【労働大学】社会主義協会・社青同27【まなぶ】
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PKO闘争の直後に森田選挙をごり押しするなんてめちゃくちゃだ。内田選挙が
出来なければせめて寝ていれば良いのにマジで森田選挙なんてやっている奴はバカだ。
後で裏切られて大恥をかいている。去年の台風時に千葉県民ほったらかしで自分の別荘を
見回りに行ったり、東京で散髪していた知事森田を見れば奴の正体は明らかだ。 加入戦術を実行した太田竜氏は第四インターと知れ渡っていたのであっさり除名されてしまった。「社会主義」誌に投稿したこともあったらしい。 栗原登一の弱者に対する視点は見るべきものがある
彼は乳酸菌の権利にまで考えが及んでいた
協会の弱者に対する視点は通り一遍等で口先だけだった >>512
でも東京都の当時の社会党員は機関決定に従って森田氏の選挙をやったんだろ?
昔のことすぎて忘れたか? 佐藤観樹が社会党離党して
自民から立候補した選挙運動見たことがある
かつての支持者は誰も手伝ってないし
自民からの支援も見当たらなかった
ほんと惨めなものだった >>511
最初は反与党の票を社会党が総取りできていた
だが、民社党、公明党のような中道勢力ができてくると、社会主義色の強い社会党は票を失っていった
社会党も中道を目指す道もあったが、それは協会派など左派には許し難いことであった
左派の協力がないと右派も選挙ができないので、仕方なく左派に妥協していた
やがて、民主党ができると、右派は民主党に逃げていき、後には社民党が残骸のように残った 沖縄県議選、社民党が1議席減。
頼みの沖縄ですらこの現状ってもう党として限界なんじゃないか。
協会活動家による党の階級的強化への努力が足らないんだ! 自分は、内田だけやって森田なんて全然やっていない。党の支部がそういう体制で
準備し取り組んだ。国労の党員はこれで参院選が闘えると喜んでいた。ただ地区によっては
内田と森田両方やった所(市民団体の人からは良く森田なんてやれるねと驚かれていたそうだ)
別の所では内田選挙を闘った社青同同盟員に食って掛かっていた社青同専従者もいたそうだ。 参議院選の総括をする都本部大会は内田選挙を闘った中心党員を除名等重い処分を
するという話になって大荒れだった。演壇に上がったり、マイクの線を抜いたりして
抵抗したが森田が背信行為をしているので結局軽い処分でうやむやになった。処分や
激しい抵抗をした人は後に新社会党に行った人が多かったみたいだ。 中道などという二股膏薬に擦り寄ったことが
労働者の政党としてのオリジナリティを失わせた愚行
CIAが西尾に金渡して作らせた右翼政党の民社のどこが中道なのか
中曽根がウィングを左に伸ばすといった対象に公民のことではなかったのは
公民の連中の現状維新がごときマヌーバー姿勢を見れば明らか 「中道」を否定し、労働者階級のための社会主義政党を目指すのも、ひとつの見識だと思う
だが、そうした場合、社民党、新社会党くらいの勢力しか残らないのが現実だ
社会主義という伝統芸能を保存するための博物館のような存在になってしまう
だが、文楽や人形浄瑠璃と同様、大衆の人気はなくても、芸能を保存していくことにも
文化的な価値があるのかも知れない
デモの指揮をとる技術、アジビラの書き方は、立派な文化だ 民社が少なくとも主流派が中道でなかったというのはその通りで中道路線では社会党右派
との違いが出ないので超保守タカ派路線にのめりこんでいった。民主社会主義なんて
看板に偽りありで非民主会社主義だと揶揄されていた。彼らの学生組織、民社学同は
民族派学生運動に分類されていた(すなわち右翼ということ) 解放派は山川イズムとローザ主義という切り口で出色だったのに革共同主義を
持ち込んでしまって惜しいことをしたという感想がある。滝口氏がそうしなければ
