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【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 6【徘徊】
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0001名無CCDさん@画素いっぱい
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2021/10/13(水) 10:06:29.73ID:9ooWCRMi0
尊師降臨

過去スレ
【老いて益々】田中長徳ファンのスレ 5【徘徊】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50

【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/

田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ
日本大学芸術学部写真学科卒業
日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる
オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める
帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に
連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める
なお、6/10(土曜)には四谷三丁目のホテルウィングインターナショナルプレミアム東京四谷で、
写真家田中長徳生誕70周年を祝う会が開催される
その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い
写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない
その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない
0357名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/03/31(金) 05:21:12.04ID:5BnZNEqR0
あちこちで講演会をやったりトークショーをやって地球上を行ったり来たりしていた四半世紀前のことである。記憶しているのは確か関西の方だったと思うけど、あるいは間違えているかもしれない。

ソ連製のハッセルブラッドのコピーであるサリュートに求められてサインをしたのである。

35ミリカメラでフォーカルプレーンシャッターのカーテンに文字が入っていると言うので考えれば、戦前のライカのボールベアリングがが入ったのがある。このモデルは、シャッター幕にkのイニシャルが入っているのである。戦後になってからはニコマートなどに入っている小原スクエアと言う金属シャッターがあるが、これの初期モデルにはまさに小原スクエアと言う文字列が登場する。

しかし35ミリ版よりも66サイズでしかも金属膜であると言うのは非常にサインがしやすい。それでこんなことになった。そのようなわけで、すっかり記憶から消されていた私がサインをした物件が、東京のどっかの飲み屋の酒の席に出てきて大笑いになったらしい。その話をFacebookに拾って画像をいただいたのがこのショットである。

私の読者の方で、オーソグラフィが好きと言う方がよくおられるようで、適当な紙がないと自分のメモ帳の裏のほうに書いてくださいとか、それはそれで非常にありがたいことではある。

いつだったか、大阪の方でライカM2のボディーに書いてくださいと言うので、カメラのファインダーのウインドウに書こうとしたら、それはやめてくれと言うので、ライカのトップカバーにサインをしたこともあった。

サインをしたライカで忘れられないのは10年ほど前に南千住を歩いていた時に、どっかのおじさんが自転車の荷台からものを落としたのである。それで私はそのものを拾って自転車のおじさんを追っかけて落とし物を渡したのであった。

この騒ぎで通行人が振り返っていた中で、1人の青年が私に声をかけてきたのだ。その人は私の読者さんであって、それは良いのだが、その後その青年が見せてくれたライカエム4なのであるが、驚いたことに。映画監督ビームヴェンダースのサインが入っていたのである。
0358名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/01(土) 00:05:16.07ID:MD8HQCOH0
その貴重な映画監督のサインは、削れて消えないように、プラスチックのシートが貼ってあった。

ライカの本体にサインをした記憶で、他に忘れられないのは、私が長年使っていたらライカエム6である。そのカメラを持ってライカの社長さんに会ったときに、彼はなかなか気の利くゼントルマンであるから、私のライカにーー田中長徳様、私の尊敬する写真家とかうまいことを書いてくれたのである。

それからしばらく後にちょうど東京カメラクラブをやっていた時なのであるが、会計担当の松崎さんと言う人がいて、この人は本物の会計部長なのであって、カメラクラブの不払いの会費を集めるのが得意な人だった。金を出せと言って手のひらを出すから、みんな払わないわけにはいかないのである。

その松崎さんが私のライカを欲しいと言うのでお譲りしたのである。それから1ヵ月後位経過して、私が松崎さんに会ったときに私がが譲ったカメラを見たらライカの社長のサインがきれいに消えているのである。私がそのことを言おうとしたら

あー、あの外人の汚いサイン?
大丈夫消しておいたから、、、
0359名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/02(日) 08:40:37.29ID:DnGnDCrd0
私がwinで使っていたダブルエイトのカメックスは、標準のズームレンズの外に何本かの望遠レンズが付いていた。それで三脚に乗せたこのカメラをwinのアパートメントの中庭に面した方角に向けてそこに遊びに来る。ブラックバードとかはとぽっぽとかさらに中庭の反対側のアパートの上のほうの窓から時々見え隠れするグレーのトラ猫大好8ミリカメラの望遠レンズで撮影した。

撮影した。フィルムはコダクロームであるから、今でもちゃんとした際が残っている。ここら辺がこのフイルムの本当に偉いところだと思う。ダブルエイトではあるがその後に登場したスーパーエイトと比較してもシャープネスは自分である。

そのウィーンの中庭で撮影した。1連の猫と小鳥とお花と樹木のドラマがそのままソープオペラとなっているのだ。時々中庭にゴミを捨てに来るウィーン市民などもなかなかの脇役エキストラと言う存在感である。

ウィーンで使っていた1台の亀フレックスとその交換レンズは日本に戻る前にどこかに処分してしまってどうなったのかは記憶にない。それから30年ぐらい経過してこのカメックスのことを思い出してeBayなどで安いので時々買うようにしたら、サッカーの試合ができる位の数が集まった。

その下ネックスチームの出身地がEMSで送られてくるから明白にわかるのである。それでグーグルアースを利用してそのカメラが発送された場所を調べると言うのも楽しみの1つになっている。面白いのはカメックスの送られてくる場所がほとんどがフランスなのである。それもパリはあるにはあるが、それ以外のフランスのカントリーサイドから送られてくるのだ。中には、カメラの中にフィルムが入っているものもある。

フランスが面白いのはパリ以外は全部カントリーであると言うことで、それぞれのカメックスの国境をグーグルアースで見ると非常にこじんまりした村と言ったほうがいいような小さな場所が多くて、どれも非常に愛らしい。

それぞれのフランスの小さな町や村で、それぞれのカメックスは、そこに住んでいる人々の暮らしをどのように記録したのであろうか?
0360名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/04(火) 00:23:02.07ID:V3LeUjLz0
自分の写真家としての国際的な目で見ると言えば、1970年にスイスカメラと言う当時、国際的なカメラ雑誌にポートフォリオを掲載したのがスタートポイントである。私は23歳の東京フォトグラファーと言う肩書きで紹介されたのだが、そのポートフォリオのほとんどは、バスの中から撮影したショットであった。

東京でバスで撮影するときのベストなカメラアングルは、ドライバーの左側の1番前の座席である。コロナの関係でこの座席が閉鎖されて、もう3年になるのであるが、この席に座らないと仕事にならないので早く解禁になってもらいたいと思う。

ところがこの席に座る連中と言うのは、私のようなヘンテコリンな後期高齢者とか青年ではあるが、頭からいつも電波が微弱に出ているような人が多いのも不思議である。新宿駅西口から環七を北に曲がって、延々と北上して、板橋から王子を経て、赤羽に行く路線と言うのは、東京で最も長いPOSバス路線の1つに数えられる。

いつ出会ったか、その路線に乗っているときに、いわゆる我々が境界を生で言うところの馬鹿シートに座っているのが電波が出ている青年であった。私はその時運転手さんのすぐ後ろの席に座っていて進行方向右側を撮影していたのである。

それで新宿駅西口から終点に到着するまで、私とその青年は降りることなく、ずっとバスに乗っていたのだから、今後はそのような無意味なバス乗車というのが東京都の条例で禁止されるようにならなければ良いがと考えているのだ。

ところで、今日のテーマである金網屋さんのことである。このご紹介と言うのは1枚が絶滅の野生動物のような感じになってしまった。東京中バスで走っている。私の経験から言っても1つは千住桜木町にある。この場所そしてもう一つは福神橋の2つしか思い出せない。福神橋のほうは、撮影の難易度が非常に高くて、お店の看板が通行人に対して90度に見えるようになって入るために通過する。バスの窓からは角度の関係で見ることができないのである。
0361名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/07(金) 05:55:40.26ID:ts0fgHJy0
単純な話であるが、かつてのニコンとキャノンは足な例で言えば、日本航空と全日空とか巨人と阪神みたいないつも対立関係として認識されていた。

あまり知られていないことだが、1960年代初めごろだったと思うけど、キャノンレンズがニコンの子マウントレンズを作っていたのである。考えてみればキャノンとニコンの歴史上の中でスタートラインとしては戦前のハンザキャノンがあるがあれは付いているレンズはニッコール。ヨーロッパでは、カメラメーカーはレンズメーカーからレンズを買ってカメラを構築するのが普通であるけれども、日本の特殊事情はカメラメーカーが自分のブランドのレンズを持っていないと格好が悪いと言うような認識がある。

だから、この日本のカメラメーカーに特有のセオリーから考えてみると、キャノンはニコン用のマウントのレンズを作ってリベンジをしたと言う見方もできる。いやこれは考えすぎかもしれないが、キャノンのレンズの長い歴史の中ではそうそうたくさんあることではない。

生産本数は一説には200本ほどと言われているが、ここら辺は町の噂でやるから信用するわけにはいかない。それで私のあまのじゃく的なこのレンズの使い方何のであるけれども、せっかくのニコンエフマウントをもう一回ニコンエスマウントからライカスクリューマウントに変換するアダプターを付けてライカマウントにして、さらにそれがバイオネットアダプターで曲がったらいいかについていると言う次第だ。

28ミリの広角レンズは何十年も使っているけれども、スナップショットを主にしているから明るいレンズは必要がない。この場合のキャノンのニコンエフマウントの28ミリのレンズの明るさでもエフ3.5と言うのは、私にとっては明るすぎる位のレンズなのである。
0363名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/08(土) 14:25:03.29ID:zXcOjLiz0
1980年代にニューヨーク近代美術館で発見した面白い本は、ウォーカーエバンスアットワークである。当時の大写真家の仕事のやり方がよくわかって大変参考になった。それを真似して2000年に毎日新聞から出した。私の写真集が田中長徳アットワークなのであるが、これは完全な真似なのである。

で私が知っているところによると、大写真家が2台のライカスリーシーを仕事に使っていて、レンズはライカのレンズであるが35ミリと50ミリが圧倒的に多い。

1連の有名なアメリカ農業保全局のドキュメンタリーにしても使っているのはほとんど50ミリレンズ1本なのである。それが青天の霹靂と言うべきであるが、6月10日にドイツで開かれるライカのオークションに登場したのが上に示すアウトフィットなのである。

つまり、バルナックライカにニッコールレンズが2つ付属しているのだ。1つは35ミリの普通のライカマウントレンズであって、もう1本のレンズを見て私がびっくりした。

それはニッコールレンズ2.1センチニコンエフマウントであるが、それにライカマウント変換アダプターが付いている。結局これは私が50年以上使っているのと同じレンズのコンフィグレーションなのである。これで私が最も好きな写真家がさらに共通点を持つことになったのが嬉しい。

それで不思議に思うのは、私がチェックした限りでは、ウォーカーエバンスがこの21ミリレンズで撮影した作例がほとんど見当たらないと言うことだ。晩年のウォーカーエバンスはポラロイド。SX 70のほうに興味がいって4000枚近いポラロイド写真を撮影した。

