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マルクス経済学初学者スレ
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0001革命的名無しさん
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2010/12/13(月) 19:54:13
マルクス経済学を初めて勉強する人のスレッドです。
マルクスのここが分からないとか分かり難いというところを
書き込んでいきましょう。
0002革命的名無しさん
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2010/12/13(月) 20:01:00
某所の第一回目のテキストは賃労働・価値・利潤ですが、
この本からマルクス勉強する上で読んだほうがいいんですか?
0003革命的名無しさん
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2010/12/13(月) 23:44:12

第一章 商品

第一節商品のニ要素 使用価値と交換価値
・最初の書き出し
資本主義の社会の富は「たくさんある商品の集まり」だから、まず商品の分析から始めるよ

商品は欲望を満たす物で、2つの側面があるよ
・使用価値〜具体的に有用なものの価値−商品の質
・交換価値〜物と物が交換する際の割合−商品の量
商品を交換する際、物と物を交換する割合しか見ないわけだから、交換においては使用価値は見えなくなっているよ。

・商品の交換価値は労働量で決まるよ
0004革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:25:45
『資本論』とくればOFWだわな。ってことで、OFWのコピペをば。

292 名前:OFW :02/05/17 05:25
「商品は、まず第一に、一つの外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの種類の欲求を
満たす一つの物である。」(『資本論』第1巻第1編第1章第1節)

すぐに気がつくことだが、上記において通常は商品の一種とされているサービス提供は除外されている。
このことは価値を考える上で重要な点であり、サービス労働の成果が譲渡可能なモノ(*1)ではない以上、
本来サービス提供は商品には成り得ないのである。
たとえば、床屋の労働はお客の頭(髪型)において対象的形態をもつが、無論、客の頭は商品ではない。
また、芸人が歌う唄はお客の精神に感動を呼び起こすが、未だに精神を譲渡した者はいない。
実際、国民経済学(近代経済学)の<財およびサービスの生産>という概念には、本来モノではない労働を
モノとして扱う近代特有の物象化の働きが反映されている。
そして、社会の豊かさを市場価値で計る価値物神の下では、GDP(国内総生産、すなわち一国内で生産された
財およサービスの価値)という指標概念において、家事労働あるいは企業内経費的労働を“アウトーシング”
(商品化)するだけで価値額が増す、という奇妙な事態が現出することにもなる。
(*1)
「物は根拠と現存在という二つの規定が発展して一つのもののうちで定立されているものとして、
統体である。・・・諸規定は物の諸性質であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
・・・Haben[持つ]という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、
これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。
・・・物は、諸性質を持つかぎりにおいて現存在するものではあるが、しかし、あれこれの特定の性質に
むすびつけられているのではなく、したがって、それを失っても、その物でなくなるということはない。」
(ヘーゲル『小論理学』第2部本質論Ac125節)
0005革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:26:56
更に続く。

295 名前:OFW :02/05/18 07:39
(『資本論』第1巻第1編第1章第1節(承前)ー以下同様)
「鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。
このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。
これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。
有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、
はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる。」

有用性(モノの効用)はそれ自体相対的な概念であり、その質的な多様性と量的な大きさは主体およびモノの両面に
おいて限界付けられている。つまり、ある人にとって有用であるモノも、他の人にとっては無用であり得るし、また多すぎる
有用物は余剰であり、不足する有用物は欠乏である。
いわゆる<限界効用説>(価値とは限界効用である)は価値の直接性の立場から出られない、非本質的なものである。

「ある物の有用性は、そのものを使用価値にする。」
使用価値はモノ的存在について言われるということ。日本語としては使用価値物とした方が分かりやすいかも知れない。
先にサービス提供は商品ではないと言ったが、モノでない以上、それは使用価値物でもない。たとえば、床屋の労働は
有用労働であるが、それ自体は価値物ではなく、消費的労働であるから価値をもつ生産物を結果することもない。
いわゆる労働力商品(賃労働力)とは、その主体である労働者をモノとして取り扱う場合にのみ、何らかの意味をもつ概念
である。それに対して「賃金は商品代金ではない。それは労働に対する報酬(サラリー)である。」という通念は欺瞞である。
何故なら、すべて市場において取引されるものは商品と呼ばれる以上、労働市場(正しくは労働力市場)において売買
される対象も当然商品と呼ぶべきだから。
0006革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:27:49
またまた続く、と。


