもすごいのは英語表記ではなくてカタカナ表記であることだ。まず日本のカメラなのだからそれで当然なのであるが。
0224名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/17(日) 05:49:01.83ID:PsaSv5bR0
赤羽の有名な名所であるお化け屋敷の赤羽霊園と言うのはなかなか知られている。プライベートなお化け屋敷と言うものが街中にあるというのも面白い。四半世紀前に私が出した東京散歩カメラと言う素人モデルさんをもっと使って東京のあちこちを歩きまわる元祖お散歩カメラみたいな写真集があった。そこでもこの赤羽0が登場してくるのだ。

その赤羽霊園のお化け屋敷の近くにあるのがこのドミール小石川1番館である。これがドミールタイムズスクエアとか言う名前であれば人間の想像力の結果としてそういう名前になったのだと理解することもできるが赤羽と小石川は1万キロ離れていないから勘違い間違え迷子になる可能性がないとは言えない。

赤羽は面白いところであって駅のすぐそばのごみごみしたマーケットにおでん屋さんがあるがそこはいつも関西から来たツーリストさんで賑わっている。しかもアーケードの仄暗い感じがカイロでよく歩いたキャラバンサライに似ているのであるがそのおでん屋さんのそばまで来ると、ちゃんと関西弁が聞こえるから何か空間状況が似ている大阪の天王寺がどっかのアーケードの街角にいるような気がしてこういう環境にあればもう大阪に行く必要は無いと感じるのである。

バルセロナの1番の繁華街グランプラスにカフェウィーンというのがあってお店全体が素敵な色のクリスタルグラスでできているような感じのお店であって、バルセロナではよく通ったものである。でもバルセロナとウィーンは3000キロ離れているから間違いによる勘違い土地の名前の行き違いと言う事は無いのだ。
0225名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/18(月) 11:57:10.53ID:LP49UPaJ0
このカメラが有名になったのは私の少年時代に音羽通りにある唯一の映画館音羽名画座で見たウォルトディズニーの記録映画砂漠は生きていると言うタイトルの映画だった。メインはコダクロームで撮影してそれから劇場用の35ミリの上映用フィルムにプリントしたと言う事はずっと後になってしたのである。

当時の映画製作者はこのカメラと一緒にArriフレックスも使っていたと言うのもコダックのカメラは一眼レフの装置はついていたけれども撮影中の画面を見ることができなかったのである。この画像が示すようにここに並んでいるのは2つのごく初期のズームレンズである右側のほうはフランスのBertioが作ったものでSideファインダーがつくようになっているし,左のモデルはZoomerの3倍ズームだが初期のズームレンズであるから付属の光学式ファインダーが付いている。ズームレンズのもとになる名前の会社である。もともとはミュンヘンのキルフィットであった。

こんな初期のズームレンズでも当時は非常に画期的なプライムレンズを超える新しい存在であった。ところで真ん中に置かれている赤い表紙のインストラクションであるが実はこれが結構珍しい。最初ウィーンで手に入れたこのカメラのアウトフィットについていたのは表紙はブルーなのである。その後何冊か同じインストラクションを手に入れたが表紙はブルー。そして持っている一札だけはこのようなレッドのカバーなのである。どうでもいいことなのであるがその理由は不明である。インストラクションの内容に関しては全く同じ。
0226名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/19(火) 03:15:21.44ID:8Djr0xn90
このカメラがユニークなのは結構精密なレンジファインダー付きであるがファインダーとレンジファインダのウィンドの位置関係がライカのようなものではなくミラーイメージになっているのである。だから慣れないとちょっとまごつくのだがそこがこのカメラの魅力と言うわけだ。

フイルムを巻き上げるとシャッターをチャージするセルフクッキングを当時としてはかなり早く導入しているのであるがそのメカニズムが外からそのまま見えると言うのもカメラの機械付には好きな光景である。

最近このカメラの相場が結構安くなってきたので私のようなこのカメラの好きな人間にはありがたい次第である。何しろ日本がまだ講話条約締結するかしないかの頃の貴重なカメラだ。

80ミリの望遠レンズというのが別に用意されていて15年位前にガラクタ屋さんでそれが登場したのである。小型の望遠レンズはアルミで削り出しの容器に入っているのも素晴らしかった。私は同じような工作のコダックのエレクトラと言うカメラの交換レンズのアルミニウムのコンテナをウイスキーを飲むときに使っているのでそれと同じような感じでアルミのコンテナでウイスキーを飲んだら直後に気持ちが悪くなった。内側に塗装してあるマットブラックのペイントがアルコールで溶けたものと見える。それ以来そのような馬鹿なお酒の飲み方をするのはやめた。

このカメラの仕上げは戦争直後とは思えないほどに素晴らしい。さらにデザイン上で高く評価しているのはフロントのエプロンが直線ではなく非常に難しいラインの放物線みたいな感じでフォルムを構成している点にある。
0227名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/20(水) 00:26:58.61ID:i604Ki2D0
コルゲンコーワケロちゃんの会社は他にも各種のレンズシャッター式の焦点距離の違うカメラを作っていてそこら辺で我々はそれから50年も経過して非常にお世話になっているのである。ところでこのワイドカメラであるがバージョンが2つだけある。1つは露出計のついていないモデルでもう一つはこの露出計のついている持ってるである。

写真家としてスタートしてずっとこのカメラを使っていて露出計のついている方なんかは馬鹿にして使わなかった。ところが10年位前にネットオークションで偶然手に入れて使い始めたのである。操作感覚で1番違うのは巻き上げレバーがカメラの裏側に付いていることだ。当時のカメラの流行として電気式露出計と言うのは絶対入れないとお客さんが買ってくれないと言うようなポイントがあったようである。時代がかなり降ってからまだフイルムカメラでコンパクトカメラ時代にパノラマモードと言うフィルムの上下をちょんぎった細長いフォーマットにしないと買ってくれないと言うのでコンパクトカメラ各社が全部そのどうでもいいようなフォーマットを真似して作ったのはばかばかしいがそれと似たようなマーケットのバカバカしさであったと思う。

カメラのトップの場所に電気露出計を入れるとなるとそこにフィルム急送関係がおけなくなるからそれぞれのメーカーは苦労してカメラの反対側に巻き戻しクランクをつけたりあるいは奇想天外なからくり座異空の人形みたいに動力を長い軸で下から上に移動させたりとか日本人の頭の良さが出すぎていてカメラ開発の苦労が偲ばれる。
0228名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/21(木) 02:15:54.45ID:nj285lCD0
本日、木村伊兵衛先生のご命日。
ならびにあたしの誕生日。64歳。
プラハの2週間の間に一度だけカメラ店に行った。
その理由は上のビオター75mm !1,5のフィルターとフードを探しにいったのである。プ ラハはクラシックな東欧カメラをみつけるには恰好の場所だけど、実用の中古というのは 案外に発見は困難である。
アトリエでまずフィルター径を計ったら、55mmと出た。これがちょっと意外な感じが したのである。1940年代のツアイスはまず40,5ミリが普通であるから55mmという のはかなりの大口径になる。
なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分か っているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我 が任務である。 ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であ るから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。
それに対して、ビオター75mm !1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが 実は現在なわけだ。 プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm !2というのがあ る。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字 の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売 り」はしない。
あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れよう
と思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かな
かったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追った
りするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。
帰国して翌々日はシドニー(アローカメラが毎週第四土曜の午後2時から開催のあたしの トークでもう十数年開催。入場無料)だったので、二代目さんにフィルターを探してもら った、幾つか選んでもらった中から55MMの径のなるべくクラシックな感じのを選んだ。 Toshibaの60年代のやつにした。
0229名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/22(金) 05:20:48.77ID:xSv11+ua0
このホールドグリップというのは、以前からヤフオクに出ていて、人気はどっちかと言う とあまり無いようであった。 その理由はどうも写真の映りが「王様のアイデア」めいていて「しょぼい」のである。と ころが実際に物を手にとってみると、これは精密な樹脂で構成されたものでそのクローム の仕上げなどは50年代のM3に匹敵するほどの良さなのである。 それで気に入ってしまった。
これは阿佐ヶ谷あたりの工房で製作しているものらしい。 これからは、ライカビットもいいが、節電の為?にライカ人類は「ホールドグリップ」が 良さそうだ。
突起物ではないから、これなら空港のセキュリテイでビットの引き金のことで問題が起こ
ることもない。
この「巻けないビット」がマイナス印象なのは、その正面のロゴである。不思議なロゴタ イプであり、サイズが大きすぎるのがマイナスイメージだ。
ところが背面は実にニートであってGushokohbou 10th Anniversaryの刻印がある。し かも個別のシリアルナンバーが付いている。あたしのモデルはM用が105090でバルナッ ク用が105029であった。
本家のライカビットにはそのようなシリアルは付いていないのだから、なにかこっちの方がかっこいいな。
0230名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/23(土) 01:56:37.67ID:z4tDPwt00
同じ時代のライカでコレクターズアイテムになっているのはレッドシャッターカーテンと言うやつで日本の不調では赤幕と呼んでいる。普通のシャッターカーテンがブラックなのに対してこちらはレッドなのである。その理由は不明でいろいろな伝説があるのだが1番信頼されている伝説の1つがドイツ軍のパラシュートの素材で色が赤いのがあってそれしか手に入らなくなったのでやむを得ずその素材を使ったと言うのがあるがあんまり信用はできない。しかし一方で考えてみるにカメラのフォーカルプレーンシャッターはブラックと決まっているからわざわざ赤い素材を使わなければならなかったと言う理由を理解するには十分な説明だと思う。

バルナックライカの場合にはカメラボディーのフイルムのすぐ裏がプレッシャープレートでやってるからそういう差別的な表記を自慢してみせると言うためにはレンズを外した方向すなわちレンズマウントの内側でそういうシンボルを確認する必要がある。ここら辺がなかなか複雑な心理状態だな。

コパルスクエアと言うのは金属製の立場尻シャッターユニットで関西の発明家茶谷さんと言う人が製品化して茶谷シャッターと呼ばれていた。それまでの高価なフォーカルプレーンシャッターは各カメラメーカーが競争で制作していたのであるがユニットシャッターを提供することで大幅に安定性がましたし価格も安くなった。

ニコンカメラでこのシャッターを最初に導入したのはニコレックスエフである。その当時私はすでにニコンエフを持っていたが池袋のカメラ屋さんで新型のにこれエックスエフを見せてもらって裏蓋を開けたらそこに輝かしい英文の文字列が並んでいたのでこれはニコンエフはもう負けたと思ったのである。複雑な金属マークのシャッターと言うのは微妙な曲線を描いているがその曲線に合わせて英文の文字列が並んでいると言うところが未来感覚満点であった。
0231名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/24(日) 05:59:17.54ID:QbBW+yYH0
それで友人からもらった自転車に乗って新坂下から荒川土手を走って赤羽経由で東京に向かって適当なところから隅田川を川に沿って南下して銀座に出て帰りは世田谷から碑文谷の友人が経営しているフォトギャラリーのオープニングに顔を出してそこでフルケイタリングであるから結構飲食をして深夜に環八を北上して高島台に戻ると言うルートだとこれで走行距離が100キロになるのである。30代の元気な盛りであったからそのぐらい走らないと落ち着いて寝られないと言うような状況であった。

その時私が始めたのが自転車エッセイとでも言えるジャンルの雑文であって自転車で走っていると通行人の会話の1部だけが聞こえるから何かトリスタン・ツァラと言うべきかチューリッヒダダイズムと言うべきか言葉の輪郭が立体化して立ち上がってくるのである。そんな自転車エッセイを当時どっかに書き散らしていたこともあった。無論これは紙の印刷媒体である。インターネットなんかまだ登場する前の話。

1990年に佃島のほうにやってきて30年以上ここでうだうだしているのであるが、30年前にまだ御茶ノ水から淡路町にかけてのあのごみごみした面白い街並みがつまらない都市計画でモダンになってしまう直前にそこら辺の自転車屋さんで赤いMTBを手に入れた。価格は今でもよく覚えていて68,000円であった。以来これが東京を歩きまわる私の足となった。

Ω真理教の事件が起きたその日であるがその当時私は腰痛にやられていて六本木の小島整形外科に通っていたのだがこれが自転車なのである。腰痛で歩けないのに自転車では大丈夫と言うのが不思議だ。まだ六本木ヒルズができるずっと前のことである。

その自転車は20年近く前に年末の自転車をお掃除でどっかに持っていかれてしまった。それで私はそれを限りに自転車を使うのはやめようと決めたのである。
0232名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/07/25(月) 08:13:40.63ID:HintTCW60
姓名判断に詳しい家人の話によると田中と言うのはとんでもないそんな苗字であって絶対結婚したくない相手の苗字というのが田中だったそうであるがこんなことになってしまった。それで昨年で50年の金婚式と言うわけである。私の先祖は千葉県銚子で醤油製造業をやっていた田中と言う家なのであって私が26代目と言うことになっているが、もともとは紀州の方から出てきた人で最初は別の苗字であったそうだそれがどういう理由か知らないが田中と言うしょうもない名前を受け継いでしまったと何かで調べたら出てきた。

しかし田中と言う苗字になってしまったから仕方ないと言うので田中に関係するカメラ等は贔屓にしているのである。この田中カメラがそうであって1時はアメリカで大量に植えて結構成功していたらしい。すなわち当時のライカのボディーに対してライカコピーのTanackと言うカメラは望遠レンズ標準レンズ広角レンズ3本ついて本家のライカの値段より安かったそうである。アメリカ人は実用主義のところがあるからライカであろうが田中であろうが全然問題ないと言うわけだ。

それで会社が左前になっていろいろなことを考えたのはその頃のライカコピーを作る日本のメーカーはどこでも同じであって最終的には倒産するのであるけれども、このメーカーで私がかなり認めているのは当時のライカバイオネットマウントと同じレンズ交換システムを作ったことである。ただしパテントの関係があるから同じものは作れなくて本家のライカはバヨネットの爪が4本だけれどもこちらの田中さんのは3本と言う違いがある。

別に親戚でも何でもないけれども結構贔屓にして以前は3台のTanackV3を所持していてレンズもスクリューマウントのライカ声などを使っていた。ところが問題になるのはこのカメラを買うとライカスクリューマウントの標準レンズが付いてきてオリジナルのバイオネットマウントにつけるためのマウントアダプターが1つだけついてくる。この下手な商品戦略はその
当時問題にならなかったのかな?
0233名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/02(火) 23:32:03.81ID:WbuOzUEA0
枕のことでいつも思い出すのは私の好きな作家稲垣である。彼は戦前彼の故郷だった兵庫県明石市に引きこもっているときに稲垣のサポーターから名前入りの原稿用紙を1000枚作ってもらった。それがVita Makinicaris用原稿用紙と言うのである。これに清書した作品を東京の出版社10件以上に持ち歩いて全部ボツになって夜にはそれを風呂敷で包んで枕にしていたと言うのは何か作家として非常に合理的な振る舞いであったと感心している。

ところが長いことその原稿用紙の枕で寝ていると頭の油が染み出してきて最初の20枚か30枚の原稿用紙が頭の油っぽくなっていると言うのはリアリティーだ。最後の方では新潮社の編集部から何か適当なものはないかと依頼があってその700枚高の原稿を預けて今度こそきりがついたと思ったのにまたが返却されたと言うのである。

それで戦後になって稲垣は新潮社の文芸雑誌に掲載した同名のタイトルの原稿に騙されて寄ってきた若い編集者伊達を騙して彼に小さな出版社を作らせてそこから出したのが当時定価260円のVita Makinikarisであった。

私の場合枕はその意味で売れない原稿の束と言うイメージが1つ。もう一つは私は蕎麦殻の枕の愛用者なので、お昼に食べているのもおそばだから関係が結構深く思われる。
稲垣の枕でもう一つ思い出したのはそれ以前の時代に神楽坂で苦労しているときにもう食べるものがなくなっていつも使っている枕の中に小豆が入っていることに気がついてそれを米屋に売って生活に当てたと言う話もなかなかよろしい。必要は発明の母等と言う名前優しい人生訓をはるかに凌駕している。
0234名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/03(水) 06:03:01.09ID:lwsMcpqj0
リコー35と言う戦後によく売れたカメラがあって私はこれが好きでたくさん持っているけれどもこのリコー35の最大の欠点はフォーカシングがフリーズするのが多いと言うことなのである。その当時このカメラを作ったリコーの長老に聞いてみると何か当時の新しい金属材料を使ってそれをスムーズにするための特殊なグリスがあるのだが経時変化でそれが接着剤のようになってフォーカシングが動かなくなるのだそうである。

だからフォーカシングがフリーズしたカメラの使い方というのが私の場合にあって理想的にはインフィニティーでフリーズしているのが私の写真の場合は1番ショット数が多いから便利なのであるが、このゴールデンビューのほうは12フィートだから考えてみたらアンリカルティエブレッソンがスナップをするときにいつもエナメルをフォーカシングリングに盛り上げて指でそのエナメルに触ってピントを合わせるというのが彼の場合8フィートなのである。

だから自由にフィートでフォーカシングリングがフィックスされている私のカメラは3.6メーター撮影の専用特殊カメラと言う使い方をしていれば何の問題もない。ところが最近ネットオークションで見ていたら、同じゴールデンビューのカメラでフォーカシングがインフィニティーで設定されているカメラがあるのでまた欲しくなった。私の考えが変わっているのであってもう最初からフォーカシングリングがインフィニティーになっていればそこで距離がフリーズしていて動かないと言うふうに最初から思い込んでいるっていうのも病気である。

3年前の私のヤフオクの購入記録がわかったのも愉快痛快であるがバックゴールデンビューで検索すると三重県津市にある同じ名前のマンションをヒットした。こちらは早とちりであるからそこの三重県津市の会社でこのカメラが作られたのかと思った。
0235名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/04(木) 08:36:24.73ID:nKo0Xf840
それ以外に使っているカメラはロシア製のライカコピーカメラであるがその中で1番気に入ってるのがこのカメラだ。まずクレムリンに赤旗が翻っていた時に作られたカメラと言うわけでもなかろうが、歴代のカメラの中でカメラの名前のロゴタイプがレッドであると言うのは意外とないのである。どのような理由で作られたのは不明であるけれどもクロームのバックグラウンドに赤いロゴタイプが押されていると言うのは非常にデザイン上から見てもバランスがよろしい。

それが理由と言うわけでは無いけれども安価なソ連製の28ミリなどをつけてこのカメラはよく使ったものである。それともう一つこのZorky5の魅力はレンジファインダーが丸ではなくて真四角であることだ。そこら辺はライカエムモデルのレンジファインダーが四角であると言う所の刷り込み現象から来ているのは明らかであるがレンジファインダーのダイナミズムと言うようなものがこのモデルには感じられる。

その次のモデルがZorki6と言うのであるがこれはまた元通りレンジファインダの窓が丸くなってしまった。ただしモデル6で面白いのはこれもその理由は不明なのであるけれども楕円形のネームプレートをスクリュードライバーで外すことができるのである。そしてそれを裏返しにして固定したりすれば名前のわからない無名のカメラになったりするのも愉快である。ウィーンに暮らしていた頃にそんな遊びをやってカメラのネームプレートに裏返しにしてからChotokuと言う下手な手書きのロゴをフリーハンドで書き込んでそんなカメラを使って得意になっていた時代もあった。

四半世紀ほど前にモノマガジンの編集部で社長の今井さんから依頼されてカメラ本をずいぶんたくさん出版したのであるが、その中のムックのシリーズにChotoku Cameraと言うタイトルのがあった。これはもともと50年前にカメラプレートを裏返しにした関係でそんなタイトルの雑誌ができたのであろうかと私は考えた。
0236名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/05(金) 11:02:22.69ID:fc/Vh8oU0
このライカはまさに人生の目的としてそれを手に入れるのにふさわしい対価だった。当時の日本での値段を調べると50ミリef 3.5の標準レンズ付きで900円もする。林文子が描いていた小説で当時のタイピストのお給料が40円と言うから900円がいかに高額であったかがわかる。

1939年と言うのはライツの会社にとって画期的な年代であってこの年に当時世界で1番明るい標準レンズと呼ばれたXenon 50mm f1.5が登場した。まだ若かった大写真家の桑原Kineoさんは当時日本橋にあったライカカメラの総代理店でウインドウに鎮座している最新型のライカカメラにつけられたこの明るいレンズを見るために日参してため息をついたそうである。

1951年の講和条約記念号の後のアサヒカメラの広告などを見るとスクリューマウントの最新型のライカスリーシーは中古で50,000円位の値段になっている。その直後にライフの写真家デビットダグラスダンカンが朝鮮戦争を取材に行くと言うのでいちどに5つのライカカメラを買ったそうで当時いかにアメリカのジャーナリストがお金持ちであったかがよくわかる。

当時すでに国際的フォトジャーナリストとして活躍していた三木淳はライフと契約していて月給が300,000円だったと言う。講話条約の締結に行った吉田茂の給料が100,000円だったのだ。
0237名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/06(土) 06:56:18.40ID:fT977SlZ0
それでその40年以上前のウィーンの暮らしでよく家人と馬鹿話をしていた時に出るフレーズというのが

ここは赤羽ではない!!!

のブラックユーモアであった。要するにwinのように歴史的な建築物が田中構造になっているところに暮らしているとファーイーストの掘っ立て小屋のような無秩序な建築物に憧れると言うようなところがある。ウィリアムクラインと30年位前にプラハであって毎日雑談をしていた時に位に日本2957年に来たときの第一印象を聞いたらやはり同じような意味のことを彼のサイドから感想として行っていたそれは

日本は前衛生花みたいなところだ!!!

東京オリンピック1964前後の優れたスナップシューターであったかろうワイド使いの春日さんの写真集をこの間見ているときにウィーン時代の私の地理学的な間違いに気がついたのである。春日さんの仕事の中でいくつか好きな写真があってそれは傾斜した地域に立っている八百屋さんとかそういう商店街のワンショットなのであるが今まで私がそれは赤羽であると思っていたのが実際にデータを見るとそうではなくそれは東中野なのであった。

しかしこういう言葉遊びと言うのはだから真実の場所が赤羽ではなくて東中のであると言うふうに訂正するのはなかなか難しくてやはり私にとってはウィーン時代にヨーロッパから見たファーイーストの印象はと言うよりかファーイーストに移ったヨーロッパの印象と言うのはここは赤羽ではない!!!
0238名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/07(日) 00:25:58.71ID:c9zjZCN20
アンリカルティエブレッソンは第二次大戦中はフリッツに対して戦ったのにその後はどちらがどう歩み寄ったのか、平和国家になってからドイツのライカの会社は戦勝国のフランスの写真家は使えると思ったのであろう。

考えてみればアンリカルティエブレッソンは1932年にまだ若造でヨーロッパを放浪しているときにフランス南部の港町で出たばかりのライカカメラに出会ってそれでライカにのめり込んだのである。だからライカカメラとのお付き合いは非常に長いわけだ。

この写真は戦後に撮影されたまだ初老時代のアンリカルティエブレッソンである。決定的瞬間のスナップショットの天才と言うわけで彼は自然なこれをどうやって撮影したのかわからないような素晴らしいスナップショットを撮影している。それでブレッソンをして当時はビロードの手とたかの目などとニックネームをつけられた。

ブレッソンが手にしているのはブラックペイントのライカM3である。一般に流布されているブレッソンのブラックペイントのM3と言うのはこんなにきれいな状態ではなくて、ブが全部むき出しになっているピカピカのカメラなのである。言い換えればアローカメラ我楽多屋にブレッソンが買取依頼してもあまりに汚いので、これはお使いになったほうがいいですよーと断られるクラスなのである。

ブレッソンが使うレンズは50ミリのF2レンズ1本だけであの傑作をその1本のレンズだけで撮影してきた。その頭ミクロン50ミリの写真が時々ネット上に出ているがこれがまたものすごく程度の悪いレンズなのだ。レンズそのものはキレイなようでブレッソンはレンズが傷つくのを恐れていつも紐をつけたレンズキャップを持ち歩いているのである。

それはともかくとして頭ミクロン50ミリのレンズ本体を見るとこれが不思議なのだが仕上げのよかったはずのクロムが全部離れて下のブラスの地金がむき出しになっている。ライカ仲間とこれは一体どうことなのか話し合ったことがあるが、おそらく天才カルティエブレッソンの手のひらに生じる汗というのが異常なPH濃度を持っていてクロームメッキを溶かすほどのなのではないかと言う結論に達したのである。
0239名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/09(火) 00:57:45.93ID:nhpn7WWr0
ウィーンのオークションで実際にこのカメラを手に入れてそれで遊んでいるうちに私はこのカメラを作っていたパリの北駅の北側にある当時の会社の跡地を見に行きたくなった。別にその会社の現物があると言うわけではなくて例えばイタリアのローマで戦後いち早く35ミリ一眼レフを作っていたレクタフレックスの会社の跡地を見に行ったこともある。これは実際にまだその時代のファシズム建築が残っていた。おそらくPontiacと言う名前のこのカメラを作っていた会社も建物が存在しているのであろうがそれを調べるまでの興味もない。

そのうちにこの会社のカメラの歴史を調べてみたらなんとその後フランス領モロッコにも工場を持っていたのだそうだ。それで急にカサブランカに出かけてこのカメラが作られていた時代の空気を強くしようとした。このカメラデザインそのものは何かパリの土地柄と言うよりもモロッコの方が似つかわしく思える。

この雑誌の広告で私が感心するのは、その大胆なグラフィックデザインに尽きる。日本のカメラの広告だとすぐカメラの製品の上に有名な俳優例えばニコンの場合はキムタクを廃止したりして全部をぶち壊しているのである。キムタクが広告に出ている当時にキムタクのことを知らないヨーロッパ人と銀座か有楽町を歩いていた時に彼はキムタクのニコンカメラの広告を指差してこいつは誰だと私に聞くのである。日本で活躍している有名な俳優らしいよとだけ答えたが私もよく知らなかった。その、こういう広告は知的なレベルが高いと思う。
0240名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/10(水) 00:23:09.15ID:l+L4rZID0
私は数年前にイタリア製のGami 16ミリカメラのアウトフィットを部屋でどこかにしまい忘れて。4年が経過して発見できないしつい先月の6月26日の朝に1973年にウィーンの古道具屋さんで手に入れたサルバトーレと言う名前のバロック時代の彫刻が雲隠れしてしまったのである。これは怪盗ルパンの仕業であるかまたは異次元空間に紛れ込んでいるのであろう。

それで話を戻すとキャノンF1のオリーブドラブカメラのパンフレットの内容であるが、この優れたデザインからするとこれは当時日本デザインセンターと同じにタイマンを貼っていたライトパブリシティーの
仕事であることは間違いない。

わが日本デザインセンターが銀座1丁目でニコンの手下、対するライトパブリシティーは銀座六丁目でキャノンの手下と言うことになっていた。だから日本デザインセンターのデザイナー連中も六丁目に対しては敵ながらあっぱれと言うことで認めていたのである。それ以上に篠山紀信さんがいた広告代理店だからな。

それでこのパンフレットの文字をいろいろチェックしてみて面白いことがわかったのはオリーブドラブのカメラを作ろうと言う企画はおそらくキャノンのやり手の人が考え出したのであろうがそのコンセプトがうまく伝わっていなくてメインのキャッチコピーにしてもコピーライターがかなり苦労していたことがわかるのが面白い。

本来オリーブドラブのカメラは軍用カメラから来ているわけであるが、カメラと言うのは平和産業であると言う憲法9条の大原則があるから広告の方向がどっちに行ったかというと結局ネイチャー写真方面に落とし込みをつけているのである。
0241名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/12(金) 07:18:28.03ID:0wCx7+S+0
醤油屋の田中と言うのはもともと17世紀の初めごろに紀州の方から来た家系のようで当時は田中と言う名前ではなかった。それが何かの理由で苗字が変わってしまったのである。その田中の家が醤油製造業を辞めたその前後の事と言うのはどうも関係者は語りたくないような事実があったようで私もきかされていない。ところが面白いことに20年以上前だが銚子市に行ってある個人ペンションに宿泊したときにそこの本を東京の大手のホテルで仕事をしていたオーナーが私の名前を見てひょっとしたら田中様の関係のご子息でいらっしゃいますか?

などと聞かれたのである。世の中に人の噂も75日と言うけれどもこの時点で既に100数十年が経過しているのであるからその当時の経営者が変わったと言うのはよほど大きな異変がそこにあったものと見える。

いわゆる没落家系と言うものに私がシンパシーを感じると言うのはそこら辺であって例えば内田百鬼園も岡山の造り酒屋が没落した成れの果ての流れでああいう人生が展開したのだし、種田山頭火なんかもそうだね。

しかし考えによってはこうして後期高齢者になって勝手なことをやっていられるのはありがたいことでまん万が一醤油醸造業などを注いでいたら趣味はライカとか言うことになって最新型のライカデジタルカメラを持って趣味のライフワーク何かを撮影していたらまた大変不幸な人生であったわけだ。
0242名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/13(土) 07:46:01.72ID:oZFLZUAD0
偽物ライカ同好会と言うのを20年来作っていてその会長さんがライカのレンズとカメラのコレクターである。それである時私にこの野口ルックスを貸してくれたのである。当時1,000,000越えの高いレンズであったが最近のオークションでは2,000,000円どころか3,000,000円位の値段になっている。だからどうこうと言うわけではもちろんない。

このレンズが登場したときの宣伝文句がライカのマイスターが手で磨いた非球面レンズと言うのである。こういうのはライカ人類はイチコロで信用してしまうのだ。

テストと言うのは簡単なものであってこのレンズの組み合わせで撮影して1枚撮ったら次はレンズを交換して私が50年以上愛用しているソ連製のジュピターレンズを交換するだけである。その結果が面白かったのはシャープネスに関してはどちらも神乙つけがたい優秀なレンズである。ただひとつの違いはライカ野々口ルックスはカラーの発色が非常にニュートラルであったこと。私の使っているジュピターレンズはかなり黄色っぽくなったことである。

単にそれだけの違いであるが私は1960年代のドキュメンタリー映画みたいな色の悪いから写真というのが好きだから非常に納得した比較テストの内容であった。この2つのレンズをデジタルライカであるM10でテストしたこともあるけれどデジタルライカの場合だとPhotoshopで色はかなり変えられるから逆に面白くないのだ。
0243名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/14(日) 00:17:51.73ID:4RrTr53g0
伊丹十三であろうと渋澤龍彦であろうとそして三島由紀夫であろうと彼らがヨーロッパを訪問したときの基本的スタンスは開発途上国のツーリストなのである。渋沢龍彦等はプラハのツーリストが来る歌う噴水というのがあってそのことを細かく書いているし、三島由紀夫に至っては帰りの南回りの飛行機の中で自分の持っている米ドルがあとどれだけ残っているかと言うことを細かく書き連ねている。まぁいっぺん三流国から一流版の国に行ってそれからまた現在三流国に戻っているからもともとの状況になったと理解すれば何の不思議もない。

ところでこの見開きの2枚の写真を細かく観察するとなかなかそのディティールが細かいのに感心する。十数年前に知り合いのNHKのBSの人に呼ばれてNHKの連続ドラマのオープンセットを見せてもらったことがある。それは私はテレビは見ないから知らないのだけれども何か月島をテーマにした連続の朝のドラマであったようで、そこに使うための小道具がいろいろ並んでいた。

それで面白かったのは私が月島で飲みに行って帰りに酔っ払ってその前を通る赤い郵便ポストと、お中元大売り出しの上りなのである。この2つが暗いスタジオに並んで置いてあると他の細かい場所は作り込みをしなくてもいいかにもそこが夏の夜の月島の商店街と言うふうに見えるのである。

それに対して春日さんが撮影したこの光景が完璧だなぁと思うのはこれはその時代のリアルな風景が何の衒いもなくそこに展開されていると言うことだ。富士フイルムの小さな看板とか八百屋さんのスイカの並べ方などにしても今のドラマの大道具さん小道具さんが及ぶところではない。

だから写真の重要なポイントは記録なんですねと言われそうであるがもともとそんなことを私は語っているのでは無いのです。
0244名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/15(月) 05:27:35.67ID:yLwSBReT0
ところでこのオリーブのF1であるがオリーブ色のライカM3に比べてチャーミングなところがあってそれはライカM3の場合は文字のロゴタイプの部分は白いペイントであるのだが、こっちのオリーブのF1の場合は何かロゴの存在感が優しく感じるのである。それでよく老眼の目でオリーブのF1のロゴを見るとこれは完全なホワイトを使っているのではなくてちょっとフェードさせた色合いでイエローみたいなペイントでロゴが塗られているらしい。

だから視神経に感じる刺激というのがなんとなくフレキシブルであってそういう細かいどうでもいいようなことなのではあるけれども、そういうどうでもいいようなことがカメラを手にして写真を撮ってやろうと言うときの結構重要なジャンピングボードになっていることもまた確かなのだ。

何十年も前の話になるが手元にあったニコンエスツーのクロームのモデルをその手の専門家に頼んでブラックに理ペイントしてもらったことがあった。それを受け取るときにそのスペシャリストが言うにはホワイトを入れるとちょっときつい感じになるので少しイエローを混ぜましたと言うような短いインフォメーションを私にしてくれたのでなるほどなと思ったことがある。

ところでこのキャノンのロゴタイプであるがカメラが最初からできた頃からほとんどロゴタイプのスタイルに変更がないと言うのは偉いと思う。ニコンの場合は最初のぐにゃりニコンが好きだったのにニコンのSPから道は変わってしまったし会社のブランドの顔になるCIもそうであるがそれ以前のニコンのブラックとイエローのキビキビしたカラーコンビネーションに対してその後何か寝ぼけたような感じのブルーを使うようになってあれでダメになっちゃった。企業イメージとしてさわやかとかそういうイメージを入れるとすぐブルーにしちゃうのは大問題だと思う。
0245名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/19(金) 05:26:47.58ID:ULI0ZiRT0
私などはいい加減だから場所だけわかればもういいやと言うことにして戻ろうと思ったのだが同行のアサヒカメラの編集部の野本さんはそこら辺の家に入ってあ聞き込みの取材をするので。ジャーナリストはこうでなければダメだと尊敬したのであった。

このカメラに関しては坂崎幸之助さんと1時マイブームになっていろいろ話し合ったことがあって坂崎さんが言うにはこれは日暮里で作られたからNippolレンズと言うレンズなのでしょうねなどと言うのである。まさにその通りなので坂崎さんの感覚には恐れ入った。

1985年ごろに大阪の風景を8 × 10インチのカメラで撮影すると言う仕事のためによく大阪に行って近代建築を映していたのであるがその時にどこかの中古カメラ屋さんに行ってこのDolcaを手に入れたのである。それから何十年も経過して東京で有名なカメラコレクターの追悼式があったときに大阪から見えたMさんと言う人と中古カメラの話をしていたらなんとその人は私が1985年に大阪でこのカメラを買ったときにその中古カメラ屋さんの店番をしていたと言うのである。世の中狭いのでびっくりした。

Mさん上神戸の高台にお住まいでアストロベルリンのレンズで庭の花を撮ったりするようなハイブローな方なのであるが人間の出会いと言うのは不思議である。そのカメラレンズ人類も数年前に昇天してしまったのが残念である。
0246名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/20(土) 01:54:18.07ID:eR4iCLH30
そのウィーンの古道具屋の元締めみたいなところでこのカメラを買ったときの私の興味の中心は缶入りカメラと言うことであった。そのまま日本に持ち帰って50年ぐらいになって、20世紀の終わりの話であるがリコーがフィルムカメラのジーアールワンを出したときに企画のお手伝いをしていたので、このカメラとかんからの実物を履行に見せて

はそのウィーンの古道具屋の元締めみたいなところでこのカメラを買ったときの私の興味の中心は缶入りカメラと言うことであった。そのまま日本に持ち帰って50年ぐらいになって、20世紀の終わりの話であるがリコーがフィルムカメラのGRワンを出したときに企画のお手伝いをしていたので、このカメラと館からの実物を理子に見せてこういう缶入りカメラにしたらどうでしょうと提案したのであるが私のプレゼンの仕方が下手だったせいで実現はしなかった。