東大と早稲田は(東京の学生運動のメッカ)クロカン主義で制圧されていただろう
という理由もあったとのこと。協会派も山川主義の発展ではなく、マルクス・レー
ニン主義への安易な没入で(篠藤光行氏は後に違和感があったと述べている)禍根を
残したのではないか。 学民協の失敗にこりた第四インター系やその失敗を目の当たりにした解放派は同じ轍は
踏まなかったが、学生運動に不慣れな協会派や協会派との同化を焦った桜木派は
学生運動における労働運動の引き写し路線に陥ってしまった。すなわち学習点抵抗路線。 高木郁郎氏によると社青同東大班が一緒にやっていたのは一年くらいだそうだ。滝口弘人氏の
存在がネックだったんだろう。ある本によると東大班機関誌解放6が有名だがその前の号が
何かあるのだろうと推測しているが実は地味に労農派マルキシズムの学習的な内容らしい。
社青同東大は江田五月氏が東C自治会委員長になるなど順調だが自民党本部突入事件で
氏は逮捕。責任をとって退学、学生運動と絶縁して復学。今日に至る。 解放派系の人々は第二回全国大会で早くも反対派の立場で意見書を配布。
青年政治同盟を政治同盟と変えて党を意識した名称を使用。本部主流派は構造改革派
の立場で大衆化路線を提起。多分に民青の運動スタイルを意識したものだった。
これに対して協会系の同盟員からは職場抵抗闘争重視の立場から、学生班協の
解放派からは街頭政治闘争重視の立場から批判が出された。本部支持派の同盟員
からは解放派に対して今は吹けば飛ぶような存在だが今後禍根をもたらしそうという感想も
出ていた。実際本部は統制案件にしようとしていたが押しとどめられた。 >>525
解放派は革マル派との内ゲバが激しくなったため、組織防衛のためレーニン主義の理論を
導入したと聞いたことがある
レーニン主義に傾斜したのは苦渋の選択だったのではないか? 解放派(狭間)がレーニン主義に乗り移った? 笑わせるようなことが流布してるんだな
青解もただの社民がトチ狂って革命派ぶってただけじゃねーの? サロjンでお茶飲みながら革命を語ってた社青同がなんだって? サロンでお茶飲みながら革命語っていたのは協会規制後の社会主義協会。協会自体が
サロン化していた。社青同は学習サークル化して文字通り学習会で革命を語っていた。 清水慎三氏は安保後の東大でローザ主義を取り上げる若き研究者のことに
ついてその著作で述べている。また旧世代の左翼人が労農派を機械的に切り捨てる
のに対して若い研究者が公平に評価しているのを指摘している。解放派もこうした
土壌から発生したのだろう。 福本和夫とか野呂栄太郎のような日共系の知識人は、どこか洗練された雰囲気がある
一方、労農派はその名前からして田舎臭さ、泥臭さがあった
日共系の左翼のほうがインテリとして魅力があったに違いない 労農派にも猪俣津南雄や大森義太郎みたいな人もいる。 労農派の一番の間違いは、マルクス主義経済学・政治だけに限定して社会党に囁き続けたことだろうな。
もっと文学・演劇・絵画・音楽・・・建築や街づくりと言った文化的な目に見える分野が無かった。
強面の社会主義だけでなく、例えばウイリアム・モリスの様な面からのアプローチがあってしかるべきだった。
残念↓ 文芸戦線が労農派系と日共系(戦旗)に分かれた後、気鋭の作家は日共・戦旗の方に
流れて文戦の方は勢いを失っていった。 東京アラートが解除された後、商店会の会長か、理事長さんとして元社会党区議で
元協会系の人がテレビで取材されていた。政治の世界からそっちの方に転身したのね JTSU-E 連帯する会にも旧社民党や立民党の区議さんが関わっているようで背景が複雑すぎる 十月革命でボルシェビキ・レーニンに打倒されたカデット(=立憲民主党)にシンパシーを抱く自称マルクス主義の社会主義協会の立ち位置ってどこにあるんだろう?