299 名前:OFW :02/05/19 20:12
>>296(293さん)
>労働力商品の有用性・使用価値とは一体何に?
『資本論』の最初の章は「商品」という表題がついており、商品一般の話ですが、私の注釈あるいは敷衍的解説(解釈)は
先回りをしているために、どうしても舌足らずになる。途中を飛ばして先を読むと、

「すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働
という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間
労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する(16)。」
(同上「第2節商品に表された労働の二重性」)

という叙述が出てきます。
つまり、すべての生産労働は商品価値を形成する<抽象的人間労働>と、使用価値を形成する<具体的有用労働>と
に二重化されるということ。
また、<労働力商品>は「第1巻第4編第4章貨幣の資本への転化 第3節労働力の購買と販売」で登場します。
そこでは以下のように書かれている:

「一商品の消費から価値を引き出すためには、わが貨幣所有者は、流通部面の内部で、すなわち市場において、
一商品・・それの使用価値そのものが価値の源泉であるという固有の性質を持っている一商品を、したがってそれの現実的
消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造である一商品を、発見する幸運にめぐまれなければならないで
あろう。そして、貨幣所得者は、市場でこのような独特な商品を・・労働能力または労働力を、見いだすのである。」

つまり、労働力商品の使用価値とは「それが価値の源泉である」ということです。
0007革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:31:32
飽きもせずに続く。

300 名前:OFW :02/05/19 20:15
>>296(293さん)(つづき)
>床屋の労働と技術者の労働と工員の労働、それぞれの異同

上記引用の直後には、

「だれでも、自分の労働力と異なる商品を売ろうとすれば、もちろん、生産諸手段、たとえば原料、労働用具などを所有して
いなければならない。彼は革がなくては長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活諸手段も必要である。」

という記述があります。先の床屋の例は、生産諸手段を所有している場合(自営業者、一括してプチ(小)ブルジョアという
中間的階級に属する)として挙げたのであり、美容技術者や工員が生産手段を所有しておらず、美容院経営者や工場主
(資本家)にその労働力を売るしかなければ、賃労働者という階級に属することになる(サラリーマンという意味不明な区分も
同様。以前TVで破綻した某銀行の重役夫人が「主人もサラリーマンです」とか発言していたが。)
0008革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:33:27
てめッー、いい加減にしろや! って怒られないように続く

301 名前:OFW :02/05/19 20:16
>>297
>スポーツ選手とかはどうなるんだろう?

近年日本のプロ野球でも労働組合(選手会)ができて、オーナーとの間で団体交渉をするようになったが、
芸術・芸能・スポーツ業界も企業化(資本主義化)され、自営(自由業)が少なくなってきた。球団に所属する(雇用契約)
か、フリーで競技会の賞金稼ぎをするか(業務請負契約?)によって、スポーツ選手の位置づけも異なるでしょうね。

>あと、名のある職人の労働と無名の労働者の労働は、時間や労力が一緒でも値段が違ったりするのはなぜ?

値段(労賃)とは労働力商品の価格(価値の貨幣表現)であり、価値の源泉である労働自体に価値はないのです(これポイ
ント)。
個別労賃は市場の競争原理にまかされているから、<労働力の質>(熟練、知識、スキル等)によって、
わずかながらでも差異を生むでしょう。
一方、価値とは一定の社会での平均的な熟練度そして強度において、ある商品の(再)生産に必要な社会的平均的な
労働時間、を言います。結局、労働力商品の価値とは要は労働者の再生産、つまり平均的な生活に必要な生活財の
価値に還元されます。
0009革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 19:34:58
ご飯ですよっー、って呼ばれても続く。

310 名前:OFW :02/05/21 20:32
 (第1節、承前)
「使用価値の考察に際しては、一ダースの時計、一エレのリンネル〔亜麻
 布〕、一トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている。」