数年前にネットオークションでこのカメラを出したらそれを落札した人が田中長徳研究科で私の昔の出版物をよく探してきてくれる秋沢さんと言う人なのである。つまり適材適所で缶入りカメラが新しいコレクターの手に移ったと言うわけだ。
0247名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/22(月) 06:03:48.55ID:7thB8Z7c0
1970年代終わりになって一般的なカメラの電気かが進んだ影響でこの最後のロボットが登場した。sc 35というモデルである。ロボットカメラはけっこうなコレクションを作ったのであるがこのカメラが私が入手した最後の本物のスパイが使うロボットカメラである。シャッターはオートマチックであってフィルム感度を設定しておけば絞り優先で電動式に写真がどんどん撮れると言う優れものだ。

ただし問題なのはそれまでずっと使われてきた24ミリ× 24ミリよりもカメラのサイズを小さくしようと言う会社の願いが叶ったのであるが、面倒なのはフィルムローダーで普通の35ミリフィルムのパトローネよりも小さいパトローネにフィルムをまかなければならない。ただし問題なのはそれまでずっと使われてきた24ミリ× 24ミリよりもカメラのサイズを小さくしようと言う会社の願いが叶ったのであるが、面倒なのはフィルムローダーで普通の35ミリフィルムのパトローネよりも小さいパトローネにフィルムをまかなければならない。

それで画面サイズはハーフサイズよりもさらに小さくて24枚が撮影可能だがスパイの皆さんはそんなに手先が器用では無いからかなりフイルムを用意するのにてこずったのではないかと思われる。15年ほど前に日本郵船の1000ページの写真集を作った時に実際にコンテナ船に乗って撮影をしたのであるが、その時遊びようにこのカメラを船内に持ち込んで別にスパイ活動をするわけでは無いけれども35ミリのモノクロフィルムで撮影した。なかなかよく映った。

結局 長年 スパイ カメラ は フィルム を ベース に 作られて いた 時は その 小型化 に 限界 が あるから 今 では スパイ の 皆さん は iPhone みたいな もので 撮影 を して いるので あろう か ?
0248名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/23(火) 00:22:56.88ID:4XRKt3Hh0
マンハッタンを撮影し始めてすでに40年の時間が経過しているのであるがこの界隈を歩いていて面白いのはドキドキ地元の写真学校の学生さんみたいな人が慣れない手つきで4インチ× 5インチの大型カメラを三脚に乗せてカメラポジションが決まらなくてうろうろしているのを見ているのは面白い。要するに学校の課題か何かでフラットアイアンビルディングを取ると言うテーマが何十年にわたって継続して事業でやっているのかもしれない。

マンハッタンを歩いている時こんな薄っぺらなビルはほとんど気がつかないのであって私も普通にマンハッタンで生活していた時は首をねじ曲げて薄っぺらな三角型のビルを見るようなゆとりはなかった。そんなことをしていると車にはねられてしまうのである。

このビルディングのブロードウェイの通りの反対側にプロ用の現像所があったので私はよくそこに通っていた。そういう普通の日常の生活をやっているときはこの歴史的な建築物も全く目に入らない。まぁそれが普通のマンハッタンの生活感覚と言うやつだと思う。
0249名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/24(水) 00:19:19.40ID:H3oHkRXK0
それでニッカカメラの1番最後のモデルを当時高田馬場の鈴木安兵衛商店で買ってその値段が20,000円近かったのをよく記憶している3年間勤務した日本デザインセンターの3年目の給料が50,000円を超えて喜んでいたのであるがそれに比較しても結構高いカメラであるからこのカメラを使わなければいけないと言う認識があったらしい。

それでニコンサロンの展示作品の家のけっこうな数が50ミリ月のこのカメラで撮影されているのであるがそのほとんどは縦画面で撮影しているのである。30年前に出した東京ニコン日記をめくってみると縦画面の作品はほとんどこのニッカカメラで撮影しているのが面白い。

このカメラのチャームポイントについてはずいぶん書きちらしたが要するに日本離れしたカメラデザインであってフランスの有名なデザイナーがやったと言っても何の不思議もないのである。それで何十年も使っていて10年ほど前に巻き戻しのNovが引っ込まなくなってしまった。それでも構わないで使っていてこの間カメラを取り出したらそのパーツがどっかになくなってしまった。同じパーツは手元にあるヤシカレンジファインダカメラの壊れたやつを外見から見ると同じだからそれがそのまま流用できそうなるのだけれどもまだそこまで手をつけないで使っている。
0250名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/25(木) 05:10:27.78ID:vp9dm20f0
片岡さんにライカウィルスを感染させようと思って何度かお目にかかったときに私のライカを使ってみてくださいと差し出したのだが彼はそれが危険な病原体であると言うことを知っていてずっと拒否していたのである。一方で赤瀬川さんの場合は私のライカウィルスを喜んで受け入れてさらに病状が重くなったりした。まぁ赤瀬川さんの場合はカメラウィルスの抗体を持っているから心配は無い。

しばらく前に発行された私の東京の写真集をペラペラ見ていて気がついたことがある。それは私の場合横1よりも縦画面の数が少ないのであるがほとんどの場合広角レンズをセットして縦画面を撮影していると言うことに今更ながら気がついた。

それで100数十点が収録されているこの写真集を細かく見ていくと50ミリで縦画面と言うのは2つしかなくてこの目黒のプラットホームのショットともう一つは木造鋼板なのである。長いこと広角レンズで写真を撮ってきたのでそういう視神経には慣れているのであるが当たり前の50ミリの標準レンズで縦画面と言うのは私の場合数が少ないので見ていると当たり前の風景と言うのではなくて、何か現実離れした不思議なシーンに見えてくるのが面白い。
0251名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/26(金) 05:02:20.60ID:eLbmTvIV0
坂崎さんは江戸川区平井の酒屋さんの次男でありやはり東京の周辺部に我々の興味が言ったのだった。それでDolcaの話で話題沸騰して、会社の本社が日暮里にあったからレンズはNipolなのでしょうねと言う話になった。これはニッコールの真似なのがいかにもブラックユーモアっぽくて言い方を変えれば日暮里ぽいのである。まだ日暮里の駄菓子屋街が再開発で新しくなる前の時代だった。

ちょうどその前後に大阪の近代建築を取ると言うプロジェクトがあって鹿島出版協会の大阪の近代建築と言うガイドブックをもとにして大阪のクラシックな建築物をあちこち取り歩いた。これは8 × 10インチのカメラで撮影したのであるが毎日大きなカメラを持ち歩くと肩が凝るからお休みの日には知り合いの中古カメラ屋さんを巡ったりした。

そのうちの1つのお店でこのカメラを手に入れたのであるが私が買ったやつは写真で見せるカメラの次の改良型の2型と言うやつだった。当時はクラシックなカメラでしかもあまり知られてないカメラと言うのは市場価格が高くなると言う当然のシステムであってこのカメラは昭和20年代後半に人気だったコニカカメラのデザインを真似しているのである。フロントエプロンのスタイル等はコニカカメラにそっくりである。それでコニカの初期のモデルが2万5000円話したときにこちらのカメラはそれより10,000円安いと言うのだから結構売れたようである。
0252名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/27(土) 07:48:14.89ID:GG/ntu5O0
私は1966年にカメラ時代と言う1年間だけ存在したシリアスなカメラ雑誌で立て続けに作品を発表して勢いをつけていたのであるがメジャーなカメラ雑誌であるカメラ毎日とアサヒカメラにデビューしたのが1970年のことだった。それで私もコンポラ写真の人間であると言う認識をして当時20代であったのがそれから半世紀が経過すると見事に70五彩で後期高齢者になる。何の不思議もそこには存在しない。

ネットサーフィンをしていたらアイラがどっかだと思うが日本の1970年代の写真のムーブメントに触れたところがあって当時の写真評論家は1名信夫さんとか渡辺勉さんとか金丸さんであったのだが、1970一年のアサヒカメラのあるあるで私もいわゆるコンポラ写真を発表していてそれに対しての先生方の評価というのが

よくわからないけどこういうのが新しいんでしょうね時代ですな笑

と簡単に片付けられてしまったのが20代の私には不満であった。それから10年後にニューヨーク近代美術館で1年間アメリカの写真をたくさん見てまぁ10年前にはストレートフォトグラフィーの新しい波が日本の先生方にわかるはずがないと言う結論に足したのが嬉しかった。
0253名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/28(日) 00:19:10.88ID:yD/vrd/h0
3本目のレンズはカールツアイスのビオター75ミリef 1.5であった。まだ銀座のレモン社に通っているような時に安く出ていたのでついフラフラと手に入れてしまったのだが、文献を調べてみるとExakta mountの同じブランドのレンズは戦後に生産されているけれど私が手に入れたのは戦前のコンタックスレンジファインダマウントでごく少数製造されたレンズであることが判明した。

手に入れた時は嬉しいからそれをニコンSPに付けて福田和也さんとの飲み会の時に自慢したりしていたのであるが福田さんはライカ一筋であるからあまり褒めてもらえなかった。

85ミリレンズで私が好きなのはゾナー85でもF2であるから明るすぎるし85ミリならTriotar 85が1番良いし同じく3枚構成のニッコール105ミリF4と言うレンズも好きである。戦前から戦後の明るいレンズブームと言うのは、当時はフィルムのスピードが遅かったから必要であったのかもしれないが最近はデジカメの感度が非常に高くなっているから暗いレンズで充分なのである。
0254名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/29(月) 00:11:08.26ID:1IuGSiRr0
30年以上前に仕事カメラと趣味カメラと言うタイトルでよく本を出したのであるがあれがどういうことであったのかを思い出してみるに、まず最初に重要なポイントは当時はまだデジタルカメラは開発段階であったから我々が使うのは全てがフイルムカメラであったと言うことを忘れないようにしておく必要がある。

その頃仕事に使うカメラと言うのは最新型の高級一眼レフかあるいは中判カメラと言うわけであったけれども、私がミニブームを起こした仕事カメラと趣味カメラの本で扱ったのは例えば4インチ× 5インチの蔵フレックスと言う名前の一眼レフカメラであった。その当時30数年前にはすでにこのカメラはレトロな趣味のカメラであったのだけれども、歴史をさかのぼってみると20世紀初めに、巨匠アルフレッドスティグリッツは同じカメラで歴史に残る傑作を撮影していたのである。

趣味のクラシックカメラがちゃんとした仕事カメラになると言う意味でその当時の朝日新聞の連載などをわざと私はその120年以上前のクラシックカメラで撮影したりしていたのである。

あれから30年以上が経過して30年前の本物のプロフェッショナルな一眼レフであったものが今はデジカメに押されているからタダみたいな値段で手に入るのである。それでこの画像であるが左はそういう当時の高級一眼レフ。右はそれよりもさらに20年以上昔のアマチュア向けと思われていた35ミリ広角レンズ付きのスナップカメラである。

佃のカメラジャングルで左の高級一眼レフを手に取ってからシャッターを切って遊んでみると実に日本のカメラ工業の最高の時代があったことがわかる。しかしこういう大きくかさばるカメラは私の専門分野のスナップショットにはやはり向かなくて右のようなシンプルで軽くて小さくてシャッターの音が小さいカメラの方だとちゃんとフイルムを入れて撮影できると言う気分になる。

私の父親はアマチュア写真家で結構活躍しているのであるが今の私のような歳すなわち後期高齢者になると35ミリ一眼レフが重くて面倒だと言うようになった。それで年寄りには持ち歩きのしやすいドイツ製のミノックスなどを使うようになってあの当時にでも父親のカメラの体感的な趣味に関してようやく理解できるようになったと言うわけだ。
0255名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/08/31(水) 08:06:11.34ID:+Bwf4WmO0
中学生の時に手に入れたクロームのニコンエフフォトミックを知り合いに紹介されてまだ日本橋にあった西川のふとん屋さんの4階のニコンの会社でトップとボトムのカバーを全部交換してもらってブラック仕上げにしてもらったのである。その製造番号は6463471、

ベビーブーマーの頃だからあの頃の都立新高校の生徒の1人いうのは500人では聞かなかったかもしれない。その中でニコンエフを持っているのは私とあと2人の同じクラスの高校生だった。1人は建設会社の社長の息子であってもう1人もどこかの会社の社長の息子だった。私は東芝の平社員の息子なのだからかなり階級が異なるわけである。

1960年代のニコンエフと言うのは大変な存在であってそれを手に入れることが人生の目的と言うのとほとんど同じ位の生き甲斐であった。生きがいと言う言葉が本来の意味を失ってかなり時間が経過したと思う。生きがいのない我々の生活なのである。数年前に久しぶりにハノイに行って街を撮影していた時に繁華街のブティックなのであるがそのお店のタイトルがIkigaiと言うのである。

これには感心した。

我々の同級生も今や全員が後期高齢者だと思うと人生の不思議さに生きがいを感じる。
0256名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/02(金) 09:12:43.99ID:IBTIC0T/0
1978年の5月にウィーンのカメラ屋さんで最初のファインダーも距離計も付いていないライカを買った。ライカ1fである。1966年に高梨さんから街が戦場のように映るのではないかと言われてそれから10年後にウィーンで距離計もファインダーも付いていないライカMDを手に入れた。

街に戦場あり

1960年代の東京と言うのはこれが流行語であったのだ。駆け出ししたばかりの森山大道さんも同じフレーズをつぶやいていてアサヒカメラなどに連載をやっていたが森山さん本人が本気でそんなことを考えていたとは思わない。こういうのは同時代的な共同幻想なのである。だから先輩の写真家がいかにも意味が深そうに口にするのである。それで私のような若い写真家目指す人間はそれに思い込まされてしまうのだ。思えば幸せな時代であった。

このカメラは10年近く前にガラクタ屋さんで手に入れた。レザーが完全に剥がれていると言うかなり個性的なライカである。下地の金属が見えたその出ているが月の裏側みたいな感じなのが気にいっている。21ミリとか35ミリのレンズで使っていたがそのうちまた変わったことがやりたくなって50ミリf 1.4のレンズをこのファインダーのついていないライカにつけて1番ピントの合わせにくい絞りが開放で1メーター位の撮影距離でとって遊ぶようなこともあった。
0257名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/03(土) 05:37:59.05ID:Gx/KqpWT0
片岡義男さんに会長になってもらった偽物ライカ同名であるが、それの本を原書房から出した時にメンバーの対談を収録した。片岡会長にもお願いしたのだがこれが対談を収録したのが4月の終わりの非常に暑い日であったのだけれど片岡先生はTシャツの上にかなり高級そうなツイードのジャケットを着ていらしたのでこれは本当のダンディーであるなと感心したことがある。私の写真展と写真集の同じタイトルの着回しと言うのを思い出すと、片岡義男のハリスツイードと言う言葉が反射的に脳内にひらめくのである。

この写真集の構成は私がやったのではなくてエディターさんが構成してくれたのであるが写真集の1番最後のこのショットが1966年の佃島の住吉様のお祭りのショットである事は私にとってはありがたい。これが私にとって大学1年生の時の最初の佃島訪問であってそれから60年経過して今まさにここ佃島に住んでいると言うのは、若い頃から私の世界曲線はヨーロッパを行ったり来たりマンハッタンにねじ曲がってまた日本に戻ったりとかして最終的にそのロケーションが極東の東京のそれほど大きくない川の浮島になったわけである。

木村伊兵衛さんが撮影した昔の佃島の光景と言うのは1966年ならまだそれを追体験することができた。木村さんが亡くなる前の年に撮影した三角公園で飴屋のおじいさんが江戸弁当の細工をしているのを見物する子供たちの名作写真が残っている。私の最初の佃島訪問の記憶は紙芝居屋さんである。子供たちが集まって見物していたときの紙芝居屋さんの出し物のタイトルを私はよく覚えている。

ちょんちゃん

と言うのである。尊敬する写真家で東京を取り続けた春日さんが1時紙芝居屋さんになっていたと言うことにシンパシーを感じる私である。
0258名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/05(月) 15:00:23.22ID:pGF0TQGM0
ペトリカメラの病気と言うのはまずカールツアイスにそのデザインが良く似たペットリフレックス7が欲しくなってみんな同じ病気のプロセスをたどるのであるがこのカメラは専用バヨネットマウントであるから、プラクチカマウントを使うにはマウントアダプターが必要でそのアダプターは高いお金を払ってeBayで買ったのである。ところがカメラジャングルであるから必要な時にこのマウントアダプターが出てこない。

そういうわけでシンプルなプラクチカマウントの方が実用性はずっと高いと言うわけだ。
0259名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/07(水) 03:00:34.48ID:YMsqvx7u0
私が写真家としてスタートしたことで1番残念なのは意識して写真を撮るときに既に手元にアサヒペンタックスがあって、そしてすぐにそれがニコンエフになってしまったと言うことである。父親もカメラ好きであったが、手にしたカメラはボルタ版ではなくてミノックスであった。要するに私の場合写真の基本の基本であるプリミティブでシンプルなカメラの魅力と言うものを体験せずに大人になって後期高齢者になってしまったわけだ。

のみかわさんが東京にお住まいだった頃彼はアルパ研究会の常連さんであって、なかなかいい感じのモノクロプリントを持ってきて見せてくれたのだがそれが非常に#なのである。ハッセルブラッドで撮影したモノクロの風景と比較してみてのみかわさんが撮影した6 × 6センチのボックスカメラはシャープネスにあってはどちらがどちらと言うような比較ができないほど素晴らしいプリントであった。

しかものみかわさんの写真がすごいのはボックスカメラの場合は画面のフイルムの平面保持に問題があるので逆にそれが効果を出して現実の風景が4次元方面に歪んでいるように見えるので私など写真表現者としてこれはすごいことだと言うので沈黙したのであった。
0260名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/15(木) 08:42:33.84ID:++eVah/50
最近凝っているのが山形さんとか言うそばでネット上でしたのであるが結構うまい。ところが残念なのはそのおそばのブランドのネーミングがかなりヘンテコリンでこれはマイナスになっているのではないか?

ほっそり細そばと言うのである

電通が噛んでいそうな最悪のそばのネーミングですね。写真家の須田さんが元気だった頃に淡路町あたりの蕎麦屋でいろいろ教わったのだがいちど火事になってしまって以来行く事はなくなった。30年位前に定年退職を迎える親父がこれからそばを打つから俺のところに来いとか言うので部下は嫌がっていたのである。あれで定年退職した人がみんな手打ち蕎麦屋になったら日本は最低の国になったであろう。

そばの味を壊さないためにのりの刻んだのをつけることもない。相場よりも好きなのはそば湯をそばちょこに入れて飲むことである。ランチはいつもこういうものを食べていてそばを食べ終わった時にそばちょこをキッチンまで運んでそば湯を入れて立ったまま隅田川の川面の光を見ながらそば湯をすするのが実に結構である。
0261名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/16(金) 06:29:11.20ID:sEUr/t4A0
それでそのお店の角のほうに結構汚い別のフォカッチャがあったのでそっちを手に入れた。このカメラは大活躍してくれてリスボンに持っていったのが28ミリのソ連製のオリオンのついた戦前のブラックのライカであって標準50ミリレンズのほうはこのカメラで撮影したのである。なかなか優秀なレンズである。

それから20年ぐらい経過してようやく28ミリから135ミリまでの御本のレンズが付いているアウトフィットを手に入れた。その頃にカメラ人類の黒田さんと知り合いになって黒田さんは東京都庁にお住まいで新宿のカメラ屋さんの在校状態を毎日メールで知らせてくれたりと言うようなカメラ友達になった。

それである時黒田さんの質問でフォカッチャの50ミリef 1.9と言う明るいレンズがあるのだがあれはどんな描写でしょうかと言う事から始まってそのレンズの名前をとってOplarex同好会と言うのを作った。しかし同好会の名前ができただけで何の活動もしないまま時間が経ってしまったのでこの同好会の会員は黒田さんと私の2人だけなのである。

20年位前富士フイルムがまだモノクロームの写真のビジネスをやっていた頃に依頼されてモノクロームのオススメみたいなタイトルの広告をシリーズでやったことがある。その時のトップに載せる作品でリスボンの坂を上って行く黄色い路面電車なんだけどそれは実は最初のリスボン訪問のときのフォカッチャで撮影した作例なのである。
0262名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/18(日) 07:57:54.95ID:0aydtOeH0
日本の写真家に関して言えば若い頃初めて東松照明さんのポートレートを見た時も同じショックを感じた。20歳代の私から見るとどう見ても普通のそこら辺をウロウロしてるおっさんにしか見えないのである。

アンリカルティエブレッソンだって同じことで中年以降の大写真家の風貌はどう見てもスイスあたりにいる小さな銀行の頭取のケチなおっさんと言う感じがするし、家人の遠い親戚にあたるフランス文学者の堀口大学だって、若い頃は世界中をめぐり歩いて南米あたりから断腸亭にインク壺辺スタンドなどを送ってそのことを感謝している永井荷風であるが、老境に足した堀口大学の風貌はどう見てもケチな呉服屋の親父なのである。

佃島に暮らして30年以上になるけれども堀口大学が亡くなった日に私は月島のラーメン屋でラーメンをすすっているときに偉大なフランス翻訳家の訃報に接したのである。ケチな呉服屋のおじいちゃんが亡くなったというのが写真を見たときの最初の印象であった。

つまりリチャードアヴェドンとかウィリアムクラインのようなそれっぽい風貌の写真家よりも全く別のこちらを裏切る風貌の写真家というかアーティストの方が信用できるというのが私のへそまがりなのだ。
0263名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/19(月) 01:59:38.45ID:gBTJtBKh0
中古カメラの巨大な販売所と言えばこれは北京市から西に地下鉄で10個ぐらい行ったところその駅から歩いて20分位北に行ったところに北京写真機城というのがあってそこによく行っていた。

中国の詩人李白だったと思うが酒飲みの特性として自分と対峙するというのが1番大切なのであって私も後期高齢者になるとそこら辺の具合がわかってきたから酒は他の人と一緒に飲むと言う事は無い。自分と付き合うのだってそんなに時間が残っているわけでは無いからそちらの方を重要なポイントにしたいのである。

同じような理由で酒を飲んだりものを食べたりできるギャラリーと言うのも大嫌いで友人がそういう店を東京の祐天寺に開いて行ったのは様子を見に行ったのであるがこれはもう行くところではないと決めてそれ以来行くのはやめた。

自分が20歳代でやる気充分で済んでいるところがマンハッタンであればそういうオープニングレセプション等は自分を売り込むチャンスと言うので一生懸命行くのは当然であろうが後期高齢者になってしまうとこれ以上人間関係を広げると言うのは面倒の極みである。それじゃなくても私は人間関係に恵まれているからもういっぱいいっぱいなのだ。

それでかわうそさんの染付のお皿に酒のつまみを置いてかわうそさんの顔が見えるように少量だけ盛り付ければ誠に天国。
0264名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/20(火) 03:24:14.87ID:4iFOcWv20
でここで話題にするNetaxであるが私が1番最初に手に入れたこのモデルは、銀座のすき家カメラで30年位前に買ったものでその答えが面白いのはカメラの後ろのほうに満州国と入っていたことだ。要するに当時のドイツのカメラメーカーはグレーマーケットを防ぐ目的であったのだろうか?輸出先がちゃんと書かれているのである。

それを問題にしたいのではなくてその当時のカタログの細かいところを読んでいくと標準レンズと105ミリのレンズは独自のバイオネットマウントなのであるが、このカメラの外爪バイオネットはコンタックスレンジファインダーと同じだとはある。そこからが不思議なのだが当時の広角レンズTessar2.8センチを使うときにはこれこれのマウントアダプターを使えと書いてある。正式のカタログに書かれている事だからそのつもりでいたのであるが、あるときは思いついて、motoiのコンタックス広角レンズをつけたらバイオネットアダプター等なしでいきなりちゃんとついて支えたのにはびっくりした。

カールツアイスのカタログでも誤植というか変な記述があるということに気がついたのはその時の話である。
0265名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/21(水) 02:43:27.63ID:s42jsFC60
ライカターレットに手持ちのレンズがつくかつかないかは結局実物合わせをする以外にないと言うわけだ。ここに付いているのはオリジナルのライカレンズの35ミリよりも製造台数がはるかに少なかったからレアアイテムになっているTopcor 35mmである。この頃のレンズのスクリューマウントの上の直径と言うのはちゃんと真面目に作られていたのである。

ところが残念なことにサードパーティー製のダイカイオーのスクリューマウントレンズと言うのはその存在感をゴージャスに見せるために結構大柄に作られるようになってしまった。だから当時の小村レンズなんかもそうであるが、ライカスクリューマウントの歴史からするとたった30年前に製造が開始されたコシナレンダー等にしてもレンズバレルがゴージャスに見せるために大きく作られているからターレットデバイスには装着不能なのである。

250ユニットだけ作られたターレットデバイスは全く人気のないアクセサリーであってこの時代のアクセサリーと言うとライカ人MPが大変な人気である。それに対してこちらはほとんど人気がないから30年前に銀座のカメラ屋さんに行くといつも店員さんに押し付けられたものである。それで家にはユニットが2bツあります。

もっと黙想言う次第でコシナレンダーを批判しているわけではなくて小林社長にしても世界で250ユニットしか作られてなくて今ではもうその家の残っているのは数10分ぐらいしかないヘンテコリンなライツのレンズ交換システムのためにレンズの直径を小さくする義務等はどこにも存在しないのである。
0266名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/22(木) 06:34:26.31ID:vxZPZmuy0
超有名人でカメラ付きの人にゲバラがいる。彼は60年代初めに来日したときにニコンのレンジファインダカメラを買ったらしい。それで彼が使っているカメラは今もハバナの関係のミュージアムに展示されているのであるが、ゲバラは自分のニコンを手放してその代わりにソ連製の系譜を買ったそうである。ここら辺が私とカメラの好みが合っているな。

ところでゴールドカメラの話になるけれど私もいくつか持っていたがそして今でもいくつか持っているけれど。とにかく目立ちすぎて街中で使うにはちょっと恥ずかしいところがある。ゴールドカメラは30年位前に日本のカメラメーカーが考え違いをしてニコンとかコンタックスでゴールド仕上げのカメラを作って、その先の発想が貧困だから白手袋がアウトフィットについていたりするのである。

このカメラはゴールデンビューと言う名前で最初から金メッキのカメラと言う属性をあらわにしていると言うところがスマートなんだけど、そのカメラサイズが非常に小さいので金色に光るその存在感が逆に嫌味にならなくていい感じなのである。

資料で調べるとこのカメラのオリジナルは萩本商会つまり金ちゃんの父親が作ったらしいんだけど、あれはボルタ版の安っぽいカメラであってこちらのモデルは非常に作りが良いから明らかな事は制作した工場が違うのであろう。このカメラのリアのエンボス等はコンタックスの高級生のエンボスと同じ位の細かい仕上げなのである。
0267名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/23(金) 00:41:41.45ID:INPoXLEX0
Znowカメラと同じで当時は完全自動絞りと言うものがモダンな一眼レフのステータスであった。ヤシカペンタマジックもそれを踏襲していたが、なかなか故障が多かったみたいで私が手にしたヤシカペンタマジックもあまり自動絞りの調子は良くない。

数年前にガラクタ屋さんでヤシカペンタマジックをエム42のスクリューマウント西田ですバージョンのヤシカペンタが登場した。なぜか二台登場していてそれぞれがカメラ本体が4500円であった。使ってみると独自のヤシカペンタマジックよりもエム42のマウントの方が一般的で使いやすいのである。

シャッターも500分の1秒までしかないというのが実用的でよろしい。このクラスの古いカメラになってくると1000分の1秒と言うシャッター速度はまず不安定で使えないからだ。

Znowカメラの最初のペンタプリズムのデザインがそのままに生き残っていると言うところがなかなかの魅力なのである。ところでこのヤシカペンタのシリーズも3番目のモデルになってからアサヒペンタックスと同じようにちょっと不格好なプリズムのスタイルになってしまった。

ZnowみたいなシャープなペンタプリズムのLINEを出すと言う事はコストがかかってなかなか難しいのであろうか。
0268名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/24(土) 06:10:45.47ID:2FW74GtI0
1970年代と言うのはまだ東京芸術大学音楽学部なども初期の初期の段階で芸大ができた時は正式名称を東京芸術大学音楽取り調べが明るいと言ったそうでなかなか趣があってよろしい。そういうわけでこのカメラを見ると私はリコーのカメラのブランド名ではなくヴェルディのオペラタイトルを思い出してしまうのだ。

若い頃からライカエム1と言うライカM2から距離計を外したカメラが好きであって、その頃の日本カメラの世界のカメラ年間にも35ミリと50ミリのフレームがいつも出ているスナップショットのカメラと言う説明があったのが気にいった。その背景には1966年の2月に尊敬する写真家高梨さんを新宿区白銀町22番地に訪問していろいろなお話をしたときに、高梨さんはファインダーの何もついてないライカMDのことを話に持ち出してあゆカメラは間違っ戦場のように取れるのではないかと言った一言が私には効果的であった。

その4年後の1970年に日本デザインセンターの新入社員となって最初の夏のボーナスでLeica MDを手に入れるつもりで銀座の歌舞伎座の脇のカメラ屋に行ったらそのモデルは品切れでライカM2から距離計を外したM1ではどうかと言うのでそれを使いだした。もともと距離なんて合わせないから私にはぴったりのカメラである。

このリコーのカメラのコンセプトはそれと非常に似たようなところがあるからこのカメラで街をとると街が半分戦場のように映るのではないかと考えていて実際そのように映るのである。
0269名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/25(日) 06:13:36.94ID:ZTWB15EG0
元素の名前をそのままカメラの名前にするというのがそこには雨中学的な教習とでも言えるものがある。でも日常で使う道具であるからあまりそちらの方面に行ってしまってもマーケティングとしては失敗なのではなかろうか?

このカメラが日本のカメラメーカーのOEMであるのは判断がついてさてどこのものかとカメラを眺めていたら裏蓋に非常に作りのよろしいエンボス加工されたレザーレッドがあってそこにWindsorと読めたのですぐこのカメラのバックグラウンドが明らかになった。ウィンザーと言うカメラメーカーは結構レベルの高いレンズシャッター式のカメラを作っていたメーカーである。

安心するのであるがこの時代の35ミリカメラでカメラのバックにレザレクトこんな風にきれいにエンボス加工する技術があったと言うのは驚きである。というのも世界のトップブランドで売ってきたライカにもそして日本製の新子にもキャノンにもこういうエンボス加工は見たことがない。

エンボス加工をフロッタージュで転写できる位のしっかりした加工なのである。エンボス加工をなぜていると写真が上手くなると言う民間信仰のご利益もありそうだ。
0270名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/09/26(月) 03:20:52.62ID:SpsR4e5t0
こういう50年近く前の映画のスチールショットを見て何が素敵かと言うとそこに封じ込めている時間が私にとっては親しいものであるからだ。この場所はウィーンの電車が交差するポイントであって高架線と下を走っている電車のクロッシングポイントなのであるが今はそこにウィーンの地下鉄が走っている。でもこの映画が撮影された時はまだ地下鉄ではなくて真っ赤なボギー車が走っていてこれが70年代の私にとっての偉大なノスタルジーなのである。

主演の2人が座っている公園めいたところのベンチにしても今もそのベンチのスタイルは変わらないし俳優さんが座っている後ろの鉄製のフェンスにしてもお父ワーグナーが答えた頃のものだから寸分同じものが今でも存在する。

要するにウィーンの街を丸ごと缶詰に封じ込めたようなものだ。それでこの前開催したウィーンとライカの日々のことになるのだが、50年前の古いモノクロ写真が今でも商売になっていると言う事はこれは私の才能とか言うことではなくて世界の人類がウィーンと言う巨大な古い伽藍洞の歴史的な空間に対して尊敬を持っていると言うことなのだろう。

この1時間50分ほどのロードムービーは全てがレンタルのありフレックス35で撮影された。私はラッシュを見ただけで全体の映画は今回YouTubeで初めて見たのだが、感心したのは安いレンタル撮影機であるにもかかわらずその画面のクオリティーとりわけ画面の安定度が完璧であると言うことにかなりびっくりした。やはりアーノルドリスターが作っていた映画撮影機と言うのはすごいもんだ。
0271名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/08(土) 12:33:06.92ID:r5RqXfBL0
デビットダグラスダンカンは朝鮮戦争が始まった時にライカスリーエフとニッコール5センチとニッコール13.5センチのレンズを携えて戦場に行ったと言う神話がある。これは彼が若かったときのレンズのコンフィグレーションであってデビットダグラスダンカンがベトナム戦争を取材した時はもうすでにライカはM3の時代でニコンはエフの時代になっていた。その頃のダンカンの機材はライカの場合はライカMPのデビットダグラスダンカン専用モデルと言われているM3D、ニコンエフはクローム仕上げでそこにはこれと同じレンズが付いていた。

考えてみるに危険な戦場で普通の感じの写真を撮るには縦3.5センチのレンズが1番使いやすいと言う話を聞いたことがあった。それが20センチに伸びれば戦場カメラマンはさらに距離が稼げるから安全な地点から撮影ができるわけである。

開高健がベトナム戦争を取材に行った時南ベトナム政府軍の200人位の兵士が攻撃を受けて生き残ったのは開校間を含む20名前後の激戦があったらしい。ゲリラ戦で効果があるとは思えないがオーディナリーな戦闘で生き残るためには縦3.5センチより下20センチの方が有利だったのではないかと私は考える。

実際問題としてデビットダグラスダンカンは百彩を超える命だった。
0272名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/09(日) 13:31:50.08ID:E2iF0MjO0
戦後になって平和産業と言うことでこのライカコピーカメラは結構人気のブランドになった。それが1950年代の終わりに2眼レフカメラ等で大成功をしたヤシカカメラがニッカカメラを買収してヤシカの参加になったのだ。これは1957年頃に出されたヤシカカメラの小冊子である。ライカコピーのほかにイオンセンチ× 4センチの2眼レフも登場しているし当時新しいテクノロジーであった8ミリカメラの紹介もされている。

このヤシカの小冊子を300円ほどでYahoo!オークションで手に入れた。静岡県の方から送ってもらったのであるが普通郵便で95円の切手が貼ってあって、ちょっと感激したのはこの小冊子が半分に斬られた封筒の中にきちんと入っていてそれがさらに茶封筒に入っていると言う塩梅である。その半分カットしてある封筒はその表面に島田掛川信用金庫とあるのがローカルでいい感じであってヤシカの詳細表にこの小冊子をカバーしていた封筒の半分に切ったのが気にいってしまった。

それでこのヤシカの小冊子を開いてみて1番印象に残ったのがこのキャッチコピーである。1台で10台に使えるフォーカルプレーン。これはすごいキャッチコピーだと思う。千手観音と言うものがある。あのスーパーな活躍ぶりと言うのは実在するわけではないが1000本の手を持っているのと同じと言うことだし、このカメラの場合は1000台のカメラに相当するとキャッチコピーをつけても良いのだが重大分に相当すると言うところが何か奥ゆかしい感じがする。

私が写真を始めた最初のスタートラインはニコンエフでありライカM2であったのだがそれから半世紀経過してしまうとカメラの方がどんどんダウングレードしてしまうというのが我ながら不思議である。だからといって私の写真がアップグレードしているかというとどうもそういうわけでもないらしい。
0273名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/10(月) 06:41:23.14ID:VG7VOUlU0
それから20年ぐらい経過してこの広州の思い出を噛み締めていたので近くのホテルを予約して出かけたことがあったが中国の経済発展というのがすごくて全部がグラスウォールの高層ビルになってしまって全く風情がなくてがっかりした。

パールリバー沿いの老舗の鰻屋みたいな佇まいの蛇のレストランがあってこれなんかもキッチンで蛇を選んだりできて昔の鰻屋みたいな感じだった。その中で食べた料理で何の肉か分からないので上田さんに描いてもらったら海犬と言うのでそのまま分からないからポケットに入れて翌年マンハッタンのチャイナタウンのレストランで聞いたらどうもオットセイみたいなものであったらしい。

この時に町の写真屋さんで記念撮影をしたのだけれどそれは白黒写真でそこに人工着色したやつを後から送ってくれた。それを見るに本物の天然色写真よりもリアリティーがあってよかった。写真館の人は我々がきていたものの色彩と言うのをちゃんと記憶していたと言うのもプロの技である。
中国の人民解放軍の軍歌のカセットテープを買ったり、中国共産党のプロパガンダポスターがアートしているのでそれを買ったりした。