代々木「共産党」と社会民主党というふたつの社民政党があるってのは珍しいよな
救いはとりあえず代々木も社民党も少なくとも帝国主義社民ではないということかな… 日共は結果として社民化してしまったかも知れないが、元来はボルシェビキを手本に作られた
前衛党だからな
だから、日共と社会党左派(協会、社青同)が並立する意味があった
だが、日共は前衛党としては形骸化し、革共同系やブント系の新左翼が前衛党を目指すようになった
日共は解体し、協会・社青同と新左翼に再編したほうがわかりやすくなる >>543
>救いはとりあえず代々木も社民党も少なくとも帝国主義社民ではないということかな…
いや明確に帝国主義社民ですが。
イラークがクワイトを解放・再統一したとき、これを非難し、経済制裁を支持し、第一次湾岸戦争を「帝国主義戦争ではない」「国連が決定した正義の戦争」とした時からもう完全に帝国主義社民ですよ。 前時代的な部族国家を支持しちゃうんだから
エンゲルスも口あんぐりだわ
モルガン「古代史ノート」すら読んでないから
北朝鮮支持しちゃうんだし >>547
それに関しては同意
スターリニスト国家というのはあくまでも「堕落した労働者国家=プロ独」なのであって、北朝鮮はプロレタリア革命による労働者国家という基本的カテゴリーとは縁もゆかりもないのだからスターリニスト国家にもなりようがない。
強いて言うならば「社会主義」を騙る縁故資本主義的統制経済体制かな… 独裁国家における権力継承は難しい。だから、北朝鮮は権力継承のリスクを回避するため、
最高指導者の世襲(王朝化)という道を選んだんだと思う。
中国も毛沢東の死後の権力継承は難しかった。文革派と実権派が対立するのが見えていた。
だから、華国鉾という毛沢東の隠し子を後継者にして「世襲」したんだと思う。
たとえ「それでは社会主義ではない」「スターリン主義でさえない」と言われようと、
共産圏において指導者の世襲(王朝化)というのは、有力な選択肢であったと思う。 昔社青同国際主義派というのがあったが、社青同内分派として確固としてあったというより
全学連の中の看板としてそう名乗っただけだそうだ。ご本さん達の証言より。 旧太田派の「進歩と改革」誌が健在であったのをネットで確認した。
立民等との合流に反対・慎重なのもわかった。 第一見解派の向坂派、反戦派の第二見解派の解放派、主体と変革派、国際主義派(第四インター)の71年後の帰趨はそれなりにわかりやすい。
しかし最右派の第三見解派の太田協会から人力が分裂して以降、なんでそこからL学同やブントに憧れる青共同みたいな党派が出てきてのか理解できない… >>524
民社学同から産経新聞に就職していった奴が多いから
そりゃ誰も革新どころか中道とさえ見てなかったわ >>552
たしかに第三見解派が現象的に最右派的だったのはたしかだが−反戦青年委員会に
反対したり、全共闘や三里塚闘争参加を否定したのは太田派であるし、新左翼系を
トロツキストと一括して否定したり、日共に一番近い対応が太田派だと言われたから。
東交闘争(都電廃止反対)を原則的に闘ったのは向坂派よりも太田派であるし、柔軟対応
の向坂派よりも六十年代末期の職場闘争を断固闘ったのは太田派の方。 向坂派と太田派はお互いに相手を反戦派との間の中間派と規定し合っていた。向坂派は
職場での太田派の運動は孤立化路線だとし、政治闘争を街頭のカンパニアに集約する反戦派
への路線的接近だと批判して見せる。太田派は反戦派の存在を利用して揺さぶりをかけてきた
と恨み節。本当に追い込まれざる得なかったと言っている。太田・向坂連合で反戦派から共同
防衛すべきではなかったのかというのがその言い分。 人力は社会党からの別党コースで人力は暴力革命をかかげるなど協会系の潮流では
むしろ最左派。L学同は人力が学生運動の暴走を恐れ学生運動等を停止してしまったから