ポラロイド写真と言うのは、不思議な存在で35mmフォトグラフィーを抹殺してしまうようなところがある。私が1980年にアメリカのポラロイドから依頼されて、ヨーロッパをポラロイドSX 70で撮影した時も同じであって、同時に持っていたモノクロームフィルムの入ったライカカメラ使わないのであった。ここら辺が何かポイントになりそうな気がするな。
0364名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/08(土) 18:07:01.70ID:fAfvjKUh0
あたしは写真が下手である。その証拠に代表作がない。あるとすれば、
タワーマンションの上階から撮ったベランダ超しの隅田川ぐらいであろうか。
写真が下手だから、ライカの蘊蓄を垂れたり、ウォーカーエバンスや
ウィリアムクラインやロバートフランクの名前を出してごまかしているだけ
なのである。もっと写真が上手ければ後世に残る大写真家になったであろう。
0365名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/09(日) 06:58:11.98ID:vbd+KKKy0
ジュネーブサウンと言うのは、代表的な時計の見本市で入場券を買って入場するのではなくて、関係者だけが入れると言う子宣な展覧会があると言う事はこれを取材に行く時にしたのである。10年ほど前の話だ。

当時はプラハに住んでいたので、ある時計の雑誌が日本からの飛行機代が出せないけれども、プラハからジュネーブに来るなら、費用は出してやると言う話なので出かけた。どこでもあの頃から内部事情は大変なんだね。

ところがプラハから出るチェコ航空がジュネーブにはその頃は飛んでいなくてチューリヒなのである。それでチューリヒまでいって、そこからスイス国鉄でジュネーブに行った。山を越えるとスイスドイツ語からいきなりフランス語になるのが面白い。

ジュネーブは2月も凄く寒い日だってなれない。会場でウロウロしていたら日本のジェントルマンが声をかけてきた。その人が松山さんて私の本を読んでいると言うので嬉しかった。私のほうは松山さんが超有名人だから、アメリカンエクスプレスのプラチナカードのマガジンで旅する編集長と言うので、執筆なさっていたからすごいなと思っていたのである。

こういう出会いと言うのはなかなかあるものではない。それで10ネイルサロンは飲食が無料になっているのでついつい調子を出して赤ワインを飲み過ぎてしまった。

松山さんは、フランス製のライカの一番高級なモデルを首から下げているのでなるほど、なるほどと納得したのである。何しろ旅する編集長だからな。それでお話を聞いてみると、何か前の日にジュネーブに到着した直後に中心部の湖の辺りを歩いていたら、スリにやられてパスポートとか携帯とかとられてしまったと言うお話であった。

しかし、全然ゆったりとしている。松山さんなので、これはやはりアメックスプラチナカードの旅する編集長なんだなと感心したのである。

ところで、ジュネーブサロンでやるから、中途半端な時計をつけていても、仕方ないと言うので、私は気張って50年以上前に500円で手に入れた。シチズンホーマーの新幹線の時計を腕に巻いていった。素性のわからない時計だからこの距離から見るとなかなか高級品に見えるな。
0366名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/10(月) 05:22:39.93ID:x5uMPx1j0
日本は不思議な国で鶏の胸肉よりもMomoの肉の方が値段が高い。ヨーロッパではその反対である。ヨーロッパにいるときは、鶏の皮を真面目にたべようなどとは考えたことがない。ところが日本に来てから鶏の皮がなかなかおいしいと言うことに気がついた。

しかし、焼鳥屋で鶏の皮を注文して食べると言うのはあまりにも当たり前で、これは私の好みではない。鶏のもも肉を買ってきて、その裏側に付いている側のサイズでその日の運勢を占うあったりするのが面白い。不思議なのは、高級スーパーだと鶏のもも肉についている。鶏の皮は量が少ない。
しかし、焼鳥屋で鶏の皮を注文して食べると言うのはあまりにも当たり前で、これは私の好みではない。鶏のもも肉を買ってきて、その裏側に付いている側のサイズでその日の運勢を占ったりするのが面白い。不思議なのは高級スーパーだと鶏のもも肉に付いている。鶏の皮は量が少ない。

一方で、安いスーパーで売っている鶏のモモの肉の裏側には、鶏の皮がたっぷり付いている。だから、家人などはそのことを文句を言うわけだが、こちらは鶏の皮に狙い目があるのだから、それがありがたいと言う次第だ。

調理法はいたってシンプルでキッチンバサミで適当なサイズに切ったやつをフライパンで焼くだけである。もちろんオイルは使わない。それに塩を適当に振って食べるだけである。これが非常に酒の肴としてシンプルでレベルが高い。

お店のパッケージを見て面白いと思うのは、お店では鶏の皮を打っているわけではなくて、鶏のもも肉を打っているというところがポイントである。だから悪の方を見せて顔見せないのである。川の量が分からないから側の量でもも肉を選ぶわけにいかない。そこら辺がトランプの神経衰弱みたいなものでなかなか楽しめる。。
0367名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/11(火) 05:47:41.34ID:TP5RtGqb0
本来はライカM3を改造したライカエムピーと言うカメラがあって、その付属品であったのだが、そのライカエムピーがあまりに売れないのですぐに製造中止になった。300台位しか作られなかったので、今では5,000,000円位するらしい。

ライカの会社は、ライカ人MPの在庫を減らすために、M3の後に登場したM2でこの迅速巻き上げ装置が使えるようにした。それでも人気がないのでなかなか売れなくて、私が手に入れた時は10,000円位だった。あれから50年が経過して、らいか人MPの値段は上がったけれども、せいぜい300,000円と言うところである。

私の場合は、このヘンテコリンな付属品を手放すと欲しくなり、手元にあるともういらないと売却してしまうと言うことそのものが私の写真家人生であったと言うのも皮肉な主題である。実際の撮影にはようのない付属品であって、大体アンリカルティエブレッソンとかロバートフランクがLeicavitつけたカメラを操作しているなどと言うのは滑稽である。

しかし、一方でLeica vitの遊びとしては、なかなか面白いところがあるのは否定できない。お茶の伝説的な本である。南方録に見られるような飾りとか、お道具の細かい書き込みというのがカメラ選びとかレンズ選びにいつも薬通じるところがあるからだ。

その意味でライカ南方録と言うものがあるとしたら、ここら辺の組み合わせが結構興味を持つエグザンプルである。まず900,000台の初期型のライカM2のそれもブラック仕上げと言うのはなかなか趣がある。初期のM2型の見所と言うのは、足に業界用語で内ギザと言うのであるが、外側が光を取り入れる窓のところがフラットで内側にギザギザが付いている。その後のモデルは窓がギザギザが外側になっている。
0368名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/12(水) 05:14:18.88ID:s3kjGIAG0
そのカメラに組み合わせるライカvitMPはこれはリペイントのブラックだと思われるが、ちょっと雰囲気が違いますね。私の好みとしては、ここにはブラックのM2につけるべきは、普通のクローム仕上げのライカ人MPなのである。

1960年代から活躍しているアメリカの報道写真家で公民権運動などを撮影していたハイマンと言う写真家の撮影中のショットを見たら、彼が使っているのはブラックのライカM2だが、そこにクロームのライカVitをつけていた。そして彼の好むレンズがZeiss Biogon21ミリなのである。これはその写真家の個性とても言えるもので、これを初めて見たときの高校生の私の記憶が今に保存されているのである。

このストーリーについて続きがある。6月10日に開催される。ドイツのライカオークションでウォーカーエバンスの使っていたカメラが出品されているが、それが2 = 2.1センチなのだ。ニコンエフマウントをマウントアダプターでバルナックライカにつけている。こういうのが本当に嬉しいね。
0369名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/13(木) 05:46:58.70ID:YouL1bwr0
岩波書店から出した写真集のタイトルを改めて見ると、1966年から2006年までとなっている。こちらが油断している間にもうそんなに時間が経ったのかと思う。

岩波書店からは、新書も含めて4冊位の本を出しているのである。私が最初に手にした岩波新書は、名取の写真の読み方と、岡村の南ベトナム戦争従軍記であって、これは私が高校生の時の話である。

岩波アクティブ新書がスタートしたときに、大阪に行って岩波書店の社長さんなどと一緒に新しいシリーズのプレゼンテーションをやった。誰でも知っている大手の有名なホテルが会場だったが、今思うと不思議なことなのであるが、どのようにやってもPCからプロジェクターに出力ができないのである。

それでどう対応したかと言うと、社長さん、私も含めてずらりと並んで深々と頭を下げて集まっているメディアの皆さんにお詫びした。岩波書店の出版のプレゼンの長い歴史の中でも、こういうのは数少ないのではないか?

東京にいるとあまり気がつかないが、地方都市に行くとそこにある丸善で岩波書店のパワーがすごくて、私が出した本のフェアをやっていたのにはびっくりした。

岩波書店の出版物には返本というのがなくて、基本的には全部買い切りなので、なかなか競合他社は羨ましがっていた。

岩波から本を出したら、大学の先生から、皮肉めいたメールが来て、ついに岩波文化人になられましたなと言うので大笑いである。岩波書店が不思議なのは、受付に行くと、担当編集に私の来訪を告げる時に、受付の人が、田中先生がいらっしゃいましたと言うのである。これも岩波文化人の伝統なのだな。

東京今昔の写真は、表紙が1968年頃の原宿の横断歩道橋の下のデモ行進である。今ではデモ行進がなくなったばかりか横断歩道橋もなくなってしまってまさに東京今昔物語だね。

写真集には、片岡義男さん、坂崎幸之助さん、なぎら健壱さんの対談を収録して、これが昔の東京を知っている人々の話だからなかなか読み応えがあった。なぎら健一さんなんか小学校の時に趣味が喧嘩であるから、佃の渡船に乗って佃島に遠征に来て喧嘩をするのだそうである。すごいね。
0370名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/14(金) 05:09:56.65ID:04SC8gGn0
40年以上前にヨーロッパを巡回させた現代日本写真家展の仕事を進めるのも東京と日本の間をエアメールの手紙でやり取りしたのである。要するに、膨大な手紙を私は汚いハンドライティングで書いたのである。

電話と言う手段があるではないかと言われるかもしれないが、とんでもない話である。あの頃の国際電話と言うのは、天文学的な値段の高さであって、そんなのを使う事は想像の完全外側にあった。

例えば、ウィーンの留学生がどこかの音楽コンクールに参加して、その結果を日本の家族に伝えるのに、winから電話してベルが1回なったら合格で2回なったらダメと言うのを事前に手紙で連絡しておいて、そのようなコミュニケーション手段を普通に使っていたのである。

この時代のウィーンで私が手にしている手紙はトレーシングペーパーに書かれているので、反対側から見てもある程度判断がつくであろうが、岡山在住の戸倉と言うやつから、定期的にクラシックカメラに関する報告が送られてきたのである。

それに対して私が書いた返事と言うのを戸倉は全部持っていて、私が1980年に帰国した後に、その私が出した手紙が蔵の中から発見されたと言うので、それをまとめて私に返却してくれた。イラストがかなり面白いので、これは出版できると言うのでどこかのエディターが持って帰ったままそのままになってしまった。