その次に行った中国が15年後の北京なのである。それも中国新華社の報道写真コンテストの審査委員長と言う肩書きで行ったのでこっちのほうはそれなりにまた面白かった。オリンピックが決まるずっと前の北京の路地裏と言うのは魅力的でずいぶんたくさん写真を撮ったものである。
0274名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/11(火) 06:58:42.90ID:7JeV6Kyv0
ニュース性としては1番最初のロードカメラはそれほどの事は無いけれどもなかなかよくできた作りでそこには秋の伝説がゆらゆらしているようなのだ。ロードカメラのコンプリートは全部で8種類で済むと思うが、ロードカメラコレクターなら1番最初にやはりこのライカの最初のモデルをコレクターは揃えるのと同じようにこのロードカメラは必須と言うわけである。

最初のロードカメラで感心したのはそのエバレディケースの作りが異常に良いと言うことだ。1950年代に作られたライカのオリジナルのケースにしてもどうも作りが悪いようでステッチが緩くなったり側の接着がバラバラになったりするのであるがロードカメラのエバレディケースにはそのようなことが見当たらない。そしてカメラケース本体のエンボスも非常にしっかりしている。

カメラのエバレディケースと言うのにはろくなものがなくて世界的な分野で私が認めているのはローマで作られた一眼レフレクタフレックスもエバレディケースである。これはしなやかでなかなか素晴らしい材料を使っていてカメラそのものは60年以上前にできたのだが革ケースは23年前にできたといっても通じる位である。

レクタフレックスのエバレディケースに比較するとロードカメラのエバレディケースは材質が結構ごついのでそこまではいかないが、逆にプロテクターとしてはこちらの方が優れているかもしれない。最初のロードカメラの本体のバックにはなかなか仕上げの良いエンボス加工がされているのでカメラメーカーの熱意と精神がそこに感じられる。
0275名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/12(水) 06:34:49.58ID:m2crm1UC0
要するに50年前の私はまだ真面目にファインダーを覗いて構図を決定したりしていたのがわかる。ただし間宮フレックスの場合は11折りたたみ式のフードを立ち上げるというのが何かめんどくさい。それで最初からこの頃ミラーのファインダーをつけておけば目の高さにカメラを構えてすぐスナップショットができるのである。

ポロミラーと言う昨日は制作がかなり難しいのであろうか?ご覧のようにそこにはニコンカメラのマークが刻印されている。これが当時の私には首をかしげるほどの不思議さであった。と言うのは当時の安いニコンの一眼レフ、例えばニコレックスエフ等はニコンが作らずに間宮カメラに制作を依頼していたのである。ところがこの場合はブランドの下克上と言うのであろうか、つまり真実やカメラの付属品をカメラブランドとしてはずっと上のニコンが制作してそこにマークまでつけているというのが実に面白かった。

ただしこれは:ミラーのファインダーシステムであるから光がある子されてファインダー倍率も小さいから見やすいと言う事は全くない。それでカメラ人類はすぐ間宮フレックス様のペンタプリズムを手に入れたりするのであるがあれはガラスの塊であるから逆に重くて持ち歩きができないのである。

だからファインダーのバランスとして考えるとこのニコン星のマークの入った間宮のポロプリズムが1番適している。それから1世紀が経って最近ネットオークションで懐かしさにこの品物をゲットしたのであるが、1つ大事なことを忘れていた。このファインダーは間宮フレックスのファインダーが交換可能な中期モデル以降でないとつけることができないのである。

ところが私はオリジナルの間宮フレックスに真実が宿ると思っている時代遅れだから数台持っている間宮フレックスは全部1番最初のモデルなのである。だからこのポロプリズムファインダーは装着できません。
0276名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/14(金) 11:52:19.14ID:eeIvRCtW0
eBayのオークションでカメラはずいぶん長いこと見ているけれども、見ているのはカメラの程度がどうなっているかと言うことを主に見ているわけである。ところがこのセラーさんは作例を掲載しているのであるがその作例のクオリティーが完全にアートを突き破って凄いところまで上昇しているのだ。

ヤフオクなどで作例を掲載している人はほとんどいないけれどもたまにそういう人がいてこちらが精神的にめげてしまうのは石仏何かを作例として出しているのである。大昔ヘンテコリンな写真家がいてその人が力を入れているのが日本石仏写真家協会と言うので完全に退いてしまった。

それと五百羅漢と言うものに命をかけている人も私はアレルギーでだめなのである。ここに写っている風景は日本で言うと古寺巡礼とか五百羅漢にあたるのであろうがその視神経がすばらしいので見ていてストレスにはならない。

やはり滅びつつある文化と言うのは写真の魅力として定着できるもののようであって、ローマの美術の歴史などに比べればウィーン等は1000年前はまだ何の文化もなくてwinの数10キロ東側のスロバキア国境近くに当時のウィーンの遺跡と言われるものがあってそれ等はほとんど滅び尽くしているものなのである。

そういうウィーンの考古学的な貧困さに比べるとローマは街中を歩いてもそこら中が遺跡だらけで遺跡の隙間に人間が住んでいると言う感じがよろしい。
この作例は、ドイツの中判カメラベルグ入るで撮影されたとあった。それでオークションの初心者ならそのカメラを手に入れれば同じ写真が撮れると思うのは勘違いである。やはり写真の質と言うのはその人間が持っている視神経のレベルに応じているのだ。
0277名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/15(土) 01:30:03.84ID:a+iMvuXG0
カメラジャングルから忘れられていたものがひょっこり顔を出すのは嬉しいわけであるが、気にいっていたカメラが見えなくなると言うのはこれは不可解なことである。イタリアのミラノで作られたガリレオでミラノGamiのアウトフィットもこの数年間家の中で行方不明になったままだ。

このカソリックの聖なるサルヴァトーレは1973年にウィーンの古道具屋で200円位で手に入れたものである。同時に手に入れたバロック時代のつまり同じ頃に制作されたキリスト像のほうは部屋の反対側に置いてあってこれは怪盗ルパンも手をつけなかったのである。

しかし普段暮らしている自分が認識している空間でそういう非現実的なことが起きると言う事は生活ののりしろの部分が拡大されたと言う意味ではなかなかにワクワクすることなのである。

60年以上前だが、サルバトーレどこへ行く?
と言うタイトルの映画があった。私の場合は、サルバトーレどこいった?
0278名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/16(日) 00:48:24.45ID:n/NXoIEP0
父上がニコン党である眠い対して今の天皇陛下はそれに反発すると言うわけでもあるまいがこういう事はよくある。ガラクタ屋さんの2代目が見た夢の中で買取職人名人が自分の店にもデジタルカメラを置いたほうがいいと言うことになって富士がいいとか言い出すと、息子さんのにだいめのほうはいやいやソニーの方が良いとか言うわけである。これは夢の中の話であるが、実際には大内山あたりでもカメラで赤城が弾んでニコン党とキャノンとに分かれると言う事は大いにあり得る。

ところで30年位前にカメラジャーナルと言うカメラの関係の本を出していたときに、どういう理由か知らないけれども宮内庁から注文があったそうである。宮内庁の職員さんならヨドバシカメラとかそこら辺の本屋さんでカメラジャーナルは買えるわけであるからこれはそれ以外の人が注文したと見るのが妥当だと思う。

そういえば皇后陛下がご成婚の直前だったと思うがオリンパスユーザであってコンパクトフィルムカメラを使っていらした。それでカメラ記者クラブか何か忘れたけれどもヘンテコリンな申し合わせ事項をしてそういうことを広告に使うのはやめましょうと言うようなことになった。

いかにも日本の爾臣民と言う感じがするね。ウィンブルドン大会だったっけヨーロッパの王族関係者がコンタックスティーツーを持っていていきなりブームになったと言うこともあったな。

ところでこの写真を拝見するに何がかっこいいかと言うとちゃんとエバレディケースに入れてカメラを使っていらっしゃることだ。ロバートキャパもおんなじでニコンエスツーはしっかりエバレディケースに入れて使っていた。それでこの時代からすでに60年以上経過しているわけであるが、今同じカメラと同じエバレディケースを取り出して真似をしてみたらネックストラップが完全に風化していてぷっつりと切れたのである。
0279名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/17(月) 07:33:25.29ID:cCVzDEBx0
Raketaと言うブランドでロシアでは成功とかシチズンみたいなメジャーブランドである。普通の17隻の手巻きであるから1日1階朝に30回位ネジを巻くとそれでパワーを与えられてちゃんと動いているのだが1ヵ月の誤差が15秒位だと思うからクロノメーター波といってもよろしい。

と言うブランドでロシアでは成功とかシチズンみたいなメジャーブランドである。普通の17隻の手巻きであるから1日1階朝に30回位ネジを巻くとそれでパワーを与えられてちゃんと動いているのだが1ヵ月の誤差が15秒位だと思うからクロノメーター波といってもよろしい。スパゲティーとかそばを茹でるときに2分30秒の早ゆでタイプを使っている。

最近気に入っていた時計はこれもイタリアブランドのノンブランドみたいなTonohタイルの時計であるがこのタイプだと文字盤が変な具合に引き延ばされていて2分30秒とか言う時間を見るのがなかなか不便である。やはり時計と言うものは家でやる方がその円周率を分割しやすいから直感的に理解できる。

以前はパスタを茹でるときにはスマホのストップウォッチを使っていたのであるがデジタルの数字と言うのは時間が読みにくい。それに麺を茹でると言う行為はもともとアナログなのであるからやはりアナログ時計が1番だと思っている。
0280名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/18(火) 07:00:22.56ID:wj9btg820
五木寛之と言う人は私が大学1年の頃にさらばもしくは愚連隊とか言う小説でデビューして別に好きでも嫌いでもなかったが彼の書いたものの中にデラシネの旗印 というのがあった。それを映像化するとこの画像のようなものになるのではないかとずっと考えていたのである。

それでこのカメラのシステムとレアな付属品を全部集めると言う暴挙に出て、今では私はこのカメラの本体とパーツに関しては世界的なコレクターではないかと自負しているのである。このカメラの専用のレンズはフランスパリで作られた
Kinoptikと言うブランドで最近これだけが価格沸騰しているのはデジタルカメラにつけて良いレンズですと訳も分からず自慢したい連中が増えてきたからである。

そのレンズはポーランドの映画プロダクションが社会主義から資本主義に解体したときにもういらないと言うのでレンズ1本が10ドル位でたくさん放出されたときに私も手に入れた。今は1本2500ドルでも買えないと言う大変なプライスである。

それでオリンパスペンデジタルカメラにマウントアダプターを付けて1連のこれらのレンズを撮影したことがあるが別になんと言うこともない。だから本物のブランドであると言うこともできる。

オランダ生まれでフランスで活躍した有名なドキュメンタリー映画監督が彼の時点で書いているが、フランス在住の映画監督は別にフランス製のブランドレンズに興味がなくて当時出たばかりの一眼レフ用のニッコール55ミリef 1.2をマウントアダプター改造してそれを亀フレックスにつけてテスト撮影してニッコールの優秀さを称賛している。

ニッコール55ミリF2 1.2を解放で撮影してそこには夜のパリの街が全てそのままに写っていた。

十数年前パリにいた時にウィーンのライカショップの在庫をオンラインで見たら私が探していた狼プロフィールの400フィートマガジンとか、手回しクランクとか、スプリングモータードライブとかそういうものがたくさんあったのでカメラ本体と一緒に一括して手に入れたのである。

それで10日ほどしてパリから佃に帰ってきたらビジネスの早いwinのライカショップのβはすでにそれを全部発送してあってマンションのエントランスが段ボールのバリケードの山で中に入ることができなかった。
0281名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/19(水) 06:47:04.59ID:r0A+rbkz0
最初にキャノンフレックスを滝野川の中古カメラ屋さんで手に入れた時にレンズは35ミリから200ミリまで揃っていたのである。200ミリのほうはまだ最も初期の200ミリレンズであるからプリセット絞りではなくてその次の段階と言う事だけれどもレンズのバレルについているボタンを押すとその時だけ絞りが規定のあたりまで絞られると言う中間的なメカだがそれがレア物っぽくていい感じだった。

35ミリの広角レンズはここに装着している奴がそうであるが、明るさがエフ2.5なのである。ニッコール3.5センチef 2.5と言うレンズは当時はライカの頭ミクロン35ミリF2が出るまでは世界で1番明るい広角レンズと宣伝の文句に書いてあった。

一眼レフの当時の設計で考えると明るいレンズを作ると前のレンズのサイズが大きくなったりするから大変なのである。初期のTakmar35ミリF2等は非常に大きなレンズになってしまった。それでキャノンの場合は2.5と言うわけでここら辺がバランスがよく取れていると思う。もちろん今見ても十分に使える優秀なレンズである。

ところでこの時代のキャノンの35ミリカメラは設計者がラピッドワインダーシステムの巻き上げにかなり力を入れていた。同じ時代に登場したミリオンセラーのキャノネットも巻き上げレバーはカメラ本体の下のほうに付いている。

ライカビットのようなフィルム巻き上げの場合レバーを一直線に引くのであるけれどもそれに対してこのトリガーラピッドのような中心の視点からエンコ上に巻く方がアクションとしては楽なのである。だからこの巻き上げ方式と言うのは結構賢いと思う。
0282名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/21(金) 07:32:58.67ID:ljONoVv40
戦後の国産の一眼レフでペンタプリズムのスタイルで1番好きなのはこのカメラヤシカペンタである。ペンタプリズムのデザインで伝説とされているのはニコンエフのあの三角型のペンタプリズムのデザインが決められたと言う亀倉優作神話である。しかしペンタプリズムのLINEの#左からするとニコンエフよりもヤシカペンタの方がデザインとしてのレベルが上だと思う。

ことの起こりは1957年に発表会までやっておいて結局発売には至らなかった帝国光学の頭脳カメラがデザイン的に素晴らしかった。ヤシカペンタと当時の頭脳カメラの上から撮影した画像を比較すると分かるのであるが巻き上げレバーとか巻き戻しクランクのデザインはZnowカメラの方が優れているが、ペンタプリズムの三角型のシャープなデザインはそのまま伝わっていると思う。

帝国光学はニッカカメラに1時吸収されていたのでデザインが似てくるのは当然なのであろう。そのニッカカメラはその後ヤシカに吸収合併されたのである。そのようなタイムラインでペンタプリズムのシャープネスの素晴らしいデザインが生き残っているというのが私の考え方である。

ヤシカカメラの1番最初の一眼レフはこのモデルではなくてヤシカペンタマジックと言うのであるが、そのペンタプリズムとトップカバーのデザインの優秀者はまさにZunowカメラのデザインを継承しているのである。ところが残念ながらヤシカペンタにしても一番最初のこのモデルだけがシャープなペンタプリズムのトップカバーを継承しているだけであってその後のペンタプリズムのスタイルはごくごく普通のものになってしまったのが残念だ。
0283名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/22(土) 10:31:52.78ID:VaQxfw270
赤い星をぶら下げている右手を見ると1948と書かれているからこれから共産主義がどんどん伸びようと言う1番元気な時であったようだ。それでこの端ケースなのであるが、ヨーロッパで暮らしていると端ケースと言うのは生活の必需品であって、ウィーンの足掛け8年の暮らしでもなかなかバターケースは高くて手が出なかったのである。

バターで普通使っているのは4分の1キログラムの大きなパッケージであってそれがすっぽり入るような端ケースがまず理想的な当時のウィーンの生活のスタンダードであったと思うが、それは果たせなかった。同じ時代で東ヨーロッパで西側の人の暮らしにかなり迫っている贅沢というのがいくつかあって、例えば西川のマルボロみたいなタバコのプラスチックバッグをぶら下げて歩くと言うのは昔はステータスであったものだが、実際に東西ドイツが融合した後はそれはヘンテコリンなファッションになってしまって、その後に流行したのは西側のスーパーマーケットの赤と黄色に色分けされた例えばBillaと言うようなマークのついたのをぶら下げて歩くのがおしゃれさんと言うことであった。

その他には東ヨーロッパ製の乗用車のリアシートにクリネックスティッシュの箱を置くと言うのも当時は東ヨーロッパのステータスであった。実際問題としてシンプルライフのwinの暮らしであっても今我々が普通に使っているクリネックスの箱と言うのは高くて買えないからその当時のウィーンの暮らしを映しているモノクロームのフィルムの切れっ端に写っているのはトイレットペーパーであってそれを使っていたのである。日本人の留学生のそこそこ裕福な連中でもやはりクリネックスの箱ではなくてトイレットペーパー。
0284名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/23(日) 09:49:55.82ID:hEmmhZcg0
私の愛用しているデジカメは要するに十数年前の最新型で終わっているわけで最近のデジタルカメラがどうなっているのか知ろうと思ってこの数年間有楽町のビックカメラに勉強に行こうと思っているのであるが、手元にある2005年頃のデジカメで全く満足しているからなかなか行くことができない。デジカメの速度とか描写力を追っかけている連中はそれで結構なことだと思うけれど例えば今が2009年だと思えばここに写っている白いデジカメは最近できたばかりの日にテクノロジーの最先端にいるカメラと言うわけだ。

ゲーテのイタリア紀行などを読んでいて面白いのは彼は画家を連れてイタリアを旅行しているのである。その画家の準備の機材に関してちょっとした短いノートみたいなものが書かれている。

時代がもうちょっと進むとアルチュールランボーは自分で写真術を覚えて必要な機材を書き出してパリに送っているのであるが当時のライカができる以前の写真術の蛇腹のカメラはかなり高価であったことがわかる。それを手に入れたアルチュールランボーが人生で実際に撮影した写真は8枚位なのも面白い。

要するに人類の画像の記録手段と言うのはゲーテにしろアルチュールランボーにしろそれぞれの人間が生きている時間軸上の時間の1つの店の最新型であるのが好ましくて私の場合はその時間軸上の店が15年ぐらい触れたところで別になんと言うこともない。

高千穂にはこの白いカメラのおかげですごくお世話になったけれど私も写真の仕事関係で50年間におそらく2000人ぐらいの仕事上のスペシャリストとお付き合いがあったはずである。

その2000人の中で高千穂関係の人で小山遊園地から通っているTさんと言う人がいるのだが私はビジネス上では非常に紳士的な振る舞いをしている人間であることを自覚しているがこの人は破天荒な礼儀知らずでちょっと天才的なところがある。

だから今までお付き合いした2000人の中の絶対忘れられないトップポジションに私は設定しているのだ。こういう人って案外偉くなったりするんだよね。
0285名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/24(月) 11:24:42.08ID:qzkaR2VW0
アボカドを食べたのは日本人としては意外と私の場合歴史があって1973年にウィーンに暮らしだした時に食べ始めた。それは伊丹十三のヨーロッパ退屈日記にアボカドのことが書いてあったのだ。しかし当時はアボカドと言う言葉は日本に普及していなくてワニなしと呼ばれていたのである。

当時知られている普通の食べ方だから半分に割って種を出したところにオリーブオイルを垂らしてと言う食べ方でなかなかうまい。だから50年近いアボカドを経験があるが、最近のスーパーのマルエツ等は商売がえげつないからフレッシュではないものも中にランダムに加えている。

それでアボカドを手に取ってちょうど良い食べごろであるかどうかと言う経験を積んでいるので私とか家人の場合アボカドに外れると言う事はまずない。しかし弘法も筆の誤りというか、たまにはハズレくじのアボカドをひいたりすることもある。

3代目のライカインコがなかなかいたずら好きでこのアボカドの木に登って葉っぱをくちばしでちょきちょきちょきちょきして下に落とすのである。それで1時は最後の1枚の葉っぱだけになってしまったが、飼育係の家人は買い方がうまいから栄養剤をあげたりして老木ながらここまで元気になっている。
0286名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/26(水) 06:49:19.43ID:1Bs7aXwA0
この数あるブランドレンズの中でトップクラスと目されているのがフランスパリで作られていたほKinoptikである。これを作っていた会社はパリのオペラ座からそれほど遠くないところに存在したのであってかつてはフランスのヌーベルバーグの連中が好むカメラブランドであった。

ところが30年前のクレムリンから赤旗が降りた時にかつての東ヨーロッパの映画制作の組織から大量のこのレンズが放出されたのである。それで1本10ドル位で溢れていて私も30本ぐらい手に入れたことがある。それを厳重に包装して最後はプラスチックのショッピングバッグに包んで佃島に到着したのであるが、レンズは今でも完璧な状態にあるけれど、それを包んでいたナイロンのショッピングバッグはあれは何と言うのか時間が変化すると有機物となって分解してしまう材料が使ってあるらしくて手にとるとバラバラになるのである。

フランス製のこのレンズを手に取ってみるとご覧のようにフォーカシングのリングの指が明かりのところなどがいかにもフランス人が考えた実用的でおしゃれなスタイルなので触っていても気持ちがよろしい。

その性能と言うのは70年位前に作られたクラシックスタイルであるから現在のコンピューターで設計されたマルチコーティングのレンズの方が描写のメリハリははるかに進んでいる。

Kinoptikの会社にはドイツケルンで開催されていたフォトキナと言うカメラ映像関係の見本市で最後にこの会社を取材したのは四半世紀前だったと記憶するが、衰退している会社であるから大きなホールとホールの間を結んでいる細い廊下の真ん中あたりの小さな小さなブースで商売をしていた。
0287名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/27(木) 00:30:31.94ID:QnEcEJkO0
交換レンズはもちろん24ミリから600ミリまでの製造年月日と出荷された日時が細かく記録されているのであるが、面白いことにアメリカ市場に出回っていたこのズーマーレンズ35ミリ80ミリの記録は載っていない。おそらくごく少数がその目的のために作られて記載漏れになったものだと思われる。

事はともかくとしてミュンヘンのハインツキルフィットが出したこのレンズはもともとはフォクトレンダーの標準用のズームレンズと言うことで当時極めて画期的な存在のレンズであった。いかに重要であったかと言えばソ連がすぐにこの複雑なレンズを真似して生産したことからでもよく理解できる。

ニコンの会社もそうであって1957年後半にズームニッコール35ミリから80ミリで明るさが全域でef 2.8と言うのを試作したが、それは市販はされなかった。オーストリアのコレクターがそのレアなレンズを所有しているのでカメラジャーナルと言う雑誌をやっていた時ウィーンでテストしたことがある。

35ミリから80ミリなどと言う焦点距離は今ではあまり地味なので流行らないし、コンピューター設計でレンズは小型軽量でどんどん使いやすくなってゆく。でも60年前のこの初期のズームレンズを見て私が感じるのは、当時の最先端のテクノロジーに我々人類はちゃんと尊敬の念を払っていたと言うことである。
0288名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/29(土) 15:10:23.77ID:LhudXoHh0
ニューヨークでもEmpire State Buildingかそれともワールドトレードセンターかと言う論争があって2001年にアメリカ政府が茶番劇でツインタワーを破壊してしまったので情けないことになった。Empire State Buildingの1人勝ちと言うのは面白くない。Chrysler Buildingが復活しそうであるがやはりちょっと役不足と言うところがある。

カメラの世界で言えばやはりコンタックスVSライカでやってきたのにカールツアイスは不幸な人生をたどってきたから東西ベルリンに分断されてその後西のコンタックスも上手く行かなくなってヤシカカメラと手を結んだけどその後も経済的に立ち行かなくなり京セラに助けられて名前は存続したものの、京セラもこれは商売にならないと言うので人類の文化遺産であるコンタックスと言う名前を勝手に消滅させてしまったと言うのはカメラの文化的犯罪である。

川端康成がどっかの駅でカラス鳶を着て、これはインバネスコートのことであるが、革ケース入りのブラックコンタックスの絞りを操作しているところがあっていかにも文人墨客の下手な写真テクニックと言う感じがするのは見ていて微笑ましい。

1970年代初めのまだウィーンにペーターのライカショップができる前の中古カメラ屋さんと言えばFoto Oratorと言うのである。ある時そのカメラ屋さんに行ったらゼントルマンがブラックコンタックスを売りに来ていたのだが店は相手にもしなかった。それで私は商売の邪魔をしてはいけないからお店の外に待っていてそのジェントルマンが出てきたときに値段を聞いたら5000円でいいと言うのでそれを手に入れたのである。

私にとっての最初のブラックコンタックス体験であって新たな視神経の覚醒がそこにもたらされた。テッサ5センチがついたシンプルなカメラであって5センチのレンズで横画面でたくさん撮影をした。そのシリーズが1976年にヨーロッパを巡回した写真展の中に入っていたらしい。ザルツブルグ近代美術館のコレクションの中に入っていることに気がついたのであってそれまではブラックコンタックス1でテッサ5センチで撮影した事実そのものを忘れていたのである。

私の不確かな記憶よりもザルツブルグ近代美術館のコレクションの方がはるかに確かに記憶をサポートしてくれているわけだ。

90歳の誕生日おめでたいから中古のコンタックスでも探し回ろうと思う。オンラインでね。
0289名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/10/31(月) 06:43:33.24ID:2a/nuSA80
アルパ研究会を解散させてからジャックボールスキー関係のカメラで興味を持ったのがこのカメラボルシーモデルシーである。以前はカールツアイスが作った35ミリの2眼レフに凝っていて何台か揃えてそれを持ってヨーロッパに行って撮影をしたこともあったが戦前に歌舞伎座の盟友が当時のお金で2000円と言う大金を払って手に入れた殿様のカメラは重さもすごくてその重量もかなりのものでいつも持ち歩いてこれでスナップをするにはかなりの体力が必要だった。

20年前に今田フレックスを使ったときの話をしているのである。今ではこのカメラのことを思い出すのも体が憂鬱になる重さである。それで方向転換して使い出したのがこのカメラなのであるが、今田フレックスよりも優れているのは、カールツアイスのあのカメラは2眼レフシステムであるけれどこちらのボールシータイプシーのほうはそれをはるかに超えている。2眼レフカメラであると同時にレンジファインダカメラも装備しているのである。

初期モデルの35ミリ一眼レフであったアルパカメラであるがあれはレンジファインダーと一眼レフのハイブリッドモデルであった。ジャックボールスキーにはそのようなカメラ構築の頭脳ができていたから、ボルシーモデルシーの場合は2眼レフとレンジファインダのハイブリットにしようと言うアイディアはごく普通のものであったのだろう。

最近はコレクターズアイテムになったこのカメラであるが注意しなければならないのはカメラについている赤い金属製のマークである。理由は不明ながらこの頃は金属の接着剤があまり優秀でないので今市場に流通しているこのカメラのほとんどのエグザンプルは金属マークがなくなっているのである。

別にブランドシールがなくなっても写り方には全く関係がないからそれはそのままで良いわけだ。
0290名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/01(火) 07:38:52.66ID:w6PVxnFa0
このアウトフィットにはオリジナルのボックスが付いている。2年ほど前にカメラのオリジナルボックス評論家を辞任するようになってそのようなアウトフィットを集めるようになったのだが、その出現率と言うのはあるブランドの中古カメラが100回登場して一塊と言う事はなくてそれ以下だと思う。要するに人類の文化遺産としてのカメラのオリジナルボックスはもう消滅してしまったのだ。1970年代の後半だったと思うがカメラの出荷するときの方法が大変変わってしまって発泡スチロールのクッションの最中みたいな川に挟んでそれがいきなり輸送用の段ボールに詰め込まれると言うような無粋な輸送方法になってしまった。

そういう輸送方法がスタンダードになってしまうと、これは今でもそうであるがアマゾンから送られてくる段ボールのパッケージが全く魅力的に思わないのと同じ考え方であってカメラを放送していた資材と言うのはそのまま捨てられてしまうわけだ。

ところでこのミノルタカメラは複数台持っていて実際に使っているわけだが、今回手に入れたこのアウトフィットが1200円なのである。専用のレンズフードとそのレンズフードを格納するレザーケースと言うのもレアになってきている。それで改めてこのカメラを手の上に乗せて一体なんでこのカメラの存在がダイナミックな感じがするのかと言うことを考えて、今まで気がつかたったあることに目覚めたのである。

カメラ本体の上部がフラットな軍艦部分にはなっていなくてトップカバーの前側と後側が2つの曲率の局面で構成されているというのがなるほどこれがカメラを手にしたときの撮影のダイナミズムと言うものを発生させるのかと言うことに気がついた。このボディーの膨らみと言うのはライカのレンジファインダカメラではついに完成しなかったと言う意味ではすごいことだと思う。

もう一つこのカメラのエバレディケースであるが、ネックストラップアイレットのリングの頑丈さというのが、私の知る限りこのエバレディケースが1番立派であると思う。デザイナーがなんでそんなことを考えたのかは理解の限界を超えているけれども、まず撮影者の身になって頑丈なカメラケースもネックストラップアイレットが作られたと言う事だけは真実であろう。
0291名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/04(金) 15:20:48.04ID:tbBLGmKT0
25年位前にロンドンのクリスティーズオークションで落札した。このカメラのコレクターと言うのは世界20人ぐらいはいるらしい。発明者のCarl Akeleyはネイチャー、フィルムの制作として有名だが、彼は、動物剥製の専門家でもあった。ワイルドライフの撮影に適当なカメラがないので自分で作ってしまったのだ。

パンケーキのようなスタイルの小型軽量な手回し、クランクの撮影機で、1920年代にはアメリカ空軍の公式カメラとしても採用された。世界中のミュージアムのコレクションになっているらしいがつい最近手に入れたこのカメラの製造番号が私が知っている限り1番若い。製造番号129。

コレクターズアイテムとして値段が沸騰しているらしくて、最近の価格は30,000ドル位する。四半世紀前にクリスティーズのオークションで買った時は3000ドルぐらいだったと思う。それが日本のネットオークションに登場してコンペティターと争って私が落札したのは500ドル以下。

セラーに細かいことを問い合わせたら全然わかっていないのがありがたかった。このクラスのカメラになると、極東のこの国はなかなかおいしいところがある。

ところで、冒頭に紹介したカードンカメラは、ニューヨークにいた時、Sohoのウェストハウスタウンストリートの向かい側、つまり今のニューヨーク州立大学のあるところが本社であった。それでもっとびっくりしたのはAkeleyは、私がニューヨークで住んでいた234ウェスト48ストリートより1本北のパラレルな通の266ウェスト49ストリートであることが資料を見ていたのでびっくりしたのである。

このカメラが有名になったのは、ポールストランドがカメラを撮影しているのが名作で、私もニューヨーク近代美術館で見る機会があったが、彼は1920年に2500ドルと言う当時の大変なお金で、このカメラを手に入れて、プロムービー、カメラマンとして仕事をしていたのだった。今回新たに分かったのは、30代になったばかりの若造がなぜ2500ドルのカメラを変えたのか?答えは単純でこれがおばさんからの遺産であったのだそうだ。

ポールストランドのこのカメラを撮影した作品は、最近では50,000ドル近くになっている。カメラ本体よりそれを芸術作品にした写真家の作品の値段の方が高いと言うのはまずは納得だな。
0292名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/07(月) 01:24:33.51ID:r3Zbw/vs0
ところでこのカメラの輸入代理店であったチェーン店の写真屋さんは私はいろいろお世話になっていて、当時アメリカ製の印画紙とかドイツ製の印画紙は高くて手に入らないから1番お手軽なのはハンガリー製の印画紙フォルテであった。不思議なことに最近日本でもブームになっているチェコ製のFOMAのほうは当時は使っていなかった。ハンガリー製のフォルテはウィーンからドナウ川を下ってブダペストに行く数10キロ手前にあった工業都市で作られていた。  

ウィーンが歴史とオーバーラップしていると言う面白さはそこら辺にあるのであって以前ベートーベンはウィーンを20回近く引っ越ししたのであるがそれを全部まとめた本があって私はそのガイドブックを参考にベートーベンの旧教を回ったことがあった。それでこのチェーン店のカメラ屋さんの建物の上の方にもベートーベンは住んでいたのである。

ベートーベンの葬儀はまだ若かったフランツ・シューベルトがその葬列に付き添ったりしている。ウィーンと言う街はその意味でよく知らないで歩いていても音楽家の分で歩いていた石畳とクロスオーバーしそうになるところが痛快である。

このイエローサブマリンめいたカメラは昨年高に思いついて買ったのであるがその時脳裏に浮かんだのはウィーン時代に親しかった絵描きの山本なのである。1980年に帰国してニューヨークに行く前だったと思うけれど山本の実家が八王子にあると言うのでそこに遊びに行ったことがある。名前を忘れたけれども八王子で有名な川のほとりにあるお宅でそこで話が沸騰した。

何かどっかのこじゃれた居酒屋で飲んだ気分になっていたのであるがそれもそのはず私が歓待してもらった空間は今は閉店してしまったけれどもちゃんとした飲み屋さんなのである。おそらくご両親が切り盛りしていたお店なのであろう。

八王子の最寄りの駅から電車を乗り継いで京王線のつげ善春の住んでいた多摩川住宅まで戻ってきたのだがその道はずいぶん暗かった。山本が既に昇天したと言う話はウィーン時代の友人から聞いたのであるがそれは本当につい数年前の話なのである。
0293名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/08(火) 11:04:07.78ID:RG4TjqHJ0
私の場合は佃日記の出版にはそんなに苦労はなくて右手の指を3本降りかけたところで出版してくれる会社が登場した。比叡山延暦寺のそばにあると言うところから私は大いに信用する気になったのだ。

それでオリジナルプリント1点つけて定価10,000円で売りましょうと言ったら1人出版社の社長がいやもっと高く売れます強気に15,000円でいきましょうと言うので500歩出したらすぐに売り切れたのはさすが業界の首都はプロだなと思った。

それでいかにも大作家の全集の感じを出すために、月報めいたものを作ることにした。話し相手は大作家の島尾敏夫さんの息子さんである。それでいかにもそれらしいインチキ出版物ができたので大変に気にいった。

この本が出るにあたってデザインの方にもすごくお世話になったと言うのはその人は私のやたら長い文章を端から端まで見て2002年の1月にギリシャのアテネに行ったのであるが、そこで計画中のこの本の内容に関する夢を見てその夢の中で私はどっかのテレビの取材を受けていてブックカバーが緑であると言う事の自然性を強調しているのである。その話は日記の中に書いてあるがブックデザインの人はそこに注目してその夢に登場した色彩を色見本でチェックしてこの表紙の色が決まったと言うわけだ。

人生75年つまらない夢をたくさん見てきたわけだがその中で唯一の例として夢判断が役に立ったと言うわけである。
0294名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/09(水) 06:58:42.07ID:kPUYg1DY0
それでこのカードボードの行き先板であるが今見ている方が電車の内側に表示されていて外側には大きくその系統を示すDと言う表示だけが見える次第だ。この内側のアルファベットの右側に細かくごちゃごちゃ書いてあるのは、当時は路面電車に車掌さんがいてそこで電車の切符を買うと乗り換え可能な90分のチケットをゲットできるが、ウィーンの普通の市民の普通の生活だと路面電車を2つ停留所位乗ると言うのが普通であって、その目的のために短い区間だけ乗れる特別なチケットを安く売っている。

そのチョイノリのチケットの限界を示す表示がこの細かいごちゃごちゃした印刷なのだ。ウィーンの場合は正法防止のために割と頻繁に検察が回ってくる。それである人が1年間無賃乗車をやって通常に支払うチケット料金とどちらが得かを調べてみたのだがその結果がどうであるかは反社会的インフォメーションになるからここには書かない。

ミュンヘンあたりでそこら辺の大きなビアホールで若い連中のするいたずらと言うのはそこでビアジョッキを隠して持ってくることであるがそれは若者の勇気であるみたいに考えられているのは実にけしからん。ミュンヘンと言えばオーストリア出身の家のアドルフがナチスを旗揚げしたけしからん歴史もある。

それでここにある路面電車の看板の由来であるがこれは紛れもなく蚤の市などで手に入れたものではなくて、どっかで酔っ払った私が勢いで持って帰ってきたのである。
0295名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/10(木) 09:15:30.80ID:r9yCY6ip0
1週間前の水曜に大阪芸大のライカシンポジウムで「ライカには人と人とを結びつける不 思議な力がある」と言ったのであったが、その1週間後にNWのアテンダントの日本人女 性が、その1980年秋のシンプロン特急で一緒だった、絵描きさんではない方の人があ たしに会いたがっているとのメールを転送してくれたのである。その青年は当然ながらも う50歳すぎになっていたが、NWでアテンダント(恐らく年齢からしてチーフパーサー であろう)をしていて、日本にも良く来るそうだ。今度、成田に出向いてみようと思う。

リスボンでTIMさんに会って、彼が1945年の8月の長崎の原子爆弾投下直後の街の様 子を知っているという話しは「名機礼讃1」に書いた。その後、こういうツルーストーリ ーは並の台本作家には書けないであろう、などとうそぶいていたのだが、29年後になっ て新局面が展開した。壮大な人間のドラマの幕が開いたという感じである。