人力が分裂して戦線派が出来、その学生組織としてL学同が出来た経緯がある。青共同は
遅れて人力に参加しようとした愛知の太田派学生班が人力に拒否されてしまったので発足
した。遅れた分、より全共闘に影響されていたのでブントにあこがれたと思う。 別党コースの水原派と協会の党内党、党内派閥化路線の太田派はイコールではなく、
向坂派に対する共闘。すぐに内部分裂して立場を弱めてしまった。水原派は別党派、
太田派は党変革派、向坂派は党強化派。向坂派と太田派はしばらく白ヘル反独占のメットを
被って共闘していた。単独では格好がつかなかったから。協会派はあんなに批判していた
新左翼系の運動に近いことをやるとはマヌーバーではないかと指摘もされていた。 全共闘の人の回想録で東大の全共闘の集会に白ヘル反独占の見慣れない小集団が
いたので仲間に聞いてみたら協会派のそれも向坂派らしいと言われ「なんでいるの」
と思ったそうだ。太田派は向坂派の東大全共闘参加に日共とのゲバルトにも参加したのかと批判していた。実際殴り合ってなくても加担したのと同然ということらしい。
後の親日共的姿を想像させるものがある。三里塚闘争にも一切近づかなかった。 当たり前だが向坂協会では向坂逸郎の名前が出てくる。しかし太田協会では太田薫の名前はほとんど出てこない
太田協会の出自自体がよくわからない
代々木の隠れ党員と言われた太田薫の社会党内の代々木フラクションというにはあまりにも中途半端… 遥かなる後輩の疑問
社青同は何故、共産党における民青のような、一体感がないのですか? >>560 スターリン主義の一枚岩組織と社民主義組織では全然違うにきまってるだろ。 民青は一体感以前に、同盟員自体がほとんどいなくなってしまった
社青同はその名前とは逆に老人ばかりになってしまった 太田薫さんは総評議長退任後の存在意義を確保するために一定の政治勢力が必用だったの
ではないのかな。それを利用として水原氏の別党グループやその他一旗揚げようとる人が
太田氏を祭り上げたのではないのか。深田肇社青同委員長は太田親衛隊を組織しようとしていた
というし、協会内の非向坂的人々の中心として担ぎ挙げられたのであろう。太田、岩井氏とも
日常的に協会運営に関わっていたわけではかったいわばパトロンみたいな存在。 太田氏によれば「出て行ったのは彼ら(向坂派)の方だよ」それはその通り。向坂派にすれば
乗っ取られたので離脱して再建したということだろう。太田派は別党派が社会タイムスを社会新報
に代わる機関紙にしようとしたり、協会所属社会党議員の歳費を協会が管理しようとしたりやりすぎ
感満載危機感があったと思う。太田氏は太田ラッパというくらい奔放な方言が魅力で一貫した
理論性とは別であり、カリスマ性はあるが協会のような思想集団のそれ−向坂氏のようなものは
希薄である。 関東無政府主義国の公式サイト:
ttp://x0000.net/category.aspx?id=262-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0
今後の目標(関東無政府主義国)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3690-0
王・農・工・士・商
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3683-0 国労の旧主流派だった太田派出身の秋山ケンスケ氏によると若い頃太田薫氏に会って
感激したそうだが、国労修善寺大会で太田派が分裂した後に太田氏から握手を求められて拒否したそうだ。太田事務所は日共の援助を受けていたそうだが、太田派本体から太田氏が離脱するという皮肉な結果となった。太田派は社会党新宣言反対や労働戦線の右翼的再編反対の闘いでは当初原則的に闘っていたが国労問題でこけてしまった >>552
