>>70
>天皇が国民の代わりに何に手を合わせているのかの理解
その1
手を合わせるだけならだれにでもできますが、費用をかけて手をあわせても他人に対して何の効果も得られないのもまた誰もが知っていますね
そういった行為が無償であれば心に響く・・・的なことであれば多かれ少なかれ同意できますが
・有償で、しかも奴隷的にやらされてる人の行為にありがたみは感じないでしょう
真実を知らされてないってのは恐ろしいことではあります
・・・また、真実を知られたくないがために白書を出していないってのもあるとは思いますが・・・

>天皇が国民の代わりに何に手を合わせているのかの理解
その2
よく言われるのが「国家安泰、国民の繁栄を祈る」的なことですけど・・・
・コロナ然り、大震災然り、戦争然り・・・あらゆる場面で天災や人災は悉くそのいのりの効果とやらを無に帰して
きました・・・特に、
・戦争では祈ってるはずの裕仁が戦を始める宣言をして、結果祈っている内容である国民の繁栄をつぶす
という効果をもたらしており
・裕仁の祈り、実際はそういう理由(≒国家安泰、国民の繁栄)じゃなかったんじゃね?
という疑義すらもたらされていますけどね

>天皇が国民の代わりに何に手を合わせているのかの理解
その3
その起源は、『日本書紀』に記されている「神勅(しんちょく)」に求めることができるとする言も多いけど
・「日本書紀の編集方針の決定や原資料の選択は政治的に有力者が主導」とする説を超えるものが存在しえない
ことから
・日本書紀自体が天皇に対する玉虫色記載である
という点を免れ得ない
となえば、”神勅”の経緯自体も玉虫色の脚色があるという解釈が普遍であり
・神勅、実際はなかったんじゃね?(日本書紀の編纂にあたり捏造したんじゃね?)
を超える説は存在していないことになる
科学的に神が不存在であることも相俟って、
・『天皇にまつわるあらゆる神勅が捏造である』は真理を突いていると断言できる域にある
わけです