20年以上前だが、その戸倉が岡山に田中長徳カメラコレクションと言うのを作って、私のカメラはかなりそちらの方で展示されていたのである。そこに看板で巨大な文字を書いたのも忘れられない。

日本カメラの付録というのが1時あって、そこで田中長徳カメラコレクション特集されたことがあったが、非公開であるのでお客さんが行くとまずいので、架空の場所に設定して場所はわからないようになっている。フィクションでは、瀬戸内少年野球団と言う映画があるらしいが、そこにあるような思わせぶりの編集設定になっていた。
0371名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/15(土) 06:42:45.77ID:Slw/QzDb0
ロバートキャパがスペイン内戦を撮影した時はライカを使っていたが、ノルマンディー上陸作戦のときにはクロムコンタックスを使っていた。そしてそれ以前のレオン、トロツキーがスイスで演説をしていたときのショットはブラックコンタックスで撮影。

日大の写真学生の頃に、私は自分の室の天井にその有名なキャパが撮影したトロツキーの巨大なポスターを貼っていた。何か荒れたりぶれたりしたようなはっきりしない画像であって、トロツキーのメガネと顔の周辺部だけが妙にリアルでそれ以外ははっきりしない画像というのが、キャパが撮影したオマハビーチと共通していた感じがある。

この文章のタイトルはもちろん私の思い込みに過ぎなくて、このブラックコンタックスは私が持っているサッカーのチームができる位の数のコンタックスのうちの1つである。そのプレッシャープレートの磨き込まれた感じがすごい。

それであるから、このカメラの個体でキャパがトロツキーを撮影した可能性も否定できないわけである。これからは、カメラの内側のフィルムのプレッシャープレートを評価するような時代になるのではないか。

中古カメラ屋さんの評価で考えれば使っていないカメラの方が価値が高いと言うことになるが、私の場合はカメラに全く正反対の価値観を感じている人間だからボロボロに使い込まれたカメラのフイルムのプレッシャー、プレートにリアルなドキュメンタリー感覚を感じるのである。

コンテンポラリーフォトグラファーズの面々の中でGarry Winograndが使っていたのはクローム仕上げのライカエム4であったが、その写真を見てびっくりしたのはかなり激しく使われたライカであって、やはりフィルムのプレッシャープレートがかなり似たような状態であった。

これからは、カメラ自慢やレンズ自慢ではなくて、プレッシャープレートのよれよれ自慢がトレンドになるんだ。
0372名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/17(月) 05:39:22.55ID:GMJjn7C30
スカイツリーができて、もう何年になるのかわからないが、スカイツリーが完成するまでのそのプレスを見るのが楽しみなものであった。

2009年の春にそれまで24年間飼っていたライカインコが昇天してペットロスになっていた時に、デジタルのムックの撮影で何度かヨーロッパに行ったのである。大体2週間か3週間にかける位の期間の撮影で帰ってくるときに、楽しみなのはスカイツリーがどれだけ成長したかと言うことであった。ー児童向け番組のジャックと豆の木の現代版である。

最初の段階では、まさか巨大なテレビ塔が立つとは思わないので、変な風にねじれたヘンテコリンな建築物が伸び始めたと言う認識しかなかった。それがだんだん高さを増してきて、最初のオブザベーションデッキが完成した頃に全体のスタイルが明らかになったのであるが、このタワーのムーブメントと言うのは、この画像で見た場合、進行方向が左向きにベクトルを生じているのである。

わかりやすい説明をするのならば、貴婦人が長い裾の洋服を着て左方向に歩いていくと言うようなムーブメントがそこに感じられるのが面白かった。でも、そういう面白さと言うのはその上の第二展望台ができて、さらにトップが完成してしまうと、もうそこには進化がなくなって、面白くもなんともないと言うことだ。

スカイツリーの建設を最高に楽しむなら、私は次のようなアイディアがある。すなわち完成したスカイツリーを今度は少しずつ解体していて、最後は何もない武蔵野の野原にしてしまうと言うことなのである。

そんな馬鹿な事は現実では起きないけれども、それに似た疑似体験と言うのは実は存在するのだ。例えば雲が非常に深く垂れこめているときに、第一展望台がかろうじて雲の間に見えると言うようなそういう天候は割と存在するのである。だからそういう光景を見たときに、私は建設中のスカイツリーを想像することにしている。
0373名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/18(火) 04:56:39.81ID:V+0GfQ+20
さらに完璧なのは非常に天候が悪い時にスカイツリー。そのものが全く存在しないかのような光景もたまに観察することができる。これは言ってみればスカイツリーが登場する。2009年夏よりも以前の時間軸を私が過去にさかのぼって観察しているかのような錯覚をもたらしてくれる。

スカイツリーが完成した直後は、スカイツリーが見える部屋のレストランとかホテルが大人気だったようだが、あれから5-6年は経過しているから、そういうブームはすでに過ぎ去った。

テレビ塔のスタイルはエッフェル塔とか東京タワーがやはり定番ではないかと思う。このようなスタイルのテレビ等は世界各国にあるが、1番ネガティブな存在は東ドイツ時代のベルリンのテレビ塔であった。西ベルリンの街を路面電車で走っているときに、瞬間的に東ベルリンのテレビ塔が見えたりするとゾクゾクしたものであった。つまりそこには確実に存在しているもう一つの国が見えたことになる。
0374名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/18(火) 07:29:39.47ID:MeSUiJoE0
あたしはデジタルカメラが嫌いである。というのはデジタルカメラが
わからないからである。でモザイクとか、アンチエイリアスとか、なにそれ
美味しいの?状態であるから、デジカメはさっぱりわからない。だから
デジカメの話題は上っ面だけを語るように心がけている。
0375名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/20(木) 06:47:20.62ID:9grbHkQQ0
2011年のチャイナタウンの写真屋さんである。すでにフィルムを現像すると言う事は過去になってしまったわけで、2011年時代でもすでに使われないテクニックであったと思うのが普通であるが、このショップで試してみたらちゃんと現役でフィルムの現像もできるし、もっと驚いた事はモノクロームの現像とプリントも引き受けていると言うことだった。

日本の場合だと、こういうプリントビジネスを0円プリント等と名付けてしまうが、1時間写真といった方が商品としての存在感が引き立つと思う。

ここら辺がアメリカの写真、文化の粋の長さ等と書いてしまうと、非常に大げさでピントがずれた方向に行ってしまう。彼らがサービスしているのは、通常の写真のプロセスの1つに過ぎないということをここでは理解しなければならない。

そのショップの狭い鏡に写っている東洋人のライカM3を持った老人はチャイナタウンだと。その存在感がそんなに違和感がなく感じられる。このショップのウインドウに掲げられている1時間写真のネオンと言うのは、モダンアートとしてかなりの存在感だと思う。しかるべきところにこの1時間写真のネオンがミュージアムなどに展示されていれば、それなりの尊敬を集めそうである。

マンハッタンと言うところが、こういう小さな商店の表面に小さな鏡がたくさん取り付けられているのは、まさか万引きの防止だとは思わないけれども、町中のあちこちにある鏡にちょっと映った風景をテーマにしたのがリーフリード。オランダのセルフポートレートである。そうしてみると、アメリカの都市風景と言うのは、ライカを持った写真家にとっては、セルフポートレートの制作場所と言うことでは、環境に非常に優しいと言うわけだ。

3月11日の東日本大震災の第一報で、私はマンハッタンから家人のことが心配になって携帯で電話をしたのであるがそれは通じなかった。それですぐにSkypeに切り替えて連絡したらすぐ連絡が取れたので、その時はSkypeの任期が一時的に上昇したのも今思い出すと懐かしい。
0376名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/21(金) 06:04:40.57ID:MN1wTyg90
ロックフェラーセンターの辺後5番街をアップタウンに向けて歩いていたら、この極めてクラシックなサンドイッチマンのおじさんに出会ったのである。日本からすると昭和20年代に銀座通りなどでもサンドイッチマンが闊歩していてサンドイッチマンをテーマにした流行歌などもあった。

なくなった。赤瀬川さんも若い時に新宿あたりでサンドイッチマンをやっていて、その時の経験を描いたものが非常に面白い。なくなった田村隆一の友人だった絵描きの原田も若い頃には同じ広告業をやっていて、赤い唇と言うキャバレーの呼び込みをやったそうだが、その時のアクションを再現してみると、もう完全にモダンアートの部類なのである。

それでアルマーニやら何やらのスーツが割引であると言うサンドイッチマンの広告がどれほど効果を与えるものかはかなり疑問である。だから、逆に考えてみると、このサンドウィッチマンが5番街のロックフェラーセンター前を流していると言うことそのものがパフォーミングアートとしてかなりレベルが高いと言う認識ができる。

いや実際にそうかもしれない。このプラカードに出ている。実際のアドレスにはバーゲンなどはなくて別の展示がされていたりしたらそれこそアートである。それで思い出したのは60年代終わりにオノヨーコなどが中心になってサルバドールダリもいいかとおもうけれども、ニューヨークのビレッジで公衆電話をバラの花で飾り付けて。そこからパフォーマンスとしてパリに電話をすると言うモダンアートのイベントがあった。

 そしてその状況を撮影しているのがアンディウォーホールの友人、ジョナスめかすなのである。そこで私が痛快だと思うのは、コミュニケーションの手段と言うものは、時代によって格段の差があると言うことだ。60年代後半のニューヨークからパリへの国際電話は、それが重要なのは、十分にモダンアートとしての存在感がそこに発揮されていたことにある。ただし、その背景にはサルバドールがいたり、洋子のがそこに関与しているのが重要なのである。

それから50年以上経過した2011年の土曜日の天候の悪い午前中の5番街をウロウロ歩いていく。正体不明のサンドイッチマンの方がモダンアート。私としてはレベルが高いのではないかと私は考えるのである。
0377名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/23(日) 05:56:24.26ID:lf+cJG6Q0
世界的な写真家リーフリードランダーの1番最初の写真集。セルフポートレートはあれは自費出版であったようだ。インターネットのない時代に調べて彼のアドレスにレターペーパーに書いたエアメールを送ったのである。折り返し返事があって送料込みの何十ドル高忘れたけれども、その金額をマネーオーダーで送った。

その後音沙汰がないので、2通目の夜メールを送ったら折り返し奥さんからと思われる女性の返事があってもうすぐ本が出来上がると言うことだった。だから私が大切にしている。弟写真家の最初の写真集は本人から直接手に入れたものなのである。

フリードランダーの相撲はニューヨークシティーだと思っていたらそうではなくてニューヨーク州ではあるがアドレスはニューシティーなのである。今のGoogleなんだ。それがどこであるかすぐわかるはずだけれども、私はあえてニューシティーがニューヨーク州のどこにあるかは調べていない。