いちばんの謎はこれ
第三見解の太田派から人力、共研といった三里塚闘争にも参加した武闘派が生まれた経緯が不明すぎる。このスレでもいろんな解釈がなされているがいまひとつスッキリしない。当事者が語ってくれるのを待ちたい 協会の主流は構造改革論の継承者であることは太田・向坂問わず明らかだが、少数派の左派は
反構改のサンディカリストで太田派系は人力等になり暴力革命志向になった。69年沖縄デー
でも銀座・有楽町地区のメット集団の大デモに反独占のメット着用者がいたのが写真に写っている
向坂・太田いずれかの確認はできないがそうした社会的土壌はあったんだろう。愛知の太田派
学生班はなるべく多く人力に連れて行きたいので遅れて参加しようとしたがその際に全共闘運動に
参加したということだ。すでに太田派中央の方針とは別の行動をとっているわけだ。 人民の力は社会主義協会の神奈川支部の機関誌だった。水原氏は共産党脱党派の構造改革
諸党派と新党を模索したが失敗。水原氏は太田派内部で社会党残留派の多数派と対立して
事務局長を降ろされ、やがて太田派から離れ社会党を離党。他の別党派の人々とも別れた。
その別れた人たちが人力を結成。 太田派は後の人力等になった人も含めて全共闘、反戦青年委員会、三里塚闘争に背を向けていたわけだから後の変身をいぶかる人がいても不思議ではない。太田派は反戦
青年委を改憲阻止青年会議に切り替えようとして孤立した。反安保、ベトナム反戦、
沖縄闘争で盛り上がっている時に課題になっていない改憲阻止を独りよがりでごり押ししても季節はずれのカンパニアと一蹴されてしまう。自ら改憲阻止派といっていたのだからズレまくっている。このミスは致命的だったろう。 社青同は太田派主導で67年の第一次羽田闘争で日共と並んで否定的な見解を
出したが、向坂派は第二次羽田闘争に反戦青年委の関係で少数が参加。太田派と
対応が分かれ始めた。佐世保闘争は福岡地本が桜木派主導で後に協会派フラク
から離れるきっかになったという。他に佐賀大の学生班を含む社青同部隊が
機動隊の隊列を裏側から崩す果敢なデモで参加者全体を前進させた。 社青同協会派も68年にメットを被り始めすぐに白ヘル反独占に
統一した。空前の反戦闘争の盛り上がりに放置しておくと青年学生が
社青同各地本をバイパスして反戦派に合流しかねない状況だったから
である。街頭での激しいデモへの参加は避けられなかったのである。
向坂派は太田派の焦りの表れと批判したが対応は向坂派も同じだった。 68年の国際反戦デーの映像が記録映画「怒りを歌え」に残っている。太田、
向坂連合のデモ隊が渦巻きデモ、交差点座り込みをしてナレではその後に新宿
に向かったとあるが真相は定かではない。深夜に新宿に行ったら騒乱罪に
巻き込まれたかもしれないから。アジ演説では「全学連の学生わぁ〜」と完全に
時代の雰囲気に便乗している。 向坂派社青同はいつも中途半端で卑怯な奴らなんだよ
東大全共闘や中大全中闘にも一応形だけは参加して三里塚闘争にも中途半端に関わっていたくせに闘争が高揚すると必ず撤退する
70年代イノケン派労働者のSYはそれで賃上げ30万円要求とかしてさすがに協会からも苦言を呈されたはず… 東大安田講堂攻防戦の前に革マルが組織的に撤退してそこに機動隊が進出して
ガス銃を撃ちまくられたと他の全共闘から相当恨まれていた。向坂派は少人数で
目立たなかったが直前に逃亡したのは確か。武闘をしなくてもデモや座り込みで
抗議できたはず。直前敵前逃亡はいけません。影響がなかったからたいして
問題にされなかっただけでけして褒められた話ではない。 中大全中闘では闘争が勝利したのに七十年安保に向けてバリケードを維持すると
ブントの指導部が表明して不評をかっていた。それはともかく68年の国際反戦デー