その特急列車で一緒だった青年の名前がやはりTimさんであったことは昨日知ったのであ る。だからシンプロン特急であたしは二人のTimさんと話しをしたわけだ。その時、あた しが撮影して進呈したsx70のプリントを、若い方のTimさんは大事に枯れの「バイブ ル」に保存してあるそうだ。
0296名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/11(金) 13:40:06.85ID:GZX6ePIp0
アサヒカメラの11月号の連載「かんれきからの写真楽宣言」で、「プアマンズノクチル ックス」をテーマにしたが、これなどもノクチのF0,95より0,1明るいし、さらに 75ミリだから、その候補にはなりそうだ。

以前、慌てて問い合わせたが、M3とは「た だ付いているだけ」で、距離計連動はしないという。もとよりこういうレンズはライカ人 類が趣味で持つものではなく、計測の為の目的であろうから、普通は絞りなども付いてい ないものである。そういう単純な目的のカメラが特殊カメラというものである。ある意 味、万能カメラよりも特殊カメラの方がその「カメラ格」は上であると見ることが出来 る。
このレンズは最初からM3に作り付けになっていて、交換は出来ない。

でももともとバヨ ネットマウントであろうから、これを外して4/3あたりのカメラに付けたら、何しろ明 るさが0,85なのだから「見えないものが見える」ことになりそうだ。

実はこのレンズはドイツのフォトアルゼナールで4000ユーロであるが、24日まで特 別割引でさらに25パーセント割引になるそうだ。買う買わないの問題より、ライツ社が ノクチルックスf0,95以前にそれより0,1明るいレンズを出していたということがびっくりしてしまう。
0297名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/12(土) 09:01:56.86ID:ahb6OPnS0
それよりもちょっと前にアサヒカメラ教室の愛読者だった私は石元さんのプリントに関する記述を読んで、仕上がったゼラチンシルバープリントはフェロタイプをかけずにそのまま自然乾燥することと書かれていたのだが私にはそれがどういうことかわからなかった。
ドライマウントで固定してしまった印画紙はそれを剥がすことができない。あるいは何か剥がす方法があるのかもしれないけれども写真展が終わって友人知人にそのプリントを全部あげてしまったのである。

これが1969年のことでその翌年の1970年と1970一年つまり毎年ニコンサロンで展覧会をやっていたがそれらのプリントは廃棄してしまった。50年前のものだから今では考えればヴィンテージプリントと言うわけである。

その後オーストリアウィーンに行ってそこで数千枚のプリントを制作したのだが帰国するときにそれらはまとめて友人にあげてきた。というのも1980年の時点でもヴィンテージプリントが商業的な価値があると言う認識はほとんどなかったからだ。

日本に戻ってきてしばらく経ってから金子隆一さんから電話があって東京都写真美術館ができるのでプリントを収蔵したいと言うのである。それで探したら1973年5月の5日と言う日に横浜から船に乗ってヨーロッパに向かったのであるがその時捨て忘れていた印画紙が70枚ぐらい出てきた。

つまり今東京都写真美術館に収蔵されている私のコレクションと言うのは自分でニコンサロンでセレクトして没になった写真なのである。
0298名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/13(日) 06:36:44.15ID:RRK4IJzF0
ライカの会社が1番最初に制作したUR Leicaであるが幸運なことに私はこの王者のレアライカを3回も手に取ったことがある。その2度目のときにはライカ社の社長室で社長さんが30分も席を立ったので持ってきたフイルムを装填して写真を撮ってやろうなどとけしからんことを考えていたのだが、ライカ人類の文化遺産を壊してはいけないと言うことに気がついて思いとどまった。

その翌年だったと思うがその世界最初のライカが銀座の百貨店で中古カメラ市の特別展示品と言うことでライカ社の社長さんはその世界最初のライカをご自身の書類カバンに入れて来日したのである。

新橋の第一ホテルアネックスで彼に会って雑談を始める前に社長は書類カバンを開けて私にカメラを手渡した。それは世界最初のライカではなくてハンガリー製のちょっと珍しい一眼レフなのである。その一眼レフは私がウィーンのライカショップに修理を依頼していたのを社長は持ってきてくれたのである。

そして彼の書類カバンの中に2台目のカメラがあってそれはこれから銀座カメラ博覧会で展示される世界最初のライカであった。

世界最初のライカが動いているのか動いてないのかを聞き忘れてしまったけれども、そういう品物が存在していると言う事だけで我々カメラ人類はこの世界で十分に幸せなのである。
0299名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/14(月) 07:02:49.79ID:zJHvyvrs0
ところでグエル公園の向かいにあるのがこの平屋の木造建築であって、私の子供の頃は生まれ育った文京区の音羽にしても木造建築が普通であった。そこに菊竹さんのスカイハウスができた時はみんながびっくりしたものである。それでもできてから60年ぐらい経過すると建て増しをしてしまって冴えないコンクリのアパートになってしまった。

最近では木造建築はどんどん数が減ってしまって、この実例等は実に貴重なのである。かなり前から空き家のようであるがそこの掲示板に表示してある豊島区区議会議員の名前等は私が1967年ごろにこの界隈を撮影したときの街角に写っている掲示板と同じ人の名前なのだからタイムトンネルそのものだ。

カメラが向いている面にはいくつかのポスターが貼られているけれどもここに頻繁に仕事に行っていた頃は、日本共産党の関係の人が自転車に乗ってポスターを張り替えに来ていた。これで見ると戦争法制反対とあるからずいぶん前のショットではある。

グエル公園で仕事をしながらポスターを張り替えに来た人をそれとなく観察して私の頭に浮かんだのは戦後のフランス映画で地下組織のパルチザンがよく出てきたりするがパルチザンは大抵黒っぽい格好をしていて自転車で移動したりするのでそのパルチザンと二重写しになったのがなかなか良かった。

私も写真を始めて半世紀以上経って目指すのはアルチザンではなくてパルチザンなのである。
0300名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/15(火) 00:21:16.69ID:jMoGzJSw0
ここでお見せするのは共食い看板研究科の中では非常にレベルの高い決定的瞬間である。なんと共食い看板が設置される瞬間をバスの中から撮影しているのである。その場所については軍事機密であるのでここでは公表できない。

要するに共食い看板の存在は数十年前のブームで終わってもう存在しないと思っていたのであるが新たな共食い看板が生まれる瞬間を撮影していると言う事は、ピューリッツァー賞候補になるかもしれない。

この共食い看板信田さんで評価できるのは豚さんがコック服を着てしかも舌なめずりしながらナイフとフォークをかざしていると言うコンセントレーションキャンプのエントランスに掲げてもいい位の人類を恐怖に落とし込む効果のあるイラストレーションなのである。

以前ベルギーを取材していてかつてのフリーメーソンのクラブが今ではおしゃれなカフェレストランになっているのを見て感心したものであるが、ひょっとしたら日本の共食い看板と言うのは、肉屋さんの数ある中のフリーメイスン的な秘密組織ではないのかと考えている。。
0301名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/16(水) 07:04:24.87ID:lizMkbvW0
考えてみればライカの1番最初のモデルもファインダーはついていたけれども距離計はついていないのである。それで1973年の記憶になるのだがウィーンの国会議事堂の向かい側に立派な公園があって、そこでたまたま見たライカ人類の撮影の仕方なのであるが、ライカのA型にユニバーサルファインダーをつけて、手持ちの距離計できれいなローズの距離を測ってそれを135ミリのレンズに距離を移動させて撮影していると言う実に優雅なライカ人類を見てこれがライカの道のキングスロードだなと感心したことがあった。

それ以来私は距離計のついていないライカエムワンとかファインダーも付いていないこの種類のライカが好きなのである。それでこの写真に写っているライカ1fの話だが10年位前になかなかいい写真集を出していて同時に京都でカメラ修理屋さんをやっていた女性と言う人がいて、デビューの写真集には腰巻に森山大道さんが1文を書いて才能のある人であった。

そのうちお付き合いができて京都方面の催しに呼んでもらったりして面白かったがある時初めてこのライカを修理に頼んでなかなか時間が経過したのでメールで、よろしくお願いしますと送ったら、ほとんど条件反射的にバラバラのライカがビニールの袋に入ったまま返送されてきたのである。

私はこういう性格であるからよく人に利用されたりするのであるが、こういう結末になってしまうとあらまた利用されちゃったなと言う感じがして残念である。私はカメラをくみ上げることができないからそのビニールの袋のままカメラの分解ができる野々宮にあげてしまったが彼の実力で組み立てができるかどうか?それとも関東カメラサービスにお願いしようかな。
0302名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/18(金) 07:22:54.60ID:Ew44UY5t0
アルパ研究会をやっていたのは30年近く前のことだ。1時は大流行で100人以上のメンバーがいた。もともと銀座のカメラ屋さんで壊れたアルパカメラが私のような物好きに押し付けられたので、それで銀座の夜はバーで昼間は喫茶店のお店があってそこで歩羽月が集まってアルパトークをやっていたのである。

そのうちメンバーが増えてきて銀座のお店の営業妨害になりそうなので、場所を佃島に移して10年ぐらい開催していたと思う。腕の器用な連中がこんな複雑なアルパカメラを分解して治せるようになったのも凄いことだった。

アルバはご存知のようにボレックスを発明したジャックボールスキーが作ったカメラである。もともとは制作工場は時計のパーツを作っていたそうで、初期のこのシリーズのカメラはスローシャッターにするとスイスの時計の音がする。

アルパのカメラシリーズは3つの時期に分けられる。これが最初期のカメラなのであるがその後どんどんクオリティが落ちて変なカメラになってしまった。それで当時のアメリカでは公式のカメラとして認められてずいぶん販売をしたようである。日本でも輸入代理店があったけど当時のライカカメラよりも高いカメラだった。

アルバにはちゃんとした研究所があってそれぞれのカメラからレンズからパーツからアクセサリーまで細かく解説されていてなおかつ製造台数まで書かれているのである。ところがそれがドイツ語しかなくてしかも発行部数が500歩と言うのだからアルパがいかにマイナーな存在であったかはわかる。

この個体も調子が悪かったのだがアルパ研究会の常連だったTessinaさんに修理してもらった。交換レンズは専用バイオネットなので私としては手元にあるエム42を使いたかった。それで友人で本本田にいた人で今では外神田でブガッティを運転して灯油を買いに行く人がいるのでその人にで作ってもらったのである。

このカメラの操作感覚と言うのはかなり未来的なものであって例えばカメラの前面右側にあるレバーを回すと高速シャッターからスローシャッターに瞬時に切り替わる。さらにシャッターダイヤルであるが速度を変更するのに引っ張って回すのではなくて押して回すのである。
0303名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/19(土) 07:16:50.63ID:BTfhVMkC0
街中で貝殻を捨ててあるというのは私の幼年時代には結構そういう習慣というかそのような場所があったものだ。佃島に住んで30年以上になるが住み始めた当時は砂でできた地面に貝殻がちらほら見えたものである。

大森の貝塚と言うのは外国人の学者が丘常生から走っているときに偶然発見されたと言うのも面白いが本家争いで大田区と品川区に両方貝塚があるのもまた変な感じだ。

江戸時代の下級武士の日常生活を記録した文書なんかを見ると彼らが食べているのが定番として剥き身汁というのがある。非常に一般的な食材であったからそれが捨てられてあっちこっちに考古学的ではない普通の貝塚ができるのは当然の次第なのか?

飯塚よりもっと凄い規模の貝殻の捨て場と言うのを見てびっくりしたのは香港島の西側の海岸線だったか。そこは蛎殻で海岸が構成されているのである。蛎殻町などと言う地名もある位だから地面が全部蛎殻と言うのは人間の食欲の偉大さにびっくりせざるをえない。

千住汐入が開発される前だから50年近くの昔になるが巨大な団地ができる前に界隈をウロウロしていたら神社があってそれは貝殻を粉にしたもので化粧品にすると言うそーゆー産業があってその神様を祀る神社なのであった。
0304名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/20(日) 06:52:47.75ID:WIMEsDu80
傍流写真同盟の弥次喜多山等は曇り日の方がピーカンの日よりも取りやすいと言うけれどもこれは確かに真実なのである。プラハの巨匠Sudekも同じことを言っていて軽い曇り空が物が一番きれいに見えると言うのであるが、要するに高原をディフューズさせたのが1番物の存在感がそこに浮上すると言うことなのだ。

しかしプラハの街は冬は曇り空であるが秋口などは良い天気が続くばかりだからそういう時に撮影をしないと言うのももったいないので私のようなワンブロック行くごとに後ろを振り返ると言う変なテクニックが発明されたのであった。

東西ドイツがまだ西と東に分かれていてベルリンが東西に分かれていた頃の話だけど、アサヒグラフと言う今はもうない雑誌のアサインメントで東ベルリンの工場建築を撮影したことがある。ベルリンは1台工業都市であったからベルリンが東西に分かれる以前のレンガ造りの立派な工場建築がたくさんある。

東ドイツの友人の女性に頼んで空色のトラバントに1日ドライバー付で50ドイツマルクを払って東ベルリンの工場外を走りまわった。三脚を立てると秘密警察がうるさいので、車を止めて手持ちの4 × 5インチのカメラでさっと撮影してそれで次に移動していた。

振り返りながらプラハの街をディープサウスに歩いて行くと結構存在感のある工場建築があちこちにある。それも当然であってプラハと言うのは20世紀初頭にはロンドンをしのぐほどの一大工業都市であったのだ。

プラハのディープサウスの一鶴はしかしながらヨーロッパの大都会の周辺部の工業地帯とはまたかなり趣が違っていてそれが私を引きつけたのであった。このdeepサウスプラハのシリーズは確か10年位前に京橋のアイランドギャラリーでデジタルデータ化したプリントで個展をやった記憶がある。
0305名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/25(金) 19:09:29.50ID:tFQnvQxA0
ニューヨークから帰ってきた1983年から10年間ほど当時大流行だったタウン雑誌に橋からの眺めと言うのを連載したことがある。当時は仕事で外国に行くことも多かったから思い出した時に世界中の橋を撮影したのだ。これがポイントなのは橋を眺めるのではなく橋からの眺めと言うところがキーポイントであった。なかなか面白い10年間であった。

それでこの橋のショットであるが、手前にうごめいている人影が面白いのでスーパーネッテルⅡ型で撮影したのである。レンズは有名なテッサ5センチである。手前の人物に興味が行っていたので偶然その上のほうにある橋が写ってしまったと言う感じだが、全体を見るとなかなかダイナミックな構図でこの25年来の東京を撮影したショットの中ではかなり気にいっているのである。

広角レンズをいつも使っている自分としては逆に強烈に感じるのであるがこのような普通の視神経というのが逆に新鮮に感じるのが面白い。テッサ5センチでなくて50ミリの標準レンズであれば何でも良いと言うわけだが、今ではズームレンズがカメラに標準でついてくるけれども、大昔のフィルムカメラ時代は50ミリレンズが標準レンズで付いてきたと言うのはなかなか写真哲学としては含蓄が深いものだと感心しているのである

オスカーバルナックが最初のライカカメラに5センチのレンズを使ったと言うのはこれは偶然とかそういうものではなくてそれ以前にライカの会社が作っていたスタンダードの35ミリ映画撮影機に付いているレンズが5センチなのであった。そのシングルフレームをバルナックはフィルムを横に走行させてダブルフレームにしたので結果として50ミリの撮影杯が2倍になったと言うわけだ。

大昔のアサヒカメラで読んだことがあるが、タイムライフの写真部では標準レンズが50ミリではなくて35ミリと言うように設定されていたそうだ。それで50ミリと言うのは特殊世代用のレンズなのである。
0306名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/26(土) 07:36:27.91ID:qLb6BTmV0
梅田先生の家にはライフマガジンがたくさんあってコカコーラを飲みながらウィンナーソーセージをつまみつつライフマガジンを開くというのが当時の自分にとってはハイカラな生活であった。

高校の3年の時にカメラ毎日に高梨さんの東京人が発表されてその頃の東京の街角に写っているコカコーラの配送車の存在がひどくモダンなものに見えたのである。その影響で50年間コカコーラの配送車にノスタルジーを感じているのだ。

1971年の春に銀座4丁目にマクドナルドのショップができてそれ以前の日本人は外で立ち食いをすると言うのは恥ずかしいことに思われていたのであるが、私などが非国民であるから日本人で1番最初に銀座4丁目で立ち食いをした馬鹿な人間の1人なのである。それで飲み物はすかっと爽やかコカコーラ。

思えば今年の春に出版した東京の写真集のシリーズでも表紙の写真はコカコーラの配送車なのである。銀座の三原橋のところで通り沿いに銀座の晴海通りの路面が逆光で光っていると言うショットであった。

コカコーラは年だから飲まないけれど子供の時と青年時代のそういう視神経と体験の資格と言うのはなかなか影響力がある。
0307名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/27(日) 06:55:13.11ID:nyK5wbdP0
ヤフオクで見ていて最近面白かったのは昭和30年代のキャノン85ミリF2 1.5の明るいレンズのプライスである。私も何本か持っているが当時といっても10年前だけれどもこのレンズは35,000円だったらそこら辺がプライスの限界であってそれ以上の値段は出さなかった。

それでプライスがどうなるかと思って緊張感を持って中止していたら700,000円近くまで値段が上がったのである。こうなると結構私は疑い深いからオークションで非常に値段が高くなるのは新しいマネーロンダリングの方法なのではないかと邪推したりする。

明るくて高い85ミリレンズと言うと同じ時代にはニッコール8.5センチエフ1.5というのがあって、これもずいぶん使ったレンズだ。10年前に出したライカマイライフと言う写真集の中で、このニッコール85ミリともう一つはライカが出した85ミリef 1.5と言うレンズがあってこれも使ったのであるが撮影した時期はウィーンで最も光が乏しい1月から2月の時期であってしかも私はスナップシューターであるから500分の1秒のシャッターを切るために絞りはエフ1.5と言う撮影方法なのである。劇場映画のプロの撮影でハイスピードレンズが必要になるのと同じ理由である。ハイスピードレンズと言うのは絞り開放でないと意味がないし実際に軍用カメラで暗いところで航空機の着発を撮影していた時代にはライカのM3についたエフ0.8号と言うレンズがあった。

このレンズ等は撮影距離は最初から固定されているし、絞りはついていないのである。つまり明るいレンズと言うのはかなり特殊なスペシャルカメラのためのものであってアマチュアの皆さんがネットオークションで競争すると言うのはかなり的外れな戦いと言うわけだ。

^_^古村85ミリef 1.4と言うレンズは30年ほど前に今はもうなくなった高輪のカメラ屋さんでボロボロに使い込んだやつを4000円で手に入れて使い始めたのだが自分の写真には合わないのでアルパ研究会で誰かに売ってしまった。それから20年ぐらい経過してどこかでその個体にもう一回出会ったことがある。あまりに汚いのでその汚さが個性になって他のレンズとは見違えないと言うのも素晴らしいことだと思う。

ネットオークションに登場したこのレンズはそこそこの値段で落札されたようだが私が感心したのは小村のオリジナルボックスが付いていることだ。初めて見た。
0308名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/28(月) 07:37:28.08ID:i0tY7p/P0
カメラはオリンパスのAPS-Cサイズのカメラで普通の標準ズームレンズが付いている。それを瞬間的に望遠のほうにして数枚撮影したのがこれである。1970年代に実際にニュージャーマンシネマの撮影に仕事で付き合っていたので普通の通行人が見れば単なる退屈そうなウィーンの町外れの風景にしか見えないであろうが、私の時間軸の体験からするとここから何かとんでもないドラマが始まるのではないかと言うふうに感じるのだ。

右手に松葉杖をついた男性が力強く奥のほうに歩いていて、その男性を見るともなく見ている左側の別の男性がいる。それと階段の奥のほうにそれよりかは若い感じの男性がほとんど目立たない感じで立っている。ここからとんでもないサスペンスドラマが始まっても構わないけど私としてはこれは、存在の耐えられない軽さみたいなテーマが、好みである。

右の頬に見える看板はオーストリアバンクと読めるけれどこれはもともとZentral Sparkasseつまりウィーン中央信用金庫みたいな地味な名前の銀行でウィーンにたくさんの視点がある。1974年に私が写真展を開いたのもこの信用金庫というかオーストリアバンクの本店のギャラリーでやったのである。だから私のウィーンでの写真活動に関しては1番なじみのある名前だ。

左に見えるのは薬局である。そこに男性が左手で手すりにつかまって体を支えているというのが私には近親感覚を感じるのだ。10年近く前の私は通常に歩行したばかりではなく1日に20,000ステップ歩くと体調が良いし、30000ステップ歩くとやや疲れたと言う感じであった。

歩行するのに何の苦労もなかった。それが今では後期高齢者で歩行能力が減退しているから自宅から月島の駅に行くのにも決心をする必要があるような老人である。

左手の男性が手すりにつかまっていると言うのはこれを撮影したときには何の共感も感じなかったが今の私の状況で見るとこの男性の左手が握っている手すりと言うのに連帯の共感を感じるのである。

40年前、マンハッタンをタイムズスクエアから何かしてバッテリーパークまで歩いてそこからまた歩いてタイムズスクエアに戻ってきた。所々でおじいさんがなんとなく1建物の角に腰をかけているのを見て何をしているのかなぁと考えていた。30代の私であった。その同じことを今やっているのである。

写真と言うのは面白いなぁ。
0309名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/29(火) 07:58:56.37ID:5T6GyRU+0
旧市街にあったカメラ屋さんでフランス製のライカタイプのカメラFocaを手に入れてリスボンの街を撮影した。当時はこれは今だと信じられないことであるが、そこら辺のドラッグストアでモノクロフィルムを普通に売っていたのである。手に入れたドライEXにはコダックフランスの文字が並んでいた。

旧市街からお城の上に登って行く電車は系統番号が29番と言ってリスボンの自然の中ではかなり長い路線に属する。私が初めてリスボンを訪問した40年以上前にはもっと長い系統の子でもあってそれは24番と言うのであるがこれはバスに変わってしまって今はもうない。

その28番の系統で1番ドラマチックでフォトジェニックなのがこのカメラアングルなのである。だからリスボンに行くと必ず同じ場所に行って写真を撮ることにしている私は定点観測で写真を撮ることが大嫌いで大体定点観測をやる人間は写真の根本的な面白さに盲であると言う人々だからやらないのだけれどもここだけ唯一の例外の撮影ポイントであると言っても良い。

この40年以上風景は何も変わらないように見えるのだが、よく観察するとワイ白になっているところの樹木がやや伸びているような気がする。それが40年というか50年近い時間経過の唯一の証明になる。
0310名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/11/30(水) 05:56:56.93ID:JX4WZrwS0
30年以上1番近い高級スーパーのリンコスで中国製の鴨肉をスライスしたのがあってこれが298円でサンドイッチに良いしお酒のつまみにも良いので愛用していたが数ヶ月前から商品が見えなくなった。

見て楽しむかもちゃんと食べてうまいかもちゃんの両方がいないので佃島に住んでいる価値がないと言うふうにかなりがっかりしているのである。

それで長年不思議に感じているのはなぜかもちゃんをフランス語ではキャナルと言うのであろう?やはり運河に住んでいるいるからそういう名前になるのかな。

バブルが全盛の頃を取材でよくフランス全土を旅行してそうなるとツーリスト雑誌であるからミシュランの星付きレストランの食べ歩きみたいなテーマになって、何が福岡と言うと15日間の取材で毎日のランチとディナーがミシュランであったりするのは実に辛い。

パリでも星付きレストランはずいぶん取材したのだが残念ながらトゥールダルジャンには行く機会がなかった。あそこは星がついていないのか?
0311名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/01(木) 06:24:36.95ID:nMeRpeUH0
バルセロナオリンピックの2年前であったかイベリア半島を1ヵ月ぐらいかけて料理の取材をしたことがある。その時同行の井上さんと言うライターさんはイタリアスペイン方面の料理の専門家でありながら実は日本食が大好きと言う人で見ていてかわいそうだった。当然のことながら炭酸ガス入りのミネラルウォーターは飲めない。それで旅行中に私はガス入りの水が好きだからCon Gas Tanakaと言うニックネームが付いていた。井上さんのほうはZin Gas Inoueと言うわけだ。

あれから時代が40年ぐらい移動して最近では日本人が普通にが出倫でもミネラルウォーターを飲むようになったので私はこれは東西ベルリンの壁が崩壊したことより凄いことだと思っている。思うに習志野少年少女オーケストラの子供世代がガス入りの水を飲むようになったのであろう。

さらにありがたいのは5年位前から東京都内の飲み物の自販機でガス入りのミネラルウォーターの500 CC入りが普通に買えるようになったことだ。私などはクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社の炭酸水を外国製だと思っていたのだが実はアサヒビールが買収して今では完全に日本ブランドなんだね。

それでずっと外国製だと思っていたこの炭酸水であるがある時ボトルを見たらそこにサンキューなどと書かれていたので化けの皮がはがれたのである。
0312名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/03(土) 15:24:28.95ID:ry9s0HTu0
マンハッタンで親友になった大金持ちがいるのだけど、彼のフラットはホイットニーミュージアムオブアートのすぐ隣なのだ。それで彼の家に遊びに行くとあれは1983年の後半だったと思うけれども、ちょうどキースヘリングがデビューした大きな展覧会が開催されていた。

友人の部屋から隣のミュージアムの窓を見ると、窓の中にキースヘリングが展示されているのが私には非常に不思議に思った。

キースヘリングと言うのは、マンハッタンを歩いていくと、路上に見えてくる落書きであったからだ。

それから数年後、イタリアミラノのスカラ座に取材に行った時、イタリア人のGFの家に遊びに行ったんだけど、彼女のパパがスカラ座の偉い人だが、広いリビングにキース、ヘリングの巨大な壁画が2つ飾られているので、あーなるほどなと思った。

ベルギー政府観光局の取材でベルギー中を旅行したことがある。ベルギー北部の北海に面したあたりに巨大なカジノがあった。そのカジノの巨大なホールには、ポールデルヴォーとキースヘリングの巨大な壁画が向かい合って並んでいるのである。

イタリアでワールドカップがいつあったのかも覚えてないが、ワールドカップのファイナルの日だった。その時にGFのリクエストで、サントリーがやっている日本レストランに行ったら、フーリガン対策でアルコールは一切出ないのである。何十年もダイニングしているけれども、アルコールなしのダイニングは長い人生の中でこの時だけなのでよく記憶している。

Simonaは、当時ミラノの大学で美術史を学んでいて、28歳だった。だから彼女はとっくに還暦を超えているであろう。
0313名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/10(土) 08:47:50.42ID:0mBNGqFK0
坂崎さんとの出会いは元はと言えば30年ほど前に伊勢丹の中古カメラ市で私がジャンクボックスに入っている田中高額の135ミリレンズに手をつけようとしたら別の手が伸びてきて手と手が触れ合ったのであるその手の主が坂崎幸之助さんであった。つまり私は音楽家に関して言えばベートーベンとビートルズは知っているけれども坂崎幸之助は知らなかったので翌日月島中央図書館でアルフィーの曲を聞いたらなかなか良かったのでその翌日に銀座4丁目の楽器屋さんに行って出たばかりのliveインプログレスと言うのを買ったのであった。それまである日は知らなかった。

坂崎さんは真面目な人ですから、坂崎幸之助といいます。アルフィーと言うバンドをやってますと自己紹介してくれたのでよかった。その後に知り合った東儀秀樹さんもそうでちゃんと飯をwinのライカショップで初めて出会った時に渡してくれてそのプロダクションが扱っている4人のアーティストのこれが僕ですと言うところで青鉛筆で丸い印をつけてくれたので他の人と混同しないで良かったのである。私は東儀さんの存在も知らなかった。

それで坂崎さんと何かのカメラ道楽の馬鹿対談をやっているときに、このカメラ普通の普通らが話題になったのである。そういうときの馬鹿話はどんどん自己増殖してボルテージが上がっていくのであってその時私が坂崎さんに約束したのはこの普通の普通らはドイツの西の文化都市フライブルグで作られているから、フライブルクにカメラとレンズを探しに行くと言うことに閣議決定したのである。
0314名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/13(火) 06:51:33.18ID:Xcqc6hV90
撮影したポイントは柄田橋の上から。ここの撮影ポイントは当時はかなり有名だったらしい。写真もずいぶん売れていたらしい。私が手に入れたのはそういう複製されたものの1枚であったと思われるが全部パノラマを展開してみると大迫力なのである。それが間接的に私をしてイスタンブールに行きたいと言うアイディアの犯行のもとになっているわけだ。

それで世界中の大都会のパノラマ的風景と言うのを今までずいぶんたくさん見てきたわけだが、そういう世界の大都市のパノラマ的な風景の中でイスタンブールのパノラマが1番ドラマチックであることに気がついた。その理由を考えてみるにパノラマ写真を見た我々の人間の視神経が興奮するのはただまったいらなシベリアの原野がパノラマに写っているのではダメであって、そこに海がないと迫力にかけるのである。さらに古代のモスクがあったりするとコントラストがついていかにもパノラマ的なエキセントリックがそこに表示されるのである。

パノラマ写真と言えば写真家が撮影したので有名なのはプラハの大写真家が撮影した1連のプラハパノラマシリーズであるが、このオリジナルのかなり横に長い写真はまだパノラマカメラが登場する以前の、いわゆるパノラマつなぎ写真なのである。

私が卒業した日大写真学科は大嫌いだが、この間林真理子が日大の理事長になったとか言うのでまた日大が嫌いになりました。その大嫌いな日大写真学科の1年生の時に横に写真をつなぐパノラマの撮影実習をやらされたときに、私は日大写真学科の教育プログラムのレベルの低さに大学1年生ながら呆れたのである。
0315名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/18(日) 07:46:12.32ID:4ksddtl00
私の数冊出した単行本は片岡義男さんから東京書籍の編集者を教えていただいたのであるけれど、その人は当時の皇太子殿下と学習院の同級生であるそうだつまり今では天皇陛下のお友達と言うわけだな。

そんなことが理由にはならないと思うけれども、何かの単行本の中で私が中央区のチベットと書いたら、それはふさわしくないから他の言葉に訂正してくださいと言うのである。それで似たような言葉を置き換えて本を出した記憶がある。

話を戻すと佃界隈には食べ物屋がほとんどないことに気がついた頭の良い企業が1年位前からであるがフードトラックをタワーマンションのエントランスに置いて毎日日替わりで別のフードトラックが来るのであるが、要するにこういうビジネスはかなり細かいマーケットリサーチの結果AIがそういうことを考えたのであろう。

そういうフードトラックが来るのはありがたいから私はそれを雑文で書くときに、ここは中央区のチベットだからそういうものがないと書いて、いやいやこういう書き方は良くないと昔のことを思い出してそのセクションだけ書き直したのだがこれに代わる適当な言語がないのである。それで苦し紛れに書いたのが

中央区のシャッター街

なのであるがこれは言葉の感覚とするとブラックユーモアがないから全然切れない言葉なのである。

一番近くにある吉野家は有楽町駅前だと思うけれどそこで食べたのが3年前の春のことだし、もんじゃ通りの月島商店街にはラーメン屋に関しては一見もないのである。私の記憶では東京オリンピックよりも7 8年前に、まだ国立競技場が改装される前でその隣に日本青年館があった頃に日本青年館に1週間ほど缶詰になってその時に歩いて四谷のガラクタ屋さんに行った記憶があるがその他には国立競技場の向かいにあるなんとかいう好きものが行くラーメン屋で食べたのが最後である。
0316名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/20(火) 07:40:14.80ID:E2+FmIFP0
私の日本カメラの連載が出て数ヶ月経過してから離婚研究会のなんとかさんと言う人から連絡があって、私が日本カメラに掲載したニコンをぜひ譲ってくれと言うのである。私が説明するにはおそらくこの子センチエフ3.5と言うのは当時ニッカカメラ用に作られたライカスクリューマウントの5センチエフ3.5のレンズヘッドだけを外して改造してニコンマウントにしたのではないかと説明したのである。

ところが離婚研究会のそのジェントルマンはそれでもいいから譲ってくださいと言うので日にちを決めて新宿の東口の喫茶店で午前10時にお目にかかったのである。そこからニコンに関する話が延々と続いて夕方5時までニコントークが続いた。離婚研究会だしこちらは、ではなくて音声間違い。ニコン研究会だしこちらはニコンの当時の全商品を撮影したと言う経験もあるから話が膨らみすぎてその間2回ぐらいコーヒーの追加をしたと思うが気がついたら夜になっていると言う感じなのであった。

恐ろしいね。

ライカマウントのニッコール5センチエフ3.5はごくわずかスクリューマウントでも生産されている。私も所有しているがそれは製造番号が4705で始まるロットのやつだ。1947年5月生産と言う意味なのである。ただしこれはその後の時代に登場したニッカカメラのために作られた5センチエフ3.5のレンズはリジットボディであるのに対して1947年生産のロットはコラプシブルなのである。

20歳代によく使っていたライカスクリューマウントのレンズは5センチF2であった。これはニッカ3lに標準レンズとして付いていたものでいわゆる黒帯と言われているレンズの1部に黒いベルトが入っているやつだ。

しかし絞り開放で撮るような事はほとんどなくて絞り込んで使っていた。最近よく使っているニッコール5センチef 3.5にしても絞り開放で撮影する事はほとんどなくてエフ8辺で使っているのである。

写真用レンズはそのぐらいの明るさというか暗さがあれば実用には充分だ。明るさエフ0.95などと言うのはあれは酒のつまみでしかない。
0317名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/22(木) 00:19:03.46ID:QmJagaIy0
ロバートフランクの特集とかヨセフクーデルカの特集とかかなり注目される特集もやっていた。編集長のアランポーターは当時世界を代表するカメラ雑誌の編集者だった。

1973年の5月にスイスにアランポーターを訪問して彼のアパートメントに呼ばれていろいろ楽しい思いをしたのが忘れられない。最近どうしているかなぁと思ってウィキペディアで調べたら90代でまだお元気なので一安心。

その1970年の私のスイスカメラに発表したポートフォリオは飛ばすから撮影した当時の東京の風景なのである。

バスの中から外を撮影すると言う写真の方法論はロバートフランクが確立したものである。それで私も真似をして世界中のバスの窓から流猿大都会の風景を撮影した。このショットは数年前に撮影したToday Tokyoのワンショットである。。そのタイトルは1969年8月に銀座で本サロンでの写真展のタイトルである。

私の写真家としてのテーマが東京に関してはずっと一貫しているわけだ。だから世界を見る方法の切り口としては息が長く続くのである。ところでこのショットであるがつい最近見直してみて全体のパースペクティブがヘンテコリンであることが気にいった。言い換えれば現実にありえない風景がつまり写真が現実の都会の風景を現像したと言う感じなのである。

このショットの第一印象は何かの彫刻が土台の上に乗っていると言うふうにしか見えない。それでよく見ると男性が足元に何か置いて荷物をトラックの荷台に積み込んでいることがわかる。しかしその第一印象は非常に奇妙なのでそこに写真の面白さが存在するのである。

現実世界を見るときの面白さと言うのは見立ての上に構築されているとはよく言われることであるが、この場合は見間違えの上に面白さが出ていると言えようか?
このショットのアスペクトレシオはライカサイズであるのだが、ノートと言うのはそこら辺がわかっていないから館横の比率が変である。
0318名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/23(金) 07:15:09.95ID:0YtndgrU0
本田エヌ360はよく売れたモデルだったけど、輸出向けでエヌ600というのがあった。これは型自動車ではなくてちゃんと普通乗用車の5番のナンバーがついてるやつだ。亡くなった須田さんと彼のカローラ1100で東京をウロウロしていた時に夢の島で写真家の先輩有田さんがモデルさんを連れてどっかに撮影に行くのを尾行したことがあった。

有田さんの車がエヌ600で、ボンネットがもっこりと膨らんでいるのである。あれがかっこよかった。当時のホンダのスポーツカーエス600はエンジンカバーが平だけれども、上のクラスのエス800になるとボンネットがぽっかりと膨らんでいるのである。あれも良かったな。

この機械学と言うのは例えばライカ250で長いフイルムを入れられるのでライカの本体の両側が膨らんでいるのもそうだし、リフレックスカメラの1000フィートマガジンの巨大さなどにも通じるものがある。