1979年と言うから、私がザルツブルグカレッジでMITの学生に写真を教えていた頃に、グラーツの方でマンフレッドオイルマンとか古屋誠一が動き出してリーフリードランだと、ニューヨーク、近代美術館、写真部、朝のジョンを読んだと言うので、私も色めき立った。

リーフリードランダーの写真展が開催されて、トークショーがあって、その後に流れた酒場で私はツーショットを撮ってもらうと言う公園に恵まれたのである。
0378名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/24(月) 07:04:41.05ID:1NShW2/u0
家人はニックネームをつけるのがすごく上手い人なので、リーフリードラン、ダーの風貌をこの写真を見せたら、Tori kkoroと表していた。その目つきが鳥類に似ていると言うのである。それから10年近く経ってリーフリードランダーが来日しているときに、家人が外出から帰って面白いこと言った。

すなわち、この広い東京で新宿から赤い電車のメトロである。戸口線に乗って席が空いているので、そこに座ったら左に座っていた外人さんが下の里、フリードラン、ダー、すなわちTorri Moro であると言うのだ。

広い東京である。偶然とは言いながらすごいことだと思ってその翌日に私はリーフリードランで夜に会う予定があったので、その時の話をしたら、なぜ声をかけてくれないのかと残念がった表情をしていた。それはそうでもある。

大写真家は私より13歳年上である。ひょっとしたら昇天しているのではと恐る恐る。Googleで検索してみたら88歳の元気な姿が映っていた。なかなかいい感じの老人になったようで私も満足である。
0379名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/26(水) 06:59:10.68ID:sAgtA85Y0
日本で見た彼の伝記映画によると、ヨーロッパの労働者が来ている青い上着をそのまま着てたりで何かの授賞式に行った姿が出ている。ワイシャツにネクタイを締めているが、その上にブルーのジャケットでこれが決まっているのである。

パリに行った時、その真似をしようと思ってそのブルーのジャケットを探し回ったがなかなかなかった。2度目のパリ訪問の時にそれをどこで売っているかを知ったのは誰かのFacebookの書き込みによるものであった。つまりパリの市庁舎の向かい側にアメリカ人がお土産を買うのに、適当な6階建てのデパートのようなものがあって、そこで売っていると言う情報である。

6階建てのビルを上から下まで探し回って近い。1階にあった日曜大工のコーナーでこのブルーのジャケットを発見した。このブルーのジャケットはビルカニンガムだけではなくて、ジョナスメカスも来ていたので、これは自分にとって絶対必要だなと思って手に入れたのであった。

フルクサス運動のムーブメントを始めた。常時マチューナスは、ジョナスめかすと同じリトアニアの出身である。彼が自分で植えた小さな樹木がマンハッタンのブースターストリートで大きく育って、私が40年前、マンハッタンにいた時もすでに大木になっていた。

何かの理由で、その大木が切り、倒された時にジョナスめかすはその切り株に手を当てて黙祷しているのである。その時のジョナスめかすは、このブルーのジャケットを着ていた。
0380名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/28(金) 05:02:26.22ID:mrH29QzU0
2005年のことであると記憶するがエプソンが世界で最初に出したレンジファインダー方式のデジタルカメラの写真集を撮影するためにまずローマに行ったのである。春であった。

エプソンのデジタルカメラはまだ発売前であったと思う。それで実際に動くカメラが1台しかないのでそれが壊れると思うそれ以上の撮影はできないと言う状況でそういう危ない感覚が逆に撮影の気分を盛り上げたりするのである。

到着した日の翌日の朝からまだ慣れないエプソンのデジカメを持ってローマの市内を右往左往した。その時目の前でバイクが転倒する事故を見たのでちょっと嫌な予感がしたのであった。

その予感が当たってしまって3日目にエプソンの1台しかないデジカメは壊れてしまったのだ。露モードで1300枚ぐらい撮ったところであるから逆に困る事は無いのである。このときの感覚を分析してみるね1300枚といえば36枚撮りのフィルムで換算すれば約40本の撮影であるから充分撮影したと理解することもできる。

フイルムカメラで撮影が行われている時フイルムが終了してしまえばもうそれで撮影は上がりであるという考えができる。それに対してデジカメの場合は撮影の終わりと言う認識がそこには存在しない。だからカメラが壊れたと言うのはそこですべてのフイルムが終わったと同じことであると言うふうに理解した。

当時はいろいろなレンズをデジカメにつけると言う事はまだ行われていなかったのでその走りのようなところがあってライカのクラシックレンズのありとあらゆるものを持参したのである。最近ではヘンテコリンなブームがあってオールドレンズを片っ端からありとあらゆるデジカメにつけていい描写ですきれいな色ですなどと言っているようだけどあれはいただけないね。写真表現の見えない的を最初から見ていないと言う体たらくなのである。

改めて写真集を見ていろいろ感じたことを書いてみよう。バチカンのすぐそばの川の反対側にあるカフェである地元の人が集まると言うのではなくて観光客向けのカフェであってテラスに座ったら客は私しかいなかった。ビールを頼んだら一緒にお水が出てきたのが初めての体験だった。ドイツでもそんな変なサーブの仕方はしない。
0381名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/04/30(日) 00:56:59.98ID:xvXtCmyt0
1970年代に仕事を手伝った、美術評論家からカルバドスを教えられたのである。この蒸留酒はなかなか便利な存在であって例えばハードな仕事をしているときにWINEを脇に置いてがぶ飲みするのはこいつはアルコール中毒だと思われる。

一方で、コーヒーを前にして前に置いたカルバドスのグラスをちびちびやると言うのは、これは不真面目な風には見えなくて、むしろ仕事に熱中する度合いを高めているように見える。と言うのは、我々アルコールに耽溺している人間の勝手な言い訳であるのだが、コーヒーと交互に飲むカルバドスはなかなかうまい。

フルコースの最後にコーヒーでこの薬と言うよりもちょっとひねったところがレベルが上であると言う感じがする。そこら辺の具合を私はウィーンの美術評論家に教えられたのだ。思えば、こういうのが大切な美術教育ではないかと思うのである。ミュージアムのキュレーターが、美術の歴史について教科書みたいな馬鹿げた退屈な言葉を繰り返すのはあれは誰でも可能である。今のミュージアムのツアーガイドがまさにそれではないか。

ルフトハンザのファーストクラスに乗っているときに、食後にカルバドスを要求したら、ファーストクラスに蓄えがなくて、慌ててビジネスクラスにCAさんが走っていた。そんなこと黙っていればわからないのに、そこら辺がルフトハンザの正直なところで、逆に好ましく思った。

ファーストクラスのギャレーに関しては、いろいろな面白い話があって、これは日本航空のCAさんで実際に1,000,000時間乗務をした人から聞いたのであるが、ファーストクラスで開けたドンペリの飲み残しで手を洗うのだそうである。これはなかなかオシャレだと思う。飲むわけにはいかないと言うところであろうが、逆に日常生活でドンペリを飲むのは当然であるが、ドンペリで手を洗うと言うのはどんなお金持ちでもちょっとできないことであろう。
0382名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/01(月) 05:15:56.91ID:G1EofEtU0
壁の無人地帯の南側には、黄色い東ベルリンの路面電車が走っていて、そこが終点で電車はループを作ってまた元の方向に戻っていくのである。そこから手持ちの4 × 5インチのカメラでその光景を撮影したら、無人地帯の干支頭の中で何かきらりと光るものを私の視神経は感じた。国境警備兵が双眼鏡で、私の動きを監視している事はすぐにわかった。

そこの思い出のベルリンの壁を懐かしんで出かけたのだが、当たり前のことながら壁はなくなって南北に走る道路がそこにはあった。

これは、かつての西ベルリンの目抜き通りKu damの辺である。第二次大戦直後に西ベルリンの中心として常に東ベルリンよりも進んだと言う街の感じを演出していたのである。でも、東西ベルリンのが今のように2つになっていた時から1つに統一されてみると、やはりここら辺はベルリンの西の街はずれと言う感覚が強くなる。

それでも私などもそうだが、ベルリンが東西に分断されていたときには、この西の街はずれが文化の中心地であったから、そこのホテルに宿泊していたし、そういう習慣と言うものはそう簡単に変えることができないから、私も12年前の頃に習ってかつての西ベルリンのあたりに宿泊していたのだった。こういう習慣と言うものはそう簡単に変えることはできないのである。

かつての西ベルリンの目抜き通りに巨大なリボンが掲げられていて、その後は何のペイントもない白いトラックなのだ。そのコントラストが非常に不思議な感じを受けて、要するに縮尺が壊れた街の模型と言う感じがするのである。

そういう中、2年も前の1連の画像が仕事テーブルの脇に小さな引き出しが付いていることに。この間気がついてそこから出てきた。3枚のSDカードの中にこの画像が入っていたのはちょっとした拾い物だった。

それでよく見ると、その3枚のSDカードは小さなビニールの袋に入っていて、その袋には汚い文字で書かれた紙の切れ端が一緒に封入してある。自分で書いた汚い文字なのだが、それを見てBerlin 2011 と読めたのである。
0383名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/04(木) 12:31:58.49ID:plRHrU120
戦前のライツの会社が公式に作ったレプリカと言う意味で人気が高いのであろう。最近のライカの会社もやたら戦前戦後の生産中止になったレンズのレプリカを作っているみたいだな。

ここにあるのはサードパーティーが制作したカナダで作られた軍用のライカエム4のレプリカと言うわけだが非常によくできているので、本物と見分けがつかないと言うところがそれなりにアレなのである。

このカメラを持ってフィンエアーでリスボンに行こうとしたのは、十数年前のことだ。ところが、その頃アイスランドがどこかで火山が噴火して飛行するのが危ない状態になっていて、フィンエアーでヘルシンキに着いたら、その先は飛行機がなかった。

それで考えを巡らしてまずヘルシンキ等は1度も今後来る予定はないと思うから、私の人生で1回きりのヘルシンキ訪問をすることにして、その先のフライトはキャンセルしたのである。

そのことをFacebookに書き込んだらすぐヘルシンキにお住まいの遠藤さんと言う方から連絡があって、お友達になった。遠藤さんの父上は、著名なデザイナーであって、私がオリンパスの仕事をやっていた関係で、意外と近いところに存在する有名人なのである。

それでサブか何かで登場した。遠藤さんにいろいろヘルシンキのお話をお聞きしてついでに私の小学校時代の友人子宮の消息を知りたいと言ったら、30分で所在がわかったそうである。フィンランドは人口が少ないから国民総背番号ですぐわかると言うことなのかな?