では大衆的にブントであるかどうか関係なく赤ヘルを被ってゲバ棒をもって防衛庁に
デモをしかけたと後に向坂派になった人たちから聞いたことがある。ブントが一声かけ
れば千人,二声で二千人が集まると言われた時代らしい話だ。 全共闘運動からは全国全共闘が八派党派系列化したから召喚したと説明されて
いるがたしかにそれも理由だろうが後付け感が強い。闘争の武闘化進んでついて
いけなくなったというのが真相だろう。それは大いに理解できる。協会派でなくなって
しまうから。反戦青年委員会も社会党・総評が距離を置くというのでそれに乗っかった
と思う。三里塚闘争も武闘化強まり、社党・総評が離れたのは渡りに舟だったろう。 中大の協会派は早くから拠点だったが例の学習点抵抗路線の影響で伸び
悩んでいた。ただ全共闘による学生運動ブームに便乗して息を吹き返した。
向坂派は全員白ヘルに鉄パイプをもって突然登場、不意打ちとなった
他の新左翼の猛者連もその向坂派の集会に手が出せなかったそうである。
その向坂派もみんな鎌倉派の先祖になったわけではなく、イノケン派、清水派
になった人もいた。 ポジション的に白ヘル被ってデモやってた新学同(創価学会青年部学生班)といっしょだろ
あっちは白ヘル被った池田大作がデモ隊の先頭でジグザグやってたりしたから
見た目は社青同よりよっぽど戦闘的だ 俺の知り合いの中大の向坂派SYが自嘲して「反帝・半社民」って言って卑下してたなぁ
そのくせ、ブントやノンセクトに向かっては「我々こそが第一次共産党」だといきがってた奴もいたし、党派として思想的に一体性は無かった感じがした 新学同は突然ヘルメットに角材で現れ、日共に暴力集団と批判されるや一瞬で
消えた、幻の集団。裏では生き残っていて全共闘運動に紛れ込んていた。当時の
社会風潮では全共闘に共鳴する学生学会員も多かったのであろう。裏で水面下
での参加は黙認していたのではないか。学会の学生には内輪のマルクス主義の
学習会も後のちまであったそうである。当人たちから聞いた話。 第一次共産党云々は堺、山川、荒畑、猪俣ら後の労農派首脳がつくったから
間違いではない。半社民云々は社会党に関与していればМL主義者でもそう
ならざる得ない。嫌なら人力や反戦派のように飛び出るしかない。そうしない
選択をしたのだから割り切っていくしかないだろう。協会派はいろんな傾向の
連合体みたいなところがあったのは労農派の昔から60・70年代当時もその後も。 中大出身の日共さんの地方議員のブログで学生時代協会派が新左翼と
一緒に襲ってきたことがあったという記述があったが中大の民青はゲバ民
というので有名だったぞ。まあ無茶苦茶な時代だったから各勢力無茶もやって
いたのかもしれないな。だいぶ後でも中大の民青は乱暴そうだった。 中大班は新入同盟員には試験をして合格しなければ認めなかったそうだ。
学生班協の論争が始まった以降、中大班は異端扱いで中大出身者という
だけで疑いの目を向けられるたらしいそのような論争に一切かかわりのない人も
その点困惑していた。狭い了見だが主流のイノケン派が警戒していた表れだ。
実際中大派は分派だとか、極左だとか言われていたのを耳にしたし聞かされた。 中大鎌倉派はかっての九大桜木派みたいな独自潮流。桜木派よりは仲間を増やしたが。 子供の頃三派全学連が有名になり、三派とは中核派、社学同、社青同解放派の
ことと解説されておりなんで社青同ではないのかと思っていたらそのうち社青同は
幾つかに分かれており、他に国際主義派すなわち第四インター系などがあるのを
知った。協会派というのもあるがあまり影響力がない(学生運動では)とされていた。
まあ学習点抵抗路線の後遺症だろう。 後に主体と変革派、根拠地派、福岡県本派というのもあり、協会派は太田派と
向坂派に分かれており、人民の力派というグループが飛び出して行ったことも
