そうなると教会は誰のものかという問いも出てきてしまう。
もし教会が信者みんなのモノであるならば、
その普請の決定と集金は信者による民主的主体性で担保されるべきものである。
茶封筒の存在は信者の主体性ではなく、
教会は一部の役員のモノという証明になるのではなかろうか。それはまた今度。
信仰ってなんでこんなに難しいのだろう。誰か教えてくれないか。ほんとに。