 有用物の量を規定するための単位に関して言えば、可分的な素材製品に
 ついては、より物理的な自然単位が使われるが、最終製品については、
 当然ながら、使用可能な最低の大きさが単位となるだろう。
 価値(Value)において量が本質的な契機であるのは何故か?という
 設問に対しては、<物の効用>自体が相対的な存在であるという点を反
 省する必要がある。ある物が有用であるか否かは、その質のみならずそ
 の現存量に依存し、必要以上に存在する有用物はその反対つまり無用物
 に転化する(一般的に言えば、量が質に転化する)。また、有用性自体
 に度(内包量)があり、生きる上で必要不可欠な物から、ぜいたく品に
 いたるまでの<必要性の強度>をもっている。かくして、価値の限界効
 用説に続いて、有用物の必要量と現存量との比(いわゆる稀少性)をも
 って価値と呼ぶ<価値の稀少性説>が出てくるのは見やすい道理である。
 しかし、それもまた(否定性に進んではいるが)価値の直接性の立場を
 こえていない、非本質的なものである。
 「直接性の真理はそれが媒介された直接性であることである」(ヘーゲ
 ル)。すなわち現存在の根拠を問うことは、直接的・表面的な現象を去
 ってその本質に向かうことであり、哲学的反省が必要とされる地点であ
 る。価値というテーマに即して言えば、
 「この有用物はどこから何故にこの世界の中に現れたのか?」
 あるいは
 「一体君はその有用物をどこから、どのようにして手に入れたのか?」
 という始源(歴史)への問いが、価値の本質論の始まりとなる。
0010革命的名無しさん
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2010/12/14(火) 20:35:33
>>9 元ネタを教えていただけるとありがたいです。
0011
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2010/12/14(火) 20:38:19
価値形成過程
500万円のお金を投じて400万円の労働と100万円の材料を買って500万円の車を売ること。
価値増殖過程
自動車工場の労働時間を2倍にします。そして
1,000万円のお金を投じて400万円の労働と200万円の材料を買って1000万円売ります。

そうすると400万円儲かります。この400万円儲かったピンハネ部分が剰余価値といいます。
どのぐらいピンハネされているかを表す指標として、マルクス経済学では剰余価値率(ピンハネ率)を

使います。これはピンハネ部分(剰余価値)÷人件費(可変資本)で出せます。
・ピンハネ率(剰余価値率)=ピンハネ部分(剰余価値)÷人件費(可変資本)
0012
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2010/12/14(火) 20:46:33
第二節 労働の二重性
・労働も商品なら2つの価値があるよ
つまり「使用価値を作る労働」と「価値を作る労働」

・商品はどうやって生まれるの?
独立した生産者がそれぞれの生産物を交換する場合に商品が生まれるよ。
0013
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2010/12/15(水) 18:17:09
第三節 価値の形態または交換価値
貨幣のなぞ
価値表現の両極−貨幣の謎
相対的価値形態−価値を測られるもの
等価形態−価値を測るもの(貨幣とか)

第一の価値形態、偶発的な価値形態
私は米を作っている農家。
今年も米がいっぱい収穫できたので、一着の上着と交換しようと思う。
たまたま上着を持っている人がいて、「私が」米と上着を交換しようと思う比率を提示してみる。
米2kg=上着1枚
この「=」は分かりにくいイコールで、左辺が自分が交換に出すもので右辺が自分が受け取るもの。

ここで、「私が」米を交換するとき、自分は苦労して米を栽培したから、
その苦労に見合う商品じゃないと交換しない。でも、他人の商品を交換するときに、
他人の苦労や労力を見るわけではなくて自分にとってその商品が有用かどうかで判断する。
0014革命的名無しさん
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2010/12/15(水) 19:39:50
がんがんあげていくぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
私は大麻を解放するぞ!
0015革命的名無しさん
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2010/12/15(水) 20:06:52
生産手段に投下された資本を、不変資本といいます。具体的には原料費や設備の減価償却費等をあわせたのがこれに近い概念です。
労働力に投下された資本を、可変資本といいます。具体的には人件費です。

0016村一番
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2010/12/16(木) 19:07:16
今夜はわしが受け持つぞ。

311 名前:OFW :02/05/21 20:34
「使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的
 内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、
 それは・・同時に交換価値の素材的担い手をなしている。」