知った。五十年前のアサヒジャーナルで構改左派の主体と変革派銀ヘル五千の
隊列(数は盛っていると思う)という記事があった。社青同構改派は労働者部隊
だから学生運動では出てこない。福岡地本派も学生桜木派が消滅している。 協会派て今は佐藤協会、坂牛協会、細川協会、旧太田協会の進歩と改革の四団体? ↑そうです。でも細川協会は弱小で、進歩と改革も不活発です。 坂牛協会は佐藤協会との社民主義をめぐる論争の時は一体感があったが
その後社民党と新社会党との協力関係を強めたいグループと消極的な
グループとの間に確執が生じ、新社会党委員長選でのしこりもあり、坂牛派は
分裂した。一時は佐藤派の論客から坂牛派は一緒にやりたくないという意思が
感じられるとまで不信感をもたれたが実はその逆であった。 社青同は結成当初から民青のまねや(当初の主流の講改派)や学習会で日常を
すごし(特に協会派)選挙の時は候補者に手足のごとく狙われている。また現代の
ブランキストとして跳ね上がるのでは時代錯誤と(主に解放派か)清水慎三氏に
喝破されていた。本当にそうなったのだから仕方ない。他に反合闘争だけ論とか
思想闘争優先路線まではさすがの清水氏も予見できなかった。 その清水派とか言われるグループの思想闘争とはどういう運動だったのか?
反合研の物取り主義、経済闘争路線とは違いがあるのか? 教えを請いたい 同じ清水でも清水慎三氏は左社綱領制定の時の清水私案が有名な人。
思想闘争主義の清水は清水由紀郎氏、社青同三つの見解の内第一見解の
(向坂派)起草者。反合研はサンディカリスト的な組合主義、経済主義な
偏向があるがあからさまにそれを主張しているのではない。反合闘争だけ論は
社青同段階で主流のイノケン派から強く発信された。 六十九年の社青同全国大会で清水氏の第一見解は思想闘争色が強かった
ので同じ向坂派内でも違和感があったらしいが。向坂、太田、反戦の三つ巴で
激しく論争している時にそれは言えなかったそうだ。三つの見解と言っても太田、
反戦両派ともいろんな見解に分かれていたと向坂派言っているが向坂派も内実は
同じで七十年代になったら露呈する。ただ社青同を制覇するまでまとまっていた
向坂派の勝利だったのであろう。 清水派の総括によると第三見解すなわち太田派は職場闘争・反合闘争を断固
闘うと言っていたが(実際60年代後半に断固闘ったのは向坂派ではなくむしろ
太田派だ)それは物取り主義的な意味であると煙にまいてみせるが物理的に
合理化を阻止するとか賃上げを獲得するのが物取り主義で向坂派というより
清水派のそれは思想闘争主義である。春闘で断固賃上げのために闘うというのは
当たり前のことでどこの党派でもやること問題は思想闘争だというのが清水流である。
かの三十五万円要求もそうした傾向から出てきたこと。 清水派は八〇年代くらいの論争でも第一見解を聖典化していた。清水起草だから
当然ではあるが清水派と意見の違う人々を第三見解(当時の太田派)と同じと批判
していた。現象的に左派の結集、労線の右翼的再編反対、日共との共闘も行う、
政治闘争の必要性の主張と実際の取り組み、改憲阻止の強調、国労での分裂に
につながった原則的な取り組みが当時の太田派を想起させるのだそうだ。 清水派だろうがなんだろうが要するにイノケン派だろ
家計簿をつけることが「階級闘争」みたいな恥ずかしいことを機関紙に載せせた恥ずかしいことを自覚してないんだよな 生活向上物取り運動が今どう影響しているか
体制は変わらずともその雁字搦めの範囲内で向上したらよいという
冷めた空気と冷笑系のシニカルな体制擁護派だ
抑圧された社会は何も変わっておらず
その自分を苦しめてるものを支持してしまうという
哀れな捩れだ 清水派は七十年代社青同主流派のイノケン派が行き詰まり分解した後
イノケン派の路線を引き継いだ人達が形成した。つまり八十年代以降