それでわかった。小宮のメアドに連絡をしたらすぐ返事が来たのでこれからいっぱい飲もうと言ったら何でもヘルシンキから何百キロも離れたところに暮らしているのでそれは無理だと言う。それでも連絡が取れてよかった。

小宮と言うやつは、単に小学校が同じであると言うことなのだけれども、その後東京芸術大学のオーケストラを指揮するので、頭角を現して、それからヘルシンキの音楽大学に留学したのである。子供の頃は俳優もやっていて、吉永さゆりと一緒に赤胴鈴之助の薬で映画に出たそうであるが、それは見ていない。
0384名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/09(火) 06:28:30.86ID:ZVo7pJEA0
Paxは小さなカメラで作りもなかなかよろしい。それでネット上でいろいろ調べたのであるが、その来歴がよくわからない。以前ガラクタ屋さんの買取職人さんがコレクションとしてお店に展示してあったDan35と言う小さなカメラがあって、これは萩本欽一さんの親戚が作っていましたと言うお話だった。

ところがパックスゴールデンビューを調べていくと、別の会社に名前が変更されているのである。だから、この2つの製作所のつながりというのがうまく追いかけることができないのである。

しかし、考えてみれば別にカメラの会社の研究をしているわけではないのであるから、手元にこういうキュートなカメラがあって、それに35ミリフィルムを入れて楽しく撮影をすればそれ以上の事は私は何も期待していないわけだ。

このカメラにはマッチしたグリーンのエバレディケースがあるので、それを使えばよいのである。ところがネックストラップアイレットが切れているので、残念ながら使うことができない。それでガラクタを探し回って10年以上前にガラクタ屋さんで手に入れたリストストラップを発見したので、それをつけてみるとマッチングとしてはなかなか上出来である。

このリストストラップがなかなか仕上げが良いのであって、私の記憶としては確かオリンパスペンについていたものだと思うのだが、結構ヘビーデューティーなリストストラップであるから、重さの関係からすると、小型軽量なオリンパスペンにつけて使うと言うにはアンバランスである。

それで私が今計画しているのは、パックスゴールデンビューに適当な軽いリストストラップを探す。
0385名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/13(土) 18:20:26.14ID:SUKBPKZL0
明石さんは、この高校生は将来ライカを買うだろうから、それ用のストラップを安くしてやろうと思ったかどうかは知らないがその時に1本のストラップを1800円で譲っていただいて、そのうちの1本は紛失したら、もう1本は今でも所持しているのである。

写真家で初めて文化勲章を受賞した。田沼さんは、私の場合、木村伊兵衛さんの回顧録の中で、しょうもないアシスタントであると言うことを書いていたためにネガティブなイメージが強い。

それでも写真家で文化勲章を受賞したと言うのは、写真界全体の文化的レベルが上がったと言うことでは非常に嬉しいことである。何しろ大昔東京にデモの嵐が吹き荒れていた。当時、機動隊の親父に職務質問されて、どこの組のものだ?と聞かれて、女性写真の秋山組のものだと言うとあぁ体制側と言うので釈放されたりしていた。

もうこれからはデモで機動隊に職質される事はないと思うけれど、もしそういう状況になったら恐れ多くも文化勲章受賞者田沼組のものだと言ってやろうと思う。

それで、田中長徳研究科秋沢さんの資料で見ると、この木村伊兵衛をフィーチャーした対談は10ページもあると言うのである。何を話したのか全く記憶にないが、木村伊兵衛に関してならば本が1冊×位だから、そこら辺のさわりをちょこちょこっとお話しさせていただいたに違いない。

ところで、21世紀になってから東京書籍と言う教科書の会社で片岡義男さんのオススメでライカ関係の本を何冊か出したのである。その時の編集者さんが天皇陛下と同級生であると言うのにもびっくりした。それで私のライカの本の表紙には、ライカ使いの3大有名人であるアンリ、カルティエ、ブレッソン、木村伊兵衛、澤田教一の3人を使おうと言うことになった。

ブレッソンはマグナムからちょっと高かったけど、写真を借りた。澤田さんは奥様が無料で写真を使わせてくださった。それで私は交渉には関係していないが、天皇陛下の同級生の担当編集者さんの話では、木村伊兵衛のポートレートを管理している人々から断られたのだそうである。

木村伊兵衛を崇拝するあまり何か変な方向に肖像権が行っているようなのが非常に滑稽であった。
0386名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/14(日) 00:32:48.38ID:DFg2sKNx0
それで立石の駅の近くをテレビのクルーと一緒に歩いていたら、商店街の鰻屋のご主人がいきなりお店から出てきて私に挨拶をしたのである。街を歩いているといろいろな読者の方が声をかけてくださるのであるが、そういう皆さんはご職業が何であるかと言うのはわからない。それで立ち話をしているだけではわからなくて、30分ぐらいの立ち話をしていると大学の先生であったりオーケストラのバイオリン奏者であったり、誰でも知っている大会社の社長であったりするのでそこら辺も手品の種明かしみたいで面白い。

その立石の時は、ジェントルマンが出てきたのが鰻屋さんであるから、その方のご職業がすぐわかったと言うのは明快で非常に忘れがたい。そのまま20年位が経過して傍流写真同盟を数年前に作ったときに、その鰻屋さんのご主人が向田さんとおっしゃるのであるが、なかなか写真が素晴らしいので注目しているのである。

写真家向田さんの代表作はいくつかあるのだが、これもそのうちの1つでこのスナップショットが何が凄いかというと、まず我々の通常の頭で考えられる限界と言うのは後姿の女の子位のものである。ちょっと考えつかないのは背景がアンビュランスであることでさらに、現実の偶然性の方が、我々の貧困な想像力を超えている理由は、左側を行く典型人物が段ボールを携帯していると言うところが素晴らしい。

なぜこういうことを指摘しているのかと言うと、私の友人でもう昇天してしまった中川と言う写真家がなかなかいろいろな実験をやっていたのである。50年前には日本に外国人が数が少なかったので、例えばさんやのドヤ街で外国人が一升瓶をぶら下げて、ふざけながら歩いていると言うのを中川はイメージして、そういう事は現実にないから、実際に外人のモデルさんをお願いして一升瓶を持たせてドヤ街を歩かせたりしたのである。

私はそういう作り写真が嫌いだから、中川の写真のやり方に対してはいつも批判していたのだった。現実風景の方が、我々の貧困な想像力を遥かに超えていると言う実際の例をこの向田さんのワンショットに見る思いがする。
0387名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/16(火) 05:20:08.71ID:Ghp1/khU0
私の好きな映画、1970年代のベトナムを遠く離れてと言うのは、数人の映画監督によるオムニバス映画である。その中で1番良い仕事をしたのは、ハノイで北爆の中の兵士の戦いを描いた。ヨリス・イヴェンスの撮影したパートである。

一方で、1番ダメだったのは、山リュックゴダールがパリで映画撮影機の前で延々と言葉で語ると言うセクションである。ジャンリュックゴダールは、所詮は言葉の人であると言うことに気がついて、私は彼を見限ったのである。

北爆の現場を着たベトナムで撮影した。ヨリス・イヴェンスがすごいと思っていたらもっとすごい人が現れた。それはホーチミンルートを担当していた北ベトナム軍の高級将校である。彼がホーチミンルートを記録していて、それがハードカバーの立派な写真集となって、発刊された時に、私はハノイでその人にあったのだった。ー

ホーチミンルートの実態と言うのは、ほとんど写真に残っていないか、あるいはムービーの筆内でも北ベトナムのプロパガンダ映画として登場するだけであるから、実際の様子を撮影した写真が貴重である事は言うまでもない。

ホーチミンルートを戦っている兵士の姿が非常に軽やかで、何かサマーキャンプに来た学生のように見えるのも不思議な感じだった。それが不思議なのは、この1連の写真集のそこに写っている兵士が別にプロパガンダのための撮影ではなかったと言う背景によるのである。

そのホーチミンルートの表紙の写真がまた粋なものであって、若き時代の青年将校が首から東独生のExaをぶら下げて、高射砲のオペレーティングシートに座って思想正しくカメラを見ていると言うショットであった。

その青年将校がかぶっているスチールのヘルメットがなかなか気に入ったので、私はアメリカのeBayでその種類のものを扱っているところからほぼ同じものを入手して満足したりしていたのである。

それでいまだに不思議なのは、なぜこの人と意思の疎通ができたのかと言うことを長年考えていたのである。私はベトナム語がダメだし、かつての青年将校は英語をしゃべるとは思えない。
0388名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/22(月) 14:08:30.33ID:plKTLXir0
佃島の部屋にあるネスカフェの大きなガラスのコンテナの中に2枚の日本国発行の重が封入されている。1つは2000円札でもう一つが500円札である。家人がラジオか何かで聞いたらしいが、岩倉ともみのブルーノ500円札は昭和26年に発行されたそうだ。

500円のコインが登場したときの記憶は、どうも定かではないが、中学生高校生の時にこのブルーノ500円札と言うのはなかなか頼りがいがあった。1000円札等は高額バンクノートであるから俺が無いのである。

青い500円幸と言うのは、その後もかなりパワーを持っていて、1969年に練馬区の大泉学園に私が転がり込んだ時にもカジンガ近くのスーパーに買い物に行くときには、この青いバンクノートはパワーがあった。

1970年代のウィーンで暮らしていた時代に、田村隆一とお付き合いのあった絵描きの原田と言う人がいて、何かの時にウィーンでがんばっている田中と言うのがいると話したら、田村隆一は彼のポエムに青い500円札を挟んで渡してくれたらしい。それをウィーンに郵送したのは、田村隆一の友達の原田である。

田村隆一の書いた文章の中に、絵描きの原田というのが出てくるのがそれである。送られてきた500円札はそのまま40年も持ち越されて今、ようやく極東の佃島に戻ってきたらしい。
0389名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/25(木) 06:09:29.54ID:SNN9qnR80
アルミを削りだした。フィギュアのジェット戦闘機はウィーンの蚤の市で買ったものだと思っていた。ところが私のもっと古い記憶の引き出しから取り出されたのは、数年前にコロナで亡くなったプラハの友人がこのフィギアを見て、これはかなり腕のある工員が暇なときに、手遊びに作ったものだねと言うフレーズが思い出された。

だから、このフィギュアは、ウィーンの蚤の市ではなく、プラハのどっかの場所で買ったものである事は確実だ。

もう一つの16ミリのスチールカメラのほうは、これは大阪芸大で写真を教えているときに手に入れたものである。でも大阪のカメラ屋さんで手に入れたものではなく、オークションで手に入れたものである。甲南カメラ研究所というのがあって、これは後のミノルタカメラなのである。しかし市販のカメラがアルミ製なのに対してこちらはステンレスで作られているから、その存在感が比較にならない。

この2つの小さなオブジェは、その質量はたかが知れたものであるが、金属としての存在感が非常に高いというのが魅力になっているのだ。

16ミリのムービーカメラではなく、16ミリフィルムを使う。スチルカメラと言うのはなかなかその存在感が魅力的であるが、実際にはなかなか使いこなすことができない。私の持っている数多くのカメラの中で16ミリを使う唯一のスタイルカメラで、実際に写真を撮影しているのは、イタリアのミラノで作られたGami16のみである。