アナログエンジンでもアナログカメラでもその実力がブローアップした部分に宿っていると言うわけだ。アナログ時代からデジタル時代になって私が1番がっかりしているのはこのポイントなのである。ライカ250カメラならマガジンに入れるフイルムが長いからその結果として独特なデザインのライカになる。

ところがデジタル時代になるとメモリーの大きさは大きくても小さくても同じあのサイズになってしまうと言うところが夢が膨らまないわけである。

ヨーロッパの高速道路で私の車を追い抜いていったフィアットアバルトに似た雰囲気を作ろうと思ってライカのリアウインドウを少し開けた状態で写真に撮ると雰囲気はかなり似ている。しかしこれでは写真を撮るわけにはいかないのでいろいろ問題なのである。
0320名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/24(土) 07:05:52.42ID:TwIIPUef0
2005年のクリスマスイブのことだと思う。エプソンアールディーワンの写真集の撮影で12月にウィーンとプラハとユネスコの文化遺産のTelchに撮影に行った。ウィーンではシュテファン大聖堂のすぐ下のペンションに宿泊した。いつものことであるがウィーンのライカショップのオペレーターのところに行ったらそれがクリスマスイブの昼まであって、ペーターが言うには夕方ちょっと写真を撮りに来てくれないかな?というのである。

私がすぐぴんときたのはあーこれはなるほどそういうことかなと思ったのである。クリスマスイブと言うのはヨーロッパ人にとって非常に重要な日であるから家族で集まって大切な時間を過ごすのである。だからクリスマスイブに私が呼ばれたと言うのはその背景はペーターが口にしなくてもわかるのである。

ペーターのアパートメントはウィーンのライカショップのすぐ裏手で建物は同じ所だ。もともとは工場だったところがお店とアパートメントになっている。部屋のクリスマスツリーはきれいに飾り付けられていてツリーの周りにきれいにパッケージされたプレゼントが並んでいる。

介護士さんが車椅子を押してペーターのお母さんが現れた。かなりのご高齢である。お母さんを中心にして記念写真を撮影した。一緒にいるワンチャンが普段なかなかないことなので興奮して嬉しがってお母さんの足に噛み付いたというインシデントもあった。

記念写真を撮影し終わってすぐクリスマスのお祝いを行って私はそこを出て歩いて国立歌劇場に行った。winのオペラはクリスマスイブだけは年に1度お休みなのである。オペラ座は真っ暗で周辺には誰も歩いていない。戒厳令の夜からこういう感じだろうなぁって思いながら、繁華街のマリアヒルファー通りを歩いても誰もいないのである。
0321名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/26(月) 11:44:40.90ID:JlUCHEmF0
我楽多屋さん主催の28日の恒例の忘年会は、今年は写真のような隅田川ベリーでやることになった。シドニーのトークが数年間お休みなので、今回はフィールドワークでこの数年間の写真とカメラの状況を話すつもり。

最初は参加予定者がソロキャンの人ばかりで炊事をしようと言う事だったらしいが、にだいめさんが事前に立て看板禁止事項をチェックしてきたので、それはやめて、飲み物を語っての私の馬鹿話スタイルになった

それでにだいめさんがiPhoneのパノラマモードで撮影した予定の場所のパノラマ写真が結構良いのでびっくりした。この界隈は私も30年以上ずいぶんいろいろ取ったのであるが、iPhoneパノラマモードで撮った事は無いのでこれは凄いと思う。
0322名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/27(火) 04:04:23.40ID:S/0ZMxxO0
ライフ写真家のために作られたブラックペイントのニコンエスは、巻き上げのダイヤルも大型のものに変えられていたが、こちらはホームメイドであるからそうもいかないので、突撃隊長は音響機器の関連のパーツをどっかから探してきてそれをつけてくれた。
ライフ写真家のために作られたブラックペイントのニコンエスは、巻き上げのダイヤルも大型のものに変えられていたが、こちらはホームメイドであるからそうもいかないので、突撃隊長は音響機器の関連のパーツをどっかから探してきてそれをつけてくれた。

フイルムカウンターはもともとつけようがないのだけれど、私の場合はいちどフィルムを入れたらそのまま1本とってしまうから、フィルムが巻き上げられなくなったらもうフィルムがないと言うふうに理解すれば良いだけであって、別にそういう使い方で問題もない。

普段使うのは28ミリから35ミリそして50ミリ位のレンズである。これが85ミリとか135ミリになると1番最初のニコンレンジファインダーモデルは距離計のベースがちょっと足りないのであるが、望遠系レンズをつける時は、ほとんどがインフィニティーで撮影しているし、特に望遠系レンズで距離が合わなくて困ったと言うこともない。

こうしてみるとNikonの初期モデルのロゴタイプがなかなかぐにゃりとしていて素晴らしいのである。IBMのロゴとかネクストのロゴ等は15,000,000ドル払って作ってもらったらしいが、このニコンのぐにゃりロゴタイプは誰がデザインしたのだろうか?
0323名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/28(水) 13:00:05.19ID:MYqJER1k0
オーストリーのウィーンと言う場所は、当時の東ヨーロッパの中に食い込んだように存在する都市であった。だから10年間の敗戦国としての占領時代を忘れない。その意味でソ連に対するアレルギーと言うのも非常に強烈なものがあったから、日本から来た田中長徳はなんでよりによってソ連製のレンズを使っているのかと結構周囲から不思議がられたものである。

日本でソ連製カメラとレンズのブームが起こる。四半世紀も前の話であった。日本で私をサポートしてくれる日本の写真家などもソ連製のカメラとレンズは絶対に使わないようになどと忠告めいたことを言っていたが、性能の優秀な事は、認めざるを得なかったみたいで、種明かしをせずにプリントを送ってやると、やっぱりライツのレンズは描写が素晴らしいなどと言っている。

ストラディヴァリウスの目隠しテストというのが有名であるが、ストラディバリウスと普通のバイオリンと専門家が演奏しても区別がつかないと言うのが面白い。その意味でソ連製レンズは、ストラディヴァリウスの目隠しテストと書いて、ここで訂正しなければならないのは、専門家が音を聞いて、自分で弾いてみて、これこそストラディバリウスだと信じていたのは、最近に作られたモダンバイオリンで、彼らが最も悪いと評価したのがストラディバリウス。
0324名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/30(金) 08:06:21.57ID:uDklaZbA0
そのリスボンのど真ん中の部屋から見るリスボンの街の明け暮れと言うのは、素晴らしいものがあって、部屋にいてそこから四六時中外を眺めると言うことが最大のリスボン観光なのである。7年前のリスボン滞在ではそういう暮らしをしていて、どこにも出歩くことがなかった。

それで夕刻になると窓辺にワインやら酒の肴やらを並べて1人大宴会をやったのである。

このカメラアングルから右に90度カメラを振ると、そこにホテルインターナショナルと言うホテルがあって、これもリスボンの中心の中心だ。にもかかわらず、宿泊料が非常に安いので、JTBの旅と言う雑誌の編集部の人がリスボンに行くと言うので、ホテルインターナショナルを教えてあげたら非常に感謝された。

ホテルインターナショナルのメインダイニングルームに掲げられた巨大な油絵は18世紀終わりのリスボン大地震のときのスペクタクルな姿なのである。このリスボン大地震を経て、リスボンはモダンな防災都市に生まれ変わった。

ところで、ホテルの経営者は、こんな一等地をツーリスト、ホテル並みに安く販売しては損になると言うことにようやく気がついて、大改造をして宿泊代を0、1個多くつけたのである。それ以来ここに泊まる事はなくなって、広場の反対側のちょっと北に向かったところにある五つ星ホテルAvenda Palaceに泊まるようになった。
0325名無CCDさん@画素いっぱい
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2022/12/31(土) 07:55:33.73ID:t3qjBczk0
当時のカメラとしては10キログラムと言う小型軽量なので、アメリカ空軍の軍用カメラにもなった。それでアメリカ空軍の複葉機の期待に取り付けられた写真などを見ることがある。

私が気に入ってるのはこのキャリングハンドルなのである。当時の軽量な35ミリ映画撮影機はいわゆるポータブルカメラであるから、持ち歩きのためにハンドルとかがついている。フランスのカメラなどではレザーストラップで持ち運びができるようになっている。

このカメラの場合は、木製のキャリングハンドルが付いている。これが手のひらに馴染んで、なかなか人間工学的なのである。100年以上を使われた木製ハンドルのぬくもりと言うのはなかなか得難い存在だと思う。

映画撮影機であるから、オリジナルはブラックにペイントされていたらしい。それが100年以上の時を経てきれいな肌の色が見えている。何かストラディヴァリウスの存在感に似ている。
0326名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/01(日) 08:19:48.36ID:2hOQ3afZ0
Sudekは、1898年に作られたこのカメラをプラハにある技術ミュージアムで発見して、それをしばらく借り出して名作を撮影したのであった。すでに戦前にSudekは、このカメラのことをアメリカのカメラ雑誌で知っていた。彼はこのカメラのことをカメラのソーセージと呼んでいた。と言うのは、チェコでは長いものの、代表的な形容詞としてソーセージと言う使い方があるのだ。

300ページ以上あるこの写真集は、実にプラハの環境をそのまま取り込んでいるところが素晴らしい。このパノラマシリーズの存在を最初に私がその存在を知ったのはスイスカメラであった。1960年代後半のことだと思う。それで私はパノラマ写真集に登場する場所を尋ねて、プラハ市内を歩きまわったこともあった。

この時、印刷原稿に使われた写真が発見されて、プラハの王宮のギャラリーで大きな規模の写真展が開かれたこともあった。さらに、その数年後にオリジナルを完全に復刻した写真集が登場した。外国のお客さん向けに英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語版が出たけれども、イタリア語版が1番売れなかったようである。ここに写っているのは、その復刻版のイタリア語バージョンである。

しかし、皮肉なことだが、復刻版の方が印刷のクオリティーが上がっているのだ。

仕事場のちょうど反対側のカメラの真ん中にこの写真集が置いてある。プラハにはもう行くつもりはないのだ。

1989年の11月にビロード革命をプラハで出会って、その25年あとの11月の同じ日にプラハの街はビロード革命25周年の記念式典に盛り上がっていた。それを一区切りとしてプラハはもうこれでおしまいにしようと思ったのだ。これが2014年の話だった。
0327名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/03(火) 04:08:55.61ID:5CcMud2w0
森山大道さんがOn the Roadと言うタイトルで、あの頃の米軍基地の辺りを車の中から撮影したシリーズがカメラ毎日26ページほど掲載されていたのも影響受けている。結構自分の好きなショットがたくさん取れた。

1971年の11月号に美術出版社から出ていたデザインと言う雑誌に16ページほど東京を撮影したシリーズを掲載した時は嬉しかった。編集長に頼んでその16ページはわざとセピア色のインクを使ってもらったりしたのだから、当時は写真表現の幅が広かったわけである。

その前後に私が覚えたテクニックと言うのは、50ミリの縦画面と言うやつだった。そんな当たり前のカメラアングルが、それまで2.1センチで横画面で撮っていた人間からすると、非常に新鮮に思えたのだ。それでデザインの16ページの中に有楽町のそばの文化放送の地下にちょっと素敵なレストランがあって、そのインテリアをバーチカルポジションで撮った。

別に何の変哲もないショットで、縦画面で上にレストランの掛け時計があって、その下にお子様用の椅子が壁に寄せられているだけなのである。でも、私にとってそれ以前の2.1センチで撮影した画面と言うのは、大都会のエキセントリックなダイナミズムを撮影すると言う思い入れがありすぎたので、ここら辺の5センチ、縦画面と言うところから、私の視神経が変貌し始めたのである。

このカメラで撮影した5センチレンズ縦画面と言うのは、1969年8月終わりに開催された。銀座ニコンサロンの作品展の中でも結構たくさん出てくる。

このカメラのデザインで、素晴らしいのは、トップカバーのブラックペイント部分のコントラストとそこに刻印されたNICCAのロゴマークだな。フランス人がデザインしたのではないかなどと考えてみるのも楽しい。

ところで、50年以上使っているうちにある時、巻き戻しのノブが下に下がらなくなってしまった。そのままずっと使っていて、つい最近カメラを手にとったらのぶの部分がなくなってベースのパーツだけになっていた。

1台のフィルムカメラはそのぐらい長いこと使うのが本物であると思う。それに比べるとデジカメの命は短いね。
0328名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/06(金) 07:12:40.11ID:UJwqo3HP0
ところで、私は自分の作品はほとんど撮影距離は無限であって、近くを撮影する事は無い。昆虫、写真などをやっている人は近くを取ると言うことがカメラの非常に重要な性能になってくるのだけれど、私はその逆である。

こんな高性能なカメラを持っていて、それを1度も使ったことがないと言うのは残念なことだけれども、自分の撮影するモチーフと言うのは遠くにあるのだから、それはそれで仕方がない。割と、最近に最新型のオートフォーカスのカメラで飛んでいる小鳥の目にピントが合うと言うのを馬鹿にしていた私であった。何の目的があって、そんな写真を撮るのかと批判していたのだが、この当時の高性能カメラに関しても、似たようなところがある。

それでこのカメラを雑文書きの時に、テーブルの脇に置いて仕事に飽きるとファインダーを覗いて目の前に動いているハリネズミのお人形さんに35センチまで接近して満足しているのである。

このカメラがすごいのは付属のファインダーもちゃんと35センチまでパララックスの自動矯正ができるようになっている。そればかりか50ミリレンズで35センチまで接近すると、撮影範囲が若干狭くなるので、それを補正するためのブライトフレームも、内蔵されているところが至れり尽くせりである。

しかも、そのブライトフレームのクオリティーが一般では、ライカカメラ用の50ミリファインダーのブライトフレームが1番良いと言われているがこのカメラのブライトフレームのLINEのデリケートさは、ライカカメラのクオリティをしのいでいるのだ。
0329名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/08(日) 05:17:30.81ID:4pjLqLC70
プラハは第一次世界大戦の頃はロンドンに次ぐ姉妹都市であったそうでそういう歴史背景を考え合わせても街のど真ん中の建物の中にはがこれだけ静寂と言うのは素晴らしいことだ。

広くもないスペースの西側は、石をくりぬいた。巨大な水槽になっていて、そこに水が流れ込む。元は何のために作られたのかはわからないが、洗濯場であったのだろうか?

そこに並べられた、坐り心地の良い椅子にかけてプラハの友人P等ととりとめのないカメラ話をするのが楽しみだった。

ある時、テーブルの隣に座っている人が、私のカメラに興味を示して声をかけてきた。その人はなかなか知的な感じの人で一緒にいたプラハのPとその人とはチェコ語で話をしていて、後で私がPに対して何か不満そうだったけど、何が原因なの?と聞いたら

あいつスロバキア人なんだよ。まったくけしからん

と言うのである。ここら辺がよくわからないが、プラハのコピーみたいな知的階級の代表みたいな人間も分離独立した。チェコスロバキアのスロバキアの人とは意見が合わないと言うのは、日本韓国みたいなものでちょっと残念であった。

ソ連のブレジネフ書記長はウクライナ出身である。最近の西側世界、つまり、我々の世界の若い連中の意見を聞いていると、プーチンは悪でジェイレンスキーは善人みたいになる恩寵である。

若い世代は、30年前に1つの東側世界であると言うことを勉強不足なのかな?
0330名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/17(火) 07:13:13.80ID:44sB7lZn0
最初に買ったライカM2のブラックペイントは20歳の時。それから10数台の同じブラ ックM2を買って、還暦を2歳経過してもうここららでM2のブラック買いは止めにしよ うと言うので買ったのが、このカメラである。5パーセントの税金は覚悟で1万円札を2 枚用意してEMS待っていたら、税は1400円であった。やれやれ。

数日前の拙ブログでご覧のように、このM2はレンズマウント基部のバルカナイトが剥が れている。半世紀以上経過したライカだからそれは当然だ。ただし不思議なのは、キヤノ ン2Bなどはこのライカよりずっと古いけどいまだにバルカナイトはしっかりしていてい ささかの欠落もない。 当面はブラックのビニールテープを貼って使うつもりで、机上に置いて原稿書きをしてい たら、いきなり静寂の部屋の中で「ぱん!」と音がした。見ると、バルカナイトが小爆 発。さらに剥がれて細かい切片が机上に散乱していた。

けが人なし。 バルカナイトが剥がれる経験は沢山あるけど、音がしてライカの表面から爆発のような感 じで吹き飛ぶ現場に居たのは初めてのことだ。 長くライカとつきあっていると、いろいろな珍事あり。
0332名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/27(金) 20:01:00.51ID:992qFrjj0
今はもう存在しない。フイルムメーカーが作っていた一眼レフというのがそれぞれに個性的なものであった。何が個性的かと言うと、メジャーな一眼レフにはなれなかったと言うことである。それぞれのカメラは2を開けると中にシールが貼ってあって、コニカフィルムを使いましょうとか富士フイルムをどうぞとなっていたのだが、ここら辺の戦略がうまくいかなかったようだ。

コニカの場合は最初に出した一眼レフが非常に高級なモデルでコニカ行くと言うのである。当時ニコンエフより高かったかもしれない。それで戦略を変更してこのモデルを出した。当時としてはなかなか進んだカメラであった。

それから50年以上が経過して、最近はあたしが高く評価しているのがこのカメラのブラックペイント仕上げなのである。30年来私がブラックペイント仕上げと言うよりもブラックカメラに愛想をつかしているのは、今のカメラのブラックの色合いと言うのは、あれは単にプラスティックが黒いと言うだけの話なのだ。

国産のブラック仕上げのカメラで優れているのはこのカメラとそれからロードと言うカメラがあるだけである。一方で、外国産のブラックペイント仕上げのカメラと言うのは、まさにろくなものがなくてライカM2 M3の場合は天文学的なプライスタグが付いているが、私の使っていたライカM2のブラックペイント等は購入して1週間でトップカバーが全部剥がれて金色になってしまった。

たくさん書いたカメラエッセイの中で、国産の仕上げの良いブラックペイントのカメラを表して私は

渋いお茶が欲しくなる

などと書きちらしたのであるが、これは日本伝来の茶道に関連があるかもしれない。誠にわびさびの極致の心が落ち着く。存在感のカメラの仕上げなのである。
0333名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/01/28(土) 05:30:09.11ID:PoWPPnBM0
日大の写真学生の頃、1番最初に歩きまわったのが1966年の銀座界隈であった。実家が文京区にあったから、1番近くでメトロで行ける盛り場と言う感じである。その後1968年になって、東京にはデモンストレーションの嵐が吹き荒れていて、1968と言うタイトルはずいぶん本のタイトルにもなったり、私がコレクションになっている東京都写真美術館でも1968と言うタイトルで外国あたりに企画写真展を持っていったりした。

東京ニコン日記と言う新書版の700ページ以上の写真集であるが、これは2000年に作られたもので、その当時はこれからきたるべき本番の写真集の予告編と言う形で作られたのである。ところが本番の写真集はなかなか出ることがなくて、それから23年後、つまり昨年の春に出版されたのである。

Today Tokyoと言うタイトルで、日大の写真学科の学生として、1番最初に銀座のニコンサロンで写真展をやったと言うバックグラウンドがあるが、それ以来半世紀以上同じタイトルでやっているのだから、時間軸一直線と言うことなのである。

それでこの写真は銀座、ニコンサロン、つまり松島眼鏡店の3階で開催された私の個展の初日のギャラリーに入る前にちょこっと撮影したものだった。8月の25日であったが、天気は悪くて小雨が降っていたと言う細かいところまで記憶しているのである。向かいのデパートメントストアはまだ今のような外相ではなくて昔の古いやつだな。

その頃銀座から赤い電車の丸ノ内線で新宿まで行って、新宿方面を撮影したときのワンショットが電話線にぶら下がった人の背景に見える。ペトリカメラの広告なのである。ペトリカメラはもう存在しないが、あの当時というか日本が高度成長期の時期には、なかなか人気のある一眼レフカメラであった。

とにかく社会人になったら一眼レフを買うというのが、当時の社会構造のお約束みたいなことになっていたのである。しかし、耐久消費財としての一眼レフは非常に高価であったから、その中で比較的に買いやすいと言うカメラで、そのブランドがペトリであったわけだ。
0334名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/01(水) 00:09:38.12ID:4U76tx5c0
フランスパリのエクレールと言う映画のカメラと言うよりもキャメラの制作カンパニーは、戦前からメジャーな35ミリ映画撮影機を作っていた。

それが戦後になって、ちょうどフランスのヌーベルバーグとかシネマヴェリテの時代に小型軽量な手持ちカメラで魅力的なデザインのCameフレックスを登場させた。

このカメラの魅力というのは、すべてのパーツが瞬時に交換でき、しかも35ミリスタンダードの画面と16ミリフィルムの画面が数分で切り替えられると言うものであった。そういうカメラは当時他にはなかったし、今の時代にもそのようなコンバーチブルのフイルムカメラは存在しない。

ウィリアムクラインは映画製作者としても有名だけど、あれは十数年前、国立近代美術館で私が講演会をしたときに講演会がスタートする前にミュージアムショップを見ていたら、そこに私はウィリアムクラインの映画の仕事を集めた写真集を発見したのである。

そのハードカバーの本の表紙がこの亀フレックスを構えたウィリアムクラインだった。これは自分の人生でどうしても手に入れなければならないと思った。

それでパリに行くとバスティーユ広場のすぐそばにプロ用映画撮影機のショップがあって、そこに並んでいるカメラをよく見に行った。でも、その店はフランス語しかしゃべらないし、もっとまずいことにクレジットカードが使えない。

それで最初のCameフレックスはアメリカからオンラインの通販で買ったのである。その後いろいろCameフレックスが私のそばに寄ってくるようになって、今はサッカーチームができる位の数になった。

同時に、このカメラのアクセサリーもかなり集めていて、Lowプロフィールのマガジンとかハンドクランクとか。この時代で手回しで映画をとるというのがアイディアとしてあったこと自身がさすがルミエールを生んだフランスであるな。

他の珍しいアクセサリーとしては、スプリングモーターもある。これは故障していたので、野々宮BMWに直してもらった。

私の映画撮影機の遊び方と言うのは、当然ながら本編を撮影することではなくて、短いフイルムを入れて5秒だけ回して、そこで撮影された画面をネットにアップする程度の子供の遊びなのであるが、それが楽しい。
0335名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/04(土) 00:31:00.38ID:XBd7UeoW0
1955年であったが、当時の皇太子殿下がアメリカを経由してヨーロッパにいかれる。6ヶ月の大旅行なさった。ヨーロッパではシュツットガルトを訪問してカールツアイスの工場をご見学なさり、その時のお土産に購入したのがコンタックス2aのである。

私は何かのカメラエッセイで皇太子殿下が露出計のついたコンタックスではなく、露出計の付いていない氷をお求めになったということが偉いと書いたことがあった。

以前から気になっている写真がこれなのである。上質のオーバーコートに行く日から革ケース入りのニコンを下げている。そのスタイルはかなりのね。今ファンであるばかりかカメラのクールな持ち方であると感心していたのである。

ところがこの写真で私が不思議に思っていたことがあって、たった今、その長年の疑問が氷解したのだ。と言うのは、背景のプラカードがどっかのデモの現場みたいな感じにとられていたので、まさか皇太子様がデモンストレーションを取材するわけないなと思っていた。

長年の謎が解消したのは、そのプラカードを拡大してみると、頭にBitteの文字が確認できたのだ。つまりこのショットはドイツのどこかの場所で撮影されたことがわかる。
さらに分かった事は長年この写真を見ているのであるが、なんで露出がオーバーなのかということが不思議であった。おそらく随行のカメラマンが撮影しているから露出オーバーと言う事は考えられない。それで皇太子殿下の足元をよく見ると雪の積もった上を歩いておられるのである。

そのことを家人に対して行ったら、家人は新潟の出身であるから当たり前であると言うような返事をしたのでびっくりした。さらに細かく交代様の写真を見ると、エバレディケースをオープンにした状態でユニバーサルファインダーをつけておられる。これはかなり上級な寝込んユーザのやり方である。

しかし、このカメラはニコンエスツーだから、非常に精密な50ミリ用のフレーム、ファインダーはカメラに内蔵されている。皇太子様のこのときの旅行の写真は他にもあるが、私が見た限りでは50ミリの標準レンズをつけているのしか見たことがない。
0336名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/06(月) 14:43:27.02ID:Mbd72nG40
プラハの旧市街というか、モルダウ川の左側の騎士。日本大使館のある古い町並みの並びにこの黄金の蛇の家がある。調べた事はないが、ずいぶん古いものだと思う。

この近くにプラハの世界的写真家Josef Sudekのアトリエもある。つまり私の通常の散歩コースである。

モダンアートのギャラリーがある。そこのレセプションに行ってモラヴィアのちょっとうまい。ワインを少し飲んでから建物の左側のエントランスは小さなワインバーになっていて、そこで本格的に赤ワインを飲むと言うような生活だった。

10年以上前と言うと、文芸評論家の福田和也さんとけっこうなお付き合いがあって、いつもは銀座界隈で飲んでいたのであるが、私がこのプラハの黄金の蛇の家にある狭い古いワインバーの話をしたら、福田さんは来週にでもすぐ行きたいと言うような反応の良さであった。

プラハの3月半ばのまだ、復活祭には、程遠いが冷え込む寒さの夕刻ではあるけれども、光がどんどん長くなってくると言う。この時期は嬉しいものである。

ギャラリーのエントランスの男性は、私が屋根裏プラハと言うエッセイで、主役として登場してもらっているプラハのPである。ヴァーツラフ・ハヴェル大統領の友人。この人も一昨年の2月にコロナで昇天した。
0337名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/08(水) 07:31:21.99ID:uVM8Ezag0
五つ星ホテルを仕事で泊まり歩いていた当時の私は、本物のホテルのクオリティをチェックするのにバスタオルを触ってみたりしたのである。

それで三ツ星のホテルの場合のクオリティーチェックは全く逆であって、ブランケットもシーツも古い方が好ましい。

東駅のすぐそばの安ホテルの最上階は一応スウィーツになっていて、ここも好きな部屋である。天窓が付いているから、空からの光が差し込んでくる。

それでテーブルの上に並べたのがその当時の仕事の機材である。iPhoneもパワーブックも大昔の方であるが、タイメックスはいまだに同じものを使っている。

緑のリンゴと赤いリンゴがあるが、私はいつもヨーロッパの緑のりんごに憧れている。日本の緑のリンゴは、単に色が緑なだけで味は全くだめです。

それで白いデジタルカメラが見えるが、これが2009年には最新型であったのだ。2009年にペットロスになって参っていた時にオリンパスからこのカメラのムックを出してくれと言う依頼があって、私はペットロスを救われたのであった。

それでこの白いカメラは、今でも、佃島の仕事、机の角に固定されていて、YouTubeのショートムービーを撮影するときに使われている。

2009年のデジカメだと思うと馬鹿にする人が多いけれども、そんな事は無い。だって。これは今が2009年だと思えば最新型だから何の問題もないし写りも悪くない。
0338名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/10(金) 05:22:21.66ID:zFlNNrHm0
1975年頃にウィーンのアパートで撮影したセルフポートレートの写真である。当時、日本のカメラ、雑誌などに作品を発表するときには、本人の顔写真が必要であった。それは何とか撮影してプリントして送ったと言うのは、その当時はインターネットがなかったから、同然のことである。

ただ、このワンショットはそういう必要に迫られて撮影したものではなく、自分の時間軸の未来に向けてなんとなく撮影してみようと言う気分が盛り上がっていたのは左側に置いてある半分、空っぽになったワインのせいであったかもしれない。

そのネガのショットはそのまま忘れられていたのであるが、50年ぐらい経過してから偶然の機会に発見されて、それをスキャンしたのがこの画像である。こういう大昔のショットが面白いのは、当時生活のために使っていた細かい道具のようなもののディティールを我々は意外とよく覚えていると言うことだ。

テーブルの上に置かれているティーポットとか、そういう細々したものの、手触りとか使い勝手と言うものが意外とよく記憶に残っているのである。

できてから100数十年の古いアパートメントであるから、上は4メーター近くあるから圧迫感は無いとは言いながら、冬などはちょうどオイルショックの時であるから、石油代が馬鹿にならないのである。しかもヨーロッパは電気代が高いから天井に下がっている。シャンデリアなどは使わずに、長いテーブルの上に置いたスタンドで、すべての明かりのようを出していたのである。

セルフポートレートの撮影に使ったカメラはこの頃ずっとお世話になっていた。ソ連製のコンタックスキエフカメラである。レンズはごく当たり前のソ連製の空コピーであろう。もちろんセルフタイマーが付いているからこういう写真が撮れた。
0339名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/11(土) 07:07:56.32ID:KwAjHZGi0
2016年1月14日に成田ワルシャワのポーランド。航空の最初のフライトがあった。ポーランド。航空は飛行機の機体にLOTと巨大な文字が描かれていて、ヨーロッパのローカル空港で見ると、いかにもヨーロッパの端っこと言う感じがして、それを見るのが好きだった。

そのロット国が日本に飛んでくるというのが信じられないので、物好きにも1番最初のフライトを予約したのである。時間よりかなり前に到着して32番ゲートでワルシャワ発の飛行機が本当に姿を表すのかどうかを見極めた私であった。

そうしたら、定刻に見慣れた緑と黒が静かに姿を現したのはちょっと感激だった。この航空会社の飛行機はヨーロッパの果てで見ると言うところが私の素敵な気分であったから、そこで私が感じた不思議な印象と言うのは、ヨーロッパの果てが伸ばされて、成田になったと言う感覚なのである。

それで32番ゲートで待っていたら、人がどんどん集まって関係者がわけのわからない演説をしてこのように、準備された紅白のテープをハサミでズタズタに切って、それでおめでたいセレモニーが終了と言うことになった。

ここはセキュリティーチェックを済ませた後のエリアであるから、本当は刃物とかハサミは一切持ち込み禁止なのであるが、そこで複数のハサミでテープカットをするなどと言うのはどうもスマートでないと思った。

テープカットの狂気に使われた。ハサミはちゃんと回収されたのであろうな?
0340名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/18(土) 06:55:33.25ID:gdoM4v1M0
友人からアイディアをもらって、後期高齢者のユーチューバーになった。こういうのはもともとエンターテイメントであるから、芸能界暴露情報みたいのをやると、再生数が伸びるのである。

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人間関係が恵まれているので、有名人がたくさん存じ上げているが、それが皆さん還暦より下上の連中であるから暴露記事にはならないらしい。それでカメラのエンタメ系をやることにして50年前にウィーンで振り回していたモータードライブのでっかいやつを持ち出して。それを実演しながらビデオを収録した。

まず1番最初に分かった頃は20代と70代では、体力に大きな差があると言うことである。年寄りが兵士になれないのも当然である。それに、兵士を見ると、老人になってからは、兵士が若者に見えると言うところも面白い。

20代の頃には、この大きなモータードライブを持ち歩いてウィーンで撮影をした。目つきの悪い長髪の東洋人がこういう狂気を持ち歩いてそこら辺を撮影するのだから、治安は非常に危険であったと言うことになる。

ライフの写真講座の中に、ライフの夕飯、写真家がずらりと並んで彼らの愛用のカメラをホールドしている記念写真があって、その中央に鎮座していたのがこの巨大なモータードライブ付きのカメラであった。レンズはアストロベルリンの1000ミリが付いていて、ライフの有明写真家よりもその真ん中にあった大きなニコンのモータードライブの方が人格を形成していたというのが、私が写真家の道に入ってしまった。最初の悪魔の口なのである。
0341名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/18(土) 13:52:10.32ID:gdoM4v1M0
3年ほど前に友達からもらったハリネズミのお人形である。すでにブームは去ったようであるが太陽の光を使ってこれが動くというのがなかなかよろしい。ネットで調べてみたら数年前に流行したものだそうで壊れたときの修理の方法なども書いてあるので驚いた。

うちのハリネズミは1988年に昇天したのであるがその後世界中からハリネズミのグッズをカゼインとか私が買ってきてそれをFacebookなどで見た人がまたたくさんのハリネズミを送ったりくれたりするのはありがたいことである。
、仕事の机の上のこっち方を向いているありネズミはこれであるが、大きなテーブルの反対側で食事をするときに見ているハリネズミは赤いハリネズミであってこれは家人がローマに行ったときに買ったもの。

世の中にハリネズミが好きな人は猫バカよりも少ないみたいで、以前映画監督の羽仁進さんに会ってお話しした時ハリネズミを飼っていたそうで耳のラッパのようなのが方向が違うというのがかわいいと言っていた。

坂崎幸之助さんは高校の時に錦糸町のペットショップでアルバイトをしていたそうであるがその時のハリネズミが可愛かったと言う話もしてくれた。
0342名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/20(月) 03:34:13.68ID:cxamSMjD0
その店は知る人ぞ知ると言う存在で、ウィーンの写真家が私がウィーンに到着したときに連れて行ってくれたのである。なかなかレベルが高くて、バロック時代の十字架とか、バロックが普通に同時代として存在しているような店だった。それで業者さんがそれを狙ってチェリーピッキングに来るわけである。

ニューヨークの近代美術館に所蔵されているバウハウス時代のティーセットなども出てきたことがある。要するに、一般的に知られているのはそのレプリカであるが、ウィーンの当時の人々は、そのバウハウスの大衆生産品をリアルタイムで手に入れているわけだ。

ここに示すのは特別なものではなくて、単なるベネチアングラスで作られたデミカップである。そのウィーンの古道具屋さんで100円位で買ったもので、それ以来50年近くずっとこれでコーヒーを飲み続けてきた。ウィーンの文化がパリのカフェ文化と違うのは、立ち飲みのカウンターでコーヒーを慌てて飲むと言うようなことが存在しない点にある。

それと、ウィーンとパリでカフェ文化の違うところは、冬などにテラス席が存在しないと言うことだ。これはパリとウィーンの冬の気候の差によるものであろう。冬にウィーンからパリに到着すると、その温かさにびっくりするのは毎度のことであった。

それでパリの雰囲気を味わうためにキッチンに立ったままで、このデミカップでちょっとコーヒーをすすると言うのは結構私のパリのカフェの疑似体験なのである。キッチンから立ったままで遠くに隅田川をみるというのは風景としてはセーヌ川をみるとは異なっているけれども、それはそれで問題なし。

そのベネチアングラスのデミカップが洗い物をしているときに簡単にわれたのである。もろく簡単に割れてしまった。ガラスは壊れやすいと言う常識をすっかり忘れていた。

裏切りティーと言うわけだ。
0343名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/25(土) 14:00:02.58ID:dHTdAEPh0
ソ連製のユニバーサルファインダーである。これはドイツの完全なコピー商品なのである。もっとも赤軍がドイツ帝国を占領してその技術を勝手に持っていったと言う特権があるから文句は言えない。。

対物レンズは5本付いていて28ミリ35ミリ50ミリそして85ミリと135ミリのレンズ用である。その作りの精度は本家のドイツのものと全く区別がつかないのであるけれども、考えてみればもともとカールツアイスの技術そのものであるのだから別に不思議なことではない。

1 50年の写真家の生活でこのファインダーにはずいぶんお世話になった。しかしそのうち写真家としてのアクロバットな視神経が形成されてくると別にこういうファインダーを使わなくても写真は充分撮影できることに気がついた。

それでもこのユニバーサルファインダーに愛着を感じているのはパレットを回転させたりファインダーを覗いたりすることが極めて写真的な動作の外側を周回しているような感覚がそこにあるからだ。

それでいてこのユニバーサルファインダーに私が魅力を感じているのはこの個体のファインダーに対してなのである。通常はオプティカルデバイスであるからその基本としてブラックペイントがなされているのである。ところがこの答えに私が興味を示すのはそれがどういう理由かは不明なのであるがブラックペイントを全部はがせてピカピカのアルミの地金を出している。

こういう風にペイントを全部剥がすことが簡単ではないと言う事はちょっと実験してみるとわかるのである。あるいは薬品につけて話したのかもしれないけれどもそこら辺の事実は私のような素人には不明である。

十数年前のことだが東京は銀座の松屋の中古カメラ市でこのファインダーを発見した。ただし面倒なことにこのファインダーは単体では販売していなくて、立派な革のセットケースの中にソ連製のキエフカメラとレンズが御本付いていてさらにこのファインダーが付いていたのである。その価格は100,000円以上していたがやはり買わざるを得なかった。
0344名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/02/27(月) 05:25:18.79ID:5/egeVeM0
ソ連製カメラと言うと、西側のカメラのコピーであるとばかり思われているが、そうでないカメラも存在したのである。1930年代研究が始まったカメラで35ミリ一眼レフであって上のようなスタイルをしている。金属製のフォーカルプレーンが付いていて、レンズは我々の好きなテッサーコピーである。