イノケン路線を継承した人々。家計簿づけは春闘を闘うにあたって家庭を
顧みないで家計を奥さんまかせにしてい活動家が賃金要求の根拠に窮して
思い付きではじめたもの。家計の掌握度では奥さん方の足元にも及ばなかった。 そんなものを春闘期に社青同や労組青年部あげての運動にされたらたまらんな。
独身者は家計簿ではなく小遣い帖をつけろとか言われたものだ。そのあげくが
例の三十五万円要求運動だ。他党派には春闘を混乱させるものと批判された。
社青同全国大会でも激しく論争して正当化につとめたが突然総括もなく打ち切られた。
向坂氏よりマルクスの「賃金・価格および利潤」にもとづき賃金は利潤を上回ることは
ないと批判されあわててなかったことにしたらしい。恥ずかしい話だ。 60年代の最初の頃、協会派と解放派は合同で向坂邸でフラク会議を合宿で
やっていた。まだ当時は未分化だった、勉強会だと言い訳するだろうけど。
三多摩社青同のインターは当時東京の主流の構改派と反主流の左派連合に
二又をかけていた。後に三多摩は解放派に当初の非協力をわびている。
また三多摩のインターは表向き協会はフラクの一員ということになっていた。 宮城も協会派フラク内で強い発言力があったと表現されている回想があるが
当初の主流の講改派から奪権した時に表向き協会派ということになっていた。
宮城では解放派とインターは関係が良くなかった回想されている。これに対し
東京の解放派とインターは対協会派での戦友関係での友情関係があった。
インター関係の本でも宮城のことをすっとぼけている。 解放派は内部文書で三多摩、宮城や福岡は他の協会派と違う傾向で今後
ますます増えそうと書きつつ、正体をばらさないように配慮している。
他方もっと秘密性の高い文書ではインターや桜木派をおびき出すとも
書かれている。まあ自分らからばらさないようにしていることか。なお
山形もインター系。三多摩以外社会党との関係から抑制的だ。 協会派と解放派が対立始めると協会派はインター系を対解放派で引き込もうとして
山崎耕一郎氏と三多摩幹部との会談もあったそうだ。逆に解放派に三多摩のインター
との対抗を持ち掛けたりした。また解放派内の労学分断もはかったそうだ。ただ
インター系が提携相手として協会派と比べて解放派がふさわしいと判断したとのこと。
急進派同士の提携は考えるまでもないと後世の人は思うだろうがこのようないきさつがあった。 ただ66年9月の決定的対決まで協会、解放派の同盟員同士の人間関係は維持
されていたそうだ。相談に乗ったり、酒を飲んだり人間的な付き合いもしていた。
協会派の解放派への共感や理解もあったそうで66年の東京地本大会も議案が
協会派に接近したという評価もあったくらいである。主導権争いが優先され残念な
暴力事件にいたってしまった。 対立のキーマンは協会派は水原輝雄氏、解放派は滝口弘人氏。水原氏は
別党コースのための商売敵である急進派を排除したかったのだろう。左派的
戦闘的活動家を横取りされてなるものかということだろうか。滝口氏は観念的な
セクト的排除主義が頭をもたげたのだろう。水原氏は協会のボリシェビキ化を唱えて
いたようだが福本主義の再来でしかない。滝口氏も山川・ローザ主義とは異なる。 水原輝雄氏は元九州学連書記長で後に日共九州委員会に左遷されてきた宮顕氏の
秘書をやったこともあった。その後向坂逸郎に傾倒しその門下となった。向坂逸郎が
彼の事を日共脱落組というように日共の代わりに協会を革命的前衛党としようと
したのであろう。協会の規約を制定するときも日共に似せたような規約を出してきた。
すでに社会党を社会主義革命党に強化・変革することは考えていなかったのだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています