「何もできることがない」としても、「無になろうとすることができる」
という禁欲主義と、「何もできることがない」としても、「何もしない
ことができる」という楽観主義は、似て非なるものだ。

「無になろうとすることができる」という禁欲主義は、「無になろう」
と「つとめる」ことになり、その「つとめ」が自己の振舞いに余計な
制約を課すことになるのに対して、「何もしないことができる」という
楽観主義においては、そのような制約は何もない。「何もできることがない」
ことについて「何もしないことができる」なら、無駄な努力をすることが
ないと同時に、生きている限りにおいてデフォルトで「何かできることを
している」。しかも、「何かできることをしている」なら、その結果として
「何ができることになる」のかあらかじめ決まっているわけではないのだ。