このカメラについて、25年位前当時のカメラ雑誌にいろいろ書きちらしたことがあった。その頃面白かったのはこのカメラの名前のことである。キリル文字に詳しい人がいなくて、不幸なことにローマ字のアルファベットでもこれが読めてしまうわけで、クノプムと読んでいたのである。あの当時の朝日ソノラマのカメラ流レビューなどを見てもそのように書いているのは何か懐かしい。

正しくは、スポーツと読むのあるが、これがまた問題でGoogleで検索してしまうと1,000,000間がヒットしてしまうから大混乱になってしまう。だからこの場合検索のキーワードはスポーツカメラ、ロシアなどとやらなければならない。

カメラのスタイリングを見ると、その当時の今田フレックスの2眼レフカメラに似ているのである。スタイルがよく似ているから、そこら辺を参考にしたものかもしれないが、2眼レフと一眼レフではもともと違うものだから、まぁそれはそれでソ連の栄養と言うことになるのであろう。
このカメラが手元にあるときは使っていたのであるが、やはり一眼レフは使いにくいので、ライカのようなビューファインダーを大間に使っていた。こういうカメラは舘市のときには全く役に立たないから、やはりビューファインダーが1番使いやすいと言う結論になってしまった。
0345名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/02(木) 01:41:31.52ID:zw2NIEox0
ギャラリーバウハウスで知らない人から写真集をいただいた。片岡さんと言う方で、現在4人であり、同時に写真家であると言う。現代詩人であって、同時に写真家であると言うのは、最近の私のキーワードになっている。谷川俊太郎さんがスタートさせたギャラリーバウハウスの写真展で、彼が20代全般の時にリコーフレックスで撮影した1連の仕事である。

表現者として現代詩人と写真家というのが表裏一体になっていると言うのは、何か理想的な人間存在のように思えるのだ。そこでこの房総半島を20年かけて撮影した片岡さんの仕事がまず外見からしてハードカバーで手に取りやすいと言うサイズであるのが気に入った。

しかし、写真集にかけられた腰巻がどうもピントの外れた方向であるのが気になった。そこに美術書と言っても良いと言う文字列がまず意味不明である。写真がアートであると認識されたのはアルフレッドスティグリッツに始まるから150年も前の話なのである。ところがこの腰巻を書いた人は、写真が美術ではないとステートメントしているところが痛い。

房総半島と言うと、東松さんが1時お住まいになっていて、漂着物の丁寧な写真を撮っていらしたので、私にも思い出が深い。それに私の先祖の出身は、房総半島の先の方、千葉県銚子市なのである。

片岡さんと言うお名前は、私の場合、片岡義男さんをよく知っているから近親感覚が持てる。しかし写真のテーマの選び方がどうも、NHKのドキュメンタリーみたいなところがもう一つぱっとしない。

この限定500分のハードカバーの写真集の存在感はとても良いと思う。しかしレイアウトが感心しないのである。写真集のレイアウトには2つあって余白を十分に生かして写真そのものを見せるのと、もう一つのやり方は画面を大きくして画像を貸し切りにしてみせるやり方である。ところがこの写真集の場合は、その2つのメソッドがごちゃまぜになっているので、ミルホーの視神経が混乱する。

もう一つの問題点は見開きページを使っていることだ。この片岡さんと言う人は画面構成がなかなか秀逸であるので、たちおとしとか見開きになってしまうと、写真家の視点が薄められてしまうところがあるのだ。そこがちょっと残念である。
0346名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/03(金) 09:04:13.50ID:K+/M4AIO0
自分の30代から60代半ばまでクリアしたのがこのプラハのアトリエである。もっとも、そこにずっと寝泊まりしていたわけではなくて、時々東京からプラハに行って2週間いてまた東京に戻ってきて3週間いてプラハに戻ると言うような生活を繰り返していた。地球上10,000キロを行ったり来たりして感じる。ローカル的な風景の変化と言うのを楽しんでいるうちに30年以上経ってしまった。

プラハのビロード革命もここで体験したのであって、それからすでに33年が経過しているのである。プラハのビロード革命から25周年の記念のフェスティバルが2千14年に会ったとき、私はこれでプラハ通いも終りにしようと思ってそれからプラハに行くのやめたのである。それでも私は優柔不断だからその後に1度か2度はプラハには行っている。

その頃撮影したプラハのアトリエのインテリアがこれである。ご覧のように実際にアーティストのアトリエとして作られたもので、この1連のアパートメントはプラハ工科大学の敷地に1番近いところにある。ニコラテスラはプラハに工科大学で学んでいたそうだが、すぐに辞めてしまって卒業を忘れずにそのままニューヨークに行ってトーマスエジソンのカンパニーに勤務するようになってこいつは生意気なやつだと言うので修正エジソンとは仲が悪かった。
0347名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/14(火) 08:44:37.27ID:jIXK539R0
私は広告写真家としてのプライドは何もないのであるが、唯一プライドに感じているのは1970年から73年まで日本デザインセンターにいた時に、ニコンエフのカタログの仕事に携わることができた点にある。

九州にお住まいのボンジュールさんがアップしたFacebookでそこに懐かしいニコンのカタログがあって、その上にボンジュールさんが持っているニコンのブラックとクロムが並んでいる。それが懐かしくて、私の高校時代に丸の内の日本光学に行って真四角なニコンエフのカタログをもらってきたことを思い出した。そして大学を出た後に、そのカタログを制作した会社で、ニコンエフのカタログを撮影する業務に携わることができたと言うのは大変なプライドなのである。

それでこのカタログを見るに、まず写真のライティングが全く違うし、レンズの絞りがエフ5.6になっていないから、これは後に撮影されたインチキ写真であることがわかる。

カメラ雑誌のカタログとして、この付録がつけられたらしいが、どういう理由だか知らないけれども、トップの写真がなかったのでそこら辺で適当に撮影したものなのではないかと推測される。

こういう商品撮影の規則と言うのはちゃんと決まっていて、このカメラの場合だったら絞りはエフ5.6でシャッター速度は125分の1秒でシンクロ接点は必ずストロボに合わせてなければならない。理由がどうこうと言うのではなくて、それが決まりと言うことなのである。

銀座8丁目のビルの最上階のペントハウスで、来る日も来る日もカメラとレンズに格闘していた時は大変な仕事であると思ったが、今にしてみるとそれはそれなりになかなか楽しかった思い出である。

この当時の撮影と言うものは全部タングステンライトで行った。その方がカメラのそれぞれの部分のライティングのやり方が自由にコントロールできるからである。この写真を見て撮影方法が違うと思ったのは明確なことで撮影スタンドは厚い無反射ガラスなのである。撮影のときの色は、撮影のガラスの下に色のついた紙を貼って、それを間接的に照明すると言うことで、バックの色を作り上げる。
0348名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/21(火) 19:46:19.73ID:mN830qWy0
台東区下谷坂本と言うのは、この飲み屋さんの本来のアドレスであるが、その後に200メーターほど西に移転した。最初の建物は歴史的に重要な建築物らしくて、武蔵野のどっかにある建物公園とか言うところに移転したそうである。

安政時代の建物と言う触れ込みだった。建物に興味がない事はないが、そこが飲み屋では無いから行く必要は無い。亡くなった写真家の須田さんからこの鍵屋を教えてもらった。須田さんと知り合ったのが1966年であるから、その年の私は19歳である。

前後して知り合った日本を代表する写真家田村代表を連れてこのお店に行って、私は自分が大人になれたような気がして得意満面であった。10年以上前東京都写真美術館のトークショーで田村がその話題を出したので、私があれは19歳のときの話と言ったら、田村はそれを非常に否定するのである。

それ以来、何十年も田村が19歳で飲み屋に行ったことを否定しているのかなと思っていた。ところがそうではなくて、あいつは私よりも前の生まれだから確かに田村を連れて行った時は20歳なはずである。私は田村の父上がNHKだから、そこら辺に気をつかっているのかと余計な思い違いをしていた。

十数年前に仕事上の友人を誘ってこのお店に来たのである。その時の古い日記を見ると、この店に来たのは10年ぶり以上だと書いてある。だから十数年は行っていないわけだ。その友人がFacebookで拾ったと言う最近のお品書きを私に転送してくれたのである。

それで私の酒飲みの習慣としてお品書きをチェックして、プライスが高くなったかどうかを調べたのがこの文章である。名物はうなぎのくりからであるが、安い値段でがんばっているなと考え違いしてしまった。以前はカップルでついていたのが1本になっただけの話である。倶利伽羅焼の一本立ちと言う所だな
0349名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/21(火) 19:46:35.72ID:mN830qWy0
この店で付け出しで出てくる座禅豆はなかなかうまい。それと大根おろしが特別な大根おろし金で作っているらしくて、味わいが際立っているのもすごい。豆腐も決まったところから取っているのでうまいのだが、何しろ前回行ったのが12年前のことだから今はどうなっているのかわからない。

1966年に須田さんに連れていかれた頃は清水さんと言うお宅なのであるが、ご主人がやっていらした頃で天井に魚拓がたくさん貼ってあった。細長いと言っても通路に平行に長い言い方を変えれば幅の広い店であって、私はいつもお店の1番左側に座るのが常であった。カウンターは常連さんなのでそこには座りにくいと言う背景もあった。何しろ内田百鬼園が来ていた時代の話である。

ご主人が亡くなって、奥様が店をつがれた頃には表通りではなくてちょっと入った別の場所の2階建ての木造家屋になった。最初のお店は通りに面していて、角のところにあったのでそこが駐車場になったときに、改めて見たらこんなに狭い敷地であったのかとびっくりしたのである。初代の清水さんが店を切り盛りしている写真を撮ってあった。東京ニコン日記でそれが掲載されていたのを清水さんの奥さんに渡したら非常に喜んでくださった。

それ以来、常連として行くようになると、泉さんの奥さんは私のことを小野様と呼ぶのである。こういう勘違いはよくあることだから、別にそれを訂正する必要などもない。

最後にお店に行った時は、おそらく清水さんご夫妻の息子さんと思われる方が店を切り盛りしていた。どうもサラリーマンから戻ってお店を始めたような感覚がそこに感じられて。やはり会社員はこういう商売には向かないなと思ったことである。店の奥から自分も出演した武者行列の記念写真が並んでいるアルバムなどを出して見せてくれた。
0350名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/25(土) 11:41:39.08ID:2TXU1W720
ルフトハンザ、ドイツ航空のファーストクラスのカタログを作ったことがあって、ギャラ安いたくさん払えないと言うので、わずかながらプラス、ヨーロッパのファーストクラスの往復と言うオファーの時である。

そしてその当時のルフトハンザは、ファーストクラスのパッセンジャーにバラの花を1輪を贈呈すると言うなかなか粋なサービスがあったのだが、植物検疫のほうはどうなっているのか気になってそれにフランクフルトに到着してから年寄りがバラの花、いちりん持って旅をするゆとりは無い。手荷物で手一杯であるからだ。

まだ若かった頃にやったらファーストクラスに乗りたがる時期があった。これは1種の病気のようなものだな。今は夢から見ると不思議なのであるが、当時は日本ヨーロッパのファーストクラスのスタンバイチケットというのがあった。

当時のフルプライスだと1,300,000円位だが、その半額位でスタンバイでファーストクラスなのである。こういう変わったのはもう存在しないだろうね。ルフトハンザの話です。2001年以前の話であるから、セキュリティーのシステムが違っているので、ラゲッジをごろごろ引いてサテライトまで行って、そこでスタンバイするのである。

かなり特殊な体験であるので、その時の事はよく覚えている。20世紀末の記憶の1部だ。2001年以降とそれ以前で1番異なったのはコックピットへの立ち入りが可能であったことだ。

20世紀末のルフトハンザの成田フランクフルト便等はコックピットに入ると私が変なドイツ語を話すのでキャプテンが大歓迎してくれた。その時のリコーカメラで撮ったスナップショットと言うのはハードカバーの写真集に入っている。コックピットには、キャプテンが渋谷のタワーレコードで買ったLPレコードがたくさん積まれていた。これペイロードに問題あるんじゃないの?などと私が冗談を言ったりした。

その当時のロシアの区域を飛ぶときはバーチカルセパレーションであるとキャプテンが教えてくれたあと30秒後にフランクフルトから北京行きの飛行機がすぐましたをすれ違うからと言うのである。何も見えなかったが私の目が悪いので直前になってルフトハンザのジャンボが我々コックピットの3000フィート位下の方を反対方向に飛び去っていった。
0351名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/26(日) 00:35:05.19ID:4AFDlevU0
ザルツブルグカレッジのことをワークショップと言うのであって、主にMITの学生さんにストリートスナップを教えていた。それはそれで面白かったのであるが、観光客が密集する。ゲトライデ合戦などを歩くのは私には苦痛だった。

そういう退屈な生活の中で、唯一嬉しかったのは、ウィーンでいつも通っていた古いカフェのオーナー夫妻がザルツブルグの観光地の真ん中で偶然出会ったことである。

ハヴェルカ不在であるが、私が不思議に思ったのは、なぜウィーン人が夏の休暇でたかだか200キロも離れていないようなところのしかも混んでいる足な観光地に来るのかと言う事だった。

それでこちらも観光をするツーリストになってハヴェルカ夫妻と一緒に街の中心部のカフェ モーツァルトに入って歓談したのである。ハヴェルカさんの奥さんはなかなかシャープな感じの人だからウェイターが持ってきた。ビールいっぱいのグラスが汚れていると言うので、ハンドバッグからハンカチを出して病原体を駆除するような勢いで注がれたビールのグラスの外側を磨いていたのが面白かった。

パリからやってきた大手の化学コンツェルンの会長夫妻アンドレというのであるが彼に頼まれて中心街で写真を撮ってあげて、それを送ったと言う不思議な縁で後になってたり、16の彼の豪勢なアパルトマンに呼ばれて行ったこともある。

ところがこれらは全て夏の記憶なのである。5年ほど前に私が出したソフトカバーの60ページ位の写真集があるが、それを選んでくれたのが写真家の狩野さんと言う人で、彼は私が適当に渡した。50本位の子がの中からこの1枚を探し出して写真集に使ってくれた。

このことが私には最大の謎めいた事実なのである。嫌いなザルツブルグにはあまり行かないようにしていたにも関わらず、こんな雪部会ザルツブルグに私が自分の意思で行ったとは思えない。その冬のザルツブルグ雪がよほど自分にとっては嫌であったのであろうか?その時の記憶は私の中で完全に消されているのである。

しかし、ネガフィルムの前後のカットを見ると、私が紛れもなく冬のザルツブルグを撮影していたのは事実なのである。それに雪の野原を歩いていくこの老人の姿が何か今見ると40年前に見た私の40年後の姿と言う風にも考えられる。写真の時間軸と言うのは不思議だね。
0352名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/27(月) 06:43:02.45ID:b4JPPiid0
皿うどんとちゃんぽんの違いがわからない
人間の記憶などは実にいい加減なものだと思う。画像の昔のファイルを見ていたら2009年の11月に長崎に行っているのだ。

雨の降っている午後に市電に乗って終点近くの大浦天主堂のそばで降りて雨がひどくなったので目の前のラーメン屋さんに入った。

そこで日本酒のコップ酒と皿うどんと言うのを注文して雨を眺めながらいっぱいやっていたら非常にリラックスした気持ちになれた。

その時のコップ酒と店の中から見えるラーメン屋さんののれんとその先にある長崎の風景。要するに長崎は今日も雨だったと言う風情が迫ってきて良い感じであった。

それ以来コップ酒と皿うどんの組み合わせが心に残っているのであるがその時の皿うどんがどんなものか画像で見たら何と言うこともない日にまずそうなものなのである。

私にはちゃんぽんと皿うどんの違いがわからなくて、大体かたい焼きそばなのになぜこれをうどんと言うのかもわからない。その方面にも人に聞いてもなかなかちゃんと説明してくれないのは彼らも案外わかってないのかもしれない。

長崎ちゃんぽんで日本中に店があるリンガーハットというのがあるがあれは長崎の有名なちゃんぽんの店と比べても遜色がありませんと言うのは長崎出身のピアニストに聞いたのである。ここら辺は真実であろうと思われるがそういう人もちゃんぽんと皿うどんの違いを正確に説明してくれる人がいないのだ。

それでちゃんぽんと皿うどんとそれと東京で食べている硬い焼きそばの違いがわからないまま後期高齢者になってしまったら人生はそこら辺の事は不明にしておいたほうがまだゆとりが出てきて良いと思う。何でもかんでもわかってしまうのは情けないからね。
0353名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/28(火) 00:42:20.02ID:lMgutadF0
墜落防止の命綱も何もつけないで、鉄骨に腰をかけてサンドイッチを食べたりしているのは男の中の男である。それでここに見せるのはアマゾネスと言うべきか、言い方を変えればマーガレットバークホワイトは女の中の女であると言う言い方ができる。

私の経験では、建設中の自動車運搬船を三菱重工、神戸造船所で撮影したことがあって、エレベーターもまだ何もないところを縄ばしごで、地上10回位のところにようやく登ったのである。そこで自動車運搬船に載せる太陽光発電のシステムを撮影したのであった。甲板の数メートル高いところがあって、そこに登って全体を取ろうと思ったら同行した現場監督に止められた。

内部規定で特別な許可がないと方よりも高いところに登るのは禁止されていると言うのである。安全基準で考えればまず当然のことであろう。それで私はその現場監督さんに自分のカメラを渡して代わりに3メートル位巻版より高いところに登ってもらって撮影をお願いした。撮影者は許可を得ている。現場監督さんであるから、これは違法にならないというわけだ。

マーガレットバークホワイトと言えば、日本ではメーデーの日に人民広場に集まった取材で有名である。マーガレットバークホワイトは、ジープの上に乗ってなかなかかっこいいプレス写真があった。

それで、このChrysler Buildingのトップで大型カメラを構えるマーガレットバックホワイトもなかなか素晴らしいのであるが、私が不思議に思ったのはなぜこんな場所でカメラを構えなければならないかと言うその必要性である。

同じ時代のEmpire State Buildingには、このような吐出したエキセントリックな撮影ポイントと言うのは存在しない。だから、私の思い過ごしかもしれないが、これはマーガレットバークホワイトが自分をプレゼンテーションするために撮影させたショットではないかと思っている。

全く同じ場所で同じアングルで35ミリのムービー撮影9を構えている。別のショットは40年前にNYで見たことがあった。写真家はその意味で自分の存在を示すプレゼンテーションは大切だが、その意味でマーガレットバックホワイトはなかなかレベルが高いと思う。でも、今ではこーゆー撮影は許可されないであろう。
0354名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/28(火) 10:44:33.89ID:1a5HPD8m0
最近の私は中古カメラ店に行かなくなった。銀座の中古カメラ市にも行かなくなった。理由は単純であって、住んでいるところが世界の中古カメラ市になってしまったからだ。

25年以上前と言うとインターネットもないし、カメラ屋さんをめぐって実際にそのカメラに出会うということが非常に大切な要素であった。そこら辺を日本カメラの編集部が企画してよく坂崎幸之助さんと東京の中古カメラ屋さんを行ったり来たりしたのである。

それぞれ現金で50,000円ずつ持って、それで好きな買い物をするというのが取材日ならば嬉しいけれども、そうではなくて、その50,000円と言うのは自分の費用なのである。だから、逆に自分のお金だから大切に使わなければならないと言うファクターもあるのだけれども、やはりこれは日本カメラの編集部にお金がなかったからと言わざるを得ない。

中古カメラ屋に行くのに、1番良いのは1人で行くのが良いのだ。この中古カメラクルージングの時も後で坂崎さんと大笑いをしているが、2人でほとんど同じものを欲しがって。その時は遠慮してカメラ屋さんから撤退しているのであるが、翌日の朝早くにそれを買いに単独で行ったりして、そこでまたばったりと言うような人間関係の不幸がそこに存在する場合はある。

でも、このような偶然ばったり遭遇してしまうと言うのは、別に日本ばかりではなくて、1980年代半ばにドイツはケルンで開催された。フォトキナの見本市で歴史上初めて中古カメラ屋さんが店開きしたのである。
0355名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/29(水) 05:38:58.93ID:54YokOEJ0
その中古カメラ屋さんはロンドンから来たので、Price Tagが全部スターリングポンドなのだ。それで当時まだドイツマルクの西ドイツの市民は値段が安いと勘違いして、それが別の通貨建てであることを知って合わせたりしていたのである。

その会場で私が尊敬する。リーフリードランダーさんに会った。それだけだったら何と言う事は無いので、翌日その中古カメラ屋さんに出かけたら。またそこでフリートレンダーさんに会ったのである。こういうのが伺いですごくバツが悪いのであって、適当な話題でその場を紛らせて。それでお別れした。

その話題というのが、私が出たばかりのコンタックスのオートマチックレンジファインダジーワンを持っていたのである。私がフリードランダーさんにそのカメラを見せたら、彼はファインダーを覗いて。これは実蔵色であって、自分の使っているライカのようなブライトフレームでは無いから使いにくいな。これは買わないよなどと言っていたのも懐かしい。
0356名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/30(木) 18:23:46.05ID:x52lMQms0
大体やわらか銀行の指定する通りに契約をしていると高いものについてしまう。それで家族割引とか何とか言うのが無駄だから、それを都内撮影中に思いついて。光が丘団地にいたのであるが、そこのやわらか銀行で解約してもらったらちょっとは使用料が安くなった。そしてそれがいつのことだかはっきり断定できるのはその時光が丘、団地で東京都知事選挙の演説をしていた候補者がドクター中松。誰も聞く人がいないので、私はドクター中松が自分で歌う。替え歌の最後まで聞いてあげて非常に感謝されたのだった。

その古い古いSIMをその後中古で買ったiPhone 6に付けて使っていて、さらにiPhone SEに使っていると言う物持ちの良さである。

ところがそのクラシックなSIMが使えなくなったので、やわらか銀行に相談に行ったら、十数年前の契約というのがリミットが7ギガとか言うので、それで通信規制がかかっていることが判明した。同じSIMで再契約をして上限がないと言うのにしたのだけれどそれがスタートするのが4月11日の午前0時なのである。

それでマンションのパブリックエリアに電波を拾いに行くと言うのが日常生活になってしまった。しかしこれだけでは運動不足になるのでカジンガ大根おろしを使えるようにセットしてくれているとこれがなかなかいいアスレチックになるのである。

それで考えてみるに、ヨーロッパには大根おろしと言う調理の仕方がなくて、中国では大根おろしは作るけど、あれは大根餅を作るときの下準備として作るのである。だから、第二次大戦中の日本軍は、大根を生ですりおろしたやつを醤油ぶっかけて飯のおかずにする。情けない国民と言うのでだいぶ馬鹿にされたらしい。

この大根餅は私は大好きで、あちらに行くとよく食べたりするのであるが、日本の首都は全然知らなくてからみ餅だと思っているのである。すなわち、大根おろしにやきもちをつけて食べるは晴れですね。
0357名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/31(金) 05:21:12.04ID:5BnZNEqR0
あちこちで講演会をやったりトークショーをやって地球上を行ったり来たりしていた四半世紀前のことである。記憶しているのは確か関西の方だったと思うけど、あるいは間違えているかもしれない。

ソ連製のハッセルブラッドのコピーであるサリュートに求められてサインをしたのである。

35ミリカメラでフォーカルプレーンシャッターのカーテンに文字が入っていると言うので考えれば、戦前のライカのボールベアリングがが入ったのがある。このモデルは、シャッター幕にkのイニシャルが入っているのである。戦後になってからはニコマートなどに入っている小原スクエアと言う金属シャッターがあるが、これの初期モデルにはまさに小原スクエアと言う文字列が登場する。

しかし35ミリ版よりも66サイズでしかも金属膜であると言うのは非常にサインがしやすい。それでこんなことになった。そのようなわけで、すっかり記憶から消されていた私がサインをした物件が、東京のどっかの飲み屋の酒の席に出てきて大笑いになったらしい。その話をFacebookに拾って画像をいただいたのがこのショットである。

私の読者の方で、オーソグラフィが好きと言う方がよくおられるようで、適当な紙がないと自分のメモ帳の裏のほうに書いてくださいとか、それはそれで非常にありがたいことではある。

いつだったか、大阪の方でライカM2のボディーに書いてくださいと言うので、カメラのファインダーのウインドウに書こうとしたら、それはやめてくれと言うので、ライカのトップカバーにサインをしたこともあった。

サインをしたライカで忘れられないのは10年ほど前に南千住を歩いていた時に、どっかのおじさんが自転車の荷台からものを落としたのである。それで私はそのものを拾って自転車のおじさんを追っかけて落とし物を渡したのであった。

この騒ぎで通行人が振り返っていた中で、1人の青年が私に声をかけてきたのだ。その人は私の読者さんであって、それは良いのだが、その後その青年が見せてくれたライカエム4なのであるが、驚いたことに。映画監督ビームヴェンダースのサインが入っていたのである。
0358名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/01(土) 00:05:16.07ID:MD8HQCOH0
その貴重な映画監督のサインは、削れて消えないように、プラスチックのシートが貼ってあった。

ライカの本体にサインをした記憶で、他に忘れられないのは、私が長年使っていたらライカエム6である。そのカメラを持ってライカの社長さんに会ったときに、彼はなかなか気の利くゼントルマンであるから、私のライカにーー田中長徳様、私の尊敬する写真家とかうまいことを書いてくれたのである。

それからしばらく後にちょうど東京カメラクラブをやっていた時なのであるが、会計担当の松崎さんと言う人がいて、この人は本物の会計部長なのであって、カメラクラブの不払いの会費を集めるのが得意な人だった。金を出せと言って手のひらを出すから、みんな払わないわけにはいかないのである。

その松崎さんが私のライカを欲しいと言うのでお譲りしたのである。それから1ヵ月後位経過して、私が松崎さんに会ったときに私がが譲ったカメラを見たらライカの社長のサインがきれいに消えているのである。私がそのことを言おうとしたら

あー、あの外人の汚いサイン?
大丈夫消しておいたから、、、
0359名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/02(日) 08:40:37.29ID:DnGnDCrd0
私がwinで使っていたダブルエイトのカメックスは、標準のズームレンズの外に何本かの望遠レンズが付いていた。それで三脚に乗せたこのカメラをwinのアパートメントの中庭に面した方角に向けてそこに遊びに来る。ブラックバードとかはとぽっぽとかさらに中庭の反対側のアパートの上のほうの窓から時々見え隠れするグレーのトラ猫大好8ミリカメラの望遠レンズで撮影した。

撮影した。フィルムはコダクロームであるから、今でもちゃんとした際が残っている。ここら辺がこのフイルムの本当に偉いところだと思う。ダブルエイトではあるがその後に登場したスーパーエイトと比較してもシャープネスは自分である。

そのウィーンの中庭で撮影した。1連の猫と小鳥とお花と樹木のドラマがそのままソープオペラとなっているのだ。時々中庭にゴミを捨てに来るウィーン市民などもなかなかの脇役エキストラと言う存在感である。

ウィーンで使っていた1台の亀フレックスとその交換レンズは日本に戻る前にどこかに処分してしまってどうなったのかは記憶にない。それから30年ぐらい経過してこのカメックスのことを思い出してeBayなどで安いので時々買うようにしたら、サッカーの試合ができる位の数が集まった。

その下ネックスチームの出身地がEMSで送られてくるから明白にわかるのである。それでグーグルアースを利用してそのカメラが発送された場所を調べると言うのも楽しみの1つになっている。面白いのはカメックスの送られてくる場所がほとんどがフランスなのである。それもパリはあるにはあるが、それ以外のフランスのカントリーサイドから送られてくるのだ。中には、カメラの中にフィルムが入っているものもある。

フランスが面白いのはパリ以外は全部カントリーであると言うことで、それぞれのカメックスの国境をグーグルアースで見ると非常にこじんまりした村と言ったほうがいいような小さな場所が多くて、どれも非常に愛らしい。

それぞれのフランスの小さな町や村で、それぞれのカメックスは、そこに住んでいる人々の暮らしをどのように記録したのであろうか?
0360名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/04(火) 00:23:02.07ID:V3LeUjLz0
自分の写真家としての国際的な目で見ると言えば、1970年にスイスカメラと言う当時、国際的なカメラ雑誌にポートフォリオを掲載したのがスタートポイントである。私は23歳の東京フォトグラファーと言う肩書きで紹介されたのだが、そのポートフォリオのほとんどは、バスの中から撮影したショットであった。

東京でバスで撮影するときのベストなカメラアングルは、ドライバーの左側の1番前の座席である。コロナの関係でこの座席が閉鎖されて、もう3年になるのであるが、この席に座らないと仕事にならないので早く解禁になってもらいたいと思う。

ところがこの席に座る連中と言うのは、私のようなヘンテコリンな後期高齢者とか青年ではあるが、頭からいつも電波が微弱に出ているような人が多いのも不思議である。新宿駅西口から環七を北に曲がって、延々と北上して、板橋から王子を経て、赤羽に行く路線と言うのは、東京で最も長いPOSバス路線の1つに数えられる。

いつ出会ったか、その路線に乗っているときに、いわゆる我々が境界を生で言うところの馬鹿シートに座っているのが電波が出ている青年であった。私はその時運転手さんのすぐ後ろの席に座っていて進行方向右側を撮影していたのである。

それで新宿駅西口から終点に到着するまで、私とその青年は降りることなく、ずっとバスに乗っていたのだから、今後はそのような無意味なバス乗車というのが東京都の条例で禁止されるようにならなければ良いがと考えているのだ。

ところで、今日のテーマである金網屋さんのことである。このご紹介と言うのは1枚が絶滅の野生動物のような感じになってしまった。東京中バスで走っている。私の経験から言っても1つは千住桜木町にある。この場所そしてもう一つは福神橋の2つしか思い出せない。福神橋のほうは、撮影の難易度が非常に高くて、お店の看板が通行人に対して90度に見えるようになって入るために通過する。バスの窓からは角度の関係で見ることができないのである。
0361名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/07(金) 05:55:40.26ID:ts0fgHJy0
単純な話であるが、かつてのニコンとキャノンは足な例で言えば、日本航空と全日空とか巨人と阪神みたいないつも対立関係として認識されていた。

あまり知られていないことだが、1960年代初めごろだったと思うけど、キャノンレンズがニコンの子マウントレンズを作っていたのである。考えてみればキャノンとニコンの歴史上の中でスタートラインとしては戦前のハンザキャノンがあるがあれは付いているレンズはニッコール。ヨーロッパでは、カメラメーカーはレンズメーカーからレンズを買ってカメラを構築するのが普通であるけれども、日本の特殊事情はカメラメーカーが自分のブランドのレンズを持っていないと格好が悪いと言うような認識がある。

だから、この日本のカメラメーカーに特有のセオリーから考えてみると、キャノンはニコン用のマウントのレンズを作ってリベンジをしたと言う見方もできる。いやこれは考えすぎかもしれないが、キャノンのレンズの長い歴史の中ではそうそうたくさんあることではない。

生産本数は一説には200本ほどと言われているが、ここら辺は町の噂でやるから信用するわけにはいかない。それで私のあまのじゃく的なこのレンズの使い方何のであるけれども、せっかくのニコンエフマウントをもう一回ニコンエスマウントからライカスクリューマウントに変換するアダプターを付けてライカマウントにして、さらにそれがバイオネットアダプターで曲がったらいいかについていると言う次第だ。

28ミリの広角レンズは何十年も使っているけれども、スナップショットを主にしているから明るいレンズは必要がない。この場合のキャノンのニコンエフマウントの28ミリのレンズの明るさでもエフ3.5と言うのは、私にとっては明るすぎる位のレンズなのである。
0363名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/08(土) 14:25:03.29ID:zXcOjLiz0
1980年代にニューヨーク近代美術館で発見した面白い本は、ウォーカーエバンスアットワークである。当時の大写真家の仕事のやり方がよくわかって大変参考になった。それを真似して2000年に毎日新聞から出した。私の写真集が田中長徳アットワークなのであるが、これは完全な真似なのである。

で私が知っているところによると、大写真家が2台のライカスリーシーを仕事に使っていて、レンズはライカのレンズであるが35ミリと50ミリが圧倒的に多い。

1連の有名なアメリカ農業保全局のドキュメンタリーにしても使っているのはほとんど50ミリレンズ1本なのである。それが青天の霹靂と言うべきであるが、6月10日にドイツで開かれるライカのオークションに登場したのが上に示すアウトフィットなのである。

つまり、バルナックライカにニッコールレンズが2つ付属しているのだ。1つは35ミリの普通のライカマウントレンズであって、もう1本のレンズを見て私がびっくりした。

それはニッコールレンズ2.1センチニコンエフマウントであるが、それにライカマウント変換アダプターが付いている。結局これは私が50年以上使っているのと同じレンズのコンフィグレーションなのである。これで私が最も好きな写真家がさらに共通点を持つことになったのが嬉しい。

それで不思議に思うのは、私がチェックした限りでは、ウォーカーエバンスがこの21ミリレンズで撮影した作例がほとんど見当たらないと言うことだ。晩年のウォーカーエバンスはポラロイド。SX 70のほうに興味がいって4000枚近いポラロイド写真を撮影した。

ポラロイド写真と言うのは、不思議な存在で35mmフォトグラフィーを抹殺してしまうようなところがある。私が1980年にアメリカのポラロイドから依頼されて、ヨーロッパをポラロイドSX 70で撮影した時も同じであって、同時に持っていたモノクロームフィルムの入ったライカカメラ使わないのであった。ここら辺が何かポイントになりそうな気がするな。
0364名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/08(土) 18:07:01.70ID:fAfvjKUh0
あたしは写真が下手である。その証拠に代表作がない。あるとすれば、
タワーマンションの上階から撮ったベランダ超しの隅田川ぐらいであろうか。
写真が下手だから、ライカの蘊蓄を垂れたり、ウォーカーエバンスや
ウィリアムクラインやロバートフランクの名前を出してごまかしているだけ
なのである。もっと写真が上手ければ後世に残る大写真家になったであろう。
0365名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/09(日) 06:58:11.98ID:vbd+KKKy0
ジュネーブサウンと言うのは、代表的な時計の見本市で入場券を買って入場するのではなくて、関係者だけが入れると言う子宣な展覧会があると言う事はこれを取材に行く時にしたのである。10年ほど前の話だ。

当時はプラハに住んでいたので、ある時計の雑誌が日本からの飛行機代が出せないけれども、プラハからジュネーブに来るなら、費用は出してやると言う話なので出かけた。どこでもあの頃から内部事情は大変なんだね。

ところがプラハから出るチェコ航空がジュネーブにはその頃は飛んでいなくてチューリヒなのである。それでチューリヒまでいって、そこからスイス国鉄でジュネーブに行った。山を越えるとスイスドイツ語からいきなりフランス語になるのが面白い。

ジュネーブは2月も凄く寒い日だってなれない。会場でウロウロしていたら日本のジェントルマンが声をかけてきた。その人が松山さんて私の本を読んでいると言うので嬉しかった。私のほうは松山さんが超有名人だから、アメリカンエクスプレスのプラチナカードのマガジンで旅する編集長と言うので、執筆なさっていたからすごいなと思っていたのである。

こういう出会いと言うのはなかなかあるものではない。それで10ネイルサロンは飲食が無料になっているのでついつい調子を出して赤ワインを飲み過ぎてしまった。

松山さんは、フランス製のライカの一番高級なモデルを首から下げているのでなるほど、なるほどと納得したのである。何しろ旅する編集長だからな。それでお話を聞いてみると、何か前の日にジュネーブに到着した直後に中心部の湖の辺りを歩いていたら、スリにやられてパスポートとか携帯とかとられてしまったと言うお話であった。

しかし、全然ゆったりとしている。松山さんなので、これはやはりアメックスプラチナカードの旅する編集長なんだなと感心したのである。

ところで、ジュネーブサロンでやるから、中途半端な時計をつけていても、仕方ないと言うので、私は気張って50年以上前に500円で手に入れた。シチズンホーマーの新幹線の時計を腕に巻いていった。素性のわからない時計だからこの距離から見るとなかなか高級品に見えるな。
0366名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/10(月) 05:22:39.93ID:x5uMPx1j0
日本は不思議な国で鶏の胸肉よりもMomoの肉の方が値段が高い。ヨーロッパではその反対である。ヨーロッパにいるときは、鶏の皮を真面目にたべようなどとは考えたことがない。ところが日本に来てから鶏の皮がなかなかおいしいと言うことに気がついた。

しかし、焼鳥屋で鶏の皮を注文して食べると言うのはあまりにも当たり前で、これは私の好みではない。鶏のもも肉を買ってきて、その裏側に付いている側のサイズでその日の運勢を占うあったりするのが面白い。不思議なのは、高級スーパーだと鶏のもも肉についている。鶏の皮は量が少ない。
しかし、焼鳥屋で鶏の皮を注文して食べると言うのはあまりにも当たり前で、これは私の好みではない。鶏のもも肉を買ってきて、その裏側に付いている側のサイズでその日の運勢を占ったりするのが面白い。不思議なのは高級スーパーだと鶏のもも肉に付いている。鶏の皮は量が少ない。

一方で、安いスーパーで売っている鶏のモモの肉の裏側には、鶏の皮がたっぷり付いている。だから、家人などはそのことを文句を言うわけだが、こちらは鶏の皮に狙い目があるのだから、それがありがたいと言う次第だ。

調理法はいたってシンプルでキッチンバサミで適当なサイズに切ったやつをフライパンで焼くだけである。もちろんオイルは使わない。それに塩を適当に振って食べるだけである。これが非常に酒の肴としてシンプルでレベルが高い。

お店のパッケージを見て面白いと思うのは、お店では鶏の皮を打っているわけではなくて、鶏のもも肉を打っているというところがポイントである。だから悪の方を見せて顔見せないのである。川の量が分からないから側の量でもも肉を選ぶわけにいかない。そこら辺がトランプの神経衰弱みたいなものでなかなか楽しめる。。
0367名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/11(火) 05:47:41.34ID:TP5RtGqb0
本来はライカM3を改造したライカエムピーと言うカメラがあって、その付属品であったのだが、そのライカエムピーがあまりに売れないのですぐに製造中止になった。300台位しか作られなかったので、今では5,000,000円位するらしい。

ライカの会社は、ライカ人MPの在庫を減らすために、M3の後に登場したM2でこの迅速巻き上げ装置が使えるようにした。それでも人気がないのでなかなか売れなくて、私が手に入れた時は10,000円位だった。あれから50年が経過して、らいか人MPの値段は上がったけれども、せいぜい300,000円と言うところである。

私の場合は、このヘンテコリンな付属品を手放すと欲しくなり、手元にあるともういらないと売却してしまうと言うことそのものが私の写真家人生であったと言うのも皮肉な主題である。実際の撮影にはようのない付属品であって、大体アンリカルティエブレッソンとかロバートフランクがLeicavitつけたカメラを操作しているなどと言うのは滑稽である。

しかし、一方でLeica vitの遊びとしては、なかなか面白いところがあるのは否定できない。お茶の伝説的な本である。南方録に見られるような飾りとか、お道具の細かい書き込みというのがカメラ選びとかレンズ選びにいつも薬通じるところがあるからだ。

その意味でライカ南方録と言うものがあるとしたら、ここら辺の組み合わせが結構興味を持つエグザンプルである。まず900,000台の初期型のライカM2のそれもブラック仕上げと言うのはなかなか趣がある。初期のM2型の見所と言うのは、足に業界用語で内ギザと言うのであるが、外側が光を取り入れる窓のところがフラットで内側にギザギザが付いている。その後のモデルは窓がギザギザが外側になっている。
0368名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/12(水) 05:14:18.88ID:s3kjGIAG0
そのカメラに組み合わせるライカvitMPはこれはリペイントのブラックだと思われるが、ちょっと雰囲気が違いますね。私の好みとしては、ここにはブラックのM2につけるべきは、普通のクローム仕上げのライカ人MPなのである。

1960年代から活躍しているアメリカの報道写真家で公民権運動などを撮影していたハイマンと言う写真家の撮影中のショットを見たら、彼が使っているのはブラックのライカM2だが、そこにクロームのライカVitをつけていた。そして彼の好むレンズがZeiss Biogon21ミリなのである。これはその写真家の個性とても言えるもので、これを初めて見たときの高校生の私の記憶が今に保存されているのである。

このストーリーについて続きがある。6月10日に開催される。ドイツのライカオークションでウォーカーエバンスの使っていたカメラが出品されているが、それが2 = 2.1センチなのだ。ニコンエフマウントをマウントアダプターでバルナックライカにつけている。こういうのが本当に嬉しいね。
0369名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/13(木) 05:46:58.70ID:YouL1bwr0
岩波書店から出した写真集のタイトルを改めて見ると、1966年から2006年までとなっている。こちらが油断している間にもうそんなに時間が経ったのかと思う。

岩波書店からは、新書も含めて4冊位の本を出しているのである。私が最初に手にした岩波新書は、名取の写真の読み方と、岡村の南ベトナム戦争従軍記であって、これは私が高校生の時の話である。

岩波アクティブ新書がスタートしたときに、大阪に行って岩波書店の社長さんなどと一緒に新しいシリーズのプレゼンテーションをやった。誰でも知っている大手の有名なホテルが会場だったが、今思うと不思議なことなのであるが、どのようにやってもPCからプロジェクターに出力ができないのである。

それでどう対応したかと言うと、社長さん、私も含めてずらりと並んで深々と頭を下げて集まっているメディアの皆さんにお詫びした。岩波書店の出版のプレゼンの長い歴史の中でも、こういうのは数少ないのではないか?

東京にいるとあまり気がつかないが、地方都市に行くとそこにある丸善で岩波書店のパワーがすごくて、私が出した本のフェアをやっていたのにはびっくりした。

岩波書店の出版物には返本というのがなくて、基本的には全部買い切りなので、なかなか競合他社は羨ましがっていた。

岩波から本を出したら、大学の先生から、皮肉めいたメールが来て、ついに岩波文化人になられましたなと言うので大笑いである。岩波書店が不思議なのは、受付に行くと、担当編集に私の来訪を告げる時に、受付の人が、田中先生がいらっしゃいましたと言うのである。これも岩波文化人の伝統なのだな。

東京今昔の写真は、表紙が1968年頃の原宿の横断歩道橋の下のデモ行進である。今ではデモ行進がなくなったばかりか横断歩道橋もなくなってしまってまさに東京今昔物語だね。

写真集には、片岡義男さん、坂崎幸之助さん、なぎら健壱さんの対談を収録して、これが昔の東京を知っている人々の話だからなかなか読み応えがあった。なぎら健一さんなんか小学校の時に趣味が喧嘩であるから、佃の渡船に乗って佃島に遠征に来て喧嘩をするのだそうである。すごいね。
0370名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/14(金) 05:09:56.65ID:04SC8gGn0
40年以上前にヨーロッパを巡回させた現代日本写真家展の仕事を進めるのも東京と日本の間をエアメールの手紙でやり取りしたのである。要するに、膨大な手紙を私は汚いハンドライティングで書いたのである。

電話と言う手段があるではないかと言われるかもしれないが、とんでもない話である。あの頃の国際電話と言うのは、天文学的な値段の高さであって、そんなのを使う事は想像の完全外側にあった。

例えば、ウィーンの留学生がどこかの音楽コンクールに参加して、その結果を日本の家族に伝えるのに、winから電話してベルが1回なったら合格で2回なったらダメと言うのを事前に手紙で連絡しておいて、そのようなコミュニケーション手段を普通に使っていたのである。

この時代のウィーンで私が手にしている手紙はトレーシングペーパーに書かれているので、反対側から見てもある程度判断がつくであろうが、岡山在住の戸倉と言うやつから、定期的にクラシックカメラに関する報告が送られてきたのである。

それに対して私が書いた返事と言うのを戸倉は全部持っていて、私が1980年に帰国した後に、その私が出した手紙が蔵の中から発見されたと言うので、それをまとめて私に返却してくれた。イラストがかなり面白いので、これは出版できると言うのでどこかのエディターが持って帰ったままそのままになってしまった。

20年以上前だが、その戸倉が岡山に田中長徳カメラコレクションと言うのを作って、私のカメラはかなりそちらの方で展示されていたのである。そこに看板で巨大な文字を書いたのも忘れられない。

日本カメラの付録というのが1時あって、そこで田中長徳カメラコレクション特集されたことがあったが、非公開であるのでお客さんが行くとまずいので、架空の場所に設定して場所はわからないようになっている。フィクションでは、瀬戸内少年野球団と言う映画があるらしいが、そこにあるような思わせぶりの編集設定になっていた。
0371名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/15(土) 06:42:45.77ID:Slw/QzDb0
ロバートキャパがスペイン内戦を撮影した時はライカを使っていたが、ノルマンディー上陸作戦のときにはクロムコンタックスを使っていた。そしてそれ以前のレオン、トロツキーがスイスで演説をしていたときのショットはブラックコンタックスで撮影。

日大の写真学生の頃に、私は自分の室の天井にその有名なキャパが撮影したトロツキーの巨大なポスターを貼っていた。何か荒れたりぶれたりしたようなはっきりしない画像であって、トロツキーのメガネと顔の周辺部だけが妙にリアルでそれ以外ははっきりしない画像というのが、キャパが撮影したオマハビーチと共通していた感じがある。

この文章のタイトルはもちろん私の思い込みに過ぎなくて、このブラックコンタックスは私が持っているサッカーのチームができる位の数のコンタックスのうちの1つである。そのプレッシャープレートの磨き込まれた感じがすごい。

それであるから、このカメラの個体でキャパがトロツキーを撮影した可能性も否定できないわけである。これからは、カメラの内側のフィルムのプレッシャープレートを評価するような時代になるのではないか。

中古カメラ屋さんの評価で考えれば使っていないカメラの方が価値が高いと言うことになるが、私の場合はカメラに全く正反対の価値観を感じている人間だからボロボロに使い込まれたカメラのフイルムのプレッシャー、プレートにリアルなドキュメンタリー感覚を感じるのである。

コンテンポラリーフォトグラファーズの面々の中でGarry Winograndが使っていたのはクローム仕上げのライカエム4であったが、その写真を見てびっくりしたのはかなり激しく使われたライカであって、やはりフィルムのプレッシャープレートがかなり似たような状態であった。

これからは、カメラ自慢やレンズ自慢ではなくて、プレッシャープレートのよれよれ自慢がトレンドになるんだ。
0372名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/17(月) 05:39:22.55ID:GMJjn7C30
スカイツリーができて、もう何年になるのかわからないが、スカイツリーが完成するまでのそのプレスを見るのが楽しみなものであった。

2009年の春にそれまで24年間飼っていたライカインコが昇天してペットロスになっていた時に、デジタルのムックの撮影で何度かヨーロッパに行ったのである。大体2週間か3週間にかける位の期間の撮影で帰ってくるときに、楽しみなのはスカイツリーがどれだけ成長したかと言うことであった。ー児童向け番組のジャックと豆の木の現代版である。

最初の段階では、まさか巨大なテレビ塔が立つとは思わないので、変な風にねじれたヘンテコリンな建築物が伸び始めたと言う認識しかなかった。それがだんだん高さを増してきて、最初のオブザベーションデッキが完成した頃に全体のスタイルが明らかになったのであるが、このタワーのムーブメントと言うのは、この画像で見た場合、進行方向が左向きにベクトルを生じているのである。

わかりやすい説明をするのならば、貴婦人が長い裾の洋服を着て左方向に歩いていくと言うようなムーブメントがそこに感じられるのが面白かった。でも、そういう面白さと言うのはその上の第二展望台ができて、さらにトップが完成してしまうと、もうそこには進化がなくなって、面白くもなんともないと言うことだ。

スカイツリーの建設を最高に楽しむなら、私は次のようなアイディアがある。すなわち完成したスカイツリーを今度は少しずつ解体していて、最後は何もない武蔵野の野原にしてしまうと言うことなのである。

そんな馬鹿な事は現実では起きないけれども、それに似た疑似体験と言うのは実は存在するのだ。例えば雲が非常に深く垂れこめているときに、第一展望台がかろうじて雲の間に見えると言うようなそういう天候は割と存在するのである。だからそういう光景を見たときに、私は建設中のスカイツリーを想像することにしている。
0373名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/18(火) 04:56:39.81ID:V+0GfQ+20
さらに完璧なのは非常に天候が悪い時にスカイツリー。そのものが全く存在しないかのような光景もたまに観察することができる。これは言ってみればスカイツリーが登場する。2009年夏よりも以前の時間軸を私が過去にさかのぼって観察しているかのような錯覚をもたらしてくれる。

スカイツリーが完成した直後は、スカイツリーが見える部屋のレストランとかホテルが大人気だったようだが、あれから5-6年は経過しているから、そういうブームはすでに過ぎ去った。

テレビ塔のスタイルはエッフェル塔とか東京タワーがやはり定番ではないかと思う。このようなスタイルのテレビ等は世界各国にあるが、1番ネガティブな存在は東ドイツ時代のベルリンのテレビ塔であった。西ベルリンの街を路面電車で走っているときに、瞬間的に東ベルリンのテレビ塔が見えたりするとゾクゾクしたものであった。つまりそこには確実に存在しているもう一つの国が見えたことになる。
0374名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/18(火) 07:29:39.47ID:MeSUiJoE0
あたしはデジタルカメラが嫌いである。というのはデジタルカメラが
わからないからである。でモザイクとか、アンチエイリアスとか、なにそれ
美味しいの?状態であるから、デジカメはさっぱりわからない。だから
デジカメの話題は上っ面だけを語るように心がけている。
0375名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/20(木) 06:47:20.62ID:9grbHkQQ0
2011年のチャイナタウンの写真屋さんである。すでにフィルムを現像すると言う事は過去になってしまったわけで、2011年時代でもすでに使われないテクニックであったと思うのが普通であるが、このショップで試してみたらちゃんと現役でフィルムの現像もできるし、もっと驚いた事はモノクロームの現像とプリントも引き受けていると言うことだった。

日本の場合だと、こういうプリントビジネスを0円プリント等と名付けてしまうが、1時間写真といった方が商品としての存在感が引き立つと思う。

ここら辺がアメリカの写真、文化の粋の長さ等と書いてしまうと、非常に大げさでピントがずれた方向に行ってしまう。彼らがサービスしているのは、通常の写真のプロセスの1つに過ぎないということをここでは理解しなければならない。

そのショップの狭い鏡に写っている東洋人のライカM3を持った老人はチャイナタウンだと。その存在感がそんなに違和感がなく感じられる。このショップのウインドウに掲げられている1時間写真のネオンと言うのは、モダンアートとしてかなりの存在感だと思う。しかるべきところにこの1時間写真のネオンがミュージアムなどに展示されていれば、それなりの尊敬を集めそうである。

マンハッタンと言うところが、こういう小さな商店の表面に小さな鏡がたくさん取り付けられているのは、まさか万引きの防止だとは思わないけれども、町中のあちこちにある鏡にちょっと映った風景をテーマにしたのがリーフリード。オランダのセルフポートレートである。そうしてみると、アメリカの都市風景と言うのは、ライカを持った写真家にとっては、セルフポートレートの制作場所と言うことでは、環境に非常に優しいと言うわけだ。

3月11日の東日本大震災の第一報で、私はマンハッタンから家人のことが心配になって携帯で電話をしたのであるがそれは通じなかった。それですぐにSkypeに切り替えて連絡したらすぐ連絡が取れたので、その時はSkypeの任期が一時的に上昇したのも今思い出すと懐かしい。
0376名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/21(金) 06:04:40.57ID:MN1wTyg90
ロックフェラーセンターの辺後5番街をアップタウンに向けて歩いていたら、この極めてクラシックなサンドイッチマンのおじさんに出会ったのである。日本からすると昭和20年代に銀座通りなどでもサンドイッチマンが闊歩していてサンドイッチマンをテーマにした流行歌などもあった。

なくなった。赤瀬川さんも若い時に新宿あたりでサンドイッチマンをやっていて、その時の経験を描いたものが非常に面白い。なくなった田村隆一の友人だった絵描きの原田も若い頃には同じ広告業をやっていて、赤い唇と言うキャバレーの呼び込みをやったそうだが、その時のアクションを再現してみると、もう完全にモダンアートの部類なのである。

それでアルマーニやら何やらのスーツが割引であると言うサンドイッチマンの広告がどれほど効果を与えるものかはかなり疑問である。だから、逆に考えてみると、このサンドウィッチマンが5番街のロックフェラーセンター前を流していると言うことそのものがパフォーミングアートとしてかなりレベルが高いと言う認識ができる。

いや実際にそうかもしれない。このプラカードに出ている。実際のアドレスにはバーゲンなどはなくて別の展示がされていたりしたらそれこそアートである。それで思い出したのは60年代終わりにオノヨーコなどが中心になってサルバドールダリもいいかとおもうけれども、ニューヨークのビレッジで公衆電話をバラの花で飾り付けて。そこからパフォーマンスとしてパリに電話をすると言うモダンアートのイベントがあった。

 そしてその状況を撮影しているのがアンディウォーホールの友人、ジョナスめかすなのである。そこで私が痛快だと思うのは、コミュニケーションの手段と言うものは、時代によって格段の差があると言うことだ。60年代後半のニューヨークからパリへの国際電話は、それが重要なのは、十分にモダンアートとしての存在感がそこに発揮されていたことにある。ただし、その背景にはサルバドールがいたり、洋子のがそこに関与しているのが重要なのである。

それから50年以上経過した2011年の土曜日の天候の悪い午前中の5番街をウロウロ歩いていく。正体不明のサンドイッチマンの方がモダンアート。私としてはレベルが高いのではないかと私は考えるのである。
0377名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/23(日) 05:56:24.26ID:lf+cJG6Q0
世界的な写真家リーフリードランダーの1番最初の写真集。セルフポートレートはあれは自費出版であったようだ。インターネットのない時代に調べて彼のアドレスにレターペーパーに書いたエアメールを送ったのである。折り返し返事があって送料込みの何十ドル高忘れたけれども、その金額をマネーオーダーで送った。

その後音沙汰がないので、2通目の夜メールを送ったら折り返し奥さんからと思われる女性の返事があってもうすぐ本が出来上がると言うことだった。だから私が大切にしている。弟写真家の最初の写真集は本人から直接手に入れたものなのである。

フリードランダーの相撲はニューヨークシティーだと思っていたらそうではなくてニューヨーク州ではあるがアドレスはニューシティーなのである。今のGoogleなんだ。それがどこであるかすぐわかるはずだけれども、私はあえてニューシティーがニューヨーク州のどこにあるかは調べていない。

1979年と言うから、私がザルツブルグカレッジでMITの学生に写真を教えていた頃に、グラーツの方でマンフレッドオイルマンとか古屋誠一が動き出してリーフリードランだと、ニューヨーク、近代美術館、写真部、朝のジョンを読んだと言うので、私も色めき立った。

リーフリードランダーの写真展が開催されて、トークショーがあって、その後に流れた酒場で私はツーショットを撮ってもらうと言う公園に恵まれたのである。
0378名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/24(月) 07:04:41.05ID:1NShW2/u0
家人はニックネームをつけるのがすごく上手い人なので、リーフリードラン、ダーの風貌をこの写真を見せたら、Tori kkoroと表していた。その目つきが鳥類に似ていると言うのである。それから10年近く経ってリーフリードランダーが来日しているときに、家人が外出から帰って面白いこと言った。

すなわち、この広い東京で新宿から赤い電車のメトロである。戸口線に乗って席が空いているので、そこに座ったら左に座っていた外人さんが下の里、フリードラン、ダー、すなわちTorri Moro であると言うのだ。

広い東京である。偶然とは言いながらすごいことだと思ってその翌日に私はリーフリードランで夜に会う予定があったので、その時の話をしたら、なぜ声をかけてくれないのかと残念がった表情をしていた。それはそうでもある。

大写真家は私より13歳年上である。ひょっとしたら昇天しているのではと恐る恐る。Googleで検索してみたら88歳の元気な姿が映っていた。なかなかいい感じの老人になったようで私も満足である。
0379名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/26(水) 06:59:10.68ID:sAgtA85Y0
日本で見た彼の伝記映画によると、ヨーロッパの労働者が来ている青い上着をそのまま着てたりで何かの授賞式に行った姿が出ている。ワイシャツにネクタイを締めているが、その上にブルーのジャケットでこれが決まっているのである。

パリに行った時、その真似をしようと思ってそのブルーのジャケットを探し回ったがなかなかなかった。2度目のパリ訪問の時にそれをどこで売っているかを知ったのは誰かのFacebookの書き込みによるものであった。つまりパリの市庁舎の向かい側にアメリカ人がお土産を買うのに、適当な6階建てのデパートのようなものがあって、そこで売っていると言う情報である。

6階建てのビルを上から下まで探し回って近い。1階にあった日曜大工のコーナーでこのブルーのジャケットを発見した。このブルーのジャケットはビルカニンガムだけではなくて、ジョナスメカスも来ていたので、これは自分にとって絶対必要だなと思って手に入れたのであった。

フルクサス運動のムーブメントを始めた。常時マチューナスは、ジョナスめかすと同じリトアニアの出身である。彼が自分で植えた小さな樹木がマンハッタンのブースターストリートで大きく育って、私が40年前、マンハッタンにいた時もすでに大木になっていた。

何かの理由で、その大木が切り、倒された時にジョナスめかすはその切り株に手を当てて黙祷しているのである。その時のジョナスめかすは、このブルーのジャケットを着ていた。
0380名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/28(金) 05:02:26.22ID:mrH29QzU0
2005年のことであると記憶するがエプソンが世界で最初に出したレンジファインダー方式のデジタルカメラの写真集を撮影するためにまずローマに行ったのである。春であった。

エプソンのデジタルカメラはまだ発売前であったと思う。それで実際に動くカメラが1台しかないのでそれが壊れると思うそれ以上の撮影はできないと言う状況でそういう危ない感覚が逆に撮影の気分を盛り上げたりするのである。

到着した日の翌日の朝からまだ慣れないエプソンのデジカメを持ってローマの市内を右往左往した。その時目の前でバイクが転倒する事故を見たのでちょっと嫌な予感がしたのであった。

その予感が当たってしまって3日目にエプソンの1台しかないデジカメは壊れてしまったのだ。露モードで1300枚ぐらい撮ったところであるから逆に困る事は無いのである。このときの感覚を分析してみるね1300枚といえば36枚撮りのフィルムで換算すれば約40本の撮影であるから充分撮影したと理解することもできる。

フイルムカメラで撮影が行われている時フイルムが終了してしまえばもうそれで撮影は上がりであるという考えができる。それに対してデジカメの場合は撮影の終わりと言う認識がそこには存在しない。だからカメラが壊れたと言うのはそこですべてのフイルムが終わったと同じことであると言うふうに理解した。

当時はいろいろなレンズをデジカメにつけると言う事はまだ行われていなかったのでその走りのようなところがあってライカのクラシックレンズのありとあらゆるものを持参したのである。最近ではヘンテコリンなブームがあってオールドレンズを片っ端からありとあらゆるデジカメにつけていい描写ですきれいな色ですなどと言っているようだけどあれはいただけないね。写真表現の見えない的を最初から見ていないと言う体たらくなのである。

改めて写真集を見ていろいろ感じたことを書いてみよう。バチカンのすぐそばの川の反対側にあるカフェである地元の人が集まると言うのではなくて観光客向けのカフェであってテラスに座ったら客は私しかいなかった。ビールを頼んだら一緒にお水が出てきたのが初めての体験だった。ドイツでもそんな変なサーブの仕方はしない。
0381名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/30(日) 00:56:59.98ID:xvXtCmyt0
1970年代に仕事を手伝った、美術評論家からカルバドスを教えられたのである。この蒸留酒はなかなか便利な存在であって例えばハードな仕事をしているときにWINEを脇に置いてがぶ飲みするのはこいつはアルコール中毒だと思われる。

一方で、コーヒーを前にして前に置いたカルバドスのグラスをちびちびやると言うのは、これは不真面目な風には見えなくて、むしろ仕事に熱中する度合いを高めているように見える。と言うのは、我々アルコールに耽溺している人間の勝手な言い訳であるのだが、コーヒーと交互に飲むカルバドスはなかなかうまい。

フルコースの最後にコーヒーでこの薬と言うよりもちょっとひねったところがレベルが上であると言う感じがする。そこら辺の具合を私はウィーンの美術評論家に教えられたのだ。思えば、こういうのが大切な美術教育ではないかと思うのである。ミュージアムのキュレーターが、美術の歴史について教科書みたいな馬鹿げた退屈な言葉を繰り返すのはあれは誰でも可能である。今のミュージアムのツアーガイドがまさにそれではないか。

ルフトハンザのファーストクラスに乗っているときに、食後にカルバドスを要求したら、ファーストクラスに蓄えがなくて、慌ててビジネスクラスにCAさんが走っていた。そんなこと黙っていればわからないのに、そこら辺がルフトハンザの正直なところで、逆に好ましく思った。

ファーストクラスのギャレーに関しては、いろいろな面白い話があって、これは日本航空のCAさんで実際に1,000,000時間乗務をした人から聞いたのであるが、ファーストクラスで開けたドンペリの飲み残しで手を洗うのだそうである。これはなかなかオシャレだと思う。飲むわけにはいかないと言うところであろうが、逆に日常生活でドンペリを飲むのは当然であるが、ドンペリで手を洗うと言うのはどんなお金持ちでもちょっとできないことであろう。
0382名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/01(月) 05:15:56.91ID:G1EofEtU0
壁の無人地帯の南側には、黄色い東ベルリンの路面電車が走っていて、そこが終点で電車はループを作ってまた元の方向に戻っていくのである。そこから手持ちの4 × 5インチのカメラでその光景を撮影したら、無人地帯の干支頭の中で何かきらりと光るものを私の視神経は感じた。国境警備兵が双眼鏡で、私の動きを監視している事はすぐにわかった。

そこの思い出のベルリンの壁を懐かしんで出かけたのだが、当たり前のことながら壁はなくなって南北に走る道路がそこにはあった。

これは、かつての西ベルリンの目抜き通りKu damの辺である。第二次大戦直後に西ベルリンの中心として常に東ベルリンよりも進んだと言う街の感じを演出していたのである。でも、東西ベルリンのが今のように2つになっていた時から1つに統一されてみると、やはりここら辺はベルリンの西の街はずれと言う感覚が強くなる。

それでも私などもそうだが、ベルリンが東西に分断されていたときには、この西の街はずれが文化の中心地であったから、そこのホテルに宿泊していたし、そういう習慣と言うものはそう簡単に変えることができないから、私も12年前の頃に習ってかつての西ベルリンのあたりに宿泊していたのだった。こういう習慣と言うものはそう簡単に変えることはできないのである。

かつての西ベルリンの目抜き通りに巨大なリボンが掲げられていて、その後は何のペイントもない白いトラックなのだ。そのコントラストが非常に不思議な感じを受けて、要するに縮尺が壊れた街の模型と言う感じがするのである。

そういう中、2年も前の1連の画像が仕事テーブルの脇に小さな引き出しが付いていることに。この間気がついてそこから出てきた。3枚のSDカードの中にこの画像が入っていたのはちょっとした拾い物だった。

それでよく見ると、その3枚のSDカードは小さなビニールの袋に入っていて、その袋には汚い文字で書かれた紙の切れ端が一緒に封入してある。自分で書いた汚い文字なのだが、それを見てBerlin 2011 と読めたのである。
0383名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/04(木) 12:31:58.49ID:plRHrU120
戦前のライツの会社が公式に作ったレプリカと言う意味で人気が高いのであろう。最近のライカの会社もやたら戦前戦後の生産中止になったレンズのレプリカを作っているみたいだな。

ここにあるのはサードパーティーが制作したカナダで作られた軍用のライカエム4のレプリカと言うわけだが非常によくできているので、本物と見分けがつかないと言うところがそれなりにアレなのである。

このカメラを持ってフィンエアーでリスボンに行こうとしたのは、十数年前のことだ。ところが、その頃アイスランドがどこかで火山が噴火して飛行するのが危ない状態になっていて、フィンエアーでヘルシンキに着いたら、その先は飛行機がなかった。

それで考えを巡らしてまずヘルシンキ等は1度も今後来る予定はないと思うから、私の人生で1回きりのヘルシンキ訪問をすることにして、その先のフライトはキャンセルしたのである。

そのことをFacebookに書き込んだらすぐヘルシンキにお住まいの遠藤さんと言う方から連絡があって、お友達になった。遠藤さんの父上は、著名なデザイナーであって、私がオリンパスの仕事をやっていた関係で、意外と近いところに存在する有名人なのである。

それでサブか何かで登場した。遠藤さんにいろいろヘルシンキのお話をお聞きしてついでに私の小学校時代の友人子宮の消息を知りたいと言ったら、30分で所在がわかったそうである。フィンランドは人口が少ないから国民総背番号ですぐわかると言うことなのかな?

それでわかった。小宮のメアドに連絡をしたらすぐ返事が来たのでこれからいっぱい飲もうと言ったら何でもヘルシンキから何百キロも離れたところに暮らしているのでそれは無理だと言う。それでも連絡が取れてよかった。

小宮と言うやつは、単に小学校が同じであると言うことなのだけれども、その後東京芸術大学のオーケストラを指揮するので、頭角を現して、それからヘルシンキの音楽大学に留学したのである。子供の頃は俳優もやっていて、吉永さゆりと一緒に赤胴鈴之助の薬で映画に出たそうであるが、それは見ていない。
0384名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/09(火) 06:28:30.86ID:ZVo7pJEA0
Paxは小さなカメラで作りもなかなかよろしい。それでネット上でいろいろ調べたのであるが、その来歴がよくわからない。以前ガラクタ屋さんの買取職人さんがコレクションとしてお店に展示してあったDan35と言う小さなカメラがあって、これは萩本欽一さんの親戚が作っていましたと言うお話だった。

ところがパックスゴールデンビューを調べていくと、別の会社に名前が変更されているのである。だから、この2つの製作所のつながりというのがうまく追いかけることができないのである。

しかし、考えてみれば別にカメラの会社の研究をしているわけではないのであるから、手元にこういうキュートなカメラがあって、それに35ミリフィルムを入れて楽しく撮影をすればそれ以上の事は私は何も期待していないわけだ。

このカメラにはマッチしたグリーンのエバレディケースがあるので、それを使えばよいのである。ところがネックストラップアイレットが切れているので、残念ながら使うことができない。それでガラクタを探し回って10年以上前にガラクタ屋さんで手に入れたリストストラップを発見したので、それをつけてみるとマッチングとしてはなかなか上出来である。

このリストストラップがなかなか仕上げが良いのであって、私の記憶としては確かオリンパスペンについていたものだと思うのだが、結構ヘビーデューティーなリストストラップであるから、重さの関係からすると、小型軽量なオリンパスペンにつけて使うと言うにはアンバランスである。

それで私が今計画しているのは、パックスゴールデンビューに適当な軽いリストストラップを探す。
0385名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/13(土) 18:20:26.14ID:SUKBPKZL0
明石さんは、この高校生は将来ライカを買うだろうから、それ用のストラップを安くしてやろうと思ったかどうかは知らないがその時に1本のストラップを1800円で譲っていただいて、そのうちの1本は紛失したら、もう1本は今でも所持しているのである。

写真家で初めて文化勲章を受賞した。田沼さんは、私の場合、木村伊兵衛さんの回顧録の中で、しょうもないアシスタントであると言うことを書いていたためにネガティブなイメージが強い。

それでも写真家で文化勲章を受賞したと言うのは、写真界全体の文化的レベルが上がったと言うことでは非常に嬉しいことである。何しろ大昔東京にデモの嵐が吹き荒れていた。当時、機動隊の親父に職務質問されて、どこの組のものだ?と聞かれて、女性写真の秋山組のものだと言うとあぁ体制側と言うので釈放されたりしていた。

もうこれからはデモで機動隊に職質される事はないと思うけれど、もしそういう状況になったら恐れ多くも文化勲章受賞者田沼組のものだと言ってやろうと思う。

それで、田中長徳研究科秋沢さんの資料で見ると、この木村伊兵衛をフィーチャーした対談は10ページもあると言うのである。何を話したのか全く記憶にないが、木村伊兵衛に関してならば本が1冊×位だから、そこら辺のさわりをちょこちょこっとお話しさせていただいたに違いない。

ところで、21世紀になってから東京書籍と言う教科書の会社で片岡義男さんのオススメでライカ関係の本を何冊か出したのである。その時の編集者さんが天皇陛下と同級生であると言うのにもびっくりした。それで私のライカの本の表紙には、ライカ使いの3大有名人であるアンリ、カルティエ、ブレッソン、木村伊兵衛、澤田教一の3人を使おうと言うことになった。

ブレッソンはマグナムからちょっと高かったけど、写真を借りた。澤田さんは奥様が無料で写真を使わせてくださった。それで私は交渉には関係していないが、天皇陛下の同級生の担当編集者さんの話では、木村伊兵衛のポートレートを管理している人々から断られたのだそうである。

木村伊兵衛を崇拝するあまり何か変な方向に肖像権が行っているようなのが非常に滑稽であった。
0386名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/14(日) 00:32:48.38ID:DFg2sKNx0
それで立石の駅の近くをテレビのクルーと一緒に歩いていたら、商店街の鰻屋のご主人がいきなりお店から出てきて私に挨拶をしたのである。街を歩いているといろいろな読者の方が声をかけてくださるのであるが、そういう皆さんはご職業が何であるかと言うのはわからない。それで立ち話をしているだけではわからなくて、30分ぐらいの立ち話をしていると大学の先生であったりオーケストラのバイオリン奏者であったり、誰でも知っている大会社の社長であったりするのでそこら辺も手品の種明かしみたいで面白い。

その立石の時は、ジェントルマンが出てきたのが鰻屋さんであるから、その方のご職業がすぐわかったと言うのは明快で非常に忘れがたい。そのまま20年位が経過して傍流写真同盟を数年前に作ったときに、その鰻屋さんのご主人が向田さんとおっしゃるのであるが、なかなか写真が素晴らしいので注目しているのである。

写真家向田さんの代表作はいくつかあるのだが、これもそのうちの1つでこのスナップショットが何が凄いかというと、まず我々の通常の頭で考えられる限界と言うのは後姿の女の子位のものである。ちょっと考えつかないのは背景がアンビュランスであることでさらに、現実の偶然性の方が、我々の貧困な想像力を超えている理由は、左側を行く典型人物が段ボールを携帯していると言うところが素晴らしい。

なぜこういうことを指摘しているのかと言うと、私の友人でもう昇天してしまった中川と言う写真家がなかなかいろいろな実験をやっていたのである。50年前には日本に外国人が数が少なかったので、例えばさんやのドヤ街で外国人が一升瓶をぶら下げて、ふざけながら歩いていると言うのを中川はイメージして、そういう事は現実にないから、実際に外人のモデルさんをお願いして一升瓶を持たせてドヤ街を歩かせたりしたのである。

私はそういう作り写真が嫌いだから、中川の写真のやり方に対してはいつも批判していたのだった。現実風景の方が、我々の貧困な想像力を遥かに超えていると言う実際の例をこの向田さんのワンショットに見る思いがする。
0387名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/16(火) 05:20:08.71ID:Ghp1/khU0
私の好きな映画、1970年代のベトナムを遠く離れてと言うのは、数人の映画監督によるオムニバス映画である。その中で1番良い仕事をしたのは、ハノイで北爆の中の兵士の戦いを描いた。ヨリス・イヴェンスの撮影したパートである。

一方で、1番ダメだったのは、山リュックゴダールがパリで映画撮影機の前で延々と言葉で語ると言うセクションである。ジャンリュックゴダールは、所詮は言葉の人であると言うことに気がついて、私は彼を見限ったのである。

北爆の現場を着たベトナムで撮影した。ヨリス・イヴェンスがすごいと思っていたらもっとすごい人が現れた。それはホーチミンルートを担当していた北ベトナム軍の高級将校である。彼がホーチミンルートを記録していて、それがハードカバーの立派な写真集となって、発刊された時に、私はハノイでその人にあったのだった。ー

ホーチミンルートの実態と言うのは、ほとんど写真に残っていないか、あるいはムービーの筆内でも北ベトナムのプロパガンダ映画として登場するだけであるから、実際の様子を撮影した写真が貴重である事は言うまでもない。

