この感性の働きの麻痺が、言語表現の物象化である。したがって、解釈による
言語表現の反物象化/活性化は、ちょうどその逆のプロセスであると見ることが
できる。それは、「すまひの取り組み」が行われある基礎の土台/"ground"
である土俵を、既に「平定された」/「しこ」/»ausgeglichen«状態にある
ものとして前提とするのではなく、もたらされた効果として見ることである。
物象化が、»gleich gelten lassen«という行為から「感性の麻痺」としての
「無関心」/»Gleichgültigkeit«への移行であるとするなら、反物象化/活性化は、
「たと(喩)へ」/»Gleichnis«を介して、麻痺していた感性を再び働かせるように
することであり、実際に「しかじか」である(「如(し)く」/»gleichen«)かどうか
を「比べる」こと、»vergleichen«によって「た『しか』め」る感覚を
みづから(身つ柄/自ら)に取り戻すことだ。