このイタリア製のカメラのアウトフィットは望遠レンズとか現像タンクとか各種アクセサリーを全部持っていて、それをプラスティックバックに入れたままどこかにしまいなくしてしまって。4年が経過したのである。いまだに発見できないのが残念だ。
0390名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/26(金) 01:52:18.93ID:v/VRzKgk0
2つ目のシリーズがこの1連のカメラであって、斜め40事から一眼レフファインダーを覗くようになっている。そして同時にフォーカシングを補助するために上と下に設置されたバーチカルタイプのレンジファインダーを装備している。ただし、一眼レフのシステムの精度が高いので、これはほとんど利用することがない。それでこの斜め40頃からファインダーを覗くシステムはすぐに縦型のレンジファインダーは廃止している。あまり実用性がないとカメラメーカーが理解したのであろう。

こういう丸っこいスタイルの素敵なエバレディケースがあると言うことを知ったのはかなり後になってからである。それでニューヨークから手に入れたのであるが、カメラケースとは思えないほどの高い値段であった。面白いことにこの丸いケースに入れると、カメラワークが向上するような感じがするのは、もちろん気のせいに違いないけれども、写真撮影と言うのはそういう心理的な部分もかなり重要な要素である事は否定できない。

純粋のアルパレンズは、スイス製のマクロレンズと言うことになっているが、私はそれは持っていなくて使うのはマウントアダプターを使用してエム42とか各種のレンズを使うのである。しかもなるべく地味なレンズがこのカメラには似合う。
0391名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/30(火) 05:21:26.83ID:zHKuyMPj0
私の写真はストレートフォトグラフィーであると言う認識が20歳の頃からあったから自分の写真を印刷するときは1ページに1枚で周囲に大きくマージンを入れて印刷を支持するというのが普通のやり方であった。

松岡正剛さんが1970年代に出版した意欲的な写真集にオフというのがあるがそこに私は2回ほど作品を掲載している。その時のレイアウトの指示も画面の周囲に白いマージンを入れてくださいと言うものであった。

1982年から1年ほどニューヨークでMuseum of Modern Artで現代写真を研究したわけだがその頃から私の写真を印刷するときの自分の意思の方向というのが少しずつ変わってきたことがわかってそれが面白かった。

何が変わったかと言うことを手短に言ってしまえば写真を印刷するときに活用画面をカットしてでも大丈夫と言うような視神経のフレキシビリティーがそこに生じたのである。

それともう一つは見開き写真を印刷することに対するこれをストップしようとする意思が希薄になったと言うことである。見開き写真と言うのは迫力があって画面が大きいからそれを観察するものはあたかもその映像世界の中に自分が取り込まれたかのような錯覚を感じるものである。

しかしそれ以前の私が写真の印刷のレイアウトに対して考えていた事はあくまでも画面全体を複製して周りにマージンを入れると言うやり方であった。そういうポイントからフレキシビリティーを自分自身が獲得したその理由と言うのは未だにわからないが方便としてドラマチックな見開き画面も受け入れると言うようになったのは自分の視神経が成長したのか、あるいは堕落したのかそこら辺は不明である。
0392名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/05/31(水) 00:17:37.55ID:EFIXpHaF0
10年近く前になるが、ニューヨークタイムスのオンラインのウェブマガジンがあって、そこに若い頃から晩年に近くなったロバートフランクのいろいろな写真が掲載されていた。

ロバートフランクがなくなるちょっと前にフランクがよく滞在していたノバスコシアから石を拾ってきたニューヨークのアーティストがロバートフランクのアドレスは知っていて、何曜日の午後の何時ごろに窓から外を見ていると言う情報を知ったので、そのアーティストはノバスコシアから拾ってきた石を差し上げて声をかけたら、天才写真家は今降りていくよと言うので、本当に降りてきたのである。

その時の短いムービーは、なかなか私の心を揺さぶるものであった。Lowerイーストサイドの小さな椅子に座って天才。写真家は通行人にこんにちはと声をかけるのである。

私から見ると大変なドキュメンタリームービーだと思うけれど、声をかけられた通行人は90代の変なおじいさんと言うふうにしか認識がない。丁度、木村伊兵衛名人が、日暮里の島下では単なるおじいさんであったが、よく聞いたら大変な写真家であったと言うのと同じ位である。

そのニューヨークのアーティストがロバートフランクに会って、彼が急な階段の手すりもないところを注意しながら上っていく後ろ姿というのが非常に良かった。

黒川紀章設計の中銀カプセルタワーであるが、あれは黒川先生が20歳代に作った建築物であるから階段に手すりがついていないのである。足掛け3年ほど中銀カプセルタワーで仕事場に使っていた私であるがちょうど1年前中銀カプセルタワーが取り壊しになる前に、黒川先生の息子さんに会って、いろいろなお話聞いたのである。

彼と別れて近くのエレベーターに行く時に私が気がついたことだが、螺旋階段めいたステップには手すりがついていないことに気がついた。10年前、ここで仕事をしていた時は、そんなことに全く注意を払わなかったのであるが、私の足元の怪しいと言うことにその時初めて気がついたのである。

ロバートフランクのマンハッタンのアパートメントの急な上り階段に手すりがついていないと言うのは残酷なことだと思った。
0393名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/06(火) 01:54:03.77ID:yKcQ4gzk0
私の周りの連中がエジプトのカイロが面白いと言うので、カイロに行ってみた。私の周りの連中が回路が面白いと言うのは、普通に車で移動して、それで面白いと言っているのだが、私の場合は、そこを全部歩いてみようと言うのである。

結局2週間の改良滞在の間にバスも電車も1度も使わなかった。唯一の例外はギザのピラミッドに行く時だけ電車を使ったのである。歩いていて困るのはもともと回路は何千年も前の古い街であるから、細い道から細い道をつないで歩いていくと、街の端から端まで行けるようになっている。

ところがつい最近の数百年前に新しい幹線道路を作ってしまったので、これが非常に不便である。路地裏を歩いてどんどん行くと、いきなり道の先に巨大な道路が現れて、それを横断歩道橋で渡らなければならない。要するに、古代のエジプトのカイロの人間の運動方向を近代の巨大な道路が全て古代の人間が歩いていた細い道を通せんぼして邪魔してしまうのである。

アラブのカフェでは、酒は売らないがそのかわり巨大な宇宙飛行士の酸素ボンベみたいな水、タバコの装置がある。それがずらりと並んでいるところがなかなかダイナミックである。私も水タバコを勧められたが、それは遠慮した。しかしあちこちで飲むいっぱいのお茶はなかなか香りが高くてすばらしい。

私が歩行するルートは台風決まっているのであるが、通りがかりのカフェにいきなり飛び込むと言うわけではない。全体の歩行のスケジュールを見て、次はあのカフェで一休みしようなどと考えながら撮影しているのである。こうして2週間の滞在中に、自分の撮影のルートができてくるわけだが、その全ルートの間に3つ

私が歩行するルートは台風決まっているのであるが、通りがかりのカフェにいきなり飛び込むと言うわけではない。全体の歩行のスケジュールを見て、次はあのカフェで一休みしようなどと考えながら撮影しているのである。こうして2週間の滞在中に、自分の撮影のルートができてくるわけだが、その全ルートの間に3つ休憩用のカフェができると言うわけだ。

お茶大はどこでも1エジプトポンドであるが、最初に行った時は私がチップのつもりで5ポンドを渡すとそのウェイターは私のことを記憶しているから、その次行ったときにお茶大和5ポンドであると言うのである。それは向こうがこちらを認知してくれた友情の印であるから、私は5ポンドを支払っている。
0394名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/07(水) 07:42:27.37ID:BHGhAFIJ0
観光旅行で行った古い友人の野々宮のお話によると、カイロではアルコールも飲めますと言うのであるが、それは飲み屋が5つ星ホテルに泊まっているからであって、我々普通の人間の宿泊するエジプト人ばかりの止まる。商人宿ではアルコールは置いてないのは当然の話である。

モスクワ空港で1本のウォッカを買ってカイロで行ったのはいいが、そんなのはすぐなくなってしまう。それで街中を探してもアルコールが全く見つからない。グランドバザールをうろうろしているときにいきなり目の前に動かのビンが見えたのでこれだと思ってその店にダッシュしたら何の事は無い。

自転車の修理屋さんが油を自転車にさすときに使っている油を入れているビンが単にウォッカのガラス瓶であったと言うだけだ。

ファンタは売っているから、それを買ってきてホテルの部屋で水道の水で割って飲んだら面白いことに人間と言うものはノンアルコール飲料でも酔っ払うことができると言う大発見があった。すべての生き物の母である来るの。川の水を飲んでいるわけだから、私が滞在中に飲んだのは、ナイル川が水が干上がるところまではいかないであろうが、けっこうな量であったと思う。

それで毎日夕刻にこんな感じで、ホテルの部屋からナイルの水辺を見ながらファンタオレンジをナイルの水で割ったやつを飲んでいると非常に幸せな気分になる。

パリにいる時などは、ヴァンドーム広場のすぐ裏の三ツ星ホテルに泊まっていて、広場を渡って五つ星ホテルに行ってそこの場で飲んだりすることが普通なのだが、帰る滞在中はそういう汚い手を使うのはやめた。アルコールを摂取しないということがそのまま私にとってはカイロに滞在する意味を深めているからである。

カイロ滞在も半ばになると状況がわかるようになってきて、いろいろなテクニックを覚えたニューススタンドでノンアルコールビールを売っているのである。これはファンタオレンジをナイルの水で水割りにしたよりもリアルなアルコールに近いのでこれを飲んで酔っ払ったのである。
0395名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/08(木) 07:40:01.12ID:L+rK2GqE0
1966年日大写真学科の1年生の時にニコンエフにニッコール2.1センチのレンズをミラーアップしてノーファインダーで東京を斜めに横切ると言う撮影方法はウィリアムクラインの写真集から勉強したものである。

その当時写真同人社と言う出版社があってそこから新しいカメラ雑誌カメラ時代が登場した。非常に真面目な編集方針のカメラ雑誌で毎月のメインはその当時の著名な写真家の特集だった。いい加減なカメラメーカーの提灯記事などがないのが今思うと立派である。

私はどういう理由か知らないけれども12冊データ内の6冊ごとにほぼ毎月8ページの東京のモノクロシリーズを掲載していたのである。これがミラーアップした2.1センチレンズで東京を斜めに横切るのがいいんだと言うやつだった。    

カメラ時代は若い写真家のためのコンテストと言うのを開催してそれは賞金がついた当時としては結構立派な新人募集のコンテストだった。私はそこに応募してタイトルは楽園と言う30枚位の作品だったと思審査員は東松照明と奈良原IKKOそしてもう1人は名前を忘れてしまったが写真評論家だった。  

結局新人賞を獲得したのは土田ヒロミだった。ところが面白いことにその審査結果を録音したテープレコーダを私は聞かされたのである。審査そのものではなくて編集者がその後に話した感想なのである。普通はそういうものは絶対に応募者には聞かせないものだからどういう背景があったのかわからない。