ホーチミンルートを戦っている兵士の姿が非常に軽やかで、何かサマーキャンプに来た学生のように見えるのも不思議な感じだった。それが不思議なのは、この1連の写真集のそこに写っている兵士が別にプロパガンダのための撮影ではなかったと言う背景によるのである。

そのホーチミンルートの表紙の写真がまた粋なものであって、若き時代の青年将校が首から東独生のExaをぶら下げて、高射砲のオペレーティングシートに座って思想正しくカメラを見ていると言うショットであった。

その青年将校がかぶっているスチールのヘルメットがなかなか気に入ったので、私はアメリカのeBayでその種類のものを扱っているところからほぼ同じものを入手して満足したりしていたのである。

それでいまだに不思議なのは、なぜこの人と意思の疎通ができたのかと言うことを長年考えていたのである。私はベトナム語がダメだし、かつての青年将校は英語をしゃべるとは思えない。
0388名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/22(月) 14:08:30.33ID:plKTLXir0
佃島の部屋にあるネスカフェの大きなガラスのコンテナの中に2枚の日本国発行の重が封入されている。1つは2000円札でもう一つが500円札である。家人がラジオか何かで聞いたらしいが、岩倉ともみのブルーノ500円札は昭和26年に発行されたそうだ。

500円のコインが登場したときの記憶は、どうも定かではないが、中学生高校生の時にこのブルーノ500円札と言うのはなかなか頼りがいがあった。1000円札等は高額バンクノートであるから俺が無いのである。

青い500円幸と言うのは、その後もかなりパワーを持っていて、1969年に練馬区の大泉学園に私が転がり込んだ時にもカジンガ近くのスーパーに買い物に行くときには、この青いバンクノートはパワーがあった。

1970年代のウィーンで暮らしていた時代に、田村隆一とお付き合いのあった絵描きの原田と言う人がいて、何かの時にウィーンでがんばっている田中と言うのがいると話したら、田村隆一は彼のポエムに青い500円札を挟んで渡してくれたらしい。それをウィーンに郵送したのは、田村隆一の友達の原田である。

田村隆一の書いた文章の中に、絵描きの原田というのが出てくるのがそれである。送られてきた500円札はそのまま40年も持ち越されて今、ようやく極東の佃島に戻ってきたらしい。
0389名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/25(木) 06:09:29.54ID:SNN9qnR80
アルミを削りだした。フィギュアのジェット戦闘機はウィーンの蚤の市で買ったものだと思っていた。ところが私のもっと古い記憶の引き出しから取り出されたのは、数年前にコロナで亡くなったプラハの友人がこのフィギアを見て、これはかなり腕のある工員が暇なときに、手遊びに作ったものだねと言うフレーズが思い出された。

だから、このフィギュアは、ウィーンの蚤の市ではなく、プラハのどっかの場所で買ったものである事は確実だ。

もう一つの16ミリのスチールカメラのほうは、これは大阪芸大で写真を教えているときに手に入れたものである。でも大阪のカメラ屋さんで手に入れたものではなく、オークションで手に入れたものである。甲南カメラ研究所というのがあって、これは後のミノルタカメラなのである。しかし市販のカメラがアルミ製なのに対してこちらはステンレスで作られているから、その存在感が比較にならない。

この2つの小さなオブジェは、その質量はたかが知れたものであるが、金属としての存在感が非常に高いというのが魅力になっているのだ。

16ミリのムービーカメラではなく、16ミリフィルムを使う。スチルカメラと言うのはなかなかその存在感が魅力的であるが、実際にはなかなか使いこなすことができない。私の持っている数多くのカメラの中で16ミリを使う唯一のスタイルカメラで、実際に写真を撮影しているのは、イタリアのミラノで作られたGami16のみである。

このイタリア製のカメラのアウトフィットは望遠レンズとか現像タンクとか各種アクセサリーを全部持っていて、それをプラスティックバックに入れたままどこかにしまいなくしてしまって。4年が経過したのである。いまだに発見できないのが残念だ。
0390名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/26(金) 01:52:18.93ID:v/VRzKgk0
2つ目のシリーズがこの1連のカメラであって、斜め40事から一眼レフファインダーを覗くようになっている。そして同時にフォーカシングを補助するために上と下に設置されたバーチカルタイプのレンジファインダーを装備している。ただし、一眼レフのシステムの精度が高いので、これはほとんど利用することがない。それでこの斜め40頃からファインダーを覗くシステムはすぐに縦型のレンジファインダーは廃止している。あまり実用性がないとカメラメーカーが理解したのであろう。

こういう丸っこいスタイルの素敵なエバレディケースがあると言うことを知ったのはかなり後になってからである。それでニューヨークから手に入れたのであるが、カメラケースとは思えないほどの高い値段であった。面白いことにこの丸いケースに入れると、カメラワークが向上するような感じがするのは、もちろん気のせいに違いないけれども、写真撮影と言うのはそういう心理的な部分もかなり重要な要素である事は否定できない。

純粋のアルパレンズは、スイス製のマクロレンズと言うことになっているが、私はそれは持っていなくて使うのはマウントアダプターを使用してエム42とか各種のレンズを使うのである。しかもなるべく地味なレンズがこのカメラには似合う。
0391名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/30(火) 05:21:26.83ID:zHKuyMPj0
私の写真はストレートフォトグラフィーであると言う認識が20歳の頃からあったから自分の写真を印刷するときは1ページに1枚で周囲に大きくマージンを入れて印刷を支持するというのが普通のやり方であった。

松岡正剛さんが1970年代に出版した意欲的な写真集にオフというのがあるがそこに私は2回ほど作品を掲載している。その時のレイアウトの指示も画面の周囲に白いマージンを入れてくださいと言うものであった。

1982年から1年ほどニューヨークでMuseum of Modern Artで現代写真を研究したわけだがその頃から私の写真を印刷するときの自分の意思の方向というのが少しずつ変わってきたことがわかってそれが面白かった。

何が変わったかと言うことを手短に言ってしまえば写真を印刷するときに活用画面をカットしてでも大丈夫と言うような視神経のフレキシビリティーがそこに生じたのである。

それともう一つは見開き写真を印刷することに対するこれをストップしようとする意思が希薄になったと言うことである。見開き写真と言うのは迫力があって画面が大きいからそれを観察するものはあたかもその映像世界の中に自分が取り込まれたかのような錯覚を感じるものである。

しかしそれ以前の私が写真の印刷のレイアウトに対して考えていた事はあくまでも画面全体を複製して周りにマージンを入れると言うやり方であった。そういうポイントからフレキシビリティーを自分自身が獲得したその理由と言うのは未だにわからないが方便としてドラマチックな見開き画面も受け入れると言うようになったのは自分の視神経が成長したのか、あるいは堕落したのかそこら辺は不明である。
0392名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/31(水) 00:17:37.55ID:EFIXpHaF0
10年近く前になるが、ニューヨークタイムスのオンラインのウェブマガジンがあって、そこに若い頃から晩年に近くなったロバートフランクのいろいろな写真が掲載されていた。

ロバートフランクがなくなるちょっと前にフランクがよく滞在していたノバスコシアから石を拾ってきたニューヨークのアーティストがロバートフランクのアドレスは知っていて、何曜日の午後の何時ごろに窓から外を見ていると言う情報を知ったので、そのアーティストはノバスコシアから拾ってきた石を差し上げて声をかけたら、天才写真家は今降りていくよと言うので、本当に降りてきたのである。

その時の短いムービーは、なかなか私の心を揺さぶるものであった。Lowerイーストサイドの小さな椅子に座って天才。写真家は通行人にこんにちはと声をかけるのである。

私から見ると大変なドキュメンタリームービーだと思うけれど、声をかけられた通行人は90代の変なおじいさんと言うふうにしか認識がない。丁度、木村伊兵衛名人が、日暮里の島下では単なるおじいさんであったが、よく聞いたら大変な写真家であったと言うのと同じ位である。

そのニューヨークのアーティストがロバートフランクに会って、彼が急な階段の手すりもないところを注意しながら上っていく後ろ姿というのが非常に良かった。

黒川紀章設計の中銀カプセルタワーであるが、あれは黒川先生が20歳代に作った建築物であるから階段に手すりがついていないのである。足掛け3年ほど中銀カプセルタワーで仕事場に使っていた私であるがちょうど1年前中銀カプセルタワーが取り壊しになる前に、黒川先生の息子さんに会って、いろいろなお話聞いたのである。

彼と別れて近くのエレベーターに行く時に私が気がついたことだが、螺旋階段めいたステップには手すりがついていないことに気がついた。10年前、ここで仕事をしていた時は、そんなことに全く注意を払わなかったのであるが、私の足元の怪しいと言うことにその時初めて気がついたのである。

ロバートフランクのマンハッタンのアパートメントの急な上り階段に手すりがついていないと言うのは残酷なことだと思った。
0393名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/06(火) 01:54:03.77ID:yKcQ4gzk0
私の周りの連中がエジプトのカイロが面白いと言うので、カイロに行ってみた。私の周りの連中が回路が面白いと言うのは、普通に車で移動して、それで面白いと言っているのだが、私の場合は、そこを全部歩いてみようと言うのである。

結局2週間の改良滞在の間にバスも電車も1度も使わなかった。唯一の例外はギザのピラミッドに行く時だけ電車を使ったのである。歩いていて困るのはもともと回路は何千年も前の古い街であるから、細い道から細い道をつないで歩いていくと、街の端から端まで行けるようになっている。

ところがつい最近の数百年前に新しい幹線道路を作ってしまったので、これが非常に不便である。路地裏を歩いてどんどん行くと、いきなり道の先に巨大な道路が現れて、それを横断歩道橋で渡らなければならない。要するに、古代のエジプトのカイロの人間の運動方向を近代の巨大な道路が全て古代の人間が歩いていた細い道を通せんぼして邪魔してしまうのである。

アラブのカフェでは、酒は売らないがそのかわり巨大な宇宙飛行士の酸素ボンベみたいな水、タバコの装置がある。それがずらりと並んでいるところがなかなかダイナミックである。私も水タバコを勧められたが、それは遠慮した。しかしあちこちで飲むいっぱいのお茶はなかなか香りが高くてすばらしい。

私が歩行するルートは台風決まっているのであるが、通りがかりのカフェにいきなり飛び込むと言うわけではない。全体の歩行のスケジュールを見て、次はあのカフェで一休みしようなどと考えながら撮影しているのである。こうして2週間の滞在中に、自分の撮影のルートができてくるわけだが、その全ルートの間に3つ

私が歩行するルートは台風決まっているのであるが、通りがかりのカフェにいきなり飛び込むと言うわけではない。全体の歩行のスケジュールを見て、次はあのカフェで一休みしようなどと考えながら撮影しているのである。こうして2週間の滞在中に、自分の撮影のルートができてくるわけだが、その全ルートの間に3つ休憩用のカフェができると言うわけだ。

お茶大はどこでも1エジプトポンドであるが、最初に行った時は私がチップのつもりで5ポンドを渡すとそのウェイターは私のことを記憶しているから、その次行ったときにお茶大和5ポンドであると言うのである。それは向こうがこちらを認知してくれた友情の印であるから、私は5ポンドを支払っている。
0394名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/07(水) 07:42:27.37ID:BHGhAFIJ0
観光旅行で行った古い友人の野々宮のお話によると、カイロではアルコールも飲めますと言うのであるが、それは飲み屋が5つ星ホテルに泊まっているからであって、我々普通の人間の宿泊するエジプト人ばかりの止まる。商人宿ではアルコールは置いてないのは当然の話である。

モスクワ空港で1本のウォッカを買ってカイロで行ったのはいいが、そんなのはすぐなくなってしまう。それで街中を探してもアルコールが全く見つからない。グランドバザールをうろうろしているときにいきなり目の前に動かのビンが見えたのでこれだと思ってその店にダッシュしたら何の事は無い。

自転車の修理屋さんが油を自転車にさすときに使っている油を入れているビンが単にウォッカのガラス瓶であったと言うだけだ。

ファンタは売っているから、それを買ってきてホテルの部屋で水道の水で割って飲んだら面白いことに人間と言うものはノンアルコール飲料でも酔っ払うことができると言う大発見があった。すべての生き物の母である来るの。川の水を飲んでいるわけだから、私が滞在中に飲んだのは、ナイル川が水が干上がるところまではいかないであろうが、けっこうな量であったと思う。

それで毎日夕刻にこんな感じで、ホテルの部屋からナイルの水辺を見ながらファンタオレンジをナイルの水で割ったやつを飲んでいると非常に幸せな気分になる。

パリにいる時などは、ヴァンドーム広場のすぐ裏の三ツ星ホテルに泊まっていて、広場を渡って五つ星ホテルに行ってそこの場で飲んだりすることが普通なのだが、帰る滞在中はそういう汚い手を使うのはやめた。アルコールを摂取しないということがそのまま私にとってはカイロに滞在する意味を深めているからである。

カイロ滞在も半ばになると状況がわかるようになってきて、いろいろなテクニックを覚えたニューススタンドでノンアルコールビールを売っているのである。これはファンタオレンジをナイルの水で水割りにしたよりもリアルなアルコールに近いのでこれを飲んで酔っ払ったのである。
0395名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/08(木) 07:40:01.12ID:L+rK2GqE0
1966年日大写真学科の1年生の時にニコンエフにニッコール2.1センチのレンズをミラーアップしてノーファインダーで東京を斜めに横切ると言う撮影方法はウィリアムクラインの写真集から勉強したものである。

その当時写真同人社と言う出版社があってそこから新しいカメラ雑誌カメラ時代が登場した。非常に真面目な編集方針のカメラ雑誌で毎月のメインはその当時の著名な写真家の特集だった。いい加減なカメラメーカーの提灯記事などがないのが今思うと立派である。

私はどういう理由か知らないけれども12冊データ内の6冊ごとにほぼ毎月8ページの東京のモノクロシリーズを掲載していたのである。これがミラーアップした2.1センチレンズで東京を斜めに横切るのがいいんだと言うやつだった。    

カメラ時代は若い写真家のためのコンテストと言うのを開催してそれは賞金がついた当時としては結構立派な新人募集のコンテストだった。私はそこに応募してタイトルは楽園と言う30枚位の作品だったと思審査員は東松照明と奈良原IKKOそしてもう1人は名前を忘れてしまったが写真評論家だった。  

結局新人賞を獲得したのは土田ヒロミだった。ところが面白いことにその審査結果を録音したテープレコーダを私は聞かされたのである。審査そのものではなくて編集者がその後に話した感想なのである。普通はそういうものは絶対に応募者には聞かせないものだからどういう背景があったのかわからない。

編集者の発言によると、東松さんが強烈に支持したのが田中長徳で。と言うのである。しかし結局多数決で決まったと言うような話であった。

その新人賞は取れなかったがこのテープを私に聞かせた編集者のバックグラウンドはわからないけど今では感謝している。それ以来私は東松さんになんとなくポジティブな印象を感じるようになったからだ。
0396名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/09(金) 05:34:15.96ID:hUdLy0o70
1950年代の終わりにヤシカカメラがニッカカメラを買収した後にダブルネームのブランドで出した高級レンジファインダカメラ。ただしアメリカではニコンSPの半額以下の値段で売られていた。

このカメラの魅力は、トップのレバー巻き上げがカメラの裏側に隠れているのだが、この巻き上げ操作が意外とやりやすいこと。それとシャッターダイヤルのスタイルがご覧のように不思議な格好をしているのである。数多くのカメラを見てきたが、このような昔のブラウン管みたいなパンプキンタイプのフォルムと言うのは、シャッターダイヤルとしては他に見たことがない。

だから、他のシャッターボタンとシャッターの押し加減に関する比較と言うのはできないのであるが、ライカのエム型と同じ位に、あるいはそれ以上にシャッターリリースの瞬間がよくわかる。シャッターボタンであると言える。  

それと、トップカバーの手前に何やら横に広がったエンブレムみたいなものがあり、その中にニッカのロゴマークが入っているのも、外に見たことのない不思議なデザインである。面白いのはこのカメラの操作に慣れてくると、この横向きのフィンガーチャンネルみたいのは、指係階送っていないとカメラの方向を設定するときのバランスとして有効であると言う点だ。

カメラをハンドリングするときに、フィンガーチャンネルと言うのはなかなか重要なファクターであるが、フィンガーチャンネルは上から下に付いているのである。ところがこのフィンガーチャンネルは角度が90度展開しているわけだが、それでも慣れるとカメラの方向をハンドルするときの助けになる。外に似たような出っ張りが付いているカメラと言うのは見たことがないので、非常に珍しい。
0397名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/10(土) 07:38:34.15ID:VVX7Nscu0
亀戸駅北口から都営バスに乗って日暮里まで行くと言うのは結構長いバスの路線である。その中でかなり興味がある。バスの窓からの風景がこのショップであった。

京島の商店街を左に見る。そのちょっと先の進行方向からすると亀戸から出た。左側の窓に瞬間的に見えるのがこのテイクアウトショップである。もともとこの辺に興味を持つようになったのは、坂崎幸之助さんの実家の酒屋さん武蔵野商店である。何度か通って雑誌の取材のために、福田和也さんとそのカンパニーの皆さんをお連れしていたこともあった。

ところで、このテイクアウトショップ交差点であるが、私がこの店の存在に気がついた時は既に閉店していたばかりか、おそらく閉店からかなり時間が経っていたものと思われる。

その古びた看板に私は惹かれているわけであって、その印象を一言で言ってしまえば、アルタミラとかラスコーの壁画に非常に近い存在感があると言うことなのだ。実際この古代のテイクアウトショップの壁画はワクワクする。

そういう素晴らしい看板建築を1人で見るのはもったいないので、友人知人を誘ったりあるいは私のワークショップでこの場所に行って参加者を関心させたりしたものであった。ところで非常に困るのは撮影ポイントの問題なのである。ベストな撮影アングルと言うのは都営バスの窓から見た。はいアングルなのである。ところが我々歩行者の目の高さと言うのはそれに比べるとかなり低い。

しかも、テイクアウトショップ交差点は、実際の交差点の良い時よりもかなり右の方向にずれているのだ。だからバスから見た風景をうまくカバーするためには、横断歩道の歩行中になるべく両手を高く上げてはいアングルで撮影する必要がある。それでもバスの窓の高さには及ばないからそれは仕方がない。

最後にワークショップをやって皆さんをお連れした時は、この建物そのものが既に存在していなかった。こういうのは本当にショックだよな。
0398名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/11(日) 00:39:00.40ID:KB2zJdUU0
パックスと言うのは非常に小型な35ミリレンジファインダカメラである。1950年代半ばのものだと思われるがそういうイメージがあると日本の進駐軍のアメリカ映画お土産に持って帰ったと言うイメージが強すぎてこれがマイナスになっている。

実際に手にしてみると非常に緻密な構造になっていて充分実用に耐える。なかなか大人のメカニズムだと思うのはセルフクッキングになっていないと言うことが素晴らしい。こういうカメラはすぐにセルフクッキングにしようと考えるのであるがそれをあえてしなかったと言うところが偉いと思う。

ゴールデンビューと言うモデルはカメラ全体を金色にしたものであってスーベニール的な存在感があるがカメラ全体が小柄なので嫌味にならないところが取り柄である。

このカメラの素晴らしいポイントはカメラの裏蓋にかなり緻密な感じのエンボス加工が施されているところだ。日本の同じ時代のカメラで高級カメラであったところのニコンもキャノンもカメラの裏側にエンボス加工はついていない。世界的に見てもライカカメラにもエンボスはしてなくて、カールツアイスのコンタックス位がエンボス加工のしてある例になる。

^_^その意味で考えるとこの極東で作られた小さなカメラは世界のトップクラスのコンタックスと肩を並べられるだけの存在感を持っているわけだ。
0399名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/16(金) 07:05:01.31ID:xObgrrIO0
松岡正剛に初めて会ったのは彼の出版社がまだ池袋東口にあった頃だ。私はプリントを大きなアルミニュームのスーツケースに入れて音羽の家から松岡正剛の事務所に行ってそれを見せたら、アルミのスーツケースで写真をたくさん持ってきたと言うことで彼はそのことを口に出してびっくりしていたのである。

それで面識を得て彼が全部で2冊出版した写真集のそのどちらでも見開き2点で写真を掲載している。

最初の写真集は1970年に出たと思う。2度目のシリーズは1973年だったかな。というのも私はウィーンで撮影した作品を送っているからだ。

ヨーロッパから戻ってきたら、松岡正剛はその方面の大御所になってしまったので、何か違和感を感じるようになった。それでお付き合いはなくなったのだけど、六本木ヒルズで置いてある本の中に彼の膨大な書評が全部で10冊の分厚い本になっているのを見て、それを時々利用するようになった。でも、これはオンラインでも読めるからだからどうと言う事は無いのだけれども、私が松岡正剛から教えてもらった事は、オンラインのテキストが存在する以前のペーパーに印刷された時代の文章の存在感と言うものなのだ。

それで写真集をoffに掲載された。このショットの話になるが、ライカM3にニッコールの5センチF2をつけて銀座の路地裏を歩いていたらレンジファインダーだから一眼レフと違って、光の状態はコントロールできないのに現像してみたら、こういう光のシャワーが写っていたので、これは写真表現の入り口になるのではないかとちょっとした発見だった。私の20代なのである。
0400名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/18(日) 12:26:14.17ID:H0MsXDMc0
大昔ドイツのどこのホテルか忘れたけれどもそれほど大きくないホテルで受け取った部屋の鍵がブランド品であった。すなわちカールツアイスなのである。

あれはフランクフルトのホテルだったかな。それで金物屋さんに行って聞いてみて同じブランドの鍵を手に入れたのである。こういうのは手に入れるともうそれで満足してしまうからパッケージに印刷されたブランドネームを見て満足したのだった。

それに関連してフランクフルト中央駅のソーセージを売っている立ち食いスタンドをよく見たらそれもZeissとなっている。要するに普通のドイツ人のファミリーネームなわけだ。

それでカールツアイスブランドのソーセージを買って包み紙を多めにもらって日本に持ち帰ってお土産で配ったらカメラ人類の人は喜んでくれた。

ところでウィーン時代のアパートメントの部屋の鍵であるがとにかく何十年も前に作られたものなのでシリンダーにかなり癖がある。これがwin暮らしの大切なところで鍵を騙しながら回転させないと動いてくれないと言うところがある。

朝日新聞で9000回以上連載を続けているののちゃんの今日のテーマがまさにその鍵の話でおばあちゃんが突っ込んだ鍵が回らなくなったらそのあっち側にお父さんが閉じ込められたと言う話なのである。

ののちゃんを書いている人はウィーンに住んでいたことがあるのではと考えてしまった。懐かしいねぇ。
0401名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/19(月) 05:30:01.38ID:XPJWAfN30
日本軍が作った滑走路があって、ATRのターボマシーンが着陸できる。ところがディエンビエンフーは自分の街をもっと大きく見せたいらしくて、街の中心部にある巨大なツーリストのための看板には、そう発のジェットプレーンが離陸しているイラストが描かれている。

実際に空港から川を渡ったところがすぐ中心部でそこに産業センターみたいな3階建て位のビルがあって、その向かいに並んでいる町並みを移したのがこのショットである。そこにはちゃんとアップルも存在するのが現代的な都会の風景と言うわけだ。

ハノイの中心街を歩いていて、ホーチミンは今でもバンクノートにその症状が使われているから大変な権力者であるが、中心部の雑踏の看板の中に、何やらホーチミンよりも独裁者を感じさせる。風貌の巨大なポートレートを見つけて誰かなーと思ったらこれがスティーブ・ジョブズなのである。

ディックデーターとしての存在感は、現代世界ではスティーブジョブスがダントツだと思う。

ディエンビエンフーのメインのストリートと言うのは、東西に走るせいぜい長さが300メーター位の通りであって、その東側は小さなロータリーになっていて、その先には長い階段があって、山の上には独立記念等のようなものがある。

結構きつい。階段を上まで登って持参した。雷家に着いた。135ミリのレンズでディエンビエンフーの街の全貌取ろうと思ったら、あまりにも町の規模が小さいのでちょっと拍子抜けしてしまった。アルザスの山の中にある小さな村と言う感じの街の大きさであった。

フランス軍が最後まで抵抗した人事と言うのは、街の中心部から川を越えて500メーター位西に行ったところにあって、ここはベトナムで最も有名な歴史的モニュメントなので、いつも来訪者が絶えない。

ディエンビエンフーの空港のファイナルアプローチのエアラインのすぐ下に存在する。私がそのポイントに撮影に行った時はハノイから来た中学生か高校生がいて、私がホーチミンに似ていると言うので、ずいぶんたくさん記念写真を撮影されたのもちょっと懐かしい。

体重がちょっとオーバーしたホーチミンと言うわけだ。
0402名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/21(水) 06:23:12.30ID:NoZzqobY0
私の祖父は、街の発明家と言う触れ込みで、昭和30年代には結構有名だった。劇場で上映されるニュース、映画の日マネ山に出演したこともある。その当時は万年筆の小さな工場を経営している映画ニュースが取材に来た時は、音羽の通りに電源車が止まって、そこから長いケーブルで路地の奥の木造2階建ての家までケーブルをつないでパルボの撮影生で撮影したのだから、時代が偲ばれる。

さらに、これはニュース映画のヤラセなのであるが、家族総出で万年筆の仕上げをやっていると言う子供に労働をさせることが何とも思われていなかった時代であるから、私も嬉々として万年筆を磨くふりをしていた。

その時にパルボカメラを撮影していたアシスタントの人から35ミリのフイルムの切れっ端をもらったので嬉しかった。私は文明堂のカステラの箱をパルボのカメラに見立てて手回しの映画撮影機を自分で作ったりした。

万年筆家をやる前の祖父は、パナマ帽子に目をつけて、当時はその素材は高価であったから、パナマの原材料の代わりにペーパーの似たような素材で偽物の花間を作って、これがまたどっかの団体に表彰されて、その時の感謝状だか表彰状が部屋に飾ってあった。

シリコンクロスも作っていて、ケイ素で作られているからKei布と言うブランドで、色は黄色で西陣織の立派なタグが付いていた。そのシリコンクロスの宣伝のビラには、ウィンストンチャーチルが登場しているから、当時は著作権も肖像権もあったものではない。

2009年の5月にスペインのマラガに行った時にパナマ帽子を買ったのである。あっち方面はパナマ帽子の本番である。それで夏などは軽石風通しが良いから愛用した。

札幌の今井さんから高級なコラプシブルパナマをもらった時は嬉しかった。普通のパナマは折りたたむことができないけど、コラプシブルパナマは折れた。ポケットに入れられると言うところがメリットではあるが、もちろんそのような事はもったいないからしない。
0403名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/25(日) 04:30:21.76ID:xu8210yB0
カメラジャーナルと言う8ページの月刊誌は1993年にできたとこの50個限定のフォクトレンダーのカメラのレンズキャップに書いてある。ちょうど今年で創刊30年になるのか。なかなか感慨深いな。

実際にカメラジャーナルが発行されていたのは10年間だけであったが、後半の3年間はページ数が増えて記事が足りないので編集長から依頼されて佃日記と言うのを書いた。それがそのままオンラインになって今でもカメラノートで継続しているわけである。

当時はハリネズミがカメラジャーナルのキャラクターであって、このフォクトレンダーカメラの限定盤も、おそらく創刊100号とかそういう区切りの時に作られたものだと思う

このハリネズミ画像は、Facebookあたりで発見したものだけど、その説明によると、カメラの個体は南米にまで行ってそこから里帰りしてきたものらしい。何か凄いね。

四半世紀前にヨーロッパに取材に行った時など持参するの笑日であったが、もちろんフイルムカメラであって、何か開花に事故が起こっても、ヨーロッパのあっちこっちにあるカメラ屋さんで、コシナの一眼レフが手に入るから、カメラが壊れても心配ないと言うような安心感があった。

ハリネズミバージョンの記念モデルとして思い出すのは、他にも英国製のカメラのショルダーバッグをやはり限定版ひゃっことか作って、そこにハリネズミのマークをつけた。

サイン会などでお客さんからリクエストされて、サインの文字のほかに、ハリネズミのイラストをたくさん書いたこともあったな。お客さんで、当時はハリネズミがまだブームになる前であったので、あのオコゼを書いてくださいとか、例のイグアナを書いてください。などと言われたこともあったけど、私は別にそんなことでは起こりません。

我が家のハリネズミが昇天したのは、1988年の12月24日のことであるからもうずいぶん前のことになる。それでアメリカ海軍の例を習って。1台はすみだ川に流したのである。あれから何十年も経過したけれど、私が見る隅田川の流れと言うのは何となくハリネズミ臭いのである。
0404名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/03(月) 03:14:34.91ID:V+x5JHzx0
ウィーンに暮らしていた1970年代に近くのカメラ屋さんで500円ぐらい払って手に入れたのが1938年版のコンタックスとそのカメラと付属品の総合カタログみたいなものだった。

コンタックス2型と言うクローム仕上げのカメラは、当時の最高級モデルであるが、そのカメラを歌うんグレードをしたのがNetaxと言うモデルで、これは50ミリの標準レンズと105ミリの望遠レンズが交換できて距離計に連動するのである。

その総合カタログのドイツ語を細かく読んでいくと、小さな文字の羅列があって、専用のレンズマウントアダプターをつけるとテッサ2.8センチの広角レンズが使えるとある。その当時あぁそういうものかと納得したのであった。

ウィーンの暮らしを終えて、極東に戻ってきて、十数年経過してようやくNetaxが手に入ってそれを使うようになった。しかしウィーン時代の総合カタログの刷り込みが入っているから、レンズ交換は専用マウント以外できないと考えていたのである。それは総合カタログにちゃんと説明されているから当然の理解の仕方だと思っていた。

それから20年位が経過してある時Netaxのレンズを外してそこらにあるコンタックス用の外爪バイオネットのレンズを無意識につけてみて驚いた。ちゃんとつけることができるのである。このショットがその時のびっくりした記念写真である。

要するに、戦前の総合カタログでは、テッサ2.8センチをつけるためにはマウントアダプターが必要と書かれていて、そのカタログ番号もちゃんと印刷されている。ところが何の苦労もなく、いきなりテッサ2.8センチがカメラ本体についてしまったわけだ。

その謎はそのままにして今に至っているわけである。
0405名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/05(水) 06:11:13.89ID:dzgAW2sE0
Winで暮らしていた当時の1970余年と言うのはやったら雪の降る冬だった。ここは非常に冬の寒さが厳しいのであるが、行が降るときはそんなに寒さを感じないのである。雪の降らない時は本当に寒い冬であって、私のアパートメントのすぐそばにあったドナウ運河が凍ったりしたことも1回だけあったと記憶している。

それでこの雪を半分かぶったアヒルのショットであるが、遅くまで友人の家でワインをしたたかやって帰ってくるときの路面電車の乗り換えで、目の前にこの雪のアヒルが止まっていたので1枚だけ撮影をした。

この1枚だけ撮影というのが結構重要なことであって、その時のネガフィルムを見ているとこれを撮影した後、私は大通りの地下道を潜って、反対側の路面電車の停留所まで歩いて行ってそこの前後関係も1枚ずつ撮影されている。

ドイツ語圏では、この車はニックネームでアヒルと呼ばれていた。だから、それを運転している人はアヒルの運転者と言うことになる。でも、オーストリアはアドルフを生んだ国であるから、フォルクスワーゲンがメジャーな車であって、フランス製のアヒルなどはちょっと変わり者が乗る車と言うような認識だった。それでもアヒルは、ウィーンの街角を元気に走っていた。

それから50年経過してみると、Facebookで私の友人が東京のここでシトロエンのアヒルを見たと言うような目撃情報が上がってきて、つまりアヒルを見ること自身がイベントというかニュースになってしまっていることがわかった。

こういうブリキで作られた車は車検等も大変であろうと思う。実は私はこのアヒルのほうのシトロエンは乗ったことがなくて、ヨーロッパにいた時はちょっとだけDS日には乗ったことがある。これも面倒な車であったが、腰をあげるときの油圧で車高が高くなっていく感じが、ラクダに似ていておしゃれであった。
0406名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/06(木) 11:21:34.72ID:i4eVqks60
猫の中田さんが雑司が谷方面は詳しいのである。その中田さんがFacebookにアップしていた記事で、紙兎ロペのフルーツ屋さんがラーメン屋さんになっていると言う書き込みがあった。

私は東方シネマは見ないし、富士テレビも見ないので、ロペに感染したのは後期高齢者になってからだから症状が非常に重い。このシリーズは2011年にスタートしたそう。だから、その時私は3月11日の東日本大震災の時に、マンハッタンに撮影に行っていて、あちらであたふたしていたのである。

雑司が谷の街の構造を完璧に知るためには、30年かかったのである。同じ位複雑な街並みと言うのはポルトガルリスボンのα間であるが、こちらは大体15年位で街の全貌が明らかになった。

フジテレビでやっていたドラマか何かでこの角地のお店が八百屋さんであったと言うのは事実である。そのこともドラマは見ていなくて、中田さんからのインフォメーションでしたのである。

それで、つい最近に中田さんがアップしたのがこの上の画像であって、フルーツ屋さんがラーメン屋さんになったと言うので、驚いているショットだ。

中田さんの書き込みによると、この角地のお店は最近ラーメン屋さんになったと言うので、私は街角の店舗のアピアランスを見ると、意外と正確に場所を当てることができるのであぁそうかと納得したのである。

1年位前のまだ寒い時期の日曜日だと思うけれど、このフィクションではラビットフルーツのお店がラーメン屋さんになって、そのラーメン屋さんに入って、日本酒いっぱい飲んでラーメン食べた記憶がある。

こういう本末転倒のオリジナル現場に信仰心を持ってピルグリムと言うのを私などは馬鹿にしていたが、そのことが自分の身の上に起こるとは思わなかった。5年位前に四谷の高台にある須賀神社と言うところにやたら若い連中がたくさんいるので、それが不思議で神社本町の若いボランティアだと思っていたのだが、同行者が説明してくれるところによると、ドラマの舞台ね。この神社が登場したので、それで若い連中が右往左往しているのだそうである。

ロペのお店で出されたラーメンはおいしかった。もともと腕組み系ラーメンを食べない主義なので、街中ラーメンと言う存在感である。考えてみたら、最後にガストロノミーでラーメンを食べたのがこの店だったのだ。
0407名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/09(日) 05:19:34.43ID:F9kl1AU60
基本的にフリーアドレスなので、どこに座っても問題ないのであるが、それぞれ野生動物と同じで自分のテリトリーを設定したくなる。それで私はいつもこの席に座ることが多かった。地上に100メーター以上はあるので空気が希薄である。それは慣れてしまうのだが、10年間も入るとやはり希薄な空気で私の思考がかなり鈍化していたのではないかと言う気がする。もともと頭の回転が悪いのが地上200メートルでさらに加速されたわけだ。

座っていた椅子はアーロンチェアなのだが、数が多くないのでこれも争奪戦となった。

ヒルズができたのと同時に50階にあるヒルズクラブのメンバーにもなった。会費が高いからその分メニューは若干安くなっているのであるが、ヒルズのクラブだからやっぱり高いことには違いない。六本木ヒルズと言うのはやはりランチ難民になる。コンビニは1つしかない。それで仕方ないからクラブに安いランチを食べに行った。

あんまり代わり映えのないランチを毎回食べると言うのも退屈なものだが、ヒルズができた頃はまだ珍しいのでいろいろなお客さんが来たのでそれで結構喜んでくれるのはありがたかった。

10年位国で仕事をしていて座した本は20冊以上になるから元は取れていると言うべきであろう。しかも私のライカ本の話はだんだん現実離れしてきて、目の前に見える東京タワーがツェッペリンの飛行船のするになっていて、日本に最初に流されたライカがその飛行船に乗っていると言う馬鹿げた話も書いた。

10年位国で仕事をしていて、雑誌した本は20冊以上になるから元は取れていると言うべきであろう。しかも私のライカ本の話はだんだん現実離れしてきて、目の前に見える東京タワーがツェッペリンの飛行船の停泊するタワーになっていて、日本に最初に輸入されたライカがその飛行船に乗っていると言う馬鹿げた話も書いた。

こういう馬鹿げた想像力と言うのも、やはり気圧が低いと言うことに背景がありそうだ。

ちょうど10年間六本木ヒルズに通ってそれで卒業したのである。それからもう11年が経過した。
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