>>289
現実での行動と作品の中での行動はこの場合同じ
危険性の在るものを人は見に行ってしまう
これは人間の行動原理の一つで

増水が危険水域に達していないか?を確認するのも
日常で物音のするロッカーを何か入っているか?を確認するのも
非日常で、モンスターが潜む館内でロッカーからする物音を確かめるのも
すべて一緒の原理
どれも何か危険は潜んでいないか?の確認
その危険の具現性に対する認知が違ってるだけで

増水を確認するのは、まさか自分がそこで実際に流されると思ってないから確認に行かなければって発想になる
日常のロッカーの音も、それを開けたらモンスターが居るとは思ってないから開ける
非日常のロッカーの音は、そこを開けたらモンスターが居ると思っているから危険を確認したいけど、開けるのを躊躇っていざ一歩が進まない

>ゲームキャラが死んでも自分は死なない
これは複数の意味を持っている
まずゲームキャラが死んでも自分は死なないからこそそのゲームを開始する

もう一つは、ゲーム内で起きた出来事を現実と錯覚するから、現実に恐怖を感じる

そしてそれを楽しむのが恐怖娯楽

バッドエンド自体がゴールの一つ
正規の結末がバッドエンドの作品も存在する
ゴールまで行ったら主人公が殺されてスタッフロール等

それに対してゲームオーバーはゴールではない
それはやり直して続けるか?脱落か?の選択になるだけで

>それは映画の話だろ
ゲームでも作れる
特に最近の作品群は、バッドエンドは恐怖を与えられると信じていてエンディングをバッドエンドにする一本道の作品が作られている

ではバッドエンドを強制する事が恐怖につながるか?
と、バッドエンドはエンディングの一つか?は別の問題で
バッドエンドはエンディングの一つだし、バッドエンドは恐怖につながるか?も基本的にはNOで