編集者の発言によると、東松さんが強烈に支持したのが田中長徳で。と言うのである。しかし結局多数決で決まったと言うような話であった。

その新人賞は取れなかったがこのテープを私に聞かせた編集者のバックグラウンドはわからないけど今では感謝している。それ以来私は東松さんになんとなくポジティブな印象を感じるようになったからだ。
0396名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/09(金) 05:34:15.96ID:hUdLy0o70
1950年代の終わりにヤシカカメラがニッカカメラを買収した後にダブルネームのブランドで出した高級レンジファインダカメラ。ただしアメリカではニコンSPの半額以下の値段で売られていた。

このカメラの魅力は、トップのレバー巻き上げがカメラの裏側に隠れているのだが、この巻き上げ操作が意外とやりやすいこと。それとシャッターダイヤルのスタイルがご覧のように不思議な格好をしているのである。数多くのカメラを見てきたが、このような昔のブラウン管みたいなパンプキンタイプのフォルムと言うのは、シャッターダイヤルとしては他に見たことがない。

だから、他のシャッターボタンとシャッターの押し加減に関する比較と言うのはできないのであるが、ライカのエム型と同じ位に、あるいはそれ以上にシャッターリリースの瞬間がよくわかる。シャッターボタンであると言える。  

それと、トップカバーの手前に何やら横に広がったエンブレムみたいなものがあり、その中にニッカのロゴマークが入っているのも、外に見たことのない不思議なデザインである。面白いのはこのカメラの操作に慣れてくると、この横向きのフィンガーチャンネルみたいのは、指係階送っていないとカメラの方向を設定するときのバランスとして有効であると言う点だ。

カメラをハンドリングするときに、フィンガーチャンネルと言うのはなかなか重要なファクターであるが、フィンガーチャンネルは上から下に付いているのである。ところがこのフィンガーチャンネルは角度が90度展開しているわけだが、それでも慣れるとカメラの方向をハンドルするときの助けになる。外に似たような出っ張りが付いているカメラと言うのは見たことがないので、非常に珍しい。
0397名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/10(土) 07:38:34.15ID:VVX7Nscu0
亀戸駅北口から都営バスに乗って日暮里まで行くと言うのは結構長いバスの路線である。その中でかなり興味がある。バスの窓からの風景がこのショップであった。

京島の商店街を左に見る。そのちょっと先の進行方向からすると亀戸から出た。左側の窓に瞬間的に見えるのがこのテイクアウトショップである。もともとこの辺に興味を持つようになったのは、坂崎幸之助さんの実家の酒屋さん武蔵野商店である。何度か通って雑誌の取材のために、福田和也さんとそのカンパニーの皆さんをお連れしていたこともあった。

ところで、このテイクアウトショップ交差点であるが、私がこの店の存在に気がついた時は既に閉店していたばかりか、おそらく閉店からかなり時間が経っていたものと思われる。

その古びた看板に私は惹かれているわけであって、その印象を一言で言ってしまえば、アルタミラとかラスコーの壁画に非常に近い存在感があると言うことなのだ。実際この古代のテイクアウトショップの壁画はワクワクする。

そういう素晴らしい看板建築を1人で見るのはもったいないので、友人知人を誘ったりあるいは私のワークショップでこの場所に行って参加者を関心させたりしたものであった。ところで非常に困るのは撮影ポイントの問題なのである。ベストな撮影アングルと言うのは都営バスの窓から見た。はいアングルなのである。ところが我々歩行者の目の高さと言うのはそれに比べるとかなり低い。

しかも、テイクアウトショップ交差点は、実際の交差点の良い時よりもかなり右の方向にずれているのだ。だからバスから見た風景をうまくカバーするためには、横断歩道の歩行中になるべく両手を高く上げてはいアングルで撮影する必要がある。それでもバスの窓の高さには及ばないからそれは仕方がない。

最後にワークショップをやって皆さんをお連れした時は、この建物そのものが既に存在していなかった。こういうのは本当にショックだよな。
0398名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/11(日) 00:39:00.40ID:KB2zJdUU0
パックスと言うのは非常に小型な35ミリレンジファインダカメラである。1950年代半ばのものだと思われるがそういうイメージがあると日本の進駐軍のアメリカ映画お土産に持って帰ったと言うイメージが強すぎてこれがマイナスになっている。

実際に手にしてみると非常に緻密な構造になっていて充分実用に耐える。なかなか大人のメカニズムだと思うのはセルフクッキングになっていないと言うことが素晴らしい。こういうカメラはすぐにセルフクッキングにしようと考えるのであるがそれをあえてしなかったと言うところが偉いと思う。

ゴールデンビューと言うモデルはカメラ全体を金色にしたものであってスーベニール的な存在感があるがカメラ全体が小柄なので嫌味にならないところが取り柄である。

このカメラの素晴らしいポイントはカメラの裏蓋にかなり緻密な感じのエンボス加工が施されているところだ。日本の同じ時代のカメラで高級カメラであったところのニコンもキャノンもカメラの裏側にエンボス加工はついていない。世界的に見てもライカカメラにもエンボスはしてなくて、カールツアイスのコンタックス位がエンボス加工のしてある例になる。

^_^その意味で考えるとこの極東で作られた小さなカメラは世界のトップクラスのコンタックスと肩を並べられるだけの存在感を持っているわけだ。
0399名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/16(金) 07:05:01.31ID:xObgrrIO0
松岡正剛に初めて会ったのは彼の出版社がまだ池袋東口にあった頃だ。私はプリントを大きなアルミニュームのスーツケースに入れて音羽の家から松岡正剛の事務所に行ってそれを見せたら、アルミのスーツケースで写真をたくさん持ってきたと言うことで彼はそのことを口に出してびっくりしていたのである。

それで面識を得て彼が全部で2冊出版した写真集のそのどちらでも見開き2点で写真を掲載している。

最初の写真集は1970年に出たと思う。2度目のシリーズは1973年だったかな。というのも私はウィーンで撮影した作品を送っているからだ。

ヨーロッパから戻ってきたら、松岡正剛はその方面の大御所になってしまったので、何か違和感を感じるようになった。それでお付き合いはなくなったのだけど、六本木ヒルズで置いてある本の中に彼の膨大な書評が全部で10冊の分厚い本になっているのを見て、それを時々利用するようになった。でも、これはオンラインでも読めるからだからどうと言う事は無いのだけれども、私が松岡正剛から教えてもらった事は、オンラインのテキストが存在する以前のペーパーに印刷された時代の文章の存在感と言うものなのだ。

それで写真集をoffに掲載された。このショットの話になるが、ライカM3にニッコールの5センチF2をつけて銀座の路地裏を歩いていたらレンジファインダーだから一眼レフと違って、光の状態はコントロールできないのに現像してみたら、こういう光のシャワーが写っていたので、これは写真表現の入り口になるのではないかとちょっとした発見だった。私の20代なのである。
0400名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/18(日) 12:26:14.17ID:H0MsXDMc0
大昔ドイツのどこのホテルか忘れたけれどもそれほど大きくないホテルで受け取った部屋の鍵がブランド品であった。すなわちカールツアイスなのである。

あれはフランクフルトのホテルだったかな。それで金物屋さんに行って聞いてみて同じブランドの鍵を手に入れたのである。こういうのは手に入れるともうそれで満足してしまうからパッケージに印刷されたブランドネームを見て満足したのだった。

それに関連してフランクフルト中央駅のソーセージを売っている立ち食いスタンドをよく見たらそれもZeissとなっている。要するに普通のドイツ人のファミリーネームなわけだ。

それでカールツアイスブランドのソーセージを買って包み紙を多めにもらって日本に持ち帰ってお土産で配ったらカメラ人類の人は喜んでくれた。

ところでウィーン時代のアパートメントの部屋の鍵であるがとにかく何十年も前に作られたものなのでシリンダーにかなり癖がある。これがwin暮らしの大切なところで鍵を騙しながら回転させないと動いてくれないと言うところがある。

朝日新聞で9000回以上連載を続けているののちゃんの今日のテーマがまさにその鍵の話でおばあちゃんが突っ込んだ鍵が回らなくなったらそのあっち側にお父さんが閉じ込められたと言う話なのである。

ののちゃんを書いている人はウィーンに住んでいたことがあるのではと考えてしまった。懐かしいねぇ。
0401名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/19(月) 05:30:01.38ID:XPJWAfN30
日本軍が作った滑走路があって、ATRのターボマシーンが着陸できる。ところがディエンビエンフーは自分の街をもっと大きく見せたいらしくて、街の中心部にある巨大なツーリストのための看板には、そう発のジェットプレーンが離陸しているイラストが描かれている。

実際に空港から川を渡ったところがすぐ中心部でそこに産業センターみたいな3階建て位のビルがあって、その向かいに並んでいる町並みを移したのがこのショットである。そこにはちゃんとアップルも存在するのが現代的な都会の風景と言うわけだ。

ハノイの中心街を歩いていて、ホーチミンは今でもバンクノートにその症状が使われているから大変な権力者であるが、中心部の雑踏の看板の中に、何やらホーチミンよりも独裁者を感じさせる。風貌の巨大なポートレートを見つけて誰かなーと思ったらこれがスティーブ・ジョブズなのである。

ディックデーターとしての存在感は、現代世界ではスティーブジョブスがダントツだと思う。

ディエンビエンフーのメインのストリートと言うのは、東西に走るせいぜい長さが300メーター位の通りであって、その東側は小さなロータリーになっていて、その先には長い階段があって、山の上には独立記念等のようなものがある。

結構きつい。階段を上まで登って持参した。雷家に着いた。135ミリのレンズでディエンビエンフーの街の全貌取ろうと思ったら、あまりにも町の規模が小さいのでちょっと拍子抜けしてしまった。アルザスの山の中にある小さな村と言う感じの街の大きさであった。

フランス軍が最後まで抵抗した人事と言うのは、街の中心部から川を越えて500メーター位西に行ったところにあって、ここはベトナムで最も有名な歴史的モニュメントなので、いつも来訪者が絶えない。

ディエンビエンフーの空港のファイナルアプローチのエアラインのすぐ下に存在する。私がそのポイントに撮影に行った時はハノイから来た中学生か高校生がいて、私がホーチミンに似ていると言うので、ずいぶんたくさん記念写真を撮影されたのもちょっと懐かしい。

体重がちょっとオーバーしたホーチミンと言うわけだ。
0402名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/21(水) 06:23:12.30ID:NoZzqobY0
私の祖父は、街の発明家と言う触れ込みで、昭和30年代には結構有名だった。劇場で上映されるニュース、映画の日マネ山に出演したこともある。その当時は万年筆の小さな工場を経営している映画ニュースが取材に来た時は、音羽の通りに電源車が止まって、そこから長いケーブルで路地の奥の木造2階建ての家までケーブルをつないでパルボの撮影生で撮影したのだから、時代が偲ばれる。

さらに、これはニュース映画のヤラセなのであるが、家族総出で万年筆の仕上げをやっていると言う子供に労働をさせることが何とも思われていなかった時代であるから、私も嬉々として万年筆を磨くふりをしていた。

その時にパルボカメラを撮影していたアシスタントの人から35ミリのフイルムの切れっ端をもらったので嬉しかった。私は文明堂のカステラの箱をパルボのカメラに見立てて手回しの映画撮影機を自分で作ったりした。