 ここで初めて使用価値と区別された交換価値が登場するが、
1.富の内容としての使用価値は社会的形態によらないが、交換価値は
   商品交換が一般的な社会においてのみ存在する富の形式であること
 2.使用価値は交換価値の媒体(質料)であり、後者は前者の形相であ
   る(つまり両者は本質的な反照関係にある)こと
 が明確に述べられている。にも拘わらず、一般人のみならず殆どの経済
 学者や哲学者も両者を混同しており、マルクスからそれらの区別を学ん
 だはずの「マルクス主義」学者すらその区別を正しく理解できず、弁証
 法にあてはめた珍解釈を披瀝したりする始末である。(たとえば、
 「使用価値ー交換価値ー価値(自体)の関係は正ー反ー合に対応する。」
 「いや、それらは有ー無ー成の関係である。」等々言われ。)
 交換価値とは<他者(非所有者)にとっての使用価値>という形式内容
 (規定性)をもち、使用価値の否定(他在)を抽象的に含んでいるのは
 確かだとしても、本質関係(反照形式)として、より進んだ<物>(現
 存在する根拠)というカテゴリ圏(そこでは<持つ>という、より発展
 した関係性が支配的である)において、初めて具体的なのである。
0017村一番
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2010/12/16(木) 19:08:24
その2

312 名前:OFW :02/05/21 20:37
「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、
z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。
だから、小麦はただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。」

貨幣経済の下では、小麦が靴墨や絹と直接に交換されることは殆どないから、
上記の言明は一つの仮設的あるいは過渡的な世界に関わっている。
直接的現実(完成された貨幣経済)の被媒介性を論理的かつ歴史的に跡付けることは、
価値の本質論として正しい探求方法である。
展開された価値形態(第3節C参照)は単純な価値形態(物々交換)と同様に、
貨幣形態において止揚された契機として内包されており、
その解明には弁証法的な思考が要求される所以である。
使用価値が相対的であるのと同様に、交換価値も相対的であり、交換の相手に応じて、
その大きさ(値)を伸縮させる。ちょうど、ある長さを計るのに、尺貫法を用いるかメートル法を用いるかで、
その値が変わるように。

「しかし、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、たがいに置きかえうる、
またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。
したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、
ということになる。」

相手(尺度)が変わろうと、そこに表された大きさは単位が異なるだけで、
等しい大きさであり、<価値自体>は一つであるということ。
無論そのためには、実際にもたがいに置きかえる行為が(歴史的に)存在したことが前提となる。
ちょうど、メートル法が世界的に通用する過程において、
まずメートル原器と呼ばれる1m長の妥当する剛体を設けて、
それを長尺やヤード尺で計測しなくてはならなかったように。
「尺度される対象の吟味は尺度の吟味でもある」(ヘーゲル)。
0018村一番
垢版 |
2010/12/16(木) 19:09:38
その3

313 名前:OFW :02/05/22 01:55
「しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、
「現象形態」でしかありえない。」

上記の文はいわゆる<労働価値説>(価値の実体は労働である)の導入部分であるが、
<現象>vs<本質>あるいは<実体>の対立は論理的
 な性格をもち、ある現存在が現象と見なされるなら、そこにはそれとは
 区別される本質的な総体性が顕現しているのだということを指摘するこ
 とは、現象主義流行りの学問の現状では、特に重要だろう。実際「交換
 価値とは何か?」と問われて、「それは商品交換における交換比率に過
 ぎない。」と言いながら、「ではGDPが表示している対象は何か?」
 という質問に、「一国で生産された財およびサービスの価値量である。」
 として、その<名目>と<実質>の区別を「貨幣価値(同じことだが、
 一般的物価水準)の変動を反映するか否かの便宜的なものに過ぎない。」
 と答える経済学者は、価値がその貨幣表現(価格)とは異なる実体的な
 存在であることを暗黙ながら認めているわけである。実際、価値の尺度
 である貨幣自体の価値が変動する(いわゆるインフレーションおよびデ
 フレーション)という不可思議な現象は、アインシュタインの特殊相対
 性理論と同様、一般人には理解不能なものであるが、貨幣物神に陥って
 いる経済学者にも満足に説明できないのである。
0019村一番
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2010/12/16(木) 19:10:43
その4

314 名前:OFW :02/05/22 02:03
「たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 によって表され
 うる。この等式は何を意味するか? 同じ大きさのある共通物が、二つ
 の異なった物の中に、すなわち一クォーターの小麦の中にもaツェント
 ナーの鉄の中にも、存在するということである。」
「この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他
 の自然的属性ではありえない。」
「そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残ってい
 るのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」

上記の数センテンスは、(ある論者により「マルクスの蒸留法」と批判された
ものだが)労働と価値との関係を実体と属性との関係として捉え
 たもの、ただし<商品体がもつ価値>なる物性的・自然的属性としてで
 はなく、社会的実体としての労働とその成果としての価値として捉えた
 ものである。商品交換において等置され、自己同一なものとして諸個人
 間の諸関係を結ぶもの、それは社会の紐帯としての諸個人の協働的な生
 産であり、その結果としての価値は協働的社会の姿を経済的に反映する
 ものである。にも拘わらず、世の人および経済学者はむしろ結果として
 の価値を商品体に備わった自然的(物象的)属性とみなして、その本質
 的現存在として貨幣を置くから、貨幣こそが社会の自然的(永遠的)紐
 帯と考える。それは仮象を本体ととり違えることである。もっとも、そ
 れは必然的な取り違えではあるが。
0020村一番
垢版 |
2010/12/16(木) 19:11:49
その5

322 名前:OFW :02/05/23 06:08
(第1節、承前)
「労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、
これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、
すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。」

<抽象的人間労働>という概念は<人類>という概念と同様に抽象物であるが、諸個人が諸個人として互いに
関係を取り結び、一つの社会を形成している場合には、現実的な妥当性をもつ概念である。
たとえ、その関係が私的な商品交換(モノとモノとの関係)であり、その社会が非社会的な社会(市場)だとしても、
確かに皆が抽象的個人として人類の一員(抽象化された市民(市場の民))なのである。

「そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような
同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない
人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。」

ここでのポイントは「凝固体」という言葉である。自然的には労働力の支出は労働生産物の構造(物理学的には
エントロピー変化)として結果している。しかし、社会的な凝固とは、その自然的な支出が価値として現象している
点にある。このことは貨幣の登場と共に現実的なものとなる。
先の床屋の有用労働の例で言えば、それが商品として通用するのはひとえに客が貨幣の一定量を対価として
引き渡すからであり、もし貨幣がなければ、床屋の労働は価値として結晶するべき対象をもたず、したがって
商品になり得ないだろう。
0021村一番
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2010/12/16(木) 19:13:01
その6

323 名前:OFW :02/05/23 06:09
「これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されている
ということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・商品価値である。」

上記は労働価値説の内容そのものであるが、ポイントは「社会的実体の結晶」という表現にある。
価値は決して自然的実体ではなく、人間が自然の中から社会を形成し、自立するための営為である労働こそが社会的
実体であり、価値はその結晶としての対象化であるということ。

「したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されている
からにほかならない。」

殆どすべての人は「ある財が価値をもつ」という表現を「ある財には価値が内在している」と同義と考えるだろうが、その途端に倒錯に陥るこ
 とになる。何故なら、確かにその生産のために抽象的人間労働が支出さ
 れたが故に「ある財は価値をもつ」わけだが、それは自然的な属性のよ
 うに財に内在しているわけではないから。近代経済学が「価値はある主
 観的なもの」と主張するのはその限り正しいが、それは決して単に主観
 的なものでなく、ある客観的な存在(社会的な必要労働)の対象化であ
 ることを見逃している。
0022村一番
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2010/12/16(木) 19:14:26
その7

324 名前:OFW :02/05/23 06:11
「では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、
 すなわち労働の、量によってである。」

上記の文は一種の“躓きの石”を含んでおり、「マルクス経済学」者の中にも誤解する者が多いようである。
量とは実在的な概念であり、存在するものについて使われるため、「価値の大きさをはかるためには、
それに含まれている労働の量によれば良い」と聞けば、その財の生産に実際に支出され確定した<過去の労働量>
(いわゆる投下労働量)のことを考えるのは自然ではある。もともと<実体>概念自体が過去性を帯びたもの(*2)
であり、「実体の真理は主体である」(ヘーゲル)という洞察を踏まえて、それが一定の限度内でのみ妥当性をもつ
概念であることを弁えなければ、「価値を形成する実体」という言葉を自然的実体のように捉えるのは止むを得ない
とも言えるが、そうなるとまたしても社会の物象化(価値の実体化)の罠にはまってしまう。
(*2)「実体とは偶有(直接的現実)の全体であり、自己を媒介する必然的な相関である。」(ヘーゲルちょとパラフレーズ)。
0023革命的名無しさん
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2010/12/16(木) 23:09:35
新聞は中学生が読めるよう程度の語句を用いている。
聖書も極めて平易な言葉を用いている。
マルクス教の原典は科学だから専門家しか使用しない言葉で書かれている。
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