万年筆家をやる前の祖父は、パナマ帽子に目をつけて、当時はその素材は高価であったから、パナマの原材料の代わりにペーパーの似たような素材で偽物の花間を作って、これがまたどっかの団体に表彰されて、その時の感謝状だか表彰状が部屋に飾ってあった。

シリコンクロスも作っていて、ケイ素で作られているからKei布と言うブランドで、色は黄色で西陣織の立派なタグが付いていた。そのシリコンクロスの宣伝のビラには、ウィンストンチャーチルが登場しているから、当時は著作権も肖像権もあったものではない。

2009年の5月にスペインのマラガに行った時にパナマ帽子を買ったのである。あっち方面はパナマ帽子の本番である。それで夏などは軽石風通しが良いから愛用した。

札幌の今井さんから高級なコラプシブルパナマをもらった時は嬉しかった。普通のパナマは折りたたむことができないけど、コラプシブルパナマは折れた。ポケットに入れられると言うところがメリットではあるが、もちろんそのような事はもったいないからしない。
0403名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/06/25(日) 04:30:21.76ID:xu8210yB0
カメラジャーナルと言う8ページの月刊誌は1993年にできたとこの50個限定のフォクトレンダーのカメラのレンズキャップに書いてある。ちょうど今年で創刊30年になるのか。なかなか感慨深いな。

実際にカメラジャーナルが発行されていたのは10年間だけであったが、後半の3年間はページ数が増えて記事が足りないので編集長から依頼されて佃日記と言うのを書いた。それがそのままオンラインになって今でもカメラノートで継続しているわけである。

当時はハリネズミがカメラジャーナルのキャラクターであって、このフォクトレンダーカメラの限定盤も、おそらく創刊100号とかそういう区切りの時に作られたものだと思う

このハリネズミ画像は、Facebookあたりで発見したものだけど、その説明によると、カメラの個体は南米にまで行ってそこから里帰りしてきたものらしい。何か凄いね。

四半世紀前にヨーロッパに取材に行った時など持参するの笑日であったが、もちろんフイルムカメラであって、何か開花に事故が起こっても、ヨーロッパのあっちこっちにあるカメラ屋さんで、コシナの一眼レフが手に入るから、カメラが壊れても心配ないと言うような安心感があった。

ハリネズミバージョンの記念モデルとして思い出すのは、他にも英国製のカメラのショルダーバッグをやはり限定版ひゃっことか作って、そこにハリネズミのマークをつけた。

サイン会などでお客さんからリクエストされて、サインの文字のほかに、ハリネズミのイラストをたくさん書いたこともあったな。お客さんで、当時はハリネズミがまだブームになる前であったので、あのオコゼを書いてくださいとか、例のイグアナを書いてください。などと言われたこともあったけど、私は別にそんなことでは起こりません。

我が家のハリネズミが昇天したのは、1988年の12月24日のことであるからもうずいぶん前のことになる。それでアメリカ海軍の例を習って。1台はすみだ川に流したのである。あれから何十年も経過したけれど、私が見る隅田川の流れと言うのは何となくハリネズミ臭いのである。
0404名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/03(月) 03:14:34.91ID:V+x5JHzx0
ウィーンに暮らしていた1970年代に近くのカメラ屋さんで500円ぐらい払って手に入れたのが1938年版のコンタックスとそのカメラと付属品の総合カタログみたいなものだった。

コンタックス2型と言うクローム仕上げのカメラは、当時の最高級モデルであるが、そのカメラを歌うんグレードをしたのがNetaxと言うモデルで、これは50ミリの標準レンズと105ミリの望遠レンズが交換できて距離計に連動するのである。

その総合カタログのドイツ語を細かく読んでいくと、小さな文字の羅列があって、専用のレンズマウントアダプターをつけるとテッサ2.8センチの広角レンズが使えるとある。その当時あぁそういうものかと納得したのであった。

ウィーンの暮らしを終えて、極東に戻ってきて、十数年経過してようやくNetaxが手に入ってそれを使うようになった。しかしウィーン時代の総合カタログの刷り込みが入っているから、レンズ交換は専用マウント以外できないと考えていたのである。それは総合カタログにちゃんと説明されているから当然の理解の仕方だと思っていた。

それから20年位が経過してある時Netaxのレンズを外してそこらにあるコンタックス用の外爪バイオネットのレンズを無意識につけてみて驚いた。ちゃんとつけることができるのである。このショットがその時のびっくりした記念写真である。

要するに、戦前の総合カタログでは、テッサ2.8センチをつけるためにはマウントアダプターが必要と書かれていて、そのカタログ番号もちゃんと印刷されている。ところが何の苦労もなく、いきなりテッサ2.8センチがカメラ本体についてしまったわけだ。

その謎はそのままにして今に至っているわけである。
0405名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/05(水) 06:11:13.89ID:dzgAW2sE0
Winで暮らしていた当時の1970余年と言うのはやったら雪の降る冬だった。ここは非常に冬の寒さが厳しいのであるが、行が降るときはそんなに寒さを感じないのである。雪の降らない時は本当に寒い冬であって、私のアパートメントのすぐそばにあったドナウ運河が凍ったりしたことも1回だけあったと記憶している。

それでこの雪を半分かぶったアヒルのショットであるが、遅くまで友人の家でワインをしたたかやって帰ってくるときの路面電車の乗り換えで、目の前にこの雪のアヒルが止まっていたので1枚だけ撮影をした。

この1枚だけ撮影というのが結構重要なことであって、その時のネガフィルムを見ているとこれを撮影した後、私は大通りの地下道を潜って、反対側の路面電車の停留所まで歩いて行ってそこの前後関係も1枚ずつ撮影されている。

ドイツ語圏では、この車はニックネームでアヒルと呼ばれていた。だから、それを運転している人はアヒルの運転者と言うことになる。でも、オーストリアはアドルフを生んだ国であるから、フォルクスワーゲンがメジャーな車であって、フランス製のアヒルなどはちょっと変わり者が乗る車と言うような認識だった。それでもアヒルは、ウィーンの街角を元気に走っていた。

それから50年経過してみると、Facebookで私の友人が東京のここでシトロエンのアヒルを見たと言うような目撃情報が上がってきて、つまりアヒルを見ること自身がイベントというかニュースになってしまっていることがわかった。

こういうブリキで作られた車は車検等も大変であろうと思う。実は私はこのアヒルのほうのシトロエンは乗ったことがなくて、ヨーロッパにいた時はちょっとだけDS日には乗ったことがある。これも面倒な車であったが、腰をあげるときの油圧で車高が高くなっていく感じが、ラクダに似ていておしゃれであった。
0406名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/06(木) 11:21:34.72ID:i4eVqks60
猫の中田さんが雑司が谷方面は詳しいのである。その中田さんがFacebookにアップしていた記事で、紙兎ロペのフルーツ屋さんがラーメン屋さんになっていると言う書き込みがあった。

私は東方シネマは見ないし、富士テレビも見ないので、ロペに感染したのは後期高齢者になってからだから症状が非常に重い。このシリーズは2011年にスタートしたそう。だから、その時私は3月11日の東日本大震災の時に、マンハッタンに撮影に行っていて、あちらであたふたしていたのである。

雑司が谷の街の構造を完璧に知るためには、30年かかったのである。同じ位複雑な街並みと言うのはポルトガルリスボンのα間であるが、こちらは大体15年位で街の全貌が明らかになった。

フジテレビでやっていたドラマか何かでこの角地のお店が八百屋さんであったと言うのは事実である。そのこともドラマは見ていなくて、中田さんからのインフォメーションでしたのである。

それで、つい最近に中田さんがアップしたのがこの上の画像であって、フルーツ屋さんがラーメン屋さんになったと言うので、驚いているショットだ。

中田さんの書き込みによると、この角地のお店は最近ラーメン屋さんになったと言うので、私は街角の店舗のアピアランスを見ると、意外と正確に場所を当てることができるのであぁそうかと納得したのである。

1年位前のまだ寒い時期の日曜日だと思うけれど、このフィクションではラビットフルーツのお店がラーメン屋さんになって、そのラーメン屋さんに入って、日本酒いっぱい飲んでラーメン食べた記憶がある。

こういう本末転倒のオリジナル現場に信仰心を持ってピルグリムと言うのを私などは馬鹿にしていたが、そのことが自分の身の上に起こるとは思わなかった。5年位前に四谷の高台にある須賀神社と言うところにやたら若い連中がたくさんいるので、それが不思議で神社本町の若いボランティアだと思っていたのだが、同行者が説明してくれるところによると、ドラマの舞台ね。この神社が登場したので、それで若い連中が右往左往しているのだそうである。

ロペのお店で出されたラーメンはおいしかった。もともと腕組み系ラーメンを食べない主義なので、街中ラーメンと言う存在感である。考えてみたら、最後にガストロノミーでラーメンを食べたのがこの店だったのだ。
0407名無CCDさん@画素いっぱい
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2023/07/09(日) 05:19:34.43ID:F9kl1AU60
基本的にフリーアドレスなので、どこに座っても問題ないのであるが、それぞれ野生動物と同じで自分のテリトリーを設定したくなる。それで私はいつもこの席に座ることが多かった。地上に100メーター以上はあるので空気が希薄である。それは慣れてしまうのだが、10年間も入るとやはり希薄な空気で私の思考がかなり鈍化していたのではないかと言う気がする。もともと頭の回転が悪いのが地上200メートルでさらに加速されたわけだ。

座っていた椅子はアーロンチェアなのだが、数が多くないのでこれも争奪戦となった。

ヒルズができたのと同時に50階にあるヒルズクラブのメンバーにもなった。会費が高いからその分メニューは若干安くなっているのであるが、ヒルズのクラブだからやっぱり高いことには違いない。六本木ヒルズと言うのはやはりランチ難民になる。コンビニは1つしかない。それで仕方ないからクラブに安いランチを食べに行った。

あんまり代わり映えのないランチを毎回食べると言うのも退屈なものだが、ヒルズができた頃はまだ珍しいのでいろいろなお客さんが来たのでそれで結構喜んでくれるのはありがたかった。

10年位国で仕事をしていて座した本は20冊以上になるから元は取れていると言うべきであろう。しかも私のライカ本の話はだんだん現実離れしてきて、目の前に見える東京タワーがツェッペリンの飛行船のするになっていて、日本に最初に流されたライカがその飛行船に乗っていると言う馬鹿げた話も書いた。

10年位国で仕事をしていて、雑誌した本は20冊以上になるから元は取れていると言うべきであろう。しかも私のライカ本の話はだんだん現実離れしてきて、目の前に見える東京タワーがツェッペリンの飛行船の停泊するタワーになっていて、日本に最初に輸入されたライカがその飛行船に乗っていると言う馬鹿げた話も書いた。

こういう馬鹿げた想像力と言うのも、やはり気圧が低いと言うことに背景がありそうだ。

ちょうど10年間六本木ヒルズに通ってそれで卒業したのである。それからもう11年が経過した。
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